カンピオーネ!~智慧の王~   作:土ノ子

27 / 40
死闘、決着。


嵐、来たる ⑨

眼前に屹立する巨神、莫大な熱量とどこか底知れない不吉さを感じさせるその偉容。

 

途轍もない脅威を感じる赤坂将悟の顕身に対して一合も交えぬうちにその危険性を感じ取っていたのは流石ヴォバン侯爵と褒め称えるべきだったろう。基本的に“力には力を”の戦法で敵に当たるヴォバンだったが、下手に大魔狼に化身して突撃すれば少なからぬ痛手を被るだろうと言う予感をひしひしと感じていた。

 

ならば様子を見るのが正解なのだが、あくまで先手をとることをヴォバンは選択する。戦に狂う狼王にとって根本的に受け身なのが性に合わないのだ。それ故にヴォバンは常套手段ですらある、従僕らによる威力偵察を試みる。

 

「来たれ、私に仕える狼達」

 

老紳士の装いに戻ったヴォバンの影が炎に照らされゆらゆらと踊る。その影から幾十…否、数百にも届こうかと言う軍勢が現れる。死相を浮かべた従僕らと、それ以上の物量を誇る巨狼達からなる混成軍団。

 

最初から傷を与えることなど期待されていない軍勢が、逆らうことのできない命に従い、無謀な突撃を開始する。格で言えばカンピオーネとは比較にならない、芥子粒のような者たちだがその命を顧みられていないが故にその動きは無謀なほど獰猛で剽悍だった。

 

そんな命を無視された影の軍勢に、屹立する巨神が示したリアクションは一つだけだった。

 

―――無造作に、巨神の右腕が横薙ぎに振るわれる。

 

赤熱する巨神、赤坂将悟の顕身が腕を一振りするだけで炎の津波が巻き起こり、軍勢に向けて瓦礫の山を溶かし崩しながら飲み込んでいく。視界全てを覆い尽くす圧倒的な規模、加えて火焔の端々にこの世全ての不吉で塗り潰したかのような漆黒が入り混じっている。

 

ただの炎ではない、とヴォバンが直感すると同時に軍勢が炎の津波に飲み込まれる。刹那の抵抗も許されず、灰と化した己の配下たちに一切の感慨を向けず迎撃のため呪力を溜めることに注力していたヴォバンだがすぐに違和感に気付く。

 

つい先ほど津波に飲み込まれた従僕達、魂を呪縛された彼らは何度死しても本当の死を得られず、ヴォバンの元に帰ってくる。灰と化した程度で権能【死せる従僕の檻】からは逃れられないのだ―――だというのに、手応えが無い。見えない鎖に繋がれたはずの、従僕らの魂が感じ取れない。

 

まさか、という驚愕がヴォバンの脳裏を奔るが眼前には既に従僕らを焼き尽くした紅蓮の津波が今まさに迫って来ている。故に思考の全てを一瞬で迎撃に切り替える。動揺を覚えながらもそれに囚われないのはやはり歴戦を潜り抜けた戦士の面目躍如と言えただろう。

 

一切合切を飲み込みながら迫るのはヴォバンにすら久方ぶりに恐怖という感情を思い出させる、圧倒的な威力を秘めた劫火―――"なればこそ"、迷わずに己の全力をぶつけるべきだ!

 

戦場でこそ冴えわたる戦士の嗅覚が命ずるまま、ヴォバンは上空にわだかまる黒雲に命じて幾十条と降らした雷霆を右手で掴み取る。更に唸りを上げて吹き荒ぶ周囲一帯の豪風を拳大にまで収束し、そこに蓄えた雷霆のエネルギーも一緒くたにしてまとめてしまう。迫りくる絶大なる火勢を少しでも弱めるために降りしきる豪雨もそこに混ぜ込んでいく。

 

出来上がったのは風雨雷霆を混然一体に融合させた“嵐”としか表現できない莫大なエネルギー。それを掌に収まるサイズにまで圧縮した力の塊だ。

 

「猛れ、嵐! 私を阻む敵を蹂躙せよ!!」

 

ヴォバンは言霊を唱え、東京タワーを丸ごと炎上させ、跡形も残さず吹き飛ばすだけの威力を蓄えた掌大の嵐を解放し、迫りくる紅蓮の波濤へけしかける! 解き放たれた嵐は一瞬で極大の雷霆を纏う竜巻と化し、両者の視界を塗りつぶす規模の紅蓮と風雨雷霆が真正面からぶつかり合う。

 

轟、とぶつかり合った極大のエネルギーが渦を巻く。

 

将悟が繰り出した紅蓮の津波は尋常ならざる火勢だったが、ヴォバンが嗾けた風雷霆もまた瞬間的にだが台風に匹敵するほどのエネルギーを備えていた。ともに莫大な破壊力を湛えた風雨雷霆と煉獄の炎は互いに喰らい合う。風雨雷霆を焼き尽くしあるいは紅蓮の火勢は吹き散らされ、対消滅していく。

 

一見は、互角。また事実として両者の元に互いの繰り出した攻撃は一片たりとも届くことは無かった。

 

「私の風雨雷霆を焼き尽くすか…!? 恐ろしい炎を飼い馴らしたものだな、赤坂将悟!!」

 

だが獣の感性を色濃く有するヴォバンは今の炎が巨神の全力ではないことを見抜いた。いわば小手調べ。力を抜いた、様子見のための一撃でヴォバンの全力と伍したのだ。

 

「挙句の果てに我が従僕を魂魄ごと消滅させるだと? 何というデタラメだ、何という理不尽だ!?」

 

しかも威力偵察の先触れとして放った死せる従僕らの最期の光景。今も焼き尽くされた従僕が手元に帰ってくる感覚は無く、呪縛した鎖の先を辿っても手応えの欠片も掴めなかった。ヴォバンの三世紀を跨ぐ戦歴を思い返してもこれほどの不条理はごく稀だ―――()()()()()()()()など、一体何の冗談だというのか!? 

 

ヴォバンの観察眼を以てすれば確信に至るのは容易だった。なにせ神と神殺しがやることに、常識など皆無なのだから!

 

まず間違いなく、彼らはあのどす黒い紅蓮に焼かれ、呪縛された魂魄ごと消滅を遂げてしまったのだろう。言うまでもなく魂は本来燃やせるような代物ではない。そもそも物理法則で扱える範疇に無い。だと言うのに従僕らは灰だけを残してこの世の何処からも消え去ってしまった。あの炎は間違いなくヴォバンが知る理の外にある。

 

老王の推測は的を射ていた。物理法則など易々と超越する炎―――《破滅》の属性を宿したスルトの火に燃やせぬものは無く、例え呪力を高めて掻き消そうとも刻まれた傷痕に呪詛を宿し肉体を蝕む。単純な火力以上に敵の殲滅と絶命に特化した凶悪な攻撃性能こそがこの権能の最大の武器であり、()()である。

 

そこまで思考を進めたヴォバンの背筋を尋常ならざる戦慄が駆け巡る。

 

ただの炎ではない。強いて言えばかつて矛を交えた冥府神が繰り出した煉獄の劫火に似ているが、より凶暴でタガが外れている印象を受ける。ヴォバンの魔狼は奪い取った神格(アポロン)の性質から太陽・光・熱に関わる攻撃に対して強い耐性を誇るが、それでも悪戯に触れる気は欠片も起こらなかった。

 

しかし。

 

(それだけの権能だ。当然リスクもあるだろう…?)

 

一方で冷静に将悟の権能を見極め、判断を下していたあたり流石ヴォバン侯爵と称えられるべきだろう。

 

ヴォバンの経験則では概ねどんなカンピオーネが所有していようと、どんな類の能力だろうと権能のポテンシャルにそう大差はない。ある権能が理由もなく理不尽に強力すぎるということはまずありえないのだ。その強力さの代償に何らかのリスクや制限事項という形で縛りがあるのが普通である。

 

一例を上げればジョン・プルートー・スミスが所有する『魔弾』の権能。あれも後先考えずに全力を振り絞れば国一つを滅ぼす威力を叩きだせるというが、一月に6発しか撃てない弾丸全てとありったけの呪力を犠牲にしなければならない制限がある。

 

(五分…そう言っていたな。制限時間があるということか)

 

ブラフである可能性も視野に入れて思考するが、決して的外れではない読みに思えた。これだけ凶悪な性能を持つ権能を長時間使い続けられるほど世の中は便利にできていない。理不尽の権化である神と魔王にも逆らえない理はあるものだ。加えて将悟の呪力も消耗が激しく、疲弊していたはずである。

 

持久戦に持ち込むしかない、と思考が狂戦士から冷徹なハンターに切り替わる。死闘を愛するヴォバンだが、その本質は単純な力自慢ではない。自身の戦力が劣ると判断したならば、躊躇わずに策を用い、手練手管を以て敵を狩り殺す狩人としての一面も備えているのだ。

 

「命を燃やし尽くす五分か…。背を向け、手が届かないところまで下がるのも手だが」

 

フッと不敵に笑む。合理性だけを追究すれば最善の手、だがけしてそれを選ばない己がいることを知っているからの闘志と喜悦に満ちた笑みだ。

 

「それは私の流儀ではないな」

 

やはりヴォバンは三〇〇年を闘争の中に生き抜いた生粋の戦士だった。力比べでは分が悪いことを悟りながらも、敵の正面に立つことは放棄しない。策を弄するにせよ、弱者の戦略を採るにせよ、全て正面に立って手を講じるのが己のスタイルなのだと堂々と巨神に相対する立ち姿だけでそれを示してみせる。

 

狷介で、ひねくれたユーモアの持ち主。気まぐれに他者を害する暴君。されどヴォバンもまた紛れもなく“王”であった。将悟の命を燃やした心意気に応える、愚かしくさえあるほど大きな器の持ち主なのだ。

 

「貴様の挑戦に受けて立ってやろう。死力を尽くせ、赤坂将悟! 我が、仇敵よ!!」

 

これから始まる死闘を前に景気づけを兼ねた堂々たる宣戦布告を告げる。それに応えるかのように、オオオッと地響きのような咆哮が巨神から返ってくる。どうやら仇敵も気持ちは同じらしい。

 

ヴォバンはこれから潜り抜ける死線の数を思い、常ならぬ武者震いと喜悦の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――暴威が振るわれる。

 

巨神が振るう一挙一動のたびに灼熱が大地を焼き、天地を焦がす漆黒の火勢が世界を焼き尽くさんと燃え広がる。比較的小規模な攻勢でさえ破壊し、蹂躙する範囲が四方数百メートルに達し、焔が舐め尽した大地には生命の痕跡を見つけることが出来ない。後に残るのは黒々と灼け溶け、あるいは固まった噴火跡のような大地だけだ。

 

未だ最終ラウンドが幕を開けてからの経過時間は二分に満たない。だが既にヴォバンが潜った死線の数は片手に余るほどだった。

 

無造作に放った初手、ヴォバンの軍勢を焼き尽くし、全身全霊の嵐と拮抗した火焔の大津波を凌ぐ激烈な攻勢が絶え間なく続く。その威勢はヴォバンが知る最強の仇敵が繰り出した最大の一撃すら優に上回り、現在進行形で上限を更新し続けている。

 

そして特に瞠目するべきは"アレ"だ。

 

「来たか…!」

 

巨神が真っ直ぐに突き出した右腕、その五指がさながら獣の口腔のように曲げられた中心で地獄の溶鉱炉を凌ぐ熱量が収束する。球の形で安定した灼熱の塊、制御を放棄するだけで地上に煉獄を再現できる莫大な熱量を有しているが、恐ろしいのはこのあとだ。

 

(ひらめ)く。

 

超小型の太陽を思わせる火球から一筋の熱線がヴォバン目がけて撃ち放たれる。高速で進む熱線を、人狼の身体能力で横っ飛びに躱すが恐ろしいことに彼我の距離が三メートルを超えているにもかかわらず熱線から放射される熱エネルギーが空気を焦がし、ヴォバンの皮膚を焼く。さながらSF作品に出てくるビームかレーザーか、といったところだったが火線に秘められた暴威はそれこそ空想にしか存在しないような、異様なものだった。

 

地表と平行して放たれた火線は放射熱だけで大地を赤々とした液体に変え、直撃を受けた建築物は漏れなく貫かれる。挙句の果てにその構成物質の一部は気体と化して沸騰するほどの絶大なエネルギー! 一直線に進む火線がもたらした被害は優に二キロに届く。天空から俯瞰すれば赤黒く揺れる線がさながら傷跡のように幾筋も大地に刻まれていることが確認できただろう。

 

一切の洒落を抜きに、巨神は東京都の一画を灰燼と化す勢いで暴れまわっていた。“あの”ヴォバン侯爵を相手取ってなお、防戦一方に追い込むほどに! まつろわぬ神すら力づくで屈服させることが叶う絶大なるその“力”。一個人が物理的に都市を瓦礫も残さず焼き払える実例をその身で示しながら、しかし巨神は未だにヴォバンを討ち取れずにいた。

 

理由は幾つかある。

 

一つはヴォバン自身が恐ろしいまでにしぶといこと。死地に近づくほど冴えわたるヴォバンの戦闘勘が紙一重のところでその身を救い、幾世紀に渡る年月が練り上げた実力は幾度となく危地に追い込まれながらギリギリのところで抗ってみせる。

 

天上の黒雲に命じて少しでも火勢を弱めんと底なしの豪雨を土砂降らせ、荒れ狂う暴風を鎧として身に纏い、無尽蔵に呼び寄せた配下を使い捨ての盾として利用する。魔狼の化身に変じて身体能力を最大限に引き上げ、天空から呼び寄せた雷霆で荒ぶる火焔の壁を突き破った。

 

あらゆる権能を駆使し、どこまでも泥臭く生き汚い姿を見せながら、なおも意気軒高と笑える狼王。現存する魔王七人の中でも最高峰の戦闘力を誇る彼ならばこその奮闘だった。

 

更に一つ、巨神が振るう禍々しき炎は瞬間的な火力こそ傑出していたが持続時間はかなり短い。顕身から放たれ、ある程度時間が経過すると幻だったかのように掻き消えるのだ。後に残るのは黒々と溶けた跡を残す大地と延焼によって生じた普通の炎のみ。それもヴォバンが呼び込んだ豪雨によって即座に鎮火される。

 

最後の一つは目立たないが、重要な事実。

巨神は、戦闘開始からこれまで一歩たりとも動いていない。動かないのか、あるいは動けないのか。理由は分からないが、延々と一か所に留まって攻撃を放ち続けるだけ。これで巨神が大魔狼並みの機動力の持ち主であれば、ヴォバンはとうの昔に深紅の煉獄に魂まで焼き尽くされていただろう。

 

―――などと、思考を回す間にも巨神は次々と激烈なる攻勢を仕掛けてくる。

 

第一陣、眼前に迫るは初手で見たあの烈火の大津波。燎原の劫火よりも容赦なく大地を舐め尽すように迫り来る。ヴォバンの全力を込めた嵐と相殺したコレを巨人は当たり前のように放ってくるのだ。

 

「雷霆よ!」

 

咄嗟に言霊を唱え、呪力を漲らせながら上空の黒雲から稲妻を幾条も落とす。天から降った稲妻は全てヴォバンの掌に集い、東京タワーを丸ごと炎上させるほどのエネルギーを蓄えるに至った。

 

掌に集め、圧縮した紫電を解放。自然界に存在する雷の何十倍も強力なエネルギーを蓄えたそれは魔王の意思に従い、一条の強烈な投槍となって炎の津波を突き破らんと一直線に駆け抜ける。時間が許す限り力を振り絞った雷霆の箭は炎の津波にぶつかり、その勢いを急速に衰えさせながらも一点の突破口を開けることに成功する。

 

作り上げた突破口に魔狼に化身したした上で暴風の鎧を身に纏い、身体をねじ込むように突入する。轟々と荒ぶる火の粉の群れを辛うじて風で逸らし、突破した幾つかは体内の呪力を高めて強引に鎮火する。それでもどことなく不吉さを感じさせる火傷が身体の端々に刻まれていく。魂を侵すような痛みが絶え間なく響くが、そんなものに構っている暇はない。

 

紅蓮の炎幕を突破した先の視界には、デジャヴを喚起させる灼熱の大津波が映っている。理不尽極まりないが、今しがた潜り抜けたばかりの死線と同等の攻撃を連続で放射し続けているのだ。

 

目の焦点を今も迫る大津波の後ろに向けてみれば第二波に続き、第三波。文字通りの、波状攻撃。第一陣を突破するだけで少なからぬ呪力を使ったというのに、敵はまるで限界などないとばかりに無尽蔵の火力で以て暴威を振るっている。

 

「く、ハハハッ!」

 

"だからこそ"哄笑し、最高だと、最悪の戦場だとヴォバンは猛った。これ以上の死地など長い長い彼の生涯を振り返っても早々思い出せない。それほどの地獄、それほどの大戦(おおいくさ)! ここで昂らないような魔王ならば、ヴォバンはもう少し穏やかな生涯を辿っていただろう。もちろんそんなものに全くもって興味は無いが。

 

戦いこそが我が喜び、我が生きる場所。戦を愛する古き王、デヤンスタール・ヴォバンは死地のただなかにあってなお獰猛に笑っていた。

 

狼王はあらゆる権能を駆使し、あらゆる能力を振り絞り、この世に顕現した煉獄の化身が振るう攻勢を躱し、穿ち、凌ぎ続ける。かつてない危地に放り込まれた魔狼の化身は裡に眠る魔獣の本能を完全に覚醒させ、紙一重の賭けを奇跡的なレベルで成功させ続けていた。神殺しの魔王に対して不適切な表現であるが、控えめに言って神がかっている。

 

そして…。

 

将悟が顕身に変じ、短くとも濃密な180秒が過ぎ去ろうという頃になって死戦の節目が訪れる。

 

グシャ、ともビキィ、とも聞こえる不吉な音を立てて巨神の右腕にヒビが入り、ボロボロと崩れ落ちていく。隻腕となった巨神に痛みを感じている様子はないが、噴き出す火勢が明らかに一段弱まっていた。明らかな異常、そして漬け込むべき弱みである。そしてヴォバンに眼前の巨神が振るう権能に関する推測の材料を一つ、提供することになった。

 

「読めた」

 

直感する。

 

あの顕身は“砲台”だ。尋常ならざる脅威を秘めた《破滅》の炎を撃ち出すための砲身であり、それ故に一か所に留まって撃ち続けるしかない、機動力を放棄した顕身なのだ。恐らくは《破滅》の属性を宿した炎、その凶悪過ぎる威力故に生身では撃つことに耐えきれないのだろう…。それ故に人間体よりも頑強で、権能を扱うのに適した赤熱する巨神に化身しなければあの火焔を扱えないのだ。

 

そしてあの巨神に化身してなお、将悟は獰猛すぎる猛火を制御しきれていない。それは一撃たりともダメージを入れていないにもかかわらず、自身が繰る炎の圧力に耐えかねて自壊した右腕が証明していた。将悟の言っていた制限時間とは、恐らくは顕身が自壊するまでのタイムリミットか。

 

これまでの奮闘、危地を紙一重で潜り抜ける離れ業を幾度となく続けてきた影響でヴォバンの消耗もまた深刻な域にまで達していた。

 

だが自身がどれほど弱り切っていようと、敵が弱みを見せた途端に気力を取り戻すのもまたカンピオーネが持つ能力……否、神を殺すほどの負けず嫌いの賜物だった。呪力と体力、精神をすり減らしながら将悟の攻勢を凌ぎ続けてきた成果が目の前で現れた。その事実に、僅かだが確かに疲弊を見せていたヴォバンの横顔に二ヤリとした不敵な笑みが戻る。

 

将悟は言った、制限時間は五分だと。

 

「さて…貴様の言葉通りならば猶予は幾ばくもないぞ? 例え夜明けまで続こうが付き合ってやるがな! さあ―――私を殺して見せろ!!」

 

吼えるように、己を奮い立たせるような剛毅な宣言。応えるように、天井知らずに規模が膨れ上がっていく暴威の煉獄。

 

もう一度笑う、頬を歪め、喉を嗄らして哄笑する。最長老の魔王はいま一人の狂戦士に立ち戻り、そのまま自ら危地に飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――そしていま巨神を維持できるタイムリミットが目前に迫っていた。恐らくあと30秒とないだろう。

 

既に赤熱する巨神の両腕と右足は崩れ去り、残った足で辛うじて体勢を支えているだけ。まさに満身創痍という他はない。だがその赤く燃える両眼は身に纏う炎とは全く違う光でギラギラと輝き、ヴォバンとの勝負をいまだに投げていないことが濃厚に見て取れる。

 

それでこそ、と歓喜すら覚えながらヴォバンも後先を考えず権能を駆使し、致命傷となる攻撃のみ集中して防ぎ続ける。ここまで凌ぎ続けていたヴォバンも満身創痍だった。五分に満たないわずかな時間、だというのに身体中に黒々した火傷の跡が刻まれ、潜った死線の数は既に数えるのも億劫なほどだった。

 

「いい加減この死闘の幕を下ろすとするか!」

 

形勢は逆転した。

ヴォバンもまた疲弊の極みにあるが、それ以上に将悟の消耗が激しい。

 

他と隔絶した暴威を有しながら仕留めきれなかった将悟の未熟は否定できまい。スルトの権能を使うのはこれで二度目。掌握が進んでいるとはお世辞にも言い難い。

 

だがそれ以上に生涯を通じても稀な極大の死地に獣の本能を最大限発揮したヴォバンが見せた奮闘…否、生き汚さは群を抜いていた。それこそ他のカンピオーネと比較しても驚愕せざるをえないほどに!

 

とはいえヴォバンが満足に戦えるのもあと僅かな時間だけだ。自身の状態を誰よりも把握しているヴォバンは安全だが水入りになる恐れのある持久戦ではなく、確実に将悟の息の根を止めることを選んだ。余力が残っている内に確実に仕留める選択、あくまで死闘の決着を望む精神は確かに戦に狂う狼王に相応しい。

 

これが最後の大一番と断じ、残った余力を注ぎ込んでいく。己が身体能力を最大限に引き出すため、また熱と炎に強い耐性をもつ人狼に化身し、ヴォバンは跳躍する。

 

巨神は迎撃のため口腔に炎熱を溜め込み、炎の吐息として噴き出す。ヴォバンに向けて一直線に向かっていく劫火の奔流は、しかしその勢いが明らかに最初と比べて弱まっていた。幾度となく見せたレーザー砲じみた極大の火砲、最早あれを使えるほどの余力が無いのだ。

 

「その程度の火勢などぉッ!!」

 

太陽の化身たる魔狼に変化したヴォバンは渦巻く風を鎧に、配下を肉の盾としながら最も火勢の弱い箇所を強引に突き破る。百戦錬磨のヴォバンを以てしてその火勢は完全に防ぎきれず、配下の盾と風の鎧を突破した炎が魔狼の皮膚を焼き焦がす! 火焔は熱、炎に強い耐性を持つはずの魔狼の皮膚にすら食い込み、ジリジリと肉を焼く。咄嗟に盾とした片腕を炎の舌が舐め、肉体を炭化させていく。

 

ただの火傷のものではない…精神をやすりで削り、魂を蹂躙するかのような激痛。これまでも同様の苦痛に襲われていたが、今のこれは先ほどまでの十倍増しだ。だが神殺し特有の人間離れした我慢強さで無理やり耐えきる。

 

あるいは半身を犠牲にする必要があるかもしれない。だがこの勝利にはそれだけの価値があると確信し、ヴォバンは疾走した! 悪足掻きのように将悟はその後も続けて劫火を操って迎撃するが、ヴォバンはそのすべてを避け、捌き、時に強引に道を開いて突破する。

 

『グ、グググ…』

 

軋むように、呻くように漏れ出る巨神の唸り声。巨大な溶岩と岩石の融合体となった顕身はひどく感情が読み辛いが、やはり相応の激痛が将悟を襲っていたのだ。

 

全身を苛む痛苦が若干以上に巨神の反応を鈍らせた。

 

好機と見たヴォバンは更に速度を上げ、数秒の間に彼我の相対距離を踏破する! そのまま出来うる限り風雨雷霆を掻き集め、手元に集めるが……足りない、これだけでは如何に弱っているとはいえ巨神を倒すには至らない。

 

だがその程度、何の障害にもなりはしない。足りないと言うならさらに足せばいい。あるではないか、お誂え向きに風雨雷霆を被せるだけで立派な砲弾と化す―――己そのものという、最後の切り札が!

 

遂に互いの距離が五〇メートルを切ったところで、ヴォバンは渾身の力を込めて足元の地面を―――踏み砕く!!

 

激烈な踏み込みに伴う反発力を余さず推進のエネルギーに転嫁、音速の壁すら易々と突破する。刹那の間に巨神と己を隔てる空間を踏破し尽くし、巨神の左胸目がけて風雨雷霆を纏った己自身を砲弾とした突撃を敢行する。

 

重量一五〇㎏超、速度は音速を優に超え、挙句の果てに東京都のランドマークすら跡形もなく吹き飛ばす規模の風雨雷霆を身に纏う。殺意というやすりで極限まで研ぎあげ、己そのものを(やじり)とした必殺の一撃だった。

 

対峙する巨神も最早後が無い。必滅を期して放つ最後の一撃は、この一度だけ往時の勢いを取り戻す。その代償と言うかのように、巨神に残った最後の四肢が…砕け散った。

 

迎撃のため巨神の口腔から噴き出す劫火。激烈なる灼熱の渦を、風雨雷霆が突き破る! そのまま微塵も勢いを殺すことなく巨神に迫り、ヴォバンそのものを弾丸とした必殺が―――巨神の左胸を、貫いた。

 

巨神を突き破った勢いのままその向こうに抜けたヴォバンは見事に着地……そしてそのまま崩れ落ち、地面に片膝をつく。将悟よりもマシとは言えヴォバンを襲う疲労もまた尋常ではないのだ。

 

顕身が負ったダメージはそのままカンピオーネ本人もフィードバックを受ける。ならば、この一撃は致命傷! 仇敵の命に届いたという実感、苦戦に次ぐ苦戦を乗り越えた感慨が胸に満ち()()になる。

 

『―――タダじゃ負けねえよ、一緒に地獄に落ちろ(グオオオオオオオオオオオオオオオオォッ)!!』

 

だが。

 

四肢を喪失した巨神が地面に身を投げ出す寸前、巨神の双眼が凶暴な深紅の光を放つ。巨神の咆哮と重なるように聞こえる、あまりにも不吉すぎる道連れの呪詛。

 

(うごめ)く。

 

全方位からヴォバンを囲むように巨神の足元に滞留する赤黒い流体…溶解したマグマが爆発的な勢いで噴き上がった―――さながら火山の噴火か、荒れ狂う竜巻のように!

 

将悟は悪戯に崩れ落ちる四肢を見送っていたわけではない、己の意思により迅速に反応する攻撃手段として砕け散った己の肉体を密かに周囲の赤熱する溶岩に溶け込ませていたのだ。負った負傷は覆しようがないが、少しの間なら砕けた肉体にも意思を通わせておける。

 

そしてヴォバンを覆う灼熱の檻が完成する、360度全方位逃げ場のない奥の手だ。最早逃れようがない、ヴォバンにすらそう認識させるほど迅速な手並みだった。

 

抗いようなどなく、ヴォバンは紅蓮の濁流に飲み込まれた。

 

そして万物を影も残さず焼き尽くすのに十分な時間が経ち、赤黒いマグマからなる竜巻が陽炎のように消え去った後には―――蛇に巻きつかれたようなどす黒い火傷を全身に刻まれながらも、両の足で屹立するヴォバン。耐えきったのだ、手品の種などない。ただ極限まで呪力を高めて猛火の檻を凌ぎ切った。

 

一瞬、声も出せないほどの驚愕が将悟を襲う。

 

『―――……。クソ…ッタレ。アレで死なない、だと……ギッ…!』

 

オオオオォッ…と巨神の姿のまま弱々しい呻きを上げて負け惜しみを投げる将悟。その声には濃密な苦痛とそれ以上の困惑と驚愕が籠り、そして微量の畏敬の念すら含まれている。

 

最後に見せた決死の一手に十分な炎熱を注ぎきれなかった。疲弊の極みにあったからこその火力不足、というのはもちろんある。しかしそれ以上に奇襲のタイミングは絶妙だったはずなのだ。無防備に喰らえばカンピオーネの肉体と言えど人間大の黒焦げ死体しか残らないほどの火力はあったはずなのだ!

 

だからこそ勝因は明らかに奇襲を仕掛けるよりも前に体内の呪力を高めていたヴォバンの機転にこそある。

 

「確信していただけだ。君が黙って殺されるような諦めのいい男であるはずがないからな」

 

例え死の淵に転げ落ちる直前だったとしても、とヴォバンは告げる。

 

幾らカンピオーネが生き汚いと言っても限度はある。歴代の神殺しは大往生より戦場で野垂れ死んだ例の方が多いし、魔王殺しの英雄が現れた時代の神殺し達は例外なく命を落としているのだから。

 

将悟の消耗は神や神殺しの基準に照らし合わせても、尋常ならざるものだった。このまま死んでも不思議ではないと思えるほどに。将悟もそれは分かっていた。分かったうえで自身の疲弊を受け入れたのだ。あるかなしかの一瞬の隙を作り出し、仇敵を確実に抹殺するための罠として利用するために! 

 

実際、相対したのがヴォバン以外だったのならば何者だろうとほとんど確実に命を刈り取れる必殺の布石だった。

 

だがヴォバンには、ヴォバンに“だけ”はこの必殺が通じなかった。ヴォバンだからこそ、将悟が神殺しの基準で瀕死だろうと起死回生の一手を打たない“はずがない”というある種の信頼すら抱いていたからこそ!

 

将悟もまたなんとなくそれを理解し、苦い苦い笑みを零した。敗北の苦渋を、苦い土の味を噛みしめるように。

 

『ちっくしょう…強ェなァ…』

 

また、勝てなかったか…。

 

千言万語を費やす感慨に勝る、たった一言だった。

ハラワタが焼けるような悔しさと気のせいかと思うほど僅かな嬉しさが籠る。切り札を、命を懸ける諸刃の剣を切ってなお届かなかった。最強の仇敵はやはり最強だった。そのことがほんの少しだけ嬉しい。超えるべき壁は、高い程やりがいがあるのだから。

 

まあ、“次”があるかは大分怪しいものだが…。

 

ビキビキと、ミシミシとなにか大事なものが崩れていく音が連続して聞こえる。初めてスルトの権能を使った時もそうだった。限界を超えるまで権能を行使した後、強力過ぎる力の反動だと言う風に全身から不吉極まる崩壊音を響かせながら、献身が解除されたのだ。

 

ドサリ、と音を立てて地面に投げ出される将悟。

 

あとに残るのは全身を炭化させ、命を蝕む呪詛に侵されたボロキレよりも無残な肉体だけ。おまけにヴォバンにぶち抜かれた左胸の負傷はそのまま、破られた心臓から大量の血液が流れだし、生命維持のレッドゾーンを余裕で踏み越えている。太陽の権能を使うだけの呪力もない。この状態で出来るのは精々仇敵に黙って首を差し出すくらい―――いや、まだやれることはあったな。

 

“この後は任せて”―――そう啖呵を切った彼女のためにも、出来ることはやらなければ。

 

「今日は…俺の負けだァ…。次…こそ、は、…は……」

 

霞む視界に苛まれながら負け惜しみでなんとか舌を回すが、限界を超えて意識が飛びかける。

 

「次など、無い。ここに至って私が詰めを誤るとでも…?」

「どー…………かな…」

 

やべェ…マジで死ぬ。肉体以上に魂魄を侵し尽くす洒落にならない激痛にかつてないほど近づく“死”を明敏に感じ取る。それでもなんとか耳と舌は動かせる、視界はそろそろブラックアウトしてきたが。将悟の負け惜しみに応えるヴォバンに声にも深刻な疲労が感じられる。なんだ、いいところまで行っていたんじゃないかと自画自賛しながらも、精一杯己に出来ることを将悟は実行し続ける。

 

信じること、それだけは何時だって誰にだって出来ることなのだから。例え無駄に終わるとしても、きっと将悟は後悔しないだろう。

 

「―――天叢雲!」

 

だが幸いにも、将悟のささやかな時間稼ぎは無駄には終わらなかったらしい。

轟く地鳴り。視界の端に黒光りのする巨大な人型、ただしどこもかしこも鋭角でまるで『剣』のような巨人が見える。

 

―――お願い、死なないで。意識が消える直前に、そんなひどく取り乱した恵那の声が聞こえた気がした。

 

その声を最後に、赤坂将悟の肉体は生命活動を止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

………。

……。

…夢を見ている。

絶え間なく黒い炎の舌で身体を炙られる悪夢だ。

 

だが夢を見ている自覚はなんとか出来た……ならば、起きねば。

 

「ッ…~~~~!」

 

身じろぐ。その途端に全身を襲う濃密な苦痛、全身の骨を一本一本砕いたうえで内側に溶けた鉛を流し込んだような痛みと言うも生温い地獄の拷問だ。カヒュッ、カヒュッと必死に酸素を取り込もうとするが、喉がかすれ、呼吸すらままならない。

 

「起きてはいけません、羅刹の君。今しばし体を休め、力を蓄えねば」

 

耳に届く優しい声音。どこか聞き覚えのある女性の声と共に、スッと唇に少量の液体が注がれる。冷たい感触が喉を滑り落ち、優しく内側から身体を慰撫する。治癒の霊薬か、と感得するが全身、特に四肢を苛む苦痛をなだめることは叶わないらしい。

 

だが無理もないと将悟は思う。スルトの顕身は制限時間を過ぎれば自然と砕け散り、全身に反動として呪詛を帯びた火傷を残すのだ。顕身を以てしても抑えきれない凶暴な猛威、そのフィードバックだった。極端な話、権能の発動中ただの一度も攻撃をもらわなくても反動で勝手に自滅してしまう欠陥品。前回は治癒の術も霊薬も満足な効果が見られず自然治癒に任せるしかなかった。しかもカンピオーネの自己治癒能力を以てしても完全復帰まで一か月近い時間がかかったのだ。

 

絶え間なく送られてくる痛みを忘れるため、助言に従ってもう一度眠りに落ちようとするが。

 

「これ以上俺を待たせんじゃねェ。とっとと起きやがれ、クソガキ」

 

酷くイラついた壮年の男の声、これは……スサノオか? 声音と人相が頭の中で結びつき、魂魄を蹂躙する苦痛など無視して半身を起こそうとする。これは負傷ではなく意地の問題だった。この老神の前で弱みを見せるなど、ヴォバンに見せる次くらいに許せないのだから。

 

「スサノ…ッッァ…~~~~ッ!!」

 

なんとか喋ろうと舌を回すが、それに連動して動いた筋肉が全身の負傷を刺激し、ままならない。声にならない呻きを上げ、苦痛に体を横たえる。なんとか我慢できないでもないレベルまで痛みが治まるのを待って視線だけで周囲を見渡すと、そこは穏やかな空に見下ろされた静かな四阿(あずまや)。周辺には将悟が横たわっている布団をはじめとした看病のための道具が幾つも並んでいる。見える範囲にいる人影は玻璃の媛と、スサノオの二人だけ。ちなみに媛はスサノオに咎めるような視線を送っているが気にしている気配は一切なさそうだ。

 

ここは、幽世。それも玻璃の媛が支配する領域のようだ。

 

何故この場に、と一瞬だけ疑問が脳裏をよぎるがすぐに理解する。気を失う直前に聞いた恵那の声、恐らくは彼女が幽世へ渡るための扉を開き、避難させてくれたのだろう。そのまま最も頼りになる庇護者…スサノオの元まで満身創痍の己を運んだのだ。

 

冷静に己の身体を見直すと、無残に破られた心の臓は元通りになり、一定のリズムで鼓動を刻んでいる。身体に遺された傷は破滅の焔に負わされた火傷の形をした呪詛のみ。

 

とはいえあの負傷はあまり癒しの権能と関わりのないスサノオが治せるものではないし、言ってはなんだが神祖程度の玻璃の媛でも荷が重い筈だ。何故俺は助かった? と視線だけで問えば、心得たもので素早く媛が答えを返してくれる。

 

「御身が印度国の英雄殿から簒奪した権能の恩恵です。御身は確かに一度、死の淵へ転がり落ちました。しかし冥途の(みち)へ向かおうとした貴方様を、生命と活力の象徴たる太陽の恩恵が生の側へと引き戻したのです。異国の羅刹王に破られた胸をご覧ください、傷跡一つ残っておりません。……尤も御身が振るう破滅の焔、その傷を癒すには荷が重かったようですが」

「ついでに俺がロクでもない目にあったがなァ…。はた迷惑な用法に目覚めやがって」

 

俺が一秒遅けりゃ媛も恵那の野郎も跡形も残ってねぇぜ、とどこか焦げ臭いスサノオが厭味ったらしく含みのある発言を告げるがそんなことよりも重要なことがある。

 

「―――…恵那は、そうだ、グギッ……アイツは…!」

「無事だ。だが元々限界を超えて神がかりを使った後で下準備も無しに無理やり幽世渡りをやらかしたお蔭で呪力はスッカラカン。そのせいでいまはこんな有り様よ」

 

と、将悟に手にもつ櫛を見せてくる。続けて無理やり暴走させた天叢雲もしばらくは使えねェしよ、と呟くスサノオだが将悟の中では正直あの反りの合わない神剣より恵那の方が優先度はよほど高い。

 

「それ、が…?」

「ああ、恵那の野郎だ。放っとけばそのまま幽世に溶けてもおかしくなかったからな。こっちで櫛の形に押し込めれば、傷は癒えないが悪くなることもねぇ」

 

幽世は精神と物質の境が非常に曖昧な世界だ。自我と呪力をしっかりと保てなければそのまま息を止め、死体も跡形残らず消滅してしまう世界なのだ。

 

「そうか…。ありがとよ」

「やめやがれ、薄気味悪い。俺が勝手にしたことに、外野がゴチャゴチャ言うんじゃねぇよ」

 

これがツンデレなら生暖かい視線の一つも向けただろうが、徹頭徹尾本気で言っているので苦笑程度しか出ない。その苦笑が苦痛を呼び、すぐに歪んだものになってしまったが。

 

「それじゃ、ジジイは…」

「あ、俺か?」

「テメェに用は―――」

 

無い、と言い切ろうとしたところで再び尋常ならざる激痛が将悟を襲う。身を捩らせて必死に苦痛を紛らわせようとする姿にスサノオは底意地の悪い笑みを浮かべながら滔々と説明してくる。

 

「冗談だ。あの狼爺の神殺しならもういねぇ。あのまま草薙護堂とやり合う元気は流石に無かったようだぜ」

「羅刹の君の中でも一際鋭き方でした。幽世から覗く我らの存在を看破し、赤坂様へ言伝を預けたのです」

 

無言でスサノオに向けて怒りを向けていた将悟だがヴォバンからの言伝と聞いて思わず媛に向き直る。視線で玻璃の媛に続きを促すと、ゆっくりとその言伝について教えてくれた。

 

「はい、ありのままお伝え致します。“私の負けだ。巫女はくれてやろう。再戦まで壮健であれ”―――以上となります。羅刹王よりも羅刹王らしい、豪胆な物言いでした」

「余裕ぶりやがって。あのクソジジイ…!」

 

激痛を押し殺すほどの怒りに身を震わせる将悟に面倒くさげな視線を向けるスサノオ。

 

「試合に勝って勝負に負けたか、その逆かは知らんけどよ。最初の目的は果たしたんだろうが、ちっとは喜べや」

「あのジジイに上から目線で見下されたままなんざ負けたのと同じなんだよ!」

 

外野は引っ込んでやがれ、と殺意すら籠った視線に怖い怖いとここぞとばかりにからかってみせるスサノオだが最早将悟の目にはヴォバンしか映っていない。

 

「次だ、次は絶対、俺が…、勝つ!」

 

文字通り死んでも懲りない、という実例を目の前で見せつけられたスサノオは呆れの籠った溜息を吐きながら如何にしてこの魔王を幽世から厄介払いできるか、頭を回すのだった。

 

 

 

 

 

 

―――これが赤坂将悟とヴォバン侯爵の因縁が絡まり生じた第二戦、その結末。過程はどうあれ互いに求める物を得られず、勝負は痛み分けに終わった。

 

残ったものは確信だけ。

 

我と彼、彼我の力は互いが考えていたよりはるかに近づいた。ならば次こそは五分と五分との大勝負。

 

否応なく両者の死生勝敗を分かつ、乾坤一擲の大勝負になるだろうという確信だけが今回得られた報酬だった。

 

 

 




これにて『嵐、来たる』の章は終了です。後始末くらいは言及されるかもしれませんが。
ここまで読んで護堂が空気だと思った人は活動報告を読んでください。今回の執筆における紆余曲折を載せてあります。


2016.4.30
一部改訂。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。