「そりゃ私は、ジョセフさんの歩く手荷物のつもりでついて来たよ! けどほんとに荷物扱いすることないでしょ!」
「いやいや、そんな、荷物扱いなんて。ホル・ホースが言っとったじゃろう、女の仕事とか何とか」
「そっから聞いてたのか!! どいつもこいつも!」
「そうは言うがな、ホル・ホースはお前さんが拾ったんだぞ。責任というもんじゃ。わしらは別に戦ったってよかったんだからして」
「んああああぁぁあ! もう! とにかく! 二度と! 膝には乗らないッ!」
一人減って、ようやく普通に座れた千時は、前の座席をボーンと蹴った。
次の経由地、パキスタン、カラチ。昼頃、市街地に入る手前でホル・ホースを降ろし、そこでポルナレフが運転を代わっていて、千時の前に座っているのはジョセフである。
「おいおい、イスを壊したら、それこそお膝だぞ」
「わああああもう腹立つうぅぅ!!」
「いい加減にしろ、うるせえぞ」
ボソッと承太郎からお小言。
「お! ドネルケバブがあるじゃないか。腹が減るとイライラするからな、腹ごしらえでもするとしよう」
窓を見ていたジョセフが、ころっと話題を変えた。
「おいポルナレフ、停めろ停めろ」
「ええー? 道狭いぜ、大丈夫かあ?」
「待っとりゃいい、わしだけ降りて買ってくる」
「ハイハイ」
言うなりにその場で車を停めると、ジョセフはひょいと降りて、店先の男に話しかけた。
見ていると、お決まりの値段交渉らしい。大げさなジェスチャーで、あーでもないこーでもない、とやりあっている。
やがてジョセフが商品を受け取り、ほくほく顔で振り返ったその背後、ケバブ屋と見えた男は、シャルワニと呼ばれる白い上着を脱ぎ捨てた。
ただならぬ醜悪さで、笑っている。
「ジョースターさん!」
運転席のポルナレフが叫んで駆け寄り、全員が車を出ていった。
千時は慌ててポケットのメモをめくって事態を確かめ、後部座席の後ろのスペースへ転がり込んだ。荷物に埋もれた中に、白い布で包んだ箱がある。それを抱えて、バックドアを開け、外へ。
「ホル・ホースは逃げたか…。まあいい、後でゆっくり追うとしよう。…おやおや。子供連れだというエンヤ婆さんの情報、本当だったんですねえ」
前方から男の声が聞こえた。また子供扱い! いい加減にしろこの外人ども!! とか言ってられない、剣呑な雰囲気だ。
「私の名はダン。スティーリー・ダン。スタンドはラバーズのカードの暗示。怪しい情報源を持っているようだが、私のスタンドは知られていようと関係無い。六人全員のお命、この私が頂戴致します」
「五対一だが躊躇しない。覚悟してもらおう」
花京院が応じている。千時は車の後方で荷物を抱えたまま、黙って彼らのやりとりを聞いた。
「おいタコ」
苛立った様子の承太郎が言い募る。
「格好つけて余裕こいたフリすんじゃねえ。テメエがかかってこなくても、やるぜ」
「どうぞ? だが君たちは、このスティーリーダンに指一本触ることはできない」
スタープラチナの怒声に思わず目を瞑る。ジョセフの悲鳴と、二人の人間が倒れ込むような音がした。
「どうしたジョースターさん!?」
「こいつと同じように飛んだぞ!?」
ポルナレフと花京院が慌てている。
「このバカがッ」
スティーリー・ダンは吐き捨てるように言った。
「まだ説明は途中だ。もう少しでキサマは、自分の祖父を殺すところだった」
「ラバーズのカードのスタンドとか言ったな! 一体何だそれは!」
ジョセフが叫ぶと、ダンが余裕綽々で応じる。
「もうすでに戦いは始まっているのですよ。ミスタージョースター。
愚か者どもが。探しても、私のスタンドはすぐには見えはしないよ。…おい小僧、駄賃をやる。その箒の柄で私の足を殴れ」
「ま、まさか!」
「殴れッ!」
子供の戸惑う小さな声と、思いきって叩く音。
「ぐええぇぇッ!」
「どうした! ジョースターさん!?」
「いっ痛い! わけがわからんが激痛があぁッ!」
「気がつかなかったのか? ジョセフ・ジョースター? 私のスタンドは体内に入り込むスタンド。耳からあなたの脳の奥に潜り込んでいった!!」
台本はそこまで。
何ッ、と慌てたダンの声と同時、ジョセフが千時の元へ駆け込む。
「どうじゃった? わしの演技は」
やられた腹を押さえてはいるが、ニヤついた小声は割と元気で、千時はほっとした。
「役者になれるよ」
荷物を渡し、じゃまにならないよう退がる。
「よーし! 行くぞ!!」
声を張り上げ、ジョセフが走り出した。
「おうよ!」
「アヴドゥルさんもこっちへ!!」
ポルナレフが後を追い、花京院が叫びながら続いて、アヴドゥルも走り出す。
「承太郎! そいつをジョースターさんに近づけるな!! そいつからできるだけ遠くへ離れる!!」
花京院は路地へと飛び込み、駆けていった。
実はもうコレ、打ち合わせておいたのだ。
ジョセフがエンプレスに襲われた時、千時は、予告すらしてやれなかった。出し惜しみしたわけでも何でもないが、先に言っておけば、医者が殺される事も、ジョセフが手配される事態に陥る事も、回避できたかもしれなかった。それを千時は、いたく反省した。
だからあの後、インドを突っ切る車内で、頭の中に侵入してくる極小のスタンドの事を話しておいたのだ。花京院とポルナレフに、縮小化も練習しておいてもらった。距離を稼いでも意味がないとも言っておいたから、今のはわざと。さらに、あの白い布に包んだ荷物は、何を隠そう、テレビである。
今度こそ、打てる手は打った。準備万端。さあ来い! だ。
さっきの口上から察するに、スティーリー・ダンは、そこまで詳細に情報があるとは思っていなさそうだった。エンヤ婆は局留めよろしく、千時の存在を仲間に通達してこなかったらしい。まず自分で確かめるつもりだったのだろう。そりゃそうだ、別の世界の未来から、なんて、そんな話を誰が信じる?
「ほおう。なるほど?」
ダンは相変わらず余裕の態度で、せせら笑った。
「遠くへ離れれば、スタンドの力は消えてしまうと考えてのことか。だがな、物事というのは、短所がすなわち長所になる。力が弱い分、体内に入ったら、どのスタンドより遠隔の操作が可能なのだ。何百キロもな」
…ていうかこの人、よくしゃべるなあ。千時は車に隠れたまま、ちらっと顔を出した。
「スタンドと本体は一心同体。スタンドを傷つければ本体も傷つく、逆もまた真なり。この私を少しでも傷つけてみろ…同時にジョースターの脳内で、私のスタンドが、私の痛みや苦しみに反応して暴れるのだ。同じ場所を数倍の痛みにしてお返しする。もう一度言う。キサマはこの私に、指一本触れることはできない」
ほんとよく喋る。そして黙って聞いている承太郎がシュールすぎて、段々笑えてくる。
「ま、はっきりいって私のスタンドラバーズは力が弱い。髪の毛一本も動かす力のない、史上最弱のスタンドさ。だがね、人間を殺すのに、力なんぞいらないのだよ。わかるかね、承太郎くん? この私が交通事故に逢ったり、偶然にも野球のボールがぶつかってきたり、つまずいてころんだとしても、きみのおじいさんの身には、何倍ものダメージとなってふりかかっていくのだ。…ま、その前に、脳が喰い破られて死ぬだろうがね」
ダンは言いながら、路傍にあった大振りの石を拾い上げた。
千時は、あっ、と承太郎の元へ走ろうとした、と同時に驚いて足を止め、
「アいたあァッ!!」
左手中指の激痛を庇うように、前かがみになった。
何が起きたか。
承太郎が殴られると思った瞬間、半透明の薄ピンク色をした両手が、唐突に両肩のあたりに現れた。驚いて千時が立ち止まると、なんと指が数メートルも前へ伸びて、承太郎を包んでしまったのだ。で結果、ダンが思い切り石で殴りつけたのは、薄ピンクの指。そら痛い。
ダンが何事かとこっちを覗いている。承太郎も振り返った。
ネコミミマネキンのスタンドは、すぐに伸びた指を引っ込め、小さくした薄ピンクの両手を、千時の肩に置いて消えた。たぶんネコミミマネキンの頭が、千時の頭上にあったのだろうが、見る余裕は無かった。
「何をしやがる!!」
怒鳴ったのは承太郎の方で、千時の元へ駆け寄ってくると、乱暴に手を掴んだ。折れていないか見たらしく、すぐに離すが、激怒している。
「テメエはすっこんでろッ!!」
そうしたいけど勝手にやらかすんだよあのマネキン!! …とは、敵の前で言えない。苦笑いでごまかす以外に無い。
「ほっほう…」
ダンが半笑いで、その手の石をもてあそんだ。
「そっちの子供のスタンド、ガード能力は高そうだ。…が、大したことはないな。エンヤ婆は一体、何を警戒していたのやら」
「フン。喧嘩の作法も知らねえ野郎が、スタンド能力の分析なんて高度な事、できるとは思えねえがな」
承太郎は向き直り、千時を背中に庇った。
「寸止めも出来ねえで女子供に手ェ上げる奴ぁ、ウジ虫以下のクズってもんだぜ」
いや無茶言うなよ、と、当の女子供が思うがまあいい。承太郎ならあの一瞬でも手を止められるのだろう…いややっぱ普通あれは止まんないよ、すでに振り下ろしてたもんね。同情ではなく現実問題の話である。
ダンは、ハハハッと声をあげて笑った。
「ジョースターのジジイが死んだら、その次はキサマの脳にラバーズを滑り込ませて殺そうと思っていたが、予定変更だ。次はその子供にしてやるよ。そのほうが楽しいだろう? 承太郎? …おい。おめーに話してんだよ」
ダンが怒りと不満を露わに詰め寄った。承太郎は、いつの間にか顔だけ斜め下方へ向け、千時の左手を見ている。
「なにすました顔して視線下げてんだ。こっち見な!!」
「てめえ、だんだん品が悪くなってきたな」
「ハッ! 女子供に守られるようなボッチャンが、品なんぞ語れるもんかよォ!」
言い捨てて歩きだしたダンの後を、追って承太郎が歩き出す。気付いたダンはいやらしい笑みを浮かべた。
「おいおい、ジョセフが死ぬまで、この私につきまとうつもりか?」
「ダンとか言ったな。このツケは、必ず払ってもらうぜ」
「ンッフフフフ! そういうつもりで付きまとうなら、もっと借りとくとするかあ!」
ダンは承太郎の学ランに手を突っ込み、それから、腕時計を見つけて剥ぎ取った。千時はこんなシーンまで覚えていなかったが、これはゲスい。眉を顰めた千時の目の前で、ダンは承太郎の財布を開いた。
「これしか持ってないのか。時計は生意気にタグホイヤーだがな。借りとくぜぇー?」
承太郎は、無言。こーれは高価いぞ、こんなツケは。千時はちょっと肩を竦めて、彼らを追いかけた。
ダンはべらべら、ご機嫌な様子で喋りたくりながら、道を歩いていく。千時はもうBGM扱いでろくに聞いていなかったが、承太郎は時折、ふざけんな、だの、バカかテメエは、とか返しているから、ちゃんとツケをカウントしているのだろう。
広場だろうか公園だろうか、路面がタイル敷きの、開けた場所へ差し掛かって、ダンはそちらへ入っていく。
その真ん中の水路を見た時、千時は、このあとのシーンを思い出した。
「橋! 橋はあっち!!」
承太郎の学ランを掴んで引っ張ったが間に合わず。
ダンは、世にも最低な笑顔を浮かべた。
「堀かぁ。この堀、飛び越えて渡ってもいいが、もし躓いて足でもくじいたら危険だなあ。向こうの橋までいくのも面倒くせえし、おい、承太郎、堀の間に横たわって橋になれ。その上を渡るからよお。どうだ? 橋になってくれないのか?」
「…てめえ、なにふざけてやがるんだ」
「橋になれといってるんだぁーッ!! このポンチ野郎があああ!」
突然、激昂したダンは、傍にあったポールに自分の足を打ちつけた。…何というか、こう、事情知らない人が見たら、アタマがカワイソウにしか見えない事をこの人、分かっているんだろうか。
「どおぉしたあ? 承太郎ォ? ああア?」
いくら対策を講じておいたとはいっても、手筈の都合、ジョセフの傍には居られない。承太郎は、さすがに祖父の身を案じている。
舌打ち一つ。
その驚異的な運動能力で、真っ直ぐ前へ倒れ、承太郎は自分の身を水路に渡した。運動音痴の千時からすると神業レベルだ。
しかし実際、目の前にすると、本当に屈辱的で見ていられない。黙るしかできないため、千時は目を閉じて顔を背けた。
「なかなか、しっかりとした橋になったじゃあないか! ほれほれ! ほれ!!」
ダンは好き勝手しているようで、承太郎から呻きがこぼれている。
少しして、じっと耐えていた千時の耳に、とんでもない言葉が飛び込んだ。
「ガキんちょ! お前も渡れ!」
「はア!?」
千時は慌てて目を丸くした。
「橋まで行かせるわけないだろぉ? 承太郎も渡ってほしいよなあ? 仲間だもんな?」
「いやソレむしろ渡るわけないよね」
呆れ返ってついツッコんだが、
「さっさと渡れ!!」
承太郎には怒鳴られ、
「ほぉーらほら! 承太郎も渡れっつってるよお!!」
ダンには笑われ、千時は、考えるのをやめた。スタスタッと歩み寄り、ぴょーんと水路へ飛び込む。
「なッ…!!」
バシャッとやってしまってから、承太郎の顔にまで水がかかった事に気付いたが後の祭り。渡られるよりいいだろ、と目で告げて。
「ワーゴメンナサイ怖クテ足ガ滑ッチャッター」
徹底的にわざとらしく棒読み。
幸い、水の深さは膝下だった。ザブザブ歩いて、向かい側へ。水路自体は、ちょっと深い。上るのが大変そうで、こういう時チビは困る。承太郎じゃないが、やれやれだ。
背後にバシャンと水音がして振り返ると、承太郎も水路へ降りていた。無言で千時を掴み、ひょいと持ち上げる。
「ありがとー」
承太郎もすぐに上がってきて、二人並んだ足下だけ、雨上がりのようになった。
承太郎は、千時を見下ろして首を傾げた。
「お前、痩せたか」
「今そこ!? いやそりゃ一般人がこんな強行軍の旅したら痩せないほうがおかしいけれども!!」
「ちゃんと食えよ」
「だから今そこ問題!?」
「キサマらあああッ! 何フザけてやがるッ!!」
ダンはあからさまに苛立って、手を振り上げた。
「ダメダメダメ!!」
千時は慌ててその手の下へ入り、万歳状態でダンの拳を掴んだ。
「ごめんなさい! 次は言うこと聞く!!」
睨み合いの末、ダンは唾を吐き捨てながら腕を下ろした。ホッとはしない。なぜなら、後ろで承太郎が盛大に怒っているからである。リアルに気配で分かる事なんてあるんだなあ。千時は縮こまりながら、そーっと振り返った。
「…な…、なんか知らんけど、ゴメンネ…?」
「花京院の気持ちが、よおく分かったぜ」
「は?」
「ピンチに陥っても、テメエのことは助けねえ事にした」
ああ、聞いたことあるな、そのセリフ。
ぐったり、…している暇はない。
「それじゃあ早速、言うこと聞いてもらうとしよう」
ダンが千時の首根っこを引っ掴み、ベンチに向かって歩きだす。慌てて付いていくと、ダンはどっかと座って、足を組んだ。
「靴でも磨いてもらおうじゃあないか? え? 靴磨きってのは、昔っからガキでも出来る仕事の代表だ」
「あーハイハイ」
後ろから追ってきた承太郎を無視して、千時は頷き、ポケットからハンカチと財布を出した。
「じゃ、私はここで人質しながら先に汚れ落としとくから、承太郎はコレで靴磨きセット買ってくる! はいダッシュ! 急いで!」
財布を学ランに押しつけて、思い切り押す。
「走って走って!」
「アア?」
「いいから!」
「おい待てッ! 何をやって…」
ダンの言葉の途中で、承太郎は何かを察したように走り出した。とんでもないスピードで公園を突っ切り、大通りへ出ていく。
千時は、今度こそホッと胸をなで下ろして、ダンの前にしゃがんだ。
「キサマぁ…!」
ハンカチで拭こうとした靴が動いて、つま先で頬をグリグリやられる。後ろへ一歩下がるが、しかし、気にはせず、ハンカチで土埃を拭う作業に専念した。
「何企んでやがる、このガキめ」
「別になんもー」
企むのはダンの方だ。千時がああしたのは、承太郎に万引きさせたくなかったからだった。この後だったか忘れたが、どこかでダンが承太郎に命じてスタンドを使わせ、宝石店で盗難を働いたのを覚えている。そういう奴なら、靴磨きだろうが何だろうが、盗んでこいと言われるに決まっている。だから急いで追い払ったのだ。時間を稼いで回避。
ダンはしばらく黙って、何かを考えていた。
「奴が戻ってきたら、おまえの財布も没収だ」
ほらやっぱりね。千時は無言で、もそもそと靴の汚れを拭い続けた。
承太郎が戻ってくるまで、五分もなかった。
「おい!」
少し遠くから声がかかって、振り返るなり空中に綺麗なカーブ。
「おわあっ!」
紙袋ごと投げて寄越され、しかしもうその神がかり的なコントロールたるや。さっきも言ったが千時は運動音痴なので、その手の中にちゃんと入るのだから冗談ではない。
「…ほんとに人間かな、あの人…」
紙袋の中からチューブの靴墨とブラシを出す。さすが承太郎、全色対応透明タイプ。紙袋には財布も入っていたが、それはそのまま、くしゃくしゃに丸めて、足下へ置く。実のところ千時は、自分の財布と携帯電話をまとめて空条邸においてきた。今ある財布はジョセフが中身ごと用意してくれているもので、紙幣を挟んで留めておけるだけの、薄く小さな物だ。もしかしたら、ダンが気付かないかもしれない。何があるか分からないため、手元においておければいいのだが。
承太郎はこっちを見ながら走ってきている。
早速、ダンが言った。
「おい、承太郎! 財布を寄越しな!」
「財布か…」
承太郎はほんの少しだけ息をついて、ポケットに手を入れた。わざとらしく探すフリをする。
「落としたようだぜ。勝手な人質のおかげで、急かされたもんでな」
「いいよ。どうせジョセフさんのだもん」
千時は軽い口調で言いながら、靴墨をブラシに出して、靴に塗ろうとした。
「待て、ガキんちょ」
ダンはまた何か思いついたらしい。ニヤニヤしながら、組んでいた足を崩して引っ込め、千時の手からブラシを取り上げた。
「気が変わった。ここから先は承太郎にやってもらおう。いいよなあ? 承太郎、やってくれるよなあ?」
「いいのに。私やるよ?」
「すっこんでろっつってんだよクソガキイィ!!」
耳元で怒鳴られ、尻餅をついてしまった。
千時はジーンズをはたいて、くしゃくしゃにした紙袋を持って立ち上がった。大人しく後ろへ下がる。
「今度はそっちがお使いだ」
「お使い?」
「ジュースでも買ってこい。ああいや、ウハハハ! 財布が無いんだったな! 買えないなら買えないなりに…どうすればいいか分かるだろ?」
千時はわざと目を泳がせ、承太郎を見上げた。承太郎は、帽子の影からちらりと視線を寄越しただけだ。
「…わかった。どうにか、してくる…」
紙袋を胸の前にして、両手できつく握りしめ、困りきった様子を作りながら、千時は背を向けた。
よっしゃ!
で、走り出す。
時間稼ぎだ、承太郎キレるなよ、がんばれ!
内心で応援し、公園を出て大通りへ。さてどうしたもんか。
見えない位置まで来てから財布を出すと、紙幣は充分残っている。ジュースを買うのはいいが、どれくらいの時間をおけばいいのだろう。すぐにでも戻りたいのに。立ち止まったまま考えて、すぐに正面の喫茶店へ飛び込んだ。多めにチップを渡して、ペーパーカップでプリーズ、をどうにかゴリ押し。テイクアウトにしてもらい、大急ぎで公園へ。
ベンチが見えたところで、
「お財布落ちてたー!」
と叫んだが、二人は振り返りもしない。
なんだよ! 一生懸命考えたのに! とか言ってる場合じゃない、おいおい、何で靴磨きのはずが仁王立ちでガン付けてんだっつー。
「お前、なにか勘違いしてやしないか? ジョースターのジジイは、あと数分で死ぬ!! そんな状況なんだぜ!」
「いいや。きさまは俺たちの事をよく知らない。花京院の奴のことを知らねえ」
承太郎は淡々と話している。また殴りかかられるのではと気が気ではないが、どうもここまでの様子と違う。承太郎のトーンが少しばかり明るく、足跡の付いた背中が、やけに真っ直ぐ立っている。
次の瞬間、ダンの額が割れた。
「なにイーッッ!?」
「おぉーや、おやおや、おや。そのダメージは花京院にやられたな。残るかな? 俺のおしおきの分がよォ」
ダンが、明らかに動揺し、くるりと踵を返して逃げようとした。のを、承太郎が髪を鷲掴みにして、がっしと捕まえる。
「どうした? 何を後ずさりしている? 俺のじいさんのほうでは何が起こっているのか、話してくれないのか? …おい、おいおい。何をあわてている? どこへ行こうってんだ? まさかオメエ、逃げようとしたんじゃあねえだろうな。…今更よぉ」
ダンの喉から、潰れたような悲鳴がこぼれた。
うんまあそうだろうね…。饒舌な空条承太郎なんて、恐怖以外のなにものでもないよね…。千時は南無三唱えつつ、邪魔にならないよう、近付くのをやめて後ろへ下がった。
「ゆゆゆ許してくださあぁああい!」
千時は、大人の全力土下座を、初めて見た。
「承太郎さまああ! 私の負けです! 改心しますひれ伏します靴もナメます悪いことしましたあああ! いくら殴ってもいい! ぶってください蹴ってくださいでも命だけは助けてくださああぁい!」
うわ。マジで靴なめた。
千時はドン引きのあまり、さらに数歩下がった。
承太郎すごい。よく下がりも蹴飛ばしもせず、あんな男の好きにさせとくもんだ。
ダンは無反応な承太郎に媚びるような顔で、立ち上が、ろうとした。
「ンぎゃあああ!」
途端、糸の切れた操り人形のように、手足を変に投げ出して倒れる。承太郎の隣に、スタープラチナが現れていた。
千時はスタープラチナの手の形を見て、ようやく、そこに極小のスタンドが捕らえられたのだと解った。
「こんな事たくらんでるんだろうと思ったぜ」
承太郎はただひたすら静かに、淡々と説いた。
「俺のスタンド、スタープラチナの正確さと、目の良さを知らねえのか? お前、俺たちのことをよく予習してきたのか?」
「何もたくらんでなんかいないよおぉぉ! お前のスタンドの強さは…」
「お前のスタンド…?」
ここで承太郎さん、耳に手をやってジェスチャー。
「…お、ま、え…?」
怖い怖い。
「ひぃいぃッ…!! あなた様のスタンドの力と正義は何者より優れていますですぅぅ! かなわないから戻ってきただけですよおお! 見てください! 今での腕と足が折れましたああ! もう再起不能です、動けませええん! うぎゃああああ!」
喚くダンの体が、ベンチの前でメキメキと変な方向へねじくれていく。
「そうだな。てめぇから受けたツケは、その腕と足で償い、支払ったことにしてやるか。もう、けして俺たちの前に現れたりしないと誓うな?」
「誓います誓いますううう! 獄門島へでも行きますうう! 地の果てへ行ってもう戻ってきませんんん!」
場違いだったが、千時は思わず噴き出した。獄門島て! お前どこで仕入れたそんなネタ! どうせなら池に足はやす方が似合うと思うよとか言いたい!!
ちなみに、承太郎は冷静なもので、まったく動じていない。
「嘘は言わねえな? 今度出会ったら、千発、そのツラへ叩ッ込むぜ」
「言いません! けして嘘はいいませええん!!」
「消えな」
ふわりと手を開いたスタープラチナは、ダンに背を向けた承太郎の背に付いたまま、消えない。
承太郎はゆっくりとした足取りで、千時の方へと歩き始めた。
その向こうで、ダンがよろよろと立ち上がる。
「承太郎ぉぉバカめええぇえッ! そのガキを見な!!」
両手両足、けっこうなダメージだろうに、立つ根性は認める。
千時はじっとその場で待った。承太郎は足を止めた。
「今そのガキの耳の中に、私のスタンド、ラバーズが入ったッ! 脳へ向かっている! 動くんじゃねえ承太郎! ウククッ! ウッククククク!」
ダンが、どこに隠していたのか手に光る物を取り出し、一歩、一歩、こちらへ来る。
「今からこのナイフで、てめえの背中をぶすりと突き刺す! てめえにも再起不能になってもらうぜええ! スタープラチナで俺を襲ってみろ、そのガキは確実に死ぬ! お前がソイツを殺すわけはねえよなああ!? ウヌハハハハハ!!」
迫ってきたダンに、承太郎は、これ以上無いほど呆れた、長いため息をついた。
「やれやれだ。いいだろう、突いてみろ」
「ああ!? おい、わからねえのか!? 動くなと言った、はず…」
語尾が弱々しくトーンを下げ、不自然に動きを止めたダンの顔が真っ青になっていく。
「どうした? ぶすりと突くんじゃあねえのか? …こんなふうに」
承太郎は、ダンの腕を掴んだ。そのままねじ上げ、その手のナイフを、ダンの頬へ刺し込んでいく。
「ぎゃはあああああ! からッ体が動かない! なっなぜええエェェ!!」
「気付かなかったのか」
低い声音は舌なめずりでもしそうな色で、敵をなぶった。
「花京院は、ハイエロファントの触手を、お前のスタンドの足に結びつけたまま逃がしたようだ。タコの糸のように、ずうっと向こうから伸びてきているのに気付かねえとは、余程、無我夢中だったようだなァ…」
「ひいいいいい! 許してくださあいィィ!!」
またしてもダンは土下座した。
千時はそれを見下ろしながら、ああコイツがこんな男で良かったなあ、と思った。ラバーズは、頭の良い敵が使っていたら、最も厄介な部類のスタンドだったはずだ。いっそこの頭の悪さには、感謝すべきだった。
「俺たちは始めっから、テメエを許す気は無いぜ」
「ディッ、ディオから前金をもらっている!! そそそソレをやるよ!」
「やれやれ…。正真正銘の、史上最低な男だ」
スタープラチナが拳を握り、
「てめえのツケは、金では払えねえぜ!!」
例のラッシュが男の体を、千時が丸めた紙袋のように、くしゃくしゃと縮めていった。
今回は、初めて見た、が多いなあと、千時は思った。オラオララッシュと呼び名のついていた例の連打、これも千時は初めてだ。ひどい。これはひどい。ボコ殴りにもほどがある。ちょっと笑えてくるくらいスゴい。あれ、アニメだったからいいけど、現実にしてみるとちょっと、ちょっとこれは。正直、引く。
最後に、ダン…だったようなもの…は、吹っ飛んでベンチにめり込んだ。
承太郎は、ダンに漁られなかった胸ポケットから手帳を取り出し、何か書いて破り取った。
「ツケの領収証だ」
ひらりと落ちる、空条承太郎、の署名。
すいと横を過ぎていく承太郎の後を追おうとして、千時はふと気付いた。
「これ持ってて」
承太郎にペーパーカップを押しつけ、潰れたベンチへ駆け寄る。
「おい、行っちまうぞ」
「待って待って。…あった、ほら、財布と…時計……あんたコレ、自分で壊しちゃってるよ…」
ダンのポケットから出てきた承太郎の時計は、無惨なことになっていた。財布も革の表面が引きちぎれてどっかいってる。こりゃ本人が忘れてたな、という有様だ。クリップに残った無事な紙幣だけ取り出して、一応、時計と共に渡すと、承太郎は微妙な顔でカップと交換に受け取った。
それから千時はもう一度、ベンチに戻って、めり込んだ体に一発、軽く蹴りを入れて戻った。
「手を殴られたツケか」
承太郎が少し笑う。千時は、んー、と頷いた。
「それより、靴で顔ゴリゴリやられた方だな」
やられた頬を指さすと、承太郎はさっと顔色を変え、ハンカチを差し出した。
「希に見るゲス野郎だ」
本気で怒ったようで、また殴りに行きそうなほどだった…が、千時は、不良から受け取ったハンカチがやたらに白くて綺麗な事がツボにハマってしまって、こみあげる笑いを堪えるのにいっぱいいっぱいだった。ホリィさん、いい仕事してますねー!
スティーリー・ダンに遭遇したドネルケバブの店先、車のそばで、ジョセフが大きく手を振った。
「おおーい! そっちは大丈夫だったか!?」
「ジョセフさ」
ん、と言うより前に、千時はまた驚いて立ち止まってしまった。承太郎も目を見張って足を止める。
不意にあのネコミミマネキンが姿を現したからだ。
「うわわわわ!」
千時は、急に上半身を前へ引っ張られて、バランスを崩しながら足を動かした。何だか知らないが、ネコミミマネキンが両手を前に差し出しながら進んでいく、のと一緒に、体がもっていかれる。
「ちょちょちょ! なになになに!?」
「うおっ!? 何じゃあ!?」
ネコミミマネキンはものすごい勢いでジョセフの前に辿り着いた。
そして、
「ぎゃー!! 何してんの!!」
「こっちが聞きたいわい!!」
透明なピンクの指を、ジョセフの頭に突っ込んだ。
「千時! こりゃ一体、何をしとるんじゃ!」
「知らない知らない! この子、勝手に動いてんだもん!」
「何ィ!?」
言い合う間も、ネコミミマネキンはジョセフの頭に指を突っ込んだまま、じっとしている。
全員が呆気に取られて見つめていると、しばらくしてそのスタンドは、そっと指を引き、消えた。
「…池上さん、今のは…?」
花京院が驚きをあらわに寄ってきた。が、分かっていれば世話は無い。
「いや、それが…。ずっと言いそびれてたんだけど、あのスタンド、私の意志とは全く無関係に動いてるんだよね…。敵の前で言うわけにいかなくて…」
カラチへ入るまでは、本当にディオの元へ戻らないかどうかわからないホル・ホースが居たし、入ったら入ったで、すぐラバーズの襲撃に出くわした。そのせいで、口にできなかったのだ。
千時は眉根を寄せ、生まれつきのスタンド使いに訊ねた。
「スタンドのコントロールって、どうやってするものなの?」
花京院は、ここまでで一番、面食らった顔をした。
「そもそも、出ろと願って出てこない時点でおかしい」
「願うとか以前に、意識したらもう居るよな」
「うむ…。私は消せなくなって三日ほど閉口した事はあるが、出なくなった事は無いな」
「へえ、あんたでもそんな事があったのか」
「幼い頃に」
「僕もありましたよ。触脚におもちゃを片付けさせたら、延びっぱなしでしまえなくなってしまった。本体が居ないのに足だけ残ってね。あれは焦りました」
「へーえ! おもしれえなあ。俺、そういうトラブルは無かったぜ」
「…今、君の意見を聞いて思ったんだが、言っていいか?」
「ん?」
「たぶん、深く考えないという事が大事なんだと思うんだ」
「ソレ俺がバカだって言ってる!?」
「ハハハ。いや、しかし重要な事かもしれん。直感や無意識で制御している部分は、少なからずある」
「その通りです。幼い頃は特にそうだ。僕なんて、手足と同じで自分の一部だと思いこんでいましたからね」
「それもあながち間違いではないしな」
「そーなの? 俺はアイツとは、相棒だったぜ。一緒にシェリーをあやしてくれた、一番の相棒だ。あんたは?」
「難しい質問だな…」
ホテルのツインの部屋に六人、ベッドに腰掛け、議論紛々。話が明後日の方向へ行きつつある。
「で、池上さん。どうだ?」
「見りゃわかるでしょ、出てませんよォ」
千時は頭を抱えた。
とりあえずスタンドを出してくれないとどうしようもない、というわけで、さっきから出てこい出てこい願わされているのだが、ネコミミマネキンは一向に現れない。
試しにジョセフが、ハーミットパープルを千時の腕に巻いてみたり、そこから波紋を流して刺激したりとやってくれたが、無駄だった。
花京院は、ふむ、と腕を組み、千時の向こうを見た。
「ジョースターさんと承太郎は、中途からスタンドを発現したんですよね。当初はどうでした?」
「わしのスタンドは、あの通りだからなあ」
ジョセフは首を傾げた。
「腕の延長というか、その先に持っているというか…。うーむ。いざ説明しろと言われると、難しいのう…」
「承太郎は?」
「手が二重にブレて、物をうまく掴めなくなったが」
千時はため息をついた。
「それが一番近いっちゃ近いのかなあ。さっきはこっちが引っ張られちゃったし」
「やはり胸の中にある石が原因だろうか」
「そうかもしれないけど、物語にそんな話は無かったよ」
それは確かだ。直接原作で読んだわけではないが、弓と矢については、複数サイトを調べた。正直、一読では意味不明だったからである。だが体の中に取り込むような効果は、一度も読んだことが無い。というか、ウイルス説が正しいなら、隕石本体に意味は無いはずだ。
千時は、何気なく胸元に手をおいて、その中にあるであろう鏃のあたりを見おろした。
「こまったちゃんなァ…」
その瞬間、
「あっ」
「おお」
周囲から声がこぼれて顔を上げると、そこに、ネコミミマネキンが居た。
「え!? 何故に!? なんで出た今!!」
ネコミミマネキンは天井付近で、遊ぶように胸から上をくるりと縦に一回転させ、ひょいと降りてきて千時の顔を覗き込んだ。リリリリリ、と鈴の音がする。どうも笑っているようだ。
「鏃のとこ見たから? 手おいたからか?」
ネコミミマネキンは千時の肩に手を置いて、周りをくるくると回った。ピンクの手はそのままだが、浮遊するボールとハートは遅れてついて回ったりする。どうも分解式らしい。
「…意味分からん。誰か。わかる人。挙手」
シーン。まあそうだよね。おそらく本体であろうと思われる千時自身、まったく意図が読めないのだから。
ポンと手を打ったのはポルナレフだった。
「名前ほしい、とかじゃねえのか?」
「名前ェ?」
「今、こまったちゃんて呼んだろ」
「うそだぁ」
ナイナイ。千時は手を振ったが、ジョセフと花京院が頷いた。
「欲しがっているかはともかく、名前は付けちまった方がいいな」
「そうですね。呼びようも無いんじゃ不便だ」
「ああ、まあ、そうか…」
千時はネコミミマネキンを見上げた。向こうもこちらを見ている。
最初、ピンクの手の中から見ていた時、宝石のようだと思っていた目は、澄んだ黄色をしている。トパーズに似ていた。
「じゃ、アヴさん付けて」
千時はアヴドゥルに体ごと向き直った。ネコミミマネキンも千時の横に顔を寄せ、興味深そうに男を見た。
「私か?」
「うん。いやね、本当はスタープラチナの名付け親が、アヴさんのはずだったんだよ」
千時は、初めて空条承太郎と話した時の事を思い出していた。
「私が慌てて先に話しちゃったからそうならなかったけど、本当は承太郎がタロットから星を引くはずだったんだ。その分、この子の名前付けてもらえたら嬉しい」
という理由は2割で8割は正直、自分のネーミングセンスが信用できないから。実際、今のところ、マネキンネコちゃん、くらいしか思い浮かんでいない。自分は別にかまやしないけれども、人生イージーモードのイケメンどもに、マネキンネコちゃん、と言わせるのはちょっと、想像するだにおもしろ…いやいや、いたたまれない。
くだらないことを考えている内に、アヴドゥルは足もとに置いていた自分のザックの外ポケットから、タロットカードを取り出した。
そうしてそれを、箱ごと、千時の膝に置いた。
「引いたらいいの?」
「いいや」
アヴドゥルは、千時の隣に座った。
「千時。お前は時を旅してここへ来た。未来を知らせ導くお前を、私はタロットそのもののように思う。お前はスタンドを持たぬ身で敵に挑み、その黄玉の瞳を得た」
ゆっくりと英語を綴る占星術師の、言わんとするところが、千時にも理解できた。見つめ返した男の目の中に、千時は居た。
タイム。トラベル。タロット。トライ。トパーズ。
「お前はいつも、言葉にしないが叫んでいる。信じてくれ、と」
トラスト、ミー。
信じて、とは、そういえばこれまで、言わなかった。言えなかったのだ。自分でも信じ難い全てのことを、他人に信じろなどとは。
千時はふと、膝に置かれたタロットの箱を見た。当たるも八卦、当たらぬも八卦。占いは良いものだけ信じればいい。そうは言うが、タロット自身は訴えているかもしれない。信じてほしい、と。
「だから、あまりうまくないが、全てでT・Tというのは?」
「ティー、ティー」
スタンドを見上げると、ネコミミマネキン…T・Tは、トパーズの目をキラキラと光らせた。
「アヴさん、ありがとう。T・T、かわいい名前でよかったね。…そうだ! もう一つあった」
千時は、くすぐったそうに笑った。
「紅茶が大好きなんだよね、私」
「ティーだな」
「ティーだよ! 私が好きなんだから、T・Tも好きかな?」
「お茶をか?」
「うん。そういやスタンドって飲み食いしないの?」
「その発想は無かった」
「えぇー。わし、ツタじゃから、せいぜい水やり?」
「ジョースターさん、それだと私は虫か何かになってしまいますよ」
「鳥なら魚という手もあるじゃないですか。ハイエロファントなんか口が無…、無いのかな? 隠れているのか? 考えたこともなかったが」
「チャリオッツは無理だったぜ」
「試したのか?」
「小せえ頃にいっぺん思いついて、リンゴやってみたけど、ムリムリって首振ってた。考えてみりゃ頭のが外れねえんだよな。てか承太郎、おまえ黙ってっけど、スタープラチナが一番食えそうな姿してんじゃねえの?」
「食わなかった」
「えっ」
意外なお答えに全員、注目。承太郎は、帽子の鍔を引き下げた。
「食わなかった、と言ったんだ」
「……そ、そうかあ!」
ポルナレフがバッと顔を背けて震えるものだから、全員、あらぬアーンを想像してしまって、噴いた。
ちなみに千時が、いつの間にか姿を消したT・Tこそ口の無いスタンドだった事に至ったのは、ひとしきり笑い転げた後だった。
昨夜はカラチのホテルで一泊。
昼過ぎに港へ出て、手配されたクルーザーでアラビア海をほぼ一直線に横切る。イラン近海を抜けアラブ首長国連邦へ回り込み、首都アブダビへ。そこが次の経由地だそうだ。
イラン、イラクの陸路は、政情不安のために避けるという。千時は中東の事情をあまり知らない。彼女の時間軸…つまり二〇一四年から思い出すに、イランイラク戦争のニュースがちょっと減ったと思った途端に今度はイスラム国一色となって、ノーベル賞に担ぎ上げられた女の子パない大変だな、くらいの認識である。日本からすると、ちょっと遠すぎたのだ。まさかそんなところへ旅することになるなんて、つい二十日前には微塵も思わなかったのだから仕方ない。
千時は甲板のイスに座って、ぼんやりと真夜中の夜空を見上げていた。
移動の船にはそのための船員達が居る。今回はコックも乗っていて、する事もなく、夕方に寝てしまったのがいけなかった。眠いのに寝付けない。
何日乗っても耳慣れない、エンジンと水飛沫の音。船室から漏れる明かりや甲板のライトで、星は少しばかり色を落としている。
千時は、冷たい夜風が体温を下げていく感覚に身震いしながらも、目を閉じたが、
「風邪を引くぞ」
その声と同時に、例のお香の匂いがして、体に当たる冷気が遮られた。
これはもう慣れてしまった、アヴドゥルのローブだ。
「あらま。アヴさんも寝らんなかったのか」
「寝ていたよ。起きたらお前が居なかったから、探しに来てやったんだ。寒いだろう。中へ戻りなさい」
「もうちょっとしたら行く」
「スタンドが重たいか」
アヴドゥルは、被せたローブで千時を包むと、隣のデッキチェアに腰掛けた。
「この手足のように、いずれ慣れる。彼らは、常に居るのだからな」
スタンド。千時はまた夜空を見上げた。そんな事は考えていなかったけれど、言われてみればT・Tが現れてから、頭の隅で棘のように、ずっと、それが刺さっている。
「最初って、こんなに言うこときかないものなの?」
「人にもよるがね」
アヴドゥルが頷くのを、視界の端で見る。
「ただ、自分を理解できなければ、スタンドを理解することはできない。私は十五年近くかかった」
「そんなに!」
「独りだったからな」
千時が体ごと向きを変え、見つめると、アヴドゥルは笑った。
「お前は独りじゃない。先にスタンドの存在を知っていた上、周りに五人もいる。スタンド自身の能力も攻撃的ではないし、すぐに落ち着くさ」
「…実はね」
千時は、スティーリー・ダンとの事を話した。承太郎が殴りかかられた時、T・Tが勝手に現れ、彼を守ったことを。
「出てこないならそれでも良いけど、この先、そんな調子で勝手に防御されたらマズいなと思ったの。ダメージのフィードバックがあるから、痛みで私がガラ空きになる。敵に隙を突かれたりしたら、みんなに面倒かけちゃう。落ち着けるための時間は無い。だから、私、このへんでさよならすべきかなって…」
言葉にするにつれ、まとまっていく自分の考えを、千時は思い知った。
そう、だってあの時、もし、振り返ってこっちを見た承太郎を、敵が間髪入れずに背後から襲っていたら?
いつのまにか祈るように組んでいた両手を見下ろして、千時は答えを待った。そうだな帰れと言われたら、今度は、おとなしく帰るつもりになっていた。
だが、アヴドゥルはそう言わなかった。
「私が彼を完全に制御できたのは、すべてを捨てた後だったよ」
「捨てた?」
顔を上げると、アヴドゥルのほうが視線を足もとへ落としている。彼は、見せたことのなかった曖昧な表情で、穏やかに語った。
「過去のすべてだ。親兄弟、名前、故郷。導いてくれた師も捨てた。そしてようやく、彼は私になったんだ。私にとっては、その自由が必要だった」
「自由…」
「何しろ、能力が物騒でな」
アヴドゥルは笑って、顔をあげた。それはもう、いつもの表情だった。
「人体発火現象と騒がれたり、寝ている間に火事が起きたり。内緒の話だぞ。呪われた子供と言われた時は、それなら呪いでマジシャンズレッドを殺してやろうと思ったよ。勿論、無理だったがね。その時に三日間、コントロールを失ったんだ。彼は出っぱなしで、困り果てていたなあ。
私の場合は、そういう拒絶が制御を困難にした。千時は、T・Tを受け入れられているかね?」
しばし沈黙。
「わかんない」
正直に答えると、アヴドゥルは手を伸ばし、千時の手を握った。
「私は占い師だ。個人情報の秘匿はモットーだぞ」
「拒絶は…してない、と思う」
千時は困惑しながら、ゆっくりと綴った。
「でも、困ってる。私はバカだし弱い。自分の面倒も見られないのに、スタンドなんて困る」
「随分と自信が無いんだな。お前はすでに、私たちをサポートしているじゃないか。頭も良いし、充分強い…腕っ節じゃないぞ。しかし、私達全員で言っても納得しないんだろうな、その顔は」
「ハハハ。そうだね。そう簡単じゃないね」
「お前の問題は、自分を信じられない事か」
「いろいろあるんだよ、人生これっぽっちなのにさあ」
わざとらしいため息で笑いを誘い、千時は肩をすくめた。
その時だった。
「おや」
アヴドゥルが眉を上げ、千時の上を見上げた。
「お出ましのようだが」
「うえっ!!」
「願ったか?」
「ぜーんぜん。出たのもわかんないもん。これだからこまったちゃんだってんだ」
T・Tは千時なんぞお構いなしで、アヴドゥルの方へ身を乗り出した。
…というか、彼の隣にまわって腕を掴み、揺すっている。こう、何というか、子供が、ねえねえ、と駄々をコネているような動作だ。
「…なんだソレぇ…」
千時は脱力し、ごめんねと謝ったが、アヴドゥルはT・Tに向けて首を傾げた。
「どうした?」
T・Tは話しかけられて嬉しいのか、くるくる、胸から上だけで横回転。どういう仕掛けか知らないが、全面的にパーツバラバラで動かせるようだ。
腕を掴んでいた両手が、パッと空中に広げられて、アヴドゥルが頷いた。
「そうか。お前にはまだ、見せていないな」
千時は顔にあたった温風に驚いて、目を眇めた。次の瞬間には、そこに、炎を纏う鳥人が、姿を現していた。
「わあ…」
目を見張った千時の背後に、T・Tが戻ってきた。両手を千時の肩に置き、横から顔を出している。
「キレイだね…」
うっとりとして思わず言うと、アヴドゥルは目を丸くした。
「きれい? そんな感想は初めてだな」
「私、もしスタンドが見えるなら、マジシャンズレッドが一番見たかったんだ」
「それは光栄だが」
「本当だよ。一番、造形が神様っぽいなって思ってた」
大きな嘴と、頭飾り。能力と同じほど熱の籠もる目。腕を組み、明るい光をこぼしながら、すべてを静かに見おろしている。
「T・Tも見たかったのかな…」
ちらりと自分のスタンドを見れば、T・Tも千時を見て、トパーズ二つをキラキラと輝かせた。
そしてT・Tは、不意にマジシャンズレッドへと、手を差し出した。
アヴドゥルが笑い、炎を纏う鳥人が、主人のソレと良く似た大きな手を、重ねる。
「何っ!?」
驚愕したのはアヴドゥルだった。そのことに驚いた千時がきょとんとしている前で、マジシャンズレッドはケーンと一声、甲高く鳴いた。
炎のスタンドは嬉しそうに目を細め、確かに笑顔で、立ち上がりかけ中腰になったアヴドゥルをハグし、旧友にするように優しく肩に手を置いた。それから、T・Tの方へ振り返り、優雅に深々と一礼して、かき消えた。
「アヴさん? どうしたの?」
「私が命じたんじゃあない…」
アヴドゥルは掠れた声を絞り出し、千時を見た。
はっと気付いたように、慌てた様子で甲板の端へ駆けていく。追いかけようとした千時を手で制し、深呼吸してから指先に、恐る恐るというていで、そっと火を灯した。
「マジシャンズレッド!」
困惑と、微かに怒りを込めた呼びかけが、先ほどと同じように鳥人の姿を虚空に呼び出す。
何かを確かめるように、海に向かって炎を走らせてから、アヴドゥルはスタンドを従えたまま千時の隣へ戻ってきた。
「コントロールを失っていた」
「へ? だって今…」
「さっき、鳴いてから消えるまでの間だ。私は何も命じなかった…いや、それどころか、止まれと…、なのに」
T・Tを見るアヴドゥルの、呆然とした目は、恐ろしいものでも見るかのようだった。
「そのスタンド…、の…、能力か…?」
「能力!?」
二人が見上げると、T・Tはリリリリリと音を発し、目を少し細めてアヴドゥルへと手を伸ばした。アヴドゥルは一歩、後退ったが、T・Tはその…よく分からない分解式の長いリーチで、彼の肩を叩いた。まるで、さっきマジシャンズレッドがした事を、真似るように。
「…彼は時折、自分の意志があるかのように振る舞うことがあった」
アヴドゥルは背にした己の忠実なるスタンドを、振り返って見上げた。
「幼い頃には、よくあったんだ。…よく、あったんだよ」
男はスタンドの腕にそっと触れたが、スタンドはただ静かに見おろすばかりで、さっきのような行動は取らない。
「彼は私の友だった。いつからか従僕になり、今は手足となった。どうしてそれを、忘れていたのだろう。慢心か。それとも…」
声音は小さく、微かな震えを含んでいて、けれど千時にはそれが喜んでいるように聞こえた。
「きみは知っていたのか。全てを焼き尽くしたいと願う日が来ることを…」
独白する男の、ローブの残り香を吸い込む。
T・T、私の…たぶん私の、スタンド。あなたは何かを知っている?
スタンドは答えない。ただ千時の頭のてっぺんに、キスするように頭を寄せて消えた。
冷たい潮風が流してしまったのか、ローブの香りは、妙に、微かだった。