ゆうかりんか   作:かしこみ巫女

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第七十話 ネクロファンタジア

 ――ロケット打ち上げを成功した偉大なる吸血鬼レミリア・スカーレットを皆で讃える会――月への侵略を失敗したレミリア・スカーレットを慰める会が紅魔館で盛大に開かれた翌日。

 

「ふぁーあ。眠い」

 

 私はむくりと起き上がる。そろそろ朝食の時間のはずだ。寝ぼけ頭で着替えてから歯を磨いて顔を洗い、リビングに向かう。

 

「んん?」

 

 何か違和感がある。そういえば、いつもなら朝食を準備しているはずの幽香の姿がない。ということは、このままボーっと待っててもテーブルにも料理が並ぶことはない。お腹は空いた。さて、どうしたものだろう。

 自分で用意するのはやぶさかではないが、勝手に台所に入ると悪魔に怒られるのである。よって、一言許可をもらわねばなるまい。

 

「お邪魔しまーす」

 

 幽香の部屋のドアをノックしてから、入る。幽香はベッドで寝ていた。昨日はやけに飲みまくっていたから、その代償を今払っているのだろう。無様であるが、私も人のことはいえない。

 最近の幽香は酒の量が増えている。なんというか、浴びるように飲むという言葉が相応しいというか。失恋でもしたのかとボケをかましたいところだったが、それはグッと堪えておいた。本気パンチ一発と引き換えでは割に合わない。芸人道をひたはしる私でも、自重はできるのである。

 

「あのー。朝食私が作ってもいいですか?」

「…………」

「おーい」

 

 ゆさゆさと幽香の身体を揺さぶるが、返事はない。呼吸はしているので生きているのは間違いない。酒に溺れてアルコール中毒で死亡とかしてたら面白いが、そんなことは万が一にもありえないだろう。だって妖怪だし。

 

「おーい。私の声が聞こえてますかー」

 

 寝ている幽香の頬をつんつんしてみる。起きない。抓ってみる。起きない。髪をぐしゃぐしゃとしてみる。起きない。よし、デコピンだと思ったところで我に返る。なんとなくカウンターを喰らう光景が見えたから。

 良く分からないが、この分なら当分は起きないだろう。よって、勝手に朝食を頂く事に決定だ。適当にパンやら肉でも貪ることにしよう。ついでに朝からお酒もいいね!

 そう決めて振り返った瞬間、後ろからぐいっと腕を回されて拘束される。そしてそのままベッドに引きずり込まれてしまった。

 

「ぐえっ」

「…………」

「ぐ、ぐるじい」

 

 両腕で私の体を完全ロック。このまま絞め殺されるかと思ったが、それ以上のことは起きなかった。なんのつもりかと思って幽香の顔を見るが、目は閉じられたまま。おそらく、寝ぼけているのだろう。

 抜け出る為に腕をどけようとするが、篭められている力が凄まじい。離してくれそうにない。

 

「ちょっと。離してください。離せって」

「…………」

 

 返答はない。私の頭に右手が置かれる。そして子供をあやすかのように、優しく撫でてくる。一体何と間違えているのだろうか。ぬいぐるみか何かか。そんなものこの部屋にはないけど。もしかするとこのまま絞め殺される可能性がある。真剣勝負ならともかく、寝ぼけている相手にぶち殺されたとかはあんまりにあんまりだ。ということで必死に反抗する。

 

「いい加減起きろ! この酔っ払い!」

 

 怒鳴りつけるも駄目。これはもう駄目かもしれない。下手に乱暴に起こして、寝起きの一撃を食らうのはご免だ。人は流れに乗れば良いと偉い人も言ってた。私もそれにならい、目を閉じて二度寝をすることに決めた。

 

「……そういえば」

 

 今思うと、こうして一緒に寝るなんて初めてのことかもしれない。長年一緒に暮らしている親子でそれはどうなんだと思うが、私たちはそういう間柄ではない。ただ一緒の家にいるだけのこと。だからこれは、最初で最後になるであろう出来事だ。

 なんだか良く分からない感情を抱きつつ、私の意識は少しずつ沈んでいった。

 

 ――結局、一時間後に私の拘束は自然と解かれた。幽香は相変わらず眠っていたが、力が緩んだのだ。その隙に私はするりとその腕から脱出する。そして、改めて幽香の顔を見下ろす。

 完全に無防備で、今なら確実に殺せるという気がした。唾を飲み込む。

 熟睡して、完全に無防備な幽香。その首に手をかける。いつもは暴虐な女の首とは思えない程に華奢だ。妖力を篭めて、全力で力を篭めれば多分殺せる。

 

「…………」

 

 私は止めておいた。なんとなく、今日はそういう気分になれなかったから。後で後悔するのは分かっていてもだ。

 幽香の目から、雫が零れている。私の目からも、何かが流れ落ちる。世界が滲んで見える。嗚咽が漏れそうになる。別に悲しくないのにだ。実におかしなことである。

 私はまた幽香と一緒のベッドで眠ることにした。自動目覚まし装置のようなものだ。幽香が目を覚ませば、私は蹴飛ばされて起きることができるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 更に翌朝。いつの間にか私は自分の部屋で寝ていた。妖怪なので、一日飲まず食わずでも死ぬことはない。寝ようと思えばいくらでも寝れるし。もちろんお腹はすくけど。

 

「全く。寝ているだけで一日無駄にするなんて。あー、今日は昨日の分まで取り返さないと」

 

 私は愚痴を吐きながら布団を剥がす。昨日は本当になにもしなかった。やるべきことはそんなにないけど。まずは花に水と栄養をあげなくては駄目だ。

 と、私の部屋の窓に、紫のバラの人から贈り物が届いていた。写真立てと、山の果物がたくさん。写真立てには、私と幽香が一緒のベッドで寝ている写真が入っていた。これだけ見ると、まるで本当に仲の良い親子のようだった。

 どうしてこんなものを送ってくれたのかはわからないし、どうやって撮ったのかも分からない。幽香に見せてどんな反応をするか見てみたいが、破られそうなので止めておこう。

 

 とりあえず、写真立ては部屋に飾っておくことにした。今度フランたちが来たら笑い話に出来そうだし。

 別に幽香に対して特別な感情がある訳じゃない。だけど、あの出来事が夢幻じゃなかったという証になる。私がこの世界に存在していたという証にもなる。確かに、私はここにいたのだ。

 

 部屋を出ると、今日は朝食がしっかりと用意されていた。でも幽香の姿はない。また寝てしまったのかもしれない。あれだけ寝てたくせに、まだ本調子ではないのだろうか。それとも何かやっているのかな。良く分からないけど。

 とにかく、今日は捕まりたくないので、様子は見に行かない。二日連続で水遣りさぼりはまずいだろうし。大事な花たちがかわいそうである。

 

「んー?」

 

 それにしても、なんだか妙に妖力が滾ってきている気がする。好調というか、なんだか変な感じ。イメージ的には酒瓶からどんどんどんどんお酒が溢れて、地面を浸していくような。それでもそれでもお酒は中から溢れてくる。一体どれだけ入っているのだろう。お酒の色はとっても真っ赤。フランなら喜んでくれそうだ。

 

 結局この日も、幽香は部屋からほとんど出てこなかった。無言のまま昼食と夕食は作ってくれたけど。別に顔色は悪くなかったので、病気ではなさそうだった。だが、機嫌はよろしくなさそうなのは間違いない。私が声を掛けても一瞥された後、無視をされたから。挨拶ぐらいしろよと思ったが、八つ当たりされそうなので止めた。

 花畑の向日葵たちは相変わらず元気。私の彼岸花は、死ぬ程元気に咲き誇っていた。だって、今が季節の花だから。

 

 

 

 ――そしてまた朝が来る。スケジュールだと、今日はアリスの家へ勉強にいくはずなのだが。幽香は全く連れて行ってくれる様子を見せない。私がいかないのかと尋ねると。

 

「……もう、必要ないわ。お前はここにいなさい」

「は?」

「当分の間、お前はここで大人しくしていなさい。私がやるから畑仕事もしなくていい。外に出ず、絶対に家にいろ。これは、命令よ」

 

 幽香が今までで一番といえるくらいの険しい表情で、私に命令してきた。意味が分からない。

 

「そんなの、絶対に嫌なんですけど。退屈と絶望で死んじゃいます。アリスにも迷惑ですから、行きましょう」

「暫くの間だけよ。後でアリスも来るから、問題ないわ」

「いや、だから――」

「うるさいッ!! いいから私の言う事を聞きなさい!!」

 

 激昂した幽香の一喝。ここまで感情を露わにするのは非常に珍しい。いつもはもっと偉そうで余裕綽々だから。怒ったときでさえも。

 怒鳴られた私はどうすることもできない。嫌だと攻撃を仕掛けても、今はまだ勝てないし。なぜなら私は弱いからだ。だから、大人しく引き下がる。それに幽香は当分の間と言った。これが永遠にと言われたら、死ぬと分かっていても挑むつもりだった。

 なに、退屈には慣れている。好きじゃないけど。幻想郷制圧ゲームを仕上げてしまおうかな。後は色をつけるだけ。

 

 そんな感じで時間を潰していたら、お昼過ぎにアリスがやってきた。

 

「悪かったわね。この状況だから、連絡もできなかった」

「いいの。気にしないで。それより――」

 

 やってきたアリスを、幽香が出迎える。

 

「……始まったわ。最初は大丈夫かと思った。けれど、もう兆候が出始めてる。外の状況は知っているでしょう?」

「……そうね。変質したのをこの目で見たから。集落が特に酷い」

「早速死神がうろつきだした。見かけ次第追い払ってるけど、キリがない。まだ本腰を入れてないみたいだし」

「私は術式が完成次第、計画を実行するつもりよ。たとえ貴方が反対してもね。もう議論している時間は無いでしょう」

「……ええ、そうね」

「今日は止めないの? パチュリーの言っていた通り、危険もある。実験なんてできないもの」

「貴方を止めるべきなのか、私には判断できない。一体どうしたら良いのか分からない。あの子が再生したあの日から、私はずっと考えてきた。必ず来るこの時にどうすれば良いのかを。徒労に終わったけれど」

「……私に任せて。きっと上手くやってみせる」

「…………」

 

 話していることが私にはさっぱりである。

 

「あの。それは何の話なんですか?」

「いえ、こちらのことよ。貴方の方は変わりはない?」

「ええ。絶好調すぎるくらいですね」

 

 私がピースサインすると、アリスが軽く微笑む。そして頭を撫でてくれた。

 

「そういえば、花梨人形のメンテナンスはまだかかりそうですか?」

「もう少し時間が必要ね。耐久性も向上させたいから、少し手間取ってるの。慎重に作業しないとね」

「なるほど」

「だから、貴方は何も心配しないでいいの。そうそう、暇つぶしができるように、一人でできるクロスワードパズルを買ってきたわ。頭の体操に良いわよ」

 

 アリスが私に本を手渡してくれた。一般常識クロスワードパズル。『遊びながら一般常識を学んで立派な常識人になろう』と書かれている。ペラペラとまくる。タテのカギ:朝の挨拶は? 答えは『おはようございます』。

 色々言いたいことはあるが、我慢しておこう。どんなものでもアリスからの贈り物なら大歓迎である。宝物が増えてしまった。私がそれを嬉しそうに受け取ると、アリスが話しかけてくる。

 

「それじゃあ、幽香ともう少しだけ話があるから、また後でね? 良ければ人形たちの相手をしてあげて」

「分かりました」

 

 アリスと幽香が部屋に入っていくと、鍵が閉まる音が聞こえる。

 もしかして私の教育方針についての話し合いだろうか。いわゆる、家庭訪問的なあれ。ちょっと気になったので聞き耳を立てようとすると、すぐに上海と蓬莱に阻止されてしまった。

 

「えー。気になるんだけど」

 

 私に×サインをつくる人形達。残念ながら諦めるしかないだろう。二体の人形に両脇を抱えられ、まるでリトルグレイのように自室まで連行されていく私。中々面白い光景になっているに違いない。仕方ないので大人しくアリスのクロスワードパズルを解いていることにした。途中寝そうになったが、その度に上海に起こされた。これではお土産ではなくて宿題の間違いである。

 

 それにしても、一体何を話していたのだろう。断片的な単語は、『時間切れ』、『異変』、『花』、『ヨリシロ』とかだっただろうか。うん、IQ180ぐらいないと解けそうもない謎である。

 結局、二人の話は夕方まで続いた。私の部屋にやってきたアリスは極めて真剣な雰囲気だった。

 

「アリス?」

「……心配しないでいいわ。私が、必ずなんとかするから」

「えっと?」

「ただ、もう少しだけ時間を頂戴。準備を万端にしたいの。だから、それまでは」

 

 アリスは私を抱き寄せると、頭を撫で回してくる。私にはなんのことだかさっぱり分からない。ふと部屋の鏡を見る。アリスに抱きしめられている私はどんな顔をしているのか気になったから。

 どうやら私は笑っているようだった。そして、自慢の赤い髪の毛が、なんだか黒く変色してしまっていた。栄養分がたりていないせいだろう。そのうち直るに違いない。

 と思ったら、また赤くなっていた。目が悪くなってきたのだろうか。

 

 

 

 

 今日の風見家は、またもや千客万来である。こっそりルーミアとフランがやってきたり、射命丸文が風のように現れて去っていったり、魔理沙、霊夢、妖夢がやってきたり。なぜか霊夢や魔理沙たちは家の中までは入ってこなかったが。外からこちらを眺めるだけ。私は動物園の獣になった気分である。手を振ると、皆、笑顔で振りかえしてくれた。霊夢は作り笑顔が下手くそだったのが印象的だ。

 

 ルーミアとフランは中に入ってきて、お菓子をプレゼントしてくれたが、直ぐに帰って行ってしまった。何か大事な用事があるんだとかなんとか。

 ああ、早く外に出て一緒に遊びたいなぁ。どうして私はこの家から出てはいけないのだろう。実に理不尽だが、私は存在そのものが理不尽の塊だった。だから仕方ない。

 アリスからもらった一般常識クロスワードパズルを開く。マスが死ぬ程多くて、埋めるのは一苦労である。

 少し飽きてきた私は赤ペンをもち、余白に丁寧に彼岸花を描き始める。そしてぬりぬりぬりぬりと色をつけていく。あはは。白と黒で味気なかったページに彩が増えた。この調子でもっと花を増やしていこう。どんどんどんどんどんどんどん、世界を綺麗な花で埋め尽くそう。そう、私の彼岸花で。そうすれば、もう大丈夫だ。私がどうなろうとも、いつまでも皆と一緒に遊ぶ事ができるだろう。この幻想郷が存在する限り、未来永劫だ。

 

「はぁい。元気にしてる?」

 

 空間に裂け目が出来たかと思うと、八雲紫がいきなり顔を出してきた。ハッキリ言って心臓に悪い。だがこの程度で悲鳴をあげていたら幻想郷で生きていくことは難しい。

 

「びっくりしました。今度は紫さんですか」

「そうよぉ。神出鬼没の紫ちゃん。遊びに来ちゃったわ」

 

 紫がクロスワードパズルに視線を向けてきたので、愛想笑いをしながら閉じる。

 

「これはアリスがくれたもので。あはは、一般常識を勉強できるんですよ」

「へぇ。面白いものをもらったのね。しかも、真っ赤に塗られてとても綺麗だったわね」

「あはは」

「……ところで、幽香はお部屋かしら」

「多分、中にいると思います。でかけた様子はないので」

「一緒に暮らしているのに、不思議な答えなのね」

「あはは。暮らしているというか、ずっと同じ家にいるだけでしたから」

 

 私の答えに、紫が薄く笑った。何を考えているのかは全く読めない。

 

「ところで、外の様子は知っているかしら」

「えっと、なんというか、皆が私を危険物扱いしていることですか?」

「あら、そんな風に感じていたの?」

「なんとなくですけど。私に外を出歩かれちゃ不味いんでしょう? そんな気がしました」

「…………」

 

 紫が無言で微笑む。ドッキリパーティでも仕掛けられているのなら楽しみにできるのだが。最近は妙なことばかりである。だが、アリスがなんとかしてくれると言ってくれたから、私はそれを待つだけだ。

 もしかしたら質の良い染色剤でも作ってくれるのかも。たまに髪が黒くなるのをアリスも目撃しているとしたらありえる話だ。私の髪が黒いと妙な評判がたつかもしれない。邪気やら厄が溜まっているとか。

 

 なぜかいきなり会話が途切れてしまった。私は話題を元に戻すことにする。紫の視線をずっと受けているのは、何だか緊張するし。早く終わらせたい。

 

「それで。一体何があったんですか? 気になっちゃって」

「そうねぇ。貴方は、何があったと思う?」

 

 八雲紫が問いかけなおしてくる。昨日はずっと家に篭っていたので、外の様子はさっぱりだ。いや、出かけるとしてもアリスの家や紅魔館ぐらいなので詳しく知る機会もないのだが。

 

「さっぱり分かりません。ずっと家に篭りっきりなので」

「ええ、そうよね。分かるわけがないわよね」

 

 なんだかはっきりしない紫。これが彼女の会話術だから仕方ない。わざと曖昧に言ったりして、煙に巻くのだ。

 

「何かあったんですか?」

「……もう秋だというのに、桜が咲き始めてたのよ。一度、見事に散ったはずなのにねぇ。まぁ見応えはあったけど、風情はなかったわね」

 

 紫が、扇子を手で弄ぶ。

 

「……そうなんですか」

「そうなのよ。しかもそれだけじゃなく、四季の花々も気侭に咲き乱れていたの。本当に不思議でしょう。だからね、専門家の話を窺おうと思ってやってきたの。後は『本当は幽香の仕業じゃないの?』とか適当にからかおうかと思って」

 

 楽しそうに紫が笑った。紫と幽香は腐れ縁っぽいし。

 

「よく分かりました」

 

 とても納得がいった。幻想郷の賢者としては、たかが花とはいえ気になることには違いない。多分、花映塚だから問題ないと思うけど。勝手に始まり、勝手に終わる。これはそういうものなのだ。誰にも止められない。

 一方の紫は、ノックをして返事を待たずに幽香の部屋に入ろうとした。が、開かない。

 

「鍵がしまってるようねぇ。それじゃあ、スキマから失礼しちゃいましょう。怒られちゃいそうだけど」

「…………」

 

 そう言い残すと、スキマが開かれ紫の姿が消えた。

 

「……四季の花々。確かに“順番”は合っているけど、ちょっと季節がおかしいような。あの異変は、春の話じゃなかったっけ?」

 

 異変の順番的には、今度は花映塚で正しいはずだ。だが、今は9月。どうして時期が早まっているのだろうか。年がずれて遅くなっているのか。さっぱり分からない。正確な異変年表なんて知らないし。

 私はとても喉が乾いたので、水を飲もうと立ち上がる。

 

「はい、冷たいお水よ」

「――ッ」

 

 立ち上がり、台所に向かおうとしたところ、紫が目の前にいた。紫は優しく笑っている。だが、目が笑っていない。

 

「あらあら、どうしたのかしら。喉が渇いたのじゃなくて?」

「あ、ありがとうございます」

 

 何故か分からないが、緊張してしまう。いつものお茶らけている紫ではない。なんというか、こちらに対して威圧しているような。そんな感じを受ける。いや、私の行動の全てを監視しているに違いない。

 

「一つ、言い忘れていたことがあってね」

「…………」

「四季折々の花が咲いていると言ったけど、それは別に些細なことなの。多少の波紋は生むでしょうけど、大した出来事ではなかった」

「そ、そうなんですか?」

「ええ、今年は六十年目の回帰の時。花が咲き乱れたって驚きはしないわ。だからね、桜や向日葵が咲こうが枯れようが、私は一向に構わなかったの。幻想郷に害をもたらさない限りはね」

「…………」

「一番の問題はねぇ」

 

 私は紫の目を凝視したまま、次の言葉を待つ。

 

「――それらの花に取って変わり、今度は真っ赤な彼岸花が咲き狂い始めたの。この世界を埋め尽くすかのように、今も範囲を広げ続けている。一体どこまで広がるのか、とても興味深いわ」

「……彼岸花、ですか。でも、この時期に咲くのは至って普通ですけど」

「それはそうよねぇ。ただねぇ、数がおかしいのよ。一目見て異常といえるくらいに。まるで、赤い絨毯。しかも、人間のいる場所ほど、花の密度がより顕著なの。……本当に、不思議よねぇ」

「…………」

「更に悪い事に、霊がそれらに乗り移り始めている。まるで、ここが我らの世界と言わんばかりにねぇ。ここは死者の楽園ではないというのに」

 

 紫が手渡してきたグラスを受け取り、一気に水を飲み干す。紫の胡散臭い笑みはなくなっていた。その目はまるで虫を見るかのように無機質だった。本当なら恐ろしいのだろうけど、なんだか全然怖くなくなっていた。

 

「幻想郷は、全てを受け入れる楽園なんでしたっけ。なら良かったですね、紫さん。楽園にまた一歩近づいて」

 

 だから、代わりに私が笑ってあげることにした。

 

 暫く無言のまま見つめあっていると、紫が溜息を吐き、先に視線を逸らした。もう話すことはないと言った感じで。そして、幽香のドアに再びスキマを開いて中へと入って行った。

 

「ああ、そうか。つまりは、そういうことなのか。なら、もう仕方がないかなぁ」

 

 私は椅子にもたれかかり、自分の髪を一本抜く。なんだかちょっと黒みを帯びているように見えた。まだ気のせいだけど。その力を使って彼岸花に変化させる。赤い彼岸花。

 一つ分かってしまったことがある。見たくなかったこと。私が本当は知りたくなかったこと。そして、もしかしたら心の奥底で望んでいたこと。きっと、これが私の――私たちの、終わりの始まりなんだ。

 

「時間切れか、それとも――。何か、やり残したことはあったかな」

 

 赤い彼岸花をぼんやりと眺めていると、やがて黒に変わり、靄を生じて塵になる。窓から冷たい風が入り込むと、それらは綺麗さっぱり、塵一つ残さず消えて行った。

 

 


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