翌日。翠は346から姿を消していた。
最後にそばに居たのは安部と輿水の二人であったのだが、翠の巧みな言葉に騙されて脱走を許してしまって居た。
救いだと思えるのは、どこかで調達したのであろうペンと紙で置き手紙を残したことだろうか。
ただ、書かれて居た内容なのだが。
『しばらく旅に出ます。探さなくても気が向けば戻ってきます。翠』
と、簡潔に書かれており、皆の心配を逆に煽る結果となっていたが、その下にもう一枚紙が重なっており。
『翠さんと星空を見てきます。明日には戻ります。アナスタシア』
これまた翠と同じように簡単な文で書かれていた。
手紙を読んだアイドルたちは色々と勘ぐったりしていたりするのだが、この場にはいない二人には知る由もなかった。
☆☆☆
「アーニャと二人きりになるのは初めてかな?」
「はい。少しだけ、緊張しています」
「もっと気楽にいこうよ。日本語も上手くなってきてるし」
「美波と翠さんに教えてもらっているおかげです」
アーニャは空いた時間が見つかれば新田、そして翠から日本語のレッスンを受けていた。美波は教えると同時にアーニャとこれまた翠からロシア語を教わっていたのだが。
そのお陰か、そのせいか。
アーニャの魅力の一つと言えた特徴的な話し方はほぼ無くなってしまった。
翠としてもそのままでいて欲しい気持ちはあったのだが、日本語を話せて喜ぶアーニャの笑顔には勝てなかったようで。
そんな二人は今、カバンを背負ってとある山道を歩いていた。
日は既に沈みかけており、整備された道とはいえ完全な夜になってしまえば危険は増えるだろう。
たがそんなことは二人も承知なのか、気にしたそぶりもなく二人はどんどん歩いていく。
まあ、山道と言っても目的地まで十分もあればつく場所であるのだが。
「ここは結構お気に入りの場所なんだ」
開けた場所にたどり着き、翠はカバンの中からシートを取り出し、草っ原の上に広げてその上に寝転び。気の早い星が光を放つ空に目を向ける。
その隣にアーニャも同じようにシートを広げて寝転ぶ。
「少し早いけど、お話でもする? そうしたらゆっくり星空楽しめるかもしれないけど」
「あー、話の内容が内容なので、変わらないと思います」
「んー、だよねー」
翠としてもそれほど今の質問に意味はないのか、形の変わっていく雲を眺めながら、気の無い返事をする。
「合宿の花火が終わった後、です」
「うん」
「外に居たままの翠さんを見かけたので声をかけようとしたのですが……、杏たち、先に声かけました。……そのまま、話聞いちゃいました」
「なるほどねー」
「美波たちがたまにコソコソ話してるの、気づいてました。でも内容は分かりません。それがあの時、話を聞いて少しだけ理解、しました」
二人は互いを見ることなく、徐々に夜へと変わっていく空を見ながら言葉を交わしていく。
「翠さんは人と関わるの、怖いですか?」
「……怖い、ね。俺は臆病者だから。傷つけられるのが嫌なんだ」
「人は傷つけあうもの、だと思います。悪意のあるもの、ダメです。でも、悪意の無いもの、相手を信じてると思います。あー、言葉、難しいです。翠さんのこと、みんな好きです。嫌いな人、私は見たことありません」
どう続けていくか分からなくなったのか、しばらくアーニャは黙ってしまったが、翠は何も言うことなく待っていた。
「翠さんは、水に映る月、みたいです。私や美波、みんなの側にいます。でも、そこに居ません。あー、矛盾? してます。でも、そう思いました」
水に映る月。それは若干の差異はあれど、いつの日かの翠も口にして居た言葉。
アーニャが口にしたのはたまたまであろうが、翠の心に響かせるには十分であった。
「空に浮かぶ月、です。いつも見守ってくれてます。支えてくれてます。私たち、ここから見上げるだけ、です。翠さんは一人でとても寂しそうです。あー、私たちも星になって、翠さんのそばに居たい、です」
手を握られ、翠は隣で横になるアーニャに目を向ける。
だがアーニャは空を見たままでいた。けれど掴まれた手は離さないように強く握られており。まるで翠を遠くに行かせないように、ここへ留めておくようにも感じられた。
「アーニャは何も分かりません。でも、翠さんはとても寂しそうに、怯えているように見えます」
「だって、事実そうだもの。一人でいるのが寂しいくせに、人と関わるのも嫌だと思っている。今だってそうだし、つい最近、踏み出そうとしたけれど逃げ出したいもの」
翠は再び空を見上げ、目を閉じる。
光は遮断され、闇に包まれるような錯覚に翠は陥るが、ふと握られている手に意識が向く。
そこだけは暖かく、ずっと望んでいたものがあるような気がして。
「逃げてもいいと、私は思います」
「これまでずっと逃げてきて、大事なところでも逃げようとしてるのに?」
「でも、翠さんはいま、悩んでいます。いいことです。翠さんは前に進んでます。……あー、私が偉そうに言えませんね」
「偉いも偉くないもないよ。ただ歳を重ねただけさ。人それぞれに体験したこと、感じたことは違う。そこに上だろうが下だろうがないんだよ。だから俺はアーニャの今の言葉、嬉しく思う」
「スパシーバ。ありがとうございます」
日本語に慣れてきたアーニャだが、感情が高ぶるとまだ話し方が戻ってしまう。その頻度も減ってきたのだが、それを上回るほどに揺さぶられたのだろう。
握っていた手の力が強くなったり弱くなったりもしていた。
「アーニャと話していて、少し整理がついたよ」
「あー、私は何もしていません」
「なら俺が勝手に感謝してる」
「翠さんにはいつも助けてもらってます」
「俺自身について、美波たちに話そうと思ってるんだ。そこにアーニャも来て、話を聞いてくれないか?」
「無理を、しているのならダメですよ?」
「してないさ。打ち明ける時が来たのかもしれないし」
何か言おうと口を開いたアーニャだが、ちらりと見た翠の横顔はここに来る途中と比べてどこかスッキリとしているように見え。
何も言わないまま、空を見上げる。
大きな満月が浮かんでおり、その周りを無数の星が煌めいていた。
だが、その星々と月はどこからかやってきた雲に覆われて見えなくなってしまい、二人は仕方なくシートを片付け、その場を後にした。
来年はもう少し投稿できたらなと思います