赭石のイアーティス  ───What a beautiful dawn───   作:6mol

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すごい難産でした


霧と雨

 

 

 

 

 

『───たすけて』

 

 誰かの声がする。

 私の耳元で。あるいは、とても遠くから。

 近いようで遠いその声は、私に向かって必死に手を伸ばしているようだった。

 

 ───苦しいくらい、懇請に。

 ───悲しいくらい、冷酷に。

 

 私に伸ばされたそれはきっと、異形達の右腕で。その腕たちは、暗闇でもがく私に向かって闇の底からまるで引き摺り込むかのように手を伸ばしていた。

 

 恐ろしい程に、静寂な闇。

 音、何も聞こえない。

 光、何も見えない。

 

 ───くらい。ここはどうしてこんなにくらいの。

 心の、根源的な恐怖を呼び起こす暗闇。その中で私は自らの手をかざす。

 自らの手。あるはずの腕。それが、暗闇に紛れてしまって見えなくて。まるで、闇の中に溶けてしまったよう。

 

 ───どこからどこまでが、暗闇なの?

 

 ───どこからどこまでが、私?

 もう既に。私の思考さえ暗闇に包まれてしまっていて。

 その声たちは私に向かって、まだ手を伸ばしていた。

 

 ───ちがうよ。

 

 ───やめて?

 私は、あなた達を助けられない。だからやめて。私に助けを、求めないで下さい。

 そんな哀しそうな声、私は聞きたくないよ。聞きたくなんてない。

 

 ───そう叫んでも、その声たちは私を恨めし気に見つめてきて。

 

『ずるい』

 

『ひどい』

 

『なんで、貴女のためなんかに』

 

 そして。そうして、その声は。

 私の腕を、脚を、首を───

 

 

 ────苦しいくらいに締め上げて────

 

『時間だよ。……もう目覚めの時間だよ』

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

「……また、この夢?」

 

 ───呆然と、目がさめる。まるで機械(マシン)めいた動作で、ゆっくりと。まさしく機械的に。

 この《大洞窟》に朝はない。それは昔から決められたこと。この人工的な極夜の都市では、朝なんてものはない。昼もない。あるのは、永遠に続く夜だけ。人為的であり、作為的であり、そして自然的な夜だけがこの街にはある。

 特に《崩落》の起きた後は、もう時間という概念さえなくなった。

 各々が勝手に寝て、各々が勝手に起きる。起きてすることといえば、水を汲んできてそれを啜ることだけ。

 

 ───《青い霧》があったとしても、人の飢餓にはやはり限界がある。まるで、満腹中枢ならぬ空腹中枢を忘れてしまったかのように、人はただ気付かぬうちに己を衰弱させてしまう。

 ……まるで、拷問。

 

 でも、それも日常。驚くことはない。

 

 ───壊れた神経も。

 

 ───朽ち、腐敗する前に霧散する遺体も。

 全てが日常の一部なのだから。

 

「─────嫌な、夢」

 

 そう、夢。今回も見た。忘れずに覚えている。無数の腕と、取り巻く暗闇。届かない私の声と、届いてしまう彼らの声。

 目が覚めた時は、いつもそう。自らの身体をかき抱くように腕を回して。

 震えが止まるのをじっと待つ。ただ、その寒さを堪えるように。

 

「大丈夫です、お母さん。……私は、まだ、大丈夫ですから」

 

 

 ───寒い。

 

 寒い。寒い。寒い。体が寒い。心が寒い。

 

 あぁ───お願い。誰か……暖房機関の駆動鍵を回して下さい。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 トコトコ、と。毎日歩く道を辿っていく。

 変わらない道。変わるはずのない道。

 

 ───だって、この道を歩くのは私だけ。

 小石の位置一つとっても、昨日と何も変わらない。

 変わらない風景。変わるはずのない廃墟。

 今日も、私は水汲み場から一杯に水の入ったバケツを下げて街を歩いている。

 いつもと一緒。いつもと同じ。

 

 ───けれど。

 

 ───けれど。

 

 この日はいつもとは少しだけ違った。

 この日はいつもと異なることがあった。

 

 ───なぜなら。

 

「───あ」

 

 ポツリ、と。

 私の前髪に落ちてきた水滴。

 黒くは、無い。

 排煙に犯されているという、外の『それ』とは違う。この都市のそれは、とても綺麗なもの。

 

 ───この都市の、奇跡の一つ。人の望みがかたちを成したもの。

 

 それは、すなわち─────

 

「……雨だ」

 

 私と周りの瓦礫を濡らしていく、それは雨。

 大洞窟で稀に降るもの。

 

 ─────かつては、降らなかった。大洞窟は科学技術の最先端を行く工学都市ではあったけれど、その位置は地中にあったから。どんな機関機械(エンジン・マシン)でも、自然を操り雨を降らすことはできない。

 作物を育てるための人工降雨機関(レイニー・エンジン)はあっても、それは真の雨を降らすことはない。

 ……だから、洞窟内で雨の降ることなんてなかった。

 

 ───あの日、あの時までは。

 

 すなわち、あの《大洞窟》の《崩落》の日。

 すなわち、機関から《青い霧》が排出された時。

 幼い時の私の記憶が正しければ、《崩落》のその日は雨が降っていたように思う。

 

 雨。

 天から降る水の恩恵。

 ここでは、そう。天盤から滴る無数の雫。けれど、それは真に雨であって。

 瓦礫と、赭石の岩盤。

 それしかないこの街を濡らしていく。

 ずっとこの雨にうたれていたいけれど、それは良くない。いくら《青い霧》の恩恵があったとしたって、代謝そのものが良くなるわけではないから。長時間濡れていたら風邪を引いてしまう。

 風邪をひいてしまったら大変。だって、《大洞窟》には薬がないから。─────違法のドラッグならあるようだけれど。

 ドラッグの名前。違法ドラッグの名前はなんだったか。確か……レ……レミ……?

 

 

 ───まあ。

 それは、そんなことはどうでもいいこと。なんでもないこと。些細なこと。

 違法のドラックでも、なんでもいい。何に頼っても誰も責めない。

 大切なのは、そう────

 

 ───今日をまた、生き抜いていくこと。

 この、地獄と呼ばれる袋小路で。

 

 

「───フィリア」

 

「え?」

 

 フィリア、と。雨音に紛れるように、声、確かに聞こえた。

 私を呼ぶ声。私の名前を呼ぶ優しい声。

 視線、くるりと周囲に回す。するとそこにいたのは……

 

「いけない子、フィリア。まだ貴女は幼いのだから。幼い女の子が身体を冷やしてはいけないわ」

 

「……アーテル姉さん!」

 

 そこにいたのは、傘を持った綺麗な女の人。

 

 ─────アーテル・カストロフ。

 昔から、私を気にかけてくれる人。《崩落》よりももっと前から。

 アーテル姉さんは、私のお母さんととっても仲が良かったから。よく私もかわいがってもらっていたのを覚えている。

 倦んだ《大洞窟》の中でも、優しさを持っている美しい人。私の憧れ。

 

 だって、ほら。今日もアーテル姉さんは綺麗。

 腰まで届く黒髪も。

 

 ───煌めくような、金色の左目も。

 

「ほら、傘に入りなさいな」

 

 そう言って、私をぐっと傘の中に引き入れる。

 

「……もう少しだけ、雨にあたっていたかったです」

 

「いけません」

 

「あぅ……」

 

 ピシャリ、と。そう叱られてしまった。

 ぐうと私は項垂れてしまう。幼い私、こんなんじゃアーテル姉さんみたいな淑女になれるのはまだまだ先。

 

「気持ちは、わかるけれどね。自分の身体をないがしろにするのは感心しないわ」

 

 全くの、正論。

 私に反論する隙さえ与えてくれず、アーテル姉さんはまたしてもピシャリと私に言い放った。

 

「《青い霧》は決して祝福じゃない。もちろん、それに連なるこの雨も……わかるでしょう?フィリア」

 

「───はい」

 

『祝福ではない』

 

 そう、いくら奇跡が起きようと《青い霧》は祝福などではない。そんなことは、この都市に住まうもの全員が知っていること。

 

「いい子ね、フィリア」

 

 そう言って、私の頭を撫でるアーテル姉さん。昔から、よくこうしてもらっていて。幼いときはアーテル姉さんに撫でられるのがとても好きだった……けど。

 

「うぅ……私、もう子供じゃありません」

 

 そう言って、ジロッと睨んでみたりして。

 でも、そんなことしたって……

 

「あら、あら」

 

 ほら、やっぱり。

 アーテル姉さんはクスリと笑うだけ。

 まるで、手のかかる幼子を嗜めるよう。

 

「─────今日はとくに《青い霧》が濃いわ。早く、家に帰りなさいな」

 

「……はい」

 

 叱られて、少し落ち込んだ私はうなだれながら返事をする。

 いつもなら、それもまた叱られる。『淑女を目指すものの仕草ではない』と。

 でも、今回はそれがなかった。その、代わりに……

 

「これで、良かったのでしょう?ねえ…………《 》」

 

 その、アーテル姉さんの呟きは───

 

 強くなる雨音に掻き消されるように消えてしまって、私の耳に届くことはなかった。

 

 ───あるいは。

 

 

 

 

 ───それが、悲劇の始まりだった。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───規則の良いリズムを鳴らして。

 

 機関(エンジン)を叩く音がする。

 硬い、硬い機関の鋼の表面を。木槌で叩く音がする。

 

 ───トン・テン・カン

 

 一寸の狂いもなく。一拍の狂いもなく。

 一定のリズムで奏で続ける、それは男。

 

 ───偉大なる三角、ではない。彼はそれを名乗るに値しなかった。

 

 ───だが、彼は三角を持つ男だった。

 《三角卿》と称えられる男だった。彼を、三角卿と言わずなんというのだろう。

 狂ってなどいない。例え木槌を片手に持っていたとしても、彼の瞳は狂ってなどいなかった。

 

 そして、彼の奏で続けるこのリズムも───

 狂ってなどいない。狂ってなどいるものか。

 この男こそ《大洞窟》で唯一正気を持つ男なのだから。

 鋼の機関が、その導管(パイプ)から蒸気(スチーム)を排出することはない。

 なぜか。それはこの機関が未だ目覚めていないからだ。未だ、唄うことを知らないからだ。

 

 ───ここに祝福はない。で、あればこそ、彼は木槌を叩き続ける。祝福を産み出すために。

 

 ───トン・テン・カン

 

 リズムを一切狂わせることなく。その手を休めることさえなく。されど、口さえあれば、人は言葉を、物語を紡ぐことが出来る。

 自ずとが望むままに。絡み合う無数の機関をかき鳴らして。

 

「───おや。これはとんだお客さんだ」

 

 手を休めずに、彼は言う。視線、正面を向けたままに。

 

「ああ、ああ……もちろん、君が来ることなんて想像だにしていなかった。まさしく『想定外』というやつだ」

 

 快活に笑う、男。頰にできた深いシワをくしゃりと歪めて。

 それが、全てを知った男の顔なのだろうか。

 

 ───否、そんなはずはない。全てを知っているのなら、彼が笑うことなどあり得ない。

 では、なぜ彼は笑うのか。

 嗤わずに、笑うのか。

 

「ん?そうだとも。『想定内』のことなどあるものか。この《大洞窟》内……いや、それ以前に、あらゆることは『想定外』のことだ」

 

 正常なる意志を持って、彼は言葉を紡ぐ。到底、彼は魔女などには及ばないけれど。

 だが、その言葉はあるいは───かのドルイド以上に他人への操作を強いる。他人の心に、魂に響く。

 

「私もこうして木槌を叩き続けている。……《無限力機関(イアーティス・エンジン)》など完成する筈がないというのに」

 

 だが、その願いはあるいは───

 

「そう。これ(完成)すらも、すなわち《想定外》というやつだ」

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───トン・テン・カン

 

 一切の躊躇いなく。一切の慈悲もなく。

 木槌は奏でる。それは待望の旋律であり、また不可思議な旋律でもある。

 

 だが、その旋律はあるいは。

 

 

「───そうか。彼は動くのか……はは、それは『想定外』だった」

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

「この傘、持って行きなさいな」

 

 後でまた会いに来るわ───

 そう言って。アーテル姉さんは何処かに行ってしまった。

 傘一つ、私は押し付けられて。

 

 こんなの貰えません─────私がそう言った頃には、もう、どこにもアーテル姉さんの姿は見当たらなかった。

 

 ───傘。それは外、あるいは既知世界、あるいは未知世界では煤よけとして多く使われるという。かつての《大洞窟》でもそうだった。煤よけとして使われる事が多かった。

 

 ───けれど、今は違う。この煤よけ用の傘は違う用途で使われるようになった。

 すなわち、雨よけ。身体を濡らさずに済ますもの。この《大洞窟》では煤よけ用の傘はあっても雨よけ用のそれは無かったから。だから、本来は煤よけ用のものでさえ、雨よけに使う。

 

 ユノコスの機関は動かないから。もう、動いてくれないから。その導管から蒸気を排出することはないから。だから、この傘が花を咲かせるのは雨の時だけ。

 

 ───頭上で水を弾く音。

 

 ───ポツ、ポツと。

 

「……ふふ」

 

 無意識のうちに笑いが漏れる。いけない、これではただの変質者。

 

 ───雨は好き。

 勿論、水が供給できるからという理由もある。

 けれど……雨の日の《大洞窟》は違うから。

 いつもは人の気配なんて全くない。のに、雨の日になるとみんな水に誘われて生気を取り戻す。活気とは到底言えない活気が辺りに満ちる。

 だから、好き。自分はこの街で一人じゃない。

 確かに周りには人がいて、私と同じ様に生きているのだということを教えてくれる。

 

 ───だけど、一番の理由は、私がこの音が好きだから。水の弾けるポツポツという音が大好きだから。

 だから意味もなく、傘、クルクルと回して。

 

 ───跳ねる水滴が辺りに舞う。

 

 ───垂直に降る雨とは違う、真横に広がる軌道に乗って。

 

「……ふふっ」

 

 それを眺めて、私は歩く。再び自然と笑みを浮かべてしまう。

 

 ───あぁ、いけない。側から見たら、今の私はきっと変な子だ。

 いつもと同じ道を。いつもと違う雨の中。いつもは持っていない傘を片手に。

 

 ───歩く、歩く、歩く。

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 帰路の途中。《抜け穴》を眺めながら沿うように歩いていた最中だった。

 

 ───《抜け穴(サルース)》。

 

 この《大洞窟》唯一の縦穴。元々は中央機関街(セントラル・エンジンシティ)があったところ。大穴、底が見えないほどの。

 ツァト・ブグラが『落下』をした場所。……そして、多くの命が消えていった場所。

 

 給水所から自宅までは、どうしてもこの《抜け穴》の横を通る必要がある。どうしても。

 まるで人を誘うかのように口を開けるそれ。私はそれが嫌いだった。苦手だった。……怖かった。

 

 ───誰も《抜け穴》には近づかない。

 

 ───生を諦めたもの、以外には。

 

 生を諦めた者は、自らを終わらせるために《抜け穴》へと身を投じる。

 かつて、この《大洞窟》という現実に絶望し身を投げた人の数は、数十万にも及ぶ。

 だから、抜け穴。

 

 死をもってこの《大洞窟》を抜け出す場所。

 

 ───だから、生を諦めない者は決して近づく事はない。《抜け穴》へ行くという事は、すなわち身投げということだから。

 

 ───だから、まただと私は思ったんだ。

 その帰路の途中で見かけた、一つの人影。

 《抜け穴》の淵に立つ、男の人。背の高い人。

 

 きっと、この男の人も身を投げるために訪れたのだろう。

 それを見つけて、私は。

 

 ───また、どうしようもなく悲しくなってしまって。

 

 比較的、見慣れた光景だったのに。多くの人が救済を求めて飛び降りるのを見たのに。

 《大洞窟》で生きるのが辛くて命を散らす、その瞬間を見てきたのに。

 いつもなら、心を痛めるだけで見ないふりをしていたのに。

 

 ───その人を。雨に打たれて佇むその人を。飛び降りようとするその人を、見て。

 

 私は───

 

 

 

「……風邪、ひいてしまいますよ?」

 

 

 

 

 

 ───傘、慣れない手つきで差し出して。

 

 

 

 

 

 

 


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