銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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第三章 カラマーゾフの兄弟
兄弟 ―брат―


 

 

───黒い。黒い。ああ、ここはなんて黒いのだ。

 

 

 コツコツと、石畳に革靴の音を刻みながら。ふと思う。生まれ故郷であるサンクトペテルヴルクでも、雪は暗い灰色を帯びていたが。このモスクワの雪は、更に黒く淀んでいる。

 全ての元凶は、遠く排煙の柱を立ち上らせるチェルノブイリ皇帝機関(ツァーリ・ドヴィーガチリ)群。かつては、サンクトペテルヴルク近郊で実験稼働していた際は、複合機関群(スロージニエ・ドヴィーガチリ)とも呼ばれていたが。

 

 

──ああ、思い出すな。あの日々を。忌まわしい、おぞましき日々を。

 

 

 薄暗く淀む大気に白い息を吐きながら、私は歩く。このソヴィエトでは、働かない者、学ばない者に生存の権利はないのだから。

 

 

──だから、ああ。

 

 

 昔を懐かしんだところで。私は、私には、もう。

 

 

──視界の端に。

 

 

 戻るべき場所も。迎えてくれる『兄弟』も。

 

 

──躍る、道化師が見える。

 

 

 ありはしないのだから────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ザイツェヴァくん。すこし、時間はあるかね?」

「え? あ────」

 

 

 碩学院の講義を終えて。帰り支度をしている最中の事。いつものように、リュダが、『ミュールとメリリズ、寄ってく?』と聞いてくる前に。

 ホームルーム、終えた後。学年担任の先生から、声、掛けられて。

 

 

「は、はい、先生。なんでしょうか」

 

 

──学年担任の、イワン先生。大人っぽい人。いえ、実際大人なんだから、こんな評価は失礼だけれど。担当は近代文学、穏やかな物腰と、聞き惚れるくらい素敵なバリトンの声の。

──よく、学年の女の子の話題に上る人。恋人はいるのか、とか。だ…………抱かれるなら、この人が良いとか。よく。ミラとか、他の女の子も。

 

 

「ああ、うん。先程の授業なんだが……ドストエフスキー氏の『罪と罰』。これは、理解できる内容だったかな?」

「は、はい。現実と理想の解離、犯した罪、それに対する罰と向き合う苦悩と孤独を描いた、名作だと思います」

 

 

 わたし、もし、スターリン同志に答えていたなら、すぐにシベリア送りになるような、吃語で。答えれば、先生は少し、驚いた顔をして。

 

 

「そうか。私には、理想論者が現実に敗北する物語だったが。そう言う解釈もあるんだね」

 

 

 そう、口にされて。碩学院で最も、現在のソヴィエトを席巻する『無神論』を識っていると言われている、イワン先生は。

 

 

「と。いけないな、実は、授業の話がしたかったわけではないんだ。確か、君は、篆刻写真機を持っていると聞いたのでね」

「はい、持っています。あの、それが……」

「ああ、うん。咎めているわけではなくてね」

 

 

 いきなりの事に、怒られるのかと思ったけれど。先生、穏やかに微笑んで。安心させるように。

 

 

「実はね。故郷のサンクトペテルヴルクから、兄夫婦と弟がモスクワに旅行に来るんだ。だから、君に、記念写真を撮ってほしいとお願いしようと思って」

「き、記念写真……ですか?」

 

 

 そして、やっぱりいきなりの事に、わたし、驚いて。あたふた、意味もなく、掛けた鞄の紐、弄って。

 でも、先生。柔和な笑顔のまま。

 

 

「ああ。是非、お願いしたい。育ちのせいで、そういう機会に恵まれなかったが────」

 

 

 ()()()()()()、柔和な笑顔のままで────

 

 

()()()()()()()()、兄弟だからね────」

 

 

 微笑んでいて────

 

 

「は、はい。こちらこそ、是非」

「ありがとう。兄弟が来るのは、来週の安息日なんだ。突然で申し訳ないが、宜しく頼むよ」

「はい────」

 

 

 その笑顔のまま、立ち去っていく。最後に、わたしの肩を軽く叩いて。学年担任の、近代文学専攻の、イワン・フョードロヴィチ────

 

 

「────カラマーゾフ先生」

 

 

 彼は、去っていった────

 


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