ざぶざぶと汚泥をかき分けキリトとアスナは広大なダンジョンを彷徨う。明かりは手元のランプのみ、しかし前方にいくつもの明かりが見える。あそこには何かあるのだろう。後ろのアスナが泥に足を取られぐらつく。咄嗟に手を出し倒れる事は無かったが、今まで幾度もこういった事が起きていた。気が付くとHPメーターが僅かに減っていく。すぐに解毒薬を使い毒状態を直し、二人はすぐ目の前の汚泥に浮かぶ小島に駆け寄った。腐りかけの大木に腰をかけ今までの戦闘で負ったダメージを纏めて回復する。終わりが見えない。それが二人の率直な感想だった。第一層ですら東京都以上の面積を誇る、それよりも低い層ならば一つの県を網羅する気持ちでなければ攻略など到底無理だろう。
そして、二人を精神的に追い詰める二つの要因があった。まずは敵が強い。一撃が重く、中には遠くから状態異常の霧を発生させる個体もいた。おまけに狡賢く、死体に擬態した者や死角からの投石、物陰からの不意打ち何でもしてきた。そして一番厄介なのが、鳥頭の巨人である。今までの死人とは違いその体は3Mにと届こうかと言う巨人で、体力も撃たれ強さも攻撃力も他の比ではない。さらに恐れるべき事は、どうやらその巨人は複数体いるらしい。前方でこの層のマッピングを行っていた3人のプレイヤーが4体の巨人に蹂躙されるのを二人は目撃していた。
もう一つの要因が生理的嫌悪感。この層はとにかく人の嫌悪感を誘う作りだった。上からはウジ虫や死体が混ざった汚水が絶え間なく流れ所々ある腐った木の橋や建物にはもれなく大量のナメクジやウジ虫が闊歩していた。死体にはハエがたかりこの地に清浄な所など一つも無かった。
「さあ、行こう。もう少しで明かりの所までつく。それまでの辛抱だ」
精神的に限界まで来ているアスナを鼓舞し、精いっぱいのやせ我慢で泥をかき分け前へと進む。そしてついに二人は汚泥の沼を抜け死人達の居住区へと入っていく。足場は確かにあり多少複雑な構造をしているが迷うほどの物ではないが、死人の量は確かに増えていた。群れをかき分け居住区の最奥へと進み目の前には75層で見た色のない濃霧が広がっていた。二人の前に緊張が走る。脳裏に炎にひそむ者の脅威が鮮明に蘇ってくる。もし、あの化け物が再び襲ってきたら、言いようのない不安が二人の脳内を駆け巡る。しかし、奥にはウルベインさんが待ち焦がれたアストラエアさんが、そしてユイがいる。迷いを切り裂き二人は濃霧に飲み込まれていく。
霧を抜け二人の前には幾人もの死人が一心不乱に淡い光を放つ何かを捧げていた。何かを捧げるたびに死人は恍惚の表情で悶絶する。二人は死人の脇を通り抜け最奥へと続く一本の道を歩いていた。不穏な程何もない。ただただ一本の道を行く二人の前に一人の男が立ちはだかる。全身に銀色の鎧を身に付け、背中に武器と思われる大鎚を背負い、烏賊に似た男だった。
「何故にここへ来る」
厳格でありながらどこかやさしさを感じさせる声質だが、雰囲気は拒絶を露わにしていた。
「俺達の娘のユイがここにいるはずだ。それにウルベインさんが言っていたアストラエアさんもここにいるはずだ。二人をここから助け出す」
「少女は無事だ。今は眠っているが。しかし、あのウルベイン様がアストラエア様の救出を願ったとは以外だったな」
「今すぐ二人をここから出してやってくれないか」
「それは無理な相談だな。ユイ様もアストラエア様もここをいたく気に掛けておられる。ここを見捨てる訳にはいかない」
「二人を縛り付けるつもりか!」
「縛り付けるのではない。二人は望んでここにおられる。無論、私もだ」
「それでもここでは何人も死んでる。そんな所に二人を置いていけない」
「傲慢だな。見るに堪えない」
「それでも俺は頼まれたんだ」
チャキと剣を抜くキリト、しかしイカ頭の男は武器を抜かない。
「そうして、貴様はいくつもの亡骸の上でしか己を知らないのだな」
「貴様には真実が見えていない。目の前の問題にしか映らず、物事の本質を見ていない。貴様はこの谷にとって危険な存在だ。自らの正義の元でなら殺人すら正当化する、危険な思想だ」
ズウンと大鎚を振りかざし騎士は静かに闘志を燃やす。
「立ち去れ。我々を脅かすな」