赭石のイアーティス  ───What a beautiful dawn───   作:6mol

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唄う導管

 

 

 

「───なぜ、君は僕を助けた」

 

 降りしきる雨の中。《大洞窟》の《抜け穴(サルース)》の淵で、私は出会った。

 

 彼と。かそけしなる揺らぐ意思の塊(グレートヒェン)と。

 そう。……これが彼と私の出会い。彼との長い長い旅の始まり。

 辛く、苦しく、余りにも悲しく。

 

 ───それでも、とても美しい《夜明け》への旅の始まり。

 彼。不器用な彼。自分の価値を否定する彼。

 

 ああ……今だから言える。

 私の大切な、人。優しい、私の『エド』。

 そう、たとえあなたが呪われた身だとしても。

 そう、たとえあなたが怨みの末だとしても。

 

 そして、たとえ私が怨嗟の塊だとしても

 

 私が、あなたを忘れることはない。

 私が、あなたを否定することはない。

 だから……

 

 

 

 

 ─────だから、一緒に、いつまでも。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 雨の中で、私は男の人と見つめ合う。

 不躾にも、マジマジと。

 

 ───うん、この辺りでは見たことのない顔……ですね、やっぱり。

 背の低い私では、見上げるほどに背の高い男の人。肌も心無し青白く、目深に被ったフードから覗く髪の毛も、瞳さえも薄い青色。まるで《大洞窟》に漂う霧の如く。

 

 ───青い、青い男の人。目の覚めるような青い、一眼で上等だとわかるフード付きのコートを着ていて。

 

 ───でも、それ以上に目につくのは。

 

 ───彼の右腕に嵌められている、千切れた鎖の枷(二グラス)───

 

 彼のその身は、既に雨に濡れていた。

 けれど、せめてそれ以上濡れないように私は必死に傘を持った手を伸ばす。そして、再び。

 

 ───彼と視線、交わって。

 

「なぜ、君は僕を助けたんだ」

 

 もう、一度。私の瞳を見ながら、反芻するように彼はそう言う。

 

 ───最初は、とても驚いた。そして、それと同時に怖くもなった。だって、彼は恐ろしいくらいに眉根を寄せていたから。とっても不機嫌そうに、まるでうっかり害虫を見かけてしまったかの様な瞳。

 

 ───怒っていると、思った。

 

 余計なことをしてしまったかもしれないって。そんなことを思った。彼の、不機嫌そうな顔を見て。

 

 ───うん、だって本当に不機嫌そうなんです!

 まるで、今この瞬間が人生において最低の瞬間であったかのように。

 まるで、私に出会ったことが生涯最悪の出来事であったかのように!

 それくらい、不機嫌そうに眉さえ寄せて。

 

「えっと……た、助けてなんていません……」

 

 だから、僅かに怯えを滲ませて。彼から目をそらすようにそう答える。だって本当に助けてなんていないもの。

 

 ───そんな大仰なことしていない。

 私にそんなこと、できるはずがないんだから。

 この《大洞窟》には、人を救けるお伽話なんてないから。そんなもの何処にも無いから。

 

 ───地獄(ンカイ)それ(救済)は、必要ないから。

 

「───いや、君がどう思おうと関係はない。そうとも、関係ないんだ。君は紛れもなく僕を助けた。たった今」

 

 そして、彼はもう一度私に問う。どうして、と。

 

 ───どうして?

 

死の淵(ゲル=ホー)に立つ僕を助けた。本来ならば、そんなことあり得ないはずなんだよ」

 

「あり得……ない?」

 

「そう、そうだとも。きれいなお嬢さん(マイフェア・レディ)

 

 ───あり得ない。

 彼を助けた、なんて私は思っていないけれど。

 ……それでも、やっぱり不思議には思う。思うよ。だって、あり得ないなんて言われたんだもの。

 

『君が人を助けるなんてあり得ない。君はそんなに優しい人間ではない』

 

 そう、言われているようで。

 だから、私は───

 

 

 

「そんなことは、ないと思います」

 

 

 

 そう、言い切る。

 

「───なに」

 

 確かに、私は人を助けられる様な立派な人間じゃない。

 1人じゃなにもできない子供かもしれない。

 

 ───けど。

 

 ───けれど。

 

「あり得ないことなんて、ない」

 

 確かに《大洞窟》の生活は苦しくて。心にも余裕がないのかもしれない。

 

 けれど、けれど。

 

 ───この《大洞窟》にだって、優しさはある。

 私に傘を渡してくれたアーテル姉さんの様な、暖かな人は確かにいる。

 

 だから、あり得ないなんてない。誰だって、どんな時だって、心に余裕がなくたって。

 

 ───小さな優しさは、誰だって持ってるのだから。

 

「───そう、か」

 

 そう言って、彼は黙り込む。

 ふと我に帰り、私はもしかしてすごく不躾な発言をしてしまったのではないかと慌ててしまった。

 

「す、すみません!私ったら失礼な事を───」

 

「謝らなくていい。謝る必要など、ない」

 

 そう言った彼は、少しだけ顔を緩めた。相変わらず、眉間のシワは寄ったままだけれど。

 

 

 

「───君は、そのままでいい」

 

 

 

 * * * *

 

 

 

「……《大洞窟》内の恐慌麻痺(サプレス)が効いていないだけじゃない」

 

 ─────《青い霧の男》が。

 青い彼が、誰にも聞こえないような声音でそっと囁く。

 それは、感嘆。驚嘆。

 まさか、自分という『存在』を感知した訳でもあるまい。それなのに、彼女は自分を助けた……

 あり得ない事だ。まさしく『想定外』の事だった。

 彼女……フィリアは今頃、この《大洞窟》の絶望に絡み取られて絶望してなくてはならないのに。

 なのに、彼女の瞳は真っ直ぐだった。微かに陰りを見せてはいたが、それでも。

 それでも彼女は希望を持っていた。

 なにより、彼女は───優しさを持っていた。

 暖かさを持っていた。

 

 ───まるで……『あの子』の様な暖かさを。

 

「─────あり得ない」

 

 そんなことはあり得ない筈だ、と。

 目の前の彼女に聞こえぬよう、青い彼は再びふとそう溢した。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 

 暗がりが満ちる、部屋の中。

 それは《大洞窟》、いや、『崩落地区』ユノコスにおいては珍しく過去の原型を完璧に留めた空間だった。

 壁面にはバロック式の彫刻模様が施され、その部屋の主の性格をそのまま表している。

 

 ───どこまでも、華美で。

 光ることを忘れた燃料切れの機関灯(エンジン・ランプ)が天井から吊り下げられてはいるが、その部屋はいささか光量が足らずに暗がりが深まっていくばかりであり、《青い霧》の光芒がこの締め切られた部屋に入ることもない。

 

 その暗い、暗い部屋の中に。

 うごめく2つの人影があった。

 1人は女。1人は男。

 ベッドに横たわる男に、女は寄り添うように身を委ねている。

 先程までの宴の余韻を感じるが如く。……恋人のように、2つの影が重なって。

 2人とも衣服などは一切身につけていない……女の肢体を隠すのは申し訳程度のベッドシーツのみだった。

 

「───人生、何が起こるかわからない」

 

 ───男の声は、隣にいる女に向けて発せられた訳ではない。それは、そう、世間では独り言と言えるだろう。その証拠に男の目は上の天井を見つめたままだ。

 

「昔、あれだけ焦がれた女が今は娼婦(ラピュータ)の真似事か……虚しいな」

 

「あら、言うじゃない」

 

 女……いや、アーテル・カストロフは朗らかに笑いながら男の苦言を受け流す。そう、 こういったものは彼女にとって慣れたことだった。

 もう、何度も繰り返したことだった。故に、彼女にはもう何も思うことなどない。

 

 アーテル。輝きを有した少女の、大切な姉のような存在。だが、そんな少女に憧れられる様な人間ではないと、彼女は自身で哀しいほどに理解していた。

 

「────その割には、貴方はこうしてきてくれるのね」

 

「来るさ。あぁ、来るとも。お前を抱けるならば、例え《青い霧》に砕かれても悔いはない」

 

 今現在、《青い霧》の影響であらゆる生物は『欲求』が麻痺していた。……当然、人としてあるべき3つの欲求ですら。

 

 ───それでも男はこうして女の部屋を訪れる。何度も。何度も。忘れ去られた欲求を噛みしめるかのように。

 

「───まぁ、ね。私も貰えるものが貰えるなら細かいことは言わないわ」

 

 まるで逆撫でするように女は語る。纏う雰囲気、口調、その全ては少女(フィリア)と話す時と余りにもかけ離れていた。……当然のことではあるが。

 

「ふん……貰えるもの……か。それはこの紅茶パック3袋のことを言ってるのか?」

 

 そう言い、男は女の前にまるで見せつけるように茶葉を見せつける……

 

 そう、そうだとも。

 女の貰える報酬は、それだけだ。

 たった、3袋の紅茶のパック。

 

 ───それが、それこそが今現在の彼女の『価値』。

 たったのこれだけで、彼女は男にその美しい肢体を委ねていた。

 あまりにも、それはあまりにも滑稽であり悲壮なことではあったがそれを彼女が気にしたことはない……これが、彼女の《存在意義》。

 

 それはこの《大洞窟》に生きるものにとってなくてはならないものだ。それを失くしたものから、無慈悲に死にゆくという呪われた運命を背負っている。

 

「……」

 

 無言。男の嘲笑に対し、女は無言でそれに応えた。おそらく男の中では100万の女への失望の言葉が渦巻いているのだろう……それに気づかない女ではない。

 これでおしまい、とばかりに女は男から紅茶のパックを受け取り衣服を着る。

 そうとも、これでおしまいだ。女の価値はこれで終わり。

 素早い動きで支度を済ませる。その最中は男と視線、合わせない。もちろんそれに文句を言うほど男も初心ではないのだが。

 

 ───しかし、男は口を開いた。それもこの場で最も言ってはいけない『名前』を。

 

「……あの子、お前の大切な『フィリア』は元気か……っ!!」

 

 ─────っ!!

 

 男が少女の名前を口にした瞬間、女の雰囲気が豹変する。今までのどこかゆるりとした雰囲気さえかなぐり捨て、今その瞳に宿るのは──

 

「フィリアに手を出したら、ユルサナイ」

 

 ─────狂気の─────

 

 躱す隙を与えず、アーテルは男の首を絞め付ける。一切の躊躇なく。

 男は苦悩の声を上げるが、それすら気にする風もなく首を絞める……まさしく《機械》的に。

 女にとって、フィリアは……それほどの存在だった。

 おそらく、女の全てであった。

 だから、女は……アーテルは許さない。

 フィリアに余計な事を吹き込もうとするものを。あの子を不幸にするものを。

 

 ─────少女に。

 

 ────決して知られてはいけないことがあるから。

 

 

「あなた……あなた……危険だわ。そう、とっても、危険……だって、あなたは全て《知っている》ものね?」

 

 ────少女だけには、知られてはいけない。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 あの後、私は家に帰った。勿論名前も知らない彼を連れて。だって放って置くわけにもいかなかったから、取り敢えずの雨宿りのために。

 

 ……不思議と危機感なんて全くなくて。

 なんて、アーテル姉さんが知ったら怒られてしまうかも。

 途上は、2人とも無言だった。私はなにを喋ればいいのかわからなかったし、彼は……なにを考えているのか、よくわからない。青い瞳はなにを見ているのかわからないし、彼の表情からも何かを読み取ることはできなかった。

 そうして私の家に着いて、ひとまず彼を居間に通す。なんとなく、気恥ずかしい気分になったのはなんでだろうか。

 

「───すみません。これ位しか出せませんが……」

 

 ことり、と。

 テーブルに紅茶を置く。

 少し、ひび割れているティーカップしかなくて申し訳ないけれど。

 

「これは、紅茶か」

 

 それを見て驚くように彼が目を見開く。まるで、世にも珍しいものでも見たかのように。

 

 ───あぁ、そうだ。この《大洞窟》では。

 ただの紅茶でさえ、真に珍しいものだった。湯気はない。お湯なんてものは《大洞窟》では作りづらいから。……作れない訳では、ないですけど。

 汲んできた水で淹れた紅茶だとしても。冷たい紅茶だとしても。それはやっぱり珍しくて。

 

「そうですよ。紅茶です」

 

「よく、ティーパックなど持っていたね」

 

「───ええ」

 

 そう、私は持っている。冷たいけれど、確かな温もりを感じることのできる紅茶を。持っている。あの人に、貰ったから。

 

「────ある人に、貰ったんです。……とても大切な人から」

 

 大切な人。アーテル姉さん。いつも私を子供扱いする女の人。お母さんと仲の良かった姉のような人。

 アーテル姉さんが家に来る時は、いつも私にお土産をくれる。そのどれもが《大洞窟》では珍しいもので。

 

 ───こうして、特別な時しか使わない。

 

「───そうか」

 

 そう言って、彼はティーカップを傾けて紅茶を一口飲む。その仕草は、とても優雅で。

 とても育ちのいい人なのかもしれない、と思った。相変わらずに眉根は寄せたままだけど。

 

 ───紅茶、好きなのかな。だって、なんとなくだけど表情が緩んだもの。

 そう思うとこの人もなんだか子供っぽく思えて。思わずクスリと───

 

「不味い」

 

 クスリ、と───

 

「……」

 

「……」

 

 お互い、無言になる。音がないせいで、さらにこの静寂が突き刺さるように痛い、気がして。

 

 ───確かに。

 美味しくないかもしれません。だって冷たいですし、きっと茶葉も開ききってない。でも、ね?こんなにね?はっきり言わなくてもね?いいと思うんです。

 

「……すみません。こんなものしか出せず」

 

 といっても、やっぱり謝るのが礼儀で。ペコリ、と一回頭を下げる。彼の物言い、失礼だとは思わない。だってあまり美味しくないのは事実だから……けれど、紳士としてはちょっとどうかと思う。

 

 昔、友人に読ませてもらった本には、紳士は淑女に出されたものは褒めるべきだと書いてあった気がする。

 いいえ、いいえ、それでもやっぱり。

 おもてなしできないこちらが悪いのは明白、ですね。

 

「いや、フィリアの気にする事ではない」

 

「ありがとうございます……ぇ?」

 

 え?

 今……彼、私の名前を言った?あれ、私達って自己紹介しましたっけ……?

 名乗った記憶もないし名乗られた記憶もない。それなのに、どうして彼は私の名を知っているの。

 

「私の名前、ご存知なのですか?」

 

「……あ」

 

 ……あ、って言った。

 今、この人『あ』って言いましたよ。

 え、どういうことですかそれ。

 問いかけるように目を向けても、彼、フイッと顔を横に背ける。こう、プイっと。

 なんですかそれ。なんなんですかそれ、ちゃんとこっち見てください。

 

「あの……?」

 

「……」

 

 また、プイッと顔を背ける。まるで、悪戯の見つかった子供のように。

 彼は一拍置いた後、不機嫌そうにジロリと私を睨みつけてきた。これ以上は聞くな、と言うように。

 いえ、この人は何時も不機嫌そうなんですけどね。

 

「えっと……では。改めまして、私はフィリアといいます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

 

 そう言うと、やっと満足そうに彼は私の方を見た。心なしかホッとしてるように見えて、それも私の微笑を誘う。

 本当に子共のような仕草で、思わず昔近所に住んでいた年下の子達を思い出す。

 彼らも悪戯をしては怒られ、許されればこんな風にほっとしていたっけ……

 

「……エド」

 

「え」

 

「……名前だ。僕の」

 

 ───ポツリ、と。呟くようにそう言った。

 エド……エド……

 忘れないよう、声に出さずに反芻する。

 なんとなく覚えやすい、聞きなれた名前のような気がする。

 

「エドさん?……は、泊まるところとかは……」

 

「───ない」

 

「あぁ、そうなんですか!では、是非この家にお泊りください。といっても、おもてなしは何も出来ませんが……」

 

 えぇ、本当に。申し訳ないくらいに、何も出来ないけれど。瓦礫まみれで、絨毯もボロボロ。機関灯も満足につかない。

 

 ───本当に、申し訳ない。

 

「いいのかい」

 

「え?」

 

「僕は男だ」

 

「?……はい」

 

 そんなこと、見ればわかりますけど……

 

 一体、エドさんは何を言ってるんでしょう。

 この場合むしろ「実は僕は女なんだ」と言われた方が驚く気がします。というより驚きます。

 そういえば遠い国で活躍しているという男性役をこなす女性の俳優さんが話題になっていたような……?

 いえ、今その話は関係ありませんね。

 

「そして、君は年端もいかない少女だ。淑女としては若過ぎるけれど、見ず知らずの男を不用心に泊まらせるのはいけない」

 

「え」

 

「君のような可憐な少女が。少しは危機感を知った方がいい」

 

「え」

 

 ───え、えっと……?

 彼は男性で……私は女で……家に泊まらせる……二人きりで……

 

 ────っ!!!

 

「……っ!あっ……いや……あの……っ!!」

 

 二人きり。つまり、そういうこと!?

 彼の言わんとすることをようやく理解し、カァーッと顔が熱くなっていく。

 

「……えっと……だって……私、背も小さいですし……子供っぽいですし」

 

 ……うぅ……だって……こういったことに、私は全然慣れてなくて!

 こっちが焦っているのに、肝心の彼はどこ吹く風といったように紅茶を啜っている。

 

「……胸も小さいですし」

 

 私、何言ってるの!?

 幾ら何でも、テンパり過ぎかな……

 少し、落ち着かなきゃ。

 さっきから、とんでもない事を口走っている気がする。

 

「───いや、君のは十分魅力的だ」

 

 ───落ち着かなきゃいけないのに。エドさんは、またそんなこといって!

 

 あぁ、熱い。顔が、身体が赤くなっていくのを感じる。目の前の彼は相変わらず不機嫌そうに見てくるし……

 

「……ちょっと、こっち見ないでください……」

 

「いや、それはできない」

 

 なんでですか。やめてください。淑女を不躾に眺めるなんて、紳士失格ですよ。

 

「……うぅ……」

 

 結局、その問答は彼が紅茶を飲み終えるまで続きました。

 

 その頃にはもう、2人とも……というか、私はすっかり落ち着いていて。

 外を見れば青い霧が大分濃くなってきて、外に出るには少し危険な位だった。

 

「───顔、まだ赤いが」

 

「言わなくていいですっ」

 

 折角!折角!人が落ち着こうとしていたのに!

 

「……僕は何処で眠ればいいんだろう」

 

 そんな私を完璧に無視して彼は呟く。

 

 ……結局、彼は泊まることになりました。

 元々此方もそのつもりでしたからいいんですけどね。

 

「ああ、エドさんの寝床なら───」

 

 と、その時。

 

 

 

 

 

『────フィリア』

 

 

 

 

「─────っ!!」

 

 突然聞こえる、異形の声。私を呼ぶ声。

 

 ……聞こえた。聞いてしまった。

 

 どうして、どうして!?

 

 あれは夢の中の声の筈。現実で聴こえてきたことなんて、今までで一度もなかったのに!

 また、あの声。また、あの歌。

 何処からか聞こえてくる、嘲笑の旋律。

 耳を塞いでも無駄なのに、私は夢と同じようにぐっと耳を塞ぐ。

 何処にいても関係がない。それは、不規則に私に囁きかけてくる。

 

『────フィリア』

 

 やめて、お願い……聞きたくない!

 そんな歌、聞きたくないよ。だって……この歌が聞こえるっていうことは。

 

 また、誰かが───

 

 視界が、どんどんと狭くなっていく。

 あぁ、私は気絶するんだ、と漠然と感じる。

 夢でも現実でも付いて回る、不快な声。

 

 ────視界、どんどん暗くなって────

 

 私はそうして仰向けに倒れ、来るであろう衝撃に覚悟を決める。

 

「……大丈夫か」

 

 ───衝撃が、こない。

 倒れた私が、地面に打ち付けられることはなかった。というのも。

 

 ……あぁ……そうか。

 

 ───彼が、エドさんが私を受け止めてくれたんだ。

 

 

「《唄う導管(イステ)》か。なるほど……聞きしに勝る旋律のようだ」

 

 そう、誰にでもなく呟いて─────

 

「───暖かい」

 

 気を失う直前、私は。久方振りに感じる他人の温もりを感じた。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 時計が回る。─────チク・タク

 運命が回る。─────チク・タク

 

『時間だよ。……物語を紡ぐ時間だよ』

 

 誰も居ないはずの部屋で、あり得ない筈の声が、一つ。

 

 ────その声、およそ女ではない。……男でもない。

 

 それは、人ですらない物から発せられた声。

 そう、無数の(パイプ)がまるで編み込まれているかの様に絡み合った、未だ稼働し続けているこの異形都市唯一の大機関(メガ・エンジン)。その、機関から吹き出す蒸気に呼応するように、または溶け込むように異形の声は発せられていた。

 まるで、誰かに囁きかけるが如く。

 まるで、誰かを嘲笑するかの如く。

 

 ───この声が聞こえる者はここにはいない。この都市には、どこにもいない。

 

 この声が聞こえるとするなら、あるいはかつて穴を掘り続けた狂人か。または、碩学詩人と称えられた無二の狂人か。

 

 ───否、かの狂人でさえ聞き届けられないだろう。

 

 ───赫い男と、白い女以外には。

 

 どちらにせよこの声が聞き届けられたなら、それはまごう事なく気が狂っている証だろう。聞こえるはずのない声が聞こえるなど、道外れた狂人に他ならないのだから。

 だから─────どうか、誰も聞かないで。

 この声を。

 この、狂った幻聴を。

 

 ───いや、あるいは。この声を聞き届ける者もいるのかもしれない。

 

 あらゆることが想定の外に位置するこの《大洞窟》では。……あり得ないことも、起こり得る。

 

 だから、そう。この声を聞き届ける者。

 聴くもの。

 見つめるもの。

 

 それは───

 

 ─────塔の遥か頂にいる─────

 

 

「────わかっているとも。あぁ……あぁ、わかっているとも」

 

 そして、ここにもその声を聞くものが、1人。

 誰もいない筈の部屋に存在する、それは奇矯な男であった。

 ……いや、その男は真に奇人であり、奇矯であり、そして奇怪ではあったが、それは自らが狂っている事を自覚していた。自らが取り返しのつかない所まで来ているという、漠然とした絶望も。

 《3月のウサギのように気の狂った》その男は、この都市にて物語を紡ぐもの。そして、この都市の中枢機関室(セントラルエンジンルーム)のただ1人の主人。

 

「物語、それは人によって紡がれるもの。形なきもの。無形の愛。────そして、この都市を《 愛の怒り 》に染め上げるもの」

 

 低い低音が部屋の中に響く。

 それは男の声だ。

 不気味な程に響く声だ。

 その身、すでに異形であるというのに、皮肉なまでにその声は人間味に溢れていた。

 人を惑わせる、それは真なる魔女の言霊───

 

「───物語は永遠だ。人の心の中にて顕現する永遠の幻想。

 ──私は、待とう。狂った王子が孤高の魔女(ラプンツェル)に物語を届けるその時を」

 

 語る、語る。

 

「そうとも。例えそれが《這い寄る混沌》であろうとも。例えそれが《発狂する時空》であろうとも。例えそれが《世界の果てにて猛る雷電》であろうとも。……物語を終わらせることなどできはしないのだから」

 

 聞くものなどいなくとも、男は語る。

 なぜならば、そう……男はまさしく3月のウサギのように気が狂っているのだから。

 

『時間だよ……よいこの寝る時間だよ』

 

 男に呼応するかのように声が聞こえた。

 先程と同じ、奇怪の声。

 菅から漏れ出す蒸気の音。

 男の言霊をうけて、あるいはその気の狂いを見てか───機関は歓喜の声をあげるのだ。

 

 蒸気を吹き出す無数の管。反響するそれはまるで美しい旋律のようで。

 事実、それは大機関の唄声であるのだろう。

 ここで、この部屋で大機関は、都市でただ一つの歓喜の歌を唄うのだ。だが……

 

 ───祝福ではない。

 

 ───祝福はここにはない。

 

 ならば、それは嘲弄の唄か。

 常人ならば、その唄を聞いただけで確実に発狂しただろう。

 

 ───それほどまでに美しく、そして不快な唄声だった。

 

 その唄は、まさに塔の上……黄金色の螺旋階段の果てに眠る少女に向けて捧げられた。

 

 たった、今。

 そうだ、今だ。今、その唄声を少女は聞いた。

 

「そうとも。そしてそれが全て。……この都市の夜は明けない」

 

 ……男は、語る。

 少女は唄を聞き届けた。だというのに、それを理解しているというのに、男は表情を変えずに頷くのみ。

 

 ───そうとも、この《大洞窟》に夜明けは来ない。その真実に────

 

「─────どうか誰も、気づきませんように……」

 

 ───少女の存在を感知した異形が、塔に向けて侵攻を開始した。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 

 ──導管(パイプ)は唄う。

 

 高らかに、まるで《大洞窟》中を祝福するが如く。

 まるで、人々の不幸を嘲笑するかの如く。

 その唄に呼応するかのように、周囲の《青い霧》が蠢き始めた。

 

 ───全てを抑制する軌跡の顕現である《青い霧》。その実、それは祝福に足るものであるのだろう。

 

 ───だが、《大洞窟(クシニーア)》にすまうものでそれを祝福と呼ぶものは、いない。……一部の、かの《狂気なる黒の山羊》を崇拝する者たち以外には。

 

 蠢く《青い霧》に触発され、血のごとき(あか)の岩肌が脈動を始める。まるで、それそのものが一つの生物であるかのように。

 

『時間だよ……よい子の眠る時間だよ』

 

 ───唄う、唄う、導管は唄う。

 

 それは狂気の囁き声であり、それは歓喜の歌であり、それは喜劇のホルンであった。

 そして、それこそが《青い霧》が祝福ではないすべての理由。

 

 ───それは、人を殺す《災害》をよぶ唄声であるからだ。

 

 そして、それは霧の中より応えて出でる。

 そして、それは霧の彼方よりやってくる。

 

 ───それは、裁定するもの。

 

 ───それは、間引くもの。

 

 価値を失ったものを完膚無きまでに破壊する。……それはティンダロスの猟犬の如く。

 無慈悲なまでに、冷徹に。

 残酷なまでに、冷酷に。

 

 人々の《死》の象徴。

 囁きかける《大洞窟(クン・ヤン)》の悪夢。

 

 

 

 

 

 

 

 ────《霧の災厄(マリ・クリッター)》。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────今、この《大洞窟》で。

 

 ─────また誰かが死んだ(諦めた)

 

 

 

 

 

 

 




おまけ
第2話の続き



─────それは、雷電の部屋だった。

機関灯(エンジン・ランプ)の類が、天井にも壁にも一切付いていないという実に奇妙な部屋だった。その代わりに、西亨でもカダスでも見慣れない《白い光》を灯す不思議な装置が取り付けてある。

─────その部屋の主は、その装置を《蛍光灯》と呼んだ。

誰もが知らないものを当然の如く扱う彼は、はたから見れば奇怪にも奇矯にも映ったことだろう。
けれど、彼を知る者で彼を悪く言うものは、それこそいない。
弱冠18歳、若くして碩学としての名を欲しいままにした彼は若人の畏敬の念を絶えず受け続けていた。
だが、その驚異的な頭脳を持ってしても、彼は『ただの人間』である。よって、疲弊することもあれば休息を取ることも必要だ。

─────そんな時、彼はこの部屋に閉じこもり読書に勤しむことを楽しみとしていた。



* * * *




扉を開く。やたらに重厚で、開くことなど到底出来ないようなその扉を。

─────その扉を開くのに力はいらない。なぜなら、それは触れずとも自動(オート)で開くためだ。それも、機関の力ではなく馴染みのない《電気》の力を借りて。

よって、その部屋を訪れたのが例え小柄な淑女であったとしても、その扉を開くのになんら躊躇いもなかった……それこそ、一切も。
その部屋を訪れた女……《白い彼女》は開いた扉を感心したように眺めた後、その後に続いている広大な部屋に、これまた躊躇なく足を踏み入れた。

─────そう、こここそが《雷電の部屋》だ。

蛍光灯と名付けられたランプが壁にはめ込まれた不思議な大部屋。……いや、その白い光だけでは些か光量が足りないのは明白だ。だが、この部屋は余りにも《明る過ぎた》。
眩いほどに光り輝く部屋だった。なぜならば─────

─────部屋の中央に位置する─────

─────大型の電気機関(エレクトロ・エンジン)─────

そこから、眩いほどの光が発せられていたからである。
……いや、光などというものじゃない。

……例えるならば、まさしく雷電。それは幾筋もの稲光であった。

それは部屋の主の行き着いた、強大なエネルギーを生み出す《回転磁界》の着想が形を成した大型機関である。そこから放たれる雷電は、容易にこの部屋を白く染め上げていた。

─────当然の如く、それは危険だ。いや、危険なんてものではない。その雷電に人間が触れてしまえば、たちまちの内に感電し、その身を焦がして瞬時に絶命してしまうだろう。

女はため息を一つ吐いた後、この部屋にいるであろう男を探すために首を巡らせる。

─────といっても、彼女には彼のいる場所が容易に把握できたのだが。

2人は長い付き合いだ。お互いの癖など知り尽くしている……よって、彼が腰を落ち着かせているであろう場所もたやすく想像できた。
目星をつけた彼女は再び息を吐いた後、男がいるであろう場所に向かって足を動かす……すなわち、部屋の中央に位置する大型機関の元へと。
無論その間にも雷電は奔る。奔る。奔る……
ひときわ激しい雷電がその輝きを散らした後、女はまるで幼子を叱りつけるように声をあげた。

「発雷中の読書はやめなさいって言ったわよね?」

雷電の音にかき消されることなく、女の言葉は男に確実に届いく……けれど、彼は持っている本を手放さず、女の方に視線すら向けない。
それも、いつもの事だ。
女に気づいているくせに反応を返さないのも。
大型機関の横で深く椅子に腰掛け読書をしていることも。
いつもの事だ。彼の、何時もの行動だ。

─────痺れを切らした女は大股で男に近付くと、問答無用といった風に本を勢いよく取り上げる。

そうまでして、ようやく男は女の方に視線を向けた。

「────本を返せ。まだ読みかけだ」

「────私の用事が先よ。それが終わったらさっさと返してあげるわ」

男はしばらく女を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐く。

─────勿論、女の用事を聞くわけではない。

彼は素早く脇から新しい本を取り出すと、女の目の前で堂々とページをめくり始める。実に、太々しい態度であった……

「─────読むのをやめなさいっていってるでしょう?…」




「─────テスラ!!」



これは、彼がまだ《雷電》成らぬ身の頃の一幕である。



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