いつだったか、いつも昼寝ばかりしている黒髪の司令官が、指揮卓の上に行儀悪く両足を乗せながらこんなことを言った。
「カルネアデスの板って知っているかい?」
何気ない世間話と言った感じだった。
その場に居たのはいつもの司令部の面々で、司令官からの突然の問いの答えは当然みんなある程度知っていたが、さて誰が答えるべきだろうと軽く視線を巡らせた上で、一同の白羽の矢が立ったのは参謀長のムライだった。
無言の視線を受けて、ムライはコホンと咳払いしたのちに淡々と答える。
「緊急避難の考えのもとになった、哲学者カルネアデスの提唱した命題ですな。遭難した際にすがる板きれから人を突き飛ばして死に至らしめても罪とはならない、と」
ムライの型どおりの答えにヤンは鷹揚に頷き、そして自らも言葉を繋いでいく。
「うん、そうだね。でも私達軍人や、人命救助に当たる救急隊員とかはその限りじゃないんだよ」
「国民の命を守り預かる職務上、当然のことでしょうな」
「じゃあこれが軍人同士とかだったらどうなるんだろうねえ」
「は?」
急に妙なことを言い出した司令官に、その場の一同は顔を見合わせるが、その後、誰がどのような返答を返したのか、それとも答え自体出ず終いだったのか。
後日になって思いだそうとしても、どうしても思い出す事はできなかった。
そんな些細な出来事を気に掛ける余裕も無いほどに、宇宙暦797年初頭におけるイゼルローン要塞は多忙を極めていた。いや、事務部門に集中して多忙だった。帝国軍との捕虜交換が行われるせいである。
イゼルローンに帝国軍の捕虜200万人を収容し、それを帝国に引き渡して、代わりに同盟軍の帰還兵200万人を受け入れる。
言葉にすれば簡単だが、帝国軍捕虜を連れてくるための艦艇、収容した後の逗留場所、彼らに配布する食料と、それに付随して想定される事象は数限りなくあり、それらが全て事務部門、ひいてはそれを統括する要塞事務監アレックス・キャゼルヌにのしかかってくるのだ。
大変な重圧であり仕事量だが、それでも事務処理の達人を謳われるキャゼルヌに取ってはいつもより少しやっかいだなとうそぶける程度なのが恐ろしい。
粛々と、そしててきぱきと確実に仕事をこなし、キャゼルヌは遅滞なく業務を進めていった。他の部門の責任者はただそれを見守るばかりで、とても手を出したり貸せたりできるものではない名人芸ぶりである。
そんな作業工程をただひたすら見守っていたある日、要塞防御指揮官であるワルター・フォン・シェーンコップは、そのキャゼルヌからご指名を受け、中央指令室ではなく要塞事務監個人に割り当てられている執務室へと呼び出された。
「フォン・シェーンコップ参上いたしました」
常の通りの芝居かかった口調に不遜な表情をのぞかせて、シェーンコップが入室する。
キャゼルヌは彼のそんな態度をいつものことと流して、相手に席につくよう促し、早速用件に入った。
「要塞防御指揮官である貴官に、要塞内の警備のことで相談がある」
「帝国側の捕虜と、それを受け取りにくる帝国軍に対して何かご懸念でも?」
捕虜交換に関しては、帰ってくる同盟側の捕虜の中に工作員が紛れ込んでいる可能性をヤンから示唆されてもいたし、そもそも捕虜交換とはいえ敵戦艦がこの要塞内に堂々と入港できるのだ。万が一を考え、それに応じて様々な対策を考えておくのは当然のことだろう。
だからこの呼び出しも、そういった事に関する話だろうかと身構えたシェーンコップだったが、キャゼルヌはその問いに軽く首を振って否定した。
「そちらの方はあまり心配してはいない。帝国軍捕虜の方は一刻も早く故郷に帰りたかろうし、受け取りに来る方もトラブルはごめんだろう。細かなところはともかく、おおむね大人しく済むものと思っている。ヤンが言っていた工作員の件にしても、俺達如きが200万人の中に砂粒ほどに紛れ込んでいるそれを、事前に発見するなんて不可能だ。ヤンが言うように捕虜交換を隠れ蓑に別口で入り込まれる可能性の方が高いだろうし、そういうのを見つけ出すのは諜報部の仕事だ。辺境で国境を守る要塞勤務の俺達の仕事じゃない」
「それでは要塞事務監殿のご懸念は一体なんでしょう」
「そりゃもう、敵方の捕虜じゃないとしたら、もう一方の捕虜しかいないだろう?」
「敵よりも厄介なのは無能な味方、ということですか」
「俺は別に連中を、帝国軍の捕虜になったことを責めたり、捕まったことで無能だと言いたいわけじゃない。俺はそっちの方は全く問題にしていない。ただ、今回の捕虜の中には特大に厄い連中が混ざっているんだ。いや、普通なら同盟軍のほとんどの人間には無関係なんだが、我がイゼルローンの頂点たるたった一人にだけは強い因縁を持つ」
「なんです?」
「―――エル・ファシルで帝国軍に捕まった捕虜さ。今度の捕虜交換で大半が戻ってくる」
シェーンコップが眉をぴくりと動かしてわずかに緊張の色を見せた。
その特定の星系の名は、このイゼルローンのあるじたる黒髪の司令官が、この要塞を陥落せしめて魔術師の名を冠されるまで、その名を飾る形容詞として長らく使われ、魔術師の最初の武勲として華々しく喧伝され、知らぬものはほとんどとしていない固有名詞である。
ゆえに、ヤン・ウェンリー中尉によるエル・ファシル脱出行のおおよその経緯はシェーンコップも説明されずとも知っており、その奇跡の道程を脳裏に思い描いた後、ふんと鼻をならした。
「新米中尉に厄介事を押し付けて、民間人を見捨てて逃げた連中がドジを踏み、帝国に捕まって捕虜収容所で九年間辛酸を舐めた後、ようやく故国へ戻ってきて国境の巨大要塞で初めて見るものが、かの新米中尉が大将閣下にまで出世している姿だったからといって、それがなんだというのです? 全く同情できませんな。自業自得でしょうに」
「ああ、確かに貴官の言う通りだよ。全くの正論であり、真実だ。それが当の本人の心にもちゃんと響いていればどれだけいいことか。だが人間なんてそんなもんだ。人が他人に抱くイメージの八割はほとんど第一印象で決まっちまうんだ。今や同盟の大半の人間がヤン・ウェンリーを初めて知る時は『エル・ファシルの英雄』『アスターテの英雄』『魔術師ヤン』『ミラクル・ヤン』という二つ名ともれなく二人連れだ。まずそれで刷り込みされる。だからその後で万が一、司令官室で昼寝ばかりしている奴を見てしまったとしても、驚きはするし幻滅はしても、それでもヤンの華々しい業績の印象はやっぱり薄れないだろう。でもな、当時のエル・ファシル駐在部隊の連中だけは数少ない例外だ。あいつらが知っているヤンは、無為徒食に堂々と甘んじて、仕事がないのをいい事にぼけっとしているだけの『ごくつぶしのヤン』なのさ。その第一印象はよほどのことがなきゃ抜けやしない。そのごくつぶしが大将閣下として目の前に現れて、自分達は捕虜生活で昇進も昇給も停止されて九年前のままの位階だ。これで心にドス黒いものがちらとでも湧かない人間はそうはいないだろうな」
キャゼルヌの口から吐き出される辛辣な事実の羅列を聞いても、シェーンコップの冷笑は塵ほども変わらない。軽く肩を竦めると、キャゼルヌ以上に辛辣な言葉のつぶてを、この場に居ない連中に向けて吐き捨てる。
「は! ちょっとでも想像力があれば、本当のごくつぶしが九年間何もせずに大将閣下になれるほど、我が軍が甘いはずはないと思い至りそうなものですがね。大将になれたのはなるに相応しい功績をあげたからであって、そいつらとヤン提督の立場がエル・ファシルの時点で逆だったとしても、そいつらにアスターテの劣勢を挽回できたり、イゼルローン要塞を攻略できたとはとても思えませんな」
「ああ、実に正しい。ぜひエル・ファシル帰りの連中に、貴官の口からそれを言い聞かせてやって貰いたいものだよ」
「なるほど、その言い聞かせが小官の任務でしょうか?」
「半分当たりで半分外れだ。おかしなことをしでかさないよう見張っていて欲しいのは確かなんだが、なにせ人数が多すぎる。部外秘になっている当時の軍籍名簿を掘り出してきて、今回の帰還者リストと照らし合わせてピックアップしたものの、名前しか手がかりがなくてな。悪いが同姓同名の無関係者もかなり混ざっていると思ってくれ。で、そいつらを一か所にまとめすぎるのも怖いから、要塞内で寝泊りする場所を三か所に分けて、その上で固めておいた。あとでその区域図とリストを渡すから目を通しておいてくれ。そいつらをお前さんと薔薇の騎士連隊でそれとなく注意して見張っていて欲しい。だが問題はこれが我が軍の人間だってことだ。帝国軍側の捕虜と違って、要塞内における行動の自由の制限はできん。食事時間や門限や消灯時間などを設けて、ある程度のパターンに押し込める努力はしてみるが、それでも基本は野放しだ。長い捕虜生活で鬱屈していた連中は、解放された喜びから要塞内の盛り場に繰り出すだろうな。いつもの商売にプラス200万人の特需で、商業エリアの店主達も手ぐすねひいて待っているだろうから、それを禁じて連中と折り合いを悪くするわけにもいかん。悩ましいところだ」
「小官としても、後日改めて飲みに行った時に、それに関して苦情や八つ当たりを受けるのはご免こうむりたいですな。アフターファイブくらいは仕事を忘れたいものです」
「そうなると、問題の帰還兵達全ての行動のチェックや監視はほぼ不可能と考え、この方法で事前に事が起きるのを防ぐのは無理と判断したほうがいい。それよりかはもっと効率的な警備方法を考えるべきだ」
「つまり、襲撃対象であるヤン司令官一人の行動監視をした方が手っ取り早いと。具体的な方策としてはまず何から始めます?」
「うむ。まずはヤンの行動をそれとなく制限する。具体的には奴に上げる書類で、至急の決裁が必要無いものを、今からちまちま溜めているところだ。これを捕虜交換が始まったら一気に放出して奴を司令官室に職務的に拘束する。帰還兵の行動の制限はできないが、それでもここの中央指令室や司令官室に彼らが気軽に入り込めるほど、うちの警備はザルじゃない。この二つの空間に籠っている限りはヤンと例の連中を鉢合わせさせずにすむ。あとはグリーンヒル大尉やユリアンに協力してもらって、仕事が終わったら家に直帰させるように仕向ける。基本は中央指令室と司令官室と自宅の往復しかさせんつもりだ。実際、ヤンの日常は大抵がそんな感じだから、そうなってもあいつは気がつかないだろうし、特に不満もないだろうよ。それでもたまに外に飲みに行きたがるようなら、そこでお前さんの出番だ。ヤンに張り付いて妙な所には行かせないようにしろ。さっきも言ったように盛り場は帰還兵がうろうろしているだろうから、基本的に近寄らせるな。秘蔵の酒があるとでも言って宅飲みに誘え。なんなら、ボトル2、3本くらいなら経費で落としてもいいぞ。俺の権限で領収書を通してやる。人手が足りなきゃアッテンボローを巻き込んでもいい。とにかくヤンを一人にしないでくれ。この方法なら、かなりの高確率であいつの安全を確保できるだろう。頼んだぞ、要塞防御指揮官殿」
「拝命しました、要塞事務監殿。しかしそういう方針で行くのなら、そんな迂遠な事までしなくとも、当の本人に司令官室から一歩も出るなと一言釘を刺すだけでもよいのでは?」
「それは俺も考えた。だがな、あいつの天の邪鬼な一面を考えると、そう言うことでかえって意地にさせてしまい、逆にやたらと出歩きたがるようになるかもしれん。さっきも言ったように、この警備方針は、お前さんがいつもよりヤンに張りつくくらいで、それ以外はヤンの日常からそう外れたものでもないんだ。だったらあいつを下手に刺激せずにうまく乗せた方が、成功の確率は上がると俺は踏んでいる」
「なるほど。そういう事なら致し方ありませんな、了解です。…そう言えば、そもそもの発端であるエル・ファシル駐在部隊の司令官、アーサー・リンチとか言いましたか。その男は今回の捕虜交換には?」
ヤンへの逆恨みが一番強いだろうことが想定できるだけに、ことさらにシェーンコップの警戒心を引いたが、キャゼルヌの返事はあっさりしたものだった。
「最初から帰還者リストに名前が無かった。さすがにおめおめと帰っちゃこれんだろう。お前さんも知っているくらい悪名が轟いているからな。…逆に言えば、軍はあの当時からエル・ファシルの不都合は全部、アーサー・リンチ一人に集中させるよう報道から何から誘導していたんだ。あの時のヤンに対する過剰な英雄扱いもその裏返しでな。だからエル・ファシルに関してはこの二人以外の名前は強調されない。それ以外は逆に隠されているくらいさ。さっきも言っただろう? 当時の軍籍名簿は部外秘だって。軍関係者以外は閲覧できないんだ。だから一般にエル・ファシル駐在部隊の構成は分からないようになっている」
「なぜと聞いてよろしいですかな?」
「そりゃあ、そいつらの家族にまで非難が及ばないようにさ。実際、アーサー・リンチの家族には当時ひどいバッシングが浴びせられたそうだ。夫人や子供たちは到底それに耐えきれず、離婚して名前を変えて引っ越して、なんとかそれから逃れられたようだが、今もばれないようにと息を潜めながら生きていることだろう。どうしようもできないとはいえ、気の毒なことさ。そういう関係者はこれ以上増えない方が良いに決まっている。だから軍はエル・ファシル駐在部隊の詳細を非公開にしている。軍の、身内を庇う体質と言ってしまえばそれまでだが、これくらいの庇い合いは許して欲しいもんだ。今回お前さんにはエル・ファシル駐在部隊の帰還兵とおぼしき人間のリストを渡しはしたが、取り扱いにはくれぐれも気をつけてくれよ。向こうの方だって、好き好んでエル・ファシル帰りを公言したりはしないだろうし、ばれないよう気を使ってもいるだろう。だから大半は大人しくしているはずだ。そうやっている限りは、それとなく見張るだけにしておいてやってくれ」
「重ね重ね了解しました。…あ、あとそれからもう一つ」
「何だ?」
問いを重ねて投げかけてくるシェーンコップに、キャゼルヌが怪訝そうな眼を向けるが、質問に応える気持ちは失っておらず、さあなんだと目で問いかける。
「人が他人に抱くイメージの八割はほとんど第一印象で決まるそうですが、あなたのヤン・ウェンリーに対する第一印象を伺いたいですな」
なんだそんなことかとキャゼルヌは肩を竦め、面倒臭そうに答えを返す。
「俺が覚えているヤン・ウェンリーの最初の姿は、下校時刻になっても寮に帰らずぐだぐだと図書室に居残り続けて、職員の手を煩わせる困った生徒ってところかね」
返された答えにシェーンコップは口角を上げ、くすりと笑った。
「なるほど、確かに第一印象というやつはのちのち尾を引くようですな」
手のかかる生徒と、世話焼きの学校職員。
立場も変わり、階級が逆転しても、その姿勢が現在も全く変わっていない。今もこうやってキャゼルヌは粗忽な後輩の身を案じてあれこれと画策し、世話を焼き続けている。
ま、これはこれでうまくいっているので変える必要も変わる必要もないのだが、変えてもらわないと困る一団がイゼルローンに迫りつつある。さて、そいつらは現在のヤン・ウェンリーをどのように捉え、そしてどのような態度を取るのだろう。
答えはいまだ未知数だが、どんな事態になったとしてもあの黒髪の司令官を守り抜く事を密かに心に誓い、シェーンコップはあらためてキャゼルヌに向けて敬礼をすると、執務室を後にした。
―――夢を見ていた。
嵐の海。逆巻く波濤。荒々しい波に揉まれ、一人の男が水底に沈むまいと必死にもがき泳いでいた。藁をも掴む思いで、板きれの端に手を掛ける。
男がわずかに安堵したのもつかの間、自分は男のその手を板きれから引きはがし、その身を再度水の上に放り出す。
わずかな希望を打ち砕かれ、その表情に絶望を張りつけて、男は信じられないという目を最期の瞬間まで自分に向け続けたまま、波の下に沈んでいった。
男が沈んでいった波間を見つめ、そして自分の両手へと視線を落とすと、その手はべっとりと血で濡れていた―――。
「――――!」
不快な夢から一瞬で現実に引き戻される。
耳元では時計のアラームが鳴り響き、部屋の外では養い子が朝食の支度ができたと呼びかけている。
明るく邪気のないその声を耳にして、わずかに救われるような思いと、その無垢な魂に到底釣り合わない自分を引き比べ落ち込む自分が交差する。
ヤンは頭を一つ振り、暗い思いを一旦振り払うと、ベッドから降りて朝食の席に向かった。
捕虜交換は、事前の準備も大変だったが(主にキャゼルヌが)実際に実施されても慌ただしい日々が続いていた。
帝国軍の艦艇の取り扱いでああでもないこうでもないと揉めたり、政治家達が人気取りのために1カ月近い旅程をものともせずに要塞に押し掛けてきたり、あげくに受け入れた同盟軍の帰還兵は、引き替えに去っていった帝国軍の捕虜よりお行儀が悪いときている。
キャゼルヌが懸念したように、帰還兵達は捕虜生活の鬱屈から盛り場に繰り出し、そして酒が入ったことでより気が大きくなって、あちらこちらで乱闘騒ぎを起こしている。
これには憲兵だけでは要塞内の治安維持の手が足らず、薔薇の騎士連隊まで借り出される始末だ。
元々、キャゼルヌから帰還兵の、特にエル・ファシル関係者の動向をそれとなく見張るように頼まれていただけに、帰還兵の行動範囲近辺にたむろせざるを得ない以上、手伝いも仕方ないと、薔薇の騎士たちは連日彼らが起こす喧嘩の仲裁に走り回っていた。
要塞防御指揮官としてその連隊を統括するシェーンコップはというと、ヤンの身辺警護が念頭にあったため、最初のうちは中央指令室を空ける事は無かったが、それでもキャゼルヌが宣言したように、捕虜交換が始まった途端、ヤンのデスクはあっという間に書類で埋め尽くされ、中央指令室にいなければ司令官室に籠り切りになっており、グリーンヒル大尉の手を借りながら書類の決裁に四苦八苦させられていた。
司令官のこの様子を見たシェーンコップは、所在確認だけで大丈夫だろうと判断し、朝夕に中央指令室に顔を出してヤンの姿を確認するにとどめて、主なお目付役をグリーンヒル大尉に任せることにし、自身は騒がしくなった要塞内の騒乱を鎮めることに専念するようになっていった。
ヤンの方はと言うと、書類の山に埋め尽くされてはいても、それでも断固として残業はしたくないらしく、定時になった途端に席を立ち、残りの書類はまた明日と言う事でそそくさと帰りだす。
しかしこれはこれでシェーンコップに取ってはありがたかった。定時になる数刻前に中央指令室か司令官室に戻ってくるだけで、ヤンの行動を容易く補足できるのだから。
定時になったら帰ろうとするヤンにさりげなく声をかけて行き先を確認し、お供しますよと言い添えてごく自然に移動中の警護をこなす。
今日も、ユリアンが夕食の腕を振るって待っているからと言われたとの理由から、ヤンは素直に自宅に直行するようで、中央指令室から自宅フラットまでの短い経路ではあったが、シェーンコップと同道する事になった。
「悪いね、准将」
2、3日続けて同じ人物が同じような行動を取れば、私生活では鈍感極まりないヤンでもさすがに気付いたようだったが、既に要塞内で帰還兵達が何かと騒ぎを起こしていることは知っていたため、エル・ファシル絡みとまでは思い至らずとも、身辺を心配されているのだと理解し、シェーンコップのさりげない警護にも特に異を唱える事は無く、黙ってそれを受け入れているようだ。
今日のところも、何の差し障りも無く自宅の玄関前までヤンを送り届け終わり、彼がただいまの声と共に扉の向こうに吸い込まれたことを確認すると、シェーンコップはアフターファイブの飲み食いも兼ねて商業エリアに足を向けた。
今の商業エリアは乱痴気騒ぎに明け暮れる帰還兵達でごった返し、日中も酔っ払いが横行してそれはもうひどいものだったが、夕刻は夕刻でそれに輪を掛けてひどくなるのだ。
今も酔漢達の取り締まりに四苦八苦しているだろう薔薇の騎士連隊の仲間達の苦労を思い、それに手を貸すべく、シェーンコップはさながら戦場に向かう時と同じ足取りで、目当ての場所へと歩を進めるのだった。
キャゼルヌは、帰還兵達の行動を食事時間や門限や消灯時間である程度コントロールしたいようなことを言っていたが、長い捕虜生活で鬱屈し荒んでいる彼らには無駄、無縁のものだったようで、日付も変わるような深夜になったというのに、無軌道な馬鹿騒ぎは一向に終息する気配を見せない。
酒を飲んで暴れる者、そこいらに嘔吐する者、女性と見れば玄人だろうが素人だろうが相手構わず絡んで横暴な振る舞いに及ぼうとする者、些細な事で激昂し兵士同士で乱闘を始める者…枚挙にいとまがない。
憲兵も薔薇の騎士連隊も、最近ではもう面倒臭くなってきて、暴れる酔漢達を片っ端から制圧して捕まえると、流れ作業の如くそのまま捕虜用の収容施設に次から次へと放りこんでいた。この方が手っ取り早いのである。
けばけばしいネオンの灯りの下、今夜のシェーンコップの酔漢撃破の戦果もそろそろ二桁に届こうかという頃合いに、視界の端に見慣れた黒髪の後ろ姿を捉えたような気がした。
「――――!?」
こんな場所に居るはずの無い人の存在を見咎めて、シェーンコップは慌てて視線をそれと思しきところへと向けたのだが、そこには既に人影も何も無く、盛り場にありがちな雑然としてゴミっぽい路地が広がるだけだった。
気のせいだと思う事は簡単だった。しかしあまたの戦場を駆け抜けてきたシェーンコップの勘が、けたたましく警鐘を鳴らし見過ごす事を許さなかった。
懐から携帯端末を取りだすと、慣れた手つきで要塞司令官宅に呼び出しをかける。
出てきたのはいつも通りのユリアン・ミンツで、彼の口からヤン提督の在宅を保証してもらえばシェーンコップの些細な不安も即座に解決しただろうに、やはりというか事態はそんな簡単にはいかなかった。
『――――ヤン提督ですか? 一旦家に戻られた後、グリーンヒル大尉から連絡があったとかで、また出て行かれました。家電? いえ、連絡は提督の端末に直接でしたので、そのまま提督が通話に出られて、内容も何も僕は直接は聞いていないんです』
不在ではあっても、理由は一応穏当なものではあったが、シェーンコップは少しも安心することができなかった。それどころか、ますますもって胸中がざわつくのを抑えられない。
シェーンコップは気もそぞろに、ユリアンに礼を言って端末を切ると、今度はグリーンヒル大尉の端末にかけてみるが、呼び出し音が空虚に響くばかりで、一向に相手が出てこない。
彼女の性格からしても、所在確認や緊急呼び出しが常に伴う軍人という職務上からも、これは有り得ない状況だった。やはり何かがおかしい。
次にシェーンコップは中央指令室に連絡を取り、グリーンヒル大尉の所在確認を依頼した。
ヤン提督はグリーンヒル大尉からの呼び出しで出かけていったということなのだから、普通なら仕事上のことだと考えていい。そうであれば彼女もそれに呼び出されたヤン提督も中央指令室か司令官室にいるということになる。
だが、そうであってくれと願うシェーンコップの焦燥とは裏腹に、期待通りの答えが返されることはなかった。
『グリーンヒル大尉はヤン提督が帰宅された30分後に、ご自身も自宅に戻られました』
オペレーターから告げられたその言葉に、シェーンコップは一瞬思案する。
アフターファイブに一旦帰宅した後、フレデリカ嬢がかねてよりの意中の人を呼び出し、プライベートで逢引きしているという可能性も1ミクロンほどはあるかもしれないと考えて、すぐさま、今この時期にそれはないなと一瞬で却下した。
グリーンヒル大尉も、エル・ファシルの帰還兵からの逆恨みの可能性を聞かされているし、ヤン提督の行動をそれとなく制限する計画にも協力している。そんな中でわざわざ提督をふらふら歩きまわらせるようなことをあえてするわけがない。
シェーンコップはほとんど直感的に、今度はグリーンヒル大尉の自宅に掛けてみた。これも繋がらなければ正直お手上げだったが、今度は素直に繋がり、拍子抜けするほど穏やかなグリーンヒル大尉の声が端末を通して聞こえてくる。
『はい、グリーンヒルですが』
「大尉、今、ご自宅なんですな?」
『はい』
「ヤン提督はそちらに?」
『え? いえ…』
噛み合わない会話に、シェーンコップの勘という名の警報が更にけたたましく鳴り響く。
「ユリアンが、提督はあなたからの呼び出しを受けて自宅を出たとの話なのですが、お心当たりは?」
『え!? いえ…! 私は中央指令室で提督の帰宅を見送った後は、特に何も…。ええ、呼び出しなどしておりません…!』
由々しき事態が、具体的な輪郭を帯びてその形を浮かびあがらせようとしている。
今すぐ飛び出して、闇雲にでもヤンの姿を探しまわりたいと逸る心を抑え、シェーンコップは質問を続けた。
「小官は先ほどそちらの端末に掛けたのですが、応答がありませんでした。グリーンヒル大尉、端末はちゃんと携帯しておいでですか?」
『え、ええ…もちろん、ジャケットのポケットに…あら…?』
「どうなさいました!?」
逸る心を抑えきれず、大尉に問いかけるシェーンコップの語尾は自然と跳ね上がってしまう。
『これ…機種も、見かけも同じですが…違います…私の端末ではありません…いつの間に…?』
「――――!! 失礼する! 大尉!」
辞去の言葉もそこそこに、シェーンコップは慌ただしくグリーンヒル大尉との通話を切ると、今度は要塞事務監の直通番号に急いで掛け直す。
『はい、こちらキャゼルヌ…』
通話に出たキャゼルヌが名乗り終えぬうちから、シェーンコップは息せき切って用件を告げた。
「少将! 今すぐあなたの権限でグリーンヒル大尉の端末の所在特定をして下さい!」
『お、おい、どうした…』
「グリーンヒル大尉の端末が盗まれて、それを使ってヤン提督が呼び出された可能性があります!」
盗難という穏やかならぬ手段を使っている以上、その呼び出しの目的が全うなものであるとは考え難い。キャゼルヌもすぐにその可能性に気付き、通話の向こうで表情を強張らせる。
『―――! 分かった、すぐに調べさせる。特定出来たら折り返しそちらに連絡するから、今のうちに薔薇の騎士連隊を招集しておいてくれ』
「言われずとも、承知の上です」
キャゼルヌとの通話を終わらせるやいなや、シェーンコップは今まで立っていた盛り場の片隅から脱兎のごとく走り出し、近くで酔漢達の制圧を続けているだろう部下たちを可能な限り呼び集めた。