カンピオーネ!~智慧の王~   作:土ノ子

33 / 40
アナザー・ビギンズ ③ 陥穽

例えようもない不快感、それが目を覚ました将悟を襲うものだった。身体がバラバラになるような、表と裏がひっくり返るような、何もかもが溶けてゆく快感と己そのものを失うような喪失感。嘔吐しようにも身体が動かず、黙って耐えるしかない。

 

そんな地獄の連続に、変化が現れる。

 

「起きろ、小僧」

 

それはあの智慧の神の声ではなかった。もっと低く、偏屈で、独善的な響きを備えていた。当然、呼びかけられたからと言って動かないものは動かない。ぼんやりと漂う意識を声がした方に向けるのが精一杯だった。

 

「仮初にも神たる儂の命に背くか」

 

自身の声に将悟が反応しないと悟った途端に分かりやすく怒気を露わにする声。微かに顔を動かして視線をやるとそこには醜男(しこお)がいた。蓬髪を振り乱し、顔を煤に塗れ、眼光は職人の偏屈さと執念じみた光を放っている。

 

しかし身だしなみを整えれば素晴らしい美形であろうことが窺える。その肉体は素晴らしく逞しく、力仕事に長年従事してきた男の肉体だ。しかしその片足は折れ曲がっていた、跛行(はこう)…足萎えなのだ。

 

意図せずして霊視が働き、男の素性の片鱗が頭の中に入ってくる。

 

かの男は半身を捥ぎ取られた神、かつて有した強壮さを失いし神。その象徴こそが片足の跛行、武勇の喪失。その執念は『祭壇』に向けられ、かつての己を取り戻す機会をうかがっている…そしてその名は、いまは失われたその名は―――。

 

「よせ」

 

と、とびきり不機嫌な声音が強制的に将悟に流れ込もうとした情報の奔流をストップさせる。

 

「視るな、我が凋落の歴史を。我が汚点を覗き込むつもりならば相応の代償を支払ってもらおう」

 

将悟を見る目は冷たい、それこそ蛇蝎を見るようなというのが相応しい。かろうじて自制したようだが、一歩その鎖から解き放たれれば我を忘れて暴れ狂いそうな…そんな危険な光が宿っていた。尤も視るなと言われても勝手に頭の中に流れ込んでくるものをどうしろと言うのかと反発していると。

 

「貴様は『虚空(アカシャ)の記憶』を覗く霊能の持ち主なのだな。この生と不死の境界は現世よりもそこに近い。考えるだけで自然とその記憶を覗き込んでしまうのだ。故に何も考えるな、探るな、問うな」

 

と、意外と面倒見良く対処法を伝えてくる。若干の意外さを覚えつつも壮年の男を見ると、あちらも将悟を見て何かを考えているようだった。

 

「……そういえば生と不死の境界へ参った人の子はしばしば己を保てず、形を失うのだったか」

 

不便な、とこれまた不機嫌そうにつぶやいた後、壮年の男は手に持った(ハンマー)を掲げると、何事かを呟く。すると何もない場所からメラメラと炎が立ち上り、将悟の身体を包み込んでゆく。咄嗟に悲鳴を上げて暴れようとするが、それだけの余力はない。

 

「我が名はヘファイストス。尤も、かつての名を失い、長き時を漂白する中で得た借り物の名だが。まあ、まんざら無関係な名という訳でもない」

 

容赦なく炎で炙りながらマイペースに自己紹介を続ける男。

 

だが驚くべきことにその炎は熱くなかった。まるで実体のない幻のように将悟の身体を舐めるように揺らめき、触れた箇所がどんどん熱くなってくるが、そこには痛みが伴わない。何とも不思議で神秘的な炎がひとしきり将悟の身体を舐め尽すと、先ほどまで襲っていた不快感は消え去り、身体も動くようになる。

 

あっけにとられた思いで先ほどまで火であぶられていたはずの手のひらを眺める。そのまま身体を起こして周りを見渡すと、そこは洞窟…否、鍛冶場だった。金鎚、金床、たがね、砥石、鑿など各種の鍛冶道具が並んでいる。見上げると空は見えず、ただ尽きない闇と微かな岩肌が見えるのみ。炉からは勢いよく炎が漏れ出し、光源となって周囲を照らしている。

 

なにがあった…と自身の記憶を掘り返すと、すぐに答えは見つかった。トートとの不可思議な邂逅の後、奇妙な大鷲に将悟は攫われ、ある場所に連れていかれたのだ。攫われた場所からそう遠くない、ある深山の山肌まで。

 

そこは一見して普通なようで、将悟が見るとその異様さは一目瞭然だった。例えるならごく普通の森に、全く別の光景が重なっているような…異界という近くて遠い世界を想起させる、奇妙な場所だったのだ。おまけに奇妙に清浄で神聖な空気が流れており、聖域と言う言葉に相応しい神々しさまであった。

 

そして大鷲は将悟ごとその空間を()()()―――そこから先の記憶は無い。察するに不快感に襲われた将悟が気絶したのだろうと思われる。

 

「人の子が、神たる儂に手間を懸けさせるな」

 

如何にも億劫そうな台詞にカチンと来た将悟が反射的に言い返そうとするが、煌々と光る眼光を前に留まる。眼前の男は格で言えばトートよりも数段墜ちると思われるが、その分直接的な手段に出るラインが相当に短いと思われたからだ。

 

ついでに言えば正体不明の焦燥感が表情に渦巻いており、余裕の無さも感じられる。一言で言えば小物っぽいのだ。だがだからこそ危険性はトートよりも高いだろう。

 

「……」

 

皮肉の一つも言い換えそうと思ったのだが、結局は視線に敵意を込めてぶつける程度に収めた。ヘファイストスも反抗的な目つきにフンと鼻息を漏らしつつ、一々やり玉にあげるつもりは無いらしい。

 

「愚かなる人の子に問う。女神は何処(いずこ)に逃れた?」

「……女神?」

「然り。汝が持つ『アキナケスの祭壇』に縫い止められ、死を待つばかりであったはずの白蛇だ。蛇め、精気を食い尽くし、腹を満たした『祭壇』が牙を緩めたのをいいことに、魂だけとなってまんまと逃げだしおった。しかし如何に拘束が緩もうとあれほど弱った蛇では手引きが無ければ抜け出すことなど叶わぬ」

 

女神…突然言われて何の話だ、と問い返したいのはやまやまだが思い至る点は無いではない。幼き頃に遭遇した白き乙女、先ほどからたびたび頭に響く声、トートが言った将悟こそが《鍵》である旨を示す発言…

 

加えて祖父から聞いた昔話も象徴的だ。この鍛冶神の言い分では女神=蛇。即ち、昔話で討たれた大蛇こそが鍛冶神の言う女神であり、宝剣に加護を与えた金山彦神…鍛冶神とはこのヘファイストスのことなのではないか? 必死に頭を回す将悟に霊視の導きが端的にイエスと答え合わせをしてくれる。

 

ならばヘファイストスは単なる善意ではなく、いずれこの宝剣を使う腹積もりがあって大蛇を退治する手助けをしたのだろう。赤坂家の先祖である山師の男は知ってか知らずかまんまとその手伝いをしてしまったというわけだ。

 

「貴様は女神を見ているはずだ。答えよ」

「…知らない。俺は女神なんか見ていない」

 

将悟の中であの白き乙女は幼い頃に遭った行きずりの会話相手であり、女神などというけったいなものではない。そもそもあの乙女にはトートのような偉大さ、力感と呼べるものは無かった。どこか生に倦み疲れ、その癖幼い子供のために心を砕くような…そんなどこにでもいるような、子供の頃の憧れのお姉さんだ。

 

その意を込めて鍛冶神を見返すと、心底まで覗き込むような視線でひとしきり将悟を見た後、頷いた。

 

「偽りは申しておらぬか」

 

どうやら信じたようだ。だが、だからこそと言うべきか、ヘファイストスの興味は完全に将悟から消えたようだった。

 

「ではもう用は無い。神具を置いて何処へなりとも失せるがいい」

 

勝手に攫ってきたくせにそれか、と身勝手すぎる発言に震える拳を何とか抑える。ぶん殴りたいのは山々だが、考えもなく反抗しても腕の一振りで消し飛ばされて終わりだ。それよりも建設的なことを考えた方がまだましだ。

 

「どうすれば元の場所に帰れる?」

「生者の世界とこの生と不死の境界を繋ぐ門がある。貴様も通ったそこをくぐれば戻れよう。尤も、辿り着ければだが」

「そこは何処だ」

「貴様に教える理由は無い」

 

一応質問に答えはくれるものの、億劫そうでまともに応対する気がないのは一目で見て取れる。ならばとヘファイストスが言った霊能とやらを駆使するため、今自分が知りたい事柄について考えると……。

 

「ッ!?」

「ああ、貴様の霊眼は視えすぎるのだな。慣れれば必要な分だけ視られるのだろうが今の貴様では無理だろう」

 

頭が割れるような頭痛が走り、ヘファイストスが他人事を評する口調で言い捨てる。ますますこの偏屈な神への殺意が湧いてきた。

 

確かにヘファイストスが言うような“門”に関する情報が入って来た。ただし全世界数百か所近い数と“門”が存在する領域やその主たる神格について、更に“門”そのものに関する情報と叩き込まれたイメージが膨大かつ鮮明に過ぎ、とても将悟が潜って来た“門”について精査出来ない。例えていうならば出来の悪いサーチエンジンでキーワードを検索し、出力されたまとまりがなく膨大な情報の海に溺れているようなものだ。

 

だが今の霊視のお蔭でこの世界について分かったこともある。魔術師(!?)と呼ばれる輩には幽世、幽冥界、イデア、メーノーグなどと呼ばれていること。肉体よりも精神に重きが置かれる世界であり、今の将悟はヘファイストスによる炎の加護で肉体を保っていること。辿り着きたい場所を思い浮かべるだけで移動出来ることなどだ。

 

ただし今のような無茶を何回もしたらそれこそ脳が焼き切れてもおかしくない。詰まる所現状では手詰まりだった。脳が焼き切れるリスクを背負ってロシアンルーレットを繰り返すのならば話は別だが。

 

それしか道が無いのならば将悟はきっとその決断をしたのだろうが、幸か不幸か別の道が残されている。そちらを試してからでも話は遅くないだろう。

 

「おい、神様。提案がある」

 

即ち、眼前の鍛冶神との交渉と言う道を。並の度胸ではそもそも交渉を試みる発想が思い浮かばないだろうが、生憎将悟の心臓はタングステン鋼以上の強度である。怒らせれば一思いに叩き潰される絶対的強者だろうが、道があるなら進まない道理が無い。

 

「胡乱なことを言う。神に従う智慧もなき者が吐く戯言など愚かしきことに決まっていよう。速やかに口を閉じよ」

「―――もうすぐ、トートがここに来るぞ。そうなったらあんたはマズいんじゃないのか?」

 

ばっさりと話を切り捨てるヘファイストスを無視し、端的に無視できない事実のみを突き付ける。

 

「やはり聞くに堪えぬ戯言よな。確かにあやつはその智慧に並ぶものなき賢神にして大神。正面から矛を交わせば確かに不利は免れまい。だが儂とて長き漂泊の時を無為に過ごしていたわけではない。ここは儂が作り上げた工房にして城なのだ。号令一下、死を厭わぬ強兵。侵入者を欺く数々の仕掛け。神すら傷つける武具も供しておる。何より奴の職掌は智慧と魔術。戦と城攻めに通じているとは思えん」

 

将悟の質問に答える、というよりいかに自分の神威が強大であるか…自分の優位と敵の劣位を自身に言い聞かせている口調だった。この男も不安なのだ、と読み取った将悟は早速自分を売り込みにかける。

 

「でもトートは間違いなくあんたより強い。例え勝てるにしても、絶対に痛み分けになるぞ。それにトートとの戦いに手一杯になって『祭壇』とやらを使う準備が出来ないんじゃないか?」

「……貴様、何故『祭壇』の秘密を知っておる?」

「トートが言ってたぜ。そいつを使うには《鍵》とやらが必要なんだろう?」

 

アキナケスの祭壇について言及する将悟を無視できずに鋭い視線を向けるが、続く将悟の発言にそれも霧散する。だがその代わりに不穏な気配が滲み出てきている。段々と嫌な予感がしてきているが、ここに至って売り込みを中断する選択肢などない。不安に胸を騒がせながらも、滔滔と舌だけは回し続ける。

 

「陽動作戦だ。あんたがこっちでトートを引き付けている間に、俺が地上に戻って《鍵》とやらを探してやる。見つけた《鍵》はあんたに引き渡す―――どうだ?」

 

その提案はヘファイストスに腕を組ませ、黙考させる程度の重みは有していた。本来なら目の前の小さき者の戯言に耳を傾けるなどありえないのだが、今はあの強大なる魔術神との戦を控えている。猫の手も借りたいというのが正直な心境だったろう。

 

ヘファイストスにあの大神を相手に無駄にできる戦力など一片もない。

 

トートとは油断すればたちまち彼の築いた城壁を突き崩す程の神威を有する神なのだ。太陽神が最も隆盛した魔導の都においてそれに次ぐ宰相として崇められた過去は伊達ではない。旧き魔導の都(エジプト)の都市と言う都市から、月神という月神を習合で以て束ね、一体化した強大なる魔術の神なのだ。

 

「…………」

 

油断ならざる大敵との大戦を控えたいま、自分の意思で考え、動ける手駒は貴重だ。例え神たる彼にとって虫けら程度のちっぽけな存在だろうとそれなりに利用価値はあった。戦力としては期待していないが、女神の魂の前まで『祭壇』を持っていく程度の役には立つはずだと。

 

それにいざとなれば別の使い道もある―――…。

 

そこまで思い至り、鍛冶神はニタァ…と嫌な笑みを浮かべた。

 

(嫌な気配だ…)

 

ずきん、と鋭い痛みが警告するように将悟の胸を刺したが、最早賽は投げられている。どうだ、と気迫を込めてヘファイストスを睨みつけると……自ら籠の中に入り込んだ小鳥を嘲るような、憐れむような表情を浮かべ、言葉を繰る。

 

「知っておるか、小僧。我が職掌は鍛冶、即ち創造の権能。なれど、小さき人の子が自ら上げた誓約を以てその行動を縛る程度の芸当は叶うのだ」

 

もちろん魔術の神には及ぶまいがな、と続けるヘファイストスの言霊とともに不可視の力が放たれる。視えない力は波動となって将悟の肉体を包み込み、やがて鋭い痛みとなって心臓に絡みついた。

 

「ッ!?」

「我が呪言で以て貴様の心臓を捕えた。自分自身で宣言したように、貴様は儂に《鍵》を捧げなければならぬ」

「保険…てわけか。人間相手にみみっちい神様だ」

「思慮の足りぬ人の子らしい戯言だ。これは賦役ではない、名誉である」

 

矮小な人間らしく、約束破りの踏み倒しという解決手段も頭の中で検討していたのだが、それを封じる手を講じたという訳ではなさそうだ。名誉、つまりヘファイストスの基準で“素晴らしい”ことの片棒を担がされるのだろう…と、思っていたのだが。

 

「その神具を目覚めさせるために必要な鍵は三つある。一つ、豊潤なる大地の精気。二つ、女神の魂。三つ、()()()()()()()()()()()()()。大地の精気はかつて討ちとりし蛇より存分に蓄えた。肝心の魂には逃げられたようだが、いずれは見つかろう。故に小僧、汝には三つ目の《鍵》を捧げてもらおう」

「……と、いうことは」

「女神の魂を捕えた時、貴様は自らの手で心臓を抉り出し、『祭壇』に捧げるのだ」

 

実際の宣言は更に予想の斜め上を行っていた。虎穴から逃れるための努力が、決定的な死地へと繋がるとは…。そのリスクも覚悟はしていたが、流石にこの流れを予想できる者はいないだろう。ふざけるな、と言い返そうにも迂闊に与えた言質のせいで既に呪が心臓に括られている。無意識の内に悟る、将悟が決定的に先ほどの誓約に逆らう意思を固めれば心臓は忽ちのうちに潰れ、絶命するだろう。

 

とんでもない落とし穴に嵌まってしまった、と舌打ちする暇もない。

 

「地上までは送ってやろう。そこで女神の魂を見つけ出せ。それと『祭壇』も預ける故、肌身離さず持ち歩け」

 

鍛冶神は《鍵》を見つけ次第儀式を行ってもらおう、と続け、最後に視る者すべてを委縮させる凶暴な笑みを浮かべた。如何に半身が捥がれ衰えたりとは言え、仮初にもまつろわぬ神たるヘファイストスが本気で威圧したのだ。クソ度胸はあろうとちっぽけな人間に過ぎない将悟の意識が持つはずもなく、高波に飲み込まれる小舟よりもあっけなく、意識がブツリと途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また夢を見た。

 

夢を見ていると自覚できる感覚、意識ははっきりしながらも薄皮に包まれて漂っているような感覚。しばしその薄闇の中をぼんやりと浮遊していると、前触れもなく色彩の奔流が現れる。例えていうならとりとめのないイメージ、統一性のない静止画を連続して見せられているような感覚だった。

 

大半がすぐにぼやけて詳細が判別しない中、一際はっきりと視えたのは思い出と因縁深きあの滝壺…あそこで白き乙女が背中を向けて誰かを待っているイメージだった。その風景が心に焼き付けられるのを自覚すると、その心の動きが合図だったようにイメージの奔流は途切れて急速に意識が浮上する。

 

見覚えのない景色、己ならざる心の声…不可解で理解できない事柄が多すぎて、流石の将悟も音を上げてしまいそうだった。よくよく考えれば実家に戻ってからこの方、どうにもならない理不尽に振り回され過ぎている。自身がちっぽけな小石に過ぎないと無理やり自覚させられるのは、思った以上に苦痛だった。

 

ネガティブな感情を引きずりながら、意識が昏睡から覚醒に切り替わった。

 

目が覚めた時、そこはあったのは見慣れた部屋の天井だった。アンニュイな雰囲気でお約束な台詞を呟くか三秒だけ迷った後、あっさりとふざけた思い付きを放り捨てる。そんなことよりももっと重要なことがあるだろう、と思い出して。

 

身体を起こして周囲を見渡すと、懐かしさを覚える部屋の風景。間違いなく祖父母の家、それもいつも将悟が使っている一室だった。どういう経緯を経たのか、意識を失った後にいつの間にかあの不思議な世界から見慣れた日常風景の中に帰ってこれたらしい。

 

かといってこれで何もかもが終わったと気を抜けるはずもない。

 

懐や枕元を探ると、やはり『アキナケスの祭壇』が手元に届く位置に置いてあった。見掛けは只の異国風の短剣だが、将悟には最早呪いのアイテムじみた瘴気を発して見える。いっそ放り捨ててしまいたいものだ、と思いつつも心臓に括られた呪を思えば軽はずみなことも出来ない。

 

呪…そう、呪だ。アレがある限り、赤坂将悟の死は確定している。そして、呪を解く方法など一般人でしかない少年が持っているはずがない。端的に言って、詰んでいる。この先赤坂将悟に待ち受けるのは確実な死だ。

 

「やれやれ…」

 

溜息を吐いて、もう一度布団に寝転がった。ひどく憂鬱で、気力が湧いてこない。いっそ不貞寝の一つもしたいところだったが、このまま座して動かなければどの道お陀仏だ。ならば悪足掻きでも何でもしなければ…、と頭では思うのだが、身体の方は随分と億劫だった。

 

五分ほど経つとノロノロと身体を起こしたが、すぐに止まってしまう。そのために使ったエネルギーの源泉は半ば義務感、もう半分は危機感からだったが、その供給が長続きしない。あっという間に力尽き、気力が薄れていく。

 

“何か”をしなければならない、そうでなければ己はこの剣の形をした『祭壇』とやらの生贄に捧げられてしまうのだから。だが具体的に“何を”と問いかけても、応えてくれるものは何処にもいなかった。

 

途方に暮れ、手がかりを探すという名目でこれまでの経緯をぼんやりと思い返すことだけに終始してしまう。そのまましばし時が流れ…

 

「―――やっと起きたか」

 

と、ここで物思いに耽っていた将悟に声がかけられる。思考を中断して声のした方を見ると、当然というか祖父が立って孫の体調を案じながらも同時に不安も浮かべた複雑な表情で将悟を見つめていた。不景気そうな顔をした孫に負けず劣らずの憂鬱そうな気配だった。

 

「何があった?」

「逆に聞きたいけど、何があったと考えてる?」

「……分からん。説明がつかんことが多すぎる」

 

祖父はハァとため息をつき、正直な心境を漏らした。

 

「お前が一昨日の夜にあの御神刀を持って行方不明、同じ時間にとんでもない轟音やら雷が落ちたなんて話もある。現場に行ってみれば田畑がめちゃくちゃに荒らされていた。あんな有り様、ブルドーザーを何台使えば出来上がるのか分からんぞ。お前はお前で村中総出で丸一日探して見つからんかったというのに今朝方家の庭で倒れているのをかあさんが見つけた。起きたら話を聞こうと手ぐすねを引いて待ち構えておったところだ」

 

ああ、怪獣大乱闘(そんなこと)もあったなとやけに前のことのように感じられる一つ目巨人の暴れっぷりを思い出しながら頷く。というか攫われてからいつの間にか24時間が経っていたらしい。

 

「で、何があった?」

「昔話の神様が現れた…ってところかな。笑えないことに、文字通りの意味で」

「……どういうことだ?」

「正直俺自身も整理しきれてないよ。ああ、でも一つ頼みがある」

 

力の籠らない、そして説明になっていない言葉に、理解できずとも不吉な未来だけはありありと思い浮かべられるらしい。

 

「嫌な予感がするが一応聞こう。なんだ?」

「村の連中、一人残さず避難させて。猶予があるかもなんて言ったけどもうダメだ。早ければ一日経たないうちにもっとやばいことになる」

「待て待て待て! 意味が分からん、最初から説明しろ!」

「ここら一帯をお遊び気分で踏みつぶせる神様が二人いて喧嘩中。最悪もう一人増えるかも」

 

端的な状況解説に泥を呑んだような顔になる祖父。信じられないし信じたくない、だが孫の眼力と一昨日の超常現象を考えれば無視も出来ない…そんなところか。

 

「…神様? おい、それは何かの比喩か冗談か」

「いや、あれが本当に神様なのかは知らんけど。でも神様を自称してたし、例の荒らされた田畑程度の被害なら鼻歌交じりに量産出来そうなのは確か」

「……確認だが、お前の言う神様とは、その、文字通りの意味で、なのか」

「あー、俺も驚いた。ポルターガイストなんて目じゃないね。崇り神ってのはああいうのを言うんだろうな」

 

呆れたように慨嘆する将悟の口調に、冗談の気配が一切感じられないことを悟ってしまったのだろう。しばらくの間呻きながら頭を抱えていたが、やがて腹を据えたのか真剣な目で将悟を見る。

 

「分かった。村のみんなには私から話をしよう。一昨日のアレで不安がっている者も多い。説得に骨は折れるがなんとかしよう。お前も十分危ない目に遭ったようだ。一足先に―――」

「そうしたいところだけどもうとっくに巻き込まれてる。俺は残るよ」

「馬鹿を言え。残ったところでお前に何が出来るのだ。いいから早く荷物を纏めろ」

 

あ、これダメなパターンだ。

 

なんだかんだ祖父との交流が深い将悟は悟った。散々常識外れな将悟の発言を受け入れ、行動の指針としてくれた祖父であるが、だからこそ危険地帯と化した村に将悟が残ることは認められまい。孫を危地に呼んだ負い目もあるだろうし、一度決断すれば行きつくところまで行ってしまう性格もある。

 

ここで逃げれば恐らくはヘファイストスの呪によって心臓を止められてしまうだろう。緩慢な自殺と分かっていても将悟に逃げる選択肢などないのだが、意志を固めた祖父にそれを納得させられるかというと微妙だ。一昨日の一つ目巨人が暴れた跡と違って提示できる証拠もないのだし。

 

(と、なると…)

 

ここは騙して悪いがからの独断専行、強行突破しかあるまい。あっさりと決断した将悟は表面上大人しく聞き入れる振りをし、祖父が部屋を去るのを待った。あまりにも呑み込みが良すぎるせいか却って胡散臭げに孫を見つめていたが、今の時点で無理に行動を強制させる名分は無い。村民を説得する時間も欲しい筈だ。その程度の勝算はあった。

 

その後もきつく言い聞かせたあと、足早に去っていく祖父。力の入らない体に鞭を入れて善は急げとばかりに布団から身を起こし、外へ出ようとするが…

 

「あら、あの人の言った通り。早速抜け出そうとしたでしょ。ダメよ、無暗に年寄りを心配させるものではないわ」

 

身を起こした途端、間髪入れず襖が開かれる。そこから出てきたのは将悟の祖母、手にお盆を持って苦笑を浮かべていた。

 

お手上げ降参、白旗の一つも振り回したいくらいに見事な采配だった。孫の不穏な気配を察して、動きを封じる一手を打ってきたらしい。かといってこのまま座していても袋の鼠だ。仕方ない、強行突破するかとむやみやたらと果断すぎる決断力に任せて窓から飛び出すことを画策するが、その心の動きを見抜いたようにさり気ない仕草で押し留められてしまう。

 

「まあまあ。出かける前に腹ごしらえの一つもしていきなさいな」

 

挙句、指し示すのはおにぎりと漬物、お茶が乗ったお盆だった。しかし、今の発言は…。

 

「良いの? 俺、飯食ったら逃げるけど」

「こんなおばあちゃんに若い人を抑えられるはずがないじゃない。あの人だって分かっているわよ」

 

問いかけると逆にあっけらかんと言い返され、口をつぐむしかなくなってしまう。祖母の対応に呆気にとられた風の孫を見てクスクスと笑いながら、

 

「今のあなた、若い頃のあの人にそっくりねぇ。何一つ見通しが立ってないのに自信満々に突っ走っていくところは本当に瓜二つ。大体痛い目に遭うんだけど、全然懲りないで繰り返すの。その癖“ここぞ”というところは大勝するんだからねぇ」

 

もう慣れちゃった、と将悟を通して昔日の祖父を見ている気配が漂う。

 

「男の人が大一番に臨む時の顔をしているわ。そういう人って止めても大体意味がないの。赤坂家(うち)の男は特にね!」

「……そんな顔、してるかな? 正直、いま大分キツくてさ。どうにも、気力が出ないんだ」

「あら、私の目には今にも飛び出していきそうな男の人が見えるけれど? 殴られたら熨斗を付けてやり返すあの人の孫が、そんな大人しいはずないじゃない!」

 

当然のように告げられる言葉には有無を言わせぬ実感が籠り、口の端に浮かべた苦笑は随分と板についていた。きっと祖父の破天荒に付き合わされる内にこの諦観と寛容を備えるに至ったに違いない。

 

「何が起こっているかなんて私にはさっぱりだけど、孫がやりたいって言うんだもの。手伝ってあげなきゃダメよねぇ」

 

祖母にいま村を襲っている事態の深刻さは理解できていまい。だが孫の決断とその意思の硬さを十分に考えた上で将悟の背中を押してくれている。その意思は決して軽くない。

 

「…ん、ありがとう」

 

苦笑して頭を下げると祖母も合わせ鏡のように苦笑を浮かべたまま、早くおあがりなさいと勧めてくれた。考えてみるともう丸一日以上腹に何も入れていないことになる。意識すると急に空腹が襲ってきた。おにぎりが空っぽの胃を埋め、熱いお茶が身体の芯から温めてくれる。身体中に血が巡り、鈍っていた心の情動もさっきよりずっと活発になってきた。

 

(…つーか、なんで俺があんな連中に振り回されなきゃならないんだ)

 

すると段々と理由もなく巻き込まれた理不尽の元凶たちへの怒りが湧き上がってくる。先ほどまでの後ろ向きな考えが薄れ、前向き(ポジティブ)というよりもっと荒々しく、攻撃的なエネルギーが腹の底から湧き上がってくる。我ながら単純な性質だと思うが、腹が満ちれば力が湧いてくる。力が湧いて来れば、合わせて怒りも湧いてくるというものだ。

 

ギラギラとした凶暴な光が将悟の双眸に宿る。

 

よくよく考えれば何故俺が諦め、尻尾を振らなければならないのだ? 手元には奴ら御執心の『祭壇』があり、頼りに出来そうなアテもついさっき()()()()()。このままでは死という運命が将悟を待ち構えている。だが逆に言えば命をチップに差し出せば、一か八かの勝負に出ることくらいは出来るかもしれない。

 

あるいはこの決断を後悔する日が来るのかもしれない、大人しく諦めて命を差し出しておけばよかったとみっともなく頭を抱えるかもしれない、でもそんなこと今は気にならない、知ったことじゃない。例えこの怒りと無謀と同情の先にあるものが苦痛に(まみ)れたものだったとして、俺は俺が生きてやりたいことをやるために最後の最後まで俺の意思で突っ走りたい。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

死の淵に立たされた将悟の精神から余分な“人間らしさ”が削り落とされ、動物的で野性的な本能が剥き出しになる―――純粋極まりない生存と、復仇の意思が。

 

まず喧嘩中の神様連中を横合いから思いきり殴りつける、これは確定だ。その上で―――己の命を諦めるつもりなど一欠けらもない。あの偉そうで強いだけの、神様らしい徳の一つも持ち合わせていない馬鹿野郎どもの手のひらの上で踊るのはもうやめだ。無理やりにでも俺のペースに引きずり込んで尻の一つも蹴り飛ばしてやらねば。

 

神々への反逆の意思がふつふつと湧きあがり、浮かべる笑みに不敵さを取り戻す。

 

「行ってくる。じいちゃんには後で謝りに戻るって言っておいて」

「はいはい。気を付けなさいね」

 

裏口が開いているからそこから出ていきなさい、とのアドバイスに感謝の言葉を返して外に出る。見上げる空は行く道の暗雲を示すようにどんよりと曇っていた。

 

これでいい、と将悟は思った。あのデタラメ神様パワーの持ち主どもに喧嘩を売りに行くのだ、未来が明るい筈がない。しかしそんな先行きの暗い道の先にこそ、将悟が望む未来はあるはずなのだから。

 

身体に満ちた力と身の軽さに任せて軽快に田舎道を駆けていく。

 

一路、白き乙女との思い出の地を目指す。この騒動が始まった場所であり、この一帯に残る昔話の舞台となったあの滝壺へ。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。