銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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黒狼 ―Черный волк―

 

 

──見上げた灰色の空は、故国と変わらない。だが、肌を裂くような寒さはいつまで経っても慣れない。嗚呼、随分と遠くまで来たものだ。寒い、此処はなんと寒いのか。

 

 

 男が、黒い男が、シベリアの空を見上げながら煙管を吹かしている。城壁(クレムリ)に背中を預けたまま、赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)どん詰まりの袋小路(ブラインド・アレイ)で。隙間なく永遠の灰色曇に閉ざされた、北国特有の頭がつかえそうな程に低く立ち込めた光の射さぬ天球(ブラインド・アレイ)の下、紫煙を燻らせている。

 精悍な男だ。狼のような男だ。後方で纏めた黒髪の総髪を銀雪を孕んだ風に靡かせ、禍禍しいまでの(あか)い瞳を虚空に彷徨わせながら。黒い狼の毛革のコートを羽織り、腰に佩いた三本の日本刀を懐かしむように撫でる。

 

 

「失礼します、隊長」

「何だ、中尉」

 

 

 その隣に、男が立った。かちゃり、と担いだ得物の音を立てながら。若い男だ。だが、やはり精悍な男だ。軍装に黒いコートを羽織り、肩には機関を仕込んだ小銃を担いだ、黒髪に海色の瞳の背の高い男だ。

 

 

「全兵、出立の準備完了です。パレードは時間通りに始められます」

「そうか……全く、煩わしい仕事を押し付けてくれるな、《鋼鉄の男》め。己の戦力を誇示したいのなら自ら行えば良いものを」

「はは、それも仕事の内ですよ、隊長」

「《狼》のやる仕事じゃない。首輪をつけられた、飼い犬の仕事だ」

 

 

 煙管から灰を捨てながら呆れたような声を溢した黒い男に、若い男は屈託の無い笑顔を向ける。それに毒気を抜かれたか、或いは面倒になっただけか。

 狼のように静かに歩き出す。腰の刀は、物音一つ出さない。背後を歩く若い男も、肩の小銃を携えたまま、かちゃり、と。

 

 

「行くぞ、中尉」

「了解。人民議会万歳(ウラー・ソヴィエト)! 鋼鉄同志万歳(ウラー・スターリン)!」

 

 

 凛と、寒空の下に響き渡った声と銃声。答えたのは、背後を歩く彼だけではない。『万歳(ウラー)!』、『万歳(ウラー)!』と万雷の如く。

 いつの間にか彼らの背後に現れた、全身を戦闘服に包む黒い兵士の群れ。手に手に機関銃を握り、顔までもをガスマスクとヘルメットで完全に包んだ、さながら群狼が。

 

 

「────《機関化歩兵聯隊(ヴォルキィ・クラースニィ)》全軍、出陣する」

 

 

 その王の咆哮に応えるように数千もの声が群れ集い、木霊して────…………。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『────いい、アンナ。貴女にはね、もう一つの名前があるの』

 

 

──夢を、見ている。数年前の夢。豪雪のウラル山脈の麓、エリノの町で。

 

 

『それはね、誰にも教えちゃ駄目。親友でも、先生でも。それがお兄ちゃんでも、絶対に。そうしないと、貴女に不幸が訪れるから』

 

 

──お母さん(マーマ)。優しい、温かな、大好きな。私のお母さん(マーマ)

 

 

『教えて良いのは、一人だけ。貴女に生涯、添い遂げてくれる人だけ』

 

 

──昔ながらの暖炉の側で、編み物をしながら。私を膝に抱いて、樫の木の安楽椅子、キイキイ鳴らしながら。

 

 

『ん? そうねぇ……貴女を、心から愛してくれる一人にだけ。欧州風に言えば────』

 

 

──分からないわ、どんな人? そう問いかけた、今より幼い私に、微笑みながら。

 

 

『貴女の、騎士(ナイト)様だけね』

 

 

──夢見る少女のように………………。

 

 

「まーた寝てる……確かにテストは終わったけどさぁ」

「────ほぇ……あ、リュダ……」

 

 

 肩を揺すられ、瞬間、夢から覚める。顔を上げれば、今朝と同じ。呆れた顔をしたリュダの顔があって。目の前で、ひらひら。リュダの白くて細い綺麗な指、揺れていて。

 ああ、そうか。試験が終わって、そのまま机で寝ちゃったんだ、私。うわ、恥ずかしい…………。

 

 

「……あのねぇ、アーニャ。可愛い可愛い仔兎ちゃん(ザイシャ)? そんなに無防備を晒してると、悪ーい狼さんにパクリと食べられちゃうわよ? そうでなくてもあんた、一部の特殊な性癖の男子には密かに人気なんだから。赤ちゃんが出来たら、学院生活も終わりですよー」

「なっ……なななっ……!」

 

 

──ちょっ、出し抜けに何て事を言うのよ、この人は! 赤ちゃんだなんて、そんな、まだ、恋人どころか恋もしてすらいないのに!

──綺麗なリュダ、スタイルの良いリュダ。お母さん(マーマ)みたいなリュダ、今日は一段と意地悪なリュダ!

 

 

 思わず火照った頬を誤魔化すように、にやにやと小憎たらしい笑顔のリュダから目を離して周りを見渡す。気送管からもたらされる熱に暖められ、導力管からのエネルギーによる機関灯の明かりに満たされた室内。その壁の時計、もう昼過ぎを指していて。

昼食には遅すぎて、夕食には早すぎる時間。もう、私とリュダしかいない。そもそも、昼までの試験日だし。皆、雪が強くなる前に帰ったか、或いは。

 

 

「あはは、慌てちゃって、本当に可愛いんだから。で、どうするの、アーニャ? 今日は『部活動』、出る?」

「うう……!」

 

 

 そう、『部活動』。本来ならただ、碩学を養成するための授業しか行わないこの国営碩学院。帝政ロシア時代から数えて、約六十年の歴史を誇る、我等が学舎。

 それがここ数年、学生からの嘆願によって授業終了後の数時間、『碩学としての向上に関連する事項なら』と学生の自主的な『部活動』を認めて。恐らくは厳しい授業の瓦斯抜きのために。しかし自主性を認めすぎた結果、今や、部活動は百にも及ぶ。私も全ては把握してない。無理。

 

 

「ふんだ、顔くらいは出しておくわよ。最近は試験勉強で忙しくて行ってなかったし」

「了解。じゃ、ミュールとメリリズは後回しね」

 

 

──ミュールとメリリズ。赤の広場の直ぐ側に在る、グム百貨店の前身の名称。今でも、モスクワの人々はこの名を使う。ソヴィエト機関連邦の、富の象徴。なんでも揃う素敵な場所、とても楽しい大好きな場所。

 

 

「うん、新しいレンズも欲しいし」

 

 

 鞄から取り出す、正方形の鉄の箱。英国、ロンドンで開発された機関式篆刻描画装置の携帯型。壊れてて中古で、そして旧式で。格安で叩き売られていたものを幸運にも手に入れられて。なんとか修理して使えるようにした、私の碩学としての最初の成果。

 ……まあ、お陰で貯金は底をついて、兄さんからまでお金を借りて。その上、先生がたからは『だから?』って感じで酷評されたけど。そもそも、この碩学院では『兵器研究』が第一だから。もし、ある『教授』が目に留めてくださらなかったら、今頃はウラル山脈に帰されていたところだったけど。

 

 

「携帯型篆刻(てんこく)写真機の? あんたも好きよね、写真機……あんな金食いの成金趣味」

「もう、人の趣味に文句つけないでよ」

「誉めてんのよ。アーニャくらいでしょ、『篆刻写真を携帯型電信通信機(エンジン・フォン)に付けられるくらい小さくしよう』なーんて理論に真面目に取り組んでるのなんて」

 

 

──それって、本当に誉められてるの? 馬鹿にされてるんじゃないの?

 

 

 くすくすと忍び笑うリュダに、今日何度目だかの睨み。背の高いミラには、駄々っ子の上目遣いにしか見えないそうだけど。

 

 

「────いいえ、はい。目の付け所は面白い研究ですよ」

「「えっ?!」」

 

 

 そこに、突然。私達の背後から、抑揚の無い声が生まれた。私だけじゃなくて、リュダさえも驚いて振り返る。

 黒い服。修道服。ロシア正教の、無表情のシスター。間違いようもない、こんな服を着て此処に居る人物なんて、学生一万人を擁するこの碩学院でもただ一人。

 

 

「「こ、こんにちはです、ブラヴァツキー夫人(ミシス・ヴラヴァツキー)!」」

 

 

──ブラヴァツキー夫人(ミシス・ブラヴァツキー)。本名、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。碩学院の教授の一人、ソヴィエトにおけるメスメル学……精神学の第一人者。

 

 

「……かつて地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、望遠鏡による天体の観測でその理論に辿り着きました。道は一つに見えて、意外な場所と通じている事もあるのです。写真機、現実を有りのままに、有るがままに映し出す機械。それを広く人口に膾炙すれば、何に通じるか。私はザイツェヴァさんの理論にそんな可能性を感じた。それだけの事です」

「は、はい……ありがとうございます」

 

 

──そして、私の篆刻写真機能付電信通信機(エンジンフォン・キャメラ)理論に興味を示してくださった、ただ一人の大恩人。以来、夫人は私の目標となる碩学だ。

 

 

 ええ、専攻は全く違うのが珠に傷だけれど。

 

 

「それより、午後は用がないのですか? こんな時間まで、教室で。今回の試験はそんなに簡単でしたか?」

「あ、いいえ、いいえ。今から部活動に顔をだそうかと」

 

 

 いけない、訝しまれちゃった。確かに普通なら明日の試験対策に勉強するか、息抜きに部活動するかだものね。

 ん? あれ? だとしたら、おかしい。だって、ブラヴァツキー夫人は────

 

 

「今日は部活動は休みだぜ、ザイツェヴァ」

「悪いが、そうなった」

 

 

 その疑問に答えるかのように、教室に入ってきた男子生徒二人。どちらも背の高い、男の子達。金髪の彼と茶髪の彼。

 

 

「え、そうなの、オジモフ君?」

「何かあったわけ、イサアーク?」

「ああ、ザイツェヴァ、パヴリチェンコ。ユーリィの奴が、この莫迦が。赤点スレスレだから勉強を教えてくれ、と泣きついてきたんだ」

「そうそう、俺が莫迦だから……て、おい、イサアーク! バラしてんじゃねぇよ!」

 

 

 底抜けに明るい金髪の彼。『夢は灰色曇の向こう、宇宙に行くこと』と豪語して『飛空艇』の技術と操縦を研究している彼、ユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン君。

 そして、どこまでも真面目な茶髪の彼。碩学院の首席学生、私と同い年でありながらカダスの『人工筋肉理論』と『数秘機関(クラックエンジン)』に基づいた『機関人間(エンジンヒューマン)』研究で成果を出しつつあると言われる彼、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』と豪語する彼、イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ君。

 

 

「まあ、ガガーリン君らしいかな」

「だねぇ、ユーリィらしいわ」

「ハッハッハ、そう誉めるなよ、アンナ、リュドミラ。照れるだろーが」

「……ガガーリンさん、教師の前でそういう態度はいただけませんね。減点」

「ちょっ、夫人(ミシス)!?」

「……この、底無しの阿呆めが」

 

 

 私とリュダも属している、『最新機関技術同好会』のメンバー。そして、ブラヴァツキー夫人はその顧問。そうか、だから夫人はここに来たんだ。

 

 

「じゃあ、そう言うわけだ。活動は試験明け、晴れてユーリィが除籍されてからだな」

「おうよ、乞うご期待! ……じゃねーだろ、イサアーク! ちょっと待った、お前に教えてもらわねーとマジでヤベェんだって!」

 

 

 クールに告げて出ていったオジモフ君を、ニカリと笑って。思い出したように慌てて追い掛けて、ガガーリン君が出ていく。

 嵐のような男子生徒二人の後に残された私たち三人は、暫く沈黙した後。

 

 

「では、私は試験の採点がありますので。さようなら、ザイツェヴァさん、パヴリチェンコさん」

「「あ、はい。さようなら、夫人(ミシス)」」

 

 

 またもやの唐突な言葉に、またもや声を重ねて。

 

 

「……じゃ、ミュールとメリリズ、行く?」

「……うん、行く」

 

 

 私達は、帰り支度を始めたのだった。


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