野分とは台風という意味である。第四艦隊所属の駆逐艦、野分はそのことを快く思っていなかった。
自分はあのようながさつな風と雨の塊とは全然違う、繊細な女の子だと野分は思っている。もっとも、女の子といっても艦娘であるから、『人間』の女の子とはまた一線を画すのだろうけど、それでも全てを吹き飛ばそうとする風や叩きつけるような雨とは似ても似つかないと思っていた。
姉妹の名前を見ても、例えば舞風などは優美な名前であるし、長姉の陽炎も、綺麗な名前だと野分は思う。唯一この悩みを分かってくれそうなのは嵐であるが、彼女は案外自分の名前を気に入っているらしい。
とはいえ、普段はあまり自分の名前など気にも留めない。だが、悪いことに今、彼女がいる泊地を台風が直撃しているのである。
吹きすさぶ風は窓から見える密林の木々を激しく揺らし、叩きつける豪雨は建物の中にいてもうるさいくらいだ。
「のわきー、ひまー」
同室の舞風は台風のせいで外に出られないせいか、いつも以上に暇を持て余している様子であった。
南洋諸島と呼ばれる島嶼群のひとつの島。彼女たちがいるのはおおよそ文明というものと隔絶されたかのような島であった。だが、海上交通の要衝であり、軍事的にも価値がある島である。そのため、彼女たちはその島に駐留していた。
もっとも、平穏無事と言えるような日々が続いていたものの。
「今日はおとなしくしてましょ。暴風雨の中での訓練も大事だとは思うけど…」
野分も舞風も海上で戦うために生まれてきた。それは天候を選ばない。どのようなスコールの中でも戦闘できなければならないのである。だが、彼女たちが所属する第四艦隊の上層部は全くそのようなことに無頓着であった。
「何か面白いことないかなぁ」
窓から外を眺めながら舞風は頬づえをついていた。もとより活発な少女である。外に出られないとなると無性にうずうずするらしい。
「もう、そんなに退屈なら勉強でもする?」
「やだ」
野分はため息をついた。体を動かすこと、特に踊ることが好きな舞風ではあったが、一方であまり勉強は好まないらしい。戦術や砲弾の飛び方、効率のよい魚雷の撃ち方などはまず理論がある。そのような理論を理解してこそ戦闘技術にも磨きがかかるというものだ。
「こう見えても可憐な舞風ちゃんは数々の激戦を生き延びてきたのでーす。いまさら勉強とか必要ないない」
舞風は冗談めかしておどけていた。
確かに、彼女は数々の激戦を戦い抜いてきた。それは野分が僚艦として戦ってきたから知っているし、野分が第四艦隊に先に引き抜かれた後も舞風は決して楽な部署に配属されていたわけではない。だから、舞風がどれだけの死線をかいくぐってきたかは推測がつく。
「ま、いいけれど」
結局のところ、不知火の筋トレと同じで、勉強も気休めにしか過ぎない。本当に大切なことは、この世に生を享けたその瞬間に、彼女たちの肉体に分かちがたく刻まれているのだから。
「野分ってさ、台風って意味なんだよね」
舞風が唐突に話題を変えてきた。
「まあそうだけど」
野分はその事実が気に入らない。
「かっこいいよね。猛々しいし何より強そう」
「私としては舞風って名前の方が素敵だと思う」
「ふふーん、そうでしょ!」
別に自分で名づけたわけではないのに、舞風は得意げである。
「でも、野分って名前も雅だと思うよ」
この妹は古語であれば雅だと思うのだろうか、と野分は思った。
野分は舞風と連れだって、屋内をぶらぶらと歩き回ることにした。総勢七名の小さな艦隊であるが、その割に設備が整っているのが自慢である。かつてはもっと多くの艦娘が使っていた泊地であるとはいえ、やや不自然な気がしないでもない。
例えば、艦隊司令部こそ存在しないが、南方にある同様の泊地はもっと質素だったはずである。
「そういえば、敵はこの暴風雨に紛れて防衛戦を突破しようとか思わないのかなー」
舞風は軽く首を傾げる。
「味方とぶつかって沈んだりする可能性があるしリスク高いでしょ」
「海上はそうでも海の中は静かなもんなんじゃないの?」
「…潜水艦か」
普段から哨戒に力を入れていればその可能性もあろうが、そもそもこの艦隊はほとんど哨戒任務を行っていなかった。暇を持て余した艦娘がたまに気分転換のつもりで行う程度のものである。
従って、艦娘の哨戒ではない、例えば航空機による哨戒などの被発見率が高い海上戦力であればともかく、もともと隠密性に優れた潜水艦がわざわざ台風に合わせて防衛線を突破しようなどということは考えにくかった。
「ねぇ野分。暇なのっていいことなんだよね」
舞風はぽつりと、囁くようにつぶやく。
「うん。私たちは艦娘。私たちが暇だってとことは平和だってことなのだから」
「でも、他の海域は一進一退の激戦を繰り広げている。前に所属してた第一航空艦隊も引っ張りだこだったもん」
舞風の表情は不安げだった。
「なんで?なんでだろう。不思議なくらい不安。平和なのに、ううん、平和だから。この平和を代償に、もっと怖いことが起きそうで」
「大丈夫。私がいる」
舞風の右手を野分の両手が包み込む。
「今度こそ私はあなたを守ってみせる。だから、ね?不安そうな顔をしないで。私がいるから…」
野分にとって舞風はかけがえのない存在だ。かつての悔悟と今の愛しさがない混ざって、とても切ない気持になる。
「うん」
舞風は頷いた。
「大丈夫だよ、野分。それは大丈夫…。でも、怖いんだ。何かが起こりそうで」
野分には舞風の不安が理解できなかった。でも、彼女がなすべきことはわかった。
最愛の妹の手を引くと、野分はぎゅっと抱きしめる。外の雨音が一層強くなったような気がした。
「私がいるよ。どんな怖いことも私と舞風がいれば大丈夫。一緒にいれば、きっと」
舞風はしばらく呆然としていたようだったけど、やがて野分の背中に手を回す。
「うん…」
台風はしばらく去りそうにない。