水上の地平線   作:しちご

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邯鄲の夢 序

横須賀第二提督室の提督は、きな臭い世情の中で防衛大学校の門を叩いた志の人である。

 

やや堅物の気のある性格に、良く鍛えられた肉体。

 

かろうじて人並、鍛えすぎたせいか思ったよりも伸びなかった身長に軽い不満を抱く、

その程度しか問題らしきものを持たない、今時珍しいほどの好漢であった。

 

そんな彼が、怯えている。

 

かつて護国の鬼と覚悟を決めた国防の輩が、怯えている。

 

数奇な運命に因り海軍へと招かれて、南洋に於いて鬼と謳われた金剛を預けられるほど、

横須賀の未来を背負うと目される彼が、今まさに身も世も無く怯えていた。

 

硬い石造りの部屋の片隅で、現実から逃避する様に両の手で顔を覆い、

身体を折り曲げぶるぶると震えて状況が過ぎるのを祈っている。

 

その身に射す影が在り、窓から入る陽光を遮っている人影がある。

 

蜘蛛の如く両の手足を角の壁に突き立てる様に覆いかぶさる、妖しの影。

 

獣の如き荒い息遣いで、逆光により黒く塗りつぶされた中に在る眼光が、

土壇場へと捕らわれた哀れな犠牲者を嬲るかの如くに舐めまわす。

 

時に、扉の開く音がした。

 

「……何をやっているのですか、金剛さん」

 

入室してきた大和が、提督を追い詰めている金剛に声を掛ける。

 

「壁ドンと言うらしいデスネー」

 

スパイディな壁張り付きを見せている高速戦艦が、どこまでもドヤ顔で宣言した。

 

「確かに第三提督室が煩い時は壁を殴りたくなりますが」

「ソッチでは無く、もっとラヴのテイストに溢れる方ネ」

 

そっと現実逃避を試みた大和の発言が無効化される。

 

「両手を使う事で効果は2倍、両足を活用すれば威力はスクエアーに」

「数字の2は、足そうと掛けようと自乗しようと4にしか成りません」

 

多分それでも、回転すれば4倍ぐらいに成る。

 

「提督のハートもドキドキしているはずデース」

「それは、捕食される寸前の草食動物の心拍数です」

 

極めて冷静で的確な判断であった。

 

「ラヴがバーニンしているから仕方ないのデース」

「確かに爆発四散していますね」

 

大和は知っている、こういう時の金剛はセメント対応で無いと暴走すると。

 

困り果てた大和が、龍驤様たすけてー、などと心の中で唱えて遠くブルネイに思いを馳せれば、

 

―― 今こそパンチのチャンス、腹やッ

 

鏡を使ってスカートを覗く方の様な助言が思い浮かんでしまい、頭を振って消去する。

 

「提督ー、大和のセメント対応にハートブロークンな私を慰め ――」

「ちぇすとッ」

 

壁際の空中で器用にルパンダイブを決めようとした高速戦艦が、反射的に発動した

大和チョップに因り撃墜された、対空性能の高い手刀チョップであった。

 

どこまでも困った空気の静寂が室内に満ちる。

 

「戦場では格好良い方なのに……って、ああ提督、無事でしたか」

「あ、ありがとう、今日こそはく、食われるかとッ」

 

悲壮な声色で、蒼白の提督が引き攣った笑みの大和に礼を言う。

 

今日も横須賀は平和であった。

 

 

 

『邯鄲の夢 序』

 

 

 

「珈琲豆の配達でありますよ」

 

単冠湾泊地を訪れた憲兵隊の揚陸艦が、軽くお道化ながら入室を果たした。

 

執務机で書類を記していた男が、手を止めて軽く腕を上げる。

 

「喜望峰から帰って来たと思ったら北の果て、勘弁して欲しいであります」

「それはまた、随分と温度差のある事だな」

 

珈琲豆を受け取った提督が耳を澄ませば、外から高い声色で寒さに震える響き。

部下は寒空の下かと苦笑すれば、白湯程度は受け取っているはずと飄々とした言葉。

 

そして、何か用かとの嫌そうな声色の問い掛けに、単刀直入に行きますかと応えが在る。

 

「内容は、コチラで聞けと言われたのでありますよ」

「何だそれは」

 

随分と意味の不明な言葉を、肩を竦めて響かせる憲兵が居た。

 

「事が起こったらすぐに憲兵が来る、その事実さえあれば良いとかで」

「本当にロクでも無いヤツらだな、憲兵隊(キミら)は」

 

苦々しく歯噛みした提督の、凶相の気配が一段と濃くなった。

 

「淹れ差しの代用珈琲だが、要るかね」

「頂くであります」

 

ポットに残った珈琲色の液体で客用の器が染まる頃、軽い口調で一言が在る。

 

「ロシアからお客さんが来てね」

 

それきりにしばらく室内が静寂に埋まる。

 

「ロシアから、中国の方でありますか」

「いや、英国だ」

 

チコリの香りを嗅ぎながら、揚陸艦が零した言葉は即座に切って捨てられる。

 

ロシアは現在、ヨーロッパ全土に対して絶賛侵攻中であった。

 

おかげで室内を染め上げる静寂の、気配が変わる。

 

「ええ、ええ、海路はイタリア、陸路は独仏が邪魔、確かに、確かにそうですが」

 

少し待ってくださいと額を抑えた憲兵に、軽くにやけた口元で言葉が続く。

 

「手土産にクイーンエリザベス級の船体の一部、建造触媒に最適だな」

 

提督の、奥歯を噛み締める様な笑顔が内容の面倒臭さを如実に伝えていた。

 

「艦娘目当て、のはずが無いでありますな」

「そうだな、本命は米国との繋ぎだろう」

 

呪詛の如く吐き出された言葉に、即座の返しが在る。

 

「どちらの国が、でありますか」

 

口を閉じ、素知らぬ顔で珈琲を傾ける提督の耳に、吐き出された息の音が伝わった。

 

天を仰ぎ、制帽を被り直した揚陸艦が呆れた声色で嘯く。

 

「欧州情勢は複雑怪奇と言う奴でありますな」

 

まったくだと諦めの色濃い言葉が響き、それきりに疲れた色合いの静寂が訪れた。

 

そして、荒々しく扉が開き入室してきたのは高速戦艦。

素肌に幾本かの生傷をつけ、硝煙の香りも生々しい状態の秘書艦、霧島である。

 

「提督、いつもの鬼級が2匹、防衛網を下げて対応しています」

 

そこで初めて来客に気付いたか、軽い会釈と共に身も蓋も無い言葉を憲兵に掛けた。

 

「ああ丁度良い、下の駆逐艦たちを借してください」

「どうぞどうぞでありますよ」

 

何の躊躇いも無く部下を売り飛ばす上司であった。

 

幾つかの細かい指示の受け答えの後、突風の如く去って行った歴戦の勇の姿。

やがて、階下から聞きなれた副官と平の、上司への呪いの言葉が響いて来た頃合。

 

「お義理で烈風でも飛ばしておきましょうか」

 

空のカップを弄びながら、嘯いたあきつ丸に苦笑で返す提督が居た。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

其は、深海の祭壇にして玉座。

 

太平洋到達不能極に存在する、古来よりの想念の集まる海面の霊場。

誰そ彼時の弱々しい光量の中、髪を一房に纏めた誰かがそこに立っている。

 

身に着けているのは弓道着であろうか、陰に呑まれて良くは見えない。

手に持っているのは弓であろうか、宵に隠れて何も見えない。

 

落日の闇が艤装を包み、色合いを黒色へと変じさせる。

 

月影の照らす下、其処に在ったのは紅い瞳。

白銀の髪を持ち漆黒の艤装を纏う、棲姫。

 

「ソンナ事ヲシテ、何ニナルッテイウノサァ」

 

ただ立ち尽くす空母棲姫に、妖しの色合いの声が掛かる。

 

「オ前ニハ、ワカルマイ」

 

声を掛けた姿は、比べればやや小柄。

漆黒の女袴に似た衣装を纏い、肥大化した深海の駆逐の如き艤装を片腕に纏う姫。

 

後に、駆逐古姫と称される事に成る存在。

 

「艦娘ドモガ、海ヲ渡ロウトシテイルノニ」

 

紡いだ言葉を、空母棲姫の嗤いが止める。

 

「人間ドモト、戦争デモシテイルツモリカ」

 

瘴気に侵された海上を、冷え切った空気が包む。

 

「我ラノ願イハ妄執、我ラノ望ミハ本能」

 

言葉を重ねるほどに、互いの溝が深まる気配が満ちて行く。

 

「勝敗ナド、種族ノ興亡ナゾドウデモヨイ」

 

それきりの静寂に、幾許かの時間が過ぎる。

 

やがて、駆逐古姫が諦めたかの様に言葉を紡いだ。

 

「ドウシテモ、来ナインダネ、ドウシテモ、征クンダネ」

 

それきりに閉ざされた口元には、僅かばかりの羨望の色が見えた。

 

そして天空の弧に月が掛かる頃、唯一残った姫が空を見上げる。

 

―― 私ノ

 

「我ラが願イハ、タダヒトツ」

 

気が付けば在った影が言葉を紡ぐ。

 

流れる黒髪に角を持つ異形の影、戦艦棲姫。

 

「戦友タルト言ウノナラバ、迎エニ行キマショウ」

 

柔らかな衣装にその身の殆どを包む漆黒の姿、離島棲姫。

 

「顔面吹キ飛バサレタ恨ミモアル」

 

その脚部が艤装と成っている異形、駆逐棲姫。

 

深き海の底から、夜の闇の狭間から、滲み出る様にその数を増す。

闇に染まる霊場に、続々と集まる深海の影が在る。

 

数多の同胞の中で、確かに口元を弧に歪ませて、彼女は。

 

「目ヲ背ケ続ケルト言ウノナラ、全霊ヲ以ッテ思イ出サセテヤロウ」

 

静かな、静かな声色で、それでも空母棲姫は月に吠えた。

 

ただ一言 ―― 龍驤、と。

 


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