博麗神社の一日は、寝室から出てきた霊夢の大きな欠伸から始まる。
まずは私が霊夢に挨拶。数秒遅れで思い出したように霊夢が同じように挨拶をし、卓袱台には着かずそのまま縁側へのそのそと移動する。日光を浴びると目が覚めるらしい。妖怪であるが故にそういった感覚とは無縁の私だが、確かに陽が昇るのを見ると今日も一日頑張ろうと思える。
そんな彼女の後ろ姿に視線を配りながら手元にあった櫃からご飯を手の上へと乗せ、そのまま手の中で何度か柔らかく握りこんでオニギリにする。私が封印される前にはない風習なのだが、今時はオニギリには具を詰めたり海苔という物を巻いて食べるのが主流だそうだ。霊夢に言われてその通りに作ってみたが、確かに具が入っている方が楽しいし海苔のお陰で白米が手に付かないのは非常に喜ばしい。ぬえにも今度作ってあげるとしよう。
程なくして、大皿には
……。
大事なのは大きさではないのだ。例え手の大きさの問題で二口サイズ程度の物しか作れないとしても、それで味を損なうだとかそんな事はない。そう、大事なのは外見ではなく中身。愛情さえ込めてあれば良いのだ。
――と、
風切り音。誰かが庭先へ降り立つ音。
何者かが庭先に来たことで、私は嵌りかけていた
「いよっ、霊夢!ひより!タダ飯食いに来たぜ」
「帰れ」
「おはよう」
霊夢の横を通って入ってきたのは、もうすっかり見慣れた白黒魔法使いこと霧雨魔理沙。
此処までが博麗神社の基本的な朝の日常風景である。私が料理をしている間に霊夢が起きて、魔理沙が来て、偶に起きていたら萃香も交えて朝食を食べる。魔理沙もどうやらあまり自分で料理をしないらしく、且つあまり良い物を食べていないようなので此処最近は毎日朝食を食べに来ていた。
魔理沙は一度卓袱台の上のおかずを見、そして私の居る台所の方まで来た。
「お、今日は御握りか」
これ運んでおくぜ、と申し出てくれた魔理沙に皿を任せる。
恐らくは一番上に積んであった奴が一つ卓袱台に着く前に消えることになるだろうが、魔理沙に任せる以上その程度は黙っているのが一番良い。というか、無駄だった。
空になった櫃に水を流し入れて、私も二人が待つ居間へと向かう。
「はぁー、美味かった……ご馳走様!」
「美味しかった、ご馳走様」
思い切り両手を上げて、そのまま床に倒れる魔理沙。
その横で同じく食事を終えた霊夢はそんな魔理沙を白い目で見ながら両手を合わせた。
「ん、お粗末様」
そんな二人を見て、私はここ数日で二人に表れるようになった変化に思いを馳せる。
魔理沙は見ての通り、博麗神社に居る時は彼女らしく振舞うようになった。元々霊夢と萃香だけの時はそうだったようだが、私が来てからの数日は借りてきた泥棒猫のように大人しかったのだ。別段何をしたという訳でもないので、一体私の何を見て彼女が自分らしく振舞っても大丈夫と判断したのかは分からない。彼女の緊張が解れたのは私が飛行練習の時に石畳を頭で砕いた辺りからだが――詳細な追求はやめておこう。聞くと傷つく気がする。主に私が。
二人が食べた食器と自身のそれを重ねた所で、私の手は隣にいた霊夢に止められてしまった。
「もう、良いってば。私が片付けるから」
大人しく待ってなさい、と言って台所へ消える霊夢。
肝試しから数日。霊夢は分かり易く態度を変えたりするような事はないのだが、何処となく雰囲気が柔らかくなった気がする。それに、一緒に縁側や賽銭箱の上で日向ぼっこなんかをする事も多くなった。元々私も霊夢ものんびりとするのが好きなので、これは正直に霊夢との距離が縮まったと喜んでも良いのだろう。最近では彼女の方から手伝いを申し出てくれることすらある。
……まぁ、食器の量と私を見て何か思う所でもあったのかも知れないけれど。
食器を流しに置いてきたのだろう霊夢が、再び私の隣へと座って口を開いた。
「ひより、アンタ次に行く場所は何処にするか考えてるの?」
ちなみに母さまやお母さんとか好きに呼んでくれて構わないと言ったのだが、何やら俯いてボソボソ言いつつ却下された。彌里の時は母さまだったので、是非とも母さんと呼ばれてみたい気持ちはあるのだが。
と、そんな下らない思考を切り上げて霊夢の言葉を反芻する。
「何処に……何処にしよう?」
「そんな一杯あるのか?」
上半身だけ起こして訊ねてきた魔理沙に頷いて答える。
この間は会えなかった慧音や当代の稗田がいる人里、何故か私を待っている幽香。それに、この間の宴会で輝夜と喧嘩していた人からは是非『紅魔館』に遊びに来てくれと言われていた。輝夜と妹紅も似たようなことを言っていたが、彼女達とはついこの間色々したばかりなので二人で
だからまぁ、優先するとすれば――
「地獄かな」
「「……」」
何故か霊夢と魔理沙が顔を見合わせて沈黙。
程なくして口を開いたのは魔理沙だった。
「えーと、余りに多すぎて地獄みたいな気分ってことか?」
「ううん、地獄」
「……地獄って言うと、閻魔だか何ちゃらが居て死んだ奴が行く所だよな」
「あ、えーと……旧地獄、だったかな」
紫と映姫が話していた時、朧気にだがそんな風に言っていた気がする。
二人の可哀想な人を見るような視線から察するに今はまだ地底の存在は地上には知られていないのだろうか。その辺りは萃香か紫に聞いてみないと分からないが、だとすれば、今は霊夢や魔理沙に詳しく話をし過ぎない方が良いのかも知れない。
さてどう言い繕おうかと考えた矢先、霊夢がゆるりと首を振った。
「決まってるなら別に良いわ。ちゃんと帰って来なさいよ」
とりあえず今日の昼と夕はコイツと何とかするから、と卓袱台から霊夢の側へと飛び出していた魔理沙の足を指差してそう言う。卓袱台の向こうから親指が立てられた。
であれば、お言葉に甘えさせて貰うにしても早い方が良いだろう。
私は立ち上がり、軽く身嗜みを整えて縁側から外へと出た。
振り返る。
「それじゃ、行って来る」
いってらっしゃい、と。
二人分の声に背を向けて私は妖怪の山に向けて飛翔した。
◇
数十分後、私は妖怪の山の中腹辺りにある巨大な洞窟の淵に立っていた。
ぬえを助けにいった時は紫のスキマで直接飛んだので正確な場所が分からず困っていたのだが、途中出会った白狼天狗の少女が親切なことに道案内を買って出てくれたのだ。妖怪の山は今でもあまり余所者を歓迎しないと聞いていたので疑問ではあったが、少女の話を聞くにどうやら天魔が方々に手を回してくれていたらしい。なので、私は道中彼女――犬走椛から妖怪の山の内情について教えて貰うことが出来た。
曰く、文は新聞作りに没頭していてまともに仕事をしていないらしい。今もどうやら人里に新聞を届けている真っ最中らしく、そうでなければ椛は文を私の元へ向かわせてくれるつもりだったとか。何故椛が私と文の関係を知っているのかと思えば、どうやら彼女、この一千年の間に鴉天狗から大天狗へと昇格したらしい。そして椛は数多く居る白狼天狗の中で、唯一とも言えるトンデモ上司の下に就いてしまった白狼天狗の一人であるとのこと。
「――っと。到着しました、此処が地底への入り口です。……すいません、結局私の愚痴ばかりでしたね」
何処かスッキリとした顔の椛が申し訳なさそうに頬を掻く。
そんな椛に楽しかったと告げると、彼女は本当に嬉しそうに微笑むのだった。
「では、ひより様。また今度、私用で会える事があれば」
そう言って森へ戻っていく椛を、私は心の中で密かに応援しておいた。
さて――
意識を再び正面に向けて、ポッカリと開いた空洞の中を覗き込む。
「……深」
洞窟内部は只管下へと続いているようだ。吹き込んでくる風から察するに数百は下らないだろうか。
此処を飛び降りた筈の萃香達は誰も怪我していなかったが、あれは参考にしてはいけない。
「よっと」
故に私は姿を蜘蛛に変えて風穴へと飛び込んだ。
今まで確かめた中での最大は鳥居の上からの十数メートルだが、その高さまでなら蜘蛛は他の動物に比べて高所からの落下で然程衝撃を受けずに済む。その辺りの理由は紫に訪ねれば判明しそうではあるが、如何せん蜘蛛の苦手な彼女にこの話を振るのは酷なのでやめておこう。
ちなみに蟻なんかでも問題はないのだが、これには佐渡島で狸を選んだのと同じ理由があった。
即ち、捕食。
「……」
人の姿で降りるよりもゆっくりとした視界の隅で同業者の巣を見かけて安堵する。
少なくとも蜘蛛の姿なら、こういった蜘蛛の巣に引っ掛かってしまうという事はないだろう。
……と思ったのだが。
「――っ」
引っ掛かった。それはもう、見事なまでに。
一体何が起きたのかと下を見てみれば、自らの八対の足が巨大な蜘蛛の巣に引っ掛かっている。……いや、引っ掛かったというよりは乗っかったという方が正しいのだろうか。人間の姿の時の私を二人分程並べただけの大きさの蜘蛛の巣が、洞窟の途中を蓋で塞ぐかのように張られていたのだった。
一応足掻いてみるも、糸は見事にくっ付いて離れる気配すらない。
仕方ないので妖術で火を起こそうかと考えた矢先に――
「ふんふふーん」
「ふんふんふふーん」
いや、現れたというよりかは昇って来たという方がしっくりくる。
とても奇妙な格好をした少女だった。魔理沙の着ている服を茶色と黒にして、そのスカートの先を膝下辺りで纏めていると言う他表現の仕様がない服装。恐らくは西洋風の格好だと思われるが、今までに出会った内の誰にも当て嵌まらないその姿に思わず言葉を失う。
否、唯そういう格好で来られたのなら驚きはしなかっただろう。私が絶句したのは、そんな言葉では表せないような格好の少女が
一瞬自分がひっくり返っているのかと思ったが、しかしそうであるならば彼女は鼻歌を歌いながらこの縦穴を落下していることになる。流石にそれはないだろう。
と、不意に逆さ吊り少女の焦げ茶色の瞳が私を捉える。
「ふんふ――……ん?」
ツツイと、そんな音が鳴りそうな動きで少女の顔が間近に迫った。
彼女は一瞬目前の現象に理解が追いついていなかったようだが、もがき続ける私と巨大な蜘蛛の巣を見、途端に顔を青褪めて私へと手を伸ばしてきた。
「うわあっごめん!」
彼女の指が腹の下へと差し込まれ、不思議な事に糸とくっ付く事無く私を掬い上げる。
普通の向きに戻った少女は私の隅々を確認し、やがてホッと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……同族を引っ掛けて怪我させたとあっちゃあ、表を歩けなくなっちゃうよ……」
大丈夫かい、と問うて来た少女にとりあえず感謝の念を送っておく。
「いやいや、謝るのはこっちの方さ。誰も通りゃしないのに見栄張って横糸を太くしちゃったんだよ、ついこの間。丁度、君の引っ掛かった辺りがそうなんだよね」
なんと彼女は私の声なき声が聞こえるらしい。この姿では話すことが出来ないので如何しようかと考えていたが、少女の反応を見るにそれは杞憂であったようだ。
とすると、彼女は……
「自己紹介が遅れたけど、私は黒谷ヤマメ。――そう!蜘蛛社会きっての出世頭、土蜘蛛の黒谷ヤマメ様とは何を隠そうこの私の事なのさ!」
勿論知ってるよね?と期待の眼差しで此方を見るヤマメに首肯する。
土蜘蛛といえば、私とぬえが京で大暴れした少し後に都を大きく騒がせたことで有名だ。確か鬼のような顔で、虎の胴体を持ち、クモの手足でワサワサと動いて人々を恐怖させたのだったか。当時ぬえの痕跡を探していた私は、密かながらにその目撃談と噂話を元に正体を探っていた。まさかそんな姿で人を驚かせる妖怪がこの世に二人も居たなんて……と、これはどちらの前でも言わない方が良いだろう。
特に自慢げに胸を張ってムフーと鼻息を鳴らす彼女には。
「にしても、君は一体何処から来て何処へ行くつもりだったんだい?どうやらこの辺の蜘蛛じゃなさそうだし、それにほんの僅かだけど妖力も持ってる。態々こんな所まで来なくても円満にやっていけるだろうに」
ツイツイと背を突かれつつそう問われる。
私は素直に答えた。
「この先の旧地獄に行きたい?何ていうか、物好きだね君。あそこ、普通に蜘蛛の串焼きとか売ってる所だよ?」
旧地獄には人の姿で行くことを固く決意。
ヤマメは暫し悩んだようだが、やがて仕方ないとばかりに肩を竦めた。
「……まぁ、良いや。君がそういうなら止めないさ。これが普通の仲間達だったら止めたんだろうけど、君みたいに話の通じる奴が行くってことは何か勝算があるんだろう?」
ヤマメの問いに再び肯定の意を示す。
ここでヤマメに自分の正体を明かすことも考えたには考えたのだが、彼女の同族好きから想像するに話が出来ると分かった瞬間引き止めようとしてくる気がした。無論彼女のことが嫌いな訳ではないが、霊夢との約束もあるので今回は私情を優先させて貰おう。ヤマメが私の正体を知って尚同族だと思ってくれるのであれば、またこうやって話す機会もあるだろうし。
ヤマメは私を手に乗せたまま先の巣よりも下り、そして壁の傍に手を伸ばした。
「はい、此処から降りていけば引っ掛かることなく下まで行けるよ。分かってはいるだろうけど、ちゃんと下が見えて来たら壁に糸張っとくんだよ?幾ら蜘蛛っていっても、この高さで糸なしは自殺も良い所だからね」
「!」
思わず洩れてしまった衝撃にヤマメが白い目で私を見る。
「……訂正。君、私の巣に引っ掛からなかったら糸を張らずに下まで行くつもりだったんでしょう?私が謝ったの取り消すから、代わりに君が感謝して頂戴」
八本の足を彼女に見えるように掲げて合わせた。蜘蛛が出来る最大限の感謝の姿勢である。
ヤマメは苦笑しながら顔を近づけた。
「それじゃ、この借りは何か別の形で返して頂戴ね?」
言外に無事帰って来いと言ってくれているのであろう、私はヤマメに了承の意を示して。
そして、長らくいた彼女の手の上から飛び降りる。
一番下へと辿り着いたのはそれから数分後のことだった。
「……」
ヤマメの忠告通り、壁に糸を張ってスルスルと下っていく。
ちなみにこういった動物固有の動きをする時私は彼等に任せっ放しにしている。鳥の翼や犬のような四足歩行位ならば自分でも出来るのだが、蜘蛛なんかはサッパリなのだ。増えた足を動かすのは体の延長線上だからか問題ないが、糸を吐き出すことだけはどうしても出来ない。何度か彼等に教えを請うた事もあったのだが、結果はこの通りである。
そうこうしている内に地面へと降り立ち、私は姿を人へと変える。
「よっと」
文字通り、地に足が着く感覚。
何度か手を握り、足を前後に振ってから風穴から外へと出る。
そして
「――」
視界一面に広がった橙の灯と絶える事のない喧騒に私は息を呑む。
嘗てぬえと都に出入りしていた時に見かけた祭事に勝るとも劣らない賑やかさ。けれど幟のような物は見えていない。であるならば、この景色こそが今の地底の日常なのだろう。
一千年前、此処には岩と怨霊しかなかった。僅か数ヶ月で、彼女達は都と変わらない程の町並みを築いてみせた。
そして今、目の前から聞こえてくる喧騒はとても四十そこいらの妖怪達の声ではない。鬼の、鬼以外の、人ならざる者達が笑い、怒り、叫ぶ声が聞こえてくる。それはまるで、結局私が人間だった頃に楽しむ事の叶わなかった都の祭りのようであった。此処までこの旧地獄を発展させて来たのだろう彼等の絶え間ない努力が、喧騒と共に聞こえてくるようで。
地底の都へ向かっていた筈の足は、その直前――大橋の途中で止まることになる。
「……」
一人の少女が橋の手摺に座っていた。
これまた奇抜な格好の少女である。ただし彼女に関して言えば、先に出会ったヤマメよりは普通の服装だとは思う。余り見慣れた格好ではないが、佐渡より遥か北の方に住んでいる者達に近い服装をしているのだ。ともすれば、占い師か何かのような印象を受ける少女だった。
そして金の髪に、淡い緑の瞳。
少女はスタンと手摺から降りて、そうして私の目の前へと立った。
「……」
「……」
視線が交錯する。彼女の瞳の内に、彼女を見つめる私自身の姿が映る。
彼女は、まるで――
「はぁ……まるで鏡を見ているみたい」
溜息と共にそう言い放った少女。その言葉は、正しく私の心の内を代弁していた。
少女の緑色の瞳がゆっくりと閉じられる。
「水橋パルスィよ」
「ひより。よろしく、ぱるしい」
「……まぁそうよね。良いわ、とりあえずパルシーと呼んで頂戴。但し、期間は一月」
それまでに発音出来る様にしなさいとパル……パルシィは鼻を鳴らした。
彼女の瞳が再び私を映す。
「それで、そっくりさんは如何してこんな地の果てに来たのかしら?」
「……そっくりさん」
「名前を覚えていない訳じゃないわ。ただ、この呼び方の方がしっくりくるだけ。……大方私達の起源が似ているからとか、そんな感じでしょうけど」
起源。彼女が何の妖怪なのかは知らないが、悪感情に関係した妖怪なのだろうか。
気になる所ではあったが、とりあえず彼女の質問へと答える。
「友達に会いに」
「ふうん?」
パルシーの瞳がユラリと煌き、仄かにその中に光が混じる。
程なくして彼女は疲れたように肩を竦めた。
「……余計な心配は止めなさい。貴女の心配しているようなことは、万に一つもないから」
「……」
まるで心を見透かされているようだった。否、見透かされたのかも知れない。
橋の途中で足を止めたのは何もパルシーが居たからという事だけが理由ではなかった。長い間待たせてしまったぬえや、村紗達と再会するのが何となく怖くなってしまったのだ。何か言われてしまうのではないかと、昔のように接してくれるのだろうかと、そんな不安が足を止めてしまった。そんな事はないと、そう思ってはいるのに。
だがパルス……パルスィは、何の事もないように心配はいらないと言った。
その言葉を聞いた途端、何故か私の中に巣食っていた不安が霧散する。
「今回だけの特別サービスよ。この事、旧都の誰かに言ったら二度と貴女の事名前で呼んでやらないから。貴女なら普段の私が
見た目も在り方も何もかも同一とは程遠い彼女、水橋パルスィの本来の性格。
私が頷くと、パルスィは再び橋の手摺に座って外を向いてしまった。
その右手がヒラヒラと舞う。
「分かったらとっとと行きなさい。私、自分の在ったかも知れない未来とか考えるの好きじゃないの」
「うん、ありがとう。パルスィ」
そう呼ぶと、彼女は本当に驚いた風に私の事を見た。見て、慌てて視線を外へと戻した。
私もそんな彼女から視線を正面へと戻し、そして今度こそ旧都へ向けて足を動かす。
――懐かしき友と再び再会する為に。
◇
正しく魑魅魍魎と表現する他ない妖怪の群れをすり抜ける。
既にヤマメやパルスィと出会って分かっていたことではあったが、どうやら地底は本当に鬼や封印された妖怪達が共に暮らす都にまで発展しているようだ。おでんや蕎麦の屋台といった定番の物から、ヤマメが散々注意を促していた蜘蛛の串焼き屋。ちなみに一番多いのは居酒屋である。普通の店、居酒屋、居酒屋、居酒屋位の比率だろうか。しかもそのどれもが妖怪達で埋まっているのだから、彼等は案外一日中居酒屋に居るのかも知れない。
私は立ち止まり、周囲を見回してみる。
赤ら顔で笑う鬼。その鬼や他の客に一片に料理や酒を提供する形容し難いウネウネ。向こうでは、たった今近くの居酒屋で清算を済ませて出て行った大柄な男が獣混じりの妖怪と取っ組み合いになっている。囃し立てる声。物を壊すなと飛ぶ怒号。ふと視線を先の居酒屋に戻してみれば、店主も客も喧嘩を見るのに夢中のようだ。
見物人の顔には笑顔。組み合っている二人も、心なしか楽しんでいるようにすら見える。
私は暫しの間、彼等に混じってその様を眺め続けることにした。
男が殴り
獣が噛み付き
けれどそんな事はお構いなしに、男は相手の首を掴んで地面へと叩き付けた。
湧き上がる歓声。
「どうだい、旧都は。これはこれで、まぁ面白いもんだろう?」
周囲の歓声は相変わらず煩いのに、その声だけはハッキリと私の耳に届いた。妖艶で、芯が通っていて、そこはかとなく楽しげな彼女の声。ポンと肩に手の甲が置かれる。見れば、その手には私の顔よりも大きいであろう朱塗りの杯が乗っていた。それをグイと顔の方に押し付けてくるので、思いっきり肩を跳ね上げてやる。
おおっ、と声がして――けれど中身が零れるような音は聞こえない。
私は振り返った。
「久し振り、勇儀」
振り返って、彼女が真後ろにいたので私は限界まで顔を持ち上げる。
着崩れた着物、ほんのりと赤く染まった頬、先の鬼の顔よりも赤い角。
星熊勇儀は屈託のない笑顔で応と答えた。
「という訳でようこそ。『ひよりはいい加減帰って来ても良いんじゃないか』の会へ!……つっても、もう殆ど終わっちまってるんだけどね」
たははと笑って勇儀は彼女達の他に誰もいない店内へと入っていく。
私も同じように彼女へ続き、そして――
「……すぅ」
「……ぐぅ」
重ねた座布団を枕に眠る村紗と、村紗のお腹を枕に眠るぬえの姿を見た。
「……」
「丁度お前さんが居なくなってから一千年って所だったろ?今日偶々、酔った勢いでこの二人が命名したのさ」
まぁ昨日も一昨日も飲んだんだけどね、と勇儀は恥じらいもなく笑う。
私はそんな勇儀の傍、ぬえと村紗の元へと近付く。
近付いてみれば、確かに色々と終わっているようだった。テーブルの下に落ちた村紗の白い帽子。猪口の代わりに使おうとでもしたのだろう、柄杓は熱燗用と思わしき桶の上で所在なさげに揺れていて。ぬえの槍に至っては、その先端に何らかの魚を刺したままテーブルへ無造作に投げ出されている。
私は二人を起こさないようにそっと彼女達の傍へと座った。
左手をぬえの頭へと伸ばす。
「良く帰って来たよ、本当に。よく自分の足で此処へ戻って来た。何があったにせよ、お前さんが無事で何よりだ」
ぬえの髪を手で何度か梳かし、次に村紗へ。
「だからそんな顔しなさんな。泣き腫らした顔なんて、もうこいつ等で見飽きちまったよ。萃香も地上に行っちまったからね、私ぁ今子供の笑顔に飢えてるのさ」
ツウと、頬に涙が伝った所で自分が泣いていた事を自覚する。
けれど決して冷たくはない。胸の中に温かい物が広がるのを感じた。
「……勇儀」
「ん、どうした」
私は村紗の頭から手を離し、そして右腕を蛇に変えて中に突っ込む。
ぬえや村紗は良い。彼女達になら、私は素直に感謝をすることが出来る。けれど勇儀にそれを言うのは何だか恥ずかしかった。同時に他でもない勇儀だからこそ、私は言葉ではないもう一つの感謝の仕方を知っている。彼女には悪いが今日だけは此方を使わせて貰うとしよう。
取り出したのは二つの酒器。嘗て妹紅と共に鬼と戦った際に勇儀から貰った杯と、目が覚めた時私が寝ていた社に置かれていたもう一つの杯。
萃香は、私の知っている限り瓢箪から直接酒を飲んでいるので。
私は勇儀から貰った方を彼女に差し出した。
「よろしく」
「あいよ――ったく、お前さんも律儀だねぇ」
そら、と彼女の瓢箪が宙を舞う。
私はそれを空いている手で掴み、今度は社にあった方に中身を注ぐ。
「主役は寝ちまい肴は全滅……門出祝いにゃぁ、ちと寂しいが」
「今日は泊まるよ、ぬえも水蜜も寝てるし」
どうせ明日もやるんでしょ、そう言うと勇儀はニマリと笑って杯を差し出してくる。
私はそれを受け取り、今度は私が先程酒を注いだ杯を彼女へと渡した。
「それじゃ」
「ああ」
「「乾杯」」
カツンと乾いた音が他に誰もいない店内に響き渡る。
結局、その一杯で二人だけの門出祝いは終わってしまったのだが。
「酷いよ、勇儀さんもひよりちゃんも。私のこと、言ってくれても聞いてくれても良かったでしょう?」
私も混じりたかったーと、一輪はそういってテーブルに倒れる。
あの直後、私は勇儀の頼みでぬえと村紗の為に毛布を取りに行っていた一輪と再会した。彼女は曲りなりにも僧なのでと、あまりお酒を飲んではいなかったようだ。ここで重要なのはあまりという所。この場合それは、つまり村紗やぬえのように眠りこけるまで飲んだくれたという訳ではない。
つまり、何が言いたいのかと言えば
「いえーい!お帰りなさい、ひよりちゃん!」
「ただいま……」
彼女は見事に出来上がっていた。それはもう、完膚なきまでに。
ちなみに村紗とぬえに掛けるつもりで持ってきた毛布は床に散乱している。私の顔を見た一輪が言葉通り諸手を挙げて喜んだ結果だ。これでいよいよこの居酒屋は死屍累々という言葉が相応しい物になって来たのではないだろうか。多分これから、私も彼女に撫で殺されてしまうが故。
容赦ない抱擁と頬擦りを遠ざける為、私は彼女の両肩に手を置いた。
「本当、一輪達が無事でっ……良かった!」
「えぇー、それはこっちの台詞だよ。ぬえさんに起こして貰ったら地獄だし、聖は居ないし、ひよりちゃんも……グスン」
グググと一瞬力が拮抗したのも束の間、再び私は一輪の胸に埋まった。お酒を飲むと私の中の彼等も同様に酔ってしまうので、今の状態ではとても一輪に対抗することは出来ない。
……だから私がお酒は好きではないのだ。
「ちょっと、勇儀、助けて」
「んー?あぁすまん、今ちょっと毛布を拾うのに難儀してる」
カラカラと笑う勇儀は、しかし正面の席に座ったままニマニマと此方を見ている。
更にその奥、一輪の体を通した向こうで雲山が散らばった毛布を片付けているのが見えた。一体勇儀は何をどう難儀していたというのだろうか。鬼は嘘が嫌いだというのに、嘘にもならない嘘なら良いのか。というか雲山も見ていないで助けて欲しい。そんな、微笑ましいと言わんばかりの顔で此方を見ていないで。
――と、一輪の抱擁がいよいよ圧しかかりに差し掛かった所で。
「すー……」
酔いが回ったのであろう、一輪は私の上で勝手に寝てしまった。
ご丁寧にガッシリと両手で私を抱いたまま。
「勇儀」
「おう」
「助けて」
「無理無理、毛布が全然片付かなくて」
ちなみに毛布は雲山が二人にちゃんと掛けてくれた。勇儀は動いてすらいない。
この惨状、雲山や勇儀が助けてくれなければどうしようもないのだが。
「なぁに、一千年振りの再会だ。ちょっとは素直になりなよ。此処の片付けとかお前達の運搬は、私と雲の旦那でやっておくからさ」
なあ?と訊ねる勇儀。頷く雲山。
あまり回らなくなってきた頭で考えを巡らす。村紗もぬえも寝ていて、だから今日は泊まるしかなくて、しかも動けない。折角寝てくれた一輪を起こすのは論外。しかし此処の片付けが――あぁいや、勇儀と雲山がやってくれると言っていた……言っていたか?まぁ、良いだろう。勇儀だけなら兎も角、雲山がいるなら平気だ。もし勇儀が役に立たなくても、雲山ならきっと。
なら私が寝てしまっても、良いだろうか。
一輪を退かそうとしていた手をゆっくりと降ろし、手だけを動かして辺りを探る。
何か、枕になる物でも――
◇
雲山は入道雲である。故に、喋ることはない。
けれど雲山は全てを見てきた。命蓮寺の面々が封印された後、封獣ぬえの手によって聖輦船の封印が解除された時から。ぬえと村紗のひより自慢を、一輪と村紗の苦心する様を、ぬえが時々静かに涙を流すことを、勇儀に誘われ皆で酒を酌み交すのを。最初は落ち込んでいた彼女達が、段々と本来の感情を取り戻していく経過を。地の果てにまで来て見つけた、妖怪である自分達を迎え入れる最後の『良心』を。
だからこそ雲山は誰に何を語ることもない。
この鬼も、きっとそう――
「なぁ、雲の旦那」
だから星熊勇儀の問いに、雲山は顔を向けたりはしなかった。
ただカチャカチャと小さく食器の擦れる音が響く、誰もいない貸切の居酒屋の中。この旧都を作り出した張本人の一人である星熊勇儀は、誰に向けるでもなく言葉を漏らす。
「実は昔、閻魔に説教食らったことがあってね。『萃香に全てを任せっきりにするな、お前も何時か周囲を纏める立場になるのだから』――だったっけな。まぁ、速攻逃げたから覚えてないんだけど」
机の下に落ちた村紗の帽子を取る。故に彼女の表情は窺えない。
「本当、萃香がやってた事をやるのは大変だったよ。
帽子は回収した。後はこれを、彼女の手にでも握らせて置けば良いだろう。
しかし雲山は暫くテーブルの下に居ることにした。
「だから仕事は真面目にやってるけども、やっぱり責任のある立場ってのは最悪だ。今でもそう思ってるし、多分これからも変わんないだろう」
でも、と彼女は続ける。
「それでもこいつ等の幸せそうな顔見てると、その笑顔に少しだけでも私のやった事が繋がったと思うと――どうにも嬉しいもんだ。……はは、らしくないのは分かってるけどな」
彼女は鬼である。故に、その言葉に嘘偽りはない。雲山はそのことが非常に残念だと思った。
もしも彼女が嘘を吐ける身であれば、きっとその言葉は雲でしかない自分ではなく、別の誰かにもっと違う形で言えていただろうから。
「――さて、と……馬鹿二人は兎も角、ひよりと一輪はとっとと船まで連れて行かないと風邪引いちまうかね。んじゃ旦那、下の掃除が終わったらそっちを頼む」
その言葉を合図にテーブルの下から出る。
見れば、先程一輪に圧し掛かられたまま眠りについたひよりの手がぬえの腕を掴んでいた。そのぬえは、両の手で村紗の手を包むようにして寝ている。どちらも枕を求めての行動だったのだろうが、前者も後者も全くと言っていいほど空振っていた。
けれど確かに、彼女達を見ていると勇儀の気持ちが分かるような気がした。
勇儀は何処からか持ってきた大きな桶を傍に置き、ぬえの腕を掴むひよりの手をそうっと解く。そうして、ひよりに抱きついたまま寝ている一輪と一緒に優しく持ち上げて桶の中へと降ろした。
雲山もそれに倣ってぬえと村紗を持ち上げ、勇儀と共に外へと向かう。
勇儀は出口の所で一度雲山を振り返った。
「この話、内緒にしてくれよ?ほらあれだ、雲を見て何とかみたいって言う奴。あれと同じだ。じゃないと恥ずかしくて死んじまう」
言われなくても雲山はそのつもりだった。
何も語らないが故に聞かせて貰った彼女の本心。それを誰かに話そう物なら、それは嘘を吐いたに等しい行為であるだろう。
雲山の心が伝わったのか、勇儀は助かると言って笑った。
雲山は入道雲である。故に、喋ることはない。
ぬえや一輪や村紗がこぞって遠慮した勇儀の強い酒を彼女があえて黙ってひよりに飲ませたことも。ひよりに圧しかかったまま寝てしまった主にして半身が実はこっそり起きていることや、そんなことには欠片も気付かず本心を語った鬼のことも。ぬえの槍に刺さっていた魚を刺さりっ放しにしておいたことも。
気付くべき物は何時かきっと、彼女達自身が気付いてくれるだろうと信じて。
今回半端にしか関われなかった人たちとの話は後々出てきます。