銀雪のアイラ ~What a Ernest Prayer~ 作:ドラケン
リリ、リリ、と。機関式の目覚まし時計がけたたましい音を立てている。大量生産品らしく、安っぽい鐘を打ち鳴らす鎚の音色。それを止めて、私はむくりと寝台から身を起こす。
「……ふわ……うゅう、あふ」
はしたないとは分かっているけど、欠伸を一つ。いいえ、二つ、三つ。白い息、眠気と一緒にたくさん吐いて。目覚まし時計を止めた後、目を擦った左手をそのまま下ろして、暖房機関を起動。その上に、昨夜から用意していた薬缶を置いて、眠気の残る頭を回して窓を覗く。
──午前六時。安息日の。窓の外は、もう真っ黒。夜半には降り始めた《
──不吉なものを思う。邪なものを思う。まるで貪欲な悪魔が、『誰一人さえも逃がさない』とでも言うかのような。
ああ、視界の端の
くるくると、するすると。床を滑るように、
『しんぱいしないで。アンナ、アナスタシア』
そして、背後に立つ、白い左腕の鋼。影、確かな存在感を持っていて。
『ぼくが、きみを、まもるから』
鋼の鎧に身を包む、優しい彼。その姿を見なくても分かる、彼の強い《左手》に守られて。幻の
その時、ピイイ、と薬缶が湯気を吹きながら音を立てる。その音色に、低血圧故に微睡んでいた私は、現実に引き戻されて。
「……コーヒー、飲みたいなぁ」
誰に言うでもなく、譫言のように、そんな事を呟いた。
………………
…………
……
朝食を終えて外出着を着て、私は鞄を肩に掛ける。中には修道服と携帯型篆刻写真機、アルバム。あとは、ちょっとした裁縫道具とか化粧品、救急用品。そんな物が詰まった、いつもは碩学院の教書が入っている、お気に入りの。
「大丈夫~? 忘れ物はない~? ハンカチーフは持った~?」
そんな声をリュダに掛けられるのも、もう慣れっこ。ええ、慣れっこですとも。子供扱いして、失礼なリュダ。
「……気を付けてね、アーニャ。また先週みたいなことにならないように」
でも、そこは本気で。本心から、心配した顔で。口調は変わらないけど、これは、怖い時のリュダ。怖いけど、変わらず優しいリュダ。
「大丈夫です。じゃあ、リュダ」
──だから、心配させたくなくて。安心させたくて。私は、精一杯、元気に笑って。手を振りながら、扉を開いて駆け出した。
「行ってきま──っはぷ?!」
瞬間、何かにぶつかった。リュダの方を向いていたから見えないけれど、堅いものに。まるで、大きな木にでもぶつかったように。
でも、痛くはなくて。代わりに、左右から伸びたものに抱きすくめられたようになって。
──紫煙の香気。
──知ってる、私。この香りを纏う人を、一人だけ。たった、一人だけ。
「ちょっと、どうしたのよアーニャ────」
送り出してくれたリュダ、怪訝な顔をしていて。でも直ぐにそれは、強張って。
──そこに在るのは、敵意。激しく燃え盛る炎のような、そんな。
──駄目、やめて。リュダ、そんな目をしないで。
「……感心しないな。前を見ずに歩くのは、あまり」
「え────あ」
頭の上から落ちてきた、低く、痺れるようにお腹の底に響く声。そんな声に、意識と目線が上に向けば。
「また、
「あ────え」
黒い雪の降り続くモスクワで、黒い衣装の青年と出逢う。青年は、こびり着いた紫煙の香りがした。
交錯する、三白眼の赫い瞳の視線。煙管を噴かす黒髪の、精悍で端整な顔立ちの、その男性。極東の民族衣装であるキモノと、黒い狼の
「は────ハヤト、さん!?」
呆れたように、金属板の嵌められた襟巻きを口許に引き上げた、ハヤトさんが居て。その腕の中に、すっぽり。私、収まっていて。
心臓、ばくばく。心拍、一気に高まって。
「ふむ……積極的な女は嫌いじゃないが、出会い頭では少し風情に欠けるな」
「ひゃ、えぁ、ふぇ?!」
口角、釣り上げるように。皮肉的な笑顔で、ハヤトさんは私の顎に右手を添える。上向かされたまま固定されたその姿勢、まるでそう、オペラの一幕みたいに。
これから────場面が暗転して翌朝になるような。前にミラと見に行って赤面してしまった、意味深なシーンみたいに。
「────っと」
その瞬間、ハヤトさんは首を捻って。私の顎に触れていた右手、いつの間にかその頭が在った場所に動いていて。
「……危ないな、刺さったらどうする」
本当に、いつの間にか。四本歯のフォークを、掴んでいて。
「刺す気で投げたのよ、このスケコマシ! 赤衛軍大佐ならなんでも出来るなんて思わないことね!」
「初対面の時から、相も変わらず失礼な娘だ。言っておくが、極東男児の沽券に懸けて力や権力で女を手籠めにしたことはない。すべて合意の上だ」
「知ったこっちゃないわよ!」
まるで、投球を終えた野球の投手みたいな姿勢で、息巻いているリュダが居て。怖い顔で、本気で怒ってる顔で。
でも、ハヤトさんは、全く素知らぬ、何処吹く風と言った具合で。
「さて、このままでは埒が空かんな。本題だ、今日も聖ワシリィ大聖堂に行くのだろう?」
「え、あ、はい、その、約束、ですから」
「よし、良い娘だ。さて、では行くとするか」
「えっ?」
問われて、答えた。それだけで、とんとん拍子に話が進む。当事者の私すら、置き去りに。
「ちょっと、アーニャから離れなさいよ!」
それに食って掛かったリュダ、だけど、だけど。既に黒い雪の降るモスクワ市街に出ていた私とハヤトさんを目の前に、立ち止まる。、
リュダは、安息日は────《
「────アーニャ!」
本気で、心配した顔で。本気で、私の事を案じてくれている顔で。リュダが、私の名前を叫ぶ。
「だ、大丈夫だから、リュダ!」
だから、本気で叫び返す。だって、ハヤトさんだもの。大丈夫、この人は、大丈夫だから。リュダにも、それを分かって欲しくて。
「────大丈夫」
でも、そのくらいしか口に出せない。自分の口下手さが、嫌になる。だから、精一杯の笑顔、向けて。リュダに、微笑みかけて。
「…………うん」
その声を聞いた、気がして。でももう、リュダの姿、閉ざされた扉に見えなくて。代わりに、滲み出るような黒色。煙管を噴かす黒い男の人の、姿。
「乗れ。送っていく────モスクワには、獣が多いからな」
大型の二つの車輪の
………………
…………
……
グルル、と唸りを上げる
その動きが止まる、そんな事が、耐えきれないくらい切ない。それくらい、私は。
「……着いたぞ、そろそろ腕の力を緩めてくれると有難い」
「うう、あう、ご、ごめんなさい……」
二輪という不安定さに怯えて、しがみついてしまっていた両腕を、何とか緩める。西側諸国、ロンドンでは二輪車なる物があるとは、ガガーリン君から聞いていたけれど。乗ったのはおろか、見たことすらなかったから。
ふう、と息を吐いて。彼は、双輪蒸気自動車の機関を落とす。最後に一度、断末魔のように嘶いて、二輪車は完全に沈黙した。
「あの、ありがとうございます。わざわざ、送っていただいてしまって」
「気にする必要はない。わざわざ、危険な安息日に外を出歩いているような女性を、しかも部下の妹を放っておくわけにもいかない」
「うう……」
──また、怒られた。分かってはいるけど、うん、でも、私が一度約束したことだもの。
──だから、私の勝手で止めるわけにはいかないから。
「それに、先に言った通りモスクワには────獣が多いからな」
頭を上げれば、懐から取り出した煙管、噴かしながら。頭の先に、冷ややかな気配を感じる。それは、何故?
簡単だ、ハヤトさんの睨み付けている先に、その人は居た。前と変わらず、私に死の印象を叩き付けながら。
「やあ────
──覚えている。一週間前、出会った人。一目で最上級のものと分かるスーツを着こなす、鋼鉄のような笑顔の人。背の高い、アジア系の顔立ちの人。薄い灰色の髪の、髭を蓄えた、猫のような黄金色の右瞳の。
──忘れもしない、その人。怖い人、本当に、本当に、怖い人。今度は、昆虫のような色眼鏡と禿げ上がった頭の男性、連れて。
「イオセブ・ジュガシヴィリ────」
ハヤトさんが、苦虫でも噛み潰したようにその名前を口走る。黒塗りの装甲車から降りたばかりの、その人の名前を。まるで、長年の敵でも目の当たりにしたように。
「無礼な────黄色い猿風情が、この御方を何方と心得るか!」
雪避けの傘を指しかけながら脇に控えていた、生理的な嫌悪感を呼び起こす男が、背の低く背骨の曲がった彼が癇癪を起こしてがなりたてた。でも、驚いたのは、ハヤトさんの影に隠れたのは私くらい。
「黙れ、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ。胡麻擂り男め。貴様の言葉など誰も望んではいない、俺も、そいつも、この娘もな」
「黙っていろ、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ。ハヤト君の言葉は真実だ。流石は我が友だ、君以上に私を理解できる存在はモロトシヴィリくらいしかいないと、今、再び実感したよ」
ハヤトさんも、ジュガシヴィリさんも、悠然と。変わらぬままで。見詰め合ったままで。
「ハハッ────それがあなたさまの望みであれば」
明確に小馬鹿にされても尚、慇懃無礼なまでに、へりくだる禿げ上がった彼。その眼差しが、ぎらつく瞳が、私を捉える。
そして、ニタリと。ひどく残虐で好色な笑みが、昆虫のような瞳が、ジュガシヴィリさんにだけは見えないように、白く濁る息と共に漏らされて。
──それだけで、寒気が。女としての本能が、彼の危険さを叫ぶよう。
──駄目、この人は駄目。きっと、生まれて初めて。私は、初対面の人を嫌った。
「さて────済まないね、
「い────いえ、そんなことは、ありません」
「
にこりと、予め用意していたかのように寸分の狂いもなく柔和な笑顔。機械のように正確に、機械のように精密に。鋼鉄のように、人間味なく。
それは、確かに人間のようではあったけれど。工業機関のように、作り物めいた笑顔で。
「さて、では、あまり馴染みはないが。参詣と洒落込むとしよう。ここで待っていろ、ベリヤ。何、一時間も掛けはしない」
「ハハッ! 承知いたしました!」
直立不動で、答えた昆虫のような彼。このモスクワの屋外で一時間なんて、そんな、自殺志願者じゃあるまいに。それに見向きもせず、ジュガシヴィリさんは歩き出す。コツリ、コツリと、石畳に革靴の音を鳴らして。
この世界の全てを踏みつけるように。それは、神や、それに連なるものすらも。
「さぁ、行こうか。
何もかも、押し潰す。鋼鉄にて形作られた、紅く煮え滾る破滅の星のようで。
「────一秒たりとも、待ってはくれないのだから」
私と、ハヤトさんはただ、誘われるままに。聖ワシリィ大聖堂に足を向けたのだった。