〈物語〉シリーズ プレシーズン 【裁物語】   作:ルヴァンシュ

26 / 30
■ 以下、注意事項 ■

・約2万2千字以上。
・〈物語〉シリーズ、アニメ未放送分のネタバレを含みます。
・他、何か有れば書きます。

■ NOIR ■


第伍話 しのぶハート 其ノ參

[010]

 

 

 八九寺真宵が。僕の友人である可愛らしい神様が拉致された。その事実を受け入れるのに暫く時間を要してしまった。

 いや、受け入れていない。受容する気はない。ただ現実を事実として理解しただけであって、現実を認識しただけであって、そのまま粛々と「じゃあ仕方ない」と引き下がる気は微塵もない。当然、八九寺を取り戻すに決まっている。

 

「ははっ、ガキ一人に対して随分マジになってやがるじゃねえか。超ウケる」

 

 そう言ってエピソードはケタケタと笑った。

 

「超ウケるっつーか……僕としては、あんたたちに文句を言いたくない訳じゃあないんだぞ」

 

「はあ? おいおい文句だと? 俺らに助けてもらっておいて文句だ? こいつはウケるマジウケ」

 

「助けてもらったことについては――まあ、感謝してるよ」

 

 実際、忍も封じられたあの状況では僕に出来ることなんて地べた這いずり回って逃げることしか出来なかった訳で――いやそもそもそれさえも出来なかった訳で――そんな体たらくであいつらを追い出すなんてことは到底不可能だったろう。

 人は一人で勝手に助かるだけ、という言葉を引用して謝辞義務から逃げる気は一切ない。

 

「けれど、どうしてみすみす、あいつらを見逃したんだよ。一人くらい捕まえて人質にするとか……」

 

「はっ! 人質ぃ? 笑わせるぜ、旧ハートアンダーブレードの眷属よ。俺にそんな器用なこと出来ると思ってんのか? 俺に出来るのは、この十字架で後遺症の残らない程度にぶっ殺してやることだけだってのによ」

 

「ぶっ殺すことしか出来ないってのは、専門家としてどうなんだ……?」

 

「お前勘違いしてねえか? あくまで俺は吸血鬼『退治』の専門家なんだぜ、生け捕りの専門家じゃねーんだよ」

 

「そう言われちゃ反論も何も出来ないけれど――というか」

 

 僕は難癖じみた問いを切り上げ、本題を切り出した。いや、難癖じみたとは言うけれど、この質問の根幹はその本題な訳であって。

 

「僕を助けに来た……って、どういうことだよ」

 

 一番気になっているのはとどのつまりそこなのだ。どうしてこの二人が、よりにもよって僕と因縁浅からぬこの二人が、僕を助けに来たのかということだ。方向性は違えど彼らは吸血鬼を敵視している。それこそ、どちらかと言えば教団側につきそうなものだと思ったのだが。

 

「誰かからの依頼なのか?」

 

「当たり前だろ。俺が自分から進んでお前なんか助けねえよ。じゃなきゃ、仮に近くを偶然通りかかったとしても素知らぬフリして見殺しにしてたぜ」

 

「いやその場合は助けてほしいな」

 

 吸血鬼を嫌っているエピソードに対しては贅沢な願いかもしれないけれど。

 

「エピソードくんをあまり責めないであげてほしい、阿良々木くん。わたしだってきっと、依頼が無ければエピソードくんと同じ行動をとったろう」

 

「正弦、それフォローのつもりなのか?」

 

「フォローじゃあないさ。それがわたしたちの共通認識だってことだよ――吸血鬼ハンターと不死身の怪異の専門家。わたしたちにとって、きみは自発的に殺す対象であれ、助ける対象ではないということさ」

 

「……まあ、それは、そうだろうな」

 

 としか言えない。

 エピソードに対してもそうだが――どちらかと言えば、僕にとっての危険度はこの男、手折正弦の方が上なのだ。何せ正弦は臥煙さんの派閥の外に居るが故、僕の無害認定を無視することが出来る。エピソードはまだ臥煙さんとの繋がりがあるから、無害認定が機能してそうだけれど。

 

 ――だから。

 どうしようもなく――ある意味では貝木以上に、僕と正弦は相容れないのだ。

 

 だからこそ、どうしてそんな男が僕を助けてくれたのかと思う訳で。地獄でのこともあったし、別に彼が血も涙もない奴とは思っていないけれど(寧ろオカルト研究会メンバーの中では一番まともとさえ思っている)、それにしてもである。

 

「わたしがどうしてきみを助けるのか――なんて、態々わたしが説明するまでもなく、もうきみなら分かっているんじゃあないのかい? 分かるとまでいかなくとも、予想するくらいは出来ているだろう」

 

 正弦は崩れた屋根の上に座って折り紙を折りながら言った。格好だけ見れば、僕との会話が非常に面倒くさそうである。

 まあこいつ、普段人形とばかり話しているからいまいち生きた人間と話すのが苦手らしいし……まさか本当に面倒くさがっている訳じゃあ、ないよな?

 

 それはそれとして。

 

 予想――か。

 予想――は、している。個人的な予想は二つある。

 

「……多分、臥煙さんに依頼された――或いは、忍野に頼まれた?」

 

「そうだよ。正解だ」

 

「ああ、やっぱそうなんだ……どっちが?」

 

「どちらも正解だ」

 

「え?」

 

 どちらも、とは?

 

「厳密に言えば、臥煙先輩の指顧を受けた忍野が僕たち二人に依頼してきた、というのが満点回答だ」

 

「あぁ、そういう」

 

 確かにその場合、忍野を間に挟んでいるだけで実際は臥煙さんからの依頼を受けたとも言える。それに、忍野に頼まれたとも。

 ……ストレートに考えれば正解は両方ではなく忍野の方だと思ったけれど、まあ、どっちでもいいや。

 

「あいつは『助ける』なんて表現を使わなかったがね。実際のところ、わたしたちに依頼されたのはきみの道案内なのさ」

 

「道案内?」

 

「臥煙先輩に頼まれたろう? 逢我三山へ向かえって」

 

「あ、ああ。……そういえば僕、オーケーしちゃってたな」

 

 逢我三山を登れ。

 そしてそこに居るという仙人に遭え。

 

 文面だけで無理難題なのが分かるが、まーた後先考えずオーケーしてしまったのだった……。

 

「でも、名有りの山だから、道案内が必要って程でもないような気が……ああいや、その山までの道案内じゃなくて、仙人が居るって場所までの案内ってことか?」

 

 そうだとすればとても助かる。何せ山を登った経験なんて、僕は殆どないのだ。夏休みに一度山に登る、というか山を降りたことはあるけれど、あれは寧ろ遭難と呼ぶべきものだったし。この北白蛇神社も山頂にあるが、ほぼ獣道のようなものとは言え階段が設けられているし、山登りって感じはない。

 

「いやいや、そうじゃあない。普通に、山に着くまでの案内だよ」

 

「えっ」

 

 なんて希望を抱いたが、どうやらこの場合は額縁通りに受け取って良かったらしい。受け取りたくなかった。

 

「道案内……を、二人がかりで? おいおい、忍野あいつ僕を常軌を逸した方向音痴だとでも思っているんじゃあないだろうな? そんな負の業を背負っちゃあいないぞ、僕は」

 

 土地勘があると胸を張って言える訳ではないが。

 

「少なくとも、俺はお前を馬鹿だと思ってるぜ。旧ハートアンダーブレードの眷属よー」

 

 エピソードが言った。

 

「超ウケる――ただの道案内なんかのために、俺たちが動員されると思ってんのか? そもそもそんなふざけた依頼を受けると思ってんのか? そこまで金に困ってねーよ」

 

「ただの道案内、じゃあないのか?」

 

「ちげーよ……だから言ってんだろ、お前を嫌々ながらも助けなくちゃあいけないってよ――道案内ってのはあくまでも表現の形であって、実際のところは護衛なんだぜ」

 

「護衛……っていうのは、つまり」

 

「その通りだよ阿良々木くん。わたしたちの役目は、きみの護衛――即ち、エッジナイフ率いる教団及び淡海静によって作られた怪異に、きみの役目を邪魔させないようにすることなんだ」

 

 正弦は折り紙を手裏剣型に折り溜めながらエピソードから言葉を引き継いだ。

 

「僕の役目――あの、正弦。少し脱線するけれど、質問していいか」

 

「なんだい? わたしに答えられることは非常に少ないが、答えられることなら答えてあげよう」

 

「役目っていうのはつまり、その、山に棲む仙人に遭う、ってことでいいんだよな」

 

「そうだね。概ねその通りだ」

 

「概ね?」

 

 概ね、とは煮え切らない言い方をする。まさか、臥煙さんはまだ僕に何かをさせようとしているのか?

 というか何かをさせるというなら、そもそもこの役目はどうして僕に任されたんだ? 臥煙さんが多忙なのは知っているけれど、それならそれこそ、今僕の前にいる二人の専門家に任せれば良いようなものを。

 

「どういうことだよ、正弦」

 

「そうだね……阿良々木くん。そろそろ時間が惜しい。この件についてわたしが知る範囲においての説明は、下山しながら、山へ向かいながらで話しても良いかな?」

 

「え? ああ、はい。勿論」

 

 時間が惜しい、ということは、タイムリミットでもあるのだろうか? 何のタイムリミットなのかは知らないが……。

 けれども、僕としても時間がない。早く臥煙さんからの依頼を終わらせて八九寺を救出しなければならないのだ。タイムアップ――八九寺に万が一のことが起きる前に――。

 

「では、行こうか阿良々木くん」

 

 正弦は折り紙を折る手を止め、屋根の上から跳び上がった――そういえばこの人も影縫さんと同様、地上を歩けない呪いとやらを受けているのだったか。鳥居の上にでも乗るのか?

 ……と思ったら、なんとこの正弦が跳び乗ったのは巨大な十字架の上。エピソードが担いでいるこの巨大な塊のてっぺんだった。

 

「ちっ……こんな事のために俺を呼ぶなってんだ、臥煙さんめ……」

 

 こんな事というのは僕を助けることなのか、或いは正弦に乗られることなのか。判断の難しいところであった。

 

 

 

[011]

 

 

 そんな訳で奇妙な下山が始まった。先頭を歩くのは大きな十字架を担ぎ、真っ白い学ランを着た金髪の男。その十字架に乗っているのは一心不乱に折り紙を降り続けながらバランスをとっている和服の男。そして後ろからはフード付きパーカーの男、つまり僕。

 一応断っておくが、別に僕は他の二人を描写することによって、相対的に自分をまともに見せようとしている訳ではない。僕をそんな打算的な人間と思わないで頂きたい(まあそんなずる賢くも賢くもない奴だってことは周知の事実だろうし、問題ないだろうが)。

 

「さて……で、何から話そうか? 阿良々木くん」

 

「何から……それは、お前が自発的に喋ってくれる訳じゃないのか?」

 

「別にそういう形をとってもいいが、それだと私はさっき聞かれた事だけにしか答えないよ」

 

「会話下手過ぎんだろ」

 

 いくら人形とだけお喋りしてるからと言って流石にそれはあんまりである。

 コミュ力低いよ。

 

「そう、私は俗に言うコミュ障さ」

 

「真顔で言うな。ボケてるのかどうなのか分からないからツッコミ辛い」

 

 真顔どころか折り紙だってずっと折ってるし――というか、あの折り紙はどこから取り出してどこに仕舞っているんだ? くそっ、ここからじゃあ見えない。気になる。聞いてみよう。

 

「正弦、その折り紙って」

 

「企業秘密だ阿良々木くん」

 

「…………」

 

 さいですか。

 まあ、今回の本題はそこじゃあないし、これは本筋からかけ離れたことを聞いてしまった僕が悪いだろう。やっぱり気になるけれども。

 和服の中が四次元ポケットみたいなことになってるんだろうな、と勝手に解釈して、閑話休題、僕は正弦に訊いた。

 

「じゃあ質問だ、正弦。というかお前とエピソードに。なんで僕の居場所が分かったんだ? ただ護衛だっていうなら、僕の家の前で待ち伏せしていてもよかったろうに」

 

 流石に家の前で待ち伏せは極論だが。

 怪しまれる怪しすぎる。

 

「言ったろう。僕とエピソードくんは臥煙先輩からの指令で動いていると――きみの行動は予想出来なくても、居場所くらいなら簡単に特定出来てしまうのが臥煙先輩だ」

 

「ああ、そう……」

 

 臥煙さんか。

 あっそう。

 いや、もうあの人に関してはどんなツッコミを入れれば良いのか分からない。何でも知っていると豪語し、実際何でも知っている有言実行の化身みたいな人だし、何を言っても的外れだろうし。だからまあ、うん、そうなんだろうな。

 

「尤も、あくまでも北白蛇神社はきみの居るであろう場所の候補の一つでしかなかったがね――教団のいざこざのおかげで、私たちはそっちに確定させることが出来たわけだ」

 

「ふうん……興味本位で聞くけど、他の候補は?」

 

「神原家とミスタードーナツだった」

 

「ああ、やっぱあの人だな」

 

 両方とも今日行ったよ。

 割と長居したよ。

 

「教団のいざこざね……あいつら、いったいあそこで何してたんだ? というか、お前たちって連中がこの町に来てたこと、最初から知ってたのか?」

 

「知っていた。否、正確に言えば臥煙先輩が知っていた。だからこその護衛だよ」

 

「何でも知ってるなあ」

 

 今臥煙先輩が何をしているのかは知らないが、連絡も碌にとれないほど多忙な中でちゃんとこんな田舎町にも油断なく目を向けている辺り、やはり専門家の元締めか。

 素直に凄いと思う。

 

「こんな田舎町、とは言うがね阿良々木くん。私たち専門家からすれば、ぶっちゃけここら一帯はもう封鎖されていてもおかしくないレベルの場所なんだよ、阿良々木くん」

 

「封鎖!?」

 

「たった一年の間に発生した怪異現象は数知れず。伝説の吸血鬼が降り立った。挙げ句の果てに怪異を自ら造り出すことの出来る者が二人も居る。ここまでの異常地帯は中々見ないよ」

 

「そ、そう言われると言葉も出ないが」

 

 確かに一年で色々起こり過ぎたからなあ。しかも怪異だけに止まらず専門家も多々訪れたし(忍野とか正弦とか)、専門家ではないし怪異とは無関係だけれどもぶっ飛んだ人たちとかも来たし(人類最強とか魔法少女とか)、確かに"知っている"人から見れば特異そのものなのか。

 ……その特異の責任の半数以上が僕にあるような気がしたが、それは置いておくとしよう。

 

「そんな場所だからこそ、あの教団が目をつけたのだろうね。しかも奇しくもこの町は、先代の大司教、ギロチンカッターの戦死した場所なんだし」

 

 十字架の上で胡座をかいた正弦が言った。

 

「あいつらは――じゃあ、別に弔い合戦に来たって訳じゃないんだな」

 

 吸血鬼ハンター、しかもあの教団の言うことなど、僕の立場としてはそうそう信じれたものではないが、正弦の言い草から察するに、本当にその気は無かったらしい。

 だがそうなると気になってくるのは連中の目的だ。この町を選んだ理由は分かった。じゃあ来た理由は? 吸血鬼退治が目的でないのなら、何をしたいんだ? 何のために――八九寺を攫った?

 

「そうだね……悪いけれどその辺りについてはあまり詳しく教えられていない。私たちの任務内容上、それを知る必要はないからね」

 

 ……まあ、そりゃあそうか。

 何度も聞いたように、この二人の目的はあくまでも僕の護衛でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。敵対してくる組織の素性など知る必要はなく、言って仕舞えばただ排除するだけの任務なのだから。

 必要以上の情報を与えるのは色々とリスクが大きい。それは勿論僕も、正弦とエピソードも分かっている。

 

「結局、それは臥煙さんのみぞ知るってことか。その辺の事情は」

 

「そういうことになるね。八九寺真宵を攫った理由について、多分きみは何よりも優先して知りたいだろうが――私の予想でも聞くかい?」

 

「予想? ついてるのか」

 

「与えられた情報量が少ないから、最早ホラ話と言っても過言じゃあないレベルの予想だけどね。例えるなら、私たちのスピンオフが映画化する日を予想するようなものだ」

 

「それはホラ話とかじゃあなくて、ただの口から出任せだ」

 

 スピンオフに拘るなあ。

 仮にスピンオフが発売されたとしても、もうその頃にはアニメプロジェクト自体が終わってそうなものだが……でも戯言シリーズのアニメ化が決定したし、案外オフシーズンさえもアニメ化されるのかもな。映画はまず傷物語が終わらなきゃだが。

 

「いや、そんなレベルの話なら、悪いけど遠慮しておくよ」

 

「だろうね。私だっていたずらにきみを不安がらせたくないから」

 

「その一言の所為で酷く不安に駆られちまったよどうしてくれるんだ!」

 

 わざわざそんなこと言うってことは、十中八九八九寺が危険な目に遭うってことじゃねえか! 何故そこでそういう、一言多いんだ!

 何れにせよ早く八九寺を救出しなくてはならないのは間違いないが……危険ってどんな危険だ? 例えば?

 

「八九寺の奴、処女散らされてないだろうな……」

 

「ふむ、神様には処女性が求められるからね。そういう面から見れば確かに心配だ」

 

「黙ってろコミュ障」

 

 思わず辛辣な言葉を掛けてしまった。もうここまで来ると人形相手にさえまともに話せているのかどうか疑問に思えてくる。

 

「速攻で処女なんかの心配をするてめえにだけは言われたくねえだろうよ」

 

「おいおいエピソード、久し振りに喋ったと思ったらなんだい。少女の心配をするのは男として当然のことだろう? 何もおかしくない」

 

「黙れや変態」

 

「むう」

 

 今の発言の何処に変態的要素があったのだろう? 分からない。世の中には少女を性的な対象とするロリコンとかいう駆逐されるべき連中が居るのだから、僕の心配は至極真っ当なものだろうに。そういうこと言われると、困るなあ。

 ああ、あれか? 鎧武者の時、ついつい僕の購入したエロ本を見られてしまったのがここにきて響いているのか? 最早昔のことなんだから忘れてくれていれば良いなあと思っていたが、どうやら甘かったらしいな。

 

 そうこう話しているうちに下山終了。このまま僕たちは逢我三山へと向かう。

 

「じゃあ話を元に戻そうぜ、正弦」

 

「うむ」

 

 正弦はやはり十字架から降りずに頷いた。目立ってしょうがない……とは思うが、偶然か作為的か、通行人は一人もいない。見る人が居ないのでは目立つも何もない。

 

 あの連中について聞かされていないなら、これ以上追求しても出てくるのは予想という名の不安要素だけだろう。ならば差し当たって訊くべきは一つである。

 

「僕は逢我三山へ行って、具体的に何をすればいいんだ? いや、仙人に遭えば良いってのは聞いたけど、それもいまいち要領を得ないし」

 

 前情報を一切持たずに指令に臨むというのは流石に無謀が過ぎる。それくらい無謀を極めた僕にだって分かる。受験に合格するためには前もって勉強が必要なのと同じことだ。

 

「そもそも、まずその仙人ってのがよく分からない。何なんだ? いや、誰なんだ? それ」

 

 仙人――怪異現象に巻き込まれたり首を突っ込んだり時には元凶となったりした僕だけれど、生憎そういう系統の知識にはまだまだ疎いのだ。仙人と聞いてもぱっと思い浮かぶのは、杖を持って豊かな髭を生やしたご老体の姿だけである。それだけである。後は神通力を使うとかなんとか。

 

「仙人について、私は知らない」

 

「知らねえのかよ」

 

「遭ったことがないからね。そもそも仙人というよは、生きながらにして怪異と、神と同等の存在になった人間(・・)だ。おいそれとお目にかかることは出来ないよ」

 

「人間」

 

「そう、人間――長生きして徳を積んだ狐は空狐になる、というのは聞いたことがあるだろう? それと同じさ――長生きして徳を積んだ人間は仙人になる」

 

「……そうなのか」

 

 空狐についての話は正直なところ初耳なので言及は避けるとして(九尾の狐しか知らねえよ。なんだよ空狐って)――仙人。

 長生きした人間は仙人になる、なんて、もうそれは怪異と呼んでもよさそうなものではあるが……その辺り、素人と専門家の基準の違いが浮き彫りになっている。

 でもその言をそのまま解釈するならば、その仙人は一度も死んだことがない訳で――幽霊ともまた違う。生きているのは間違いない。そう考えれば、確かに怪異ではなく人間にジャンル分けされるのかもしれなかった。やっぱり納得いかないが。

 

「いや、違う。そうじゃあないさ。怪異と同等になった人間と言ったろう? 人間と言い切るには難しいし、やはり無理矢理ジャンル分けするならば仙人は怪異だよ」

 

「あ、普通にそうなんだ」

 

「いや、普通とは言うがね阿良々木くん。そもそもこの仙人という連中は非常に特殊で」

 

「い、いや、もういいよ。分かったから」

 

「そうかい?」

 

「ああ」

 

 ……今になってようやくだが、正弦との初対面に際して斧乃木ちゃんから言われたことを理解出来たような気がしてきた。

 

「その仙人が、どういう性質の存在なのかってのは分かった。でもそれじゃあ、どうしてその仙人に遭いにいくのはお前たちじゃないんだ? 僕なんかよりよっぽど詳しいんだし、この役割の意義も分かってるんだろ? じゃあなんでわざわざ……」

 

 何度も言うように、僕は怪異について素人である。対してこの二人は専門家で、しかも臥煙さんの意図を理解している。ならば一から十まで説明する手間がある僕がやるより、よっぽど効率的ではないのだろうか?

 

「けっ、それが出来ねえからお前みたいなガキのところに役割が回ってきたんだろ。超ウケる」

 

「出来ない……? いや、僕に出来てお前に出来ないってことはないだろ」

 

「それが意外とあるんだよ、阿良々木くん」

 

「正弦」

 

「うん。意外と」

 

「何故二回言った」

 

 どういうキャラでいきたいんだお前は。

 まあでも多分、今のが正弦の性格の根っこなんだろうな……斧乃木ちゃんの言を信じるならば、こいつって人に土下座をさせるのが趣味みたいな奴らしいし。

 

「というのも、どうやらこの山に居るという仙人は少々厄介な能力を持っているらしくてね。私たちには手出し出来ないような」

 

「いや待って。本当になんでそんなんなのに僕に頼むの? ねえ」

 

「臥煙先輩も一度挑んでみたらしいが、驚くべきことに返り討ちにされたらしい」

 

「あ、あの正弦? ひょっとしてだけど今回の任務って、事実上僕を処分するためのものだったりしない?」

 

「だから君に白羽の矢が立ったんだ」

 

「死ねと」

 

「どうだろうね」

 

「否定してほしいなあ」

 

 どうやら今日が、いや、山登りにかかる距離を考えれば明日か明後日か辺りが僕の命日になるらしい。

 ふざけんな……ついさっき死に物狂いで戦った後だってのに! 日和ちゃんとの再会が早すぎるよ!

 

「いや、それは違う。君は死ぬと阿鼻地獄に落ちる予定なんだよ」

 

「そこを否定してほしいなんて一言たりとも言った覚えはないぞ正弦!!」

 

 真顔で言うなよ!

 少しは表情にユーモアを滲ませてくれ!

 

「冗談だよ、安心してほしい。臥煙先輩は何も君を殺そうとしている訳ではないよ」

 

「お前ユーモアのセンスないよ、悪いけど……」

 

「そうかな? でもシミュレーションでは大ウケだったのだが」

 

「そのシミュレーター壊れてるんじゃないのか」

 

「は、超ウケる」

 

「ほら、エピソードくんだって」

 

「いや正弦、多分それ嘲りだ」

 

 そもそもエピソードの『超ウケる』は口癖みたいなところがあると思うので、当てにはならないと思うのだが。

 

「いや、違うな、そうじゃない……私はきみに冗談を披露しに来た訳じゃあないんだ」

 

「ああそうだろうな」

 

 何思い出したように初期の台詞なんか喋ってるんだ。今更どう繕ってももう手遅れだぞ。

 臥煙さん、キャスティング失敗したんじゃあないのか。

 

「返り討ちにされたというのは物理的な話じゃあなくて、心理的な話なんだ」

 

「お前まさかそれが気休めになってると思ってるんじゃないだろうな」

 

 メンタル面に攻撃を仕掛けてくるなら尚のことである。ぶっちゃけ物理的な攻撃の方がよっぽど良かった。

 

 あの臥煙さんのメンタルが負けた? は?

 

「待て待て、そんなもん豆腐メンタル代表の僕になんとか出来ると思ってるのか? お前を召喚したことについてもだけれど、今回の臥煙さんの意図が本気で分からないぞ」

 

 多忙で疲弊しているのは分かるけれど、せめてここくらいはいつものように冷静な、冷静過ぎて冷え切った判断をして欲しかった。

 無理だろこれ。

 

「つーかじゃあ忍野はどうなんだよ。あいつならやれるんじゃないのか」

 

 忍野ってなんだかんだメンタル強そうだし。どんな精神攻撃を受けてものらりくらりと避け続けそうなイメージがある。

 

「いや、忍野は今別の任務に就いている。こちらに来ることは出来ない」

 

「……じゃあやっぱり僕なのか?」

 

「きみだね。まあ臥煙先輩のキャスティングには無駄がない……これも考えあってのことだ」

 

「…………」

 

「そう構えなくていい。簡単に言ってしまえば、きみのこれからすることはとても簡単な事なのだからね――仙人に遭って、その仙人から"あるもの"を入手して欲しいというのが、今回きみに与えられた役割だ」

 

「あるもの?」

 

 仙人から何かを手に入れるって、簡単に言うけれどそれ相当難易度高くないか? 獅子丸からちくわを引っ手繰るくらいの難易度なんじゃあないのか? いやなんとなくで言っているけれど。

 

「……簡単じゃあないだろうけれど――僕は何を入手すればいいんだ? 仙豆とかか?」

 

「いいや、食べ物じゃない。刀だよ」

 

「刀……」

 

 ボケてもあんまりツッコんでくれない正弦――はまあいいとして――刀?

 仙人の刀?

 

「いや、それは正確に言えば、刀というか柄というか――」

 

「柄……?」

 

「いや違うな、そうじゃあない」

 

「……?」

 

 頼む……普通に喋ってくれ……! いい加減勿体ぶったような言い方は僕に通じないってことを知ってくれ……!

 

「忍野が言っていた。特徴を言うよりもそれの名前を言えば、きみなら理解してくれると」

 

「先に言っておくぞ正弦。多分僕、それ知らない」

 

「誠刀『銓』」

 

「うん、知らな……誠刀?」

 

 誠刀――『銓』?

 

 瞬間、僕の身体中に電撃が走ったような衝撃を受けた。理解出来た。どうして僕が選ばれたのか、どうしてここに来てそれが必要なのか。

 

 僕は知っている。いや、名前自体は初耳だけれど――厳密に言えば、それと似たような名称の刀群を知っている。

 

「完成形変体刀か……!?」

 

 正弦は折り紙を折る手を止めて頷いた。どうして手を止めたのかと言えば、今、僕たちは逢我三山の入り口と呼べる場所に到着したからだ。

 

「そう、完成形変体刀――四季崎記紀が作りし十二本の刀が一本。復活したそれらの内の一振りはこの山に居る仙人、彼我木輪廻が所有している。それを手に入れるべくキャスティングされたのが、阿良々木くん、きみだ」

 

「っ…………!」

 

 キャスティング。

 そうは言われても、やはりまだ釈然としないものはあった――だが一つだけ確かな事が言えるならば、忍野はとことん僕のことを見透かしているということだった。

 散々関わった身としては。

 完成形変体刀の名を出された途端――理解しないうちに、全て納得してしまったのだから。

 

 

 

[012]

 

 

「さらばだ阿良々木くん。良い報せを待っているよ」

 

「じゃあな。いっそ後遺症の残らねー程度に死んでこいや」

 

 正弦による説明――ぶっちゃけ肝心なところ(八九寺に関するあれこれ)が明かされていないのが不満だけれど――が終わり、僕たちは結局何事もなく、逢我三山の登山口へ到着した。すると、正弦とエピソードはそんなことを言って背を向けた。

 

「え? ここまでボディーガードっぽく付き添ってくれてたのにそんなあっさり? え、帰っちゃうの二人とも?」

 

 僕は思わず聞き返した。唐突さに驚いてなんとも情けないような言い方になってしまったが。

 

「こ、こっから一人で行けってことか?」

 

「そういうことだね。まあ……私たちが付いて行った方が安全性は高そうではあるが、取り敢えず私はここまでだ。後は阿良々木くん、君に任せる」

 

「お、おい! ちょっと待てよ! 幾ら何でも無理があるぞ!」

 

「臥煙さんが君に、否、君だけに任せたのは何らかの訳があると思っている。或いは事情か――何れにせよ、キャスティングされたのは私ではなく、君なんだよ阿良々木くん。キャスティングされたのなら、その役割を果たさなくてはならない」

 

「キャスティング……け、けど」

 

 ……随分とお見苦しい姿を見せているけれど、どうか僕が今不安で不安で仕方ないということを理解してほしい。

 山登り。

 その行為の過酷さ、苛烈さは、当然誰だって周知の上だろう。その字面からは想像も出来ないほどの艱難であることは想像に難くない。登山による遭難事故は年間約2800件、その内死亡事故にまで発展したものは1000件を超える。それ程までの行為に、僕は今何の装備も持たせられずに、たった一人で、ほぼ何の知識もなく立ち向かえと言われているのである。

 いざというときのことを考慮して、山登りはパーティでおこなうのが現代における定石だ。なのになんということだろう、経験が浅い、最早浅瀬よりも浅い僕は一人なのだ。言うなればRPGにおいて、仲間が誰もいない、装備がひのきの棒と木の盾の状態で、上位の魔物が現れるダンジョンに向かうようなものである――いや、そのまますぎて例えとは言えないか。

 

「……つ、つーか、そうだよ。登山用具。僕、そんなの持ってないぜ。普通こういう場合ってもっと装備を整えないと。だから、あの、せめてそれくらいはくれないか?」

 

 丸腰は絶対に駄目だ。今僕の唯一の所持品はミスタードーナツだけなのだ。これではどうしようもない。腹を満たすことは出来るかもしれないが、それだけである。この箱はそれほど頑丈ではないので、枕にも適さない。打撃にも使えない。

 

「その辺りは、心配ない。少し登ったところで補給出来るようになっているから」

 

「なんじゃそりゃ」

 

「手は打っているということだ――さて、他に何か用はあるかい? 無いなら、私たちは失礼させてもらうよ」

 

「…………」

 

 用というか、文句なら僕自身驚くほど湧いてくるのだが……目下の心配事である無装備であるという問題はどうやらそのうち解消されるようなので(はっきり言って疑わしいが、どうせ駄々を捏ねても正弦たちは登山用具なんて絶対持ってない。言うだけ無駄だ)……。

 

「まあ……別に、もうないな」

 

「うん――それじゃあ、私は行く」

 

 正弦は短く返すと、跳躍して近くにあった木の枝に降りた。そして、

 

「まあ……頑張れ、阿良々木くん」

 

 そんな激励にしては激しさの欠片もない言葉を残して、正弦は枝を揺らして消えた。恐らく木の更に高い場所に上ったのだろう。

 

「ははっ、超ウケる――じゃ、俺も一仕事してくるぜ、っつーわけで!」

 

 エピソードもまた、そう言うと十字架を空高く投擲した。僕はそれに目を取られて視線を空に向けたが、そこに十字架はなかった。そして再び視線を戻すと、やはりエピソード自体も居なくなっていた。

 

「…………」

 

 ……一人残された僕は登山口を見た。登山口には木造の鳥居が建ててあり、『此レヨリ先、逢我三山』『第一ノ山 鬼会山』と書かれた札が取り付けられていた。

 鬼会山か……鬼に会う山、なんて、僕からすれば無視出来ない名前である。この名前にどんな由来があるのかは知らないけれど、そう解釈できてしまうからには警戒材料となるに十分なのである。

 

 鬼。

 吸血鬼。

 いや、もしかすると吸血鬼ではなく、日本古来より伝わる『鬼』が現れる山なのかもしれない。鬼ヶ島に棲んでいるようなのが。

 

 僕は生唾を飲んだ。

 どうやっても一歩が踏み出せない――有り体に言ってしまうが、怖い(・・)

 山自体が放つプレッシャーに、圧されてしまう。気圧される。

 

 これが複数人ならば多少マシになったかもなのに……たった一人で登山に挑むなんて。

 一人で。

 

「――一人じゃなかろうがこのボケぇぇーーーっ!!!」

 

「鬼ぃぃぃーーーっ!!?」

 

 などと考えていたところ、ブルってたところ、僕の影から金髪の幼女が飛び出してグーパンチを顎にヒットさせてきた。ガックガクの足では踏ん張ることも叶わず盛大に仰向けに倒れこんだ。

 夕暮れが近い所為か赤みがかった空――が映った僕の視界を即座に覆い隠したのは眩いほどの金。金髪金眼。

 

「おい」

 

「し、忍! いきなり何するんぐえっ!?」

 

「おーい?」

 

「な、何だってんだ!?」

 

 忍は僕に乗っかり、右手で僕の襟首を掴み左手で腹パンを浴びせてきた。その表情は凄惨な……とはいかずとも、身震いするような笑顔。

 

「おーまーえーさーまーよー!!」

 

「ぐっ! がっ! ぎっ! ごっ! はっ!?」

 

「おーーーまーーーえーーーさーーーまーーーよーーー!!!」

 

「ひぎぃ! ぐぎゃっ! うげっ! げほぉ! あばっ!? ちょっ、ストップストップタンマタンマタンマぁ!! レッドカード! デッドボール!!」

 

「サッカーがしたいか!! ならついでにデッドボールも果たしてやろう!!」

 

「ぎゃあぁーーーっ!!!」

 

 忍はやりたい放題やって、漸く僕の体の上から下りた。僕は痛みを堪えながらなんとか上体を起こした。

 

「し、忍さん! こ、これは何なんですかぁ! 僕、何かしましたか!?」

 

 動転して変な口調になってしまった。八九寺宜しく敬語になってしまった。

 

「お前様よ……さっきから黙っておれば、一人一人一人一人と……あ"ぁ!!? なぁに生涯のパートナーのことをすっかり頭の中から削除しておるんじゃ!!」

 

「そ、そんなことかよ!? いやごめん、素で忘れてた――拳を下ろして! 下さい!」

 

「そうか!? じゃあやはりサッカーか! 好きじゃのうお前様もなあ!!」

 

「やめてっ!! これ以上やめてっ!! 死ぬ!! ある意味死ぬ!!」

 

「分からぬなあ? うぬの痛みなど分からぬなあ!? 知らんからのう!!?」

 

「嘘つけやペアリングがある癖に!!」

 

「そんな最早最近ではなかった事にされてそうな設定知るか!! あったとしても儂はうぬより痛みには強い。等倍とは言え、うぬよりかは耐えれるわ!!」

 

「ひ、酷え! 横暴だ!」

 

「そういう訳でもういっぱぁぁぁぁっつ!!」

 

「やめろよぉ!!」

 

 暫くそんなやり取りが続き、僕はぼろ雑巾か何かのように蹂躙された。幼女に。

 そして漸くほとぼりが冷め、僕は暴力から解放された。忍は肩で息をしている。

 

「忘れてた、っつーか……お前、何してたんだよ! エッジナイフの奴らと対峙したとき出て来なかったのは結界の所為ってことで納得するけれど、そこからここに至るまで何してたんだよお前!」

 

「アホかお前様! あの今にも死にそうなヒョロヒョロの前なら兎も角、吸血鬼に恨み骨髄なあの小僧の前で姿を現せと? 気まずいに決まっておるじゃろうがそれくらい考えろ!」

 

「ぐっ……確かに」

 

 正弦の形容に悪意を感じるがそれは置いておいて、確かにエピソードと忍が会うのは一波乱ありそうだ。エピソードは忍が襲われた吸血鬼ハンター三人組のうちの一人なのだから。

 気まずいなんてレベルじゃあない。下手すれば殺し合いに発展するかもしれなかった。

 

「はぁ……すーっかり儂のことを忘れおって。一人を強調しおってからに。怒りを通り越して呆れ果てるわ」

 

「でも怒ってたじゃん」

 

「その喉笛掻っ切ってやろうか」

 

「ごめんなさい」

 

「ふん! ま、ボコるだけボコってすっきりしたし、ここらで水に流してやろう。ありがたく思えよお前様。本来ならばもう少しねちねちぐちぐち虐めてやるところ、じゃが」

 

 忍は視線を鳥居に、その向こうの鬼会山へ向けた。

 

「……状況は一応把握しておる。急がねばならんのじゃろう?」

 

「ああ……具体的なタイムリミットは分からないけど、急いでこのミッションをこなさないと、八九寺のもとに行けない」

 

「らしいのう。やれやれ、お前様は幼女より少女の方が本当は好みか? あやつの事は本当に忘れんのう!」

 

「水に流してねえじゃん!」

 

「ただの嫌味じゃ。笑って許せ」

 

「許すけど笑っては無理だなあ」

 

 まあ、許す許さないとかじゃあなくて、これについて僕には非しかないので仕方ないことなのだが。寧ろこっちが許しを請う方なのだが。

 

「しっかしお前様のチキンっぷりは笑えんのう。なんじゃい、山如きに怖気付きおって。小学生かうぬ」

 

「小学生くらいだと怖気付くっつーか、喜び勇んで登りそうなんだが……」

 

「揚げ足をとるな」

 

「ごめん。足を上げないで。下ろして」

 

「昨日のことを思い出せよお前様。山登りがあの戦い以上に恐ろしいものか? 確かにどちらも死と隣り合わせなのは分かるが、どっちかと言えばどうじゃ?」

 

「どっちかと、言えば――」

 

 昨日のこと――織崎記との戦い。

 血で血を洗う血戦。

 勿論忘れてなどいない……けれど、それと山登りとは全く違う。ジャンルが違う。だから比較対象としては相応しくないのだが。

 それでも無理矢理選ぶとなると。

 

「――そりゃあ、山だよ」

 

「じゃろ?」

 

 忍はそう言うと歩き出した。僕は慌てて追い掛ける。追い掛けるというか、引っ張られるという表現の方が――ある意味正しいか。

 

「お、おい忍!」

 

「かかっ、容易い容易い」

 

「は? 容易いって……」

 

「結局お前様、何事においても幼女だの少女だのを優先するんじゃのう……見よ。うぬ、もう山に入っておるぞ」

 

「っ!」

 

 僕は忍に促されるまま振り向いた。

 パッと見たところ背後には何もなかった。けれど少し視線を上げれば、組み上げられた木があった。

 

「かかっ! 恐怖など、所詮その程度のものなのじゃ。少し切っ掛けを与えてしまえばこの通り」

 

「忍……」

 

 実際。

 実のところ、山に入り込んだという事実を、踏み入れたという事実を知らされても恐怖心は少しも湧いてこなかった。いや、ひょっとするとちゃんと恐怖心はあるのかもしれない。けれど、全く感じない。

 忍の事を心配する気持ちの方が遥かに強かった。

 

 僕は忍を見た。

 そうだ。

 ついついプレッシャーなんかに圧されてすっかり忘れていた――この僕、阿良々木暦が。

 

 時に何よりも少女を、或いは幼女を優先する男だということを。

 

「……ああ、そうだな」

 

 僕は忍の隣に立った。隣の幼女は凄惨な笑みを浮かべている。

 

「一人になんてなかなかなれっこないぞ? 特に、うぬはな」

 

「ああ。一人じゃあない、二人だ――忍。二人で山を登るぞ」

 

「かかかっ! あー面倒じゃのう、しんどいのう、影の中で休んでいたいのう」

 

「さっきまで散々休んだだろ。階段さえも上らなかったんだからな。さぞ体力は有り余ってることだろうよ」

 

「体力なぞ、さっきうぬをボコボコにしたところで使い果たしたっちゅーの」

 

「僕だってお前にボコボコにされたところで体力なんて全消費したっつーの」

 

 僕と忍はそんなことを言い合いながら、歩き出した。

 斜面は少しずつだが急になっていく。果たしてどこまでこの調子が続くのかは不安要素だが――それでも僕は一人ではないのだ。

 

 僕と忍、二人の珍道中。

 今度こそ――始まり始まり。

 

 

 

[013]

 

 

「そうだね。じゃあそこに一人プラスしてみようか」

 

「よしお前様、帰るぞ」

 

「待てや」

 

 やはり大手を振って始まりを宣言してみたがここでもそう上手くは締まらなかった。

 突如脇道の茂みから現れたのは、なんと式神童女・斧乃木余接。彼女はリュックサックを背負い、両手一杯に荷物を抱えていた。無表情で。

 

「来るの遅すぎ」

 

 斧乃木ちゃんは言った。

 

「一体僕がどれだけ待ったと思っているのさ。この大荷物を抱えて二十分も待たせるとか、鬼かよお前ら。ぴーすぴーす」

 

「いやまあ、一応吸血鬼だから鬼といえば鬼だけど……」

 

 二十分しか待っていないのか、じゃあ別にとやかく言うほどでもないじゃないか、というのが正直な気持ちだけれど、しかしそれは通常での感覚である。斧乃木ちゃんはこれだけの荷物を抱え、この状態で二十分も待ったのだ。

 そう考えると、悪いことをしたなあと思う……が、よくよく考えてみれば、通常でないといえば斧乃木ちゃんの腕力は人間のそれを遥かに上回っていた筈。ということは、この荷物、斧乃木ちゃんにとってはそんなに重くないんじゃあ……。

 

「はっ、何が二十分じゃ! うぬの馬鹿力ならその程度の荷物、空気と同程度じゃろうによ」

 

 言いやがったこいつ。

 

「空気と同程度は言い過ぎだよ忍姉さん。幾ら僕が吸血鬼から認められるほどにパワフルだからって重さを感じないわけじゃあないんだよ」

 

「はーそうか。それはそれは儂の見立て外れじゃったかのう? 残念じゃよ、その程度の力しかないということを自己申告されて、儂はとても悲しい。あまりの貧弱さに涙が出てくるわ」

 

「後期高齢者になると涙腺が緩むんだね。同情するよ忍さん。それに目も悪いみたいだ。僕に対する期待が大分に掛けられていたことは重々承知だけれど、人を見る目がないんだねあなた」

 

「黙れよ人形。儂をあまり煽るなよ、うぬ如き一瞬で爆散させてやるわ」

 

「やれやれ。どうして高齢者って自分を美化しすぎるきらいがあるんだろうね? 若者としては不思議な限りだよ」

 

「最近の若者は年上に対する敬意というものがたらんよなあ?」

 

「最近の老人は年下に対する譲歩というものが欠けているよね」

 

「よし殺す」

 

「ほーらすぐ暴力に訴えるー。助けて鬼いちゃーん、殺されちゃーう」

 

「お前らの諍いに僕を巻き込むな斧乃木ちゃん」

 

 僕は忍を抱き抱えた。じたばたしながら斧乃木ちゃんを睨む忍。

 

「ええい離せ! 離せお前様! 離せばあやつに分からせてやる!」

 

「離しちゃダメだよ鬼いちゃん。離そうものなら鬼いちゃんごと問答無用で討つ」

 

「五・一五事件曲解してんじゃねえよ!」

 

 因みにあの事件でかの有名な台詞『話せばわかる』が発せられた訳だが、誤解されがちだけれどあれは犬養毅元首相が苦し紛れに発した言葉ではなく、あくまで冷静な心理状態で暗殺者たちを説得しようとした際発せられた言葉である。まあ問答無用で撃たれたのは間違いないが。

 

「本当にもう。折角僕が出てきてやったと思ったらこれだ。鬼会山だけにとんでもない鬼ババア、ロリババアに会っちゃった」

 

「君は君で煽るな。つーか、鬼っつーなら僕もだろうが」

 

「鬼いちゃんは鬼というか鬼畜でしょ。何度も言わせるなよな」

 

「じゃあ何度も言うな。僕は鬼畜じゃない、人畜無害な阿良々木暦だ」

 

「ふーん。じゃあ人畜兄鬼」

 

「無害をとるな。八九寺みたいなことするんじゃねえよ」

 

 昔、八九寺に人畜無害宣言をしたところ、人畜さんとか呼ばれた記憶がある。この文系小学生め、一本取られたよ畜生、と思った記憶が残っている。

 

「八九寺姉さんね……なんだっけ? 今殻の中に引きこもってるんだっけ?」

 

「八九寺に殻はない」

 

「そうだっけ」

 

「お前は八九寺の何を見ていたんだ」

 

「そういうあなたは八九寺姉さんの何を見ているの」

 

「…………」

 

 切り返されたので黙った。ノーコメントを貫く。やましいことなんてないけど。パンツなんてたまにしか見てなかったけど。

 

「殻に籠るどころか、すっかり引き摺り出されて引き摺り回されてる、らしい」

 

「ああ、そうだった。大変なことになってるんだってね」

 

「大変なんてレベルじゃあないぜ。命の危機だ」

 

「ふうん」

 

 なんだその反応の薄さは。

 相変わらず糠に釘を刺したような童女である。

 

 斧乃木ちゃんは不意に荷物を下ろし、ちらっと僕の持っているドーナツの箱を一瞥した。何故?

 

「じゃあ鬼いちゃん、あんまり時間がないってことは共通認識らしいから、さっさと選んでよ」

 

「選ぶ?」

 

「そう」

 

 と言うと斧乃木ちゃんは固結びを解き、風呂敷を広げた。

 中身の内容は、リュックサックや雨合羽、軍手、サバイバルシート、登山用テントなど。つまり、登山用具である。それが大量に入っていた。なるほど、正弦の言っていた補給ポイントってのは斧乃木ちゃんのことだったのか。

 

「臥煙さん、どうやら今回はバックアップを惜しまないらしいね。いつもなら『臨機応変になんとかしろ』って無茶ぶり仕掛けてきそうなのに」

 

「きみから見た臥煙さんってなんなんだ」

 

「お姉ちゃんの上司、つまりは怪物」

 

「影縫さんを怪物みたいに……」

 

 まあ、分からなくもないが。

 

「……おい、お前様。下ろせ。いつまで抱えておるのじゃ」

 

「ああ、悪い……ってなんで僕謝ってるんだよ」

 

「忘れておったことについて」

 

「まだ引き摺ってるのか……」

 

「一生掛かって謝れ」

 

「水に長す気さらっさらねえなお前」

 

 僕は忍を離した。降りた忍はドレスを少しはたいた。

 

「なんだ、そのままお姫様だっこされておけばよかったのに。楽でしょ? 楽なんでしょ? 足腰弱いお婆ちゃんなんでしょ? いえーい、ぴーすぴーす」

 

「ほらこうやってこやつは馬鹿にしてくるじゃろう? じゃから嫌なんじゃよああいうのをこやつの前でされるのは」

 

「いちいち争うなよ二人とも……えっと、じゃあ、この中から選べばいいんだな?」

 

 僕は忍の頭を撫でながら、風呂敷の上のアイテムを指差した。

 

「うん、そうだよ。理解が遅いね」

 

 斧乃木ちゃんは片手で横ピースして、もう片方で僕の顔を指差した。

 

「……なんで指差してんの」

 

「鬼いちゃんの真似さ」

 

「やめろ」

 

 洒落になってない。斧乃木ちゃんの指先は怖いのだ。

 

 僕はまずリュックサックを貰い、そこへアイテムを放り込んでいった。軍手、タオル、方位磁針、水筒、サバイバルナイフ、懐中電灯、板チョコ、ライター、飯盒、十得ナイフ、ザイル、雨合羽、スマホ(ちょっとした説明書付き)……正直全部持っていきたいのだが、流石に風呂敷が必要なレベルの大荷物を抱えて登山など出来るはずもない。リュックサックの大きさも加味して、これくらいが妥協点だろう。

 

「というか、何もアドバイスしてくれないのな、斧乃木ちゃん」

 

「当たり前さ。だって僕そんなの必要ないし。分からないや。いえーい」

 

「人選……」

 

 臥煙さん、やっぱり今回のキャスティング駄目じゃねーかよ。

 

「ただまあ、ど素人鬼いちゃんだけに任せると不安だし。一つだけアドバイスしてやろう。ありがたく思え」

 

「なんでそんな偉そうなんだ……」

 

「鬼いちゃん軍手を選んだけどさ、この登山用グローブを使った方がいいよ」

 

 そう言うと斧乃木ちゃんはアイテム群の中から黒いグローブを手渡してきた。

 

「いや、それも考えたけど……でも、オーバースペック過ぎないか?」

 

「おっと何々? アドバイスしたらしたで反論してくるの? こっわ。偉そうなのはどっちだろうね」

 

「いやそこまで言わなくてもいいだろ!」

 

「鬼会山は、まあ軍手でも大丈夫だと思うけれど、問題はこの次、千針山なんだ」

 

 斧乃木ちゃんは僕のツッコミを無視して言った。

 

「千針山は尖った岩が沢山あるんだけど、多分鬼いちゃんはそれを掴んでのロッククライミングを強いられると思う」

 

「ロッククライミング? ……おい待て、そんなことした経験ないぞ」

 

「そこはノリで」

 

「舐めてるなきみ」

 

「だって僕がやろうと思えば例外の方が多い規則(アンリミテッドルールブック)で山なんて簡単に越えられるし」

 

「羨ましいな……」

 

 というか、登山と言っても、僕としてはハイキングのようなものを予想していたのだ。クライミングなんて考慮に入れてない。いやまあ勝手に思い込んでいたんだろと言われればそれまでだが。

 

「だから軍手だと、岩を掴んだ時に繊維を貫いて怪我するかもしれないでしょ? だから僕はグローブにしろって言ってるんだよ分かったか」

 

「ああ、分かったよ」

 

 妙に高圧的な態度にはもう突っ込まないぞ。

 僕は軍手とグローブを入れ替えた。そこで斧乃木ちゃんがまたもや何か手渡してきた。

 

「これは……地図?」

 

「そうだよ。地図というか地形図」

 

 斧乃木ちゃんが渡してきた用紙には、なんだか分からないが何本もの曲線、何らかの詳細のような数字などが描かれていた。等高線のようなものなのか――読み取れないこともないが、しかし難しすぎる。まず現在地が分からない。

 

「……あの、斧乃木ちゃん。もっとこう、普通の地図はないの?」

 

「何さ、それじゃあ不満?」

 

「不満っつーか、これ多分上級者向けの地図だろ。僕、バリバリの初心者だぜ」

 

「だろうね。そう言うだろうと思ってもう一つ、ほら。初心者向けの地図も用意してきたよ」

 

「じゃあ最初からそれを渡してくれよ!」

 

 僕は地形図ともう一枚の地図を交換した。今度の地図には詳細な数字などは書かれていないが、道筋は分かりやすい。

 

「でもこの地形図は臥煙さんが用意したものなんだよ。それを反故にするの?」

 

「それを言うならもう一つのこの地図だって臥煙さんが用意したものなんだろ」

 

「違うよ」

 

「え? じゃあ誰が用意したんだよ」

 

「僕だ」

 

「へえ、斧乃木ちゃんが――ってええ!?」

 

 久し振りに炸裂、阿良々木暦のノリツッコミ。自分で言うのも何だが、結構レアだと思う。

 斧乃木ちゃんはキメ顔(それでも無表情)で、両手で横ピースをきめながら言った。

 

「用意、というか作った、かな。ある意味僕はその役目も兼ねていた」

 

「つ、作った?」

 

「そうさ。全く人使い、いや、怪異使いが荒いよね。この大荷物を抱えたまま、この山を実際に歩いて地図を作れだなんてさ。伊能忠敬は八九寺姉さんの役なのに」

 

「そ、それはありがとう、っつーかお疲れ様……」

 

「労ってくれるの? じゃあ後でハーゲンダッツ買ってね」

 

「ああ、そりゃあ、うん」

 

 寧ろこっちから買ってあげたいくらいである。一つと言わず二つでも。

 

「十個は?」

 

「それはちょっと……」

 

 ハーゲンダッツ、高いんだよ。

 

 しかしまあこの童女、実に働き者である。そうか、ちょっと前に登山なんてやっていたなら、そりゃあ疲れる筈である。待たせてごめんなさい。

 

 僕は斧乃木ちゃんから貰った地図をマップケースに入れた。そしてリュックサックのファスナーを閉めた。

 

「……ああ、そうだ。あと、テントとストックも欲しいな」

 

「欲しがり屋さんだね。強欲な奴め」

 

「きみが持ってきてくれたんだろうが……」

 

 謎の罵倒を受けながら僕はテントの入った手提げのバッグとストックを二本受け取り、地図とストックを忍に手渡した。

 

「……ん? おいおいお前様? なんじゃ? なんじゃこれ。ストックは分かるが、地図?」

 

「疑問符ばっか浮かべるな。いやほら、僕両手塞がっちゃうから見辛いんだよ。だから道については忍に担当してもらおうかなと」

 

「おいおい嘘じゃろお前様!? 儂、この後お前様の影に潜ってDSもどきで遊ぶつもりだったんじゃが!?」

 

「嘘だろはこっちの台詞だてめえ! お前そんなこと考えてやがったのか!」

 

「まあまあ喧嘩はよしなよ二人とも。争いは何も生まないぜ」

 

「斧乃木ちゃん、君にそれを言う権利はない」

 

「勝手に権利を剥奪されても困るな」

 

 剥奪ではなく、元々そんなものはない。元からそんなの持っていないだろ。

 

「なあ、頼むぜ忍。僕たちは二人で山登りするんだろ? いや、三人でこの山を攻略するんじゃなかったのかよ!」

 

「ん? あれ、僕もカウントされてる?」

 

「ん? あれ、斧乃木ちゃんも来るんじゃないの?」

 

「そんな訳ねーだろ馬鹿」

 

 辛辣な言葉を投げ付けられた。そこまで言わなくても。

 

「え、じゃああの第一声は何だったんだ?」

 

「あんなのただのノリじゃないか。何本気にしちゃってんの。僕は登山なんかやっている暇はないんだ、他を当たれよ」

 

「いや他っていねーよ……あの、斧乃木ちゃんって、もしかしてこれと、地図を作るためだけに来たの?」

 

「それだけじゃないよ勿論。ちゃんと他に任務はある」

 

「あ、やっぱあるんだ。因みに、興味本位で訊くけど」

 

「興味本位なんかで訊かれたくないね」

 

「……任務って、どんなやつなんだよ」

 

「それを教えて僕に何かメリットがあるの? ありますの?」

 

「どこかの誰かさんの台詞をパクるな」

 

 しかも一番心象悪い台詞を……。

 

「まあ色々あるんだけど、直近はあれだね、正弦の手伝い」

 

「正弦の?」

 

「うん。正弦の足場になるんだ」

 

「…………」

 

 ……そりゃあ、要るな。

 あいつは地面を歩けないからな。

 ……ということはつまり、正弦は未だにあの木に上ったまま動けていないということなのか? だとすれば少し間抜けだが……それじゃあ、ある意味斧乃木ちゃんは急がなくちゃならないということになるな。

 

「そうだよ。だからあなたたちとこうして漫談してる暇なんてないんだ。僕を早く解放してくれ、忙しいんだよ」

 

「むう……」

 

 あまり拘束しているつもりはなかったが、アイテムを選ぶのに手間取ってしまったのは事実。だからある意味拘束していたと言える、のかも、しれない(精一杯好意的な解釈)。

 

「分かったよ。じゃあな、斧乃木ちゃん。また後で会おう」

 

「は? おいおいなんだいその投げやりな挨拶は。ちょっと淡白すぎやしない?」

 

「面倒くせえなおい!」

 

 おっと、思わず本音が出てしまった……この子は僕に何を期待しているのだろうか。何がしたくて何をさせたいのか、とんと分からない。無表情なのも相まって余計に。

 

「まあいいや……じゃあ、お望み通り僕は行くよ。行けばいいんでしょ」

 

「ああそうじゃ行け行け早く行け」

 

「うっざいなあ本当」

 

「うぬが言うな」

 

「あなたに言われたくない」

 

 意味不明な責任転嫁と軽い煽り合いをしながら斧乃木ちゃんは残ったアイテムを再び風呂敷で包み、持ち抱えた。最初に比べると大分小さくなっているのが分かる。

 

「それじゃあね、鬼いちゃん。多分また会うことになるだろうと思うけれど――うん、会えるといいね」

 

「……おいおい、なんだよ。意味深な言い方するなよ」

 

「意味深なんかじゃあないさ。そのまま、気を付けて行ってらっしゃいという意味だ」

 

「…………」

 

 斧乃木ちゃんはそう言うと、僕たちに背を向け山を降りて行った。途中で振り返ることもなく、手を振ることもなかったが、きっとそれに関しては両手が塞がっていたからだろう。

 僕は斧乃木ちゃんの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。そして、リュックサックを背負い直した。

 

「よし……じゃあ、行くか!」

 

「じゃのうー……ちゅーか地図係って、儂は何をすれば良いんじゃ」

 

 忍は地図を弄びながら言った。なんだかんだで地図係を務めてくれる気はあるらしい。

 

「その地図を見て、僕に指示を出してくれれば良い。間違ったルートを歩いたら訂正したりとか」

 

「面倒じゃのー」

 

 僕たちはまた歩き出した。いや、歩きと言うよりは速歩きと言った方が適切だろう。何せ、もう空は赤く染まっている。日暮れが近いのである。

 時計を確認したところ、現在時刻は午後四時過ぎ。今は真冬ではないからまだ暗くはなっていないものの、しかしまだ肌寒さの残る4月初日、日没までの猶予はあまり残されていない。

 

「なんとか今日中に折り返し地点まで辿り着きたかったんだが……あんまり無理しすぎるってのも悪手だよな」

 

「じゃな。では、今日はここらで休むとするか?」

 

「ああ、だな。もうちょっとテントが張れそうな場所を探して……そこで、今日の行進はやめにしよう」

 

 吸血鬼コンビだというのに、夜の行進を避けるという選択をした僕たちであった。

 

 いや、確かに吸血鬼は夜に強いし、僕も忍も不完全ではあるけれど徹夜一日くらいはなんの問題もない。が、あくまでもそれは通常通りの生活を送っていればの話。今は決して通常通りとは言えない登山の真っ最中なのである。体力は出来る限り温存した方がいい。

 

 それに夜の移動は危険極まる。全盛期レベルの視力なら夜の闇など問題ない、寧ろ昼よりよっぽど見やすかったのだが、今の僕は精々一般の方よりも夜目が利く程度である。具体的には、明かりが一切なくてもぼんやりと周囲が見える程度まですぐに適応出来るなんてレベル。

 

 はっきり言って、吸血鬼としての最大の利点は僕たちに備わっていない。その辺ヴァンパイアハーフとは全く真逆だが――何にせよ、ある程度明るさが残っている内に拠点を作っておかないといけない。

 

 僕と忍は暫く歩いて、ギリギリテントが張れるような場所を見つけて、そこにテントを張った。テントなんてロクに張ったことがないので少しばかり不恰好なものになってしまったが――まあ、仕方ないだろう。それに、元々登山用テントというものは居住性が低い。大した差はない筈だ。

 

 無事テントを張り終えた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。僕は薪木を集め、ライターで燃やした。焚き火である。

 自然でありながらしかし人工的な火の灯に照らされ、僕たちの山における最初の夜が始まった。

 

 吸血鬼の時間が。

 始まった。

 




■ 以下、豫告 ■

「手折正弦だ」

「斧乃木余接だよ。いえーい、ぴーすぴーす」


「僕、思ったんだけどさ。どうして折り紙の『やっこさん』って『やっこさん』なんだろうね? どうしてピンポイントで『やっこさん』なのかな? 教えて、正弦せんせー」

「私は先生などではないぞ、余接」

「知ってるよそんなの。言葉の綾だよ。気にするな」

「やっこさんといっても色々あるけれど……余接は折り方を知りたいのか? いや違うな、そうじゃない。私が予想するに、余接は『やっこさん』という名前になった由来を知りたい、違うか?」

「だからそう言ってんじゃねえか。予想も推測も何もねえよ」

「折り紙が発展したのは江戸時代だ。各藩は産業振興の一つとして和紙の生産に力を入れたため、和紙は安価になり一般庶民もこれを手にすることが出来るようになった。やっこさんというのは武家で働く身分の低い奉公人のことで、大きな四角形の半纏を染めたものを着ていることが多かったという。これはまさに折り紙におけるやっこさんの姿そのままだ――というのが余接の疑問に対する答えだ。どうだ?」

「なるほど。つまり要約すると、やっこさんはそもそも最初からやっこさんだったということだね。へー。僕、てっきり後付けの名前かと思ってたよ」


「「次回、裁物語 しのぶ」チッ「ハート 其ノ肆」」


「どうしたんだ余接」

「ごめん、何故か無性に舌打ちしたくなったんだ。いえーい」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。