篠ノ之束と出会うことで織斑一夏の人生に何か大きな変化があったかと言えば、大した事は無かったと言うのが正直なところである。
そもそも、一人の人間との出会いで人生に大きな影響を与える方が珍しいと言わざるを得ない。
強いて言えば、一夏の乏しい交友関係に一人の知り合いが加わった、という程度。
知り合いとは言うが、実は道場で篠ノ之束と出会った後、彼女と会話をしたことは無い。
篠ノ之神社の宮司の娘であるため、境内で顔を見ることはあったが、その程度だった。
何せ、一夏が挨拶をしても束がそれに応える事は皆無だったのだから。
どちらかと言えば、知り合い以下の顔見知り程度の間柄でしかなかったのだ。
それから、夏休みが明け新学期が始まって暫くの頃。
織斑一夏は、いつもの如く織斑十春と共に篠ノ之神社の境内にある道場にいた。
「おらあっ!」
「う、っぎぃ……!」
放たれた竹刀は一夏の喉元を鋭く突き抜いた。
急所である喉元を突かれ、たまらずその場で崩れ落ちた一夏は突如襲う嘔気に耐えきれずに、その場で吐瀉物を豪快にぶちまける。
一夏は俯いていたため、吐瀉物は重力に従って面の仕切りをかき分けるように床に落ち、そして広がっていった。
「げえっ……うっ、つあっ、ぐぼおっ…………」
「うっわ、汚ねぇな!オイ!」
そのまま情け容赦なく、頭頂部にに竹刀が振り落とされた。
構えなどしていなかった一夏は吐瀉物の海へとダイブする形になる。
果たして、防具や着衣は自身の吐瀉物でまみれる事になった。
「うぁ……あ……」
「あーあ、道場の床が汚れちまったじゃねぇか!一夏、自分でやったんだから自分で掃除しろよ!」
そうして、竹刀を投擲され、一夏の背中に弾けるようにぶつかった。
竹刀はカランと床に零れ落ち、やがて一夏の吐瀉物に染まった。
「………………けほっ」
暫く、一夏はその場から動けないでいた。
喉元の痛みもそうだが、胸の辺りを渦巻く何か不快な物の処理に困っていたからだ。
口腔内に溜まった吐瀉物の残り滓を搾り出すように咳をしてから、道場のどこに雑巾があったかなと頭を巡らせていると
「ねえ、大丈夫?」
声を掛けられた。
ビックリして、ガバッと顔だけを持ち上げると、そこには篠ノ之束の姿があった。
篠ノ之束は、しゃがみこみながら、無表情とも苦笑とも言えない独特の表情で此方をあの時のように見下ろしていた。
「だいじょ……」
「ねえ、何でやり返さないの?」
返答をする前に、次の質問が飛び出してきた。
「え……?」
「あんなに一方的にやられてさ、悔しく無いの?」
一瞬、何に対して……と呆けていた一夏だったが、同年代からして多少賢しい彼は暫くしてその言葉の意味に気づいた。
「いいんだ、僕が悪いから……」
「はあ?どこがだよ?」
「僕が弱いから、僕は頭が悪いから…………だから、これは罰なんだ」
「罰ぅ?」
篠ノ之束は訝しげにその言葉を反復した。
表情からは伺えないが恐らくは「何言ってんだ、こいつは」という事なのだろう。
「何、アイツが怖いの?」
「別に?」
「え」
次の質問に対して、一夏は殆ど間を明けずに応えてしまう。
予想していなかった返答の仕方に、鉄面皮だった篠ノ之束の表情がキョトンと呆けた物に一転していた。
「だって、やり返したって意味無いから」
今でさえ、織斑兄弟の周りは天才・織斑十春の味方だ。
そんな十春に対して、一夏が反抗すればどうなるか?
おおかた、「兄に嫉妬した弟が愚かにも腹いせの為に殴った」と評され、例えそれが正当防衛だったとしても、誰もが十春の味方をするのは解りきったことだった。
「じゃあ、何で悔しそうな顔をしてるのさ?」
「えー……?」
そんな表情をしていたのかと、一夏は新鮮な驚きを感じていた。
まさか、こんな時に鏡を見ることも無いわけで、一夏は自分の表情に対して意識などしていなかったのだ。
「それは……多分、十春兄ぃや千冬姉ぇに迷惑をかけてる自分に対して……」
後悔、しているのだろう。
自分なりには努力をしているつもりなのだが、どうしても十春には何事においても出遅れてしまう。
一夏は逆立ちをしても英会話なんて出来ないし、アルファベットは精々ローマ字を暗記している程度だ。
兄の十春のようにパソコンを用いて織斑家の家計を支援する等という芸当はできない。
きっと、その事が堪らなく悔しいのだ。
そう、打ち明けると
「お前、狂ってるね」
「へ…………?」
なんて、言われてしまって
「どうしてそんな結論に達するのか、私には理解出来ないよ。
何で総ての物事は自分の責任だって自虐的な発想にたどり着くのさ?
普通の人間って、外に理由を見つけるもんでしょ?」
「だって、それがただしい事だから…………」
「へぇー……やっぱりお前、馬鹿だよ」
そこまで言われて、一夏にも思うところが無い訳でも無かったが、それに反論する事は無かった。
それが間違っているとは思わなかったから。
「でも、面白いや!」
「は……?」
「君、私とは別のベクトルで狂ってるよね!
私も狂ってるからさぁ、何か親近感?湧いちゃうなあ~」
突然、先程までとは打って変わってあかるい声と表情でそんな言葉をぶちまけた。
一夏はただただ、戸惑うことしか出来なかった。
「そう言えば君の名前、聞いてなかったよね。
名前は?」
「あ……えっと、織斑一夏です…………」
「一夏、オリムライチカ、イチカね…………うん、じゃあ今から君の事をいっくんって呼びます!」
「あー……?はい、わかりました?」
徒名を付けられると言う経験は、一夏にとっては生まれてこの方初めての出来事だった。
大抵が一夏と呼び捨てにされたり、織斑十春の弟とよばれてきたからだ。
「じゃあいっくん、まずはさ……」
「?」
「ここは私が掃除しといて上げるから、お風呂入ってきなよ。ちょっと臭いよ?」
未だに一夏は自身の吐瀉物に全身がまみれていた事を思い出して、今更ながら赤面した。