水上の地平線   作:しちご

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天籟の風 拾

蒼天の下に動く物は無く、ただ波浪のみが海域を通り抜ける。

 

「叱られた記憶しか、無いんやけどなあ」

 

膝が抜け、倒れ伏す天津風を受け止めた軽空母は、誰にともなくそう独り言ちた。

 

「こっちはともかく、天津風は曳航だとヤバイぜ」

 

陽炎と不知火を索で括る駆逐艦は、長波。

 

「ほな背負うから括ってや、ってわけで時間稼ぎ宜しく」

 

気取る事無く、茶菓子でも摘まむかの如き気安さで控えていた艦娘の肩を叩き

後ろへと下がる龍驤、入れ替わりに先端へと臨むのは、五十鈴。

 

「時間稼ぎって」

 

気軽に言ってくれると苦笑が零れた。

 

視線の先にあるのは、ある程度の艤装が砕けつつもいまだ健在な防空の姫。

強く目を見開き、参入した3隻を警戒しているのか動きを見せない。

 

「待った龍驤さん、天津風からはみ出てるッ」

「何がッ」

 

ゴミ袋有るから巻いとけ、そんな慌ただしい会話を背に受けて、

思わずに振り返りたくなる誘惑を跳ねのけ、五十鈴は連装砲を構えた。

 

 

 

『天籟の風 拾』

 

 

 

龍驤の背に、ゴミ袋で簀巻きにされた天津風の固定が終わった頃、海域は当惑に満ちていた。

 

避ける。

 

防空棲姫の行動は全てがその一言に集約されている。

 

五十鈴の砲撃が僅かに艤装を削り、雷撃を回避して、健在のはずの砲口は微動だにしない。

 

反航、切り返す、交差からのT字、切り返す、同航、目まぐるしく立ち位置が入れ替わり、

それでもなお一度たりとも焔を上げぬ砲口に、困惑が積み重なっていく。

 

余りに一方的な展開、しかるに、好事魔が多しとも言う。

 

一瞬、哂えるほど完全なタイミングで、防空棲姫の射線に五十鈴が入った。

 

艦船の魂魄が無意識に反応するほどの絶好の機会に、ついに棲姫の砲撃が撃ち込まれる。

 

明後日の方向に。

 

白蝋のあやかしは、歯を食いしばり荒々しく息を吐いた。

 

血涙が滂沱と化す。

 

砲塔を掴み、強制的に射線を変更させた右腕が煙を上げていた。

 

不可解な状況に、五十鈴の手も止まる。

 

互いの挙動も止まり、海域の音が消える。

 

「憎悪も、怨念も、何もかもを凌駕するほどの、覚悟」

 

薪でも背負っているかの如き様相の龍驤が、静寂に音声を流し込んだ。

 

「見上げた話や、キミ以外のどんな艦でもここまでの執念は持てんやろう」

 

軽く煙草を咥え、火を灯らせては煙を吐く。

 

紫煙が漂う海域に、少しばかり敬意の見える声色が乗せられた。

 

「だいたいの事は、今まで持ち帰った情報で察する事ができたわけよ」

 

摘まんだ煙草の、火口の先端で指し示すように棲姫に向かう。

 

場にいる全ての視線を集め、赤い軽空母は口元を歪めて言葉を紡いだ。

 

「五十鈴を守るために戦い続けたキミが、よもや五十鈴に砲は向けれんわなあ」

 

世界が白くなった。

 

よくわからない言葉に、それでも伝わって来る内容の外道さに、五十鈴も白くなった。

耳にした言葉に固まった長波は、以前見た特撮番組の悪役の姿を龍驤に重ね見た。

意識の朦朧としている陽炎と不知火は、夢に見そうだったので聞かなかった事にした。

 

味方である、残念ながらこれは味方である。

 

利根あたりが反射的に打撃を入れそうな煽り顔で、延々と棲姫を煽り続ける軽空母。

 

「に、肉の盾、肉の盾って ……」

 

言葉通りの意味だったと悟り、五十鈴が頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 

「いや、発案は利根やからな、ウチ悪くない」

 

紫煙で空を染めながら、誰も信じない言葉を軽く龍驤が言う。

 

「とりあえず、五十鈴さんを突っ込ませた後に魚雷でぶん殴ればいいんだなッ」

 

凄い勢いで内心を切り替えた長波が、場を収集しようと鬼畜2号な案を口に出す。

 

効果的よね、それしか無いのかと死人の顔色をしていた軽巡洋艦に軽く笑い。

 

「まあ冗談はさておいて、や」

 

しゃがみ込み丁度良い高さに成っていた五十鈴の頭を撫でつつ、龍驤が前に出た。

 

困惑が、棲姫から伝わって来る。

 

状況は詰んでいた、それなのに何故前に出て来るのかと。

 

「航空母艦の時代と言っても、現代と比べればウチらはやはり前時代の遺物なわけでな」

 

唐突な言葉に、海域の困惑が積み重なる。

 

「爆撃隊、攻撃隊、戦闘隊、そんなものに拘る時代はとうに終わっとんのよ」

 

言葉を区切り、深く煙を吸っては息を吐く。

 

「艦娘として、蘇らんかったらな」

 

軽い言葉であった。

 

しかし、海域の全てが空気に重さが加わった感触を持つ。

 

「防空艦にはかなわない」

 

一言、一言が積み重なる度、重さが鉛の如くに増していく。

 

「そんな事が、許されて良いはずが無い」

 

航空母艦龍驤、爆撃と言う概念は彼女から始まった。

 

それだけに、自らの拠り所を完膚無きまでに潰した防空棲姫の存在は衝撃であった。

軍勢を以って潰しても、いまだ心の奥底には無念が燻っている。

 

無謀、という事は自分でも理解していた。

 

だが、彼女が真っ先に折れると言う事は、それは後に続いた者、

例えば蒼龍や翔鶴などに、負担を押し付けると言う事に他ならない。

 

それは、龍驤と言う存在の終焉でもある。

 

たとえ無謀でも、やるだけの事はやらねばならない。

 

せめて、道を付けるまでの事はと。

 

紫煙の向こうで、静かに聞いていた防空棲姫が砲口を上げた。

 

―― 御託ヲ聞キ流シ、ココデ撃テバドウナルノカナ

 

眉一つ動かさず、問われた空母が言葉を返した。

 

ただ一言、それはとても簡単な事だと。

 

「秋月型防空駆逐艦、恐るるに足らず」

 

ぎしりと、空気が鳴った。

 

怒気が海域を埋め尽くし、世界が罅割れる。

 

―― ロートルの極マッた欠陥空母が、言ウに事欠イテ何だト

 

誰からもわかるほどにあからさまな感情を内包し、おかしげな音節で発された言葉に

龍驤は、ただ指一本を立てて空を指し示し、宣言した。

 

「一鬼や」

 

遥かな高みを示し。

 

「ただ一鬼の爆撃で、キミを真っ向から打ち砕く」

 

指尖の彼方に、全ての注意が向けられた。

 

どこまでも青く澄み渡った空に、しかし防空棲姫の感覚がそれを捉える。

全ての高射砲が立ち上がり、言葉の無い空間に、鋼の音が鳴り響いた。

 

儀式の如く張り詰めた空気の中、口元を歪め、深海の姫の声が遠くに響く。

 

―― 捉エたゾ

 

それは、あらゆる意味で害悪にしか成らなかった忌み子。

 

大日本帝国航空史に於ける、最悪の失敗作。

 

加圧で誤魔化していた機関は、恐ろしいほどに小型化された遠心ポンプに差し替えられ

毎分一万五千回転超の気狂い染みた高回転で薬液を燃焼室に送り続ける。

 

送られる代物は、タイランドの化学プラントで生成された過酸化水素水より成る甲液。

そして、ブルネイの化学プラントで生成されたメタノールと水化ヒドラジンから成る乙液。

 

薬液の化学反応が齎した爆発的な推進力は、試製ですら、超空の要塞B-29の世界、

高度1万メートルに至るに僅か2分と言う常識外れの数値を叩きだした。

 

かつては叶う事の無かった、満載の燃料を抱えたそれは容易く中間圏を越え

世界に引かれ、貴き神の空より弧を描く地表へと機首を巡らせる。

 

戦時下に存在する兵器の中で、異様としか表現の仕様が無い遺物。

 

戦後80年に於ける、あらゆる技術的改良が成されたそれ。

 

発電風車など、空気抵抗の邪魔になるあらゆる部位は取り外されている。

従来より切り込まれた翼は、断熱膨張に因り凝結した水蒸気の雲を引く。

 

双発の液体燃料ロケットがあらゆる軛を打ち破り続け。

 

ただ、加速する。

 

標的に目がけ、惑星の引力に加算する様に鬼体を加速する。

 

「だからどうした」

 

軽空母は煙を吹かしながら、太々しく笑って言った。

 

言葉が過ぎ、音の無い世界が続く。

 

深海の電探に感があれど、感覚はそれよりも近いと叫び続ける。

 

視界に入れるべく視線を向けた僅かな時間に、既に視界の外に飛び出ている。

 

当然の如く砲塔を向ければ、既にその場所にそれは居ない。

 

撃ち出された弾丸が到達するまでの隙間にすら、さらに空間を踏破し続ける。

 

―― 速、スギル

 

それが最初に望まれた様に、利剣の如くに全てを払う一撃と。

 

音すらも、遥か後方に置き去りにして。

 

「音速超過の急降下爆撃」

 

鬼体の名は ―― あらゆる無念が篭められたそれは。

 

噴式艦上爆撃機、秋水改二。

 

「堕とせるもんなら堕としてみいやッ」

 

声が、届く暇もあらじ。

 

ただその場だけを切り取って見れば、まるで防空棲姫が何かを抱き寄せるかの様に、

常識外れの推進力が可能にした、常識外れの火薬量の噴進弾が、過たず叩きこまれた。

 

いまだ誰も目にしたことが無いほどの巨大な火柱が上がり、

 

即座、鬼体が引き連れた音の波が海域のあらゆる場所を打ち付ける。

 

音による打撃が、龍驤の咥えていた煙草を爆散させた。

 

鬼首を引き上げようと無駄な抵抗をした鬼体が、熱膨張で限界を迎え空中分解を果たし、

煎餅の親戚と化した妖精が海面を切りながら水平線の向こうにまで飛んで行く。

 

水切りの記録ならば、恐らく世界記録であろう。

 

「ああ、確かに言う通りや」

 

飛び散った煙草を払い除けながら、龍驤が言う。

 

「鬼や姫でも一撃やったな」

 

少しばかり呆れた声色が、何もかもが通り過ぎた海に響いた。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

頑張りました。

 

頑張ったのです。

 

数多の破片に打ち砕かれ、崩れゆく意識の中で、それでもまだ私は動きます。

 

もう朧げにしか思い出せない誰かのために。

 

―― 待った龍驤さん、今の衝撃で天津風から漏れてるッ

―― 何がッ

 

とても怖いヒトの声がします。

 

千切れた腕を、もう無くなった胴を、沈み行く私を、誰かが支えています。

 

ずっと、探していた温もりがありました。

決して、見つけてはいけないそれでした。

 

「大丈夫よ」

 

逃げてと、声に成らない叫びを遮るような、言葉が在りました。

 

「私はちゃんと、逃げる事が出来たから」

 

優しい指が、私の瞼を閉じてくれます。

 

「だからもう、貴女は戦わなくてもいいの」

 

ずっと、知りたかったのです。

 

例え最後には何も残らなかったとしても、

月日の中に私の名前が埋もれるとしても、

 

誠実に顧みられる事が無かったとしても。

 

私の行いが、何かの意味を成す事が出来たのかと。

 

「おやすみなさい ―― 初月」

 

ありがとうと、最後に聞いた言葉だけが残りました。

 


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