扉を無言でノックする。念のためにもう一度。
「……こんばんは。そんなに強く叩かなくても、ちゃんと聞こえているわ」
「こんばんは。契約では、貴方が送ってくれるはずだった気がするのだけど。私の記憶が間違っていたかしら」
「それで合っているわ。ただ夕食を取っていたら少し遅くなってしまっただけ。貴方の言いたいことは理解しているから、殺気を抑えてくれるかしら。あと、その表情も。悪魔が襲いにきたのかと思ったわ」
顔を引き攣らせながら、アリスが片手でこちらを制してくる。
こめかみに指をあて、大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。
「燐香は」
「ぐっすりと寝ているわよ。慣れない鍛錬で疲れたみたい。なんなら、今日は泊めていっても構わないけれど」
「それには及ばない。あの子の家はここじゃない」
「そこまで言いきるのであれば、もっと優しくしてあげなさい。仮にも母親でしょう」
険しい視線でこちらを睨んでくる。いつのまにそれほどあの子に情を抱くようになったのだろうか。
「余計なお世話よ」
「……はぁ。ちょっと待ってて。お願いだから、家を壊さないでね」
アリスがドアを開けたまま奥へと戻っていく。人形二体が浮遊しながらこちらを窺っている。警戒させているのかもしれない。
「お待たせ。ぐっすりと寝てるわよ」
アリスが燐香を抱きかかえて戻ってくる。心から幸せそうな表情で目を瞑っている。それを見ていたら、なんだかイラついて来た。
こちらにそのまま渡してこようとするので、首筋をわしづかみにする。
「……いくらなんでも、その扱いはひどいんじゃない?」
「甘やかしたいのならば貴方がやればいい。私は私のやり方をするだけ。誰にも邪魔はさせない」
「……何か事情があるなら相談に乗ってもいいけど。魔術に関してならそれなりに知識はある。調べることもできるわよ」
「その必要があったらそうさせてもらう。今はまだ必要がない。それじゃあまた明日」
「……ええ。おやすみなさい」
アリスの言葉を待たずに、踵を返して上空へと飛び立つ。右手で掴んでいる燐香は、幸せそうな顔でぐっすりと眠っている。アリスの家に泊まれると信じているのだろう。能天気な奴だ。
◆
翌朝、未だに惰眠を貪っている燐香を起こしにいく。布団にくるまったまま思い出し笑いを浮かべている。非常に不愉快なので、頬を摘んで全力で抓り上げる。容赦する必要など何一つない。
「い、痛い痛い痛い痛い。な、なに、なに、何事!? もしかして敵襲!?」
「おはよう」
「うぎゃあああああああッ! あ、悪魔あああっ! あ、悪霊退散っ! せ、聖水と十字架はどこっ? どこに――ぷぎいっ!」
ベッドから情けない悲鳴を上げて転がり落ちると、一心不乱に十字を切って祈りを捧げ始める。妖怪の癖にどうかしている。しかし見ている分には中々面白い。
そう、この娘は本当に面白いのだ。いつまでたっても反骨精神が和らぐことはない。同時に、わけの分からない知識やら技術で幽香に一泡吹かせようとこっそりと企んでいる。それが小憎らしくもあり、面白くもある。
たとえば先日の呪縛術だ。あんな姑息なものを教えた覚えはない。しかし、精度を高め、妖力をさらに強化すればかなり凶悪な妖術となるだろう。
そして隠形術。今は未熟極まりないが、あれはかなり高度な術式だ。あの術を使ってこっそりと家を抜け出し、幽香への対策のために必死に修行をしている姿は実に愉快なものであった。全てバレバレだというのに、こちらが感づいていないとほくそ笑む様子は実に滑稽だった。
「き、効かないいいいいっ! ああ、この大魔王を封じるためにはやっぱり魔封波じゃないと。でも今はとにかく悪霊退散ッ! 大魔王め、美しく残酷に去ね!」
八雲紫が使いそうな台詞を吐いたため、幽香のこめかみに青筋が浮かぶ。
「――あ?」
「こ、怖いっ。それになんでこの家に? どうしてアリスの家から魂の牢獄に? あ、もしかしてまだ夢の中?」
「洒落たことを言う余裕はあるみたいね。ここは牢獄じゃなくてお前と私の家。アリスがいつまで待ってもお前を届けにこなかったから、迎えにいってあげたの。精々感謝しなさい」
「……あ、ありがとう、ございます」
「顔が引き攣っているわよ。ああ、もしかして力を抑えられるようになってきたのかしら。前よりも威圧感が弱まっているし。やっぱり、アリスは優秀みたいね」
「は、はい。そうですね」
「早く起きろグズ。朝食にするから。3秒以内に行動しなければ――」
「い、今すぐ起きます」
ふらつきながら、燐香が行動を開始する。幽香は軽く頷くと、朝食の準備をするために台所へと向かった。
◆
――朝食後。
「アリスの家に行く前に、軽く運動をしましょうか。なに、そんなに激しくはしないから心配はいらないわ」
「い、いいえ。遠慮しておきます」
「お前の意思は聞いていない。馬鹿みたいに頷いていなさい」
「はい、そうでした。え、えへへ」
「その不愉快な笑いは止めろとなんど言えば分かるのかしらね、このグズは」
鏡で見慣れた顔、幼き頃の自分の顔で、情けない面を見せ付けられるのだけは我慢がならない。どうせなら、憎悪に満ちた顔の方が良い。こいつには、そちらのほうが都合が良い。
「す、すぐにやめます」
外に出て向かい合うと、ニヤリと笑いかけてやる。ひっと脅える燐香。10年経ってもまるで変わらない。怯えている癖に、心の中ではこちらへの敵愾心を滾らせている。それが面白い。
「ああ、この前お前が使ってきた呪縛術。あれは中々発想が良かったわ。グズのくせに、よく独学で取得できたわね。それだけは褒めてあげる」
「あ、ありがとうございます!」
たまに褒めてやると心底意外そうな顔をする。その顔が憎たらしいので、すぐに歪めたくなる。その方が良いのだ。
「というわけで、お前にもそれをかけてあげましょう。自力で解除してみなさい。これは抵抗力を高める訓練でもある」
「――え?」
唖然とする燐香に、日傘を向ける。地面から蔦が現れ、小柄な体を拘束する。植物を用いているが、同じようなものだ。妖力を用いて解除するか、肉体能力で強引に打ち破るかのどちらかが求められる。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでいきなり! というか、なんで私の技を使え――」
「お前ごときの技、一目見れば使うことぐらいは容易いのよ。だから、小手先の技術を弄するなと何度も言っているの。どうしたらその頭の悪さは改善されるのかしら」
「――ううッ」
「自分の技で苦しむ気分はどう?」
「ぐぶぅ」
蔦の締め付ける力を強めていく。顔を真っ赤にして必死に解除しようとする燐香。妖力を溜めて弾こうとしているが上手くいかない。落ち着けば解除できるのに、焦ってしまうために失敗する。何度叩き込んでも学習しない。だから、身を以て思い知らせる。
「早くしないと、窒息死するかも。まぁ、それもお前の運命かもしれないわね。ああ、そのまま死んでしまっても構わない。お前の死体は花畑の肥料にして有効活用するから」
「ち、畜生ッ」
燐香の目に黒いものが宿っていく。その目には、風見幽香の姿が確実に映っている。これで良いのだ。燐香は、未来永劫、自分を憎み続けていれば良い。他の者に目をくれる必要はない。誰が優しくしようとどうでも良い。だが、憎悪だけは徹底的に刻み込む。
「――と、グズの癖に生意気なことをッ」
燐香の両目から緑色の怪光線が放たれる。幽香は体をそらして回避。光線を受けた後方の地面が深々と抉れていく。直撃したら、肉体はそれなりに損傷を受けていただろう。下級妖怪ならば、軽く殺せるぐらいの威力はある。
幽香が燐香を鍛えている目的は三つ。一つ目は妖力の純粋な強化。二つ目は容量の強化。そして、妖力をそこに蓄えておけるだけの、器――肉体の強化だ。故に、手加減だのコントロールだのを教え込んでいる暇などない。短期間で徹底的に叩き込むには、これが最適と考えているだけ。
「本当にその発想力には驚かされる。でも、事態はなんら解決していない。基礎力の強化を怠ったツケが回ってきたというわけ。甘んじてうけいれなさい。これからは、精々真剣に鍛錬に取り組むことね。さもないと、死ぬことになる」
燐香の髪を掴み、挑発的に嗤い掛けてやる。燐香から敵意、殺意が溢れるのを感じる。だが、髪は黒に変化してはいない。まだ、赤のまま。成長の兆しは確実に見えている。これで良い。
「く、口から――」
「そうはさせないわ」
今度は口から妖力光線を放とうとしたので、左手を突っ込んで強引に阻止してやる。全力で噛み付いてくるが、気にせずにこの状態を維持だ。
「力を篭めてない私の手を、噛み切ることができないの? 本当、妖怪の面汚しね」
「――ッ!!」
「ほら、全力でやりなさい。私を殺したいんでしょう? 左手を取ることができれば絶好の機会になるんじゃなくて?」
「ッ!!!!」
悔しそうにもがもがとしばらく苦しんだ後、短い悲鳴を上げて燐香は気絶した。――今日はこれくらいで良いだろう。
「やれやれ。この馬鹿、本当に全力で噛み付いてきたみたい」
左手は骨まで抉れている。全精力を篭めて噛み千切るつもりだったらしい。溢れる憎悪、怨嗟を全て向けてきた。実に愛らしいものだ。だが、まだ足りない。これでは駄目だ。こいつはもっと強くならなければならない。一個の妖怪として、この幻想郷で生きていくためには、こんなものでは全く足りない。
「…………ふん」
蔦から花を咲かせ、即席のゆりかごを作成。そこに伸びている馬鹿を放り投げる。次に目覚めるのは一時間後くらいだろうか。そうしたらアリスのもとへ届ければよい。
「…………」
ふと足元を見ると、黒い小さな彼岸花が咲いていた。暫く見つめていると鮮やかな赤に戻り、そのまま萎れて枯れていった。
幽香が去った後、ゆりかごの傍にスキマが現れる。この世のものとは思えない、何かが蠢く空間。そこから、八雲紫が顔を出す。
「……歪んでるわねぇ。見てる分には面白いからいいんだけど。折角だからこのまま攫っちゃおうかしら。あいつ、どんな顔をするかしらねぇ。想像するだけお酒がすすんじゃうわ。……本当にお酒を持ってくればよかったわぁ」
妖怪としての本能が僅かに疼く。感情の発露を向けられるというのは心地よいものだ。良いものの方がもちろん嬉しいが、それとは逆のものでも嬉しくなる。自分の存在をその個に刻み付けたという何よりの証だ。立場的に、そのようなことは控えているが、願望は常に持っている。
「あいつに似て、実に腹立たしい顔をしているわねぇ。どうしてやろうかしら。落書きでもして、幽香をからかうのもいいかもね」
紫は煤のついた燐香の顔に、扇子を押し付ける。ほっぺたが柔らかくて中々感触が良い。そのまま遠慮なくぐいぐいとやっていると、近くの向日葵がこちらへと一斉に振り向いてきた。その光景は実に異様なものである。
「……あらあらあら」
妖力が急速に溜まっているのがあからさまに分かる。標的は間違いなく自分。数秒後にはこの花々から一斉射撃が始まるだろう。ついでに、顔を真っ赤にした母熊が全速力で飛んでくるというオマケつき。中々凶悪な罠である。人間だろうがなんだろうが、容赦するような奴ではない。
これは幽香の警戒装置なのだ。だから、出歯亀天狗もここには容易に近づけない。こんなに美味しいネタを放っておく理由はこれだ。
「怖い花妖怪に見つかったから、今日は大人しく立ち去るしかないか。いつか、私の娘と仲良くなってくれるといいんだけど。そのためにも、貴方にはこの幻想郷に馴染んで――」
言い終わる前に、向日葵の花々から強力な妖力弾が連射される。燐香のゆりかごには植物の蔦が一斉に絡まって完全な防御が為されている。殺したいとか言っている割にこの過保護である。
だからからかいたくなってしまうのだが、今はそんな余裕がない。これを全部受けたら、それなりに耐久力のあるこのお気に入りの服がひどいことになってしまう。
紫はちょっとだけ焦りながらスキマの中に逃げ込むと、やれやれと一息ついたのだった。
――と、服に何かがついているのに気付いた。
「――げ」
なんだか嫌な色をしたオナモミが数個くっついている。いつの間に。慌てて取ろうとした瞬間、爆竹のようにはじけ飛んだ。連鎖して全部の実が。棘が服の中に入り込んでチクチクするし、嫌な臭いがする液体がくっつくしで散々な有様。
肉体的なダメージは全くないが、お気に入りの服は台無しである。一本取られた気分だ。先に手を出したのはこちらだが、なんだか納得がいかない。能力を使って無効化するのは大人気ないかなーとか思ったのが失敗だった。
罠にかかった、私は無敵だからノーカン! どうだ参ったか、というのもなんだか情けない。でも腹が立つものは腹が立つ。感情をいつも押し殺している分、腐れ縁相手にはこうなってしまうのだった。
「あの陰険妖怪っ。脳筋の癖にやる事が一々陰湿なのよ! いつか覚えてなさい!」
紫は頬を膨らませながら急いで帰宅すると、心配そうな藍を無視して風呂へとダイブしたのだった。