スターダストテイル   作:米俵一俵

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14.海色の朝

 初めて日が射し込んだ時は、全員が窓に向かって、柔らかなため息をついた。

 透明な世界は美しく、色彩々の生命がくるくると踊り息づいている。水深はかなりあるはずだが、透明度が高いのか、陽光が入り始めれば海底は一気にきらびやかだ。早朝5時に乗り込み、二時間近く真っ暗な中をライトだけで進んできたため、感動もひとしおだった。

「紅海は、ダイバーが口を揃えて絶賛する海でな。世界で最も美しい海と言われておる。海を汚す都市らしい都市も無く、そそぎ込む川すらない」

 ジョセフも一緒に窓を見ながら、そう説明した。そして東西の沿岸は、共に赤い砂漠。なるほど、どうしてこんなところに海がと思うような位置ではある。

「おおーッ! いいねえ!」

 ポルナレフは最初から上機嫌だったが、ますます感嘆の声をあげた。

「俺こういうの、ちょい憧れだったのよー! できればかわいこちゃんと乗りたかったなあ」

 千時は振り返って、隣の男の膝裏あたりを軽く蹴りとばした。

「今電柱が失礼千万な事言ったァー」

「何よ、じゃ千時が付き合ってくれんの」

「どの口で! 今自分でかわいこちゃん以外に分類したんだろーが!」

「ポルナレフ、仮にも女性に失礼だぞ」

「仮ってノリさんも大概だな」

「おっと失礼」

 一連の、流れるような会話ときたら。ポルナレフが女の子の話をし出すと大体コントが始まる。千時は苦笑し、また外を眺めた。

「相変わらずだな、ポルナレフ。我々は遊びに来たわけじゃないぞ」

 アヴドゥルが呆れ果てるのも、もはやお約束。彼は計器を見ながら操縦桿を握っている。

「そういうお前は、ちゃんと操縦できてンのかあ? アヴドゥル」

 占星術師はチッチッとやって、ノープロブレムと笑った。

「問題はない」

「へーえ」

 ポルナレフが微妙な顔をしているのは、なんでこのひと潜水艦なんて操縦できるの? という当然の疑問があるからで、まあ乗り込んだ時にまず訊いたよね。アヴドゥル曰く、仕様書を読めば大体分かるとの事。頭の中身がどうなっているのか見てみたい話である。

 ジョセフがぴょいと顔を突っ込んだ。

「わしも出来るよォ、わしも!」

「テメエは操縦するな」

 ものすごい低い調子で遮ったのは承太郎。

「襲われもしない内から沈没されたらかなわねえ」

「辛口じゃのう、うちの孫は!」

 いやそりゃ言いたくはなるだろう。途中、船が転覆している。あれはストレングスのせいなのだが、とにかく、ジョセフ・ジョースターという人間、乗り物運が徹底的に無い。そもそも、既に二度墜落している過去があって尚且つ、最初の飛行機を千時が予告していなかったら墜落だったという状況が決定打だったようだ。承太郎は砂漠をセスナでと言った時も、三度目の正直と思ったのか反対していた。沈む予告をされた潜水艦など、なにをかいわんや、である。

「潜水艦かあ…。乗るのは初めてですが、意外と閉塞感の無いものですね」

 花京院が窓を離れ、あらためて物珍しそうに船内を眺めた。

「ああ。これは金持ちが道楽で海底探検を行ったりする用の船だからな。この通り、窓もある」

「そういえば、映画で見る軍用艦に窓は無いな」

「ありゃあこんな船どころじゃなく、本当に深く潜らねばならんからな。耐圧のため、外殻にできるだけ穴を開けたくないんじゃよ。窓のある船もあるが、その場合は、沈むために水を入れるバラストの部屋になっておるそうだ」

「そうだったんですか」

「よく見るレーダーみたいなのは付いてるぜ!」

 いつの間にやらポルナレフが、アヴドゥルの肩越しに手元を覗き込んでいる。ジョセフが笑った。

「ソナーだ。音波の跳ね返りで、レーダーみたいに水中の物体を確かめる」

「異常無し。接近してくるものはありません」

 アヴドゥルがちょっと気取って報告なんかしてみせるから、ポルナレフが「へー!」と感心しきり。ジョセフも気を良くして胸を張った。

「これなら四方八方、360度、どこから襲ってこようと探知できる」

「おおー!」

「だが」

 さっきよりも低い音声で冷や水。

「スタンドなんぞ探知できねえから、この中で襲われるんだろうが。この、海底60mで」

「だァから逃げ方を教えてやったんじゃろうが。何だ承太郎め、機嫌の悪い…あ」

 ジョセフはたちまちニヤニヤとして、承太郎に詰め寄った。

「お前ェ、もしかして怖いのォ? だーいじょうぶだよォ、このおじーちゃんがついとるんじゃからのー!」

 ……ハーアァァ──……。

 …ものすごい、ものッッ…すごいため息をついて、承太郎は席を立ち、隣室へ行ってしまった。この操舵室の向こうに小さな一室があって、そこへ砂漠からずっと持ってきていたエアマットを敷いてある。

「なんじゃ、あいつ。寝不足か?」

 ジョセフが首を傾げた。

 さあ、なんだろうね。千時も内心、そう呟く。

 窓の外に目を戻すと、どこまでも遠い青は見つめるほどに深い。千時は、その緑がかった色が承太郎の眼のそれに似ていると思った。何故そんな詩的なことを考えちゃってるかというと、昨夜からあからさまに避けられてちょっとウンザリし始めているからだ。

 以前、千時もアヴドゥルを避けてしまった一瞬がある。アブダビの手前の船でT・Tがマジシャンズレッドに触れ、コントロールに異変が起こった後、自分の体調不良も重なって近付く気力が出なかったからだ。だが、それは普段通りに振る舞ってくれたアヴドゥルのおかげで、すぐに解消された。

 今回の承太郎はそんなんじゃあない。ひどい。これはひどい。どうしろと。気付いて見かねたらしい花京院には、どうしたのかと訊かれてしまった。

 カメオを倒した後からだった事を考えるに、ロッジの前でT・Tが彼に触れた時、スタープラチナ共々殴りかかられた事が関わっているのだろう、とは思う。が、マジシャンズレッドのようにコントロールを失ったわけではないはずだ。承太郎の怒声とスタープラチナの構えは、はっきりと連動していた。

 では何故? 他に避けられる理由は? 熱の時のうわごとかもしれないが、大した話はしていないし、いくら千時を気味悪く思ったにしても、承太郎はここまでする性格ではない。…はずだ。…と思う。たぶん。

 花京院には、知らないホントに分かんない、としか答えようがなかった。

 

 さて。朝昼晩と食事も作れば、コーヒーや紅茶を出したりもする。承太郎が無言で受け取るのは別段、珍しくも何ともない。具体的な行動はというと、絶対に向こうから近寄って来ず、たまたま近いと必ず何気ない振りで誰かを挟む、もしくはふらりと別室へ移る、ただそれだけ。で、不便があるかというと特に無く、いつも通りと言えなくもない。むしろ、この狭い艦内で余計な事を口にしたら、家族会議よろしく全員に取り囲まれてしまいそうだ。

 さらに言えば、承太郎と不仲でも、上陸までは特段の問題が無い。簡易スキューバダイビング講習で、全員が装備の付け方等を覚えた。その際、千時はジョセフの装備を手伝ってそのまま、唯一の経験者である彼のバックアップレギュレーターを使うよう指示された。

 必要な接点、特にナシ。

 彼女当人はもうそこらへんで通り越した。今現在は、承太郎一番の仲良しである花京院の方が気を揉んでいる。

「ノリさん、これ承太郎に持ってったげて。要るかどうか知らんけど」

 午後10時の遅すぎるティータイムは、操縦席に張り付いているアヴドゥルにコーヒーをいれるついで。承太郎は例によって隣室だかどこだかへ消えているので、要るかどうかも訊いていない。

 花京院はカップを受け取りながらも、少しかがんで小声を出した。

「いいのか、自分で行かなくて」

「いいよ。何にしても、無事に上陸するまではそっちに集中しよ」

「僕はそれでもかまわんが…」

 納得いかないのは、彼の十七年に終止符を打った仲間を気遣っての事だろう。案の定花京院は、持って行ったカップごと承太郎を操舵室へ連れてきた。長年ボッチだったくせに、口の上手い男である。

「さすが、金持ちの道楽用の船だ。冷蔵庫にコーヒーメーカー、それに、最新の衛星電話までそろっているぞ」

 何を話していたのやら、承太郎は浮かない顔で頷くだけだが、花京院は飄々と設備を説明している。

「そうだ、千時ィ」

 アヴドゥルの隣に居たポルナレフが、思い出したように振り返った。

「何か飲み物くれよ。のどがからからだぜー」

「え、ポルナレフ、コーヒーいらないって言ったじゃん」

「冷たいのが欲しいんだよ」

「えぇー」

 千時が冷蔵庫の前に立っていたからだったようだ。冷蔵庫には、ミネラルウォーターとコーラしか無い。コーラはサービスだったのか最初から入っていて、水のボトルは乗り込んだ時に千時が入れた。

「水? コーラ?」

「コーラ!」

 仕方ないなあと冷蔵庫を開けていると、ジョセフが衛星電話の受話器を手に取った。

「みな、静かにしててくれ」

 ジョセフは難しい顔をしていた。

「これから、あるところに電話をかける」

「スージーさん?」

 ついこぼすと、全員が千時を見た。

「オーッノーッ! 怖いッ! この子ほんと怖いッッ! お前さん心が読めるんじゃああるまいな!?」

「だからテレビで見てたんだってば」

「もー、調子が狂うわい。とにかく、ちょっとばかり静かに頼む」

「はーい」

 コーラを一瓶、ポルナレフに手渡して、千時は黙った。

 ジョセフは交換台としばらくやりあった後、トーンを上げて、やあスージー、とやり始めた。

「ンッン──…。旅先のホテルでなあ。すまんが、まだ当分仕事でそちらには戻れそうにない。……、ううむ──…。…すまん。ところでスージー、お前、ホリィとは…」

 その瞬間、承太郎のカップが揺れるのが、見るともなしに目に入る。

 本来、千時が避けられることなど、些末な話なのだ。彼は祖父と共に危険の渦中、他の家族に事を隠して、母親を救うためここに居る。それだけのものを背負っている今、他の事なんて本来はどうでも。

 千時にしたって、彼ら五人と残る一匹を無事に帰し、ジョセフに自分を庇護してもらえばそれでいい。出発点はソコだ。仲が良いに越した事はないのだが、戦闘要員ですらないため、優先順位は最も後回しの点である。

「…──いや、その必要はない。すぐに元気になるさ。…心配性だなあ、お前は」

 ジョセフはわざとらしい明るさで電話に向かっていた。声音を作るためなのか、苦笑しているが、痛々しくも目は笑わない。

「重要な話ってこれかよ?」

 ヒソヒソとポルナレフがぼやき、アヴドゥルが隣で頷いた。

「ああ、マダム・ジョースターはバイタリティ溢れるお方だからなあ。たまに牽制しておかねば、日本のホリィさんのもとを訪ね、真相を知ってしまうおそれがある」

「てことは、彼女…」

「もちろん、なにも知らされていない。あえて心配をかける必要もなかろう」

 大丈夫だよ、と言ってやりたい。特に、難しい顔の承太郎に。

 だが、余計な負担はかけても仕方がないだろう。代わりというわけでもないが、花京院が承太郎の肩をそっと叩いた。

「う、うむ、そうかア…。──スージー…、スージー、ちょっとローゼスに代わってくれ。……──おお、わしじゃ。スージーは? …、…そうか。実は今、例の潜水艦の中から電話している。…うむ。……、…して、ホリィの病状は? SPW財団の医師達とは、連絡を取ってくれておるのか」

 全員がしんとして聞き耳をたてる中、千時だけは少し表情を緩めた。ちゃんと理由がある。時期的に、元の話よりは断然、マシなはずだからだ。

「…いいや。その必要はない。間もなく我々が、すべての元凶を倒す。このまま普段の日常に戻れれば、それが一番良い。スージーには、けして何も悟られるなよ。また連絡する」

 ジョセフは、まだ何か向こうから音の漏れる受話器を置いた。小さなため息は、肉体ではない疲労で酷く重たい。

「お気持ちはお察しします。ジョースターさん」

 花京院が口を開くと、ポルナレフとアヴドゥルも頷いた。

「けど安心しな、俺達がついてるぜ。エジプトは目の前だ!」

「一刻も早くディオを倒し、ホリィさんを助けましょう」

 彼らの言葉に、千時は急に嬉しくなって、ハイ! と手を挙げた。

「事実に基づいた現実的な応援をします! 日数、ものすごく短縮できてるんだよ! ずっと手帳に書いて数えてたんだけど」

 ポケットの手帳を出してめくり、自ら書いた小さな小さな、チェックマークだらけのカレンダーを見せる。まとめウィキの年表を読んだ時、えコレ年始またいでんの!? と驚いたから覚えていたのだ。ディオもこう、もうちょっと時期考えりゃいいのにねえ。

「物語では、エジプト入るのが年始ちょうどあたりになるはず、だったけど今はまだ12月18日。明日、無事にハイプリエステスを撃退してエジプト着いたら、十日は早い上陸になる。さらに敵も、予定全部倒せてるから現地で増えるって事は無い! これだけうまく来てたら絶対大丈夫! ヨユーヨユー!」

 それは信じるだの思うだのではなく、純然たる事実。だから迷いなく断言できる。ジョセフは目を細めた。

「うむ。ありがとう、みんな」

 千時は満足だったが、欲を言うなら、承太郎にもそれを気持ちよく聞いてほしかった。今はちょっと無理らしい。盗み見た彼の表情は、晴れなかった。

 

 千時はしばらくエアマットで寝ていたが、やわやわとしていた船体が突然ガクンと揺れて、目を覚ました。続くゴガガガガッと派手な振動。少し慌てて時計を見る。現地時刻、未だ朝の4時過ぎ。

 隣の操舵室からポルナレフの悲鳴と、また例によって呆れ返ったアヴドゥルのやりとりが小さく聞こえてきた。どうもポルナレフが操縦桿を握って、艦底を擦ったらしかった。

 なんだ、と、また寝転がった瞬間、今度はガーンと何かがぶつかり、船体がギギギギギィー…と不気味に軋んだ。

「ポオォルナレフウゥゥゥッッ!!」

「今のは俺じゃねえってえええ!」

 二人の大声で千時は飛び起き、操舵室へと駆け込んだ。

 揉める外人どもの脇から花京院が身を乗り出し、操縦桿周りの計器を食い入るように見ている。

「ノリさん!」

 千時はアヴドゥルを押しのけて頭を突っ込み、花京院の隣へ入った。

「ポルナレフは本当の事を言っているようだ」

 さすがチームのブレーン。察しが良い。花京院は小声で言って、幾つかの計器を順に指さした。

「船底をぶつけたのは最初の一度だけで、その後はスピードを上げた記録が無い。障害物もだ」

「なら今のが…」

 ちらと後ろの様子を見るに、ギャーギャーやっているポルナレフとアヴドゥルは聞いておらず、ジョセフはテーブルに突っ伏して寝たまま、ただ承太郎だけが一人、鋭い視線をこちらへ向けている。

「陸はまだ先っぽい?」

「たぶん」

「じゃあ今言っても警戒して疲れるだけだね。準備はしてあるし、仕掛けてくるまでは待ってもいいと思う」

 頷きあってそこを離れ、花京院がポルナレフの肩を押さえる間に、千時はアヴドゥルを操縦席へ引っ張っていって座らせた。

 さて、上陸までは敵スタンドと一緒に航行だ。まったくゾッとしない話である。

 ずっと動向を見ていた承太郎へは、さりげなく花京院が近付いていって話をし始めた。千時は、少し迷ってから眠り込んでいるジョセフの隣に座って、頬杖を付いた。

 テーブルに投げ出された義手を眺め、記憶を辿ってみたが、それがどこでどう破損させられたかは、やはり思い出せなかった。

 

「おい! アフリカ大陸の海岸が見えたぞ!」

 歓喜の声に、全員が、潜望鏡を覗くアヴドゥルの背中を見た。

「到着するぞ!」

 アヴドゥルは振り返って席を立ち、ローブを翻した。操縦席に散らかしてあった海図を引ったくり、テーブルに広げると、一カ所を指さす。

 とうとうエジプト。上陸目標、バナス岬。

「ここの珊瑚礁のそばに、自然の浸食で出来た海底トンネルがあって、内陸200メートルのところに出口がある。そこから上陸しよう」

 千時には、このセリフを聞いた覚えがあった。

「いよいよ、エジプトだな」

 そう、その通り。

 アニメでは皆、単純に喜んでいた気がする。しかし現実には、警戒の色が混じって硬い。そろそろ来る、その事を知っているからだ。

 襲撃を躱し、すぐさま後尾のエアロックへ向かうこと。まずそれが課題。

 そこから更に三十分。少々は浮かれ、少々は警戒の微妙な空気で、全員が操舵室に詰めていた。

 それは、千時が何となく、コーヒーをいれていた時だった。

「池上さん」

「ん?」

 振り返ると、花京院が千時の手を見て眉根を寄せている。

「もうカップは六つ出ているぞ」

 きょとんとしてテーブルを見ると、コーヒーの入ったカップが六個。千時の手のカップは七個目だ。

「あれ? これで六個のつもりだったんだけどな…」

 首を傾げて次の瞬間、千時はザッと青褪めてカップを取り落とした。

「ジョセッ…」

 事態には、間に合わなかった。

「なッ! なにぃィイッッ!?」

 ジョセフが持っていたカップは、形を崩して刃を振るい、飛び離れた正面から切断した義手の指を引きちぎって投げ付けた。

 グッとジョセフが呻き、反り返った喉に突き刺さる銀色の指。

「ジジイ!!」

 承太郎の声と同時、テーブルの天板にネバッと張り付く、薄気味悪いその姿。

「ハイプリエステス!!」

 千時が叫ぶと、変幻自在のスタンドはギヒヒヒヒと甲高く笑った。

 天井に飛び移る瞬間、スタープラチナが殴りかかった、が、とんでもなく素早い。拳を躱して別の位置へと飛び移り、天井に溶けて消えていく。ポルナレフが驚愕し、目を凝らした。

「きっ消えた!?」

「いや違う!」

 承太郎が怒鳴り返し、周囲へ視線を走らせる。アヴドゥルも頷いた。

「化けたのだ! この計器の一つに化けたのだ! コーヒーカップに化けたのと同じように!!」

「マジかよ…!」

 千時は緊迫した会話を背中に聞きつつ、とにかく倒れたジョセフへ駆け寄った。彼の隣に居た花京院が、すでに抱き起こして様子を見ている。

「ジョセフさん!」

「大丈夫」

 花京院はジョセフの首を抱き上げ、千時に傷を見せてくれた。一カ所だけ血が出ているのは、どうやら、引きちぎられた部品の断面に尖った箇所があっただけのようで、大したことはない。義手の指先自体は丸いため、ほとんどは痣だった。

「気を失ってはいるが、傷は浅い。義手でよかった」

 千時が安堵の息を漏らすと、彼は千時にジョセフの体を寄せた。

「ダイビングまで、はぐれずに居ろよ」

「わかった」

 気絶した男の頭は重たかったが、どうにか受け取り、膝を背中の下へ押し込んで抱え込む。

 見届けた花京院は、パッと立ち上がった。

「よし、全員エアロックへ…」

 言いかけたところで、なんと、だしぬけに電話が鳴った。チリリリリリン、というその、あまりにも日常的な音は、間抜けていた。

「でっ電話アァッ!? こんな時にいったい誰が!?」

「かまうなポルナレフ!! 気を散らすんじゃあない!」

 電話のベルは鳴り続けているが、花京院はハイプリエステスが化けていないかと警戒しているらしい。

「し、しかしよォ、どこからこの潜水艦に潜り込んできたんだ!?」

 ポルナレフが周囲を見回すと、答えるように背後の窓がパーン! と割れた。

「ぎゃっ!!」

 だくだくと海水が吹き出してくる。センサーが浸水を関知し、船内のランプは赤く切り替わって、けたたましいアラートが鳴り響いた。

「なるほど、こういう事ォ。単純ねえ。穴を開けて入ってきたのねえ!」

 言う間にも足下は水浸し。慌てて計器を確かめに行ったアヴドゥルが、操縦席の背凭れをブン殴った。

「浮上システムを壊していやがった! どんどん沈んでいくぞッ!!」

「いつの間にか酸素もほとんど無い! 航行不可能だ!」

 横手の計器を覗いた花京院も叫ぶ。

 と、いつの間にか鳴りやんでいたはずの電話が、また鳴り出す。ポルナレフが頭を抱えて絶叫した。

「ああああもう! うるっせえぞこんな時にィ!! どこのどいつだッッ! …イッ!? 承太郎!?」

「おい! うかつに辺りをさわるんじゃない!」

 アヴドゥルの言葉まで無視し、承太郎は、場違いにも静かな動作で受話器を取った。

「悪ぃがジジイは今、電話に出られねえ」

 声音は奇妙に穏やかだった。彼はしばらく受話器に聞き入り、黙り込んだが、やがてまた口を開いた。

「心配は要らねえぜ、スージーばあちゃん」

 その優しい、穏やかな声音が、彼の本当のすべて。

「ジイさんには、俺がついてる。じゃあな。落ち着いたら後でかけ直させる」

 千時は警報に紛れる声を、それでも耳に拾い上げた。

 …おそらく、彼が自分を避けるのは、嫌いだからではないだろう。ふとそう思う。彼は一度認めた相手を、そう簡単に嫌うような人間ではない。日本に帰るなら空条の家でホリィの看病でもすればいいと、一度はそこまで言ってくれた。たぶん今は、ただ、待つべきなのだ。彼の中に結論が出るまで。

 急に床が斜めに傾いで、床の水がザーッと動くものだから、千時は前へつんのめった。慌ててジョセフを庇う中、アヴドゥルが操縦桿を引いて叫んだ。

「掴まれ! 海底に激突するぞ!!」

「オーマイガーッ! やっぱりこうなるのかああー! 俺たちの乗る乗物って、しょっちゅう大破するのねえー!?」

 ポルナレフの悲鳴に、承太郎がボヤく。

「もう二度と、潜水艦には乗らねえ…!!」

「そんな!」

 慌てすぎて千時はツッコんだ。

「日本て世界最高深度の潜水艇作ってるのに! 乗らんともったいない! 東京湾の深海魚だってわんさか」

「やかましい! 鬱陶しいぞこのアマ!! 訳の分からん話をするなッ!」

「ごめんパニック!!」

「黙って誰かに掴まっていろッ!!」

 掴まるったってむしろあんたのおじーちゃん掴まえてる状態なんですけど! と喚きたててしまう前に、アヴドゥルが斜めの床を駆け上って来てくれた。

「まだダメか」

「傷は大した事ないけど」

「お前に怪我は無いな」

「無いッ…」

 危うく舌を噛みそうな重い振動は、海底に辿り着いてしまったせいだろう。続けて船体が水平に戻り始め、アヴドゥルが片手で棚の角を掴み、片手でジョセフの肩を支える。千時はジョセフがずり落ちないように必死で抱きかかえて、二度目の振動に耐えた。ゴオォォン…と船体が泣き、増えた水が高さを増して戻ってくる。

「ポルナレフ、肩を貸せ!」

「えっ、あジョースターさん! まだ気付かねえのか!」

 このままだといずれ、顔まで水に浸かってしまう。飛んできたポルナレフと、アヴドゥルがジョセフの体を引き上げた。

「あー、よし、こっちよこせ」

「無茶するな」

「こんなんいけるいける、よっ…と!」

 ポルナレフはアヴドゥルを使ってジョセフの腹の下へ体を入れ、肩に担いで立ちあがった。承太郎より体格は良いと自分で言うだけのことはある。

「おい、酸素が薄くなってきたぜ。早く行こう」

 千時も立ち上がり、廊下へ続くドアに向かおうとした。

 なのに、

「花京院」

 まるで急がない、悠長な問いかけで、承太郎は正面に操縦席を睨んでいた。

「スタンドのやつ、どの計器に化けたか目撃したか…?」

 花京院も面食らったようだが、要らないところで戦えない千時と戦える彼の差が出る。眉根を寄せ、迷いながらも、承太郎の隣に立ってしまった。

「た、…確か、この計器に、化けたように見えたが…」

「いいから全員外へ出て!!」

 千時は彼らを一喝し、後尾への廊下を指した。

「怪我するだけ無駄! 早く! 急いで!!」

 承太郎が動かない。

「無駄だっつってんじゃん!!」

 千時は思わず、制止するアヴドゥルを振り切り、中へ戻った。承太郎の腕をひっ掴めば、そんな事で動くような巨体じゃないが、勢いに気圧されて数歩は付いてくる、が、そうこうしている内にも敵は周到に動き、それを視界に捕らえたアヴドゥルに全員が怒鳴られた。

「もう移動している!! 花京院の後ろに居るぞ!」

 花京院は振り向きざま、鋭い刃を辛くも躱して

「ハイエロファントグリーンッ!!」

 スタンドを差し伸ばす、が、スタープラチナの拳を避ける速度の敵は彼の脇を悠々と抜け、一気に花京院へ迫って

「ぐあッ!」

 その首に一撃、床面へ飛び離れたそこをまたスタープラチナが強襲するも間に合わない、先ほどと同じく天井に飛び移られ、溶け消えられてしまった。

「言わんこっちゃねえ!! だから予告してんのにッ!!」

 千時は喚きながら、冷蔵庫横の引き出しに駆け寄った。備え付けのタオルを覚えていて良かった、赤く濡れた首を押さえる彼に渡す。

 アヴドゥルが花京院ごと千時を庇い、廊下へ駆けだした。

「この部屋にいると、全員、どんどん怪我をしてダメージを受けるぞ! 花京院、大丈夫か!?」

「あ、ああ」

 それをきっかけに、ジョセフを担いだポルナレフが続き、やっと最後を承太郎が来て隔壁扉を閉めた。

 後尾のエアロックに駆け込み、また隔壁扉を閉める。

「ジョセフさん! 起きて! お願い!!」

 じゃないと自分と二人で溺れ死ぬ! 千時はポルナレフの肩から落ちた頭を両手で揺さぶるが、そんな事で起きるなら肩で揺れている間に気付いていただろう。

「どいてくれ」

 花京院の声に振り返ると、彼は、足下の水をゴーグルに汲んだ。

「ブハッ!」

 思い切り水をかけられたジョセフが声をあげ、目を開いてきょろきょろ周囲を見回す。

「おっ、気付いたか、ジョースターさん」

「ノリさんありがとー!!」

「ポルナレフ。…こ、この状況は、なんかよくわからんが、ひょっとしてピンチぃ!?」

「早く早く! 溺れちゃうから!」

 ポルナレフが肩から降ろすと、ジョセフは、あわあわする千時にむしろ落ち着くよう言った。そうして、落ち着き払った動作で、注水口の脇にある計器を確認した。

「昨日の講習通りだ。スキューバの最大注意は、まず、けっして慌てないこと。そして、今ここは海底40メートルだから、5気圧の圧力がかかっている。体を慣らしながら、ゆっくり上がるのだ。いいな!」

 深度か水圧か、ジョセフは計器をコンコンとやって、男たちを見回した。

「では全員、装備しろ! さ、千時、頼むぞ」

「イエッサー!」

 講習で、装着の動作だけ四回もやらせてもらった。そのあとも忘れないように一人でブツクサ練習していたのだ。任せなさい。

 他の誰より一番早くジョセフの装備を整えて、千時はニンマリした。

「おーよしよし、手際が良いぞ」

「人生これまでのテストというテスト全部、短期記憶だけで乗り切ってきたからね。これで本番済んだし明日には忘れてますけど!」

「ハッハ。上等だ」

 くだらない事を言い合いながら、千時も予備のゴーグルを額へ。

 ぐるり見回し、装備が済んだことを確認する。

「では、水を入れるぞ」

「みんな、昨日言った通り気を付けて」

 ジョセフのレギュレーターを持って振って見せれば、各々頷く。ポルナレフが一番固い表情だ。さて、誰が当たるか。

 片手の老人を手伝い、注水口のハンドルを回すと、勢い良く海水が床へ落ち始めた。飛沫が顔にとんでしょっぱい。地理の関係で、紅海の塩分濃度は他より高いそうだ。まあどれだけ違うか分かるわけではないけれども、そんなことを思い出しながら、アクセスハッチの下あたりへ移動する。

「…おいジジイ」

 ふと、承太郎が言った。

「さっき、スージーばあちゃんから電話があったぜ」

「なんだとおぉ!? 承太郎、おまえ! スージーからの電話に出たのか!?」

「ああ」

「ったくー! よけいなことしよってからにいいい! …まあいい! とにかくこの窮地を脱してからだ!! このジョセフ・ジョースター、このような状況は、今までに何度も経験しておるッ!!」

 途中から、自分に言い聞かせてんじゃないの、という感じだが、あーもーメンドクサいー! なんて頭を抱えるあたり、本当にフォローが大変なのかもしれない。さっき自分からかけた電話でも、ちょっとばかり長くかかっていたし、喋る調子がわざとらしいくらいだった。

 …とか考えている場合じゃなく、背の高い人はいいが千時はもう爪先立ち、いやそう思った頃には体が水に浮き上がり始め、ジョセフの肩へすがりつきながら顔を上げている状態になってきた。

「ギリギリで噛めよ」

 ジョセフにバックアップを手渡され、うんうん、首だけで頷く。ちょっと返事をしようと思うと、もう塩辛くてたまらないのだ。ペッペッ。

「まもなく水が充満する。マスクとレギュレーターを装着するんじゃ」

 少し遅れて、全員が装備に顔を隠した。トポン、と耳が塞がれるように沈み、やがてロック一杯に水が張る。

 頷きあい、上方へ床を蹴ろうとした時だった。

「シルバーチャリオッツ!!」

 声無き声が響き、ポルナレフがレギュレーターを吐いて体を逸らした。

 …ゲームだったらエンカウント率異常すぎてバグって言われんじゃないのかな。メーカー側もさすがに修正パッチ出す気がするよコレ。事態を予言した当人だが、千時は呆れながらジョセフの背後へ隠れた。

 チャリオッツの剣裁きがハイプリエステスを弾き飛ばす隙に、ポルナレフは装備を脱ぎ捨てた。ほぼ同時、彼の正面に位置していた二人が、ハーミットパープルとハイエロファントグリーンを放ち、変形する敵を捕らえる。

「何ッ!?」

 驚愕は、しかし、こちら側。ハイプリエステスは素早く自身の形を崩し、ツタと触脚の網をすり抜け、ひょうと細長く形を伸ばした。

「水中銃に化けたぞ!!」

「エメラルドスプラッシュ!!」

 襲い来る銛の経路を花京院の攻撃が絞らせ、また正面からチャリオッツが切っ先で押し返す。

「チッ…硬ェッ! チャリオッツの剣先が刺さらぬとは!!」

「今のうちだ!!」

 アクセスハッチを押し開けてアヴドゥルが叫ぶ。

「また装填しているぞ!!」

「急げ!!」

 ハイプリエステスが再装填のケーブルを巻き直す隙に、全員が外へ泳ぎ出し、アクセスハッチを閉めた途端にカーンと当たる音がした。

「間一髪だった…」

「安心するのはまだ早い。ヤツめ、確実に我々の痛いところを突いてきよる」

「ポルナレフ、大丈夫か」

「だ、大丈夫だ…」

 すぐに承太郎がポルナレフを捕まえ、自分の肩を叩いて見せた。ポルナレフも慌ててバックアップを探し、承太郎の助けを借りた。

「オーケー、助かったぜ…。メルシーボーク!」

 口々に無事を確かめあってから、アヴドゥルの指し示した方へ泳ぎ出す。まだ平坦な海底で、登り下りはあまり無い。

 しばらく、その薄暗い海底を淡々と進んだ。

 

「なんて美しい海底だ…。できれば、ただのレジャーで来たかったもんだぜ」

 ポルナレフのボヤキには全面的に同意。千時は、ジョセフの肩越しでこっそり頷いた。もう少しで日が射すだろう。そうすれば、もっと美しいに違いない。ガラス越しですらないのだ。

 しかしジョセフが呆れるのも無理はない。

「暢気しとる場合か。酸素が切れぬ内に、岸につかねば」

「その手前で襲撃されるよ!」

 そうだそうだ、言っておかねば。千時は大きく手を振って、全員の注意を集めた。

「このあと、スタンドに吸い込まれる。そしたらスタープラチナで歯を砕いて逃げて」

「歯ア? 歯って、この歯?」

 いやポルナレフ、今そこ指さしてもレギュレーターだから。

「行ったらわかる。ダイヤモンドの硬度がどうとか出てくるけど無視していい、スタープラチナの拳で砕けるはずだから、ブン殴っちゃって」

「よく分からんが」

 花京院が承太郎の方を見た。

「彼がキーなんだな?」

「そう。ノリさん、あとよろしくね」

「なんで花京院によろしくなんだよ」

 ポルナレフは首を傾げているが、花京院に伝われば充分だ。

 また正面を見た時、アヴドゥルが振り返った。

「見ろ! 海底トンネルだ」

「深度7メートル…。ついにエジプトの海岸か」

 ジョセフが険しく眉根を寄せ、ちらりと千時に目を寄越した。向かう先には、洞窟に見える大きな穴が並んで二つ、ぽっかり口を開けている。千時には、見覚えがあった。

「来るよ」

 頷いた瞬間、不意に、周囲の水が動いた。

 一気に体が揺さぶられ、たちまち凄まじい水流があらゆる物を押し流し始める。

「これか!?」

「そう!!」

 ゴーッという水音にやられて、スタンドを介した会話すら遠い。

 そこで千時に起きた事は、あ、と思う暇すら与えなかった。

 

 ジョセフの肩を掴んでいた手に、海底から巻き上げられた拳ほどの石がぶつかった。

 痛みすら感じられずにただ衝撃で手が離れた時、ジョセフは確かに気付いて、千時を捕まえようとしたのだ。しかし、咄嗟の事で、義手の先が無い事を意識していなかった。

 ジョセフの手首が宙を切り、千時は思い切り体を押し流され、水流の勢いにバックアップのレギュレーターから引き剥がされた。

 次の瞬間にはもう、半透明のドームに包み込まれていたのだ。

 

 …どーやって排水したんだコレ? 

 ぽかんとしながら、まず思ったのは、凄まじくどうでもいい事だった。T・Tの薄ピンクの手の中には、水の一滴も無い。千時はずぶ濡れだし、ゴーグルに入った少量の海水もそこにあるのに、ドームは千時が付けた水の痕がくっきりと残るほど、からっと乾いている。

 T・Tは水流と逆に向かって、ひどくなめらかに、まっすぐ離脱し始めた。

「あ! ちょっと! 違う違う、大丈夫だからあっちへ…」

 千時は慌てて立ち上がり、ドームの天井を叩いたが、T・Tは顔をこちらへ向けない。

「…T・T?」

 こちらの呼びかけに一切反応すること無く、まるで元から水中の生き物であったかのように、T・Tはその場を離れた。そしてそのまま、今来たルートを戻って海底を這い、斜めに横切る溝のようなところへ、トーンと落ちた。

 フワ、フワ、と二三度、ゆるくバウンドし、一番深いところへ落ち込んで、止まる。

 …切り取られたような景色に、幾筋かの日が射していた。

「きれいだね…」

 小さな呟きには反応があった。T・Tはドームの上から中を覗き込むようにして、ただキラキラと目を輝かせた。つられるようにゴーグルを外せば、視界にはもっと鮮やかな世界が広がった。

 どういう仕掛けか知らないが、水は入ってこないのに、ハイプリエステスが巻く渦の轟音は低く聞こえていて、その方向…背より少し高いくらいの崖を見上げると、途端、ぷっつり消える。気にするなとでも言いたいのか、T・Tは、ドームにキスするような動作をした。

 仕方がない。できる事が無い。

 千時は上方のT・Tに笑いかけ、座った。

 ぼんやりと眺めた景色は、途方もなく美しい。人生で、こんなにも純然と美しく思うことなど多くない。

 …お役御免という事かも。何となく考える。はっきり知っている敵は教え尽くしたし、ここまでにできる範囲では全員を救ったはずだ。エジプトから先は、本当に断片的な事しか知らない。花京院とアヴドゥルのことが頭をよぎったが、それでも誰かに、諦めなさいと言われたような気さえした。これで目を閉じて眠ったら、死ぬか、家のベッドに戻ってしまっているのかも…、とうとう千時は笑った。それらが同列にあるのは、本来ならおかしい話だ。自分自身でもうっすらと知っている。エンヤと対峙した時、目の前に開けた自殺への道筋など、普通の人間にはきっと無い。もっと足掻くか、恐怖するか。

 だが、まあ、ここで一つの終止符が打たれるのなら、このどこまでも美しい海で、もう二度と無い旅の思い出と眠れる方が良い。

 T・Tの作る半透明の壁は、周囲の青と相まって、深い紫に染まっている。それはそれで綺麗だが、千時は、ふと思い出した潜水艦の窓を、もう一度見たかったと思った。

 同じ色の目をした男が、どうして海を好きなのかは知らない。

 千時は、水の中なら好きだった。水に体を預け、手足を投げ出して漂うと、美しい静謐がすべてを包み込んでくれる。もし呼吸などの問題が無ければ、澄んだ川の中か、透明な海の中に住むだろう。陸と同じで残酷な自然もそこにはあるが、人間の鼓膜でその音を拾うことは難しい。弱肉強食の争いがたてる音も、他者からの雑音も、水は遮る。陸の生き物に対する優しさのように。

 今はそれすら無い。T・Tはさらに何もかもを消し去ってくれている。これまでの生涯には聞いたこともない静寂。いや、人類の誰一人として生きては体験しないであろうと思わされるほどの、完璧な静寂。

 それはひどく優しく、心地良い。

 だが、あの潜水艦の窓に詰め込まれた、明るく賑やかなものは無い。

 僅かな寂寥に膝を抱えて丸くなり、そっと目を閉じた。この中は、ある種の幸福に満ちている。そしてある種の不幸に満ちている。この壁が崩れた時、窒息に苦しみ抜いて死ぬのかもしれない、その苦痛と引き替えてもかまわないと思うほどの幸福を感じるのに、ほんの少し、微かに、どこかに、残るものがある。

「…仕方ないね」

 人の性の愚かしさだ。

 目を閉じていても、千時には分かった。頭上で、T・Tも目を閉じ、穏やかに微笑んでいるのが。

 

 それはきっと、たった数秒だったに違いない。

 ただ、世界一完璧な静寂がもたらした、永遠でもあった。

 

 ぐんと体が揺さぶられ、千時はハッと顔を上げた。

 ネコミミマネキンの細い首根に、太い指ががっしりとまわっている。

「T・T!!」

 千時は絶叫し、次には驚愕に目を見開いた。

 T・Tの首を絞め上げながら引き寄せたのは、スタープラチナの手だった。スタープラチナは凄まじい形相で、T・Tとその手の障壁ごと、後ろへ体を引いていく。その向こうから、承太郎がこちらへと手を目一杯伸ばしているのが見える。

「やめて! T・Tが!!」

 立ち上がった千時は天井に両手を付けて、スタープラチナに叫んだ。だが、向こうには聞こえていない。ギリギリと絞め上げ続けている。

「T・T! 消えて! いいから! もういいから!!」

 T・Tはぎこちなく、むりやり首を俯かせた。

 本当にいいのかと、宝石のような目が確かに訊ねた。千時は、泣き笑いのようになりながら、何度も必死で頷いた。

 途端、ゴボッと空気のこぼれる音が響き、千時の体は水中へと投げ出された。その瞬間を狙いすましたように、スタープラチナの手が千時の二の腕あたりを掴み、重なるようにして実体の…承太郎の手が代わる。ゴーグルを外してしまっていて咄嗟に目を閉じたため、口に押し当てられたものが何だか分からず首を振って逃れると、骨が外れそうなほど顎を掴まれ、レギュレーターを噛まされた。

 腕も骨折しそうなほど握り潰されたまま、千時は海中を引っ張られて行った。

 

 空気の中へと引きずり出され、砂が頬をザリザリとこする。

 レギュレーターを吐き出して、痛い! と抗議すると、承太郎はようやく…しかし乱暴に、手を離した。

「あのスタンドを捨てろッ!! いつかテメーが殺されるッッ!!」

 寝転がったまま見上げると、突然怒鳴った男の目には、最大限の嫌悪と憎悪が込められていた。実際としては千時を見ながら、けれど、彼女の中に潜む得体の知れないものへ、その視線を注いでいる。

 千時が何のアクションも出来ない内に、彼女と同じくゼエゼエと荒い呼吸をしながら、承太郎は怒鳴り続けた。

「潜水艦に乗る前、あの小屋の前で、ヤツは俺におかしな光景を見せた! ヤツが俺に触れた時、テメエが見えたんだ! 目を閉じ、耳を塞ぎ、薄暗がりに丸くなって転がっているのが! それで満足そうに笑っていやがるのがッ!!」

 承太郎が吐ききると、しばらくは二つ分の呼吸だけが、波音に紛れた。

 千時がどうにか腕を突っ張って上半身を起こす頃、水から上がってそのまま仁王立ちだった承太郎が、逆にそこへ倒れるように座り込んだ。

「…俺はな」

 承太郎は厚い胸板をひどく上下させていたが、その事と表情は無関係のようだった。ジョースターの血統の屈強な戦士は、その恐ろしく整った顔に、何故か微かな怯えの色を浮かべていた。

「あの時、はっきり言って恐怖を感じた。言いようの無い薄気味悪さがこみあげたんだ。しかし、その意味が分からなかった」

 千時はようやく酸素が頭へ着たようで、その言葉の意味に追いついた。

 ロッジだ。二人で話している最中、突然現れたT・Tが彼の腕を軽く掴んで、するといきなり狂乱した承太郎がスタープラチナと共に殴りかかろうとした、あの時の事だ、きっと。

「さっき同じ光景を見て、やっと意味が分かったぜ。あれは絶望そのものだ。俺が恐怖したのは、あの薄暗がりの牢獄だったんだ。静かで、穏やかで、何もない。お前のスタンドは、お前をあそこに閉じこめて、殺そうとしていやがる」

「殺すなんて、そんな…」

 …本当に? 

 はっきりと否定できない不気味さがあった。承太郎の言うとおり、確かに海底のあの手の中は、耳を塞ぐより静かだった。穏やかすぎて、目を閉じてしまった。T・Tが微笑んでいるのが分かったくらいだから、自分もそうしていたかもしれない。

「…そんなこと…」

「いいや、あるね。俺たちすら吸い込まれたあの水流から脱する力を持っていて、なぜ浮上しない? なぜあんな海底で、動こうと…しなかった、ん…だ…」

 語尾がゆっくりと尻切れに消えて、千時は承太郎を見上げた。彼は驚愕に目を見開き、しばらく絶句してから、まじまじと千時を見た。

「まさか、死にてえのか?」

「へ?」

 あまりに唐突で、千時はぎょっとした。

「え、なに、…私がってこと? いやいやいやそんなバカな」

 一般的に考えて捨てたがるわけがないものを、何故そう考えるに至るのか。そんな素振りを見せた筈は無い。それにそもそも死にたいわけではない、痛いのも苦しいのも超苦手。選択肢としてのそれが、他人のそれより近い位置にあるというだけ、そこを間違われては困る。

 なのに彼は、一人で頷き、勝手に納得したようだった。

「そうか。そうだ。なら合点がいった」

「あの、ちょっと、もしもし?」

「何に絶望している? 何を拒絶し、諦めている?」

 あんまりにもあんまりな問いかけで、千時は言葉を失った。

「熱に浮かされて言ったのも、自分に向けた事だったんだな? 俺達は誰一人として、テメエを要らないとは思っていねえんだ。残るはお前自身だけ。それで辻褄が合う」

 合ってない合ってない。無茶苦茶だ。行き過ぎ。ちょっと待て。ストップ。色々が頭をぐるぐる、しかし、具体的には返す言葉が思い浮かばない。

「…私、何て言ったの?」

「正確に言うなら、私なんか要らないくせに、と叫んだぜ」

 なんつー自虐的なお言葉。いや自分で言ったらしいけれども。

「なら簡単だ」

「へ?」

 承太郎は勝手に結論を出したようで、ビッと人差し指を突き付けてきた。

「絶望は捨てな。ここから先で殺されるのが、お前にならない保証はねえ」

「…えっと、がんばる?」

「違う。前を見ろ。向き合え。今、正面に誰が居る」

「承太郎」

「そうだ。それがてめえの希望だ」

 …………。

 砂に突っ伏してしまって、額が砂だらけだ。

 笑うなと怒られそうなものなのに、承太郎は黙っている。それがまた真剣に感じられて、笑いが止まらなかった。笑いすぎて力が入らず、痛みだした腹を押さえ、ごろりと横になってまだ笑い転げたが、大人びた学生は海を見るばかりだった。

「はー! さっすが! 承太郎カッコいーィ!」

 涙目になりながら言うと、承太郎は、砂だらけで転がる千時を睨んだ。

「ごまかすな。お前の希望になってやると、この俺が言っている」

「んー! 俺はやると言ったらやる男だぜ!?」

「分かっているんじゃあねえか」

「見てたからね」

 画面の向こう側に。

 …大衆の望む、一つの理想のキャラクターとして。

 千時は目を細めた。

 見上げた彼は、確かに格好良い。理想像の一つではある。だが、現実に一緒に居ると、それはただの一面に過ぎない事が分かってくる。

 うっかり煙草の灰を学ランの裾に落として、舌打ちしながら払い落としていたのを見た事がある。苛立ってジョセフに暴言を吐き、後で一人、うなだれていた事がある。車の中で頬杖から顎が外れて、ガクッとなって驚いていた事もあった。けっこう好き嫌いが多く、食事の時は一口手をつけ、気に入らないと皿ごとジョセフの方へやる。飴をあげると、よせばいいのに毎回ガリガリ噛み砕き、歯にくっつけて頬をもごもごやっている。ある夜は、どうも隣室がうるさいと覗きに行ったら、花京院とポルナレフ相手に枕投げをしていて、ばつが悪そうにベランダへ逃げていった。

 ごく普通の、人間の一人だ。

 …だからきっと、それは、…。

 承太郎は、しばらく、じっと千時を見据えていた。その目はスタープラチナのそれと良く似て、迷いの無い透明な色だ。現物は、同じだと思っていた海のそれより、余程果てしなく澄んでいる。

「ありがとう。嬉しいよ」

 千時は、心から感謝した。

 

 二人はしばらく、その場に居た。

 ちょうど良く気温が上がり始めていて、千時は寝転がったままうっかり寝落ちし、承太郎は海を見ていた。

 おーい! と遠くに花京院の声がして、

「…ファッ!!」

 ハッと目を開けてから、千時はやっと起きあがった。日の高さは然程変わっておらず、たぶんまあ、ちょっとの間だろう。

「寝てた…」

「ああ」

 承太郎は立ち上がり、声のする岩場の方へ大きく手を振った。シルエットで分かる緑がかった長ランを筆頭に、後ろから三人も姿を見せる。

 迷子は動かないの鉄則。…を守ったわけでもなかったが、見つけてくれて助かった。

「ノリさーん! みんなーァ!」

 千時もどうにか立ち上がり、手を振って歩き出した。

「あー全員無事で良かった良かった」

「そうだな」

「おや、承太郎さんが何だか優しいよ」

 軽口にまではさすがに返事が無い。見上げると、帽子を被り直してため息一つ。

「現金な女だぜ」

「ハハハ。希望が隣歩いてるんだからテンションもあがるって」

「寝たからだろ」

「ちょっとじゃん! …ちょっとだよね?」

「さあな」

「あー! もう優しくなくなった!」

 体の砂と塩をはたき落としながら、段になった岩を上ったところで、花京院が駆け寄ってきた。

「良かった、二人とも無事か」

「ああ」

「みんなも大丈夫? そうだノリさん、首の怪我は?」

「全員無事だ。僕も血は止まったよ」

「良かった」

「おい承太郎ォー!」

 二番手で駆けてきたポルナレフが、バッと太い腕で承太郎の肩に飛びついた。

「テメーこの野郎! いきなり俺様をほっぽりだしやがって! びっくりするじゃねーか!」

 そうだ、この人、ポルナレフにバックアップ噛ませてた。

 目を丸くして見上げた承太郎は、帽子の鍔の下で笑っていた。

「ああ、悪かった」

「ジョースターさんが拾ってくんなきゃ、溺れ死ぬとこだったんだぜ! まったく!」

「このアマが」

 言って千時を顎でしゃくる。

「パニックおこして海底へ沈んだもんでな」

 花京院が呆れた顔で眉根を寄せた。

「それで血相変えて行ってしまったのか。頼むから一言言ってくれ。こっちはひどく混乱したんだぞ」

「すまねえ」

「ごめんなさい」

 千時がペコンと頭を下げると、ポルナレフが手を伸ばしてきて、髪をくしゃくしゃに掻き回した。

「こいつの無事に免じて許してやるかア」

「ありがとー! ホント、ごめんね」

 ウェブで書いてたら、てへぺろ! って付ける。そんな気持ち。千時は苦笑いでごまかした。

「けど、おまえのT・Tなら海面に浮けただろ。あの渦ン中、ピョーッと離れていけるくらいなんだからよ」

 不思議そうなポルナレフに、花京院も頷く。やはり思うところは誰しも同じらしい。

 千時は何でもないように、首を横に振った。

「なんかそれで力尽きちゃったみたいよ。T・Tも困ってたから」

「へーえ。ま、千時はボンベ背負ってなかったもんねえ」

「そうだね。なんでT・Tが空気持ってたかも謎なんだよ」

「不思議なスタンドだよなー」

 勝手な取り繕いだったが、承太郎は口を挟まなかった。では、そういう事にしておこう。無駄な心配はかけたくない。

「そっちはどうだった? ミドラーって人は? 居た?」

「あっノーコメント!」

 ポルナレフは両手で顔を覆い、ブンブン横に振った。

「海岸に居たけど、やめろ! 見るのはやめろ! 歯が全部折れてるから見てもしょーがねえ!」

 よっぽど酷かったらしい。

 その大仰な振りを笑っている間に、ジョセフとアヴドゥルが追い付いてきた。アヴドゥルが絞って丸めたローブを手に持っていて、そういえばと千時も海水でパリパリし始めたパーカーを脱いだ。叩くともう、砂に混じって塩がぱらぱら。いろいろすごい。

「千時! すまんかった! 怪我は無かったか?」

 ジョセフは来るなり千時を右に左にのぞき込んだ。

「つい手首があるつもりで」

「そりゃ普通そうだよ、気にしないで。それより換えは?」

「すぐ財団に積んできてもらうさ」

 ちょっと眉を上げたジョセフの表情が晴ればれとしていて、それだけで嬉しい。

 全員、生きてエジプトの地を踏んだのだ。少しばかりは浮き足立つに決まっている。来た海を感慨深く、朝日の色を誇らしく眺めたのは、六人とも一緒だった。

「ついに、エジプトへ上陸したな」

 アヴドゥルが眩しそうに目を細めた。

「うむ。ジェットなら二十時間で来るところを、二十日もかかったのか…」

「いろんなところを通りましたね。脳の中や、夢の中まで」

 花京院が頷くと、承太郎とポルナレフがきょとんとしている。

「夢? なんだそれは、花京院」

「おいおい、もう朝だぜ。寝ぼけてんじゃあねえぞ」

「ああ、そうか。みんな知らないんでしたね」

 千時が思わず笑いながら花京院を見ると、向こうも千時を見ていた。肩をすくめて笑うと、器用なウインクが返ってくる。

「何かあったのか」

 首をかしげた承太郎に、

「夢でね!」

 千時が笑いながらそっぽを向けば、彼は苦笑しながら学ランの裾を翻した。

「まあいい。行くぜ」

 

 最後の砂漠が、待っている。

 


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