オーバーロード ―さまよう死霊―   作:スペシャルティアイス

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第十八話

頭を下げる死霊トライあんぐる、そして主の言葉が玉座の間に木霊した。

 

「彼はこれより、ナザリックの同盟者である」

 

この言葉に、僅かな動揺が幾人の守護者らから発せられた。三者、守護者統括・防衛責任者・宝物殿領域守護者を除いて。

純白の悪魔はその死霊を見やる。その心中の嫉妬を覆い隠して。

 

(アインズ様と二人っきりで密談だなんて、なんて羨ましい!!……まあアインズ様に相応しい者が私だと見抜いた眼力にあの力、見どころもあるわけだし引き込んでおきたいわね)

 

アインズへと頭を下げた後、死霊は振り返って各守護者らに礼を繰り返す。腰が低く自尊心が低そうな、悪く言えば卑屈だが、闘技場で見せた根源精霊たちを圧倒した姿を考えれば油断はできないだろう。

 

「おぉ!新たなる同志の誕生に私は感涙を禁じ得ません!!トライあんぐる殿、共に手を取り合い、アインズ様とこのナザリックのため頑張りましょう!」

 

真っ先に言祝いだのは軍服のドッペルゲンガー、パンドラズ・アクターだった。手を広げ感激したかのような姿は胸襟を開いたと傍目から見えよう。

しかしその真意は別のところにある。

 

(本当に、道化の皮を被った知恵者ね……。この玉座の間、守護者らの集まったこの場でその返答を迫るだなんて。言わば“踏み絵”、しかもその文面はまるでアインズ様が上であるという牽制のような言い回し。否定や嘘の返答が出れば、即座に見破れる者が揃っているのも仕掛けた理由なのでしょうけど)

 

アルベドの内心を他所へ、パンドラズ・アクターの言葉にトライあんぐるの靄顔が緩む。アンデッドではあるがどうにもこの死霊の内心は表情に現れるようだ。

 

「いやはや、そう言ってもらえると嬉しいですわ!まあ微力ではありますが、皆さんよろしくお願じますっ」

「(今の噛んだよね)」

「(か、噛んじゃったのかな)」

「(噛んだでありんす)」

 

双子と吸血鬼の守護者らは、誤魔化すように腰を深く折った礼をする死霊を半眼で見やる。

頭を上げた死霊はご機嫌な様子だが、よく見るとどこか疲れた様子が窺えた。これは彼が、第八階層からアインズと共に第七階層で待機していた守護者らの目の前に転移してきた時から感じられたものだ。

無傷ではあったが、まるで広範囲攻撃を幾度も浴びせられたかのような様相、その姿を悪魔は眼鏡越しの宝石眼で見つめていた。

 

「(……虚言は感じられず、心底からの言葉ですね。というか彼は腹芸ができない、むしろ心理状況によって思ったことをつい口にしてしまう短簡な性質のようだ。でなければあのような場であのような真似、謀言としても三流なことはできないでしょう)」

 

そしてそのくたびれた姿の理由は戦闘、蹂躙。容易に想像できた。

二人が進んだ八階層は逃げ場がなく、死霊の得手を封じられる空間であり、アインズによってあるかもしれない翻意の心を徹底的に折られたのだろう。

その証拠に、トライあんぐるのアインズを見る目は強い尊敬の中にも畏れが感じられるものだった。

 

「(しかし同格らしい“ぷれいやー”を半刻程度で恭順させるとは、流石アインズ様。そして我が主のこと、すでに彼の首元には鈴を付けておいででしょう)」

 

おそらくは死霊に気取られることなく、である。ならば迂闊に臣下からそれを指摘するは不覚、事前にアルベドとパンドラズ・アクターを除く者たちに言い含めておいたのは正解であった。

己の主人への心酔をさらに強めるデミウルゴスの視線に気づくことなく、アインズはトライあんぐるへ向き直る。

 

「さてトライあんぐるよ。お前の部屋だが」

「アインズ様、できれば俺はナザリックの第一階層か表層にいさせてもらえませんかね?」

「む、何故だ?」

 

ここまでの会話でわかるように、アインズとトライあんぐるの口調は上下の気配を感じるものだった。これはトライアングルからの提案だ。

 

『いくら同盟つったって、俺とアインズさんのもってる資源(リソース)から考えて同盟とはいえませんよ。会社的に考えるなら俺がアインズさんという社長にヘッドハンティングされたようなもんです。そんな奴が社長と同格な態度とってたら組織に悪影響しかありません。なので二人っきり以外は、俺のことは体のいい門番の立場と思ってください』

『理屈はわかりますけど、せっかく協力してもらうのにそういう扱いは……』

『ていうか俺を思ってここは一つ。……もう組織内でハブられるような要因は極力、限りなくゼロにしたいんですマジで』

『アッハイ』

 

第八階層での最後の意見調整で出たトライあんぐるからの申し出はこのようなものだった。

 

「あそこの空間落ち着くんですよね。あと俺、頻繁に外出すると思うんで外に近い所がいいんです。それに、墳墓に侵入してきた奴いたら俺が憑依して監視も出来ますし」

「……お前がそう言うなら許そう」

 

『GvGで拠点に入った途端に敵が身体に潜むとかってなにそれ怖い』

『悲しいけどそれ(GvG)、戦争なのよね』

 

そんな念話を行う二人だが、このトライあんぐるの選択は正解だった。

新参である彼がアインズの提案に乗って第九階層の皇家套房(ロイヤルスイート)の一部を占有しようものなら、絶対の主に否と言わずともその内心にわずかながらの黒いものを抱える従僕たちが生まれたであろう。

かの階層より先は四十一の至高の御方と、それに仕える純然たるナザリックの下僕のみが足を踏み入れるに相応しき聖域なのだから。

 

「それなら私とはお隣さんのようなものでありんす。トライあんぐる殿、よしなにしておくんなまし」

「俺のことは呼び捨てで結構ですよ?」

「……それなら、私のことも呼び捨てで構わなんし。強者には敬意を払うべきでありんしょう」

「私モソレデ構ワナイガ」

「えーっと、俺は直参でもないわけですから、皆さんのことは“さん”付けさせてもらえれば」

 

アウラやマーレは不思議そうな目でトライあんぐるを見ていたが、彼からすればこの場は未だアウェーなのである。

そのような場の知り合って間もない他人―NPCと言ってもトライあんぐるからは一人の他人の感覚―へ呼び捨ては憚られた。

たとえば仕事で知り合った仲の良い同年代の社長、その社員に対して生意気な口を聞けるかと問われれば大多数は否と答えよう。

といってもトライあんぐるとしてはこれでもかなり砕けた風を装っているのである。一人称を私から俺に変えたことからもそれが窺えた。

守護者らから考えれば、アインズと同格らしいプレイヤーであり、相性はあれど高レベルモンスターの群れを容易に殲滅した強さを認めての態度であろう。

であるのでトライアングルの申し出はさしたる抵抗もなく認められた。しかしここでアルベドはハッとする。

 

(まさか、こうなる結果をアインズは読んでいらっしゃった?私が彼を警戒していることを見抜いたがため、誘導させ、彼の強さや弱点などの情報を集め、引き入れた後のことも想定して……?)

 

己が主の智謀は天を昇る龍のように天井がない。もしかしたら自らの普段の生活や態度、言動までも主人の想定内を辿っているのではないだろうか?地底湖から闘技場、そして第八階層の会談からここまでの全ての流れが偉大なる御方の考え通りだったら?

己が主に繰糸で操られる妄想に我知らずアルベドの下腹に火が灯る。

 

「にしても、みなさんは本当にアインズさんが大好きなんですねぇ」

 

そう言った死霊は純白の小悪魔を見て、次いで他の者を見回す。これはトライあんぐるであってもわかるほどにアルベドの情念が表出していたこともあるが、他の者らからも多少それが漏れ出ていたのを感じたからだ。

トライあんぐるは一つの疑問の解をようやく得た。彼らの外見と態度が一致しないこと、自分が真似出来ないほどに行動や思考に淀みが無いかと思えば、まるで子供のように、アインズが関われば態度が変わること。

 

(なるほど、これがアインズさんが言っていた実体験に基づく経験値の乏しさか)

 

彼ら守護者はこの異世界の生物に比べれば恐るべき力を有する。しかし潜在能力を有するかといって“使いこなす”こととそれが同義ではない。

アインズとの会談という雑談の折、そのようなことを彼が一瞬だけ漏らしていたことにようやく合点がいった。

高度な知能を有する設定の三者は除くとしても、他の者らは能力値は高くともAIは未熟らしいというのが結論であった。

まあそんな彼らでも、真っ向勝負をすればトライあんぐるの勝ち筋は五割以下であるが。

 

「当然よ。このナザリックに至高の御方、アインズ様を厭う存在なぞありえるはずがないわ」

 

そう言って死霊を射抜かんばかりの眼光を発すアルベドは鬼神のように恐ろしく、女神のように美しかった。

他の守護者らも同じ様相で、全てはただ一人の存在へと捧ぐ忠誠、献心と言い換えてもいいがそれ故だろう。

 

「……素晴らしい。それほどの忠節を受けるに相応しい大器、傍にいればまこと愉快なことになりそうだ」

 

そう呟く死霊の顔は笑みを描いていた。

 

 

 

雲間から射し込む日差しがその都市を照らしていた。その町並みは“王国”のような中世欧州のように雑多でもなく、“帝国”のように喧騒に溢れたものでもない。

定められた都市計画の下に築かれたであろうそれは、円形の外郭に碁盤の目のように建築物が立ち並んでいた。

街を往く人々には陰鬱とした色はなく、かといって溢れんばかりの活気に満ち満ちているわけでもない。

それはかくあるべしという教育の成果ともいえよう。この都市に住まう人々は六大神が一柱の言葉、“公共の場で騒がしくしてはいけない”という教えを忠実に守る信徒であるがため。

その街並みを行く人間の歩く先は街の中央、広大な敷地に立ち並ぶ建築郡。火や水を始めとした人類を守護し給う神々へ信仰を捧げる場所だ。

その敷地の中央に近づけるものは少なく、何故かといえばそここそがこの都市の、スレイン法国の中枢であるためだ。

そこにそびえるは白亜の大神殿、その最奥の扉の中に集まる者たちは沈痛な、ある者は目を真っ赤に腫らせて椅子に座っていた。

 

「まさかカイレ殿を失うとは……」

「表に出すことは出来まい。彼女は民に愛される方だった。それがこのような形で……ッ」

 

皺が深く刻まれた相貌を悲しみに陰らせた水の神官長―ペレニス・ナグア・サンティニ―の呟きを、ふくよかな女性である火の神官長―ジオディーヌ・デラン・グェルフィ―は怒りを堪えきれぬ様子で追従する。

 

「たしか、護衛の漆黒聖典の者らは」

「……死亡は第七、第八席次。重症の者も勘定に入れれば、しばらく漆黒聖典は動かせないでしょう」

 

先のことを思考して口にしたのは丸眼鏡をかけた闇の神官長―マクシミリアン・オレイオ・ラギエ―と、この集まりの中で最も若く、土の神官長でもある四十半ばの男―レイモン・ザーグ・ローランサン―だった。

 

「陽光聖典の件もある。いましばらくは兵力を動かすのは控えてはどうだろうか?」

「然り。そもそもこの2つを欠いて遠方に戦力を出さばこの地を守る力が足りん。防衛戦にこそ力を発揮するかの聖典を出すのはいかがなものか」

「都市守護を担う彼らを派手に動かせば人心を乱す要因にもなろう」

 

司法・立法・行政を預かる三機関長らは意見が同じらしい。

 

「しかしカイレ殿を襲った死霊、そして第一席次以上の強さの吸血鬼。この2つをこのまま捨て置くというのか?」

「かの死霊に襲われた彼女には復活の儀式が効果を為さないというではないか。それが事実であれば、積極的な対処をとるべきでは」

 

それに間接的な異を出したのは風の神官長―ドミニク・イーレ・パルトゥーシュ―と、光の大神官長―イヴォン・ジャスナ・ドラクロウ―だった。

 

「では問うが、その強力なアンデッド共への対抗策を述べてもらいたい」

 

その声は軍事を掌る大元帥のものだった。彼としては邪悪な不死者を一刻も早く断罪したい、しかしそれは現実的ではないがための言葉だった。

己に返る言葉がなかったため、大元帥は魔法開発の責任者である研究機関長を振り返った。その視線をうけた研究機関長は口を開く。

 

「……いかなアンデッドといえど、弱点である火や神聖属性であれば一定の効果が出るはずです。しかし」

「吸血鬼はともかく死霊にはどちらも効果がなかった、と」

「馬鹿も休み休み言え!?そのようなものがアンデッドなら、ありふれたスケルトンやゾンビは何だというのだ!」

 

マクシミリアンの激は最もだ。完全無欠の不死者など悪夢以外の何物でもない。そしてそれに殺されれば復活の魔法も効かないという。

 

「新たな竜王という可能性は……?」

「いや、それはなかろう。むしろありえるのはあの邪教徒共か」

「ズーラーノーン、たしかに。であるならばあのエ・ランテルの騒乱のアンデッドの大量発生にて」

「風花聖典の監視をすり抜けたとは考えたくないが、距離的にもありえない話ではありえますまい」

 

そこで一人の神官長が顔を上げた。

 

「あの裏切り者に国宝を奪われ行方がわからなくなったことは痛恨の極み。だがそれによってかの英雄を発見できたのは幸いだ」

「漆黒の英雄、モモン……彼に協力を仰ぐ、もしくはかち合わせるのは?」

「……アダマンタイト級ですら無理だろう。使い潰すには惜しい。いずれにしろ、モモンを取り込むというのは?」

「青田買いか。しかし陽光聖典を滅ぼしたと思しきあのアインズ・ウール・ゴウンを名乗る魔法詠唱者、彼奴と同じ時期かつ近隣の出現と考えると」

 

それに対して、この場の者ら全てにその懸念があった。両者は同じ勢力に属するものでは?可能性は低いが同一人物という可能性は?

藪をつついて蛇どころか竜王がでるような事があれば国の存亡に関わるのである。慎重となるもむべなるかな。

そして彼らの共通認識として神の出現、揺り返しと呼ばれる絶対強者の出現の時期と思しき現代において、正体不明の勢力の出現は実に悩ましいものがあった。

 

「もし……。もしも六大神の神々のような存在が降臨されれば」

「……縋れるものがないなら、己の足で立つしかあるまい。それに他者救済を望む者を神が助けるものか。神は自ら助くる者を助くるのだから」

 

そう言い切ったドミニクだが、その顔は苦役を堪えるかのような苦渋が見て取れた。

人類の勢力圏は、北方の評議国や東方のビーストマンの軍勢によって確実に圧を掛けられている。その防波堤である竜王国は戦略的要衝であり、そのために法国は幾度も竜王国へ陽光聖典を派遣させビーストマンの撃退に注力していた。

だがそれは過去の話だ。なぜなら陽光聖典は王国のカルネ村にて消息を絶ち、状況証拠から謎の魔法詠唱者に全滅させられたとされているためだ。

監視していた水の神殿の多くの者らが惨死していたことも尾を引いていた。彼の魔法詠唱者は触れ得ざる存在なのでは、と。

しかし何の“目”もつけないということは出来ない。

 

「……いずれにしろ、情報の糸口を自ら断つことはできん。引き続き風花聖典は動かし続けるしかあるまい」

「エ・ランテルへ増員を向けたほうがよいか。加えて死霊と吸血鬼の情報も集めさせねばならんからな」

 

一先ずの方針はそのような形でまとまるようだった。

 

「それでは次に傾城傾国、次代の国宝の担い手についてだが――」

 

勤勉なる彼らの決定すべき議題はまだまだある。そして、それに紐付けられる問題はそれ以上にあったのだった。

 

 

 

王都リ・エスティーゼのロレンテ城、その上階の一室にて二人の女性が向かい合っていた。その部屋の主である少女の金色の髪を飾る王冠が傾いだ。それは対面に座る者の言葉のため、に見せかけたがためだ。

 

「ラナー。貴方が考えている政策はどれも素晴らしいものだわ。でもね、現実にそれを為すことは難しい、ほぼ無理だと想うわ。

農作物を順繰りに育てる、だったかしら?それにしたって、本来得られていたはずの収穫を思えば、数年間も続く損を許容するのは難しいわ」

「5年足らずでプラスになる話でも?」

「客観的な事実を示して、かつ根回しをしないと。それも長期を見越してのものが必要でしょうね……」

 

言葉を切った女がテーブルに置かれたティーカップを口に寄せる。己の政策、とも言えぬ紙面の落書き程度にしか価値を感じぬそれを否定されても、ラナーはなんの痛痒も感じていなかった。

可愛らしく小首をかしげ眉を八の字にするのも大した労力ではない。

 

『まあラキュースの言うことも最もね。本来得られた収穫を捨てて未知の方法を試そうなんて、日々の糧を得るので精一杯の農民じゃ無理ですもの。代わりに補助を出すのもそう、そもそもそのお金が無かったわね。あの父に泣きついてお金を出させても、王党派の勢力が弱まる真似は周りがやらせないでしょうし』

『六大貴族どころか上の兄にも六本指の糸がついている。まあ予想通りかしら。現状では彼らの力は無視できないし、利用できるところは利用できているけれど。でも麻薬である“黒粉”の帝国へのこれ以上の流出は鮮血帝が黙っていないし……いえ、むしろ今以上に流して介入させるのは――』

『もうっ、クライムはまだなの?あの声を聴いて、あの匂いを嗅いで、あの姿を見ないと一日が始まった気がしないのに!今日は普段より7分と22、23秒遅いわね。……今日は下火月の3日だからレエブン公が兄と内緒話に来ていたかしら?なら二人連れ立って“世間話”するのが今の時間帯。通る場所もクライムがここに来るルートと重なる……。今の時刻、クライムに話しかける者なんてそれくらい。遅れている理由はそれね。……忌々しい男共』

『昨日のクライムの“おやすみなさいませ、姫様”って言ったときのあの顔!隠していたようだけどバレバレ、私から離れるのが寂しかったんでしょうね。憂いを浮かべ、初いを捨てきれず、なにより本当に愛い表情っ。ああ、いっそすべてぶち撒けてしまおうかしら?“貴方が信仰する王女様は、貴方をこんなにも欲しているのよ”って』

 

分割思考というのをご存知だろうか?マルチタスクとも呼ばれるそれは、一つの脳を仮想的に分割し、あたかも複数の脳が存在するかのように思考を進めるものだ。

このラナーと呼ばれた少女は、ラキュースと王国の農作物の収穫を引き上げる方策を議論している間にも諸々の雑事に思いを巡らしていた。

まあその分割思考の過半数の領域は一人の男に関わるものであったのだが。しかしそれを差し引いてもなお、彼女の脳は常の人以上の明晰さを有する。

 

『……ラキュースの目線がドアに動いた。警戒したわけでもないからクライムね』

 

静まった室内、目の前の女の僅かな仕草でラナーはそう当たりをつけた。

彼女には歴戦の冒険者がもつ気配の察知能力はない。しかしそれを持つ者の態度から察することは容易い。

 

「あ、そろそろ入っていいわよ。いいわよねラナー?」

「え?」

 

なにもわからぬ童女の態をとりながらも、ラナーの心中に僅かな苛立ちが走った。わざわざ承認するまでもない、と。

 

「失礼します」

 

昨晩ぶりの彼女にとっての“飼い犬”の姿に喜色がラナーの裡に沸きたつ。これだけで彼女の世界が色を取り戻すかのようだ。まるで目の前の自分の騎士、クライムから世界に彩りが広がっていくような。

部屋に入ったクライムが礼を取る。その先は己の主であるラナー王女、そしてその友といわれているラキュース・アルベイン・デイル・アインドラ。

黄がラナーよりもやや濃い金髪を結い上げドレスに身を包む彼女の姿は、普段の鎧姿を知る仲間らが見れば口笛を吹いていよう。

この城に、しかも王女の私室にいるという時点で彼女の地位は並のものではない。王国の貴族、アインドラ家の令嬢にして冒険者の最高位アダマンタイト級に属する強者。天に二物を与えられた傑物であり、王女の友人でもある。

 

「おはようございます、ラナー様、アインドラ様」

 

クライムの挨拶から始まった会話はラナーの心を軽くさせる。二人きりでないのは至極、非常に、実に無念であったが、“国を憂える心優しき姫”という外面を繕うには必要なことなのでラナーは我慢する。彼女にとっての異分子を交えた会話に。

 

「ねえクライム。前にも言ったけど、私のことは家名でなく名前で呼んで構わないのよ?」

「そ、それはその、アインドラ様……」

「クライムは特別よ」

「むか……」

 

ラキュースの目線を受けてのその態度にラナーは頬を膨らませながら、今日一番の苛立ちが心中を塗りつぶすのを感じた。

しかしラナーの演技はいささかも綻ばない。

 

「アインドラ様、ご冗談はおやめください」

「堅物ねえクライムは。ちょっとはラナーのマイペースさを見習ったらどう?」

「え、え?冗談?」

 

ラキュースがクライムに懸想していないのは理解しており、彼に敬意を向けているのも解る。――故に始末はしないでおく、今のところは。

彼へ侮蔑を。殺意を。なによりも恋慕を向ける者の存在をラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフという女は許さない。

 

「当たり前でしょ。特別は特別でも、貴女の“特別”って意味よ」

 

ラナーは頬を両手で挟み顔を伏せる。これで親友の冗句に恥ずかしさのあまり頭から湯気を出す少女の姿と見られよう。

その後にラキュースの傍に控えていた忍者、ティナを交えて会話が進む。何気ない日常、談笑する男女の姿は傍目から見れば和やかだ。

しかしその中で微笑みを浮かべ細められた少女の目。糸ほどに開かれた隙間の瞳は一人の男だけを見ていた。


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