銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~   作:ドラケン

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明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いしますm(_ _)m


雪 ―Снег―

 

 

 そこは、暗がりだ。歯車の軋む音が、機関の発する轟音が満ち溢れた、黒い雪に閉ざされた皇帝(ツァーリ)の城だ。誰もが知りながら、誰もが知り得ない。漆黒と排煙に閉ざされた、この世の地獄だ。

 そこは折り重なるような重機関の、蠱毒の坩堝だ。そこは生きとし生けるものを鏖殺する、八大地獄(カルタグラ)だ。そこは死して尚、魂を苛む八寒地獄(コキュートス)だ。

 

 

 ならば、そこにいる彼等は、最早人でも、まさか神や悪魔でもない。

 

 

「あるじ。我があるじ。時が来た、唐突ですが、来てしまいました。お言葉を賜りたい」

 

 

 声が響いている。快哉の声が。無限に広がるかの如き黒い雪原の中に、全てを覆い尽くすかの如き黒い吹雪の中に。

 

 

「────────」

 

 

 その城の最上部。黒く古ぼけた玉座に腰かけた年嵩の皇帝(ツァーリ)が一人。盲目に、白痴に狂ったままに。従う事の無い従者にすら、目線を合わせることなく微睡んで。

 

 

「チク・タク。チク・タク。チク・タク。御意に、皇帝陛下。では、代わりに我輩めが謳い上げましょう」

 

 

 答えた声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。

 

 

「────祝福せよ、祝福せよ! 嗚呼、素晴らしきかな! 鋼鉄の生け贄が最後の階段に足を掛ける! 危なげもなく、あらゆる障害を踏み潰しながら!」

 

 

 堂々と、皇帝の目の前で。堂々と、彼を嘲笑いながら。唾を吐くように、城の麓を見下ろして。

 

 

「ええ、ええ。本当に」

「そうね、そうね。本当に」

「全くだわ、全くだわ。本当に」

「「「本当に本当に怖い人ね、イオセブ・ジュガシヴィリ」」」

 

 

 傅くべき玉座、皇帝の周囲を不遜にも。三人の皇女達と共にロシア舞踊(ベレツカ)を躍り、嘲りながら。

 まるで時計の針のように正確に、チク・タク。チク・タク。チク・タクと囀ずる道化師(クルーン)が。

 

 

「僕の時計は動かない! 俺の鐘は鳴らない! 初めからそんなものは持ち合わせていないのだから────私の糧となり! 矮小なる身を知り! 永遠がなんたるかを知るがいい!」

 

 

──それが、物語の最終幕。出来の悪い悪漢小説かか恐怖劇(グランギニョル)のような、とある男の覇道の道程。

──人民の敵(ヴィラン・オブ・ヴィラン)紅鉄の星(マグニートー)の。

 

 

紅 鉄 の 星 万 歳(ウラー・マグニートー)──────────くっ、ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 

 その全てを嘲笑って。妖術師グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは笑い続けて────

 

 

「────すべて。そう、すべて」

 

 

 その、軋むような音をたてる両腕────

 

 

「全ては、ただ。《愛しく遠き理想郷(アイラ)》の為に」

 

 

 深紅の右腕と蒼白の左腕、揺らめかせながら────

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 《鋼鉄の男》スターリン閣下の治める鋼鉄の都市モスクワ、その中枢たるクレムリン市街中央、ソヴィエトの象徴たる赤の広場(クラースナヤ・プローシシャチ)近郊に、それは在る。聖ワシリィ大聖堂。またの名を『ポクロフスキー大聖堂』、或いは『堀の生女神庇護大聖堂』。この都市におけるロシア正教の総本山であった、色とりどりの可愛らしい、玉葱頭の大聖堂。

 聖なるものを思う。清廉なものが、全てを浄めるように思う。壁中に描かれた教会画(イコン)の聖母と御子の、そして、名だたる聖人達の眼差しに。

 

 

──普段は。うん、普段なら。そう思うのだけれど。

 

 

 だけど、今は違う。立ち込める紫煙の香り。壁に寄り掛かって古めかしい煙管を噴かしているハヤトさんと、長椅子に座って最新式の機関パイプを噴かしているジュガシヴィリさんの、あまりと言えばあまりに傍若無人な振る舞いに。

 何より。そんな風にしながら、二人ともが一言も発さずに。一言も発せずに掃除をしている私を、ただじっと見ているのが、居心地が悪いったらもう!

 

 

──そりゃあ、お二人ともソヴィエト共産党の関係者みたいだから、無神論(アテイズン)なんでしょうけど。それは仕方ないけど。

──だからって、修道女の格好をしてる私の前で。わざわざ大聖堂の中で、煙草なんて、吸わなくても良いのに。

 

 

 なんて、少しだけ。少しだけ、むかっとして。床を掃く手、休めて。そんな二人を避難がましく見やれば。

 

 

「おや、掃除はもうお仕舞いかな、修道女(シストラ)アンナ?」

「あっ────は、はい」

 

 

 目が合う。猫のような黄金色の右瞳と、青色の左瞳の男性と。狼のような赫い瞳の彼、煩わしげに瞼を閉じていたから。

 

 

「では、丁度良い。是非、この大聖堂の成り立ちについて拝聴したいのだが」

「な、成り立ち……ですか?」

 

 

 にこりと、機械のように正確に。予め用意していたかのように、機械のように精密に。私に微笑み掛けたジュガシヴィリさん。

 それは確かに人のような笑顔だったけれど。やっぱり、有り得ないものが笑ったようで。さながら、鮫が笑ったような笑顔だった。

 

 

「えっと、この聖ワシリィ大聖堂は、十七世紀の始めにイヴァン四世閣下……通称《イヴァン雷帝》閣下がカザン・ハン国との戦争の勝利を記念して建立された寺院です。以来、モスクワのロシア正教の総本山として────」

「ふむ、良く勉強しているね。それにしても、イヴァン雷帝か。ああ、それは良い。彼は、彼の行いは実に好ましい。君は、彼については勉強したかね?」

 

 

 この寺院の手伝いをするようになって、勉強した歴史を語る。それを誉められたのは、素直に嬉しいけど。

 《イヴァン雷帝(グローズヌイ・イヴァン)》。ロシア史上最大最悪の暴君。《雷のように恐ろしいイヴァン皇帝》。正直、良い印象なんて全く無い皇帝陛下だけれど。

 

 

「聞かせてほしい。君には、彼は殺人者か? それとも────他の何か、感想を抱くのか、ね」

 

 

 その名前を聞いた瞬間、機械のようだったジュガシヴィリさんが、少しだけ嬉しそうに見えた。僅かに、本当に、僅かにだけど。子供みたいに、瞳を輝かせて。

 私、口ごもってしまう。だって、その通りだから。その人となり、それ以外になんて。

 

 

「────下らん。何がイヴァン雷帝だ、自国民を徒に殺すことしか出来なかったただの暗君だろう。貴様の悪趣味は今に始まったことでもないが、やはり相容れぬと分かった」

 

 

 代わりに口を開いたのは、ハヤトさん。渋い顔のまま、カツンと窓枠に勢い良く煙管を打ち付けて、灰を捨てながら。

 

 

「もう用事は済んだのだろう、帰るぞ仔兎(ザイシャ)。この男に付き合ってやる必要はない、時間はもっと、有意義に使え」

「え、あ、あの」

 

 

 そのまま煙管を懐に仕舞って。狼の毛皮の外套(ドゥブリョンカ)、翻らせて。音も立てずに歩み寄り、私の肩、抱いて。

 

 

「おや、手厳しいね。では、君は一体、どんな名君が好きなのかな?」

 

 

 それを受けて、笑顔のまま。パイプから濃密な紫煙を燻らせるジュガシヴィリさん、ハヤトさんに問い直して。

 

 

「決まってる。俺の大将は────(イサミ)さん一人だけだ。後にも、先にもな」

 

 

 吐き捨てるように、そう、口にして。大聖堂の扉、開いて。黒い雪の降るモスクワ市街、凍り付くような大気が皮膚に、肺に、忍び寄ってくる黒い町に。

 傍らで本当に立って待っていた、ラヴレンチー・パヴローヴィチ・ベリヤと呼ばれた昆虫のような彼、その視線を私から遮るように歩いて。

 

 

「では、また逢おう。修道女(シストラ)アンナ、ハヤト君。次は何か、土産でも持ってくるよ」

 

 

 最後に、そんなジュガシヴィリさんの声を聞いて、異色の双眸の視線を感じて。同時に嘶いたハヤトさんの双輪の蒸気自動車(ガーニー)の排気音に、全ての音が掻き消されたのだった。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 降り積もった黒い雪の道に轍のみを残し、重低音の車輪の音が曲がり角に消える。後には、どこかで唸るような機関の音が低く断続的に、くぐもった太鼓の単調な連打のように響くのみ。

 それを気にも留めず、イオセブ・ジュガシヴィリはモスクワ市街に立ち尽くす。この氷点下が平温の寒国で、外套を羽織ることなく、ただ、スーツに襟巻のみと言う軽装で。それでも、僅かたりとも震えず。

 

 

「あるじ、我があるじ。蒸気自動車(ガーニー)の機関は暖まっております」

 

 

 その男に、雪避けの傘を指しかけていた矮躯の男。丸レンズの色眼鏡を掛けた禿げ上がった頭の、背骨の曲がった昆虫のような男、ラヴレンチー・ベリヤ。

 その言葉にも、彼は何ら興味を示さない。ただ、去っていった二人の方を向いたままで。

 

 

「構わん────今の私は、機嫌が良い。拝謁を許すぞ」

 

 

 悠然と、傲然と。『不幸の神よ、悪魔(チェルノボグ)よ、消えてしまえ』とばかりに。誰に言うでもなく、そんな言葉を呟いた。

 

 

『────────────』

 

 

 瞬間、大気が腐る。吸い込めば肺腑が腐るような、絡み付くように濃密な殺意に満ちた猛毒の大気が周囲に満ちる。

 音はない。消え去った。有るのはただ、復讐に息巻くような。或いは死の恐怖に恐れ戦く呼吸を思わせる、鋼の駆動音のみ。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)展開──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)構築──

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)顕現──

 

 

 そして、それは来る。『深紅よ、星よ、消えてくれ』と怯えながら。

 

 

 黒い塊が蠢いている。まるで、蛆虫が蠕動するかのように。黒い塊が爆ぜている。まるで、原形生物(アメーバ)が流動するように。

 黒い雪と、黒い雲。その塊。酷く戯画化された人間のような、異様に長い腕と脚の、数十フィートはあろうかと言う現実離れした大きさの……でも、確かにそこに在る、悪意の塊。首筋にギリギリと、錆び付いた音を立てて回る、発条螺旋(ゼンマイネジ)を備えた────殺意の実存。

 

 

──数式領域(クラッキング・フィールド)の維持を開始。しかし、我が領域に時計はない──

 

 

『────────』

 

 

──さあ、願いを果たす時だ。我が救済を受け入れたものよ──

 

 

 目の前の、ただ一人。その男に、怯えながら。

 

 

『────────!』

 

 

──踊れ、踊れ、その魂が朽ち果てるまで死の舞踊(ベレツカ)を。我が救済を受け入れた玩具(もの)よ──

 

 

 虚空に燃え上がる、深紅の瞳が二つ────

 

 

「いい。下がっていろ、ベリヤ」

「いいえ、ジュガシヴィリ様。あるじのお手を煩わせずとも、《凍える悪魔(イタクァ)》程度、このベリヤめで十分でございます」

 

 

 身構えたのは、傘を持つ彼のみ。色眼鏡の奥の瞳、俄に。これから存分に振るえる嗜虐に、ギラつかせて。

 空いている左手を、ぬるりと。卑猥さすら滲ませる手つきで、毛皮の外套の内側、懐に差し込んでいた。

 

 

「二度も同じことを言わせるなよ、ベリヤ────()()()()()()()()()?」

 

 

 その刹那、大気が潰れる。腐り果て、凍り付いた大気が。怪物に支配されていた空間が、何の抵抗すら見せずに、ぐしゃりと。

 

 

────数式領域(クラッキング・フィールド)集束────

 

──全く、やりづらいな、貴様は。ああ、本当に──

 

──私の救済を拒んだ、ただ一人の男よ──

 

──イオセブ・ジュガシヴィリ、《紅鉄の星(マグニートー)》よ──

 

 

 塗り潰し返される。イオセブ・ジュガシヴィリの差し出した右手。虚空を掴むように開かれた、何の変哲もない右手に。

 彼を称える世界へと。黒い雪、黒い雲、一瞬で蒸発して。黄昏を思わせる、深紅の世界へと────

 

 

「差し出がましい真似を────申し訳ございません」

 

 

 果たして、瞬時に引き下がったベリヤ。彼の後方に。巻き込まれぬだけの距離を、取って。

 色眼鏡の奥の瞳に、今度は、哀れみの色を湛えて。目の前の、黒い怪物を眺めた。

 

 

「────さて」

『────────!』

 

 

 一歩、彼が前に出る。《右手》を差し出したまま。それに合わせて、一歩、怪物が後ろに下がる。

 

 

「どうした、怪物(マトリョーシカ)? 私の前に立ったのだろう? 貴様の、貴様らの願い通りに。私に復讐するために、地獄から舞い戻ったのだろう? ラスプーチンの玩具にまで成り下がって────」

『────────────────』

 

 

 止まらない彼の一歩、やはり止まらない怪物の一歩。距離は、一歩たりとも近づかない。しかし、嗚呼、しかし。勝敗は、既に決している。

 

 

「どうした、玩具────卑しくも《凍える悪魔(イタクァ)》の名を冠するなら、人間を狂わせて見せろ。人の世の営みを嘲笑って見せろ」

 

 

 嘲笑う声は、高らかに。哄笑は、深紅の世界を揺らして。

 その《右手》────握り締めるように。

 

 

「所詮。《借り物の力》等は、その程度だと言うことだ、塵芥────」

『ギャ────────!?』

 

 

 ミシリ、と。怪物の動きが止まる。見えない力に、巨大な掌に握りしめられたかのように。暗黒の星の重力に絡め取られた、光のように。

 全身を軋ませて。あらゆる部位に、ヒビ割れを走らせながら。あらゆる部位を、灼熱に燃え上がらせながら。

 

 

「貴様には、もはや、シベリアすら生温い────」

『アア、アア────────!』

 

 

 虚空に燃え上がる、深紅の瞳二つ────絶望に染めながら。

 

 

「────────────失せろ、再び。この世から」

 

 

 握り潰される。ぐしゃりと、本当に呆気なく。一点に収束する、暗黒星のように。それで、全ては終わり。

 後に残ったのは、掌のサイズにまで圧縮された些細な金属塊のみ。それが、石畳に落ちて────踏み潰される。イオセブ・ジュガシヴィリの革靴に。

 

 

「…………では、戻るとしようか、ベリヤ。あまり仕事を疎かにしていては、モロトフの小言を貰ってしまうからね」

「はっ! 蒸気自動車(ガーニー)はいつでも出せます」

 

 

 その足が躙った後には、黒い染みだけしか残らず。蒸気自動車の機関音が消えた後、直ぐに、黒い雪に覆い隠されて。

 

 

 跡形も残さず、消え去った。

 

 

 

 

………………

…………

……

 

 

 

 

 ハヤトさんの蒸気二輪自動車で寮の前に戻ってきた時、私は再び、溜め息を溢す。二度目とはいえ、まだまだ、慣れないから。

 

 

──不安定だから、仕方ないとは分かってるんだけど。その、男の人に、抱き付く、とか。そういうの、うん…………慣れない、から。やっぱり。

 

 

 火照った頬に、この時ばかりはモスクワの冷たい空気がありがたく感じる。早く、早く、冷ましてほしい。ばれてしまう前に。

 

 

「さて、俺の役目もこれで終わりだな。これが本当の送り狼、か。全く、笑えん話だ」

「えっ、あ、はい…………ごめんなさい」

 

 

 そんな私の背後で、そんな風に。煙管を吹かしながら、自嘲するハヤトさん。

 

 

「…………ごめんなさい」

「……………………」

 

 

──『役目』。分かってるんだけど、うん、やっぱり……お仕事の一環、なのよね。ハヤトさんにとっては。うん、そうよね。

──うん。

 

 

「……ではな。また来週、逢おう」

「あの、でも────」

 

 

 あまりに申し訳なくて。断ろうと、開いた唇────そこに、彼の右手の人差指、当てられて。黙らせられて。

 

 

「どうせ暇な身だ。軍務に追われるだけの、な。それなら、お前のように見目良い女といる方が楽しい。お前は身の安全を、俺は目の保養を得られるわけだ。一挙両得というやつだな」

「────────」

 

 

──まるで、口説かれるような。そんな経験、ないけど。たぶん、こんな感じなのかな、とか。

──心臓、ばくばく、ばくばく。うあ、熱い。耳まで、燃えるみたい!

 

 

 多分、気づかれているとは思うのだけれど。ハヤトさん、僅かに微笑んだだけで。三白眼の赫い瞳、整った極東風の顔立ち、真っ直ぐに私を見詰めていて。

 顔を伏せたくなるけど、それもできない。人差指だけで、身体中の動き、支配されてるみたいに。

 

 

「…………そうだな、良いことを教えてやろう。呼吸を止めず、動きを止めず、姿勢を真っ直ぐに保ち、考え続ける。それがソヴィエトの近衛式格闘術『システマ』の基礎だ」

「────えっ?」

「覚えていて損はない。特に、お前のように危なっかしい奴はな」

 

 

 だから、何の脈絡もなく語られた言葉。結構、軍事機密なんじゃないかな、と思う台詞。それに、意識を奪われて。

 

 

「ではな、仔兎(ザイシャ)

 

 

 最後に、子供みたいに頭を撫でられて。髪、密かに自慢の、私の銀色の髪、武骨な手指で梳いて。再び蒸気二輪自動車に跨がった彼は、双輪の騎士は、鉄馬の嘶きと共に去っていった。

 

 

「……………………バッグ、また忘れちゃった」

 

 

 掌の暖かさだけを、残して。

 

 

 

 

……………………

…………

……

 

 

 

 

 その姿が見えなくなり、漸く、安堵したような息を彼は吐いた。万感の思いを込めた白い息は、直ぐに、後方に流れて消えていく。

 あの時、思い出したもの。見上げる瞳。遠い昔に捨ててきたはずの、思いを。故郷の片田舎、その道場で。あんな風に、見詰めてきた────

 

 

『────くすくす。悪い人、悪い人ね、ハヤト』

『────くすくす。ハヤト、悪い人、悪い人ね』

 

 

 瞬間、冷や水を浴びせかけられたように思考が冷たさを取り戻す。微かな笑い声だった。しかし、充分すぎるくらいの嘲りに満ちた、二人の女の笑い声だった。

 

 

『あんなに期待を持たせちゃって、悪い狼ね』

『悪い狼ね、あんなに期待を持たせちゃって』

「────黙れ」

 

 

 一言、低く恫喝を。視線、真っ直ぐに前を向いたまま。取り合う必要は無い、取り合うだけ損をすると、知っているからこそ。

 

 

『あら、酷いわ。あの極東の雪の中から、貴方達の血に染まった赤い雪の中から引き上げてあげたのは私達なのに』

『ええ、酷いわ。赤い雪の中で死に逝く貴方と、赤い雪の中で朽ちていく貴方を出会わせてあげたのは私達なのに』

 

 

 耳障りな嘲笑と、両方の視界の端で艶かしく身をくねらせ続ける────

 

 

『『本当に、貴方達は悪い人狼だわ────ハヤト、ヌギルトゥル』』

「黙れ────イスタシャ、リサリア。忌々しい《大いなる渦(ルー=クトゥ)の猫》どもめ」

 

 

 二柱の、猫の女神────無駄と知りつつも、振り払うように速度を速めた。


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