銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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心 ―сердце―

 

 

 薄暗い機関灯の灯る室内。視覚化される程に濃密な、鋼の如き圧迫感。そこは、このモスクワで最も重厚な威圧感に満ちた一室だ。そこは、このソヴィエトで最も鋼鉄の冷たさに満ちた一室だ。

 そのただ中で、男女が二人。革張の椅子に腰掛けて最新式の機関パイプから紫煙を燻らせながら、窓の外の漆黒のモスクワを眺めていた男と、その隣で直立不動の姿勢のまま、静かに目を閉じていた金髪の女が二人。

 

 

 見下ろす広場、赤く輝く、五つの塔の頂の星。その煌めきが揺らめいた刹那に。

 

 

「────コーバ。我が親友」

 

 

 女が口を開く。金髪に碧眼の、赤い軍装に身を包む美しい女が静かに、低く、鉄の強度を持って。

 もしこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。

 

 

「なんだい、モロトシヴィリ。モロトシュティン?」

 

 

 それほどの声を受けても尚、男は揺るがない。色素の薄い灰色の髪に猫めいた黄金の右瞳と、青い左瞳の怜悧な美貌の。同じく、真紅の軍装に身を包む男が。胸元に、()()()()()()を備えた軍装の男が。

 鉄の声を上回るほどの、鋼鉄の強度を持って。男は、小揺るぎもしないまま。もしもこの場に他の人間がいたのなら、それだけでも落命してしまいそうな威圧と共に。

 

 

現象数式領域(クラッキング・フィールド)の構築を確認した。彼の願いは果たされる」

「だろうね。だが、それもここまでだ。あそこには────()()には、《白騎士》と《黒騎士》が居る」

 

 

 左手のカップから、輪切りにされたレモンの浮いた紅茶を啜る。愉しげに、実に愉快そうに。

 

 

「ドーブリョ・ウートラ。愚昧にして哀れなる《黒い道化師(ラスプーチン)》。《魔女(クローネ)ババ・ヤガー》に仕える、三体の騎士の内の二体。貴様の粗雑な繰り人形如きで、どうにかできると思っているのか」

 

 

 自らの視界の端で嘲り踊る、黒い道化師すらも。子供の悪戯でも見るかのように、嘲笑いながら。

 

 

「……では、()()()傍観に徹するのだな?」

()()()だ、モロトシヴィリ。モロトシュティン。私が出ずとも、あの程度の完成度しかない現象数式体(クラッキング・ビーイング)くらいは、自力でどうにかしてもらわねば」

「了解した、コーバ。我が親友」

 

 

 全てを話終えたとばかりに、女は口をつぐむ。同じく、男も。後には、音もなく降り続ける黒い雪と、時折、排煙を噴くパイプの音だけが残って。

 もう、そこには、踊る道化師の姿はなくて。

 

 

────ああ、本当に。本当に貴様はやりづらい────

 

 

────()()()()()()()()()よ────

 

 

────冷酷無慙なる、《赤騎士》よ────

 

 

 最後に、ポツリと。溜め息のような、そんな声が────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

『僕の夢────』

 

 

 思い出したのは、昨日の彼の姿。アルバート駅(アルバーツカヤ)の地下鉄職員用喫茶店での、あの会話の後。

 ぽつり、と。余程、時間が経ってから。オジモフ君は、口を開いた。懐かしむように、苦しむように。

 

 

『前にも言ったかな。僕は、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』のが、夢なんだ』

 

 

──知ってる。だって、聞いたもの、わたし。モスクワ大碩学院に入学して、最初の日に。

──ガガーリン君の『現代機関技術研究倶楽部』の立ち上げの日に、皆で、夢を語ったから。

 

 

『幼い頃にサーカスで見た、軽業師の機関人間(エンジンヒューマン)……今にして思えば、本当にそうだったかは怪しいんだが。兎に角、それを見て。僕は、激しく失望した。酷くカクカクした動きに、非人間を隠そうともしない、無機質な表情。兎に角、失望したんだ』

 

 

 暖房機関の効いた室内で、氷の浮いたコークをストローで飲みながら。あの泡立つ、喉を刺すような刺激のある飲み物、慣れた風に。

 新しく紅茶を頼み直して、苺のジャムをたっぷりと含んで。口直しにしているわたしとは、全然違っていて。

 

 

『だから、僕が。本物の、機関による人間を造る。そう、子供心に思ったんだ』

 

 

 照れ隠しのように、俯きがちに笑って。飲み終えたコークのグラスをテーブルに置いたオジモフ君。その視線は、隣のワシリーサさんに。

 

 

『でも、駄目だった。結局、僕に出来たのは……あの時、失望したモノより……本の少しだけ、動きが滑らかなだけの失敗作だけだった。他人すら騙せないくらいに、歪な人形だ』

 

 

──心の底から、失望したように。ワシリーサさんに、ではなくて。

──自分の、無力さに。心底、失望したように。

 

 

 笑って────

 

 

『あぶない、アンナ。アナスタシア』

 

 

──だから。うそ、うそ。嘘よ、こんなの。

 

 

『このひとたちは、きみを、きずつける』

 

 

──だって、どうして。オジモフ君が。

 

 

 分からない。ううん、分かりたくない。目の前で起こっている、非現実的な現実。昨日まで、当たり前のように会話していた友達が、どうして。どうして。

 目を背けたくなるくらいに酷い、酷すぎる、世界────

 

 

 

 

Q、世界とは?

 

 

 

 

「────ははははは! さぁ、最後の仕上げだ、ワシリーサ!」

 

 

 信じたくない程に凶悪な笑顔で哄笑したオジモフ君の、黄金色に輝く右瞳が私を見据える。その奥に、昏く澱んだ黒い()()

 そう、あれは疲れ。あれは絶望、あれは諦め。モスクワに生きる人々が、誰しもが、大なり小なり持ち合わせるもの。

 

 

「消してしまえ────消し去ってしまえ! 僕を認めないものを、全て!」

 

 

──この、過酷な北辺の国で生きる皆が。『社会主義』の名の下に、生きる意味、生きる価値、死ぬまで。人生全ての意味を定められた、ソヴィエトに生まれて、死ぬ、全ての人々が持つもの。

──あれに、負けてしまったの? オジモフ君、あなたは。モスクワ大碩学院始まって以来の秀才のあなたが、『機関(エンジン)で完全な人間を作る』と、素晴らしい夢を語ってくれた、あなたが?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

『はい、いいえ。あるじ、我があるじ。機関出力安定、砲撃形態に移行します』

 

 

 だから、呆然と。オジモフ君を見詰める私は、白い怪物の言葉を聞き流して。向けられた、燃え上がる真紅の眼差し。その炸裂する真紅に、《背後の白い彼》の警告の声すら聞こえず、身構えることもしなくて。

 軋む音がする、白く輝くもの。全身を覆う重装甲が輝きを放つ、多砲塔の戦車のようなものを思う。去年のフィンランドとの、《冬戦争》の戦勝パレードで見たようなものを思う。或いは、正教会の宗教画(イコン)に描かれたものを思う。白い翼と、白い環を備えた神聖なものを思う。思う、けど────

 

 

──違う、違うわ。だって、あんなものが。祖国の栄光の姿を、模してなんてない。

──違う、違うわ。あんなにも醜いものが、天の遣いなんかのわけ、ない!

 

 

『形態・《T―35》────主砲、放ちます』

「何処を見ている────貴様の相手は俺だ」

 

 

 放たれた衝撃。その一撃を、ハヤトさんが日本刀一本で切り落とす。二つに裂かれた砲弾は、地面に着弾すると共に衝撃を二方向に撒き散らして砕く。

 遠く、彼方に見える七つの超高層建築(セブン・シスターズ)にさえ、届きそうなくらい。

 

 

『ふむ────仔兎(ザイシャ)、下がっていた方がいい。お前の背後の()()が居れば、傷付くことはあるまいが…………些か、邪魔だ』

 

 

 舞い上がる粉塵と黒い雪、でも、ハヤトさんが。機関精霊のヌギルトゥルさんが、そして《背後の白い彼》が、私を守ってくれて。傷も、痛む場所も、どこもない。

 

 

「天然理心流免許、内藤隼人義豊────参る」

 

 

 そして、目に映る。腰を落とし、突き出すように肩まで刀の柄を引き付けて、刃を内側に倒した構え。獰猛な狼が獲物に狙いを定めて、今にも飛び掛かろうとしているかのような、その構え。

 その次の一瞬で、もう白い怪物の目の前に飛び込んでいて。突き出した刀────

 

 

「無駄だ────幾ら機関刀(エンジンブレード)とはいえ、人間に、戦車(メルカバ)が! 神の遣いが斬れるものか!」

「確かにな……無駄に装甲が厚いのは()()譲りか」

 

 

 でも、傷ひとつなく。白い怪物は蠢いている。無限軌道を軋ませながら、地面を砕きながら。

 刃を弾かれて、ハヤトさん、面倒げに舌打ちしながら。オジモフ君の、《構築》の異能が一点に集約させた極厚の装甲、幻想的な模様の走る装甲を睨みながら。

 

 

『敵、至近距離。副砲、放ちます』

 

 

 でも、息つく暇もない。怪物の両手、その先端から、機関銃の速度で撒き散らされる弾幕。雨霰、まさにそれのように。

 速すぎる。何より、多すぎる。人間には躱せない。全身を機関化した重機関人間の兵士か、優れた身体能力を持つ猫虎(プセール)の兵士でなければ。

 

 

「成る程、確かに。人はお前には何も出来まい」

 

 

 例え、躱せたとしても。現象数式で編まれた装甲は現実の兵器では傷ひとつ付けられず、幻想の兵器を用いたところでその厚みを突破するのは不可能に近い。

 更に、例え、断ち切れたとしても、打ち砕けたとしても。《構築》の異能(アート)が破壊を阻み、次から次に遅い来る弾幕が確実にその命を撃ち砕くだろう。

 

 

「だが────俺は人じゃない」

「何────! クソッ、よくも!」

 

 

 その全てを、右目に展開した現象数式の瞳で見透かして。切り落とされていた怪物の両腕、地面に落ちて。

 

 

「ああ、忌ま忌ましい! 現象数式(クラッキング・エフェクト)使いの極東の猿(イポーネツ)め! 僕を認めない雑多め! 何より、この失敗作め! 僕の手を煩わせるな、僕の足を引っ張るな、木偶人形! お前、なんか────!」

 

 

 狂乱したオジモフ君は、《構築》の異能でその腕を繋げ直して。聞くに耐えないくらいの暴言を、わたしたちに。

 

 

「お 前 な ん か !  造 る ん じ ゃ な か っ た !!  ワ シ リ ー サ !!!」

 

 

 そして、()()()()()()()()()()()()にも、そんな暴言を吐いて。

 

 

『命令、受諾。機関出力最大────』

 

 

────ぽろぽろ。ぽろぽろ。水の音。何処かで。

 

 

 零れ落ちる音が聞こえる。何処かで、この、氷点下のモスクワで。

 

 

重圧縮蒸気砲(ヘスティア)────発射用意』

 

 

 白い怪物の、全身からの猛烈な駆動音を越えて。自壊しそうなくらいに蒸気を圧縮し始めた、怪物の燃え上がる深紅の眼差しよりも強く。確かに、聞こえた。

 

 

──どうして? どうして、オジモフ君?

──だって、貴方が、造りたかったのは。

 

 

「餓鬼の癇癪なんざ、聞くに堪えん。仕舞いとしよう」

『うむ、どうやら、()()()のようであるしな。ああ────あの装甲の模様。切子硝子のような、間違いない。憐れだな、《ディグラ》…………ラスプーチンの夢に呑み込まれた我が同胞よ。今、楽にしてやる』

 

 

 わたしの目の前に立っていた無傷のハヤトさんとヌギルトゥルさんは、呆れたように、憐れむように呟いて。構え直した刀に、静かに息吹を掛ける。

 

 

「《大いなる渦(ルー・クトゥ)》の言葉を借りて。来たれ、我が影、我がかたち」

 

 

──刹那、確かに見えた。蠢くように歪なもの。虚空に刻まれる、大きな、大きな────忌まわしい、渦を。

──膨れ上がり、揺らめく、不気味な渦を。

 

 

「氷すら揮発する灼熱の辺獄────」

 

 

──半透明に透き通ったアネモネ(アニモン)の花のような。

──或いは、この世ならざるもののような。または、捻れた音のような。

 

 

「炎すら揮発する焦熱の煉獄──」

 

 

──もし、背後に《白い彼》が居なければ。それだけで、精神が凍りついていただろう。

──きっと、あれは見てはいけないもの。見えては、いけないもの。

 

 

「そして、滅びをもたらす無限熱量の渦。我が声に応えて出でよ、我がかたち」

 

 

──そして、そこに潜むもの。あらゆるものを嘲笑する、二対四つの黄金の瞳を見て。『人間め、愚かな猿め。もっと惨めに、神の掌で踊って見せろ』と嘲笑う意思そのもの。

──()()()()()()()()()()。見たことなんてないけど、()()()()()()()()()()()()()()。わたしは、涙、流しながら見て────

 

 

「苛烈なる炎の神。《旧きもの》、ルートラ・ディオール!」

 

 

 閃光の速度で渦が歪む。

 瞬きの速度で炎が湧く。

 炎の怪物が、装甲の白を睨むのだ。

 

 

「汝の(かいな)は我が腕。汝の罪、あらゆる全ては我が罪。さあ、ルートラ・ディオール。お前の敵は、忌まわしく白き結晶の戦車(メルカバ)

 

 

 その機関刀(エンジンブレード)を炎が伝う。意思のある炎、のたうつ蛇のように。鋼を、炎の速度で、炎の熱が覆う。

 無限の熱量を纏って、辺りの黒い雪すらも揮発させながら。ハヤトさんは────

 

 

「……言っておくが、俺は。《雷電王(ペルクナス)》や《黄衣の王(ストリボーグ)》のようには甘くないぞ────仔兎(ザイシャ)

「っ────」

 

 

──わたしに、言葉を投げ掛ける。振り向くこともなく、ただ、それだけを。囁くように穏やかな声色で、でも、宣言するように冷酷な声色で。

──それだけで、分かる。ハヤトさんは、オジモフ君を()()()()()()()()()こと。このまま────あの白い怪物ごと、()()()()()()()()ことが。

 

 

『じゃあ、どうするの?』

 

 

────では、どうするんだい?

 

 

「────わたし、は」

 

 

 震える。怖い。あんな怪物の前に出るなんて。

 

 

『きみは、なにがしたい?』

 

 

────目を覆う?

 

 

「オジモフ君、を────」

 

 

 でも、それでも。

 

 

『ぼくは、きみをみているよ』

 

 

────瞼を閉じる?

 

 

『ぼくには、からだがないから』

 

 

────それとも

 

 

 わたしは────

 

 

「────助けるわ、絶対に。オジモフ君を」

 

 

『アンナ。アナスタシア。ぼくは、きみをみている』

 

 

 背後に立ち上がるもの。影、《背後の白い彼》。その存在をしっかりと感じながら。

 

 

 

 

──少女の瞳──

 

 

 

 

──わたしは、瞳を逸らさない!

 

 

 

 

──血の海原に揺蕩う、望月の黄金に煌めいて──

 

 

 

 

 視界の端で踊る、黒い道化師(クルーン)の言葉なんて聞こえない。聞こえていても、意味なんてない。わたしは、絶対に、瞳を逸らさない。

 

 

 だって。

 

 

──オジモフ君に、伝えないといけないことがあるもの!

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「喝采せよ、喝采せよ! おお、素晴らしきかな!」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「我が《最愛の子》が第三の階段を上った! 物語の第三幕だ! 現在時刻を記録せよ、ラスプーチン! 貴様の望んだその時だ────《鋼鉄の男》よ、震えるがいい!」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者に向けて叫ぶのだ。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。時計など、持ち合わせてはいませんがね」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「くっ──はは。夢、夢だと? ああ、偽りの《黄金瞳》と、最初で最後の《奇械》を無駄にして────悪い子だ、アナスタシア」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に悪い子ね、アナスタシア」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「黄金螺旋階段の果てに! 我が夢、我が愛の形あり!」

 

 

──それが、物語の第三幕。お伽話か活動写真(フィクション)のような、男女の出逢い。

──路地の侍士(ストリート・ナイト)と、白い皇女殿下(ベールィ・インピェーラリスサ)の。

 

 

皇 帝 陛 下 万 歳(ウラー・インピェーリヤ)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 震える足と、心臓を奮い立たせて。きっ、と。精一杯の意思を込めて、前を見て。一歩、前に出る。ハヤトさんの影から、前に。わたしの足で、わたしの意思で。涙、拭いながら。濡れた袖の()()、無視して。

 背後から、視線を感じる。ハヤトさんと、ヌギルトゥルさんの視線。受けて────

 

 

『よい覚悟だ。援護する』

「機会は一度限り。あのデカブツを、俺が斬った瞬間のみ。他では、間に合わない」

 

 

 ハヤトさんの言葉の意味、よく分かっている。あの怪物を産み出したのは、オジモフ君の心。あれが存在する限り、あれを壊さない限り、オジモフ君は囚われたまま。

 

 

────その通り。あのままにしていても、どうにかしようとしても、彼は死ぬ────

 

 

 そして、あれを壊せば、オジモフ君の心もまた、壊れてしまう。つまり、助けることができるのは、その一瞬のみ。

 

 

────命、ではなくて。心が、記憶が。(スターリ)になるのさ────

 

 

 嘲笑う道化師が煩わしい。今、忙しいの。何処かに、消えろと言葉を────

 

 

「────仔兎(ザイシャ)

「ひゃ────!?」

 

 

──吐こうとした瞬間、背中側から抱き寄せるように。それに、顎、持ち上げられて。強制的に、上を向かされた。そこには、黒髪の男性の顔。極東の彼の、その狼のような赫い瞳が、覆い被さるように見下ろしていて。

──後少しで、キス、が、できそうなくらい。それくらい、近くて。わたし、きっと真っ赤だと思う。

 

 

「道化師など放っておけ。今は、目の前に集中しろ」

「あ──は、はい」

 

 

──紫煙の残り香を漂わせながら。不思議、彼の持つ刀の炎の熱さ、感じられなくて。

──そう、一回きりの機会。失敗なんてできないんだから、あんな道化師のことなんて、気に留めてやらない。

 

 

 その事に気づいた瞬間────道化師は、肩を竦めながら。黒い雪に、景色に、融けるように消えて。

 

 

『だいじょうぶ────ぼくが、てつだうから』

 

 

 代わりに、《背後の白い彼》。その強い存在感を、確かに感じて。

 

 

「────“差し向かう 心は清き 水鏡”」

 

 

 また、極東の言葉で。多分、詩編を詠んで。

 

 

 金属の擦れ合う音、甲高く。わたしとハヤトさんの回り、飛び交う漆黒の刃金(ハガネ)。それが、ヌギルトゥルさん────二輪蒸気機関車『サモセク』の装甲であると悟ったときには、もう。

 

 

《────行くぞ》

 

 

 背後のハヤトさんの姿、全身を鎧に包まれた────カダス北央帝国のヒュブリス帝が作り上げたと言われる《駆動鎧(アーマード・トルーパー)》を思わせる、黒い騎士の姿に変わっていて。

 

 

「────はい!」

 

 

 答えた瞬間────怪物の重厚なものを引き裂くように響いた、つんざくように警戒な蒸気機関の稼働音。ハヤトさんの背中の、二輪蒸気機関車の機関が、激しく排煙を噴いて。

 

 

『敵性の攻撃の準備を観測。迎撃します』

 

 

 それに気付いた怪物が、両腕の機関銃を放つ。鉄の雨、鉄の風。わたしたちを飲み込もうと吹き荒れて。

 

 

《飛ぶ》

「はい────えっ?」

 

 

 聞こえた、不思議な台詞。今、え? 確かに、『飛ぶ』って────

 

 

「ひゃ────あぁぁぁ?!!」

 

 

──背中から、押されるように! わたし、大きな刃金の翼を広げたハヤトさんの左腕、黒い鋼鉄に包まれた左腕に抱かれるように!

──高く、高く! 黒い雪雲に届きそうなくらい、空高く!

 

 

 飛んで────!

 

 

「雲の中にでも隠れる気か! 無駄だよ、極東の猿(イポーネツ)! 重圧縮蒸気砲(ヘスティア)からは、そんなことじゃ逃げられない! そして、その虚仮威(こけおど)しの鎧も! ただの鉄塊も! すべて、すべて! あらゆるものは意味を持たない!」

 

 

 真下から、睨み付ける視線の圧力が増す。あらゆる無機物の構成を組み換える《構築》の異能(アート)を宿す黄金の瞳と、あらゆる全ての存在を自壊させる、燃え上がる深紅の眼差しが。

 わたしたちを打ち砕こうと、その眼差しを、真上に向けて────

 

 

《……恐いか?》

 

 

 風を切る音、その狭間に届いた、囁き声。耳にではなく、頭の中に響く、現象数式の声。ハヤトさんの声。

 

 

「いいえ。わたしにはまだ、やらなきゃいけない事がありますから」

《そうか……ならば、佳し。しっかり掴まっていろ────()()()

 

 

 微かに、笑ったような。そんな印象を受ける。でも、ハヤトさんの顔は、刃金の装甲に包まれていて見えない。

 

 

『蒸気充填率、100%────重圧縮蒸気砲(ヘスティア)、放ちます』

 

 

 代わりに、猛烈な勢いで。白い怪物が、大気を歪ませるほどの、超高圧縮蒸気の塊を放って────────!

 

 

《天然理心流────》

 

 

 でも、ハヤトさん、天の頂でくるりと頭を下に向けて。真下に向けて、更に、勢いよく。

 

 

 まるで、雹のように、最高速度で────!

 

 

《────電光剣(デンコウケン)!》

 

 

 圧縮蒸気の塊に、全てを灰燼に帰す劫火を纏った刀を真っ直ぐ、振り下ろす────!

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が眩むような閃光。意識を飛ばしそうな衝撃。普通なら、今頃、わたしの体なんて雪のように消えていると思う。

 

 

「馬鹿な……!」

 

 

 でも、生きている。わたしには、まだ────

 

 

「そんな、馬鹿な! なぜ生きている、重圧縮蒸気砲(ヘスティア)を食らって! なぜ!?」

 

 

──やらなきゃいけない事が、あるから!

 

 

「なぜだ、ザイツェヴァ!?」

 

 

 あと、五歩の距離で。異能で造り上げたんだろう圧縮蒸気銃をわたしに突き付けて、叫ぶオジモフ君。

 背後では、ハヤトさんに眉間から刀を突き立てられて。完全に動きを止めている白い怪物が、力なく項垂れている。

 

 

「なぜ、僕の邪魔をする────お前は、どうして!」

 

 

 後、四歩の距離で。引き絞られる銃の引鉄。放たれる圧縮蒸気。でも、でも。

 

 

遅いわ(ニズカャ)────」

「なんだよ、それ────なんなんだよ、お前は! その目と言い、その化物と言い!」

 

 

 後、三歩の距離で。《背後の白い彼》が、わたしを護ってくれる。白銀の左腕で、それを打ち払って。

 

 

「僕 か ら 、 夢 を 奪 う な !」

「────喚かないで(チーハ)!」

 

 

 後、二歩の距離で。叫びは響く。でも、それはただの人の声だ。構わず伸ばしたわたしの左腕、それに沿うように、白銀の左腕、重なって。

 

 

「わたしは決して破壊しない。わたしは決して奪わないわ。あなたに、夢を、取り戻してほしいだけ」

「僕の、夢、だと?」

「思い出させてあげる。わたしは、ううん、()()()()()は、()()()()()()()()()()()()()だから」

 

 

 わたしたちになら、できる。わたしたちの、この、《善なる左手》ならば。

 

 

「何を言っている! 僕の夢は、夢は!」

 

 

──思い出して、オジモフ君。あなたの夢を。

──あなたの夢は。()()()()()()()()()()()()()じゃないでしょう?

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 後、一歩の距離で。わたしは、背後に囁く。

 

 

「背後のあなた。わたしの《奇械》イクトゥス────わたしは、あなたに、こう言うわ」

 

 

 心臓に圧縮蒸気銃を突き付けられた、後、零歩の距離で。決意と共に、白銀に煌めく左腕、彼に────

 

 

 

 

 

 

「────“薄氷の如く、溶かせ”」

 

 

 

 

 

 

 触れて────────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「あ、あ────」

 

 

 そして、思い出す。僕は、イサアーク・オジモフは。ザイツェヴァと、その背後に顕現した《白い影》の手が触れた瞬間、再生されたその過去を。まるで、活動写真のように。

 幼い頃、サーカスで見た機関人間。その、出来の悪さを。まだ、機関人間と機械人形の区別すらつかなかった、あの日。生まれた、夢を。増殖し続ける、その現在を。

 

 

「そうか、僕は────」

 

 

 そう、思い出した。僕の夢。僕の願いを。

 

 

 

 

Q、夢とは?

 

 

 

 

 ぼくの、ゆめは────

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

「ああ────そう、だったな……」

 

 

 カラン、と。地面に落ちて、蒸気銃が砕け散る。ぽろぽろ。ぽろぽろ。目の前で零れ落ちた、オジモフ君の涙、右目からの涙と共に。

 

 

「ぼくの、ゆめは────」

 

 

 消えた黄金の輝きと共に、流れた黒い煤と共に、失われた《構築》の異能と共に。

 

 

『ある、じ────私の、ある、じ』

 

 

 崩れかけた、怪物が────いいえ。ワシリーサさんが、その右手を、彼に。オジモフ君に、伸ばして。

 

 

『なか、ないで。私は、失敗作、だったけれど』

 

 

 壊れた、体を。引き摺って。超高圧縮蒸気の塊を切り裂いたときにはもう、勢いを失っていて。躱そうと思えば、躱せたはずのハヤトさんの刀を。

 それでも躱せはしないだろうオジモフ君を庇って受けた、彼女が。

 

 

『あるじ……を、まもれ、て。あるじの、教えを……』

 

 

 右手を、重ねて。笑顔のままで。全身から、排煙を、煤を、溢しながら。

 笑顔のままで、ぽろぽろ。ぽろぽろ。零れ落ちるのは────

 

 

「ああ、ああ────お前は、僕の、三原則を、護ってくれた」

 

 

 雫、涙で────

 

 それは────

 

 

「僕の夢は────叶えられていたんだ……ワシリーサ。僕の、最高傑作の、きみに」

 

 

 燃え尽きた彼女と共に、風に吹かれる雪のように。

 

 

「きみの…………()()()に…………」

 

 

 モスクワの街並みに、消えていった────……………………


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