コードギアス 反逆のルルーシュ LOST COLORS R2~蒼失の騎士~ 作:宙孫 左千夫
半年前。ブリタニア本国、ベリアル宮。
「……」
「……」
「……」
部屋には重い空気が充満していた。
向かい合うのは三人の少女だ。この屋敷の主であるナナリー、護衛役であるナイトオブシックスのアーニャ、そしてナナリーの姉である第五皇女カリーヌ。
身分の違いはあれ、三人は偶然にも同い年だった。
通常、そんな女の子が三人集まれば、お菓子をつまみながらお茶を飲み、今流行の歌手や芸能人、この前あった面白い事、好きな男子の話題などで、キャッキャッと大いに楽しく盛り上がりそうなものだが、
「……」
「……」
「……」
誰一人として口を開かない。静かだ、静か過ぎて、屋敷のどこかにいるメイドや侍女たちの話し声すら聞こえてきそうな程だった。
ナナリーは、黙って俯いてドレスの裾を握っているし、アーニャはその傍で直立不動しながら、黙ってカリーヌの事を睨むように見据えている。
カリーヌは、どことなくそんなアーニャの視線に気付きながらも、我意に介せず、といった感じで目の前のお菓子に手を付けず、黙って紅茶だけを飲んでいた。
長い長い時間が過ぎて、最初に口を開いたのはアーニャだった。
「カリーヌ様。何しに来たの?」
その言葉の意味が<用が無いならとっとと帰れば?>と言っているのは明白だった。
カリーヌには、正しく伝わった。
「うっさいわね」
手に持ったティーカップを乱暴に置いて、彼女は不満げに言った。
「私だってこんな所に来たくは無かったわよ。でもロイ様がナナリーと仲良くしてください、って言うんだもの。仕方ないじゃない」
今まで変化が無かったアーニャの瞳が、スッと細まった。
「ロイのために来たの?」
「悪い?」
「悪い。色々悪くて一つ一つの理由を挙げていくのも面倒。だけどあえて一つ言うなら、まずロイの頼みをこういう表面上の行動だけで取り繕おうとする性根が気に入らない。そもそも本気でこうやって、ナナリー殿下の家を訪問する“だけ”の行動をロイが望んでると思ってるの? だったらお目出度すぎ」
そのあまりにハッキリとした言い様に、流石のカリーヌも驚いて目を見開き一瞬言葉を失った。だが、すぐに正気に戻ると、彼女は顔を真っ赤にして言った。
「あ、あ、あ、あんた! ラウンズの分際で、皇女である私にそんな口の利き方して許されると思ってるわけ!?」
思わず立ち上がるカリーヌ。その視線をアーニャは真っ向から見据える。
「私が仕えるのは皇帝陛下と、その皇帝陛下に護衛を任じられているナナリー皇女殿下であって、カリーヌ様じゃない」
間違ってはいない。しかし、皇女であるカリーヌに向けて良い言葉でもない。厄介なのは、それを理解してアーニャは言っているという点だろう。
馬鹿にされたと思ったのだろう。プライドの高いカリーヌの体がワナワナと震えだし、先ほどとは比較にならないほどヒステリックな声をあげた。
「キー! あんた! いい加減にしないとお父様に言いつけて――」
「ロイは」
その名は、燃え上がる炎を沈めるのに十分な効果があった。
「この前、ガブリエッラ様のウォリック宮で、カリーヌ様がナナリー皇女殿下に浴びせた悪質な言葉を知らない」
カリーヌは息を呑んだ。
アーニャは淡々と続ける。
「ナナリー皇女殿下はスザクの大切な女性。そして、ロイにとってそのスザクはジノと並んで大切な友達。そして、その友達の大切な女性を傷つけたカリーヌ皇女殿下。この事実を知れば、ロイは何て思うだろうか?」
「……ッ!」
先程とは打って変わり、顔を青くして、後ずさるカリーヌ。一応、ナナリーに対して酷い事をした、という自覚はあるらしい。
「何て、思う?」
アーニャは追い討ちをかける。もちろん答えは分かりきっている。軽蔑だ、軽蔑されるのだ。いや、そこまでいかないにしても、嫌われる可能性は高い。
カリーヌにとって、恋する憧れの異性にそんな風に思われるのは耐えられるものでは無いだろう。
「わ、私を脅そうっての……」
カリーヌがなんとか瞳の鋭度を保ったまま、でも弱々しく言う。
アーニャは首を静かに振った。
「別に。ただ、カリーヌ様が余計な事を騒いだり、余計な事を皇帝陛下にチクッたり、陰湿で余計な事をナナリー皇女殿下に言わなければ、私も余計な事をロイには言わない。それだけ」
「くっ!」
カリーヌは苦虫を噛み潰したかのように呻いた。
その様子を見たアーニャは、表情は変わらないものの、どことなく満足気に頷いた。
「私はそろそろ違う任務のために、しばらくここを離れなければいけない。そうなる前に、この事だけはハッキリと言っておきたかった。カリーヌ様。私が席を外す間、ナナリー皇女殿下を“くれぐれもよろしく”」
カリーヌはその皮肉に対して文句を言いたげに口をパクパクさせたが、最終的にはフン! とアーニャから顔を思いっきり背けるに留まった。
「分かってるわよ! 泣かせたりなんかしないわ!」
「正解。賢い選択」
アーニャは、今度はナナリーに向き直る。
(ナナリー皇女殿下)
(あ、はい!)
事の顛末をオロオロしながら見守っていたナナリーは突然呼ばれて驚き、慌てて顔を上げた。
そんなナナリーにアーニャは、淡々ながらも優しさが感じられる口調で言った。
(もし、どうしてもあの人から耐えられない仕打ち、言動を受けた場合、いつでも渡してある通信機のボタンを押して。飛んで来るから)
「聞こえてるわよ飼い犬!」
カリーヌに言われて、アーニャはゆっくりと振り返り、首をかしげた。
「失礼だった?」
「当 た り 前 じ ゃ な い ! あ~ムカツクゥッッ!!」
なにやら頭を抱えて喚き始めたカリーヌを尻目に、アーニャはスタスタと部屋の入り口まで歩き、
「じゃあ行ってくる。なるべくすぐ戻ってくるから」
「いってらっしゃい、アーニャさん」
パタンと丁寧に扉は閉まった。
同時に、カリーヌは怒りの声をあげた。
「ったく! お父様の飼い犬の分際でこの私に、あんな事を言うなんて! 性悪だし根暗だし! 笑わないし! 何よアイツ!」
「……」
「大体、ナナリー! アンタがいけないのよ! 一応今はアイツの主人でしょ!? だったら、ちゃんと目上の者に対する態度の教育ぐらいしときなさいよ!」
「あ、いえ。正確に言えば私はアーニャさんの主人では……」
「言い訳はいらない!!」
「申し訳ありません……」
反射的にナナリーは俯いてしまった。カリーヌはその姿をみてますますイライラがこみ上げてきたらしい。
――なんで反論の一つもしないのかしら、この子は!
そんな事を思いながらかは知らないが、カリーヌは更にナナリーに詰め寄った。
「大体ナナリー! アンタは昔からそうなのよ! 人の良さそうな顔をしてその実何を思ってるか分かったものじゃ――」
「カリーヌ様」
カリーヌは言葉を遮られて、怒りとイライラが織り交ざったような不機嫌な顔をして、声の方に振り返る、
「何よ! って……」
そこにはドアから顔だけを出したアーニャがいた。瞳は突き刺すように、責めるようにジッとカリーヌを捉えている。
無言の圧力に圧されて、カリーヌの頬に冷たい汗が通る。アーニャは、判決前の裁判官のような威圧感を醸し出しながら、
「さっき言った事。もう忘れた?」
アーニャはそう告げて、自分の赤い携帯電話のディスプレイがカリーヌに見えるように掲げて見せた。
細かい文字が見える。
それが何か分かった時、カリーヌは顎が外れるのではないかと思えるほど、あんぐりと口を開けた。
そこには、ナナリーがこのブリタニアに帰ってきてから約半年間、カリーヌから浴びせられた続けた罵詈像音が書き込まれていたのだ。
どうやら全部一字一句抜かす事無く、携帯に打ち込んで記録していたらしい。
(な、なんて根暗でネチっこい女……)とカリーヌが自分の事を棚に上げて少なくない恐怖に震えていると、アーニャはそれを上回るものをカリーヌに提供した。
アーニャは器用に片手で携帯を操作する。すると、その罵詈像音が書き込まれた画面の上に、
<この内容をメールで送信しますか?><YES><NO>と出た。
送信先のアドレスを見てカリーヌが愕然とした。それは、猛烈に見覚えのあるアドレスだった。カリーヌにとって、何も見ずに書けと言われてもスラスラと書き込める自信のある、あのアドレスだ。
そう、ナイトオブゼロ。愛しい殿方であるロイ・キャンベルの携帯アドレスだった。
「YES? それともNO?」
カリーヌの行動は素早かった。
彼女はダッとナナリーに走って近づき、車椅子のその少女を横からギュッと抱きしめ、大げさに笑って見せた。
ナナリーはちょっとびっくりした。
「アーニャ“さん”! 勘違いしないで。私たちはとっても仲良しこよしの姉妹なのよ~。
さっきのは冗談! 冗談よ! 愛しの妹をちょびっと苛めてみたいっていう愛情の裏返しみたいな? 姉独特のあれよあれ。あはははは!」
アーニャはそうやって笑うカリーヌを淡々と見て、ゆっくりと携帯を下げた。
「二度は、無い」
冷徹に言い放って、今度こそ、パタンと扉を閉めて出て行った。
それを確認すると、カリーヌはヘナヘナと力なくその場で座り込んだ。
「こ、怖いわアイツ。敵には回したく無いタイプね……」
こればかりは仕方が無い。アーニャとカリーヌでは今まで過ごしてきた生活の質が違う。この二人が勝負をして、カリーヌに軍配が上がるという状況と条件はあまりにも少ない。
「あ、あの。カリーヌ姉さま、大丈夫ですか?」
ナナリーは隣でうなだれる姉に恐る恐る声を掛けた。もしかしたら、またヒステリックな声が返ってくるかもと身構えたのだが、その心配は無用だった。
「……うん、なんとかね。ただ酷く疲れたわ」
カリーヌはそう言ってノロノロと立ち上がり、危なげ足取りでナナリーの向かいにある椅子に歩くと、そこに力無く腰を落とす。
そして、すでに冷めた自分の紅茶を一気に飲み干した。
つい先ほどまでの覇気は微塵も無い。どうやら、完全に毒気を抜かれてしまったようだった。
「ナナリー、お菓子もらうわよ。なんかお腹空いちゃった」
「あ、はい。どうぞ。食べてくださいお姉さま」
「んっ」
と答えてカリーヌは、目の前のお菓子に手を伸ばし、皇室御用達のドルチェをいくつか自分のお皿に移すと、すぐにパクつき始める。
「ナナリー。そういえば、あんた食べないの?」
「あ、では私も頂きます」
「取ろうか?」
「あ、ありがとうございます」
カリーヌは、ナナリーのお皿を手に取り、いくつかの小さなケーキを見繕って、再び皿をナナリーの前に置いた。
ナナリーはコトリと皿がテーブルの上に置かれる音を確認し。そのお皿の位置を確認するように細くて白い指で、テーブルをおそるおそるなぞっていく。
「あ、そうか」
カリーヌが気付いて、ナナリーの手を取り、その手をお皿まで誘導した。きちんとフォークも渡す。
「重ね重ねありがとうございます……」
「自分で食べられるの?」
「はい。お皿の位置さえ分かれば大丈夫です」
ナナリーはお皿の上に乗ったケーキをフォークで探し、位置を確認すると器用に食べ始めた。
カリーヌはそれを眺めてポツリと言った。
「なに、やっぱ大変なわけ?」
ナナリーは、一瞬何を聞かれているのか分からなかった。
「えっと、……それは、私の目の事でしょうか?」
「そうよ。他に何があるのよ」
ナナリーは驚いた。
この姉と再会してから一年、体に負った障害を疎まれこそすれ、気にかけられた事は一度も無かったからだ。
「そ、そうですね。大変じゃない、と言えば嘘になります」
「ふ~ん」
カリーヌは何やら、新しい事実を教えてもらった無垢な子供のような反応をした。
「でも、皆さんが良くして下さるので、それほど苦労は――」
ナナリーが紅茶のカップを取って、口に運んだ所でそれは起きた。
「あっ……」
ナナリーの小さな口の端から、紅茶が一筋垂れる。
「す、すみませんカリーヌ姉さま。お見苦しい所を」
ナナリーはテーブルに手を伸ばす。しかし、その手はすぐに止まった。
「!」
布をどこに置いたか忘れてしまった。
いつもなら、ナナリーはそんなミスはしない。目が見えない以上、食事やお茶の時、どこに何が置いてあるかを記憶する能力は必須だ。当然、ナナリーは長い暗闇の生活の中でその能力を身に付けている。
しかし、今日はカリーヌが突然家にやってきてからずっと緊張のしっぱなしだった。
多分そのせいだろう。ナナリーは侍女が用意してくれた布を、テーブルのどこに置いてあるのか記憶に留めていなかった。
「……」
適当に腕を動かして探せば、テーブルの上に置いてある物を倒してしまうかもしれない。しかし、口元が汚れたままではあまりにもみっともない。
でも、どうする事もできずに。ナナリーはそのまま、固まっているしかなかった。
「……」
やがて、ナナリーは前に出した腕を下げた。当然、口元は気持ち悪いまま。
ナナリーはとても悲しくなった。自分なんて、兄がいなければ結局は汚れた口元を拭うことすらできない。そう思うと、涙が喉元までこみ上げてくる。
そんな時。
ふぅ、とカリーヌのため息。
ナナリーはビクッと肩を震わせた。怒られると思った。みっともないわねナナリー! と罵られると思った。
「みっともないわねナナリー……」
(やっぱり……)
予想通りの言葉にナナリーは身を固くする。しかし、後に続いた言葉は予想とは違っていた。
ガタっ、と席を立つ音がした。そして、こちらにゆっくり歩いてくる足音がした。
(えっ……)
清潔な布がナナリーの汚れた口元を拭った。
「喋りながら飲もうとするからでしょ……」
ゴシゴシとした手つきで拭われる口元。正直に言えば、ナナリーは少し痛かった。でも、
「んっ? 何、笑ってるのよナナリー?」
「あっ、いえ、何でもありません……」
ナナリーは、なぜだか先程とは違う意味で目頭が熱くなるのを感じた。
○
話は戻って。ナナリーがエリア11に出発する前日。
ナナリーの部屋ではカリーヌが紅茶を飲みながら、喋り立てていた。
「でさー、さっきまでロイ様とお話してたんだけど、ふと携帯の通話時間を見たらもう二時間も経ってたの。それで私思ったわけ。ああ、このままおしゃべりを続けていては、ロイ様の迷惑になってしまう、って、だから言ったの。ロイ様、私、名残惜しいですけど。私ロイ様のために我慢して電話を切ろうと思います、って、そしたらロイ様「私なんかのために、そのような配慮をしていただきありがとうございます。カリーヌ様は将来きっと思慮深い素敵なレディになるのでしょうね」って言ってくれたの。でもさ~。それはそれで嬉しかったんだけど、私としては正直ロイ様には「僕はまだ何時間でもカリーヌ様とお話していたいです」って言ってほしかったの。でもロイ様から健気で遠慮深い女性に映った事はそれはそれで良かったと思うんだけど、どう思うナナリー?」
向かい合って座る姉に、どう思う? と言われても、問われている内容がイマイチ理解できなかったナナリーはとりあえず、
「そ、それは、良い判断だったと思いますわ」
と、一応同意の笑みを浮かべておいた。
一拍置いて、カリーヌの笑う声。
「あ、やっぱりそう思う? だよね~」
と、カリーヌは満足げに手に持ったカップを口に運んだ。
選択は間違っていなかったらしく、ナナリーは内心ホッとした。
「とこで、ロイさんとは、他にどんなお話をなさったので……」
ナナリーが手元のカップを口に運ぶと同時に、彼女は「あっ」と小さく声を上げた。
口元から紅茶が垂れて口元が汚れのだ。
「すみませんカリーヌ姉さま。お見苦しい所を……」
ナナリーは近くにあらかじめ置いてあった布で口元を拭こうと、手を伸ばす。しかし、その前に、サッとその布を取った手があった。カリーヌだった。
「ったくあんたは。喋りながら飲もうとするからでしょ」
口元を拭われる。カリーヌはぶつくさとなにやら文句を言っていたが、その手付きは丁寧で優しかった。
「……ふふ」
「ど、どうしたのよナナリー。急に笑ったりして、気持ち悪いわね……」
「あ、いえ。カリーヌ姉さまと打ち解けられたのも、私がこうやって私がお茶をこぼして、それを姉さまが心配してくださったのがキッカケだったなって思いまして」
「!」
カリーヌが驚いて息を飲む音がした。ナナリーはなんだかその姉の反応が無性に可笑しかった。
「ちょっ!? 馬鹿じゃないの! 何言ってるのよ! 勘違いしないで! 私はロイ様が「ナナリー殿下と仲良くしてください」って言うから仕方なく……。そう! 仕方なくなんだからね! 今日来たのもロイ様に、「出立を明日に控えてナナリー様は緊張なさっていると思います。なのでよろしければカリーヌ様が励ましてさしあげてください」って言われたからなんだからね! 本・当・に! それだけなんだからね! 勘違いしないでよね!」
まくし立てるカリーヌ。その姉の顔はナナリーには見えないが、きっと真っ赤になっているのだろう。
カリーヌ・レ・ブリタニア。
かつて、この名はナナリーにとって、恐怖の対象だった。
幼少の頃、ブリタニアで過ごしていた時から、この姉と顔を合わせれば、飛んでくるのは悪意と、棘の生えた言葉、それだけだった。
嫌われていた、という表現では生ぬるい。疎まれていた、いや、同じ血が流れている事に憎悪を抱かれていたと言っても過言ではない。
今でも、例えばアーニャなどはカリーヌがナナリーを本気で疎んでいると思っている。
しかし、そうではない。ある人の登場でそんな関係は終わりを告げたのだ。
ナイトオブゼロ。ロイ・キャンベル。ナナリーのやりたい事を手伝ってくれるし、本気で聞いてくれる。優しくて、強くて、素敵な人。そして……友人であるアーニャの大切な人。
あの人が、カリーヌにやんわりとナナリーと仲良くするよう頼み始めてから半年。たった半年で二人の関係はガラリと変わった。
確かに、目の前の姉はいまでもナナリーに罵詈像音を浴びせる事は多々ある。アーニャなどはそこに怒りを感じているのだが、ナナリーだけは知っている。
その言葉には、すでに昔のような陰湿な悪意は内包されていない。
それどころか、昔、と言っても一年ぐらい前の話だが、ナナリーという存在が近くにいるのも嫌がっていたはずなのに、今ではこうやって自ら足を運んで訪ねてきてくれる。
結局。必要なのはきっかけだったのかもしれない。
今まで、カリーヌはナナリーを拒絶していたし、ナナリーはナナリーでカリーヌを恐怖の対象として近づこうともしなかった。
いや、それどころか、近づいてきたら逃げる事ばかり考えてきた。だから当然、距離が縮む事は無かった。しかし、そこに、ロイ・キャンベルという橋渡し人が現れてから状況は好転した。
ロイの頼みによって、カリーヌはしぶしぶながらもナナリーへ顔を向ける機会が増えた。ナナリーも、ブリタニアに戻って来てからは色々な事から逃げる事をやめた。結果、少しずつだが二人は歩み寄る事になった。
そして、いつの間にか遠く離れていた姉妹の距離は、昔に比べて信じられないぐらい短いものになっていた。
実を言うと、ナナリーがエリア11行きを決めたのは、この長年決別していた姉との冷たい関係が氷解したという背景もあった。
結局。必要なのはきっかけだったのかもしれない。
人は分かり合える。長年憎しみあっていても、正しいきっかけさえあれば必ず仲良くなれる。
ならば自分も、そのきっかけを作れる人間になってみたいと思った。
それを教えてくれたロイ・キャンベルのように。
それを目指したユーフェミアのように。
「聞いてるのナナリー!?」
カリーヌの問いかけに、ナナリーは微笑みを向けた。
「はい、分かってます。それでも私は嬉しいんです。例え、カリーヌ姉さまがロイさんのために私に良くして下さるのだとしても」
「ちょ、ちょっとなに泣いてるのよあんた!?」
そう言われて、ナナリーは目頭が熱くなっているのに気付いた。
ああ、さっそく、もう泣かないという誓いを破ってしまったが。これはまぁいいか。とナナリーは思った。
だって、これは弱い涙ではない。嬉しさが溢れる心地よい涙なのだから。
「えっえっ、何よ、何で泣いてるの? 私? もしかして私のせいなの!?」
思いっきり動揺するカリーヌ。ナナリーは細い指で目元を拭って、姉を安心させようと柔らかく微笑んだ。
「違うんです。カリーヌ姉さまは悪くないんです。ただ……。少し、風が目に染みたようで」
「え? そうなの? 侍女とか呼んだ方がいい?」
「いえ、もう大丈夫です」
「ならいいけど……でも、しっかりしなさいよナナリー、あんた明日から総督になるんでしょ。コーネリア姉さまやシュナイゼル兄さまのように振舞えとは言わないけど、そんなにメソメソしてたら部下に呆れられるわよ」
「はい、気をつけます」
「ったく、あんたは昔から泣き虫なんだから。本当に、気をつけなさい」
と、カリーヌが呆れて息を吐くのと同時に、壁の時計から、夜の九時を知らせる鐘が鳴った。
「あ~、じゃあ、私、ロイ様への義理も果たしたし、そろそろ帰るわね。お母様はあなたとロイ様のことはあまり良くは思ってらっしゃらないから。ここに来てるってバレるとまずいの」
「あ、はい。ロクなお迎えもせず、申し訳ありませんカリーヌ姉さま」
「いいわよ別に、そんなの期待してなかったし。あ、見送りはいらない。ここでいいから。じゃあね」
カリーヌが遠ざかっていく音がした。しばらくして部屋の扉が開く音。しかし、その扉は完全に開く前に、ピタリと止まった。
礼儀に厳しい皇族がドアを開けっぱなしで帰るのは考えにくい上に、去っていく足音も聞こえない。
「カリーヌ姉さま?」
ナナリーが不審に思って呼びかける。カリーヌはすぐに返答せず、しばらく黙ってから、
「……せ、せいぜいブリタニアの役に立ってから戻ってらっしゃい!」
その言葉を最後に、扉は乱暴にパタン! と閉められた。
ナナリーはその言葉に一瞬呆気に取られたが、
(戻ってらっしゃい、か……)
嬉しくて、クスッと微笑んだ。
ナナリーは車椅子を操作して、再び窓際に移動する。夜の空には、もちろん丸い月が浮かんでいた。
(お兄様。世界は冷たいのかもしれません。でも、こちらから微笑めば、優しくしてくれる人は私の周りには沢山います……)
窓から風が入る。同時に外の梢が揺れて擦り合う音がした。その音は聞いていてとても心地良いものだった。
明日、ナナリーはブリタニアを発つ。