銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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信仰 ―вера―

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む、機関の揺籃だ。数多の文学書籍と、数多の書類が所狭しと並ぶ、蠱毒の坩堝を思わせる場所だ。

 しかし、深遠ではない。薄い機関灯の明かりに照らされる、教師の書斎だ。安息日の、明けない夜の底に沈んだ、モスクワの片隅だ。

 

 

「私は────────」

 

 

 その中心で、その部屋の主は机に突っ伏している。背後で佇む『もの』には、一切の悪意を向けずに。ただ、己の未熟を恥じて。

 

 

「────どうすれば」

 

 

 苦悩し、懊悩し続ける。意味がないことなど、知っていてもなお。どうすることも出来ずに、ただ、煩悶する。どうすることも出来ずに、ただ、自問して反問するのだ。

 

 

『────可哀想。あなた、そんなに悩んで』

「黙れ────」

 

 

 だから、それは来る。薄暗がりから這い出るように、扉からではなく。次元の角度から這い出るように、扉からではなく。空間すらねじ曲げて?

 いいや、初めから部屋の中に。雪が、黒い雪が、降る場所にならどこにでも。

 

 

『可哀想な無神論者。才能に恵まれて、必死に勉強して、ここまで来たのに。それなのに、人とは違う目で見られたくらいで、見破られて────可哀想、可哀想』

「黙れ────黙れ!」

 

 

 人間め、蠱毒の生贄よと嘲笑いながら。

 人間め、悪質な機械だと嘲笑いながら。

 白いドレスを纏い、ロシア舞踊(ベレツカ)を躍りながら。

 

 

 それは、確かに女ではあったが。それは、彼の望むような女ではなかった。それは、ひどく鉄の匂いのする、金色の髪の────

 

 

『認められないなら、消してしまえば良いのよ。貴方を認めないものを、ほうら、こんな風に』

「止めろ────」

 

 

 目映いまでの光が、悪辣なまでの白い闇が、部屋を包む。残酷なまでの白色が一片の闇すら駆逐して。逃げ場なんて、どこにも。

 

 

『必要でしょう、神の幕引きが? あなた達人間じゃあ、解決なんてできないんだから────』

 

 

 そう、最初は────

 

 

『さあ、笑いなさいな、チク・タク、チク・タク!

 夢を、世界を捨てて、チク・タク、チク・タク!

 イア、イア、呼ぶの!』

 

 

 ひどく折れ曲がった()()()()()()()()()()()()()()()のような、歪に捻れた白い仮面(ペルソナ)だけが、そこに浮かんで。耐えきれない現実と共に、耐えきれない過去と共に、魂の懊悩を際立たせながら。

 

 

「嫌だ────止めて…………くれ…………」

 

 

 無惨なまでに、悲惨なまでに暴きたてるのだ。

 

 

『あはははははははは………………!』

 

 

 そして、この西亨で。幾ばくかの若さと神秘が喪われた────────……………………。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「…………」

 

 

 起き上がり、欠伸混じりに思う。嗚呼、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、欠伸混じりに思うのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 

 誰かの声に導かれるように、あらゆる、当たり前を無視して。傍らの暖房機関(ジャラードヴィーガチリ)に火を入れて、その上に水の入った薬缶を置いて。

 コーヒーを飲むための湯が沸くまでの間に、窓の外。今も尚降り続く《黒い雪(チェルノボグ)》に覆い尽くされた、深夜と見紛うモスクワの街並みを、霞がかった眼差しで見詰めながら。

 

 

────それでも、足りない。ああ、足りないよ。足りはしないのだよ

 

 

 それでも、誰かに。

 

 

────足りないよ、私の、僕の、俺の

 

 

 躍る────

 

 

────我が、理想郷(アイラ)よ。

 

 

 視界の端の道化師に、見守るかのように踊られ、嘲り嗤われながら────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そして。

 

 

「あの、良ければ────」

 

 

 わたしは、全霊で、そんな事を、宣って。

 

 

「朝ごはん、食べていかれませんか────」

 

 

 そう。本当に。そんな事を。

 

 

 口にしていて────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「────あり得ない。あり得ないから、アーニャ」

「ちょ────リュダ!」

 

 

 ボルシチを掬いながらの、リュダのそんな、不機嫌さを隠そうともしない呟き声は、静かな食卓に消えていく。

 それに慌てて、リュダを嗜めて。ちら、と。対面の座席を見る。

 

 

「あ、あの…………」

「……………………」

 

 

 むっつりと黙り込んだ、仏頂面を崩さない────

 

 

「ご、ごめんなさい……」

「……別に。気になどしていない」

 

 

 ハヤトさんを、ちらりと、見て────

 

 

──ソヴィエト機関連邦首都、モスクワ。午前七時。わたしとリュダが共同名義で借りる、モスクワ地下鉄(メトロ)電気工場駅(エレクトロザヴォーツカヤ)に程近いアパルトメントの一室で。

──いつも通り零下に凍える安息日、《黒い雪(チェルノボグ)》の降るこの日も、いつものようにわたしを送りに来てくださった、ハヤトさんを朝餉に誘った、初めての日。わたしが作ったボルシチを口に運んでいる、極東のおサムライ様を見て。

 

 

「えーえー、アーニャはいいでしょうよ。なにせ、騎士様との会餐であらせられますものねー」

「なっ、にゃ、にゃに言ってるのよ、リュダ!」

 

 

──なのに。もう、リュダったら。あんなにふてくされて。いくら、赤軍が嫌いだからって。

 

 

「ハッハッハ、しかしまあ、自ら食事に誘うとは……我が妹ながら、最近の女性のエイダ主義への傾倒はソヴィエト男子としては忸怩たる思いと言うか」

「もう、兄さんまで……!」

 

 

 そして、リュダの対面の座席の兄さん────ヴァシリ兄さんを、軽く睨んで。

 

 

「……ところで、兄さん。いつからいたの?」

 

 

 本当に気付かなかった。うん、ハヤトさんにばかり注意を取られていたから。うん、居たなんて、全然。

 

 

「最初から居たんですけど……これですよ。あーあ、昔は何かあれば兄さん兄さんと風呂の中でもくっついてきたと言うのに……時の流れは残酷ですねえ」

「いつの話ですか、いつの!」

 

 

 肩を竦めて、昔、一度だけ見た合衆国の映画(キーノ)みたく大仰に溜め息を吐いて。いきなり、そんな昔の話を持ち出してきた兄さんに、慌てて口を挟んで。そんなわたしを楽しむように、兄さんは口の端を歪めている。

 

 

「そうですよねえ、昔は何かあればリュダリュダってシャワーの最中でもくっついてきたって言うのに」

「いつの話っていうか、ありもしない記憶を捏造しないで!」

 

 

 そして、乗っかって。リュダが、身に覚えのないことを。ない、ないから! そんなこと、一度も!

 そして、示し会わせたようにクスクス笑って。もう、二人して! 頭に来るったら────!

 

 

「…………フ」

「え?」

「えっ?」

「うえ!?」

 

 

 仏頂面を、一瞬、崩して。ハヤトさんが微笑んだ。確かに、一瞬だけだけど、それを三人で見て。

 

 

「へー……笑うんですねえ、あの人も」

「まあ……そりゃ隊長も人の子だしさ」

 

 

──まず、とても失礼なことを言うリュダと兄さん。この二人、本当は仲が良いんじゃないなの、と疑いたくなるくらい。あわわ、どうしてそんな失礼なことを当たり前みたいに言えるの!

──な、なんとか、おとしどころを考えないと!

 

 

「あ、あの、本当に昔のことですし、なかったことですし! 本当に本当ですよ!」

「別に、有ろうが無かろうが。楽しそうなことに代わりはないだろう────少し、思い出したものがあっただけだ」

 

 

 わたしの拙い弁明なんて、初めから聞いていないみたいに。ハヤトさんは、また仏頂面に戻って。

 

 

「…………懐かしい、か。ああ、どうして思い出す。あの屯所の日々を、八木邸の日々を。勇さん、山南さん、新八、一、源さん、平助、佐之────総司」

 

 

──昔日の残照の、暖かさに目を細めるかのように。古傷に触れた、痛みを堪えるように目を細めて。

──なぜ、貴方はそんな目をするの? どうして、そんな、優しい眼差しをするの?

 

 

 不可思議な胸の痛みに、わたしは、胸を押さえる。わたしの知らない過去、そんなものがあるのは当たり前なのに。

 

 

──わたしは。

──どうして。

──こんなに。

 

 

「……さて。食事は終わりだ。さぁ、今日も行くのだろう、仔兎(ザイシャ)

「あっ────」

 

 

 その間に、食事を終えていたハヤトさんは、さっさと立ち上がって皿を流しに。そんな後姿を眺めて、わたしは。

 

 

「……はい」

 

 

 胸の痛みを、振り払うように。同じように、立ち上がって────…………

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そして、ハヤトさんの二輪蒸気自動車────《ふるきもの》ヌギルトゥルさんに、横乗りして。辿り着いた、聖ワシリィ大聖堂。

 いつもより少し、早いくらい。そびえ立つ玉葱頭の、可愛らしい、ロシア正教の総本山であった寺院に辿り着いた。

 

 

「…………あれ?」

 

 

 今日は、()()()に。その門の前に立つ人の、後に佇む人影の後に。

 偉大なるヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン同志の標榜する《無神論(アテイズン)》に支配されたこのソヴィエトでは、来ること自体が自殺行為にも等しいこの場所に。

 

 

「────あ、申し訳ありませんが。もしや、修道女様でしょうか?」

「え、あ────あの」

「実は昨日、サンクトペテルブルクからモスクワに来たばかりで……なので、居ても立っても居られずに、ここに来てしまいまして」

 

 

──初めは、女の子かと思った。それくらい、たおやかで、羨ましくなるくらい。細く、整った外見をしていた。

──だけど、すぐに分かる。その身に纏う衣服は、男性の……修道士の纏う教会服(カソック)だったから。

 

 

「始めまして、聖ワシリィ大聖堂の修道女(シストラ)さま。僕は────」

 

──ぺこりと、心に温かいものが溢れそうな笑顔を浮かべて頭を下げた彼。

──何より、その顔。その、顔容(かんばせ)には。

 

 

「僕は、アリョーシャ。アレクセイ・フョードロヴィチ────」

 

 

──知っている人の、面影が。

 

 

「カラマーゾフと、申します」

 

 

──あって────…………


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