● 5
三時間後、日が落ちた頃合いに解放された。
お菓子と果物は手元になく、織斑先生経由でクラスメイトに配布されることになった。
ヨーロッパ土産と「Dunois」入りの紙袋を提げ、山田先生に付き添われてトボトボと付属病院のロビーを通り抜ける。織斑モドキの証言と監視カメラが決定打となって、女のほうに過失があったと認められたからだ。織斑先生から怪しいやつに声をかけるな、と釘を刺された。
私は複雑な気分になった。女が昏倒したとき、駆けつけた織斑先生から「よくやった!」と賞賛を浴びたのだ。本来なら怒るべきところだろう。ベルトでぐるぐる巻きにして担架に乗せるあたり、憎しみがこもっているように感じられた。
ひととおり聴取をすませたあと、ちょっと気になったことがあり、
「ショタなんですか?」
と、織斑先生に耳打ちしてみた。思いきり顔をこわばらせ、何度も咳払いしながら目を右往左往させる姿が記憶に焼き付いている。
「篠ノ之さんに悪いことしちゃいました……これからどうやって彼女と顔を合わせればよいんでしょうか……」
「今までどおりでよいと思いますよ」
山田先生は優しい目を向けた。
先生も困惑を隠せないようだ。
自称侵略者の女は明らかに錯乱していた。一瞬だけ正気を取り戻していたのだが、織斑先生の横に並んだ山田先生を見て「このおっぱいがちーちゃんをたぶらかしたんだねっ!?」と叫んだ。たわわに実ったおっぱいを
「あの状況では仕方ありませんよ。突然脱げなんて言われたら私でも必死に抵抗しちゃいます」
「ですよね」
無理やりはダメだ。山田先生と見つめ合ってうなずきあった。
しばらく歩くと黒塗りの車両とすれ違った。後部座席に篠ノ之さんの姿があった。
彼女にも連絡が行ったようだ。一瞬ではあったが、苦虫をかみつぶしたような顔だとわかった。お姉さんとうまくいっていないと漏らしていたし、色眼鏡で見られることも嫌っていた。
「あの、先生」
山田先生が振り返った。
「彼女は本当に篠ノ之束博士だったんですか?」
「へ? 織斑先生が太鼓判を押してましたよ」
「イメージと違うというか、すごい人だって聞いてたのにあんなことしてきて、本当にそうだったのかなって。それに彼女、自分の携帯の暗証番号を知らなかったんですよ。ネット上の個人情報にもアクセスできずにいたし……。免許証もなくしたって」
「たしかにちょっと変、いいえ、とても変でしたね」
私は後頭部をさすった。
「どうしてあの部屋にいたのかわからないんです。今、思い出したんですが公園であの人としゃべってて、気がついたら地面に倒れていた。殴られたのは間違いないんです」
「殴られた?」
「はい」
「公園で誰か見ましたか?」
「誰も。あ、あの人のバイク。どこにやったんですか。ショッキングピンクで目立ちまくりの」
「バイク? そんなものはありませんでしたよ。監視カメラの映像にも映ってなかった」
山田先生が断言する。
私は首をかしげた。自走するバイクをこの目で確かに見た。間違いないはずだ。しばらく考えこんでいると、山田先生は再び前を向いて先を進んだ。
「なんか疲れた」
ベッドに身を投げ出す。いつもならKやセシリア嬢、織斑あたりと絡むのだが、事件に巻き込まれて精神をすり減らしてしまった。
なのに食欲だけは旺盛で健康な体がうらめしいとさえ思う。
窓のほうを眺めると、ゲストハウスに明かりが灯っている。織斑モドキは病院近くの研究施設兼宿舎に泊まると告げていた。
ペットボトルの水を飲んでいたKに疑問をぶつけた。
「某国のVIPでも来てるの?」そのうち一名を病院送りにしてしまったが。
「そんなとこだね」
「へー。どんな人?」
「ちらっと見たけど金髪で可愛かったよ。名前、知ってるけど教えたげよっか」
Kがにやにやした。有名人なんだろうなあ、とぼんやり思いながら、本当にわからないので教えを請う。
下手に出たらKがもったいぶった仕草で髪をかきあげた。
「しっかたないなあ。他ならぬえーちゃんの頼みだ。教えてしんぜよう」
「もったいぶるねえ」
「……デュノア」
私は紙袋を引き寄せ、中から『Dunois』を取り出した。
「これと一緒?」
「げえっ!? どーしてえーちゃんが『Dunois』持ってんの? 航空部の部長さんや生徒会長をだましてちょろまかした? いやいやえーちゃん抜けてるから、途中でばれるか。アッハッハッハ」
心の広い私はKの暴言を聞き流す。
それにしても反応が大げさに過ぎるのではないか。
明日になれば携帯端末の代替機が届く。そのときに検索すればいいや、と楽観していたのだが……。
「やっぱ高いの? 教えてくださいよ。情報通のKさん」
「高いよ。ものすんごく。それ、ちょっと貸して」
「ほい」
地方出身の一小市民である私は高価なブランド品とは縁がないものと思っていた。バスで約20分の場所にショッピングモールとアウトレットストアが併設されていて、ひとしきり服を歯眺めたあと、古着屋に直行するくらい。おしゃれはしたいが、お小遣いは限られていた。
「『Dunois』には必ずシリアル番号が縫いつけられていて、これは……『
「あーわかった。ダブルオーセブンだから買ったんだ。叔父さん」
そういえばわざわざロクヨンとキューブ本体を持ち込んで遊んでいた。ほら、やっぱり大した理由じゃない。叔父さんは他意があって買ったわけではないのだ。
「洒落にしてはお金がかかりすぎてるよ?」
「いーの。いーの。そのへんてきとーな大人だし、私がいうのもなんだけど外資系企業でがっぽり稼いでるから大丈夫なんじゃないかな。ゲストハウスのデュノアは『Dunois』のデザイナーとか?」
Kは首を振った。
「放蕩経営のデュノアだよ。その令嬢シャルロット・デュノア。本国筋の伝手からIS学園に転校してくるって情報をつかんでてね。転入前の下見ってところなんじゃない」
「へえ。暇なんだね」
「いろいろあるんじゃないかな」
私は自称侵略者の話を思い出した。Kは物知りだからついでに聞いてみよう、という腹づもりだった。
「デュノアが買収されそうだって聞いたんだけど」
Kが急に声のトーンを落とした。
「えーちゃん。今、その話題はやめたほうがいいよ。誰に聞かれているかわかったもんじゃない」
自称侵略者の妄言じゃなかったのか。私はぎょっとしたあと、しばらくの間肩をすくめて黙りこんだ。
Kが来客を連れてきた。篠ノ之さんだ。
私は神妙な面持ちで立ち居振る舞いを見つめる。怒られるんだろうな、とぼんやり考えた。
篠ノ之さんは壁際の椅子にどかっと腰を下ろした。すかさずKが麦茶をさし出す。
拳を握りしめて目を閉じる。雷が落ちるのか、平手打ちなのか。静かに怒りを向けられるのか。事故とはいえ、他人を傷つけたことが恐ろしくてたまらなかった。私にできるのは待つことだけだった。
「ありがとう、スタンフォード」
篠ノ之さんがKへの礼を告げ、次いで私の名を呼んだ。
ゆっくりとまぶたを開ける。篠ノ之さんは唇をかんで見下ろしてきた。
「気に病むな。あれは姉さんなんかじゃない」
驚きのあまり目を見開くと、彼女は唇をとがらせて胸の前で腕を組む。下着を身につけていないらしく、ジャージの上からでも乳房の形がくっきりとわかった。
「お姉さん、じゃない?」
織斑先生は確かに篠ノ之束だと言った。事実を否定するのだろうか。
篠ノ之さんは顔を赤らめて下を向く。谷間を見つめて、私の同意が得られることを期待するような気配が感じられた。
「どういう意味ですか」
「私の知る姉さんにはあんな性癖はなかったんだ」
その口調には羞恥が混じっている。
「先生とマドカから聞いた。あの人はその……に妙なことをしたんだろう?」
有り体に言えば勘違いされた挙げ句身ぐるみを剥がされそうになった。
ここで私は違和感を覚えた。篠ノ之さんのお顔が朱を帯びてきている。しきりにちらちらと視線を送ってくる。あやふやな笑いを見せて釈明する。
「不幸な行き違いがあっただけですよ。それにさっきのことだって、よくよく考えたらダリルさんにセクハラされてるのと大して変わらないですもん。あ、誤解しないでくださいよ。私はビアンじゃない」
「知ってる」
「なら安心です」
「……で、一応聞くが」
私は身構えた。
「あの人は私の話をしたか?」
「してました。間違いなく」
「そうか。邪魔したな。また明日」
篠ノ之さんは席を立ち、眉間に深く皺を寄せて去って行った。
● 6
翌日、登校するとみんなが何事もなかったように接してきた。
篠ノ之さんはそっけなく挨拶をして、セシリア嬢はいかにも高嶺の花だと言わんばかりの態度だ。織斑はといえば連日の稽古でげっそりしている。足元をふらつかせると、すかさず篠ノ之さんが肩を貸した。
「よう」
「ああ……おはよ」
織斑モドキが制服姿で教室を横切った。気を取られていたら返事が遅れてしまった。
「疲れてんねー」織斑の様子を慮って言った。
「すげー眠い。昨日もずっとISに乗りっぱなしでさ。セシリアのやつ手加減してくんねーんだよ」
「がんばれ代表」
織斑の背中をたたく。
「おう。まかせとけ」
織斑は席に着くと鷹月とも軽く世間話をした。盛り上がってきたところに織斑先生が教室に入ってきたのでみんなは黙って席に着く。
HR、授業が進み、あっという間に昼休みになった。
私は名字を呼ばれ、すぐさま振り返った。
「ん?」
すらっと背が高く、びっくりするくらい粋な女が気さくに話しかけてきた。
姉崎だ。
呼ばれるまま廊下に赴く。十人くらいいた彼女の取り巻きが道をあけた。
「モーセの十戒みてー」織斑がぼんやりとつぶやく。
何やら視線が痛い。取り巻き連中から嫉妬の目で見られているのは明らかだ。
二言三言会話したあと、姉崎が口元を隠して耳打ちする。
「先輩に話すことがあるだろう」
「何もありませんよ」
秘密があったとしてもホイホイ言うものか。
「『Dunois』を入手したんだって?」
Kや先生しか知らないはずだ。どこから漏れた。
私は疑心暗鬼になって左右に目を走らせる。顔の前で手を合わせるKの姿があった。お前か! と、叫びたい気持ちをぐっとこらえた。
みんな『Dunois』に過剰反応しすぎだろう。ブランドものを手に入れたからといってよってたかって取り入ろうとするのは愚かではないか。
「業後、着て見せてくれないかな。茶道室でどうだ」
「茶道部でしたっけ、先輩」
「歩きながら話そうか。後輩よ」
うわっ、白々しい。姉崎が目配せすると、取り巻きはきっかり2メートル離れた。
「フランスが好きか」
「いえ。というか外国のことはよくわかりません」
「フランス人の友達がいたら人生が豊かになるとは思わないか?」
「外国語教室のアンケートみたいですね。あと自己啓発セミナー」
「そうかい?」
「そうですよ。下心が見え見えなんです。隠す気、ないですよね?」
姉崎があいまいに笑ってごまかしている。
その後、珍しく茶道部と織斑先生について話をした。先生がめったに顔を出してくれないので部員がさみしがっている。職員室でいつもどこかに電話をかけていて声もかけられない。外に男がいる? などなど。
食堂にたどり着くと、姉崎が一言断って私の側を離れた。三年生の輪に入るや取り巻きたちもいったん解散する。去り際に彼女らがちょっとうらやましそうな表情をにじませる。
トレーを持って列に並ぶ。しのぎんとカバチの後ろ姿を見つけたが、声をかけるには遠すぎた。
無難に焼き魚定食を選び、ご飯コーナーへ。
机のそばに見本が置いてあって「少ない・普通・大盛り・特大盛り・メガ盛り」とある。最近運動量が増えてきた私は普通・五穀米を頼んだ。
Kたちを探す。
「うええっ!?」
周りにはばかることなく素っ頓狂な声を挙げてしまった。ブラウンの丸テーブル——生徒の間ではカップル席と呼ばれている——に篠ノ之さんが座っていた。向かいには織斑モドキがさも当然のように席を陣取って食事を摂っていたのだ。一年生の制服を着用しているので一見しただけでは部外者とはわからない。
二人とも会話に興じるわけでもなく黙々と箸を口に運んでいる。
私は織斑モドキを視界の端に加えながら、Kの隣に座った。
「おぅい。カップル席、気づいてる?」
向かいの席にいたセシリア嬢が一瞥する。彼女は一瞬フォークを止め、織斑モドキに視線を止めて鋭い眼差しを注いだ。すぐにパスタを巻く動作を再開する。
Kが口を開いた。
「意外な組み合わせだよね」
篠ノ之さんたちが互いに目を合わせて微妙な雰囲気を漂わせた。
「わけあり? 過去に何かあった口でしょ。たぶん」
「いい加減なこと言っちゃダメだよ」
Kに釘を刺した。
そして部外者である私たちは篠ノ之さんにまつわる憶測を好き勝手に話し合った。
「篠ノ之と織斑なんて珍しい名字。山田や藤原みたいに日本中に転がっている有象無象とは訳が違いますの。ほぼ間違いなく何かあるに違いありませんわ」
セシリア嬢が口を拭う。
「織斑マドカさんは先生のクローンなのでしょう?
「痛いところ引っぱるよね?
鼻で笑われて釈然としないながらも、食事を終えた織斑モドキが篠ノ之さんに何事か耳打ちするのを見逃さなかった。
渋い表情になった篠ノ之さんは珍しく食事半ばで立ちあがった。織斑モドキが目配せするたびに彼女は仏頂面で応じ、結局言うとおりにしたようだ。
「M子のほうが力があると見ていいね。渋々言うことを聞いてる」
M子?
私はその命名に首をかしげた。二人の背中から視線を外し、Kに確かめる。
「マドカだからM。なんだかスパイっぽくない? 英国諜報部みたいな。寒いところから来たかも」
「Kさん。Mならマイクロフトが適切でしょう。マドカのマなんて……安易ですわ」
「やだなあ。あだ名だから適当でいいじゃないか。セシリー」
セシリア嬢とKは二人の空間に入ってしまい、お互いに英語らしき言葉で冗談を言い合った。冗談だとわかったのは、互いに吹き出していたのを目にしたからだ。教養の高さを披露し合っていたけれど、私にはとんと理解できない領域だった。
何事もなく授業が終わってほっとした。
姉崎に電話をかけると、茶道室に向かうよう指示された。通話口の奥から含み笑いが漏れ聞こえており、訝しみながらも扉を開ける。
和室には姉崎のほか数名の生徒がいた。
「げっ!?」
織斑モドキ。またの名をM子という。隣に正座した篠ノ之さんがいた。
「篠ノ之さん。織斑とふたりっきりの剣道場じゃなかった?」
彼女は片目を開け、M子をにらみつけた。夏に向けて暑さを増しつつあるのに一帯が二、三度下がったように思えた。穏やかな話し合いのできる雰囲気ではなかった。
しかし、M子は冷静に、どこ吹く風のようすだ。
篠ノ之さんの隣に座り、膝上に乗せた彼女の手に触れる。指を絡めて、頭を傾けて鼻が触れあうほどに近づく。篠ノ之さんは凝視していたが、やがて観念したのか
ふたりの醸し出す妖しげな姿に、私は胸がどきどきしていてもたってもいられなくなる。
「お二人とも近い、近い」
冷静にならなければ。少し肘が当たって背中を押したら口づけてしまいそうな距離だ。篠ノ之さんには更識さんという交際相手——もちろん私は誤解だと認識していた——がいる。裏切り、背徳、略奪愛……私の思考は混迷を極めた。
ふと周りを見渡せば、騒がしかった室内はひっそりと静まり返っていた。
肩をたたかれ、背後に立つ姉崎を見上げる。ろくなことにならないんだろうなあ、とぼんやりするうちに、紙袋を押しつけてきた。
「同居人に断って借りてきたんだ」
中身は『Dunois』だ。無言の重圧に耐えかねて、紙袋を抱えて別室へ逃げる。
だが、鷹月がすまし顔で控えていて、あっという間に制服をひんむかれてしまった。
わずか数分のあいだに、私は超高価なブランド品を身に着けていた。
時折セシリア嬢とKがふざけてファッションショーのまねごとに興じていたが、私はどちらかといえば感想を言う側だ。なんとなくお洒落をしたいが、雑誌を眺めて終わるようなものぐさでもある。
だが、この『Dunois』はどこかがおかしい。
ISスーツの素材に近く、さらにいえば身体の線を抑制するつくりだ。なのに窮屈には感じない。不思議な感触を抱きながら紙袋の底をのぞき込んだ。
「あのー。これ男子の制服なんですが」
襖から顔だけ覗かせて訊ねると、姉崎が少し口ごもる。
「……ああ、ええっと、被服部門から借りてきたんだ」
学園祭で使うつもりだったのか、裏から手をまわして入手したに違いない。男子の制服を身に着ける機会など滅多にあるものではない。期待されているような気がして勢いで着てしまった。
「ええっと、皆さん」
全員がぎょっとして固まっている。鷹月ですら惚けた視線を送っていた。
私は居心地の悪さを感じて、何度も瞬きした。
皆に先んじて我に返ったのはM子だった。
「へえ……化けたってわけ」
「ですから、おっしゃる意味がわかりません」
M子はとって返すや姿見を押して戻ってくる。前に立ってようやく得心がいった。
——なるほど驚くわけだ。
姿見に映っていたのは少年Aである。