カンピオーネ!~智慧の王~   作:土ノ子

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アナザー・ビギンズ ④ 初恋の貴女に

駆ける、一直線に田舎道を駆け抜けていく。

 

やがて道のりは急な傾斜に造成された山道に達するが、お構いなしに三弾飛ばしで駆け上がる。祖母の心配りにより腹が満ちた恩恵か、身体はやけに軽かった。気力も充実している。仮初の錯覚だったとしても、今ならばきっとどうにもならないことでも何とか出来る、そんな気がしていた。

 

そのままハイペースで道のりの全てを駆け抜け、やがて目的地であるあの滝壺、この騒動が始まった場所へと辿りついた。

 

「…………」

 

はぁ、はぁ…とそのまましばし荒くなった息を整えながら、周囲を見渡す。どう動くか、の段になって迷わずにここまでやって来たが、将悟にもはっきりとした手がかりがあったわけではない。覚醒する直前に見たあの夢の情景、滝壺の淵にて待つ乙女の姿を頼りに来ただけだ。ただの夢と言われればそれまで、確証なんてなにもない。だが確信はあった。

 

彼女はきっと、ここにいると。

 

滝壺に近寄ると、気付く。一昨日に来た時には気付かなかった気配、神々との邂逅で開眼した無色無形の“力”を知覚する感覚が神聖で清浄な気配を捕える。将悟を浚った大鷲も潜ったあの“門”にもあったこの世ならざる場所の空気。ここは周囲よりも少しだけその気配が強いようだ。

 

その感覚に従って、より清浄な空気が強い場所を探してしばらくの間周囲を歩き回る。その結果わかったことは滝壺に近づく程清浄な気配は濃くなり、逆に遠ざかると薄くなるようだ。

 

つまり…。

 

得心がいって頷くと、迷わずに柵を超えて滝壺に近づいていく。そのまま服の端が濡れるのにも構わず滝の裏をくぐり、先日祖父と一緒に潜った例の小洞窟へ身を潜り込ませた。あの時と違って自前の光源は無いが、代わりに陽光が水面で反射して洞窟の奥に差し込み、奥の壁にゆらゆらと揺れる影法師を投影する幻想的な光景を作り上げている。

 

薄暗い闇に包まれているが、視界に不自由があるほどではない。そしてなにより例の清浄な気配が一際濃かった。己はきっとここに呼ばれたのだ、と直感する。

 

「……おい、女神様。聞こえてるか?」

 

慎重に、洞窟に籠る静けさを憚るように一人声をかける。

 

「ここで俺が『祭壇』とやらに触れた時、トートにあれを寄越せと言われた時、ヘファイストスに呪いを食らった時―――助けたり、警告してくれたのは、あんたなんだろう? 色々助けられておいてなんだけど、今はもっとあんたの助けが欲しいんだ。だからここにいるなら頼む、応えてくれ」

 

普段通りの声音に、精一杯の意思を込めて懇願する。懇願…そう、懇願だ。あの神を名乗る連中に下げる頭などないが、何故か女神=白き乙女になら素直に頭を下げられる。何故だろう、と不思議に思いながらしばしの間反応を待つが、女神からの(いら)えは無い。

 

もしや見当違いだったかと落胆しかけたところで、唐突に洞窟の奥にある小さな泉に“力”が凝った。

 

「!?」

 

驚きながらも期待していた事態に、思わず体に力が入る。緊張を漲らせながら凝っていく力の塊に視線を向けるとやがて弾け、光となる。瞑った瞼の裏から光が差し、少ししてから目を開けるとそこには懐かしささえ感じられる白き乙女が小さな泉の上に浮遊していた。そう、半透明の身体で幽霊のように浮遊しながら、愛おしげに微笑んでいた。

 

幼き頃に遭ったそのままの姿で、懐かしき白き乙女がそこにいた。凄艶な美貌は変わらないが、どこか慕わしさと人間臭さが増している。相変わらずの大陸風の衣装はさながら仙女か天女を思い起こし、その髪は絹糸のように細く美しい純白。ただ両の双眸の動向が縦に裂けていることに将悟は気付いた、まるで蛇のような切れ長で怜悧な目だった。

 

「許せ、いとし子よ。あの下郎が汝の心臓に伏せた“目”を騙すのにしばしかかり、遅くなってしまった」

 

果ての無い慈愛を宿した視線が将悟を優しく撫でる。そしてやはり監視の一つも置いていたかとあの偏屈な鍛冶神に向けて吐き捨てる。むざむざ将悟の手に『祭壇』を渡したまま捨ておくまいとは思っていたがやはり手は打っていたようだ。

 

「彼奴め、弱り切った妾ではこの程度の“目”を仕込むだけで十分と踏んだのであろうが…いとし子の“内”に潜んだ妾を見抜けなんだためにこうして隙を晒したのは不手際よな。あの下郎の足元を掬わぬ理由もない、自業自得というものよ」

 

くつくつと人の悪い笑みを漏らす。ヘファイストスに一杯食わせたのが愉快なのだろう。

 

「そして我が啓示からよくぞこの場所に辿りついた。弱り切り、魂魄のみと成り果てた妾ではかつての寝所であったこの(うろ)でしかこうして仮初の肉を得られぬのだ。今となっては我が巫女の(すえ)たるお主の内に潜む程度の力しか妾には残されていない。斯様に落魄した妾なれど、いとし子が助力を乞うならば無論、力を貸そう」

 

手柄を上げた部下を称えるような、良い点数を取った息子を褒める母親のような上位者からの慈しみ。彼女が上で、自分が下。普段なら条件反射で噛み付きたくなるはずだが、今は何故か反骨心が育つ予兆すらない。あるいは男は幾つになっても年上のお姉さんには勝てないという世界の真理のせいかもしれない。

 

しかし、やけに白き乙女が将悟に向ける好意の念が強い。己と乙女の関わりなど、子供の頃に一度出会った時くらいのはずだが…。

 

「…久しぶり、と言っても覚えているか? 俺とあんたは大分前に、ここらで遭っているんだが」

「無論、覚えているとも。まるで昨日のことのように覚えている。懐かしきいとし子よ、妾のことは滝壺の女神と呼ぶがいい。この天地(あめつち)豊かなる国に来て得た名だ。真の名は別にあるが、中々に気に入っておる」

 

そう言って白き乙女…もとい、滝壺の女神は親しみを示すように将悟に向けて笑いかけた。

 

「ふふ…もうしばし久闊を叙して語り合いたいところではあるが、お互いにさしてのんびりと出来る時間は残されていまい。断っておくが、女神の位にあるとはいえ妾の力は最早衰え切り、彼奴等に抗えるほどの力は残されておらぬ。お主の心の臓に括られた呪を解くことも叶わぬのだ、いや、解くことは出来ようがその前に胸の鼓動は止まり、冥府へと旅立つこととなろう」

「…そうか。まあ、覚悟はしていたよ」

 

やはりというべきか、この女神でも鍛冶神が遺した呪いの言霊を解く手立てはないらしい。そのことに落胆しつつも意識を切り替える、これで九割九分九厘死が確定したのだとしても目指すべき目的はある、後悔を楽しむのは走り切ってからでいい。

 

そんな心の動きを見抜いたように、滝壺の女神は少し悪戯っぽいな笑みを浮かべ。

 

「だが、あるいは妾が死力を振り絞れば五分五分程度の望みはあるかもしれぬ。我が命と引き換え、となれば妾も心安らかにとはいかぬが、他ならぬいとし子のため。我が命数、くれてやっても良いぞ?」

「―――いや、そっちはいい。代わりに、あの馬鹿二人をぶん殴るのに手を貸して欲しい」

 

即断であった。僅かな迷いも挟まずに、将悟は女神の申し出を退けた。

 

「ほう、良いのか? 恐らくはお主の助命が叶う最後の機会なのだぞ。何故拒むのだ?」

「これまで散々助けてもらって、その上命まで差し出してくれなんて下げる頭は持ってない。本当なら借りを返さなきゃならないのはこっちなんだ。“そうじゃなければ対等(フェア)じゃない”」

「ふふ、ハハハッ! 変わらぬのう、嗚呼、これが三つ子の魂百までという奴か! 中々含蓄ある言葉であることよ! この期に及んで対等というか、女神の妾と、人間のお主が! 愚かよな、愚かに過ぎる。小さき人の子が神の差し伸べた救いの手を取ることは恥でも何でもないのだぞ!?」

 

どこまでも痛快そうな女神の笑い声。責めるように、呆れるように、慈しむように複雑な感情が籠った声音。だが紛れもない称賛がその声には満ちていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。いとし子よ、遠慮はするな。如何なる道筋を辿ろうと月が跨ぐ前に我が生は閉じるのだ。ならばそれまでの道のりを如何に歩むかが肝要。女神たる妾が許す。我が命、存分に使い潰せ。それが彼奴等めへの復仇の一助となれば、尚良いのう!」

 

そのままあっけらかんと自分の生命を差し出してくる。例え命数短きものだろうと、容易く差し出していいものではないだろうに…。困惑さえ覚えるが、それほどの覚悟で渡されたものを受け取らぬことこそ侮辱となるだろう。自らの運命を捧げた滝壺の女神と、捧げられた少年。だがこの時少年は完全に女神に圧倒されていた。

 

せめてもの苦し紛れで軽口を叩く。

 

「……あんた、俺がこう返すのを知ってていまの台詞を言ったろ。意外と性格悪いな」

「いいや、知っていた、とは違うのう。正しくは期待しておった、だ」

 

そう言って女神の威厳にそぐわない茶目っ気にあふれた仕草で微笑みを寄越した。

 

「そしてお主はその期待に応えた。ならばどうして命数短き我が生を惜しむ道理があろうか」

 

叶わない、と悟った将悟は素直に兜を脱いだ。どうにも彼女には勝てる気がしなかった、詰まらないことで一々反抗するよりもおとなしくその助力を乞うのが正解だろうと。

 

「あんた、本当に昔話で語られていた悪い大蛇なのか? あんたも、あの馬鹿二人も同じ神様なのに……あいつらの方がずっとおかしな感じがする。それなのにあんたからは、おかしな感じがしない。すごく弱っているのは確かだけど、あんたなら素直に神様だって認められる。なんか凄く…懐かしいっていうか、慕わしい感じがする」

「―――いいや、その邪なる蛇は確かに妾である。かつてこの地で悪行と放埓を尽くしたまつろわぬ女神、その()()()()()が妾なのだ」

「成れの果て…?」

 

然様、と静かに頷く女神の面持ちは沈痛だった。これから語るのは彼女にとっても思い出したくない過去なのかもしれない。

 

「神とは神話の中にあるのが道理。だが時折その理に逆らい、肉の身を得て生の領域を彷徨い歩くまつろわぬ神が誕生することがある。そしてまつろわぬ神は誕生する際に必然として生まれる“歪み”に巻き込まれ、世に災厄を振りまく禍つ神となるのだ。妾もまた、かつて大陸にて顕現し、放浪を重ねるうちにこの国に流れ着いたまつろわぬ女神であった」

 

まつろわぬ神について語る彼女に思わずそんなものかと頷きながら傾聴する。眼前の女神はさておき、智慧の神と鍛冶神はどう考えてもまっとうな神様の類とは思えない。奴らの狂気すら感じさせる歪みは実感として将悟の中に残っており、理屈など無用の説得力があった。

 

「この地に流れ着いてより幾年の月日が経ち、妾は気紛れに生と死の恵みを振りまき、畏れられていた。特に妾は元を辿れば人間の男子と縁を結び、その精気を食らう蛇精であった故な。後年、縁を結んだ夫に福と幸いの運を与え、妻として支える善神の相も得たのだが、まつろわぬ神として在る以上やはり禍つ神の側面が強く表れてしまうのだ」

 

粛々と己の来歴を語る女神は意図して感情を抑えているように見えた。

 

「そんな時であった。一人の男が世に稀なる神具を携え、希臘(ギリシャ)の鍛冶神を名乗るまつろわぬ神の加護を得て妾を殺めんと企んだ。女神の魂と贄の心臓を食らい、まつろわぬ鋼を産み出す神具、『アキナケスの祭壇』。いまお主が手に持っているソレよ」

「…前から聞きたかったんだが、こいつ剣だろ。なんで『祭壇』なんて呼ばれているんだ?」

「それは…おっと、気になるのならば後でまとめて教えてやろう。だがいまは妾の昔語りが先よ」

 

先を急ぐように女神は続きを口に出し始める。

 

「不意を突かれた妾を、男は『祭壇』で以て斬りつけ、我が神力を奪い取る縁を繋げた。幽世から彼奴の助けがあったとはいえ、見事な手際であった。それから妾は『祭壇』に神力を奪われ続けた。縫い止められるまでに散々に暴れ回ったが鍛冶神の手勢は汲めども尽きぬ大海のごとし。奮戦空しく最後にはこの聖域、妾が寝床とした洞にて縫い止められてしまったのだ」

 

敗北を語る声音には大いに苦渋が含まれていたが、同時に重荷をおろしたようなすっきりとした感情も少しだけ籠っていた。

 

「前置きが長くなったが、本題はここからよな。以来『祭壇』に精気を奪われ続けた妾は少しずつ落魄し、零落していった。まつろわぬ女神だった頃の権威と力が失せていったとも言えるが、同時に少しずつまつろわぬ性が薄れていったとも言える。皮肉な話だが女神の権威と力を失うことでまつろわぬ妾ならざる、本来の妾に近しい在り方が許されるようになったのだ。男子(おのこ)と情を交わし、幸いと福の運を与える善神として、な?」

 

な? と悪戯っぽく見やる視線の先にはもちろん将悟がいた。思わず胸の内で心当たりを探すが、思い当たるのはやはり過去の一件しか思い浮かばない。いやいや、情を交わすってそんな不埒な真似を何時した? 羨ましいぞ俺…もとい、記憶にないぞ。

 

「ふふふ、幼き頃もそうであったがいまも中々可愛らしいのう?」

 

そんな将悟の心の動きを見透かしたように、視線に籠るものが慈愛から微笑ましいものを見る目に変わる。これがまた中々こそばゆい、かといって反抗する気力が湧いてこないあたり中々重傷だった。麗しき女神の美貌、そして言い表せない慕わしさにどんどん深みに嵌まっている自覚を得ながら、滝壺の女神と語り合い続ける。少しでも時間を共有しようと、少しでもこの時間を引き延ばそうと、無意識に。

 

そのまま将悟は思いつくままに女神へ問いかけ続けた、『アキナケスの祭壇』について、神具に囚われた経緯について、鍛冶神と智慧の神らの思惑と所有する権能について長く、長く話し込んだ。

 

女神との対話は千金の価値があった、幾つも提供された情報は次第にまとまり、一つの策という形となって将悟の胸に渦巻き始めたのだ。だがこの策は非情の策、己は当然として女神にも尋常ならざる苦痛を与える、諸刃の剣となるだろう…。

 

女神は常に毅然として将悟と会話を交わしていたが、将悟の霊眼はその衰弱を察していた。月を跨ぐ前に命を落とす、というのは比喩でも何でもない。人間で言えば余命宣告された重病人に比すべき弱りようなのだ。そんな彼女にこれ以上の過酷な仕打ちをしていいのか? 将悟は果断な決断力の持ち主だったが、切り捨てる犠牲にこの女神を含めていいのか、迷っていたのだ。

 

そんな懊悩から逃げるように、苦し紛れに女神へ問いかけを投げる。

 

「…なあ、なんであんたは俺に力を貸してくれるんだ。そんな、残り少ない命まで削って。ヘファイストスの横っ面を張り倒したいってのはあるんだろうけどさ、絶対にそれだけじゃないよな?」

「乙女の秘密は暴くものではないぞ―――と、本来なら叱りつけてやるところだがお主ならまあ、構うまい」

 

とっておきの宝物を明かす楽しみを浮かべた笑顔。お主にだけ特別だぞ、とその笑顔が語る。どこまでも慕わしく、人間臭い女神さまの笑みに思わず将悟の頬も苦笑に歪む。

 

「妾と童であった頃のお主は、この滝壺の淵で一度逢うておる。どうだ、いかほどその出会いについて覚えている?」

「…少しだけ。あんたと話したら、頭を撫でられたことくらいは。詳しい話は覚えてない」

「死の淵を彷徨ったのだ。無理もあるまい」

 

さらりと言い放ったが、若干気になる。何故その晩に将悟が死にかけたことを滝壺の女神は知っているのか。

 

「その時の妾は今よりも少し大地と水の精気が残っていた。つまり、まつろわぬ女神であった頃の歪みがまだ残っていた。そして執念深きは蛇の性、僅かでも命を(なが)らえ、怨敵めに一矢報いんと虎視眈々と機会をうかがっていた。少しの間であれば忌々しき神具の頸木から逃れ、この滝壺の周囲を彷徨うことも出来た」

「…そんなところに、ガキだった頃の俺がやって来たってことは」

「流石に察しが良い。然様(さよう)、本来妾はお主の精気を吸い尽くし、糧とするつもりだったのだ。我が巫女の裔たるお主の精気は妾と格別に相性が良い。喰らえばあと二年程度は生きながらえることが出来た」

 

だが、そうはならなかった。

 

(たわむ)れであった、気まぐれを起こした妾は精気を少しずつ奪いながら幼き頃のお主に問いかけたのだ」

 

これからお前は死ぬのだと、妾に食われて死ぬのだと告げ、“さあお前はどうする”と問うた。抗うか、逃げるか、舌を回して切り抜けるかと幼子に迫ったのだ。

 

「いま思うと心底忌むべき、女神の品位を貶める行いであった。無意識であったが、妾は囚われ続けた長き時の怨毒を小さき人の子を(なぶ)ることで晴らそうとしていたのだろう。偉大なる女神が、世を知らぬ幼き童に向かって!」

 

吐き捨てる女神の顔は本心から忌々しそうに歪んでいた。痛恨、羞恥の感情が強く表に出ていた。笑う時も、愛おしむ時も常に超然としていた女神が見せた、明確な負の感情の発露だった。女神にとってそれほどに忌避すべき過去なのだろう。

 

「だがお主の吐いた答えがまた奮っていてな。寸でのところで妾は恥の上塗りを避けられた」

 

だがここで負の感情は薄まり、代わって慈愛と感謝の念が籠った視線が将悟に向けられる。

 

「お主は言った、死にたくないと。ただ死ぬのは嫌だと、生きなければ死ねないと。()()()()()()()()()()()。そうぽつぽつと、舌の回らぬ子どもが必死になって我が問いかけに応えるさまを見て、妾は自らを省みる機会を得たのだ」

「あ…」

 

女神の語りを聞いて将悟も思い出したことがある。

 

かつての滝壺の女神と出会う直前、将悟は一人の親戚を看取っていた。祖父の弟にあたる老人で、家を継いだ祖父と異なり、都会へ出ていき人並みの生涯を過ごした人間なのだと聞いていた。

 

病名は覚えていないが、余命幾ばくもない重病人だったらしい。本人たっての希望で、幼い頃を過ごした故郷の景色を見るためにここに戻ってきていたのだ。満足に起き上がることも出来ず、一日の大半を伏せっていたが暇を持て余した将悟は度々その老人の前に顔を出した。

 

その老人は将悟を可愛がり、同情の視線を向ける周囲の目に憤り、いつもこう言い聞かせていた。俺は死ぬためにここに来たんじゃないと。俺は最後に見たいものを見るために、生きるためにここに戻ってきたんだと。味もそっけもない病室で生きながらえるよりも自分の望みを叶えるために命を使いたいのだと。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、その老人は言っていた。

 

幼い将悟は子供心にその大意を掴み取り、その老人の教えは人生観の一部となったのだ。

 

「妾もまた選んだのだ。“死”を受け入れたからではない、女神の誇りを貫く“生”を得るためにお主を食らわぬ道を選んだ。以来、滝壺の周囲を彷徨うことも止め、大人しく末期の時を受け入れることにした。『祭壇』の前に来たお主に呼びかけ、その内に潜り込んだのは……ふふ、ちょっとした茶目っ気であった。今わの際くらい、懐かしきお主の生を見取って逝きたかったのだ」

 

女神の声に含まれる感情は後悔。将悟を巻き込んでしまったことへの詫びの念だった。

 

「それがお主を斯様な危機へと陥れた。許せ」

「いいさ、別に」

 

女神の謝意に、将悟が返したのはその一言だけだった。そして、その後ずっと言葉を付け足しも引きもしなかった。だがそれは何も思わなかったからではない、むしろ思うことがあり過ぎたために言葉にならなかったからだった。

 

将悟はきっと、時間を巻き戻してもう一度ここに来るか聞かれたら迷うだろう。頭を抱えて一日中唸るくらいはするかもしれない。命の危機に、厄介で面倒なかまつろわぬ神との邂逅など厄介ごとに他ならない。祖父母のことが無ければ行くという選択肢すら思い浮かばない。

 

()()()()―――そう、それでも将悟はきっとここに来るだろう。

 

迷った後で、彼女と会うために行くだろう。彼女と“また”会えたことを後悔などしていないのだから。将悟はそう、胸の内だけで真情を吐露した。

 

その心の内を読み取ったかのように、女神の視線もまた慈愛とは異なる色合いを帯びた。

 

「―――嗚呼(ああ)、なんと、惜しいことよ」

 

何が惜しいのか、女神もまた胸の内に秘めたまま最後まで明かさなかった。ただ将悟を見る視線に、今までとは異なる熱情が加わった気がした。だがそれ以上を言葉にすることはしなかった。彼も、彼女もまた。

 

形をとる前に消えてしまう、儚く淡い感情の渦。無理に言葉にしてしまえばきっと陳腐で、詰まらないものになってしまうと思ったから。

 

それでも敢えて言うのなら―――きっと、これが赤坂将悟の初恋だったのだろう。そして滝壺の乙女も“人を愛し、結ばれ、夫婦となる”伝承を持った女神だった。二人が互いに向ける思いはきっと“恋”とも“愛”とも言えないけれど、いずれはそう昇華してもおかしくない熱情の萌芽だった。十数年前の邂逅が二人の心に埋めた種がいま芽吹き…そして鍛冶神の呪いによって実を結ぶ前に枯れようとしていた。だがせめて、例え未来に繋がらないとしても大輪の花を咲かせることは出来るはずだ。

 

「ままならぬ、ああ、ままならぬものよ。なればこその現世(うつしよ)、なればこそ人の縁か」

 

―――皮肉な話だ、彼女が死に瀕し、まつろわぬ性が薄れた“今”だからこそ二人の間に絆が生まれたのだから。

 

そう苦笑する滝壺の乙女は遡れば水辺に住処を得た白蛇の精であった。人界へ乙女に化身して顕れ、見初めた男と婚姻を結んで幸運と凶運をもたらし、最後にはその精気を食らって崇り殺してしまう蛇精こそが彼女の所有する最も古い伝承だった。

 

彼女の異類婚姻譚の結末は様々で時には夫となった男から拒絶されて去り、あるいは逃げる夫を執拗に追いかけて凶事をもたらして力ある法力僧に退治されたりすることもあった。類話のバリエーションも非常に豊かで、時代を通じて人々の間で語り継がれた。概ね時代を遡るほど男の胆を抜く、逃げ去る夫への報復として大洪水を起こすなど大地母神の残虐で血を好む性質が強く表れる一方で、逆に近世となってからはそうした不気味な側面は薄れていく。

 

人と、人ならざる者の愛を主題に据えた伝承の改変が行われたのだ。

 

民衆好みのおとぎ話、悪く言えば俗受けする講談として改変された伝承の中で彼女は一途に夫を愛し、献身する善良なる妻として描かれる。それどころか古い時代の彼女が犯した数々の悪事は別の者が行ったことになってすらいる。

 

逆に言えばそれほど民衆に愛され、親しまれた女神だった。彼女は現代でも中華と呼ばれる大地において少なからぬ知名度と人気を誇る蛇女神の一柱なのだ。いや、この日本でさえも一定の知名度を保っている。

 

彼女はそんな人を愛する女神だった。

 

「ふふ…ちと無駄話が過ぎた。本題、彼奴等を一泡吹かせる策でも立てるとしようか」

「そんなものがあるのか?」

「いいや、妾には無い」

 

二人を取り巻く空気を切り替えるように、女神が話題も切り替えた。将悟もそれに乗っかるように期待を込めて問いかけるとあっさりとふざけた答えが返される。

 

「だがお主は持っていそうだ。腹に一物を抱えた目をしておるわ」

「いや、それは…」

 

思わず抗弁しようとした将悟に分かっていると身振りで抑える。

 

「策を思いついたのは確かであろう? しかし妾に重荷を課す故、言い出せなかったというところか。構わぬ、申せ。妾が許す」

「だから俺は別に…」

「―――妾を侮るな、いとし子よ。いやしくも女神たる妾が何故苦痛に負け、安楽なる道に逃げようなど思うか! そう考えることこそが童への侮辱である!!」

 

なおも言い逃れようとした将悟に向けて痛烈とさえ言える語調で詰問する。その威厳はなるほど彼女もまた衰えたりとは言え女神なのだと将悟に痛感させるには十分だった。無用な気遣いをしてしまったことを少し後悔しつつ、大人しく頭を下げて胸の内で形をとりつつあった策を―――否、思い付きを開陳する。この思い付き、策というにはあまりに無謀で、他人任せで、出たとこ勝負すぎるのだ。

 

案の定、その思い付きを聞き終えた女神もまた呆れた表情となった。

 

「なるほど、確かに妾の申しようが誤りであった。これは到底策とは言えぬ、精々博打がいいところよ」

 

などと酷評すらする。

 

「だが、これはこれで妙案かもしれぬ。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて彼奴等には却って思いつかぬだろうし、お主にかけられた呪を潜り抜けることも叶おう」

 

一人で勝手に酷評された挙句に勝手に納得された身としては大変不本意なのだが、彼女は将悟の馬鹿馬鹿しい思い付きに乗る覚悟を決めてしまったようだった。

 

「とはいえ()()()な。穴を埋め、策足らしめるのに最低でも一つ…いや、二つか」

 

思案気な表情をしたと思うと、その瞳孔が縦に裂けた瞳が将悟を射抜く。

 

「ふふ、是非もなし」

 

と、ちろりと真っ赤な舌が唇をすばやく舐めた。獲物を前にした蛇のような仕草に、無意識のうちに将悟が一歩二歩と後ずさる。

 

「これ、逃げるでない」

 

するりと幻惑するように懐に入られ、あっという間に硬い岩肌に押し倒される。とんでもない馬鹿力、おまけに足元は湿って冷たい岩肌。色っぽい気配の欠片もない、強引な押し倒し方に何をすると手足を振り回すが、あっさりと鎮圧された挙句懐をまさぐられ、『アキナケスの祭壇』を強奪される。

 

「言えば渡すわ! 無理やり奪い取るな!」

「細かい男よ。婦女子のささやかな悪戯に一々目くじらを立てるな」

 

ささやか…? 言葉の定義を一度辞書で引きたくなった将悟だが、唐突に手に持った『祭壇』の刃を手首に当てて勢いよく切り裂いた女神に度肝を抜かれる。びちゃびちゃと勢いよく溢れだす鮮血に目を剥き、凶行に走った女神を押さえつけるために強引にでも身体を起こそうとする。

 

「何してやがる、気が狂ったか!?

「愚昧な。これも貴様の企てのために必要な犠牲という奴だ。我が魂を半分に引き裂き、こやつにくれてやろう。だがもう半分は決して渡さぬ、妾の意思と魂を渡す相手はもう既に決まっておるのだからな!」

 

見ると溢れだす鮮血は一滴残らず『祭壇』の刃に吸い込まれていた。見えないブラックホールにでもなったかのように、鮮血が音もなく刃に触れて内部に蓄えられていく。しばらくの間噴き出し続けた鮮血はやがて頃合いであろうと呟いた女神がもう片方の手で傷口をなぞるとピタリと止まった。だが失った血が戻るわけでは当然なく、女神の顔色は最早青白いのを通り越して土気色だった。

 

恐らくは残された寿命を少なからず、神刀に捧げたのだ。苛烈でさえある覚悟を全身から漲らせ、無言のままゆっくりと再び身体を重ねるように覆いかぶさっていく。将悟も黙ったまま暴れることを止め、女神の身体を支えるように両肩に手を置いて動作を助ける。彼女の言う、意思と魂を渡す相手など最早問うまでもないのだから。

 

「それでよい…」

 

力なく呟くと女神は将悟の服をはだけさせて心臓の上から口づけを一度、すると女神から流れ込んでくる“力”の塊があった。祭壇に魂を吸われた女神に残った“力”、その最後の一滴までもが将悟に注ぎ込まれていくことを感じる。

 

「策の成就に必要な二つのものを…即ち妾の“命”と“名”をくれてやろう。必ずやあの鍛冶神めに一泡吹かせよ…ああ、出来るのならば旧き魔導の神たる智慧者にもだ。これ以上なく上手く策が成ればあるいはお主の命も―――。フフ、いかんな。動き出してすらおらぬ企ての是非を語るなどらしくもない」

 

そのまま睦みあうように、愛を語るように耳元へと唇を寄せ、万が一にも余人に聞かれることが無いように、

 

「   」

 

ボソリと静かに一言だけ告げる。

 

「それが妾を顕す真の名だ。白き婦人の意味を持つ。必要になれば呼ぶがいい」

 

そう言って見下ろす女神の視線に籠る感情が少しだけ強まる。名残惜し気ななにか、最期を愛おしむような何かがうっすらと強まり、やがて悪戯っぽい光にとってかわられる。二人の視線が絡まったままその距離が急速に近づき…やがて、ゼロになって合わさった唇と唇がくちゅりと音を立てた。

 

()()()。餞別をくれてやろう、ありがたく思うがいいぞ? なにせ妾の接吻を享けるなど、この数百年誰一人として享受したことのない幸運なのだからな!」

 

流し込まれた女神の唾液が絡まった二人の舌でかき混ぜられるのと合わせるかのように、将悟に向けて莫大な知識が流し込まれていく。二人の企てを成就するために必要な知識が諸々併せて人間の魔術師が言う『教授』の術によって将悟の中に刻み込まれたのだ。

 

最期の一瞬まで高らかに笑い、女神が作り出した仮初の肉体は薄れていく。これが最後なのだ、と唐突に将悟は悟った。弱っていた力を更に半分『祭壇』に注いだ彼女はもう意識を保つことすらできず、こうして触れ合う機会はもう二度と来ない。意志を交わすことすらきっと最後の大一番にしか出来ないだろう。

 

嗚呼(ああ)、と将悟は短く嘆息した。

 

最期の時までもう二度と彼女には会えない。そう痛感した心に寂しさと、それ以上に燃え盛る彼女から受け継いだ意志が宿った。

 

 

 

 




滝壺の女神のイメージはオリエンタルな衣装のアテナ様(大人ver)
伏せた名前は次話で明かす予定ですが、日本でもそれなりに知名度を誇る神格です。
ただし知らない人は本当に知らないだろうと思われる。

正直本文中の説明だけでパッと思いつく人がいるかかなり怪しいのでヒントを置いておきます。

ヒント:メガテンに出演経験あり。

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