水上の地平線   作:しちご

57 / 152
あきつ退魔録 参序

 

砂漠の中ほどで、誰も居ないはずなのに私の名を呼ぶ声がする。

そのような時は、決して応えを返してはいけない。

 

それは、死者が生者を呼ぶ声なのだから ―― 「大唐西域記」

 

 

 

『あきつ退魔録 参序』

 

 

 

霧の立ちこむ海の奥深く、というほどに辺鄙と言うわけではないが

新年も早々に濃霧に包まれて立ち往生している艦娘が2隻ほど。

 

ブルネイ第一鎮守府旗下の2番泊地、所謂パラオ泊地の臨検に向かっているのは

憲兵隊の遊撃部隊(つかいっぱしり)、小隊長のあきつ丸と副官の電であった。

 

今回は特に問題の無い仕事であるため、人間の小隊員は待機である。

 

「昨今、羅針盤の動きが悪いのでありますよ」

 

フィリピンを抜け、予定よりも2日は多く彷徨っている状況だと言うのに

1寸先も摺り硝子で覆われた様な有様で、愚痴ともとれる呟きが零れた。

 

針の指し示す海域に向けて舵を切ってはいるものの、どうにもパラオに近づいて

いるという実感が無い、同じ場所を堂々巡りしているような気配すらある。

 

そんな折、白濁の中に朧気な人影が見えた。

 

さて深海棲艦か、それとも何かかと伺う中、2隻に届けられたのは優し気な声。

 

―― あきつ丸さんと、電さんですか

 

「む、友軍ぽいのです」

 

掛けられた声に喜色で応える電の後ろ、感慨深げに頷きながらあきつ丸が言う。

 

「いやあ、電殿は本当に馬鹿でありますなあ」

 

いきなり何なのですと気炎を吐く駆逐艦を避け、件の艦娘を合流を果たす一行。

 

そのままに連れられ行く先は、パラオならば何処かの番所かと思いきや

少しばかり内陸に朧と見えるのは泊地の様で、ここは何処なのかと疑問が出る。

 

「響が居ると言う事は、きっと5番泊地なのです」

 

艦娘と別れた後、埠頭よりしばらく、人気のない通りを越えて電はそんな事を言った。

 

「はて、今のは吹雪殿ではありませんでしたか」

 

首を傾げながら疑問を呈したのはあきつ丸。

 

何を言っているのですと当惑する副官が、何某かの言葉を繋げようとした折に。

 

「あきつ丸」

 

かけられた声に振り向けば、眼帯をした軽巡洋艦。

 

「なあ、チビ共を見なかったか」

 

天龍は2隻に視線を合わせず、そんな事を言う。

何の事かと問いかける隙も無く、ふらりとすれ違った。

 

「俺を置いていかないでくれよ」

 

2隻が視線を向ければ天龍の背中、誰も居ない空間に向かって囁いている。

力無く歩みを続けている姿が、霧に覆われた木立の中に消えた。

 

当惑する電と、考え込むあきつ丸、そんな二人にまたも声が掛けられる。

 

「あきつ丸さん」

 

長い髪に赤いリボンを留めた、割烹着の女性。

 

「朝ごはんの支度が出来ましたよ」

 

間宮の言葉を無視してスマホを取り出す揚陸艦。

 

アイスもたくさん作ったんですと嬉しそうに言う横を、通り過ぎた。

流石に失礼なのではと問う電を抑え、天を仰ぎ眉を顰める。

 

視界に入る光量から推測すれば、そろそろ夕刻も終わろうとする頃合い。

 

「時々繋がりますが、すぐに切れるでありますな」

「いや、何がどうなっているのです」

 

歩みを進めるうち、2隻に対し次々と声を掛ける艦娘が現れる。

 

叢雲、夕立、榛名。

 

「あきつ丸」

「あきつ丸」 

 

「あきつ丸」

 

ある者は興味無さ気に、ある者は恨めし気に。

 

「な、何なのです、ここは5番泊地じゃないのですか」

 

電の問いに、無言のままで泊地へと歩を進める先、蹲る軽巡洋艦が居た。

 

「ねえあきつ丸ちゃん」

 

横を通りすがる時、ぼそりと呟くような声が届く。

 

「那珂ちゃんはね、路線変更できなかったんだよ」

 

那珂は、俯いたままで表情は見えない。

 

やがて泊地の建物、やや小さめの番所と勘違いしそうなそこに辿り付き。

 

「ああ ―― そういう事でありますか」

 

ようやくに口を開いた揚陸艦は、軽く嘆息した。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

濃霧は晴れず、出される食事も全て拒否して、宿所に引き篭もり続けはや数泊。

 

昼の内に外に出ても、人影はおろか海岸線にさえ辿りつくこともできない。

霧に惑わされ、気が付けば同じ場所に戻って来ているという有様。

 

手持ちの携帯糧食も残り僅かになってきた頃、あきつ丸が言った。

 

「少し出てきますので、朝までここで待機しておいてください」

 

そして、決して外からの声に応えるなと。

 

そう言って宿所を出て行ったまま、あきつ丸は帰って来ない。

こと此処に至って、電も現状が極めて厄介だと身に染みて感じていた。

 

ここ数日変わりもせず、夜半に決まって同じ怪異が在った。

 

―― 電、ここを開けてよ

 

宿所の扉の向こうから、呼びかける声がする。

 

―― 居るんだろ、電

 

闇の奥から届いてくるのは、忘れ様も無い姉の声。

 

「何なのです」

 

膝を抱えて、震えながら零した。

 

聞こえる度、何故か意識の何処かで理解できてしまう。

 

その声は、彼女と共に在った暁型の姉。

 

「恨んでいるのですか」

 

空気に混ざる此の世為らざる匂いに、歯の根が震え音を立てた。

 

「私だけ生き残って狡いと、そう言いたいのですか」

 

震えが止まらない。

 

―― ねえ、電

 

うるさい

 

五月蠅い、煩い

 

だまれ

 

「黙れ、響ッ」

 

ついには限界を迎え、頭を抱えて泣き叫ぶ。

 

僅かな光量が闇を深め、部屋の中で蹲り震える小柄な姿に、影が差した。

 

そこに立っていたのは、黒い制帽を被った、彼女と同じ制服の姿。

 

―― ああ、やっと喚んでくれた

 

響の声色には、隠しきれぬ喜びがあった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。