赭石のイアーティス ───What a beautiful dawn─── 作:6mol
────金の目をしたあの子はだぁれ?
あの子あの子、あの子だよ。
かわいいかわいいあの子だよ。
愛らしいフィリア。
笑顔の似合うかわいいフィリア。
─────けど、誰よりも不運だったね。
愛らしいフィリア。
笑顔の似合うかわいいフィリア。
そのかわいいお顔を泥で汚して。
いっつもおなかはペコペコで。
おやつの時間もないんだよ。
─────誰よりも、不運だったね。
もう、あの子を守ってくれたママもいないんだよ。大好きなママもいないんだよ。
かわいそうにね、かわいいフィリア。
笑顔の似合うかわいいフィリア。
───きっと、誰にも気付かれずに───
あの子は終わってしまうんだよ。
物語を紡ぐこともできずに。
死ぬ事も出来ない。逃げる事も許されない。
かわいそうにね、かわいいフィリア。
それでも笑顔を絶やさない子。
偉い子。
我慢強い子。
でも、だからかな。
───ほら、また来てしまうよ。
きみが笑顔を絶やさないから。
きみが
だから─────《霧》が。全てを壊しにやってくる。血の一滴、髪の毛一本に至る全てを奪いにやってくる。
かわいそうにね、かわいいフィリア。
────あるいは。
────あきらめさえすればよかったのにね。
おバカなフィリア。
ざ ま あ み ろ 。
* * * *
瓦礫に埋もれた廃墟の中を、一歩一歩と踏みしめる音が辺りに響く。
足音の後には常に石の崩れる音が付いて回り、いかにこの道が不安定なのかを物語っていた。
しかし、足音の主はまるで家の庭を行くかのように瓦礫の上を渡って見せる。
────揺れる金髪。その隙間から覗く、褐色肌。
顔に幼さを残していながらも、どこか妖艶さしえ讃えたその容姿は精巧に作られた機関人形めいていて。
《フィリア》
それが彼女の名前だった。それが彼女に与えられたこの都市での役名だった。
瓦礫の中で1人、希望を唄う少女。
ガシャリガシャリと鳴る音は、彼女の持っている小柄な彼女には不釣り合いな程に大きく無骨なバケツから。そのバケツには、目一杯まで注がれた水が入っている。
───青い霧漂う瓦礫の中でも、彼女の翠色の瞳は迷うことなく前を見据えており……
───その瞳の輝きこそがこの《大洞窟》の希望であることを、未だ誰も知らない。
* * * *
─────トコトコ、と。
毎日歩く道をゆっくりと歩む。時には瓦礫の橋を渡って。時には崩れた柱のアーチをくぐる様に。
小石の位置一つとっても、昨日と何も変わらない。
変わらない風景。変わるはずのない廃墟。
その中を、今日も私は水汲み場から一杯に水の入ったバケツを下げて歩いて行く。
「今日は一段と人の気配がありませんね……っと」
いけない、いけない。最近また独り言が多くなってきている。直そうと思っていても、どうしても直せない私の癖。
───《崩落》で全てを失ってしまった悲しさを紛らせるための、逃避。
ガシャリという甲高い金属音で我に帰る。
私の抱えている、水の入ったボロボロのバケツ。
───少し、私の力では重い。
それでもできるだけギリギリまで水を汲んでくる。だって、これはこの《大洞窟》の生命線。
私の住んでいる家から、遠く離れた場所にある水汲み場から
1日に使える水はバケツ一杯だけ。飲み水とかも全部含めて。
私は……毎日タオルを濡らして身体を拭くのが日課だから、この水の量じゃ少しだけ少ないけど。
でも、この日課を止める気にはならない。例え『外』に比べてこの街は《青い霧》の影響であまり身体に汚れがつかないとしても。
───《青い霧》。
奇跡と呼ばれる発光気体。埃を浄化し、疫病の蔓延を防ぐ神秘の力。
《青い霧》がなければ、この《大洞窟》はさらなる地獄と化していたという確信が、ある。
人の三大欲求をも抑制させる不思議な霧。食欲も、沸かない。睡眠欲も。……せ、性欲も。
だから、この《大洞窟》では清潔をある程度保てる。……けれど。
……一応、私も女の子ですから。
女の子として、身体を拭くくらいの事はしたい。
淑女とか、そういう自覚は……ある。とある人に言われて、淑女の端くれだという意識だけは持つようにしている。
『女の子はね、どんな時でも美しく在ろうとしなければ駄目よ』
───そう、あの人に言われたから。
周りには笑われてしまうかもしれないけれど、それでも。
この日課を止める気にはならない。
─────この都市には雨も降る。地下なのに。
かつては降らなかったけれど、《崩落》後の《大洞窟》には雨が降る様になった。
それは、きっと《青い霧》の影響。天板からしたたる水滴が、稀にだけれど雨となって降り注ぐ。
そういった日は、いつもよりももっと水を使えるからいい。毎日でも降ってほしい……けれど、それはあり得ないんだろうな、と少しだけ苦笑い。
大洞窟で雨が降るのは本当にまれだから。だから、だからこそみんな有り難がる。
そうして、私は必死に水を運びながら見慣れた街を観察する。
うん、やっぱりいつも通り。
今日もこの街、『ユノコス』はいつも通り。
そう一つ頷いてから、トコトコと。
私は。
─────また、踏みなれた瓦礫の道を歩いていく。
* * * *
《大洞窟》。
《青い霧》が蔓延する、楽園の成れの果て。
石の海。
帰結する闇。
発狂の劇場。
この地下都市はいつの間にか《大洞窟》と呼ばれるようになっていた。
誰が初めにその名前を口にしたのかはわからない。けれど、気付いたらみんながその名前で都市を呼ぶようになっていた。
私は産まれも育ちもこの都市だった。
私がもっと小さい時。そう、まだお母さんも生きていた時。
私が住んでいる地区「ユノコス」はとても大きな地区だった。本当にとっても大きな。
そんな機関群からは地下内に立ち込めるほどの蒸気か休むことなく排出されていて。
「─────ふぅ」
ガシャリ、と。水の入ったバケツを地面に置いた。
水汲み場から自宅までは結構な距離がある、から……毎日やっていることでもやっぱり腕は少し疲れていて。
特に、私は非力だから。
「重い……なぁ……」
─────この水は、重い。
純粋な重量という意味でも。……それ以外の意味でも。生命線と呼ばれる貴重な水。
昔は、お母さんが水を運んでいた。
お母さんが私のために運んできてくれた水は、おそらくもっと重かったのだと思う。
───有難いと同時に、少し申し訳なく思って、心苦しい。思い出すだけでも胸がキュっとなる。
そう思いながら、私は辛うじてまだ原型を留めている自宅の扉を開いた。
自宅。そう、自宅だ。私の家。
お母さんと2人だった家。今はもう、私1人の家。
《崩落》の時に多くの建物は倒壊してしまったけれど、運良く私の家はかろうじて無事で。
だから今でも私はこの家に帰ってくる。
この、無人となってしまった瓦礫の家に。
「─────ただいま……」
返事はない。当然だ。
居間にある壊れた
そもそもこの《大洞窟》にはおよそ『気温』というものが無いから必要ないのだけど。
昔の癖でつい回してしまう。私は寒がりだったから。
─────私の家は決して裕福ではなかった。機関の使用に制限のあったあの頃は、暖房機関の使用も当然できる限り控えるべきだった。けれど、子供だった私はそんな事も知らないで母に暖房をつけてとせがんだのを覚えている。
そうすると母は、優しい笑顔で暖房をつけてくれて。
─────ああ、いけない。これ以上思い出してはダメだ。
調度の良いソファに腰掛け、静かに息を吐く。
─────ダメ。
暗くなっては、ダメ。
笑顔でいなきゃ。
笑顔でいるって、私は決めたんだから。
そうでしょう?フィリア……
水を運んで疲れた腕を軽く揉みながら、ふと窓の外を見る。
窓の外。ユノコスの中心。
かつてそこには大型の機関群が列挙し、このユノコスだけでなく《大洞窟》の実に70%ものエネルギーをシェアしていた。
《
───そして、何より。
その頃の中央機関街には『アレ』があった。
───バロック式大高楼「ツァト・ブグラ」。
まるで塔そのものが彫刻であるかのように華美で、芸術的な建築物。この街の柱。この地区の象徴。
噂では、あれは大洞窟の碩学様達のための大計算機だったという。
学校で習った気もするけれど……その……私はあまり頭がいい方では無かったから……
い、いいんです。そんなことは。
ツァト・ブグラ。
前は私の家からよく見えた。とても高い建物。それこそ、大洞窟の天井に着いてしまいそうな位。
───今はもうない、地区の象徴。
《崩落》の時に、ツァト・ブグラを中心とした中央機関街一帯は消失してしまった。
───ううん、違う。
あの一帯は《崩落》により『落下』した。
この地下都市から更なる下へ。
───地の底、 へ。
そして、ツァト・ブグラが地の底へ落ちてから……
この都市は地獄に変わってしまった。
荘厳ささえ讃えていた機関群はその機能を停止してしまい、なまじその機関の恩恵で生活を成り立たせていたユノコスは一転してパニックに陥ってしまった。
そう、電気も……水道も。ガスも。
全てがその機能を停止させて。
ツァト・ブグラの消滅は、まるで機関の恩恵を受けていた私達人類が怪現象に敗北したのを示唆しているようだった。
それと同時に他地区に行くための通路も閉ざされてしまい、外に通じていた《横穴》も同様に閉ざされてしまったのだ。
───そうしてこの街に逃げ場はなくなった。
私は当時、お母さんに縋り付くばかりだった。怖くて、怖くて。
───何もかもが怖かったのを覚えている。
抑制された食欲に耐えきれず、食料を求めて、殺人まで犯してしまう住民たちだとか。
性欲を抑えられず、婦女子に暴行を加える暴徒達だとか。
いつの間にか排出されていた不気味に漂う《青い霧》だとか。
怖くて─────
怖くて─────
ただお母さんに守られていた私は、震えているだけで。
─────何も、できずに─────
* * * *
───霧の都に、白が舞う。
あるいは、それは
崩れた街の瓦礫の中に、一つの淡い人影があった。
───女だ。
それは、白い女だった。
肌は灰色の雪よりも白く、ただただ白い。
髪も、白だ。白髪。
ただ、《青い霧》により淡く発光する瓦礫の中で、彼女の瞳だけが燃えるように赫かった。
───赫く、赫く。
地面に届かんばかりの長い白髪は、見る者によっては淡く発光しているようにも見えるだろう。この、崩れた楽園に漂う霧のように。
やや小柄な体躯をしているが、それを感じさせないような雰囲気を彼女は持っていた。その、凍えるような美貌も。
───遠きカダスの地では《禁忌の魔女》とも呼ばれる女だった。
いわく、主に西亨の合衆国でその名を轟かせる大碩学であるとか。
いわく、《発明王》を冠する大碩学に敵対して見せた反骨の鬼女であるとか。
───真実は誰も知らない。誰も彼女を語りはしない。
語るとするならば、それは───
「─────ああ、やっと始まるのね」
彼女自身、のみ───
「あの子の、あの子だけの旅路。ようやく機関が動き始める」
瓦礫に腰掛けた彼女は、硝子細工のような喉を震わせて。
「かわいい子。かわいいフィリア。あなたはきっと出会うでしょう」
「─────あの、愛に絡め取られた囚人に」
「─────あの、牙の欠けた赫い軍服に」
軽やかに笑う彼女。
その、赫い瞳を輝かせて。
「愛しいあなたに『霧』の祝福があらんことを」
おまけ
コツコツ、と。
1人の『人間』が無人の廊下を歩いていた。
─────それは、奇妙な廊下だった。
多くの管が廊下の隅、あるいは壁、あるいは天井を走り、奇怪なことにその管からは蒸気の伝達する気配が一切しなかった。
かの大碩学チャールズ・バベッジと、その他の多くの碩学達の手によって蒸気機関文明が発達の一途を辿る今、その廊下は極めて異質と言えただろう。
なにやらその管には、蒸気とは別のエネルギーが伝っているようだった。
─────三世の果ての者ならば、あるいはそれの正体が分かったかもしれない。
だが、この蒸気吹き出せし世界では、そのエネルギーは異質だった。
廊下を歩く人物は、その光景に別段驚きはしない。
既に見慣れた光景だった。
そう、この廊下の奥にある部屋の主がどのような人物なのかなど、その人間は誰よりも理解していた。
だから、迷わずに廊下を歩く。
─────すこしだけ、心を踊らせて。
暫く歩き、それはようやく廊下の奥、すなわち『秘密の部屋』に辿り着いた。
限られた人間しか立ち入ることのできない部屋。
ある男の実験室。
『人間』は扉の前で僅かばかり息を吐くと、力任せに重厚な扉を開け放つ。
その瞬間─────
目を焼くような輝きが─────