「チケットを発券してくるから、ここで待っててね」
「ああ、うん」
映画館の中は思っていたよりも人で賑わっており、チケットの発券機にも長い列が出来ていた。
さて、このまま言い付けの通りに待っているのも一つの手段ではあったが、一夏はその間に飲み物とポップコーンを買っておくことにした。
このままボーッとしている内にそれらも簪の財布から支払われてしまう光景が目に浮かんだからだ。
「えーっと……このハーフ&ハーフのペアセットでお願いします」
「かしこまりました。お飲み物は如何なさいますか?」
「ウーロン茶とコーラで」
「はーい、お会計1200円でございます」
並ぶこと10数分、一夏は塩とキャラメルのポップコーンが半々とMサイズのドリンクが2つ付いたセットを購入する。
これで1200円と言うのは常識的に考えると割高だったが、娯楽施設で販売する食品なんてそんな物だろうと納得する事にした。
それと、簪が十数万円もの買い物をひょいと容易にやってのけたので一時的に金銭感覚が麻痺してしまっているのも要因の一つだったり。
「一夏くん、あと十五分で入場出来るって」
ポップコーンを受け取り、先ほど別れた場所に戻るとちょうどチケットの発券を終えた簪とジャストなタイミングで合流する。
「そっか、じゃあ予め買っておいて良かったね」
「あ、ポップコーン買ってきてくれたんだ……じゃあ、代金を──」
「いいよ、いいよ!これくらいは払わせてよ!」
そうでないと、何時しか一夏の精神が金の重圧で崩壊するかもしれない。
何かを買うという行為は、ある意味その罪悪感を少しでも軽減するための清涼剤でもあるのだ。
今は、ソレを少しでも奪われたくなかった。
「そう……?」
「うん、それよりもそろそろ並んでおいた方が良いんじゃないかな?」
何とか話を逸らし、ポップコーンの代金を差し出される事を阻止することに成功する。
ひとまずの成功にホッと一息つき、少しだけ奥歯の隅に挟まった苦い物が取れた様な気がした。
○
シアターが開演し、簪さんが予約を入れた席に座る。
それから直ぐに映画が始まる訳ではなく、今後に上映される映画の予告や上映中のマナーについて等の映像が暫く流れた。
前方寄りの席からグルっと見渡すと、ラブロマンスと云うジャンル故だろうか、カップルや夫婦と思わしき男女のペアが多く見られる。
「一夏くんって、映画は良く観るの?」
「うーん……偶に、かな」
劇場が暗くなっても尚流れ続ける予告映像を観流していると、簪さんがそっと話しかけてきた。
前に映画を観たのは何時だったか……この一年は映画館に足を運んでいない気がする。
「……誰かと、観に行くの?」
「ん?」
一瞬、質問の意味が解らなかったが一夏は素直に応える事にした。
「いや……独りで、だね」
束さんは人混みの中へ出て行くのを嫌ったし、観たい映画があるのならいっそ割るなり落とすなりして観るというスタンスだった。
クロエはそもそも映像が見えないので誘うのも酷かと思い、とある手段を用いればクロエも視覚情報を得る事が出来たが……非常に神経をすり減らし負担の掛かる行為なので1時間も2時間も見続けるのは実質不可能と言っても良い。
そして一夏は生まれてこの方友達と呼ばれる類の交友関係を築いてこなかったので、其方も言わずもがなだ。
「考えてみれば、誰かと映画を観に来るのは初めてかも」
「そうなんだ……」
そうこうしている内に、映画の上映が始まった。
○
映画の主人公は大学の新入生で、同じ学科の所属で何でもこなしてしまう男子に尊敬と憧れを抱く、という場面から始まった。
大まかなストーリーとしては、そんな彼が実は貧しい家の出身で、とあるトラブルに見舞われたせいで学校の人気者から一転、鼻つまみ者にされ様々なイジメに遭うようになる。
そんな中で、主人公は彼に対して抱いた感情を整理し、行動に移していく、という物語なのだが……
(でもそれって弱味に付け込んだ様にも見えるんたけど)
その様な穿った感想を抱いてしまうのは一夏の心が荒んでいるからだろうか?
つまり、この映画は主人公の成長物語であり、追い込まれた男子を救い出してハッピーエンド……という結末。
一度は底の方まで落ちるが、主人公の手腕で徐々に環境も改善していき、最終的に男子の立場と逆転して上位に立つというのは女尊男卑の現代において良くあるパターンである。
一夏としては女尊男卑というモノに特に想う所は無いが……自分でも気付かぬところで不満でもあったのか、何となくその辺りが気になってしまっていた。
「うん、でも面白かったよ」
頭を空っぽにして純粋に観れば、映画は面白いと言える出来だった。
主人公の成長に伴う変化も女優の演技によって無理なく演出が出来ていたし、停滞せずとも性急に進み過ぎないストーリーのスピードは絶妙なテンポを構築していた。
「そ、そうだね」
簪さんは終盤のベッドシーンの辺りから少々俯き気味だった。
とは言うがアッサリと流す程度の物だったし、成人指定される様な内容では無かったのだが……
周りではこれ見よがしに手を繋いだり肩を抱き合うカップルの姿も見られたが、それを簪に対して行える様な度胸は無かったし、流石にそれは軽薄過ぎると思い、手が伸びる様な事は無かった。
「さて、と……これからどうする?」
「え…………えーっと、ご飯、とか?」
「そうだね、丁度良いかもしれない」
時刻は18時を過ぎた頃で、夕食にしては中途半端な時刻とも言える。
しかし、丁度良いと言うのはこの場合時間では無く、一夏が金銭を支払う機会の事だった。
未だに洋服代の事が尾を引き、背中には僅かに冷や汗が滴る位には動揺が続いている。
「簪さん、何か食べたい物とかある?」
「一夏くんは、ある?」
「うーん特にはないけど……歩きながら探してみる?」
「うん、そうだね」
○
暫く散策した後に夕食はショッピングモールの中にあったイタリアンレストランで摂る事が決まった。
お互いに別々の種類のパスタセットを注文したので分け合ってみたり……
フォークでの間接キスを意識する程の純情では無かったが、それでも共有することに喜びを感じられた。
尚、会計は私が払うつもりだったが隙をつかれて支払われてしまった。
何だか、くだらない張り合いが始まってしまったがそれも微笑ましいと言うか、楽しい。
「ねえ一夏くん、この近くの神社で縁日がやってるみたいなんだけど、一緒に行かない?」
「うん、いいよ」
モノレールに乗って駅を3つぐらい跨ぐ。
駅から目的地の神社は徒歩で5分ちょっと、割と直ぐに到着した。
「……神社って、ここかぁ」
辿り着いたのは篠ノ之神社。
そう、ここは調査資料で辿れた一夏くんの生まれ育った地。
そして…………篠ノ之箒さんの実家で、彼女曰く一夏くんがお兄さんから虐めを受けた道場のある場所でもある。
「一夏くんは、こういうお祭りとかって行ってた?」
思いきって訊いてみる。
一夏くんがこの故郷でどんな風に育ったのかを知りたかったから…………
「連れてこられた事はあったかな」
「え、それって──」
「ゲッ、織斑十春!?」
私が何かを言おうとする前に、何者かが驚愕で染まった声をあげてきた。
見れば、赤い長髪にバンダナを額の辺りで括った……沙悟浄みたいな人。
断りを入れれば、西遊では無く最遊の方である。
「お前、また別の女と──」
「えーっと……その、人違いです」
「…………は?」
「織斑十春は僕の双子の兄で、僕は弟の織斑一夏です」
暫く、沈黙が流れた。
しかし、漸く状況が飲み込めたのか赤髪の人は転じて笑顔になり謝ってくる。
「あー、そりゃあ悪かった。噂で何か聞いたことあったけど……いや、本当に瓜二つだな」
どうやら彼は一夏くんでは無くお兄さんとの知り合いだったようで、初対面だったようだ。
「俺は五反田弾。織斑十春とは…………その、同中だ」
「そうだったんですね」
「いや本当悪かったな、アイツは家の妹にもちょっかい出してきてたから、つい警戒しちまって……」
「どういう事ですか?」
つい、興味本位で尋ねてしまう。
「お、アンタは一夏の彼女かな?」
「か……彼女?!」
「いやさ、アイツなんて言うかたらしと言うか女癖が悪いって言うか、可愛い顔を見たら声を掛けずにいられない奴だったんだよ」
“彼女”、というワードに過剰に反応してしまった事に羞恥心を感じながらも五反田弾さんの話を聴く。
可愛い女の子に声を掛けるのは、代表候補生達を侍らせる様にしている今を見るとあまり変わっていない気がした。
「まあそれは兎も角として、驚いたなアンタが織斑一夏か……」
「はい。あの、初対面ですよね……?」
「ああ、織斑十春に弟がいるって話は何処かで聞いてたが、行方不明になったとか、もう死んだかもって聞いてたからさ…………」
「行方、不明?」
気になる言葉が耳の中で反芻する様に響いた。
“行方不明”…………小学生を卒業する前に政府の記録から辿れなくなってしまったと言うのは、本当に──
「実は家庭の事情で僕だけ5年生くらいの頃に転校したんです」
「──っ!」
白々しい嘘、とその場で気付けるのは政府の情報機関の調査結果を知る簪だけだった。
しかし簪はそれを指摘する事はせず、出来るだけ動揺を表情に出さないように堪える。
「へー、そうだったのか」
「ええ……その辺の事情も説明せずに転校したせいか、妙な噂になってしまったようで」
何故そんな偽りを語るのだろうか。
空白の四年半は、そこまでして語りたくない物……?
一夏は悪びれる様子も、嘘をついている様にも顔には見せずに騙った。
「何か双子でも織斑十春と違って良い奴みたいだな……そうだ、ウチの実家はこの辺で五反田食堂ってのをやってるから良かったら来てくれよ」
「はい、機会がありましたら是非」
「おう、それじゃあまたな!」
そして、五反田弾が去っても一夏の顔は貼り付けた様な笑顔が浮かんでいる。
笑っている筈なのに、何故か薄ら寒い恐怖の様な物を感じてしまう。
「一夏、くん……?」
「そうだ簪さん、今日の縁日の締めには花火大会があるんだよ」
「え…………」
あからさまな話題逸らし。
話しぶりは自然なのに、その裏に焦りが見える気さえする。
先程の話題に触れて欲しくない、という事なのか。
一夏に導かれるままに、神社の脇道を通って高台に出た。
成る程、あまり使われていない道なのか回りには人の気配も無く、視界を阻害する物もないので景色も良さそうだ。
「昔ね、ここの神社の人に教えて貰って──」
「ねえ一夏くん…………私、聴いたんだ」
「…………何を?」
「子供の頃、お兄さんに虐められていたって……」
振り向いた一夏の顔から、笑顔は剥がれていた。
笑ってはいないが、怒った様でも悲しんでいるのとも違う表情。
一番近いのは、無表情。
興味のない話を適当に相槌を打ちながら聞いている時のような…………
「ああ……うん、僕は鈍くさくてさ、それが気に障ったのかな──」
「それと、小学校5年生の時に失踪した事も」
「……………」
訊かれたく無いという事は、空気が読めないと言われる私でも流石に理解できている。
でも、どうしても訊かずにはいられなかった。
何があったのか知りたかった、一夏くんがどういう人なのか知りたいから…………
「それから4年半、一夏くんはどこに行っていたの?」
「何でそんな事を訊くの?」
「一夏くんの事、もっと知りたいから……!」
言ってから、さっき観た映画のワンシーンを思い出した。
そう、告白の台詞で主人公が似たような事を言っていたのだ。
好きになったのは外面じゃなくて心や中身だから、辛い過去も共有したいとか……
少し恥ずかしくなったが、それでも私は視線を逸らさなかった。
「…………話したく、ないんだ」
その声は、初めて聞いた気がする。
動揺とも違う、感情だけを抜き取った様な音だった。
「僕も整理出来てないから……」
「……そんなに、辛いことなの?」
「全部じゃない。半分は、幸せだった」
漸く、僅かに笑みが浮かぶ。
それはとても暖かくて、幸せそうだった。
「何時か、話してくれるかな……?」
「どうかな……話せる様になったら、楽だと思うけど──」
暫くして、花火が打ちあがる。
色とりどりの閃光が空を染める頃には、一夏くんはいつも通りの気さくで社交的な姿に戻っていた。
でも…………私は気づいてしまった。
それが、何時もの表情が本音を隠すための仮面だったと言うことを…………
何となく簪のヒロイン度が高いのは意識せずにそうなってます。
他のキャラを軽視している訳でも、簪を贔屓してるつもりも無いんですが……何でだろ?