夢現   作:T・M

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#7.揺れる心

 建物の屋上で、ナイブズは潮風を浴び、波の音に耳を澄ましながら、ネオ・アドリア海を眺めていた。普段は間近で見てばかりだったが、こうして少し距離を置いた高い所から眺めるだけで景色は一変し、見飽きないだけでなく、新しい世界までも開かれていく。

 すると、不意に太陽の光が遮られた。同時に響いてくる独特の機械音。見上げれば、やはりそこには宇宙船の姿が見えた。また今日も、マルコポーロ国際宇宙港に大勢の人間がやって来て、または出掛けて行くのだろう。

 時間が緩やかに流れるように感じるこの街も、日々確実な変化を遂げている。街全体から見ればほんの微細な変化も、10年後、20年後にどうなっているかは未知数だ。少なくとも、何から何まで完全に今のまま、ということはありえまい。

 宇宙船の動きを暫く追い、やがて目を逸らし、再びネオ・アドリア海へと視線を移す。先程までとは微妙に視界が変わり、ナイブズは先程までは映っていなかった景色の中、目の端に妙なものを捉えた。今までの経験や人生を踏まえても、あまりにも不自然で異質なそれを、ナイブズは見間違いかとそちらを見遣り、具に観察し確認する。

 ネオ・アドリア海に浮かぶ無数の島々の中の一つ。そこに、異様なそれはあった。

「白……いや、淡い桃色の……木、か?」

 ナイブズの知る限り、樹木の色は基本的に葉の緑と幹の茶色の2色構成。種類や個体による濃淡の違いはあるだろうし、又は花が咲くことによってそこにもう1色加わることもあるだろう。だが、淡い桃色の木とはどういうことだ。動物のアルビノのようなものか? それとも、ナイブズが知りえない樹木なのか?

 ここから見ているだけでは分からない。事実を確かめたい気持ちはあるが、確かめようにもナイブズには海を渡る術がない――こともなかった。

 ズボンのポケットから、この星の通貨を取り出す。最近は仮の住まいの家主の仕事を多少手伝い、その労働の対価として金銭を得ている。金額の多寡は知りえないが、あの程度の些事で得られる報酬だ、高くはあるまい。しかし、二束三文のはした金であろうと金であることに違いは無い。ならば、この金を使ってあの島に行く手立てもあるはずだ。

「街へ行ってみるか」

 決めると、ナイブズは建物の屋上からそのままひょいと、まるで階段を下りるような気軽さで飛び降りた。常人ならばかなり危険な行動だが、ナイブズにとってはほんの些細なことだ。着地し、そのまま何事も無かったように歩き出す。

 

 

 

 

「あー……えっと、ナイブズさん。こんにちは」

 目的の島まで行く手段を探して道を歩いていると、水路の方から声を掛けられた。声を聞いてすぐに声の主が何者かを察し、そちらへ振り返る。

「藍華か、久しいな」

「はい、お久し振りです」

 少し前に共に宝探しをした1人、藍華だ。黒い舟に乗り、オールを握りながらぎこちない笑みを浮かべている。前に会った時と比べて、妙に固い表情だ。

 藍華が舟をナイブズの傍に着けると、同乗しているもう1人の水先案内人がナイブズの顔を下から覗き込んできた。

「ほっほ~う。そうか、お前がナイブズか」

 この声と姿には覚えがある。カーニヴァルの時にアテナが探していた、彼女の友人だ。

「お前は、アキラか。カーニヴァル以来だな」

 ナイブズが名を呼ぶと、アキラは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。言ってから、アキラに素顔を見せるのは今が初めてだったことに気付く。

「え? カーニヴァルって……お前、あの時の仮面を被ってた奴だったのか!?」

「そうだ。それで、俺に何か用か?」

 向こうからすれば初対面だと思い込んでいた相手に面識があると言われたのだ、驚くのは当然だろう。アキラの反応を冷静に分析しつつも、敢えて触れようとはせずナイブズは話を先に進める。第一印象から、アキラは迂遠な礼儀や気遣い等を嫌う性質ではないかと推察したのだ。

「ふん。お前がアテナのみならず、可愛い後輩にまで手を出して来たって聞いたからな。ちょっと顔を見るついでに、釘の一つも刺してやろうと思ったのさ」

 驚きからすぐに抜け出し、ナイブズを睨みつけながら、アキラはそのように言って来た。普通の人間ならば思わず尻ごみしてしまいそうな、鋭く強い視線だ。それを平然と受け止め、ナイブズはアキラの眼を見返した。ナイブズは漠然と、彼女に共感めいたものを覚えていた。

「晃さん、別に私は何もされてませんよ」

「お前が良くても、私が良くないんだ!」

「そんな横暴な!」

 アキラがナイブズに絡んで来た理由の一つに挙げられた藍華は抗議したが、アキラは独自の論理で藍華の意見を却下した。

 確かに、藍華の言うとおりアキラの態度は横暴とも言える。だが、ナイブズにはそれが理解できるような気がした。

「アテナのことが、そんなに心配だったか」

 藍華の事は一先ず置いておき、ナイブズはアキラにそのように問うた。

 人間にとって数ヵ月の時の経過は決して短いものではない。悪い出来事や嫌な出来事があっても、その時の感情を忘却してしまうには十分な時間だ。他人事となれば、それは尚更だろう。しかしそれも、強い想いがあれば別だ。

 自分自身にとって大切なもの、譲れないものに関わる事象を、人間は易々とは忘れない。普段思い出すことが無くとも、何かの切っ掛けさえあれば、その時のことが鮮明に思い出されるのだ。中には、常軌を逸した強烈な感情――憎悪や復讐の念を四六時中持ち続ける者もいたが、今はそれを引き合いに出す必要はあるまい。

「ああ、心配だったさ。あいつは、少なくとも私と会ってから一度も、自分の歌を疑ったり、後悔したりしたことなんてなかったんだ。それを、あんな風に追い詰めて……」

 ナイブズを睨む眼に、更に強い感情を込めて、アキラは立ち上がりナイブズへと詰め寄った。それを、ナイブズは黙って見返し、正面から受け止める。

「けど、アテナさんのスランプ解決も、ナイブズさんのお陰、なんですよね?」

 しかし、ここで思わぬ横槍が入り、アキラは出鼻を挫かれた。

「ぐっ……って、藍華、何でお前がそのことを!?」

「後輩ちゃんから聞きました」

「後輩ちゃん……? ああ、アテナの後輩のアリスって子か」

 直接の後輩のアリスまで口外しているとなると、アテナの件は意外と水先案内人の間で広まっているようだ。完全に復調した現在ならば、単なる話の種で済むのだろう。ナイブズも、当時の事を振り返る。

「アテナの歌に罵声を浴びせたことは、間違いだった」

 率直な気持ちを、そのまま口にする。それを聞いて、アキラは先程までとは異なる感情を秘めた眼で、ナイブズを見る。

「……どうだった? 天上の謳声を聴いた感想は」

「良い歌だった。今まで聞いた、どの音楽よりも」

 嘘偽りの入る余地がないほど簡潔に、本心のまま答える。暫くアキラは何も言わず、真っ直ぐな眼でナイブズの眼を見つめ、やがて、何かに納得したように小さく頷き、目を逸らした。

「分かったんなら、それでいいさ。呼び止めて悪かったな」

 強張らせていた表情を緩めながら溜息混じりに言って、アキラは再び舟に腰を下ろした。急に腰を下ろされたので、立ったまま状況を見守っていた藍華は多少バランスを崩してしまったが、すぐに持ち直した。

 そこで、ふと、ナイブズは以前舟に乗せてもらった水先案内人の少女、あゆみに教えられたことを思い出した。曰く、片手だけの手袋と黒い舟は半人前の印で、1人では客を乗せることもできない。だが、それには例外もある。

「確か、半人前でも一人前の水先案内人が同乗していれば、客を乗せられるらしいな」

「え? はい、そうですけど……」

 ナイブズが問うと、自分に声を掛けられるとは思っていなかったのか、藍華は若干の戸惑いを見せながらも首肯した。確認し、海の方に視線を遣りながら、口を開く。

「ネオ・アドリア海の島まで運んでくれ。金はある」

 乗船料の価格相場は知らないが、手持ちの金では足りないということはあるまい。いざ足りなかったら、その場で交渉して何とかするとしよう。

「へぇ~……態々、シングルの(ゴンドラ)に乗るとは、物好きだね。しかも、目の前には『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)』もいるってのに」

 すると、藍華ではなく、アキラがそのようなことを言った。彼女が今口にした『クリムゾンローズ』という言葉には、ナイブズも覚えがある。

「お前は、水の3大妖精の晃・E・フェラーリだったのか」

 アテナと同じ水の3大妖精の1人は、艶やかな黒い長髪と優雅さを兼ね備えた大胆な立ち居振る舞いが特徴的という。水先案内業の老舗『姫屋』の不動のトッププリマであり、水先案内人としての通り名は『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)』。名を晃・E・フェラーリ。

 仮の寝床の家主から聞かされた水の3大妖精の解説の一部を思い出す。確かに黒髪等の特徴は一致している。今までの挙動から優雅さを見出すことは難しいが、彼女自身が殆ど動いていないのだから当然か。

「そうさ、やっぱり知らなかったみたいだな。で、藍華、どうする? お前を選んだ客だが、今は水上実習中だ。それを理由に断ってもいいんだぞ?」

 ナイブズの言葉に頷くと、晃はすぐに藍華へと問う。選択肢を提示しながらも、答えは分かっていると言わんばかりに自信に溢れた表情だ。

「いえ、やります。私を選んでくれた初めてのお客様を、お断りしたくありません。今日までの練習の成果、お見せします!」

 藍華が声に力を込めて答えると、晃も頷いた。

「よし、いいだろ。そういうわけだ、ナイブズ。折角の所悪いが、今日はうちの半人前の実践にも付きあって貰う」

「構わん。だが、お前はいいのか?」

 つい先程までナイブズへと嫌悪を露わにしていたにも拘らず、今の晃からはそういった感情は一切感じられない。仕事に私事を持ちこまないとか、頭の切り替えが早いとか、そういうのとは違う。どうやら、もうナイブズへの蟠りを自分の中で解決しているようだった。

「アテナの事か? そりゃ、詫びの言葉も無しに解決したって聞かされた時は呆れたし、お前に会うことがあったら一発ぶん殴ってやろうかとも思っていたさ。けど、アテナが納得していて、お前もあいつの歌の良さをちゃんと分かったみたいだ。なら、私がこれ以上口を挟むことは何も無いさ」

 さっぱりとした調子で、晃はそのように言い切った。それを聞いて、ナイブズは晃に共感めいたものを感じた理由を理解した。

「そうか」

 何の事は無い。アテナを心配する晃の姿に、出来の悪い弟の心配をする性質の悪い兄の姿を重ねていたのだ。

「納得できるんですか」

 晃の言葉を自分勝手な言い分と感じたのか、半ば呆れたような様子で藍華はそのように言った。

「……俺にも、そういう感情には覚えがある」

 かつて、ジュライでヴァッシュと再会した時を思い出す。ナイブズは、ヴァッシュがそれまでどのようなことをしていたか知っていた。ラブ&ピースを唱える平和主義者でありながら、死者こそ出さないようにしていたものの、様々な事件や騒ぎに首を突っ込んでは物的被害を拡大させる“暴走野郎(スタンピード)”と呼ばれ、付いた仇名は『人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)』。

 生来持ち合わせている絶大な力を一切使わず、日常的に、風が吹くように銃火が飛び交う場所でそのような生き方をしていれば、どうなるかは分かっているつもりだった。だが、ナイブズは実際にヴァッシュの身体を見て、自分がどれ程考え足らずだったか――ヴァッシュが、自分の想像を遥かに超えた大馬鹿だったのだと思い知った。

 ナイブズは絶句した。ヴァッシュの体に無謀の代価として刻まれた、無数の傷を見て。無傷の皮膚よりも傷痕の方が多い、その体を見て。

 その時真っ先に想ったのは、たった1人の弟を傷付けた人間への憎悪や憤怒ではなく、お人好しが過ぎる大馬鹿者の弟への心配だった。アテナのことを聞いた時、晃が持った感情もこのようなものだったのではないだろうか。

「それでは! お客様、お手をどうぞ」

 緊張の為か、先程よりも堅く大きくなっている藍華の声を聞き、一旦思考を打ちきる。自分に差し出された手を見ると、一拍の間を置いて、ナイブズは藍華の手を取った。

「急ぎではないが、頼むぞ」

「はい、お任せ下さい」

 路上から舟上へと丁寧に誘導され、晃の前の席に腰を下ろす。

「それでは出発します。……えっと、ネオ・アドリア海のどの島でしょうか?」

「名前は知らないが、位置は把握している。海に出たら指示を出す」

「畏まりました。それでは、出発します」

 舟は、ゆっくりとネオ・ヴェネツィアの街を進み出し、そのままネオ・アドリア海へと向かう。海へと出る途中、藍華から観光案内を聞かされる。流石に本格的に観光案内での一人前を目指しているだけあり、以前に聞いたあゆみのものとは全く違う。あちらは、殆ど世間話のような感覚だったのだから違いが出るのは当然だが。

 モデルとなった地球のヴェネツィアでの歴史とこの街でのエピソードを織り交ぜた観光案内に、ナイブズも素直に聞き入る。他の舟に比べてやや速度が出ているようだが、個人差の範囲内だろう。

 やがて街の水路を抜け、海へと出た。それを境にしてか、舟が出てから今までずっと黙っていた晃がナイブズに話し掛けて来た。何故、アテナの謳声を聞いて罵るようなことをしたのか、と。これには藍華も興味があるようで、舟を漕ぐ手を休めずとも、ナイブズに先程までより気を向けている。

 ナイブズはこれまで通り、包み隠さず全ての事実を話した。反応は、あゆみの時と同様。案の定、とでも言うべきか。

「波の音に聞き入って、アテナの歌が耳に入らないで、耳障りだった……ねぇ」

「本当の事だ」

「冗談だったら(ゴンドラ)から蹴落としてやるとこだけど……本気みたいだな」

 信じられない、と言わんばかりの調子で出て来た晃の言葉に、即座に返す。晃もそれ以上は異論を唱えず、しかし納得できていない――というよりも、理解が追いついていないようだ。この星で生まれ育ったのならば、それで当然だろう。

「海も川も無い星……想像もできませんね。けど、そんな所で、よく暮らせてましたね」

 藍華の感心したような言葉に、ナイブズは一瞬、顔を顰める。すぐに、平素の表情を取り繕い、平静を装う。

「……あの星に墜ちてしまった以上、あの星で生きて行く以外に無かった」

 厳密には違う。ノーマンズランドに生きる人間とプラントは、人間を始め地球の生物が生存するのに著しく適さない環境である熱砂の星に墜ちてしまい、そこで生き抜くことを強いられた者達の生き残りであり、末裔である。だが、それもただ1人の例外を除いてだ。

 その例外とは、ナイブズ自身だ。ナイブズにとっては、あの星に移民船団を“墜とした”のだ。

 ノーマンズランドの人類とプラントの苦難の歴史、その元凶はミリオンズ・ナイブズの他にいない。そのことを早計と思うことはあったが、悔いることはなかった。この星に来て、再び人と向き合おうと決めた時も、過去の事は修正できない。ならばそれを受け入れて、突き進む以外に無いと、そう考えていた。

 だが、今、ナイブズは言い澱んだ。言葉を濁した。誤魔化した。

 それは、真実を話したくないと思ったから、後ろめたさを感じたから。

 ならば、そうさせた感情は――。

「……見えた。前方のあの島だ」

 思考とは無関係な言葉を口走る。単なる反射か、或いは、恐れからの逃避か。

「あちら、ですね。畏まりました。それでは、着くまでの間、ネオ・アドリア海の風景をご堪能下さい」

「そうするか」

 藍華の返事にそっけなく頷き、視線を周囲の海と空へと移す。

 海の色は、空の色だという。空が曇れば海の色も濁り、陽が落ちれば海も暗黒に沈む。つまり、海は空を映す巨大な鏡だ。

 ならば、自らの心を映す鏡とは、なんだ?

 

 

「海と水路とでは水の流れが違ったようだな」

「はい。場所もそうですけど、潮の満ち引きや時間帯が違うだけで同じ場所でも潮の流れは変化します。ですから、視界もスペースも広いですけど、単純な操船では街の水路よりも難しいですね」

 小島に上陸し、舟の上で感じたことを何となく口走ると、それに藍華が的確に答える。なるほどそういうものなのかと、ナイブズも頷く。

「帰りも頼む。他に当てがないのでな」

「分かっているさ。こういうのは往復で請け負うのが原則だからな。それにしても、どうしてこの島に来たんだ?」

 帰りの分の依頼に、晃がすぐに答えた。そして、この島に来た理由を聞き返される。ナイブズは迷いなく、簡明に答える。

「気になる物が見えたから、確かめに来た」

 あの淡い桃色の樹木と思しきものの正体、如何なるものであろうか。実際に樹木であるとしてどのような姿形で、どのような生態なのか、興味深い。

「なんだ、花見に来たんじゃないのか」

「ハナミ?」

 晃が何気なく零した一言を、今度はナイブズが聞き返した。完全に未知の単語だが、それが此処に来た理由と何らかの結びつきがあるのではないかと考えたのだ。

「あ、そうか。ナイブズさんは知りませんよね。花見って言うのは地球(マンホーム)の日本という国が発祥の春の行事で、この時期に綺麗に咲く“桜”という花を見ながら宴会をする、という風習です」

 藍華の解説に頷く。恐らく、それで間違いあるまい。

「花……それかもしれんな。そのサクラの場所は分かるか?」

「はい。それでは、ご案内します」

 藍華と晃に先導され、ナイブズは島の奥へと進む。途中、日本特有の建築様式の建物に出くわす。ナイブズの知識にある通り、これが神社であることを藍華から説明される。ただ、藍華も晃も日本文化にはあまり詳しくないらしく、この神社の歴史は勿論、神社そのものの意味や成り立ちも知らなかった。逆にナイブズが日本の土着信仰である神道由来のものであることを解説して感心された。

 何故、イタリアの街並みを再現したネオ・ヴェネツィアのすぐ近くに日本文化の宗教建築があるのかと問う。藍華によると、地球からこの星への入植が始まった当時、出身国別に島が割り振られ、それぞれの文化村を作ったのだという。この島も、そうして作られた日本村の一つなのだ。他にも同じ日本村はあり、近くには秋の紅葉で有名な日本村もあるらしい。紅葉というものも知らないが、それを直に見られるのは秋、2つ先の季節だ。

 そうして藍華の観光案内を聞きながら進んでいると、人の喧騒が聞こえて来ると同時に、ひらひら、と何かが風に舞って来た。顔に張り付くよりも先にそれを掴み、何かと検める。

「それが、さっき言った桜の花びらだ」

 晃に言われ、それを具に観察する。花弁の大きさから察するに、あまり大きくない花のようだ。色も、桃色よりも白に近い、それ程に淡い色彩だ。

「もう、すぐ近くですよ」

 藍華に手招きされ、神社の脇道を進む。

 脇道は短く、すぐに開けた場所に出た。

 

 はらはら、はらはら、はらはら、と。無数の花びらが、微かな風に誘われて舞っている。

 少し強い風が吹くと、ざぁっ、と波打つような音を立てて、枝が揺れ、多くの花びらが駆け出すように宙を舞う。

 小さな広場を埋め尽くす華の舞。周囲を囲うのは、同じ色で飾られた木々。

 手近な木の一つに近寄り、見上げる。予想していた通りの木であり、想像もしていなかった木だ。

 幾重にも別れた枝の一つ一つから、たくさんの花が咲き、木を淡くも鮮やかな色で彩っている、かと思いきや、よく見てみれば幹や地面近くの根から顔を出している花もちらほらとある。基本的に枝と同じつくりだから、こういう気まぐれもあるか。

 再び、頭上に咲く花を眺める。

「これが……サクラ」

 花は咲いている内が良いものとばかり思っていたが、散る様がこんなにも幻想的な花があるとは知らなかった。

 自分でも気付かぬ内に、ナイブズは桜に見惚れていた。藍華と晃も同様に、桜を眺めて楽しんでいる。

「よっ。あんた、こんな所でなにをぼさっと突っ立ってるんだい?」

 すると、聞き覚えの無い声に呼び掛けられた。そちらへ顔を向けると、いかにも日本人らしい顔立ちの中年の男がいた。引き締まり、鍛えられた肉体と佇まいは戦士――などこの星にいるはずがないから、単なる格闘技経験者か何かだろう。

「サクラを見ている」

「へぇ、桜そのものをじっくり見てるってのも珍しいな。けどよ、折角この時期にこの場所だ、あんたも一緒に花見をどうだい?」

 ナイブズの返事を聞くや愉快そうに笑うと、男は後ろを指した。そちらを見ると、10人ばかりの人間達が集まって、桜の木の下にビニールシートを広げて宴会をしている。成る程、あれが花見か。だが、誘われるのは解せない。

「……何故、俺を誘う」

「こういうのは、見ず知らずの他人を引っ張り込んででも大人数の方が楽しいのさ。それに、そうしたらここの大神様も喜びそうだし、な」

 見ればこの男、僅かに顔が赤い。恐らく酒が入っている。だが、酔っているようには見えない。酔った勢いではなく、平素からの気性でナイブズを花見に誘っているのだろう。

 こういうノリや勢いは分からないでもない。だが、それに応じるのは僅かに躊躇われる。

「父様、いつまで初対面の方にからんでいるのですか。早くおもどりください」

「ああ、悪いな。で、どうだい?」

 娘らしい少女が呼び戻しに来ると、男は重ねて問うて来た。

 ……あいつは、こういう気持ちをずっと抱えながら、人に寄り添い、人と共にい続けたのか。

 人間への後ろめたさを抱えたまま人と接するというのは、想像以上に難しい。

「そっちのお嬢さん達も、どうだい?」

 ナイブズが黙っていると、男が離れた場所で桜を眺めている2人にも声を掛ける。

「え? 私達も、ですか?」

「くるみパンもあるぞ」

 藍華の戸惑ったような声を聞いて、男が晃の方を見てそのように言った。すると、晃の眼が、すわっ、と見開かれた。

「よし、行くぞ藍華。私が特別に許可する」

「ちょっと、晃さん! 仕事中の買い食いとかは禁止されてませんけど、流石にこれはアウトですよ!」

「なぁに、お客様たってのご要望とあってはしょうがないさ。な?」

 言って、晃はナイブズを見遣る。どうやら、晃はくるみパンにご執心のようだ。水の3大妖精のような有名人ならば、好物が一般にも知れ渡っているのも頷ける。そして、男の狙いはこれだったかと、ナイブズも気付く。

「……そういうことにしておこう」

 晃に押され、男に誘われるまま、頷き、ナイブズ達は花見の席に加わる。突然の乱入者にも男の家族達は戸惑うことはなく、寧ろ大歓迎だった。来る者は拒まずが、彼ら一族が酒食を酌み交わす時の決まりらしい。

 勧められるままに飯を食い、酒を飲む。重箱という日本独特の弁当箱に収められた日本料理を中心とした料理の数々は、味だけでなく見た目も良いもので、自然とナイブズの箸も進む。初めて目にする水のように透明な酒――日本酒の清酒を珍しがっていると、その成り立ちやらを実際に飲みながら教えられる。

 晃は自然と賑わいの中心になり、藍華も最初は戸惑っていたが同年代の者もいたことからすっかり馴染んでいる。その様子を、ナイブズは一歩下がった所で眺めていた。

 いなり寿司を食べようと箸を伸ばすと、最後の一つを隣席の少年に先に取れてしまった。なんとなく隣を見ると、そこにいたのは見覚えのある、狐の面を被った少年の姿をしたものだった。暫し何も言わずに顔を見合わせ、やがて、どちらからともなく視線を外す。

 今は人と交わる場所だ。同席した同類にちょっかいを出すような野暮はするまい。

 

 初めて加わる人間の宴会は、なかなか楽しいものだったと言えるだろう。

 美味い料理を食べ、美味い酒を酌み交わし、時に舞い散る桜を愛でる。花見が日本の伝統文化として今も継がれている理由も、理解できるというものだ。

 だが、心に僅かに射した影、自覚した己の闇が、どうしてもナイブズの頭から離れなかった。

 

 

 

 

 宴会に付き合ったお陰で、思いの外時間を取られた。ネオ・ヴェネツィアの船着き場に戻った時には、太陽は大分傾き、空と海を茜に染めていた。

 舟を降り、藍華に今回の分の料金を支払う。思いの外安値だったが、これも半人前の料金だからだろう。

「本日のご利用、ありがとうございました。また(ゴンドラ)に乗る機会があれば、今後も姫屋を御贔屓にお願いします」

「考えておこう」

 藍華からの挨拶に短く返事をする。そういえば、ナイブズが2度乗った舟はどちらも姫屋の半人前の水先案内人のものだった。こういうものも縁と云うのだろうか。

「どうだった? 人生初の花見の感想は」

 藍華に続いて舟を降りた晃は、そのようなことを問うて来た。今来たばかりの方角を振り返り、つい先程までの光景を思い出しながら、口を動かす。

「いい体験だった。……お前達のお陰だ、礼を言う」

「どういたしまして」

 ナイブズの言葉に、藍華は少し照れたように笑いながら言葉を返す。だが、晃は何やら怪訝な表情でナイブズの顔を覗いていた。

「本当か?」

 流石は、アテナと同じ水の3大妖精か。アテナに仮面越しの表情を見通されたことを思い出しながら、ナイブズは内心で晃の洞察力を高く評価した。

「本当だ。ただ、別のことを思い出した」

「そう、か。心から楽しめなかったのは残念だったな」

「いや。それで良かったのかもしれん」

 晃の言葉に短く答え、それへの反応を確認することもせず、ナイブズは素早く踵を返し、小道を抜けて路地裏へと消えて行った。

 

 これから暫くは、自分を見つめ直さねばなるまい。

 人間を憎悪した過去、人類を根絶やしにしようとしていた事実。どちらも真実であり、ナイブズ自身、それらを否定するつもりも忘れるつもりも無い。

 過去の自分はその時の自分が信じる道を、最良と思える方法で突き進んでいたのだ。それを否定する理由はない。だが、今日、ナイブズは初めて、過去の自らの所業に対して後悔に近い感情を覚えた。人間に対して後ろめたさを感じたのだ。

 それが何故なのかは、分からない。だから、その答えを己の(うち)から見つけ出すまでの間。

 それまでは――。


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