水上の地平線   作:しちご

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天籟の風 捌

 

走る。

 

誰よりも速く、何よりも速く。

 

一秒でも早くと、開いた口から吐息が漏れる。

 

呼吸の度に潮風が喉を焼き、血を吐いているのかと誤認するほどに、痛い。

 

限界を越えて駆動しているロ号艦本式缶の悲鳴が鼓動に重なった。

 

防空棲姫と遭遇した陽炎哨戒戦隊の判断は、拘束のための戦闘であった。

戦闘に惹かれるという予測の通り、棲姫の進行方向が作戦海域であったが故である。

 

作戦前であったなら、通信のひとつで済んだだろう。

作戦後であったなら、撤退を選べただろう。

 

しかし、そうはならなかった。

 

誰かが足止めをしなくてはならない、誰かが伝えなくてはならない。

 

かくて島風は全霊力を艤装に捧げ、走り続ける。

 

その進行方向に、突然の雷跡。

 

―― 魚雷?

 

意識の全てを全速に傾けていたがために、反応が遅れた。

 

僅かな時間が引き伸ばされ、油壷の底に居る様に何もかもがゆっくりとした

加速した世界の中で、自らに迫る殺意の具現が静かに近付いてくる。

 

衝撃を覚悟した視界に突如として鈍色が飛び込み、水飛沫を上げる。

 

島風の代わりにドラム缶が爆発四散した。

 

水柱が上がり鉄片を撒き散らしながら、爆音が身体を叩き、海面を震わせる。

 

「よっしゃ命中ーッ」

 

場違いなほどに明るい声が響き、集中の途切れた島風の膝が折れる。

 

「な、がなみ、ちゃん」

 

埴輪の様な表情の輸送艦隊の中で、ガッツポーズをしているのは夕雲型4番艦、長波。

 

 

 

『天籟の風 捌』

 

 

 

作戦海域に轟音が木霊している。

 

数多の爆音が世界に波紋を広げ、尋常ならざる衝撃が鼓膜を責める。

吹き飛ぶ艤装が周囲に破片を散らし、衣服と妖精を次々に海面へと叩き込んだ。

 

深海に対し斜形で臨む艦娘たちの前衛は、被害を受ける度に次々と後衛と入れ替わり

その後ろでは航空母艦たちが艦載機へと指示を飛ばし、互いの制空を削り合っている。

 

かつて5番泊地提督が砲雷撃戦に参加した折、ひとつの経験を得たと言う。

 

そこより生じた対応が、状況に応じた対応の徹底したマニュアル化。

 

前もって行動を規定しておく事で、現場での指示の必要性を下げる意図がある。

 

過去の所属艦娘数の少ない時点で、貴重な戦力である川内型三姉妹を教導艦として採用し

必要に応じた部隊編成で繰り返される演習、教導、5番泊地が力を入れている分野であった。

 

今回の作戦に於いてブルネイ第一鎮守府本陣もまた、ソレを重視している。

 

何故、そのような措置が必要であったのか。

 

戦端が開かれた時より暫く、現状がそれを物語っていた。

 

左翼より吶喊した天龍水雷戦隊を包囲しようと目論むも、横長の方陣を描いていた深海側は

天龍たちに対する右翼、深海提督を守る中央、長門率いる本隊に対する左翼と

 

三か所に膨らみを持つ、3つの団子が連なる様な陣形と化していた。

 

声が、届いていないのだ。

 

砲弾が、魚雷が飛び交う戦場の只中で、人の声など長距離に届くはずもない。

 

霊的な通信網も、瘴気の濃度が一定を越えれば使用する事がほぼ不可能になる。

せいぜいが、航空母艦が自らと縁を結んだ艦載機と通信する程度である。

 

結果、深海提督の周り、中央防衛のために残した戦力の周囲が天龍へと向かい

声の届かない左翼は独自判断で長門たちへと対抗している。

 

およそ連携など覚束ない散発的な反撃。

 

これまで機会の無かった集団戦に対する備え、その差が如実に表れてきていた。

 

とは言え、敵陣へと切り込みをかけた天龍水雷戦隊が楽かと言えば、そうでもない。

 

雷跡を飛び越え、頬を掠めた砲弾に涙を零し、両手の感覚が無くなるほどに砲撃を続ける。

視界に映るのは敵が8割と空が2割、撃ち放題と喜んでいるのは1隻だけである。

 

そもそもに数が違いすぎる。

 

小破して硬直した暁の胸倉を掴み引き寄せ、迫る雷跡より引き離した天龍が問う。

 

「明らかに状況はジリ貧だ、何か手は無いのかッ」

「じゃあ、さらに突撃するっぽい」

 

言葉は通じているが、相互理解ができないのは悲しい事なんだなと、天龍は思った。

 

細かな機動を続け、僅かでも止まれば直撃弾を受ける、そんな状況で吶喊しろと。

自殺志願とどう違うのかと問えば、笑いながら現状も同じ様な物と答えが在る。

 

「大丈夫、たぶん当たらないっぽい」

「根拠は?」

 

物凄く嫌な既視感を感じながら、天龍が聞き返す。

 

「大丈夫、たぶん当たらないっぽい」

「ブルネイはこんな奴ばかりかあああぁぁッ」

 

砲撃の轟音を抜け、天龍の嘆きが両陣営に木霊した。

 

あるかどうかもわからない5番泊地の艦娘の名誉のために書いておけば、

このような状況で同様の反応を示すのは、あとは神通ぐらいだ。

 

「だって龍驤ちゃんが言ってた、外側より内側の方がまだマシだって」

「アイツは航空母艦って言葉を辞書で引いてから発言しやがれッ」

 

咄嗟に身を屈めれば、先ほどまで頭部が在った場所を砲弾が通り過ぎ、幾本かの髪が散った。

 

至近弾に血の凍る思いをし、冷静に、冷静にと思考を誘導し、足は止めず、腕も止めない。

視界に入る全て、手持ちの情報を擦り合わせながら、艤装の刃が通りすがりの駆逐艦を叩き斬る。

 

泣けてくる状況で、生存のために必死に回っていた脳髄が実に嫌な結論を叩きだす。

 

「まあ、同士討ちを誘える分、中の方がマシか」

 

動き続けていた艦隊の他4隻の顔が強張った。

 

天龍の視界の奥、遥か向こうに長門が率いる本隊が見える。

 

孤立、無援。

 

泣けてくる、もはや汗を掻いているのか止まっているのかも自分ではわからない。

火照る体の奥底に、氷でも抱えたかのように血も凍る冷たさが在る。

 

狭まる視界の中、軽く天龍を振り向いた夕立の口元が、少しだけ動いた。

 

何を言ったのか、音の嵐の中に消えて行った言葉は、受け取る事が出来なかったが

夕立の視線や表情が示すそれは、心の中にするりと入って来て。

 

天龍は乾いた唇を舌でなぞり、自分が笑っている事に気付いた。

 

―― ああ、そうか。

 

かつての大戦では型遅れとして大変に苦労した。

 

それでもまだ、俺は戦えると数多の戦場を渡り歩き、

それでもなお足りず、轟沈するその時まで延々と戦い続けた。

 

自分でも思う、とてもではないが救われない気狂いだと。

 

目の前の駆逐艦の姿をした悪魔が嗤う。

 

「夢、か」

 

零れた言葉は、轟音に掻き消された。

 

艦娘として現世に舞い戻り、前線で火薬を鳴らす日々。

目を開けて夢を見ているかのような、望んだ通りの世界。

 

「―― 天龍水雷戦隊、これより修羅に入る」

 

天龍の背後の全員が、固まった顔のままで動き続けると言う器用な真似をした。

 

「死守、だ」

 

連装砲の砲撃の隙間に、短く意図を発する。

 

「本隊がこちらへ到達するまで、陣中を戦い抜ける」

 

死守ってそういう物だったかしらと、薙刀を振りながら龍田が零した。

 

「肚ぁ決めろ」

 

半ば自分へと語り掛ける言葉が、天龍より響く。

 

「死ぬなら今だ、死ぬなら此処だ、命を惜しんで死ぬより戦って死ね」

 

極まった暴言に、各員の表情が引き締まる。

 

もはや汗と涙で酷い事になった顔の電が、震えた声で叫んだ。

 

「ま、舞鶴魂ーッ」

 

連続する撃音を押し返すような、力強い雄叫びが上がる。

 

―― ああ、そうだ。

 

「じゃあ、夕立再度突撃するっぽいッ」

 

喜々として先導を勤める駆逐艦に、遅れじと追撃を掛ける戦隊旗艦。

 

「天龍様の攻撃だぁッ」

 

駆け付けとばかりに深海棲艦を撫で斬りにしながら、獅子吼が響く。

 

「天龍ちゃんが何か酷い物に感染しちゃったッ」

「前々から素質はあると思っていたのですッ」

 

「ふえふえーッ」

「暁、無理に何か言おうとしなくて良いよ」

 

砲弾の飛び交う空間で、止む事の無い轟音の中、姦しく騒ぎ立てる姿が在る。

 

鮮血が散り、鼓膜が破れ、それでもただ笑みだけは崩さない

天龍の心中には、ただひとつの意思が在った。

 

―― まだ、俺は戦える。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

戦況は決した。

 

天龍水雷戦隊に足を止められた深海戦艦の陣の左翼、

その向こうを斜形で通り抜けた艦娘本隊の、砲雷撃が開始された。

 

その状態を一言で表現するならば、そう。

 

―― T字有利

 

これまでの艦隊戦に例の無い大量の艦娘の攻撃が、深海側を左翼より溶かしていく。

 

炎で焙られた氷でさえ、この勢いには届くまい。

 

瞬く間に消滅する敵陣に、作戦の山場を抜けた感触が在った。

 

やがて本隊が天龍たちへと合流した時に、戦隊全艦生存と言う事実に軍勢が沸き立つ。

 

些少とは言え本隊の被害が在る中で、あきらかな死地の者が生き残る。

 

勢いが全ての道理を覆した。

 

数多の戦場で時折見る事の出来る、ごくありふれた奇跡であった。

 

とは言え全艦大破、息も絶え絶え死屍累々の中、ハンモックを張ってご満悦な夕立の姿。

海面に正座の姿勢のまま、潮風に乗ってゆらゆらと移動している。

 

「なんかこう、やり残した事を果たした感じがするっぽい」

 

水雷長妖精とともに、実に良い笑顔での発言であった。

 

そんな折、中央で軽い騒ぎがある。

 

「隼鷹、わかっていたのか」

 

感情の抜けた声で、静かに長門が問い掛けた。

 

「ああ、以前に龍驤サンに聞いた話から、そういう事じゃないかな、ってね」

 

互いの目の前には、深海提督が居る。

 

胸に大穴が空き、首は半ば千切れ、漆黒の体液が漏れる。

それなのにソレは、表情を驚愕に歪めたまま、今なお活動を続けていた。

 

「はじめから死んでいても同じ事、だっけ、横須賀の提督が言っていたとか」

 

死しても動き、決して裏切る事の無い捨て駒。

 

「いつから死んでいたのだろうな」

「たぶん、最初から」

 

死体ですら、位階が上がれば知能を持つ。

都合の良い中身を入れる事が叶うならば、これほどに便利な存在は無い。

 

もはや、生かしておく理由の方が無かった。

 

「督戦の折にでも、中身を深海に食われたか」

 

大陸の工作員から、人類の裏切り者へと転身を遂げた理由も見えて来る。

大陸を闊歩する彊屍と艦娘、そして深海棲艦は、その製法の大部分が重複している。

 

艦娘と違い如何なる霊的防御も無い死体、入り込むには都合の良い器であった。

 

溜め息を吐き、隼鷹が動く死体へと幾枚かの符を張り付け、何事かを唱える。

 

―― 売国奴、壊れたラジオ、深海の走狗

 

彼が生涯で得た全てである。

 

「哀れだな」

 

長門が、灰の如くに崩れ去る成れの果てにかけた言葉が、静かに響いた。

 


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