水上の地平線   作:しちご

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邯鄲の夢 前

日本海軍、特殊資料室。

 

本営への申請が通り其処を訪れた艦影は2隻、あきつ丸と電であった。

 

「如何なる情報も保管されていると、まったくもって戦後の我が国は」

 

厳重なるボディチェックを受け、いかなる機器も持ち込んでいない事を確認されてから

ようやくに解放されて、資料室へと到達した揚陸艦が口を開く。

 

目の前に書かれた注意書きは EYES ONLY、何度も念を押された内容である。

 

「わかり易く、厭らしいでありますな」

 

棚に並べられた大量のDVD-Rを前に、嘆息だけが響いた。

 

「ふざけた話なのです」

「まあ、タイトルだけでもわかる事があるかもしれ ――」

 

言いながらあきつ丸が無作為に手に取ったのは、艤装の水着換装についての経過報告。

 

「い、一応機密なのです、フリスビーみたいに投げるなーッ」

 

間髪入れずに空を飛んだ機密資料を、蒼白の電が受け止める。

 

「いや失敬、少し思い出したくない出来事を連想するタイトルでしたので」

 

突然の行動に対応したせいで、肩で息をしている副官を宥めながらの嘯きがあった。

 

「とりあえず、棚に並んでいるタイトルだけでも確認しておきましょう」

 

 

 

『邯鄲の夢 前』

 

 

 

作戦本部、サイパン仮設泊地、炎天下も幾らか過ぎ去った昼下がり。

 

埠頭に響く歌声を辿ってみれば、那珂ちゃんサマーライブなどと書かれた垂れ幕の下

舞台の上では単縦陣の水雷戦隊が、一糸乱れぬ連携でローリングをしている。

 

鮮やかなパフォーマンスに、様々な色合いに混沌とする観客席から歓声が上がった。

 

一応は作戦期間中のはずなんやけどなあとボヤきながら、離れた場所の屋台の上で、

台の上に置かれた半球の西瓜を縦横と格子に切り分けている軽空母は、龍驤。

 

格子状の皮を摘んで引き抜いて食べる、アメリカ式と呼ばれる切り方だ。

 

「たまには良いんじゃない」

「いや、艤装の水着の事や」

 

追加の西瓜を配達がてら声を掛けてきたのは、涼し気な色合いの水兵服の重巡、衣笠。

 

「あー、うん、いやほら、毎年の事だし」

「はっはっは、そうよな、毎年の事よな」

 

遠い目をした2隻が棒読みの発言を交わし合う。

 

今年も大本営の誰かの執念に因り、艦娘に水着着用の任務が下された。

 

言うまでも無いが、作戦期間中である。

 

「何て言うか、進捗が順調すぎて何処か緩んでいる気がするねー」

「胡散臭いほどに順調よな、不安を覚えるほどに」

 

想定内の進捗、想定内の被害、想定内の戦果、今作戦は全てが計画通りに進んでいる。

何も起こっていない、このままでは太平洋は打通してしまうというのに、何も。

 

そんな不確かな懸念に、スティック状の西瓜を引き抜きながら衣笠が言う。

 

「職業病じゃないかな」

 

言葉を掛けた当人も信じきれていないのか、声色はどこか歯切れの悪いものが在る。

 

「そうなんやろなー」

 

シャクシャクと涼し気な音が響く中、不安を隠しきれない声が漏れ。

 

 

 

許可された入室時間を無駄にするよりはと、砂の城の如き提案をする責任者。

そして他に出来る事も無いかと、諦めの混ざった溜め息と共に二手に分かれて確認に努めた。

 

ひとつひとつと確認するほどの時間も無く、表題だけを指でなぞりながら流し見る。

 

―― 第62号報告書、艤装に水着を適応させる術式について最終考察

 

―― 第57号報告書、艤装にサンタ衣装を採用させる意義 最終決定稿

 

―― 第68号報告書、艤装に浴衣を適応させる術式について最終考察

 

どこか見覚えのある内容に偏頭痛を覚える頃、相方も似たような状況であったのか、

あきつ丸の背後から国民の血税を何だと思っていやがるのですと、怨嗟の呟きが漏れ聞こえた。

 

半目と成ってどうにも徒労感を覚える作業を続けるうち、ふと、探索者の目を引く内容が有る。

 

「神の、軍事利用」

 

頭の痛くなる内容の棚の片隅に、纏めて配置されていたのは初期の報告書。

 

「前大戦ルーズベルト呪殺に端を発する、帝都の霊的防衛構想」

 

現大戦初期、あるいはその前より動いていた何某かの痕跡。

突如に現れた随分と毛色の違う内容に、あきつ丸の動きもしばし止まった。

 

そして丁寧に、ひとつひとつの媒体のタイトルを確認していく。

 

―― AH計画報告書、長門型廃棄について

―― AH計画報告書、大和型廃棄について

―― AH計画報告書、赤城型廃棄について

 

「AH計画、と言われても困りますな」

 

かつて何かの計画が在り、のきなみ失敗に終わった、それだけは察する事ができる。

 

喘ぎ声でもあるまいしと、知らず零していた揚陸艦の背に、駆逐艦からの声が掛かった。

 

「こっちにもそれらしいのが在ったのです」

 

そう言って水着、浴衣、サンタなどの単語に混ざって配置されていた一枚を取り出す。

 

「この税金の無駄遣いシリーズ、隠蔽のために用意されていたのでしょうか」

 

「あきつ丸、大本営はそこまで考えていないと思うのです」

「真顔で何てことを言うでありますか」

 

適当な会話の中、件の一枚を受けとりタイトルを確認する。

 

―― 特異点Rについての経過報告

 

記入者が違っているのか、AとHで始まる単語が確かに記されていた。

 

「Artificial Hero ―― 造られた英雄、でありますか」

 

ふと、あきつ丸がその字に既視感を覚える。

 

「何処かで、いや、当然の事ですな、ならばこの単語もわざと記入したと」

 

思考が零れる様な言葉の羅列が、いつのまにか引き攣る様な笑い声に変わって行く。

 

「あ、あきつ丸……」

 

日付としては、最近の物であった。

 

 

 

舞台は続き、僅かに日も翳る夕の刻、水着であった艦娘の中にも浴衣の者が増えてきた。

 

龍驤屋台西瓜キャンペーンは、衣笠さんにお任せしたせいで独身男性中心に爆発的に掃け

作戦参加で彼女が抜けた後に若干落ち付き、補充の西瓜を持って来た島風を引き込んで。

 

何か子持ちや妹持ちの米兵中心に凄まじい勢いで西瓜が持っていかれている。

 

「イケる、これならサラ丸に勝てるッ」

「龍驤ちゃんは何と戦っているのかな」

 

何時の間にか手段が目的と化し本分を大遠投している筆頭秘書艦の有様に、

少しばかり呆れた声色で、売り子をしている随伴駆逐艦が冷や汗を流した。

 

ちなみにサラトガは観客を挟んだ対面でホットドックを売っている。

 

二種類の腸詰をベーコンでぐるぐる巻きにした、如何にもな一品を。

 

「さりげなく付け合わせの玉葱がソテーしてあって、美味しかったよ」

「油ッ気を売り物にしつつも対策は忘れない、流石やな」

 

もはや何のためにサイパンに居るのかと、疑問すら持つ事も無い。

 

そんな惨状の2隻の方へ、お盆を持った1隻の駆逐艦が近付いてきた。

 

「ちょっと匿ってくれー」

「あ、長波ちゃん」

 

そう言って屋台の陰に入り込んだ姿は、夕雲型の島風被害艦筆頭こと長波様。

今日は軽く波打つ長髪を布巾で纏め、制服の上にエプロンを被せている。

 

身を隠して暫く、屋台の前を夕雲型駆逐艦の姉妹がわらわらと通りすがる。

 

夕雲型の制服である臙脂色のジャンパースカートの集団から、綺麗に前後を刈り揃えた

黒髪の1隻、6番艦の高波が島風に、おっかなびっくりと声を掛けた。

 

「あ、し、島風ちゃん、えと、長波姉さま、見なかった」

「新鮮なドラム缶だヒャッハーとか言いながら埠頭の方に行ってたよ」

 

そして息をする様に嘘を吐く、筆頭秘書艦の随伴艦が居た。

 

ついでに西瓜を押し付けつつ、お礼を言って去って行く一団から暫く。

 

「罪悪感が凄いね、長波ちゃんの」

「悪い事したかなぁ、長波様が」

 

「罪悪感をコッチに持ってくんなーッ」

 

とりあえず傷口が在ると抉り、瘡蓋が在ると剥がすのが5番泊地の礼儀であった。

 

「いや、高波が水着を着ようって煩くてさー」

 

屋台の陰からそんな事を言いながら姿を見せる長波に、頷きながら島風が言う。

 

「長波ちゃんの長波様は長波サマーなんだから着ればいいのに、コノ隠レ巨乳ガ」

 

真面目な顔であった。

 

発言を受けて真面目な顔で頷きながら長波も口を開く。

 

「龍驤さん、島風は間違いなくアンタの悪い影響を受けていると思うんだが」

「すまん、悪いが巨乳の声は聞こえんのや、耳にバナナが入っとってな」

 

「利根さん早く作戦参加してくれーッ」

 

天まで届けと匙を投げつける様な叫びが屋台から零れていた。

 

 

 

鉄板の上でベーコンを巻いたソーセージを焼き上げる。

 

パンズに挟む、軽くソテーしたオニオンとピクルスも忘れない。

 

場合によっては新鮮なレタスなども良い、そしてケチャップとマスタード。

オーダーがあればチーズを掛けておく、山盛りに、文字通りに積み上げて。

 

それが何かと聞かれたら、アメリカとしか答えられない。

 

「サラ、見て見て、この西瓜ってばアイスバーみたいに切られててキュートよ」

 

屋台で笑顔を振りまいていたサラトガに、アイオワが差し入れがてら西瓜を持ってくる。

 

三角の板状に切り分けられた日本式、しかし手に持つ下面の皮の部分が棒状である。

皮の中央を残して左右を切り落とし、スイカバーの如き形状に成る様に工夫がされていた。

 

「やりますね、龍驤」

 

見て取れる遊び心に、日本艦のおもてなし精神を感じ、サラトガから太い笑みが漏れる。

 

「あー、そういうスマイルの方が好きだわ、ミーは」

 

シャクシャクと良い音を立てながら、戦艦が言う。

何ですかそれと笑いながら、手を止めて西瓜を受け取る正規空母。

 

「そういえばサラって龍驤と、えーと、うーん何だっけ」

 

何かを言おうとして、言葉が出て来ず首を捻る様が在る。

 

「そう、ツーカー、ツーカーの仲よね」

「単語の意味はわからないですが、言いたい事は何となくわかります」

 

何処で単語を仕入れているのかわからないブロンドな同胞の言葉を流しながら、

改めて鉄板の上で腸詰のペーコン巻きを作りながら、店主が口を開いた。

 

「そうですね、傲慢な表現に成るんですけど、良いですか」

 

脂の爆ぜる音の中、不思議と静寂を感じる風情の声が在る。

 

「私たちはある意味、泊地の誰よりも理解し合っていると思うんです」

 

そこで、これはアイオワ以外には言えませんねと、苦笑が在る。

 

「全身全霊で殺し合った仲ですもの」

 

特に気負う事も無く当然の様に紡がれた言葉が、不思議と聞き手の印象に残った。

 

 

 

格子に切り分けるのがアメリカ式なら、東南アジア式はどのような物であろうか。

 

ちょうど今、龍驤が切り分けている。

 

簡単に説明すれば、4分割した西瓜を不揃いの5片に切り分けるやり方である。

端から、斜め、横、斜め、横と2回だけ角度を付けて切り分けた。

 

角度と曲線に因り目の錯覚が起こり、5片全てがなんとなく同じ大きさに見える。

 

そんな感じに追加の西瓜を切り分けながら、ふと思いついた様に龍驤が問うた。

 

「そういえば、その炒飯お結びは何なんや」

 

視線の先には長波が持つお盆、そしてその上に置かれている三角形の物体が在った。

 

「いや、ウチの提督が馬鹿みたいに炒飯作ってさ、島風と食うかなと思って ――」

 

そして改めて、手元のお盆に目をやる長波。

 

「―― たんだけど、通りすがりの姉妹どもに食われまくって最後の1個だ」

 

配達艦に、肩を竦めての嘆息が在った。

 

さて、少し視界をずらして見よう。

 

弓道着に身を包み、凛とした佇まいの空母が2隻。

 

高練度の正規空母の雰囲気に、周囲の艦娘から畏怖と敬意の視線を集めている。

 

即ちブルネイ一航戦、要するにいつもの赤と青である。

 

―― 馬鹿みたいに炒飯作ってさ

 

どこからか届いたその声の、主を探すように顔を上げ視線を巡らせた。

 

突如に醸し出された緊迫した空気に、あたりの囁きが止まり静寂が満ちる。

 

そして、最後の1個という言葉が空気を揺らした。

 

即座、屋台の様子を伺っていた赤城の顎が跳ね上がり、その意識が刈り取られる。

 

加賀の肘撃であった。

 

同じく様子を伺っていた加賀の米神にも、打撃が叩き込まれて意識が刈り取られる。

 

赤城の中指一本拳であった。

 

意識の無い身体のまま、屋台に向かい一歩を踏み出して崩れ落ちる、2隻の何かアレ。

 

誰もが、無言であった。

 

「駆逐艦の飯を狙う悪い一航戦はしまってしまおなー」

 

やがて頭痛を堪える風情の龍驤が、流れる様に淀みない動作で簀巻きを二本作る頃合い。

 

「はんぶんこー」

「お、おう」

 

半分に割った炒飯お結びを長波の口に突っ込む島風の姿が在ったと言う。

 

 

 

憲兵隊あきつ丸小隊詰め所、通称あきつ屯所に箱が届いた。

 

やや大きめのダンボール箱が2つ。

 

制帽と髪留めの乗せられた箱には、短く書かれた文字。

 

「あきつ丸」「電」

 

受け取った春雨が蒼白に成りながら箱を開けると、中には猿轡を噛まされて

簀巻きにされた注釈通りの物体が詰められており、思わずに膝を折る。

 

「尾行が付いていましたので、直帰せずに陰陽寮宿舎にシケこんだのですよ」

「まさか、無人のダンプを突っ込ませてくるとは思わなかったのです」

 

拘束を解き、聞いてみるとロクな事を言わない。

 

陰陽寮の関係者の憤怒がよくわかる郵送であった。

 

とりあえず水分が足りないからと、春雨に茶なり何なりの調達を命じ

桃色の駆逐艦が焦りながら詰め所を出る姿を見届けてから、箱の中から電が問う。

 

「いつまでこんな事を続けるのですか」

 

あきつ丸は答えない。

 

「無駄に機密を漁って危険に曝される、今回のは憲兵の仕事からもズレている」

 

問い掛けを聞き流し、箱の中から手近に灰皿を引き寄せて、煙草に火を点ける。

 

電が沈黙へ猶も言い募ろうとした頃合、煙と共にあきつ丸が口を開いた。

 

「役立たず、と言われたことは」

 

ただ一言に、部屋の空気が僅かに重さを増す。

 

「憲兵隊の艦娘で言われた事が無いのは、春雨ぐらいなのです」

 

会話のごとに、重さを増していく空間が、質量を持って身を苛む。

 

「自分が造られた頃は、捨て艦戦法などと言う物までありましてね」

 

開戦初期、霊格、練度などの概念が理解されていない頃の艦娘は、消耗品であった。

 

「何故、自分たちは造られたのか」

 

煙の中に零れたのは、本心が僅かに見え隠れする言葉。

 

「冥府に堕ちた時、土産話が出来ないと浮かばれないではありませんか」

 

誰が、とも何がとも言わない。

 

「どう考えても、響たちに話せる様な内容じゃ無さそうなのです」

 

やがて、盛大な溜め息と共に、副官が隊長の我が侭を肯定した。

 

 

 

大禍時に夢を見る。

 

白日の、夢。

 

―― ごめんなさい、ごめんなさい龍驤さん、ごめんなさい

 

翔鶴が泣いている。

 

―― 未だ任務中よ、弁えなさい

 

氷の声で、表情の凍てついた風情の天津風が言う。

 

―― あああ千歳さんまで、アイツは、サラトガは何処に

 

瑞鶴は混乱していた。

 

―― 馬鹿者が

 

苦みの消せぬ声色で、利根がただ一言を零した。

 

―― 何故、私は帰投出来ている

 

サラトガが、苛立ちを抑えずに頭を掻き毟る。

 

おかしいなと、龍驤は思った。

 

この時、ウチは既に沈んでいたはずだと。

 

哀しげな瞳で天津風を見る時津風が居る。

無言のまま何かを堪えている神通が居る。

 

被害を受けて海域を去って行く誰かは、エンタープライズか。

 

ウチは、ここに居なかったはずや。

 

―― いや、()()は此処に居た

 

耳元で誰かの声がした。

 

わかっているのだろう龍驤、と。

 

―― 亡者の魂魄を得るためにお前は何を代償にした

 

そう、全ての法力は冥府の奥底に置いて来た。

 

―― 新たな時代に得た物を捨ててまで、何故に過去を求めた

 

陰陽師としての能力のほぼ全てを失ってまで、空母としての自分を求めた。

 

―― 何のために、お前は自分を完成させた

 

妖精が哂う、いつもの様に、耳元で龍驤の名を呼びながら。

 

―― お前は、まっとうには死ねないよ

 

「悪霊退散ッ」

 

そして即座の大遠投。

 

6万5千馬力で放り投げられた性悪妖精がジャイロ回転で空に消え、龍驤の視界が元に戻った。

 

宴もたけなわに、舞台上でローリングしている水雷戦隊に誰かが巻き込まれている。

那珂とバックダンサーの狭間に生まれる圧倒的破壊空間はまさに歯車的四水戦の小宇宙。

 

それ以外には赤い空、そして黒い海、至って普通ないつもの光景。

 

海面で手招きをしている亡霊の姿も見慣れたもので。

 

龍驤は軽く息を吐き、喧騒から遠くと歩みを進めた。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

居酒屋鳳翔サイパン支店、国籍不詳暴虐軽空母の店、深夜。

 

看板は先日に横須賀から大和が配達した代物で、海軍元帥直筆の逸品である。

その嫌がらせに使う連携力を何故普段に活かせんのかと、受け取り側の感想が在った。

 

ほとんどの客も掃けた頃合いに、カウンターに居座っている赤金色の髪の空母が口を開く。

 

「恨み言のひとつふたつぐらい、聞いてあげても良いんですよ」

 

サラトガの言葉に、カウンター内の龍驤がグラスを磨きながら応える。

 

「恨むべき事なんか、何も無いな」

「ええ、私も悔いていませんので、聞くだけです」

 

何やそれと、軽い一言から互いに苦笑が漏れる。

 

それきりに、空調の音だけが響く静寂が在る。

 

「龍驤、貴女が怖かった」

 

ぽつりと、零れる様な言葉が在った。

 

聞き手の、グラスを磨く手が止まる。

 

「何か、報われた気がするわ」

 

磨き終わったグラスを置いた頃合、龍驤から言葉が返る。

 

「あと、私を仕留めきれなかった瑞鶴さんのヘタレ加減には殺意を覚えます」

「いや、無茶言わんといたげて」

 

何処か座った目で言葉を繋げたサラトガに、引き攣った表情のツッコミが入る。

 

「それと ――」

 

そして店主のフォローを聞き流した客は、なおも言葉を募ろうとして、止まった。

 

再びの静寂が空気を染める。

 

唐突な唐突に龍驤が首を傾げた頃、悪戯染みた笑顔のサラトガが口を開いた。

 

「教えてあげません」

 

聞き手が肩を落とす。

 

「そういうのは、異性にやったげてな」

 

ため息交じりの言葉に、愉し気な声色が被さった。

 

「さて、ラストオーダー宜しいでしょうか」

「まだ呑むんかーい」

 

最後の客の居座り宣言に、諦め全部のツッコミが入る。

 

アメリカの恋人(メアリー・ピックフォード)で」

 

取り出されたシェイカーに映る店主の姿は肩を竦めていて。

 

熱帯の濃厚な夜の底、何処からか野犬の声が響いていた。

 


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