水上の地平線   作:しちご

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天籟の風 序

頑張りました。

 

頑張ったのです。

 

例え最後には何も残らなかったとしても、

月日の中に私の名前が埋もれるとしても、

 

誠実に顧みられる事が無かったとしても

 

その実態の無いソレは、まるで(うつほ)を吹き抜ける風のようで。

 

今もただ、心の内に

 

蕭々

 

蕭々と風が泣くのです。

 

頑張ったのです。

 

頑張りました。

 

ただそれだけは、貴女にだけは ――

 

 

 

『天籟の風 序』

 

 

 

あのヒトの場所よりも遥かに浅い海の底、違う海で今日も夢を見る。

 

いつからか意識の中で、鋼であった船体は柔らかいヒトの身と成り

音となって交わされなかった会話が記憶の奥底に記されていく。

 

ああそうだ、最後の通信は ――

 

「手ぬるいって酷いわ、天津風(あまっちゃん)

 

情けない顔をした彼女が嘯いている。

通信を終え、怒った風の私にそんな事を言ってくる。

 

「何言っているのよ、貴女は龍驤でしょ、しっかりしなさいよ」

 

聞く耳を持たずに叱り付ける、今にして思えば私は甘えていたのだろう、彼女に。

 

「また天津風の龍驤贔屓がはじまった」

 

諦観の色のある声を上げたのは時津風。

 

手の平で顔を覆い、大仰に嘆いている。

振り向いた私の視界の中で、癖のある短い黒髪が揺れた。

 

その背後では、利根さんが苦笑している。

 

ああそうだ、あの時の利根さんの表情には苦いものがあった。

その時の私はそれに気付く事も無く、龍驤と軽く視線を交わす姿に、嫉妬を覚えた。

 

きっと、二人にはわかっていたのだろう。

 

私たち、ともすれば私だけだったのかもしれない、理解できていなかったのは。

 

 

 

―― 航空母艦龍驤は、教導艦としての側面も持つ。

 

およそ練度の上がった隊員たちは主力艦隊へと引き抜かれ、その戦争に於いては

常に練度の未熟な隊員たちの運用へと意識を割く必要があった ――

 

 

 

幾度も思い返す、私の根本となったその時を。

 

長い時の果て、風化する記憶の中、とても大事だったはずの

その最後の言葉が思い出せない、だからこそ、何度でも。

 

何もかもが終わった時、私の心が砕けたその時を。

 

「来るな、来るなッ!」

 

幸いにも、追撃のB-17からはさしたる被害を受けなかった。

けれども既にその船体は炎に包まれ、ただ単に最後の時を長引かせたに過ぎず、

 

彼女の声で、総員の退艦が命じられる。

 

「曳航を断念する」

 

俯いたまま、静かに利根さんが言った。

 

「何でよ、だって龍驤よッ、こんな所で沈んで良い艦じゃないじゃないッ!」

 

理解していたのだ。

 

ただ、認めたくは無かった。

 

そうでは無い、私はただ

 

「天津風、ウチを ―― 」

 

 

 

―― 航空母艦龍驤の最後については、様々な解釈が存在する。

 

およそ翔鶴の囮としての役割を完全に果たし、被害を一身に集め随伴の新型艦たちを守り

生涯に戦果を挙げ続けた、海中に没するその事さえも戦果に数えられる武勲艦の鑑と

 

作戦行動自体の問題が、小型空母による単独行動という自殺行為を敢行させ

何の利得も無く無意味に敵軍へと貴重な空母を差し出しただけの結果に終わり

 

完全な無駄死にだと ――

 

 

 

笑顔を残して沈み行く航空母艦を、遠く神通さんが敬礼をして見送っていた。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

吹き流しに包まれて二つ括りとなった銀の髪が風に揺れる。

海原を走る風が、ワンピース型の制服の短い裾も揺らした。

 

「いい風ね」

 

先ほどにドロップをした駆逐艦は、視線を中空に彷徨わせ、そう口にする。

その顔色は青く、額には冷や汗が止め処と無く流れ続けている。

 

足元には、何か赤い水干を纏った艦娘が漂っていた。

 

見れば艤装は砕け散り海面を揺蕩う、お世辞にも無事とは言い難い有様である。

 

何か魂が抜けたような驚愕の表情の利根が、慌てて曳航索で軽空母を括りはじめる。

 

陽炎型駆逐艦9番艦、天津風。

 

5万2千馬力、速力35ノット、排水量は2千トンを越える。

 

対し龍驤は設計変更を重ねたとはいえ、その根本の設計コンセプトは小型空母、

後の軽空母という艦種の雛型となる、先駆けたる航空母艦であった。

 

航空母艦、それは速力を得るために軽量化を求められる艦種である。

 

つまり、装甲が薄い。

 

隼鷹などが玉のお肌と嘯く程度に、薄い。

 

詰まる所、駆逐艦に全速で衝突されると沈むのだ、普通に。

 

それは、艦娘と化した現在でも変わりは無い。

艤装の霊力を全開起動した状態で抱き着くと、それはもう酷い事になる。

 

ある程度の練度があれば加減も出来るのだが、ドロップ直後ではそうはいかない。

 

明後日の方向を向いている天津風の肩へ、作業を終え疲れた表情の利根が手を掛けた。

 

「後で一緒に謝ってやるから、今は龍驤を曳航して撤退するぞ」

 

全力で現実逃避をしていた暴走駆逐艦は、青い顔のままにガクガクと頭を上下に振る。

 

―― ブルネイの魔女堕つ、速報は四海を駆け巡り各地の提督を驚愕させたと言う。

 


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