夢現   作:T・M

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#5.雨の日に

 ネオ・ヴェネツィア。水の惑星の中でも取り分け水の都として名高いこの街は、普段は多くの人々が街を歩いている。だが、今日だけは別だ。人影は疎らで、猫や鳥の姿も見当たらない。空と海の色も、今日はいつもとは違い照り返す青ではなく、濁ってしまったような暗い色になっている。そして、波の音が聞こえなくなってしまう程、街中から音が響いている。途切れることなく、これから永遠に続いていくのではないかとさえ思えるほど、音は響き続け、その源は天空から降り注ぎ続ける。

 誰もいない小道で、ナイブズは1人だけ音の中に取り残されたように立ちつくし、呆然と空を、空から降り注ぐ水滴を見ていた。既に全身ずぶ濡れだが、そんなことにも気付いていないかのようだ。

 この現象の名を、ナイブズは知っている。どういう原理で発生するのかも、知識として全て有している。しかし、海を初めて見た時とほぼ同等の衝撃に、ナイブズの思考は停止していた。

 空から降り注ぐ水滴が、他の物体と分け隔てなく平等に、ナイブズの体を濡らす。そうして、どれ程の時間が過ぎただろうか。1分か、1時間か、時間の感覚さえも曖昧になっている。

「貴方、どうしたの? こんな雨の中、傘も差さないで」

 すると、誰かがナイブズに声を掛けて来た。空へと向けていた顔を下ろし、すぐに声の主を視認する。人間の老婆だ。ひどく心配そうにナイブズを見ているが、そんなことよりも、ナイブズは老婆が発した言葉に反応を示した。

「あめ……やはり、これが雨か」

 言って、再びナイブズは空を見上げた。

 空から水が降る自然現象、雨。知ってはいたが、やはり、実際に体験するとまるで違う。

 雨が降る理屈や理論だけでは分からなかった、雨が肌を打つ感触、雨の温度、建物や地面から響く雨の音、それらの刺激がナイブズの五感を刺激し、脳を揺さぶる。

 そこで、ふと、ナイブズは老婆の出で立ちを改めて見た。何故か、老婆は傘を差し、雨を遮っていた。そのことを怪訝に思ったナイブズは、老婆に問う。

「どうしてそんな物を持っている? 折角の雨だぞ。浴びなくてどうする」

「あら、面白いことを言う人ね。だから傘も差さずにいたのかしら」

 ナイブズからの問いに、老婆はにこやかに笑いながら返した。何故かナイブズの疑問が冗談と誤認されてしまったようだが、ナイブズはここがノーマンズランドではないことを思い出し、その上で重ねて問うた。

「傘は日差しを防ぐために使うものではないのか?」

「それは日傘ね。傘は元々、雨の日に、雨で体が濡れないようにするための物なのよ」

「……そうか。体温の低下による代謝と免疫機能の低下を防ぐためか」

 認識の齟齬と、水が普遍的に存在する星での一般的な傘の利用方法を理解する。

 ノーマンズランドで雨が降れば、誰もが歓喜の声を上げ、雨を全身で浴び、踊り出す者も出て来るだろう。特にヴァッシュなどは、その姿がありありと思い浮かぶ。だが、ここはアクア。膨大な量の水が存在している星だ。ならば、水の循環現象の構造から考えて、雨も日常の1つなのだろう。だから、雨が降ることのメリットよりもデメリットを強く認識し、それに対応する。

 ナイブズが改めてノーマンズランドとアクアの違いを知ると、老婆は小さく笑った。

「難しい言葉がするりと出て来るのね。学者さんなのかしら」

「いや、風来坊だ」

「そうなの。じゃあ、風来坊さん。雨に濡れて体が冷えてしまったでしょう? 私と一緒にお茶でもどうかしら」

 あまりにも唐突な誘いに、さしものナイブズも驚き、思考に一瞬の空白が生じた。目の前の老婆は、一体、如何なる思考で初対面の風来坊を自称するような男を茶に誘ったのだろう。まさか、所謂ナンパではあるまい。

 あれこれと思考を重ねて、取り敢えず、ナイブズは老婆にまず伝えておくべきことを言うことにした。

「先に言っておくが、俺は一文無しだ」

「あらあら、大変ね」

「そうでもない」

「それじゃあ、行きましょう。私の行きつけのお店なの。店員さんも店長さんもみんないい人達だから、貴方もきっと気に入るわ」

 柔らかな物腰と丁寧な物言いでありながら、有無を言わせぬような勢いを感ずる。それでいて、強引さは感じられない。きっぱりと断れば、老婆はそのまま引き下がるだろう。だが、敢えて断る理由も無い。

「…………いいだろう」

 老婆からの提案に頷き、ナイブズは老婆と共に小道を進んだ。

 

 

 

 

 老婆に連れられて、ナイブズはどこか厳かな雰囲気の喫茶店へと着いた。看板に記されている名前はカフェ・フロリアン。ここが老婆の行きつけの店で、特にカフェラテが絶品らしい。

「いらっしゃいませ」

 老婆の説明に頷き店へ入ると、すぐに1人の店員が出迎えた。その後ろで、老婆の姿を認めた他の店員が店の奥へと下がった。

 すると、すぐにその店員は黒いスーツを着た、やや猫背で太り気味、特徴的な髭を蓄えた男を連れて来た。店員の緊張具合と、その男の落ち着き方や堂の入った佇まいから店長かと推測する。

「これはグランマ。お連れ様がご一緒とはお珍しい」

「お久し振りです。温かいカフェラテ、お願いできるかしら」

「畏まりました。どうぞ、こちらのお席へ」

 男は老婆を親しげに『グランマ』と呼び、老婆も男の挨拶に朗らかに応じた。男が老婆を席へと案内するのと同時に、ナイブズには店員からタオルが差し出された。どうやら、ずぶ濡れのまま席に着くのは不味いらしい。

「お客様、タオルをどうぞ。それと、当店の制服の予備で宜しければ代えの服もご用意できますが、如何なさいますか?」

「いらん。これだけでいい」

 短く答えて、店員からの返事を聞くより先に、ナイブズはタオルを受け取ると全身を素早く拭い、すぐさま店員に返した。まだ濡れている個所はあるが、どうせタオルだけでは乾かないのだから、この程度でいいだろう。

 老婆が案内されたテーブルに向かうと、老婆に促され、ナイブズは彼女の対面の椅子に座った。位置は外の広場が見える窓際だ。ガラス一枚を隔てた向こうで降っている雨の音が、先程までとは違う響きで鼓膜を震わす。雨に濡れたガラス越しの景色も幻想的で、そのままぼんやりと眺めているのも良かったが、今はそれよりもと、ナイブズは老婆を問い質す。

「どうして俺を連れて来た」

「そうね、どうしてかしら」

「……特に理由は無いのか?」

「いえ、そういうわけではないの。ただね、貴方を見たら、思い出したの」

「何をだ」

「お待たせしました」

 老婆が答えを言おうとした、まさにその瞬間、店員が老婆の注文したカフェラテを2つ持って現れた。話の腰を絶妙のタイミングで折られてしまったが、さして重要な案件というわけでもなし、人との交わりの中ではこういうこともあるのだと学んでおこう。

 店員は片手に持ったトレーから湯気の立ち上るカップを二つ、中のカフェラテを殆ど揺らさず丁寧にテーブルへ置くと、恭しくお辞儀をした。

「ありがとう」

 老婆は穏やかな笑みと共に店員にそう言った。店員も丁寧な言葉遣いで同じ言葉を返し、テーブルから離れた。取り敢えず、冷めない内に一口だけでも飲んでおこうと、ナイブズはカップを手に取り、カフェラテを口に含んだ。

「……美味いな」

 久し振りに、そんな言葉を呟いた。飲み物とはいえ、なにかを美味しいと感じたことすらも、果たして何年振りだっただろうか。今までの自分の人生が、ノーマンズランドさながらの無味乾燥だったと思い知る。

「良かったわ」

 ナイブズが漏らした一言に、老婆は柔らかく微笑んだ。ヴァッシュとはまた違った、笑顔を絶やさない人間だ。そして、浮かべる笑みはどれもが似合っていて、様になっている。どのような心と生き方が、彼女が重ね刻んだ皺の中に含まれているのだろうか。

「貴方は、どうして雨の中、傘も差さずに空を見上げていたの?」

 カフェラテを味わっていると、老婆がナイブズにそのように問い掛けて来た。やはり、この星の人間からすれば、雨の中で立ち尽くすというのは珍奇なことらしい。

「雨を見るのも、雨に打たれるのも、生まれて初めてだったからだ」

「まぁ、そうだったの。遠い所から来たのね」

 ナイブズが答えると、老婆は驚き、感心したような声でそう言った。そんなにも自分の境遇は珍しいのかと思い、なんとなく、ナイブズは聞き返してみた。

「この星では、雨は当たり前なのか?」

「ええ。今ではそうね」

「……今では?」

 老婆からの何げない返答に、ナイブズは引っ掛かるものを感じ取って重ねて聞き返した。こんなにも水が豊かな星で、雨が“今では”当たり前とはどういうことだ。そんなのは“最初から”ではないのか?

 そんなナイブズの疑問に、老婆はとても分かり易く、簡単に答えてくれた。

「このアクアは地球環境化(テラ・フォーミング)が行われる前は、水も空気も無い星だったそうよ」

「なんだと? この星が?」

「ええ。それが今では、こうして当たり前のように、水に囲まれて、息をして暮らしている。考えてみれば、とても不思議なことね」

 教えられたあまりにも意外な事実に、ナイブズは半ば呆然としながら、窓の外を見た。

 今こうして雨が降り、息をしているこの星が、かつては水どころか、ノーマンズランドにさえもあった大気すらも存在しない荒蕪の星だったなどと、とてもではないが信じ難い。しかし、こんなことで嘘を言う理由が老婆には無いし、嘘を言っているようにも見えない。ならばこの星の住人から語られたこの星の歴史だ、事実なのだろう。

 そして、それとは別に、テラ・フォーミングという単語から導き出される驚くべき事実がもう1つある。生命が根付き得ない星を、生命が息づく大地へと改造するには途方もない量の資金と物資と時間と技術と人員を必要とする。それらのものを安定して供給できる環境は太陽系内が限界とされ、ナイブズの知る限りテラ・フォーミングは太陽系の惑星でしか行われていない。つまり、このアクアは間違いなく太陽系の惑星なのだ。ナイブズの知らない150年の間に、銀河の何処かの移民惑星が周辺惑星のテラ・フォーミングを行えるほどに安定し発達した、という可能性もありえなくはないが、その可能性は限りなくゼロに等しい。

 雨に濡れたガラスの向こう、厚い雲に覆い隠された空、更にその先にあるものを凝視する。

 この星の星空には、地球があるかもしれないのか。それに、大気すらなかった星ですら、今はこうして“水の惑星”と呼ばれるほどになっているのなら。

 あの星にもいつか、雨が降ることがあるのだろうか。

「初めての雨は、どうだったかしら?」

 すると、老婆は子供のように無邪気な笑みを浮かべて、そのように問うてきた。目だけを老婆に向けた後、再び視線を窓ガラスの外へと戻す。

「意外と、心地のいいものだったな」

 今聞こえる、雨音も含めて。

 

 

 

 

「そういえば、俺に声を掛けた理由をまだ聞いていなかったな」

 3杯目のカフェラテを飲み干して、ナイブズは自分が最初にした質問がそのまま流れていたことに気付いた。ナイブズの言葉に応じて、老婆はカップをテーブルに置いて、静かに話し始めた。

「貴方の姿が、何となく、初めて会った頃のあの人に似ていたからかしら」

「あの人?」

「ああ、失礼。人ではなくて、猫だったわ」

 言われて、ナイブズはカーニヴァルで出会ったカサノヴァを思い出した。人と間違えるような猫となると、ああいうものになるのではないか、などと考える。無論、実際にそんなことはなく、人間同様に深く関わり思い入れのある猫、ということなのだろう。

「俺とその猫の、何が似ていた」

 ナイブズも、よもや自分と猫が似ているなどと言われるとは思っていなかった。それだけに、どこが似ていたのか興味を持った。まさか、顔つきや背恰好が似ていた、などということはあるまい。

「独りぼっちで、ずっと何かを待ち焦がれているような、そんな気がしたの」

 老婆は昔を懐かしむような、どこか寂しげな表情でそう言った。それを、ナイブズは即座に否定した。

「勘違いだ。俺は、孤独(ひとり)ではない」

 この星では天涯孤独の風来坊が言うことではないだろう。だが、ナイブズの体には、あの時の感触が残っている。

 共に人類との決戦に臨んだ同胞達に最終局面で拒絶され、たった1人で人類の対極に取り残され、ヴァッシュと対峙した直後。ヴァッシュはナイブズを殺すどころか、自分の心臓が貫かれても尚、その身を呈して第三者の攻撃からナイブズを庇い、ほんの僅かに残された力を使ってでもナイブズを抱えて羽ばたいた。だが、途中でヴァッシュの力と意識が限界を迎えて途切れてしまった――あの時。ナイブズは、無我夢中で羽ばたいた。自分とヴァッシュの残された力、それらを1つにして、共に羽ばたいた。

 この世でたった1人の兄弟を、救いたい一心で。

 あの時の感触が、温もりが、ナイブズの心と記憶に残っている限り、ナイブズは孤独にはなりえない。実際、遠く離れた水の星に来ても、事ある毎にヴァッシュの姿が過り、ナイブズの心と共に在る。

 それに、だ。それに加えて、何故か、アテナとあゆみを思い出した。アテナとあゆみは、この星に来てからほんの短い時間を過ごしただけ。共に過ごした時間で言えば、ブルーサマーズやエレンディラ、そしてレムの方がずっと長かった。しかし、ナイブズは先程の老婆の言葉に、ヴァッシュに次いで彼女達の事をも連想したのだ。

 この星で確たる繋がりを持った数少ない人間だから、だろうか。ナイブズ自身も判然としていないが、少なくとも、レム以外で初めてナイブズにとって特別な人間ができた、ということだろう。

「そうなの。良かったわ」

 ナイブズの否定の言葉を聞いて、老婆は安堵したような笑みを浮かべた。

 初対面で、しかも怪しい風体の厳つい男に対して心配までしていたとは、随分とお人好しなことだと、改めて思う。ヴァッシュという極端な例を知っているナイブズでも、老婆の心遣いには感心を覚えた。

「雨も上がったわね」

 老婆の言葉に頷いて、窓の外を見る。ガラスはまだ濡れているが、雨音は途絶え、黒雲の切れ間から空の色が見え始めていた。広場に視線を下ろせば、幾つかの水溜まりが出来ている。

「美味いカフェラテを馳走になった。礼を言う」

「どういたしまして」

 店を出て、ナイブズが礼の言葉を告げると、老婆は優しく微笑んだ。

「俺はナイブズだ。お前の名は?」

「私は天地秋乃。それでは、御機嫌よう。風来坊のナイブズさん」

 別れ際に互いの名を告げて、2人はそれぞれ別の道へと歩き出した。


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