夢現   作:T・M

30 / 31
#29.アウグーリオ・ボナーノ

 今日も、ナイブズはネオ・ヴェネツィアの街を歩く。

 今までと変わらず、これまでと同じように。

 今日は24月31日。地球の倍、730日にも及ぶ火星の長い一年が終わる日であり、新しい一年を迎える日でもある。

 ネオ・ヴェネツィアではクリスマスの行事は家族で過ごし、年越しの時はみんなで過ごす、という風習が旧世紀の地球から受け継がれている。その行事やイベントを目当てに、朝から観光客も多く訪れている。

 そんな人混みの中で、ふと、一人の男性の姿が目に留まった。無精髭に、目が隠れる程前髪を伸ばしたままの、如何にもだらしない男。面識は無いが、見覚えのある男。

「ピーター」

 つい、名を呼ぶと、男は見るからに動揺した素振りを見せて、慌てて周囲を見回す。そしてナイブズの姿を見つけると、大層驚いた様子だった。

「あなたは……! えっと、ジョンさん、でしたっけ?」

 やはり、あのピーターに相違なく。

 ナイブズにとっては2週間と短期間での再会となったが、あの夢見る赤子にとっては30年近い時を経たらしかった。

「ジョン・ドゥは仮の名で、本名はナイブズだ。でかくなったな」

 もう偽名を名乗る意味も無いので、本名を名乗る。

 現在のピーターの外見はネバーランドでの少年の姿からの延長線であり、ナイブズも一目で気付けた。あの姿からも、赤子からも、大きく成長し、大人になっていた。

「お蔭様で。けど、よく気付きましたね。火鳥先生も二宮も、全然気付かなかったのに……」

「そうか? 然して変わっていないと思うが。火鳥と二宮というのは、真斗とアイのことか?」

「ええ。ボクと火鳥先生は、お互いに夢のことは忘れちゃってたんですけど、偶然、同じ学校の教師になれたんです。それから、二宮はボクが担任しているクラスの生徒で、あの日の夢は、つい先日見たばかりらしいんですよ」

 ネバーランドが閉ざされるまでの顛末を報告した時、店主は「彼らは必ず、また会えるよ」と断言していた。強い縁で結ばれた者同士は、不思議と引かれ合うものなのだと。

 ナイブズの目にも特に強い縁で結ばれていた3人が、偶然にも一つの場所に集まっていたとあっては、あの言も信じざるを得まい。

「アリシアへの反応からして近いとは思っていたが、アイは俺とほぼ同じ時間軸だったか。アリシアには会ったのか?」

「今日、みんなで会いに来たんです。それでさっき、火鳥先生と二宮と、それからダイビング部の子たちと一緒に会って来たんですが……」

 矢張りと云うべきか、ピーターがこの街にいたのはアリシアと会う為だったか。水の3大妖精と名を馳せているのだから、所在を知るのは容易だったことだろう。

 しかし、ピーターは途中で口籠り、何やら困ったような、疲れたような表情になり、溜め息を一つ吐いた。

「その場に集った恐るべき女子率に居た堪れなくて、俺と永遠野先生は戦略的撤退で、ここまで避難して来たんです」

 代わりとばかりに答えたのは、ピーターの背後で様子を窺っていた少年だ。完全な初対面だが、髪と顔立ちを見て、心当たりがあった。

 ネバーランドで見かけた、あの場所に居合わせた少女に、顔立ちや髪がよく似ている。加えて、本人の言も合わせれば、その正体は容易に推測できた。

「お前は……アイの、双子の弟か」

「はい。はじめまして、二宮誠です。(あね)さんがお世話になったようで」

 少年――マコトは丁寧に一度頭を下げて、自己紹介をする。

 マコトの名を聴き、2人の名前がアイとマコト=愛と誠であることに気付く。双子が生まれた際、一つの諺や熟語を2分割して名付ける風習もあると聞いたことがある。恐らく間違いあるまい。しかし、1つの言葉を分け合い、十月(とつき)十日(とおか)を同じ胎で過ごした片割れだというのに、どうやら誠と愛の性格面は対照的といえるぐらいに違うらしい。

 あと、目つきも違うか。愛はしっかり目を開いていたが、誠の方は目を閉じているのかと見紛うほどの細目だ。糸目というやつだ。

「気にするな、寧ろ俺の弟が世話になったぐらいだ」

 ナイブズと愛の間で交流は殆どなかったが、ヴァッシュを連れて不可思議な街中を進むことに苦労したであろうことは、想像に難くなかった。でなければ、あの時にあのタイミングで蹴りは出るまい。

「弟さん……2人のジョンさんの、スミスさんの方で?」

「そうだ。お前も知っているのか」

(あね)さんが起きてすぐ、今見た夢を忘れないためにって、話してくれましたから。正直、半信半疑だったんですけど……本当のこと、なんですね」

「ああ。本当にあったことだ」

 夢のような、ではなく、本当に夢の中で起こった出来事。

 摩訶不思議な事象にすっかり慣れたナイブズでさえも、目を疑うような事象の連続。平穏な日常を過ごす普通の人間が、俄かには信じられないのも無理はあるまい。

 それでも、誠の様子は信じる最後の一手が見つかったという具合で、双子の姉のことを信じたいという気持ちも強かったのだろう。ナイブズが断言すると、呆気に取られたような表情で、それでも、嬉しげに微笑んだのだから。

 ここで、ナイブズはふとあることに気付き、ピーターに声を掛けた。

「そういえば、ピーター。お前の名は?」

永遠野(とわの)(まもる)です、ジョンさん……いえ、ナイブズさん」

 ピーター――改め、守が名乗り、どういう字かも確認した後、誠が寒い中立っているのはしんどいと訴えてきた。話の続きは手近な喫茶店で温かい飲み物で体を温めながら、ということになった。

 ナイブズは、守には真斗や愛とどのように再会したのか詳しく聴き、誠には愛のことを訊ねつつ自分とヴァッシュ以外の双子とはどんなものであるか、それとなく探ってみた。

 逆に、守と誠からも色々と尋ねられた。どうして、どうやって、夢幻の世界へと現れたのか。喋れないはずのティンカーベル=テスラの意思をどうやって汲み取っていたのか。ジョン・スミス=ヴァッシュとトランはどういう存在だったのか、などなど。

 2人からの質問には伏せるべき所は伏せて、それ以外は真実を告げた。

「あの、トランは……? あいつも、ここに?」

「俺も、スミスさんに会ってみたいんですが」

 話が一段落して、空いた小腹に軽食を入れ始めた頃に、守と誠がそんなことを訊ねて来た。

 守はネバーランドの記憶の内、真斗や愛、テスラやアリシアとのことははっきり思い出せたらしいが、その他の部分は歯抜けや虫食いも多いらしい。トランのことも、完全に覚えていないのは無理もあるまい。ヴァッシュに関しては、恐らく名前以外の詳しい素性も伏せた上で愛や真斗と行動していたのだろう。

 この2人が、ナイブズと会えたなら、あの2人とも会えるはずだと思ってしまうのは、無理からぬことだろう。

「あいつらがいるのは、60年後の、遠い外宇宙の砂の惑星だ。すぐに会うのは無理だ」

「外宇宙……!?」

「ろっ、60年……!?」

 ナイブズから告げられた真実に、2人とも愕然している。

 誠は一度ナイブズの顔を覗き込んで、すぐに守へと首を向けた。守は暫し考え込む様子を見せてから「……そうだ。そうだった……」と、力なく呟いた。どうやらトランは、自分の出身がノーマンズランドであることを包み隠さず伝えていたようだ。

真斗や愛、アリシアのように、ネバーランドで出会った人間は、全て近い時代の火星の人間だと思い込んでいたのだろう。あの2人とテスラが、特例であるとも知らずに。

 友に会えないと知った守の落ち込みようは、ナイブズの想像以上だった。

「長生きできれば会えないことも無いだろう。頑張ることだ」

 気休めでもあり、同時に偽らざる本心でもあった。

 既にワープ航法が実用化され、民間人も利用できるほどに普及しているのだから、ノーマンズランドが正式に地球連邦政府の構成惑星の1つに組み込まれ、治安も安定すれば、守や誠が生きている内にノーマンランドへ渡航することも不可能ではないだろう。

 尤も、帰りの汽車で2人から話を聴いた限りでは、あれから半世紀以上を経てもなお『多少マシになった』程度らしいが。

 暫く2人は固まっていたが、何かの音が鳴ると、誠は慌ててポケットから携帯端末を取り出した。電子メールが届いたらしく、内容を目で追う毎に誠の顔が青くなっていく。

「永遠野先生、(あね)さんから、どこにいるのかと怒りのメールが届きました」

「なに? ……あっ、もうこんな時間か!」

 誠からの報せに、守は腕時計を見遣って慌てた様子で立ち上がった。どうやらナイブズにとっても予想外の長話になったようだ。

「ここまでだな」

 短く告げて、ナイブズもまた席を立つ。3人分の会計を手早く済ませて、店の外に出る。

「ナイブズさんも、どうですか? 良ければ、一緒に」

 店の入り口から数歩進んだところで、背中に誘いが届いた。なにを、と問い質すまでも無い。ネバーランドで出会った者たちでまた会おう、ということだろう。

「……いや。これから行く場所がある」

 生憎と、今日は先約がある。

 半歩だけ振り向いて断ると、守は心底残念そうな様子だったが、すぐに気を取り直して、笑みを浮かべ、手を差し出してきた。

「お会いできて良かったです、ナイブズさん。お元気で」

「達者でな、永遠野守」

 振り向いて、向き合って、握手を交わす。夢を見るだけしかできなかった非力な赤子は、がっちりとナイブズの手を掴める大人に成長していた。

 これならきっと、テスラが心配して迷うこともあるまい。そう思うと、ナイブズは自分でも気付かない内に、微かな笑みを浮かべていた。

 握手を解くと、ナイブズはすぐに踵を返して、ネオ・ヴェネツィアの小路に消えていった。微塵も振り向く様子も無い後姿には、ある種の潔さがあった。

 永遠野がナイブズの見送りを終えた、丁度そのタイミングで、誠も姉へ向けたメールの返信を終えていた。あと10分以内に来なければ、かの白き妖精の目前で恥をかかされると宣告されており、2人は慌てて指定された集合場所へと急いだ。

 

 

 

 

 すっかり歩き慣れた裏路地を、目的地へ向かってまっすぐ歩く。行く道は、あの日と同じ。黒猫に先導され、カサノヴァの許へと(いざな)われたあの時と。

 やがて広間に出て、数多の猫たちが見守る中、ナイブズは猫妖精と対面した。カサノヴァに仮面と套を差し出され、カーニヴァルに誘われた時と同じように。

 季節は冬、表は祭りの喧騒。しかし今日の猫妖精はカサノヴァの衣装ではないし、手には何も持っていない。

「久し振りだな、ケット・シー。お前にとっても、あの夢幻の世界での出来事はつい先日のことやもしれんがな」

 ナイブズが話し掛けると、猫妖精はただ笑みを浮かべて、ナイブズを手招きした。立ち話もなんだから広場の隅で適当に座ろう、ということだろうか。招かれるまま、ケット・シーの隣へと腰掛ける。

 周囲をぐるりと見回せば、目に入るのは猫、ネコ、ねこ。地球猫に火星猫、焼き物のような何かまで多種多様。この街にいる猫が全て集まったのではないか、という程の壮観。

 猫など普段は横目で流し見るか視界の端に捉える程度で、じっくり観察した覚えは殆どない。にも拘らず、見知った顔がちらほらといる。

「……見覚えのある顔が、近くに集まっているのは偶然か?」

「オレも猫神の端くれとして、ネオ・ヴェネツィアの猫の集会には顔を出したいと思ってたニョ。今日はポヨもいるしニャ」

「ヒアー」

「今日は特別な、目出度き日。私たちのような変わり者とて集まりますとも」

「にゃ」

「ぷいにゅー!」

 ナイブズからの問い掛けに、見覚えのある猫たちはそれぞれ短く答える。

 思い返せば、ナイブズがこの星に来た時に最初に見た生物も、ナイブズを最初に迎え入れたのも、そもそもナイブズと一緒にこの星へ降り立ったのも、全て猫だった。

 その猫たちの中でも少なからぬ縁のある猫たちと、今日という日に顔を合わせるのも合縁奇縁というやつか。

 ふと、ケット・シーを見ると、とても嬉しげな表情で、ナイブズを見ていた。

 空のように澄んだ、海のように深い、吸い込まれるような蒼い瞳。

 きっとこいつは、今までもこれからも、こうやって人間を見守っていくのだろう。この街で、この場所で、人の傍らで。

 それからは、誰が何を言うでもなく、眠ったように時が過ぎる。ネコは寝子とは言ったもので、大半の猫は実際に寝ている。起きている者同士は、一鳴きで、或いは無言でアイコンタクトのみでコミュニケーションを取っており、ナイブズには立ち入れない領域だった。夏の終わり、アイーダを連れて来て、どうしたものかと2人一緒に戸惑った時を思い出す。

 今は戸惑うことも無く、ただ同じ場所にいて、同じ時を過ごす。

 日が傾ぎ、空が茜色に染まり始めた頃に、新たな来訪者が現れた。気配は2つ。

猫妖精(ケット・シー)、お待たせ致しました。ナイブズも、待たせたね」

 まず現れたのは店主だった。10日間ほぼ不眠不休だったらしいが、老体に似合わず元気なものだ。尤も、彼が出席した会議の内容を考えれば、よくも半月と経たずに帰って来られたものだ、というのが率直な感想だ。

「例の物は?」

「ここに」

 店主が帰ったのは昨日の昼前。会議の内容と結果を纏めたデータを渡され、その閲覧を終えたのは陽が落ちた頃。

 データを吟味したナイブズは、予てからの案を実行すべく、店主にあることを依頼した。幸いにして、店主の仕事の手伝いで蓄えは十二分にあった。

 店主はナイブズの依頼を快諾し、しかも代金は不要とした。代わりに、彼の願いを1つだけ聞くことになったのだが。

 予定通りに、依頼していた物を受け取る。ザック一つに纏まったらしく、一度まとめて地面に下ろす。そうしている内に、もう一つの気配の主も現れた。

 ポイニャウンペの物と同じ系譜の民族衣装を身に纏い、腰には剣を帯び、青い狼を模った仮面を被り、頭頂部近くの髪だけが火の冠のように赤い、獣の毛並みを思わせる長く荒々しい黒髪の男。

 つい先月に会ったばかりの、極北の國に住まわる神々の中でも勇者と謳われる武神。

 その場で跳躍し、空中でくるりと一回転してその姿を四足獣――濃紺の体毛と赤い鬣を持つ狼へと変える。

「猫妖精、久し振りだな。招かれざる身でありながらこの場に来た非礼を、まず詫びておく」

 狼の姿で、人の言葉を用いて挨拶するのは不思議な光景だった。彼らオイナ族にとってはどちらの姿も真の姿であるらしいが、この場に合わせて獣の姿に変わったのだろうか。

 挨拶を受け取った猫妖精は一つ頷くと、手振りで気にしていないということを簡潔に伝える。

 ザックの中身の確認を終えて、ナイブズは狼へと声をかける。

「オキクルミ。お前もあの会議に参加していたのか」

 青い狼――オキクルミは再び跳躍して空中回転、人間の姿へと再変身した。

「会議に参加する火星の有識者の護衛役の名目でな」

 簡潔な答えに、ただ頷く。それ以上の意味や理由があるが、深く追及はするな、ということだろう。

 地球連邦政府と火星総督府の緊急会議に、火星に移り住んだ神々の中でも屈指の武神が参加した。緊急事態に異例の珍事を意図的に重ねることに、何らかの思惑が無いはずがない。

 すると、オキクルミの言葉を聞いた猫たちが、俄かに騒ぎ出し、大きなざわめきとなった。

「皆、会議の結果がどうなったか、気になって仕方がない様だ。店主、教えてもらえるかな?」

 ジッキンゲン卿が猫たちの鳴き声の意味を察し――いや、元から理解できるのか――彼らの要望を具体的な言葉へと変え、唯一の解答者である店主に伝える。

 猫たちのざわめきが収まるのを待たず、店主は嬉しげな笑みを浮かべて答えた。

「親愛なる猫の國の王たる猫妖精(ケット・シー)よ、そしてお集まりの皆様! ご報告いたします。過日行われました、ミリオンズ・ナイブズに関する緊急対策会議にて、現在のナイブズ氏における危険性の否定、並びに安全性の証明、どちらにも成功いたしました!」

 芝居がかった語り口での報告に、ざわめきは一層大きくなり、歓声へと変わった――

「いざという時は、俺達が命を懸けて止める、という条件でな」

 ――歓声が、ぴたりと止んだ。

 集った猫たちが一様に息を呑み、固唾を呑んだ。彼らにとっても、火星で命を懸けるという非日常は容易に受け止められるものではないらしい。

 例外は、猫妖精、ジッキンゲン卿、ポイニャウンペぐらいのもの。当事者である2人は、さもありなん、と納得している様子。

 ナイブズは、今の言葉で、漸くあの件に合点がいった。

「あの時の手合せは、俺の実力を図る為だったと?」

「そして、お前という存在の性格や性質を見極めるためだ」

 店主からの依頼による、大神アマテラスの面前での手合せ、その翌日の猫妖精との面会。全ては初めから画策されていたこと。偶然を装ったのは、自然体のナイブズを観察し、本質を推し測り見極める為か。

「へー、あの時のあれにそんな意味があったんだニャア」

 どうやらポイニャウンペは何も知らされていなかったようだが、それも恐らくはナイブズに気取らせないためだろう。実際、ポイニャウンペとその嫁がバカ騒ぎの中心で、それがオキクルミらの真意に気付けなかった要因でもあることは明らかであった。

「オキクルミ殿、あなたの見解をお聞かせ願えますか」

 店主が促すと、オキクルミはケット・シーに会釈してからその前を通り抜け、ナイブズの前に立つ。青鈍色の輝きを帯びる剣を音も無く鞘から抜き、切っ先をナイブズの眼前に突き付けた。

「お前が遠き砂の星で、どのような悪行を成したかは、店主や地球の役人たちから事細かに聞かされた。その罪状、100度死んでもなお足りぬほどの極悪人だ」

 ナイブズは動じず、突き付けられた青鈍色の刃には目もくれず、仮面越しにも伝わるオキクルミの鋭い眼光を睨み返す。

 今この場で討たれても悔いはない――などと、行儀のよいことは考えていない。ただ、いざそうなったらどうするか、決めてあるだけだ。

「迷いは無いようだな」

「歩き方は決めてある。それだけだ」

 仮面越しに視線を交錯させて数秒、オキクルミは剣を鞘へと納めた。

「……お前の戦いは、己の欲望を満たすためではなく、最初から同胞の為だったと聞いている。お前にとって、大切なものを人間の魔手から守るためにと」

 その事実は、何者によって齎されたものか。ヴァッシュか、ヴァッシュに近しい隠れ里の者達か、それとも店主か。

 なんにせよ、それに偽りはない。首肯し、オキクルミに続きを促す。

「絶滅の為の殺戮などと、方法は誤っていた。しかし、己の力を、自分のためでなく、誰かのため、仲間のために使い続けた。その心根は、決して邪悪ではない」

 力強い断言。人間をプラントの天敵である害獣として駆除しようとしたナイブズの思考を、思いもよらぬ見方で肯定され、唖然とする。

 決して言葉遊びや屁理屈の類ではない。オキクルミが直接にナイブズの本質を見計らい、最も近くで最も長くナイブズを見守り続けた仙人の意見も受け取った上での回答。

 人とて取り返しのつかない間違いを犯したことは幾度となくあった。地球の環境を破滅の寸前まで追いつめてしまったように、無理な惑星開拓や外宇宙移民計画で少なからぬ犠牲者を出してしまったように。

 それでも、人間は失敗を教訓とし、愚かさを省み、過ちを正し、前へと進み、今日にまで至ることができたのだ。それは神や精霊と呼ばれるものたちでさえ変わらない。

 ならば何故、この世に生きる同じ命であるプラント自律種に――ミリオンズ・ナイブズにはそれは起こりえない、それは出来ないことだと言えようものか。

「ナイブズ、お前はお前の心の思うまま、ただ只管、己の道を歩むがいい。その道を歩むことにこそ、掛け替えのない価値があるのだから」

「……それでは、今までと変わらんぞ?」

「その“今まで”の中で、君は変わったんじゃないかな?」

 オキクルミの言葉に、即座に疑問を返したが、すかさず店主から問い返された。

 これには、流石のナイブズも、ぐうの音も出ない。

「……否定はしない。…………いや、その通りだ」

 ナイブズのこの言葉に、広場は今日一番の歓声に包まれた。猫たちにとっても、ナイブズの存在はそれだけの懸念事項だったのか、それとも、ただ心配をしていただけか。

「ナイブズ。いつぞやの答え、聴かせてもらえるかな。君は、この星で何を想う?」

 過去の火星へ迷い込んだ後、店主を使って龍宮城の聖域へ行き、グランドマザーも交えて語らった日に、この問いを受け取っていた。あの時は答えをはぐらかしたが、今回はそうはいかない。依頼の対価の願いが、これなのだから。

 何を願われるのかと思えば、こんな些細なことか。つい、呆れと溜め息の混じった笑みを零して、簡潔に答える。

 答えを聞いた店主は、猫妖精は、この場に集ったもの達は、皆一様に満足げで、うれしげで、微笑んでいた。

「さらばだ」

 短く別れの言葉を告げて、踵を返す。

「もし機会があれば『猫の事務所』にも遊びに来てくれ。かま猫くんやムタと一緒に、歓迎するよ」

「カムイコタンの近くまで来たら寄っていけ。遭難したら拾ってやる」

「オレは嫁とまた旅に出るから、旅先で会ったらよろしくニャ」

 ネオ・ヴェネツィアの外から来た者達は、口々に歓迎の言葉を口にする。それは即ち、ナイブズの選択への祝福でもあった。

「元気でね、ナイブズ。君の旅路に幸の多からんことを」

 いつのまにか出口に先回りしていた店主はそう言って、目を伏せ、祈るようなしぐさを見せた。

 その横を通り過ぎようとして、ナイブズはほんの気紛れから立ち止まり、声を掛けた。

「お前には、随分世話になった。感謝している、我が先達たる仙人よ」

 言葉だけ伝えて、顔を合わせることもせず、反応を確かめることも無く、ナイブズは猫の集会所から立ち去った。

 

 

 

 

 時刻は黄昏、街をオレンジに染める夕焼けもいずれは沈み、闇が染み出す頃。逢魔ヶ時とも称される、人と魔、表と裏の世界が交わる、ほんのひと時。

 この時ばかりは、ナイブズのような特別な存在や、水無灯里のような稀有な素養の持ち主以外でも、人が裏側へと迷い込んでしまうことがあるのだという。だが、今日この日まで、ナイブズがその実例と出くわすことは無かった。

「あっ、ナイブズさんっ」

 あと一つ、最後の角を曲がれば表へ至る、というところで、ナイブズは水先案内人を発見し、名を呼ばれた。

 彼女の名は、ナイブズも知っていた。この星に来て、最初に教えられた名前だ。

「アテナ。こんな所で何をしている」

「えっと……ナイブズさんを探していたんです。それで、気が付いたら、よく分からないところに来ちゃってて……」

「要するに迷子か。水先案内人が」

「はい……」

 ナイブズを探していた、という文言が気にかかったが敢えて追究せず、要点を纏めて確認する。アテナは見るからに落ち込んだ様子を見せて、小さく頷いた。

 信じがたいことだった。迷子になった上で、表と裏の境へと迷い込み、そこで探し人のナイブズと鉢合わせるなど、天文学的な確率のはずだ。それをこうも容易く引き当てたのは、天性のものか、それとも、これも店主の言う“縁”というものか。

 真相はともかくとして、この状況はあまりよくないことは分かるので、場所を移す必要がある。話をするのはそれからでも遅くはあるまい。

「案内してやる。どこに行く?」

「えっと、サン・マルコ広場に」

「付いて来い。うっかりはぐれるなよ、最悪、帰れなくなる」

「はいっ」

 声を掛け、先導して歩き出す。すぐそこから表へ出てもいいのだが、境からサン・マルコ広場に近い場所まで移動するルートを選択した。

 外からはカーニヴァルやヴォガ・ロンガの時ほどではないにせよ、普段よりも多くの人の気配がした。アテナが人混みに紛れて、再び迷子になる可能性は高かった。実際、ただナイブズの後を追うだけの状況でも10分と経たずにはぐれそうになっているのだから、この懸念もあながち杞憂とは言い切れまい。

「それで、どうして俺を探していた?」

 後ろは向かず、前を見て歩き続けながら後ろのアテナへと問う。

 アテナは、足音と呼吸を僅かに乱れさせ、明らかに動揺と躊躇いを見せたのち、わざとらしいぐらいの明るい声で答えた。

「集まったみんなが、ナイブズさんの知り合いだったんです。それで、灯里ちゃんがナイブズさんも探して、一緒に過ごそうって言ったんです」

「過ごす? 何をだ?」

「ネオ・ヴェネツィアでは、年越しをみんなで一緒に過ごすんです。サン・マルコ広場では屋台も出て、ちょっとしたお祭りみたいになるんですよ」

「興味は無い。お前達だけで騒いでいろ」

 アテナから答えと同時に示された提案を、そっけなく切って捨てる。同時に、都合のいいタイミングであるとも気付いた。

 アテナとサン・マルコ広場近くで別れたら、そのまま離脱すればいい。ナイブズの顔見知りの人間はほぼ集まっているのなら、他の連中に捕まることもあるまい。

 沈黙を気まずいとも思わず、時折ザックを持ち直しながら、ナイブズは沈思黙考する。

 不意に、声も無くアテナの歩みが止まった。数歩進んでから、後ろを振り返る。出口はもう目の前だった。

「……ナイブズさん。あの時『さらば』って、言いましたけど……どういう意味で言ったんですか?」

 人の機微を見抜く慧眼は相変わらずか、と、ナイブズは仮面越しの感情を見抜かれた時のことを思い出した。あんな些細な一言から、ナイブズの内心を読み取った――などと言う程でもないだろう。

 アリスたちからアテナの裏誕生日を事前に教えられ、ボッコロの日に暁から『世話になっている女には花の一つも贈るものだ』と教えられていたからと言って、素っ気ない上にぶっきらぼうなナイブズが、裏誕生日を祝って贈り物まで渡したとなれば、その内心に尋常ならざる変化が起きていることは、彼を知る人なら誰しも容易に想像できるはずだ。

 事実、現場を見守っていたアリスや杏やアトラも、翌日に話を聞いたアリシアと晃、そしてあゆみや灯里や藍華も、皆一様に驚いていた。『なんだかナイブズらしくない』と口を揃えた。

 或いは恋の始まりではないか、などと少女たちは姦しく噂していたが、そんなことは無く。

「旅に出る。お前にだけは、別れは伝えておきたかった」

 ナイブズはただ、アテナに“感謝”を伝えたいだけだったのだ。

 だから今も、正直に事実を述べていた。

「どうして、急に……」

 アテナは余程ナイブズの答えが予想外だったのか、驚き戸惑っている。しかしナイブズからすれば急なことではない。アイーダと別れた頃から考えていたことだ。

 地球連邦政府がナイブズの存在を捕捉し、具体的な動きを見せたら、この街を出て行こうと。

「身の回りが騒がしくなって来た、というのもあるが……」

 だが、それだけではない。今やそれも切っ掛けの一つに過ぎず、ナイブズが旅立ちを決めた理由の最たるものは、他にある。

 それを口にして、伝えようとした、丁度その時。ナイブズが目指していた先から、新たな気配を感じた。猫が2匹と、人間が2人。

「アリア社長、待ってください」

「ちゃ顧問、待てってば」

 2匹の猫を追って現れたのは2人の女性。いずれにもナイブズは見覚えがあった。1人は見知った水先案内人で、もう1人は少女の時分の姿を見たきりだ。

 ナイブズの主観時間ではつい2週間前に会ったばかりだが、彼女たちにとっては、それぞれどれぐらいぶりか。……いや、アリシアとは互いにおよそ2カ月ぶりになるのは間違いないか。

「アリシア、真斗」

「アリシアちゃん、真斗ちゃん」

 アテナと一緒に、2人の名を呼ぶ。2人はそれぞれ追って来た猫を抱えてから、ナイブズ達の方を見た。アリシアは安堵したような微笑みを浮かべて、真斗は驚きを露わにして。

「ナイブズさん。こんな所にいらしたんですね」

「……お久し振りです、ジョンさん。弟さんには、お世話になりました」

「いや、多分、あいつの方が世話になっただろう」

「それは……意外と否定できませんね」

 アリシアには一つ頷いて応え、真斗とは短く言葉を交わす。この受け答えだけでも、必要十分量の情報を得られた。

 彼女たちは間違いなく、ネバーランドでの出来事を覚えていて、ナイブズもまた覚えていることを知っている。

「ネバーランドで出会ったジョン・ドゥさんは……本当に、ナイブズさんだったんですね」

 アリシアが確信となる言葉を口にする。

 ナイブズは首肯し、問いを返した。

「俺があそこに行ったのは2週間前だが、お前はもっと前だったのだろう。いつ思い出した?」

 ナイブズが覚えている限り、アリシアがナイブズに対して顔見知りのような素振りを見せたことは無い。あの出来事は完全に忘れていたと考えるのが妥当だろう。

 だが、記憶とは不思議なもので、欠落したかのようにどうしても思い出せない記憶も、ふとしたきっかけで思い出すことができる。ヴァッシュにとってのロスト・ジュライのように。

「秋に真斗ちゃんと偶然会えたんですけど、その時はお互い見覚えがあるなあって程度でした。全部思い出せたのは、本当につい最近なんです。初雪の日、ナイブズさんに『怒ったことがあるのか』って訊かれた時、何かが引っ掛かったんです。その引っ掛かりが、真斗ちゃんのことにも引っ掛かって、何なんだろうなぁって思ってたんです。そうしたら、クリスマスに灯里ちゃんがネバーランドの名前を出してくれて、それで思い出せたんです」

 アリシアの言葉に耳を澄まし、一つ一つの情報を整理していたが、予想だにしない単語の組み合わせの出現に、ナイブズは堪らず聞き返した。

「……灯里が、ネバーランド……?」

 ネバーランドとは『時間を止めてしまいたい』という苦悩を抱えた人間が迷い込む、時空の狭間にある夢幻の精神世界。そういった悩みとは凡そ無縁に思える灯里がネバーランドに迷い込むとは到底思えない。

 この疑問に答えたのは、アテナの方だった。ナイブズの驚き方が可笑しいのか、微かに笑みを浮かべて。

「アリシアちゃんがネバーランドって名付けた、私達の秘密の場所があるんです。そこに、アリシアちゃんと晃ちゃんが、灯里ちゃんたちを招待したことがあるんですよ」

 なるほど、そういうことだったか。それならば、なんらおかしいことは無い。

 直後にアテナが「その日は忙しくて、私だけ行けなかったんです……」と急に落ち込んだが、それはアリシアに任せて、ナイブズは真斗にも話すよう促した。

「私はアリシアより少し前に。うちの部の姉ちゃん……二宮愛が、2週間ぐらい前にネバーランドの話をしてくれて、その時、完全に思い出しました。それから、先週のクリスマスの夜、急にアリシアから連絡が来て……あの時は驚いたよ」

「ごめんなさい。でも、居ても立ってもいられなくって……」

 ナイブズからの問いに答えて、そのまま真斗はアリシアのその日のことを話しかけた。悪戯っぽく笑う真斗も、照れ笑いを浮かべるアリシアも、大人びた雰囲気は無く、まるで少女のような無邪気さで、夢の中で出会った彼女たちの姿が重なって見え。

 アテナは何も言わず、微笑みを浮かべてアリシアと真斗のやり取りを聴いていた。他方ナイブズは空を見上げ、時間経過がおかしくなっていることと、2匹の青い瞳の火星猫が2人を連れて来たことを考えた。

 あのお節介焼き達がお節介を焼いたのは、果たしてどちらの方か、それとも両方か。少なくとも、アリシアと真斗をナイブズに会わせるため、態々アリアたちを寄越したのは間違いあるまい。

「そうそう。こっちに来たら、もう1人別の知り合いに会えて、永遠野先生と一緒に驚きましたよ」

 不意に真斗がナイブズへと新たな話題を振って来た。言葉からすると、ナイブズとアリシア以外の誰かのようだが、思い当たる人間は――1人、いた。

「……もしや、アトラ・モンテヴェルディか?」

「まぁ、御存知だったんですか?」

「それらしいことを言っていたのを思い出した。そうか、あいつも……」

 肯定したアリシアの驚きようは、そのままナイブズの驚きでもあった。

 アトラの裏誕生日、彼女はアリスや杏と『ネバーランド』について話していたのだ。ピーターパンやティンカーベルともう会うことも無い、などと言っていたのは、比喩ではなく、そのままの意味だったのだ。

 あの時は、1人の少女が悩みから決別して一歩を踏み出したのだと、その程度の認識で聞き流していた。それが、まさか、そういうことだったとは。テスラを知る人間が、この世にもう1人いたとは。

 驚きつつも、不思議な感慨に耽る。すると、アテナがナイブズの隣へと来た。

「ナイブズさん。ネバーランドのお話、みんなとっても気になってるんです。よければ、お話してくれませんか?」

「何度も訪れていたこの2人と、愛、それにピーター本人がいるだろう」

 より詳しい人間を失念する、アテナのいつものうっかりだろうと即断し即答する。これでもう同行する理由も無くなるだろうと思いきや、ナイブズが指したその2人が、アテナの側に付いた。

「けど、私達はベルちゃんや、もう1人のジョンさん……ヴァッシュさんについて、ナイブズさん程詳しくありませんから」

「それに、水先案内人(ウンディーネ)の皆さんからジョンの――ヴァッシュさんの冒険譚を聴いて、(あね)ちゃんも弟くんも興味津々みたいで。是非、語り手当人に色々教えてもらえればと」

 アリシアと真斗から、ナイブズを呼び込むためにヴァッシュを引き合いに出されてしまって、つい苦笑してしまった。

 ああ、まったく。お前というやつは。ただ話の中だけでも、周囲を引っ掻き回して、巻き込んで行くのだな。時を越えて出会う奇跡を得て、十分に納得して満足して別れたというのに、お前がここでも俺の手を引くのか。

 しかし、それでは癪だと、ナイブズは口を開いた。

「トランを忘れるな。もう1人いただろう、俺の同胞(はらから)が」

 あの時、ネバーランドに集ったプラント自律種は4人、なのに今挙がった名前は3人だけ、これでは不公平だ。尤も、本人から聞いた分には、トランと少女たちとの交流は、覚悟の程を確かめるに脅かしたのと、多少言葉を交わした程度だったらしいので、忘れられてもしょうがないとは思うが。

「それじゃあ」

 ナイブズがトランの名を挙げた意味を察してか、アテナが小さく声を上げる。顔と声には、喜びの色がありありと現れていた。

 何がそんなに喜ばしいのかは分からないが、その期待に応える形で口を動かす。

「日が変わるまでは付き合ってやる」

 これに、3人と2匹は喜びを露わに歓迎した。

 ナイブズの先導によって表から出ると、時刻は黄昏過ぎて宵の頃となっていた。ナイブズの体感時間では疾うに夜の帳が落ちているはずだが、神空間と呼ばれる異空間では時間経過が歪むことは幾度となく体感済みだ。

 それが一定の法則によるものか、思惟的な制御が利くものかまでは知らないが。

 

 

 

 

 サン・マルコ広場は目と鼻の先という所で、アリシアとアテナが夏に夜光鈴を買った屋台の女性とその家族に鉢合わせ、暫く話し込むことになった。

 婚前旅行のはずが、婚約者の獣医が多忙のために家族旅行になったとか、溺愛している愛猫のこととか、色々と話している。

 その中で、女性が連れている球形の猫が、火星猫ではなく地球猫であることが判明し、ナイブズもまた強いショックを受けた。アリシアも驚いているのだから、きっと、かなり珍しい種類の猫なのだろう。しかし女性の家族からすればただの常識らしく、猫の話題で盛り上がる女性たちをよそに、父と弟は道案内をしてくれた地元の少女にお礼を言っていた。

 少女から「全然アリです!」という快活な返事を聴くと、父と弟はお駄賃と上手な案内の代金と称して少なからぬ額の金銭を渡した。水先案内人志望らしい少女は、何度も父と弟にお礼を言って去って行った。

 ナイブズも暇なのでこの2人と少し話してみたら、父の方が天地秋乃と農業を通じた知り合いであることが判明した。ナイブズのことも多少は話に聞いていたらしい。

「ぷいにゅっ」

「ちゃっ」

「ヒアー」

 結婚についての話題で大いに盛り上がっていた女性たちの会話が猫たちの横槍で強制中断されると、佐藤一家は友人夫婦――特徴を聴くにどうもポイニャウンペとその妻らしい――と合流するためにその場を離れ、ナイブズ達も指定の合流場所へと向かった。

 サン・マルコ広場の、有翼の獅子像を頂く柱の下。人混みを掻き分けて辿り着いたそこには、見覚えのある顔ばかりが集まっていた。

 アリシアたちから声を掛けるよりも先に、偶然こちらの方を向いていた1人が、ナイブズの顔を見てぱっと笑顔を見せた。

「あっ、ナイブズさん!」

 あゆみがナイブズの名を呼ぶと、全員が一斉にこちらを見た。

「アリシアさ~ん、アリア社長~。ナイブズさん、見つけられたんですねっ」

「真斗ちゃん先生とちゃ顧問、そしてナイブズさん、発見!」

 灯里の間延びした気の抜ける声に続いて、光の溌剌とした元気な声、そしてホイッスルの鳴る大きな音。すかさず入る「公共の場で急に笛吹くの禁止っ!」の声は、藍華と愛。それでも気にせず、うぴょぴょ、と笑いながら光は真斗の許へ真っ先に歩いて来て、アリシアの許には灯里と暁が、そしてアテナとナイブズの許にはアリスと晃がやって来た。

「……ナイブズさん、アテナ先輩がでっかいご迷惑をお掛けしました」

「まだ何も言ってないぞ」

 開口一番、真っ先に頭を下げられて、ナイブズは否定せずとも口走らざるを得なかった。しかしアリスは動じず、ジト目でアテナの方を見遣った。

「どうせ、アテナ先輩がナイブズさんを探している内にうっかり迷子になって、偶然会えたところを保護してもらったんでしょう?」

「すごいね、アリスちゃん。その通り」

「アテナ先輩のことはでっかいお見通しです」

 アテナはアリスの推理を無邪気に褒めているが、諦観と溜め息混じりのそれを褒めていいものなのだろうか。知らぬが仏ならぬ、気付かぬうちが花、といったところか。

「それにしても、見事に占いが当たったわけだな」

「占い?」

 アテナとアリスのやり取りを見守っていた晃からの発言に、ナイブズは思わず聞き返した。この状況における“占い”という言葉に、思い当たるものがあるからだ。

「ヴォガ・ロンガの日に、お前、舟をほったらかしてさっさと帰っただろ? あの後、取りに来た持ち主のお爺さんと、今日、たまたま会ったんだよ」

「本業は雑貨店の店主で、道楽で占い師の真似事をしている男か?」

「そう、その人。まぁ社長の件で、お爺さんの占いに助けられたってアリスちゃんたちが言うからさ、私達も占ってもらったんだよ。お前が見つけられるか」

 予想は的中。集会に来るのが遅れたのは片付けや準備、或いは疲れによるものと思っていたら、こんな根回しをしていたとは。

 詳しく話を聞くと、占いの内容は「探せば日が暮れるまでに見つかる。探さなければ決して見つからない」という曖昧模糊なものだった。

 晃や暁などは適当にそれらしいことを言っているだけではないかと疑ったが、灯里と光が『夕方まで探して回れば絶対に見つかるってこと』だと前向きに解釈し、アテナとあゆみとアリシアがすぐにそれに賛成して、老爺当人もその通りだと頷いた。

 結果、他に妙案も無く、夢ヶ丘高校ダイビング部と付き添いの教師への観光案内も兼ねて、浮島出の3人も巻き込んで6組に別れての大捜索を始めたとか。

「……あのお節介焼きめ」

 周到さに呆れつつも、今までと変わらぬやり口にある種の親しみを込めて呟いた直後、あゆみらが乱入してきて、ナイブズはあっという間に彼女たちの輪の中心に引き込まれた。

「聞かせて下さい。ネバーランドとか、龍宮城とか、ヴァッシュさんのこととか――色んなことを、たくさんっ」

「まさか、ナイブズさんがティンカーベルの弟だったなんて……!」

「ヴァッシュさんも弟で、兄弟が夢の中で揃ったなんて、不思議だよね」

「夢の中でのヴァッシュさんの活躍についての捕捉も、是非お聞きしたいですっ」

「後輩ちゃん、すっかりヴァッシュさんの大ファンね」

「僕も素敵で、凄い方だと思いますよ、ヴァッシュさんは」

「きっと、風のように自由で、優しい人なんだろうね。そんな気がするのだ」

「俺も興味あるんだよ、お前の弟の、平和主義者の正義の味方の話は。もみ子の話は要領を得なくていかん」

「ええーっ!?」

「龍宮城もね~、ばかりは“お話”を話すのが絶望的にへたっぴなのよね~」

「姉さん、それは言い過ぎ……でも、ないか?」

「確かに……ぴかりのお話、ちょっと分かり難かったかも」

「うぴょっ!?」

「ネバーランドのことも、ボクたちが忘れていることがあるかもしれませんし……トランや姉さんのこと、もっと詳しく知りたいんです」

「私も、お前がアリシアを怒らせたって話には興味がある。是非、詳しく聞かせろ」

 あゆみの言葉を皮切りに、次々に、口々に、アトラが、杏が、アリスが、藍華が、アルが、ウッディが、暁が、愛が、誠が、双葉が、守が、晃が求める。あの話の続きを、新しい物語の一節を、教えてくれ、話してくれと。灯里と光をからかっているだけの者もいたが、その視線も今はナイブズに向いている。

 アテナとアリシアと真斗は、今更言うに及ばず。何も言わず、期待を込めた視線をナイブズに向けている。いや、期待というよりも、確信か。きっと、自分たちとの約束を守ってくれるだろうと。

「……いいだろう。日が変わるまでは付き合ってやる」

 同じ言葉を、再び紡ぐ。わっ、と小さな歓声が湧き、つい苦笑する。

 俺の話の、何がそんなに楽しいんだか。

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの伝統に倣い、お汁粉や煎り豆などの豆料理を夜食としてつまみつつ、ナイブズは3つの物語を語る。

 まずはネバーランドの出来事――テスラやヴァッシュやトランのことを、守と真斗とアリシアと共に。

 ヴァッシュの登場に最初は歓声が湧いたが、その珍道中ぶりにすぐ笑い声に変わった。予てからヴァッシュを話の中で知っていた水先案内人の少女たちは、実際の人柄を聞いて、ある者は戸惑い、ある者は笑い、ある者は目を輝かせていた。

 トランは、ピーターとすぐに意気投合し、友と呼べる間柄になっていたという。愛と真斗は、彼が上空から降って来て、巨大な拳骨で地面にクレーターを作ったことを証言したが、夢の中だからそういうこともあると誤魔化しておいた。

 ティンカーベル改めテスラについては、ピーターやナイブズとの関係性や、アリシアと最も仲が良かったことだけを伝えて、正体と最期を話すことは避けた。こういう時に話すようなことではないし、彼女を静かに眠らせていたかったから。

 ナイブズがアリシアを怒らせた一件については、その理由がどちらもテスラに纏わることだったため、詳細を伏せざるを得なかった。

 その結果、ナイブズがアリシアを怒らせた理由は――

『ナイブズがテスラとの思わぬ再会に動揺するあまり突然自傷行為を始めて、テスラを怯えさせたから』

『ピーターを想った真斗と同様に、テスラの孤独を偲ぶあまりネバーランドに留まろうとしたから』

 ――という内容になり、めでたくシスコン認定を受けることになった。アリシアらの必死の説得により、すぐに取り下げられて事なきを得たが。

 同じネバーランドを夢見た者の中で、唯一最後の時に居合わせなかった――真斗が出入りし始めた後、アリシアが出入りし始める前の時期のようだ――アトラは少々寂しそうだったが、アリシアと出会う前の真斗やテスラ、その頃のピーターの様子を話してくれた。ナイブズにとっては、ある意味こちらの方が貴重な情報だった。

 一通り話し終えると、ナイブズから守以外の4人に、どんな理由でネバーランドに迷い込んだのかを問うた。

 真斗は間近に迫った中学校の卒業を惜しんで、愛は年明けが迫り自分の卒業する年が来ることを儚んで――共に、学生特有のセンチメンタリズム。それを懐くのはむしろ健全なぐらいだと、学業を終えた者達は口にする。アリスや双葉ら在学生は、2人への共感を口にした。

 アトラは、一人前になる夢を殆ど諦め、未来への希望を見失い、もう明日なんか来なければいいと自暴自棄になった日に、ネバーランドへと迷い込んだ。奇しくもその翌日に、灯里、あゆみ、杏の激励によって、夢を取り戻し、二度と迷い込むことはなかったという。

 アリシアは、見習いから半人前へと昇格した数日後のある夜に、一人前になったら、自分1人になったら――と来るべき未来への漠然とした不安感から、明日を恐れ、その恐れがネバーランドへの道を開いた。本来なら一夜限りの夢のはずが、ベルや真斗と出会ったことで、彼女たちにまた会いたい一心で、同じ夢を見続けたのだという。

「ナイブズさんは……大切な時間を止めてしまいたいと、思ったことはありますか?」

 自分のことを話し終えて、アリシアはそんなことを訊ねて来た。考えるまでも無いことで、即座に答える。

「無いな。だが、過ぎ去ってしまった時間を取り戻そうと、必死に足掻いていたことはあった」

「そうなんですか」

 訊ねたアリシアのみならず、周囲の全員が意外だと声を漏らした。彼らの目にナイブズがどのような人間に映っていたのかは知らないが、ナイブズとて、人並みに後悔や迷いを抱えていたのだ。

 砂の惑星に居た頃、離れてしまった兄弟を偲んで。

「結局、それは適わなかったが……取り戻そうとした時間よりも、よっぽど充実した時間を過ごせた。夢の中で、だがな」

 ネバーランドは何も、悪いことばかりではなかった。それが、あの夢を見た者の総意だった。

 話が終わると、晃が何やら不機嫌そうにしているので「真斗かベルに嫉妬しているのか」と尋ねた。図星だったらしく、晃は赤面して、すわっ、とナイブズを威嚇し早口で尤もらしい否定の理屈を並び立てた。

この様子に、アリシアとアテナと藍華は、あらあら、うふふ、と微笑みを浮かべて、しっかり分かっている様子だった。

「お前ら! あらあら禁止! うふふも禁止! 藍華は禁止も禁止!」

「ぎゃーす! 台詞とられた!!」

「あらあら」

「うふふ」

 

 

 甘納豆と豆大福をつまんで、次に話すのは龍宮城。

 この当事者は水無灯里と小日向光、そしてもう1人大神アマテラスが気にかけていた地球からやって来た少女がいた……などと話していた丁度その時。

「灯里さーん!」

 天道丈と紅祢に連れられてアイがやって来た。

 どうやら龍宮城での件を通じて、アイと紅祢は友と呼べる仲になっていたようで、この時間まで共に過ごして、今は灯里達を探しに来たのだという。アイは灯里や藍華と、丈と紅祢は光と親しげに言葉を交わした。

 天道兄妹にもナイブズでは理解の及ばない神秘的な事情の話をさせようとしたのだが、今日と明日は彼らにとって特別な日で様々な準備や催しや儀式があるのだという。

「それでは皆さん、良いお年を」

「明日の初日の出は格別のものですので、是非御覧ください」

 大晦日にだけ使う挨拶を残して、丈と紅祢は足早に去って行った。

 アイが加わったことで、アイと愛と藍華で名前に「あい」を含む人間が3人揃ってややこしい、ということになったが、愛を『二宮姉』『(あね)ちゃん』と呼ぶことで事なきを得た。ついでにアイのフルネームを確認すると愛野アイ。これから話すアイーダも含めて、異様に名前の『あい』率が高まっていた。妙な偶然があったものだ。

 話を再開し、海底の聖域で一堂に会した人に寄り添い見守り続ける神々、神々との親交を持つ天地秋乃と小日向きの、神々への信仰を受け継ぐ天道一家、そしてナイブズの同胞であるアイーダについて、灯里やアイや光と共に語る。

 アイーダに関してはその存在の重要度から色々と説明が難しく、トランとはまた別な遠縁の親戚と誤魔化した。それどころか、アイが行きの船内での散歩中に抜け出していた彼女とばったり出会って仲良くなったこと、秋乃と彼女の母が旧友で、在りし日の話を聞くために秋乃の下を訪れていたことが少女たちによって判明し、逆にナイブズが衝撃の真実に驚かされることとなった。

 海底の聖域で一堂に会した神々については、古からの伝承以上のことはナイブズも知り得ているとは言い難かった。ただ、彼らがヴァッシュのように、人を愛し、見守り続けているということだけはよく分かった。

 海の慈母とも火星の慈母とも呼ばれる超大型プラントであるグランドマザーの存在は、火星の住人達に少なからぬ驚きを与えていた。同時に光や灯里やアイの証言から話好きの気さくな老婆のようなイメージも受けて、より混乱しているようだった。ナイブズも、神に類する存在からは威厳や威光よりも親しみを感じるのが当たり前になっていたことに、今になって気付いた。

 必然的に火星開拓史から抹消されていたプラントの活躍も話してしまったが、地重管理人の間でこっそり伝承されていることだし、当人たちにも言いふらすような素振りは見られないので、特に問題無いだろう。

 そして話がぽあっとした間抜け面の白狼――太陽神の化身ともされる、天の慈母、大神アマテラスに至ると、思わぬ方へと話が向いた。

 この場にいる殆どの人間がアマテラスと遭遇済みという事実には呆れる他無かった。しかも全員が最初は「ただの人懐こい犬だと思っていた」というのだから――何人かはその後改めているとはいえ――威厳も何もあったものではない。

 しかし、人によって見え方が異なる全身の紅化粧、秋の日に藍華やアリスに見せつけたという桜花の筆しらべ、そしてナイブズが灯里や双葉と共に体験した過去の出来事が、自然と大神アマテラスに一目置かせた。暁を始めとして、ただの白い犬にしか見えない数名は懐疑的だが、過去の出来事については興味があるようだった。

 過去で未来の話をするのではなく、現在で過去を振り返るなら何ら問題あるまいと判断して、ナイブズは灯里や双葉と共に、秋の日に体験した不可思議な出来事を話した。

 人類文明の発展と反比例して人々からの信仰心を失い、地球を追われて別天地へ――開拓黎明期への火星へと追いやられたアマテラスの姿は、見るも無残、哀れとしかいいようが無かった。

 それでも、残る力を振り絞り、何も無い星を水の惑星へと生まれ変わらせようと懸命な努力を続ける人々を陰に日向に支え続け、遂には力尽きた地球の大神。しかし、太陽は沈めどもまた昇るもの。悠久の月日を経たものの、40年ほど前に火星の大神としての転生と新生を果たし、今日も大神アマテラスは世を照らし、みそなわし、きこしめし、しろしめす――とは、天道神社の神主と店主の言だ。

 一度死んで生き返った辺りで皆がどよめいているが、そういうはったりの利いた誇張表現は神話や伝説では常套手段だと、自らの考えを述べた。一方で、過去に見たアマテラスは間違いなく、現代にいるアマテラスと同一の存在だという確信もあるのだが。

 信じる者と信じられない者との間で、喧々諤々の議論が始まりそうだったが、

「つまり、シロちゃんはとっても立派で素敵なワンコってことですねっ」

「うん、そうだよ。シロちゃんはとっても優しくて、あたたかい、お日様みたいなワンコさんなんだよ」

 アイと灯里のこの言葉で落着となった。結局犬扱いなのが、それを否定する気も起きないのが、何ともアマテラスらしい。

 天地秋乃や小日向きのが神々と知り合った経緯はナイブズも詳しく知らなかったが、そこは次に本人に会えた時に確認しよう、ということで皆納得した様子だった。

 アトラや杏やあゆみは「グランマはそんな気軽に会える存在じゃありません」と文句を言ったが、アリシアや灯里のとりなしによって近い内に会うことが決まったので、何も問題無い。

 

 

 夜食代わりに麻婆豆腐、湯豆腐、豆腐入りの豚汁を食べながら、話はいよいよ最後。

 銃火の飛び交う砂の惑星を旅する、平和主義者のガンマン――ヴァッシュ・ザ・スタンピードの物語。

 正直、もう何度話したかも分からない。ただ、夢ヶ丘高校の面々からの強い要望もあり、改めて、最初から語ることになった。

 

 一滴の水も存在しない乾いた砂塵の荒野で、其処彼処から血と硝煙の臭いが燻ぶる世界で、ラブ&ピースという夢を掲げて駆け抜けた馬鹿で頑固な大馬鹿者がいた。

 この話のさわりの部分だけを聞けば、きっと誰もが綺麗事の予定調和の三文芝居と決めて掛かるだろう。しかし、実際は違う。その男が夢を叶えようとした場所は、人の心すらも渇いた暴力の世界だったのだ。

 男は貴く気高い理想を持ったが故に、常に立ちはだかるのは難題と難敵ばかりだ。

 男は暴力の世界で暴力を否定した。故に、誰よりも大きな力を持ちながらも、それを決して振り翳さず、振り上げることすらなく、自らを強者と定義する世界の摂理に挑み続けた。

 どれ程の苦杯を舐めただろう。

 どれ程の辛酸を味わっただろう。

 どれだけの血と涙を流しただろう。

 男は幾度、この世を地獄と思ったことだろう。

 しかし男は、一時は歩みを止めてしまうこともあったが、決して膝を折らず、最後には立ち上がり、前へ前へと進み続けた。

 今までも、そしてこれからも。

 

 深紅の外套を翻し、砂塵の荒野のみが広がる大地を、彼は駆け続けた。

 彼は、血と怨嗟が渦巻き、硝煙が燻ぶる、人の心すらも乾いた暴力の世界で、ラブ&ピースを唱え続けた。

 彼は、暴力を振るう誰をも凌駕する力を持ちながら、その力を決して是とせず、己を強者と定義する世界の理に抗い続けた。

 彼は、どれだけ己の肉体に傷跡が刻まれ血を流そうとも、誰かの涙を止めることだけを只管に願い、実行し続けた。

 そんな彼の正体は、ただ一心に人を信じることのできる、底抜けのお人好しで呆れるぐらいに心優しい、稀代の大馬鹿者。

彼の名は、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。

 

 彼の傍には、常に人の姿があった。戦いの時も、旅の時も、日々を過ごす如何なる時も。

 人々は彼と触れ合い、時には拒絶し、時には受け入れ、時には絆され、時には反発した。

 残念ながら、人々の反応に多かったのは負の側面。一体どれだけ裏切られ、傷つけられ、嘘をつかれ、屈辱を受けたことか。いわれなく疑われ、人間扱いされず、大切なものを奪われ、笑われながら踏み躙られ……そんなことが幾度となくあっただろう。

 きっといい人もいるから、きっとより良く変われるから、きっと、きっと……と、呪詛のように唱えながら、救いようのないクズまで含めて人を救おうなどと、正気の沙汰ではない。自分自身の傷と痛みを省みず、矛盾だらけの現実を凝視せず、綺麗事とやせ我慢の生き方が心を蝕んでいるのではないかと問い質したこともあった。

 それでも、彼は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは立ち止まることはしなかった。果てしない旅路の中で出会った人々が彼の中に灯した光が、温もりが、いつしか彼の理想を支える土台となり、彼が歩くための原動力となっていたから。

 そんなヴァッシュの生き方に、砂の惑星の人間たちは少しずつ影響を受けていった。それは少しずつ星中に伝播していって――あの時に、奇跡として結実した。神の見えざる手によるものではなく、機械仕掛けの神の降臨でもなく、この世に生きる1人の男の愚直なまでの信念と理想を、最後の最後まで貫き通したことで掴み取った、引き起こした奇跡。

 時間はかかるし、時には後戻りもするけれど、人は前に進めるのだと、信じ続けた故に。

 それは、ヴァッシュの対極に常に存在し続けていた宿敵にとっても、例外ではなかった。

 

 ここまで話して、そういえば果てしないトラブルメイカーであり、一時は人間たちによって『トラブルを無駄に肥大化させて災害レベルにする、ある種の災害』として認定され、局地災害指定“人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)”となっていたことを話していなかったと気付き、改めて話すと、ジョークと誤認されて笑いが起きた。アイーダにも「時々変なジョークを言う」と誤解されていたな、などと思い出す。

 具体例を出しても到底信じそうにないと判断し、『人を死なせないためならば、事態を引っ掻き回して大騒ぎにすることも辞さない男だった』ということで納得させた。事実の一側面ではあるのだが、何故か嘘を吐いたような気分になった。

 また、アリスに乞われてヴァッシュの身体的特徴を列挙したら、何故かウッディに似ているのでは、という話題になった。

 箒のように尖った金髪、筋肉質の長身、平素は笑顔を絶やさぬ間抜け面、丸渕のサングラスと、確かに部分的なパーツに類似点があることは認められる。だが、ナイブズからすれば到底似ておらず、これならアリスの言っていたムッくんというキャラクターの間抜け面の方がよっぽど似ている。それを指摘したら、アリス曰く「ウッディさんはムッくんとでっかいそっくりですっ」ということで『ヴァッシュ≒ムッくん≒ウッディ』の公式が成立し、やはりウッディとヴァッシュは似ているのではないか、という話題でループした。もう好きにすればいいと、心の底から思った。

「うそ……あのジョンが、こんなに立派な人だったなんて……!?」

「人は見かけによらないな……あのジョンが……」

 愛と真斗は、実際に会ったジョン・スミスとナイブズが話したヴァッシュ・ザ・スタンピードとの落差に驚き、呆気に取られていた。確かに、普段と本気との落差が大きいのはナイブズも同感だ。この面子で例えるなら、灯里が晃に、普段のアテナが仕事中のアリシアになるようなものだろう。

(あね)さんよ、やっぱり雰囲気でも俺と似ていた、というのは気のせいだったんじゃないか?」

「いや、それは間違いないわよ。蹴り易かったし」

「そんな立派な御仁を蹴りまくったことを、懺悔する気はないのかよ……」

 誠はヴァッシュと似ていると言われて、最初は親しみを持っていたようだが、いざ話を聞くと恐縮してしまったようで、愛に訂正を求めた。しかし愛は独自の評価基準に基づいて評価を曲げなかった。

「……あいつは、初対面の子供にプロレス技を掛けられて、呻くような奴だ」

「あー……」

 愛の評価基準と、実際にネバーランドで見たやり取りから、何か思い当たるものがあると思ったら、それだった。誠も、これには納得したようだ。

「誰が子供と同レベルよ!?」

「言ってないっ!?」

 綺麗な飛び蹴りが炸裂。ああ、確かにヴァッシュのあれと同じだ。やはり何かしらの雰囲気が似ているのだろうかと、なんとなく思った。

 ナイブズとしては、この中でヴァッシュと最も似ているのはウッディでも誠でもなく、灯里だと思っているのだが、そのことは黙っておこう。気が付けば時刻は23時過ぎ、メインイベントまで1時間を切っている。余計な話をしていたら、時間が無くなってしまう。

 ナイブズがそれを告げると、全員が口を揃えてあっという間に時間が過ぎたと言った。4時間ほど話し続けていたナイブズからすれば、やっと終わった、というのが率直な感想だ。

 もうこんな時間になってしまった、という点については、同感だ。

 

 

 流石に話し疲れたと称して一時離脱すると、残った面々で幾つかのグループに別れ、また違った話題で話し出した。よくも飽きないものだと感心する。

 ふと、空を見上げ、吐息を一つ。

 ネオ・ヴェネツィアでは夜間の灯火が制限されていることもあって、星空は良く見える。昼間の青空はノーマンズランドとさほど変わらないが、やはり、星空となるとまるで違う。

「ナイブズさん、お疲れ様でしたっ。たくさんお話聞けて、すごく楽しかったです! ありがとうございます!」

 元気のいい、興奮気味の呼び声に視線を落とす。確認するまでも無く、聞き慣れたこの声はあゆみのものだ。

 寒空の下、首にはマフラーを巻き、片手だけでなく両手とも防寒用の手袋を付けているが、頬を熱に浮かされたように紅潮させていて、一目で興奮の度合いが見て取れた。

「そんな大層なことを話したつもりはないんだがな」

「少なくとも、ウチが楽しかったのは本当ですっ」

「そうか」

 当人がそれでいいのなら、それでいいだろう。

 問答を終えて、ふと気付く。水先案内人たちは全員、仕事でもないのに制服姿だ。カーニヴァルの時もそうだったが、水先案内人は制服で行事に参加する規則か伝統でもあるのだろうか。

「ナイブズさんは、ネオ・ヴェネツィアの年越しがどんなものか、知ってます?」

「そういえば、聞いてなかったな」

 ナイブズの視線を怪訝に思ってか、あゆみはそんなことを訊いてきた。アテナにはみんなで一緒に過ごす日だから来てほしいと言われただけで、詳しい内容は聴いていない。いつもなら勝手に説明する店主も、今日と明日は特別な日と言うだけで、詳細は口にしていなかった。

「ここに来るまでの間、家の窓とかから何か出てませんでした? 家具とか、そういうの」

「言われてみれば、ちらほらと見かけたな。あれをどうするんだ、捨てるのか?」

「正解です。窓から家具とかお皿とか、豪快に投げ捨てるんですよ!」

「……なんでだ?」

 適当に口に出した乱暴な思考が正答だったので、ナイブズは却って混乱した。いつもならそれは違うと、訂正の入る所だったのだが。

 文化財の保管・保全や街の美化に注力しているネオ・ヴェネツィアで、物を捨てる行事があるということが何より意外だった。

 ナイブズの困惑した様子が余程面白いのか、何やら得意げな表情で、あゆみは答えを教えてくれた。

「昔々の地球(マンホーム)のイタリアで、そういう風習があったらしいんですよ。新年を迎えると同時に、去年まで使ってたものを放り投げて、一緒に悪いことも忘れてしまおうって」

「変わった趣向だな」

「けど、新年を迎えるのと一緒に、みんなで一斉にやるんですよ? 楽しいんですよ、これが!」

 なるほど、旧世紀由来の伝統文化ならば、ネオ・ヴェネツィアでやらない理由は無い。納得すると同時に、ある疑問が生じた。

 ここサン・マルコ広場には、皆で年越しをするべく大勢の人間が集っている。この状態で各々が物を投げたら、ノーマンズランドならばちょうどいい具合の祭りになりそうだが、火星の基準では大変な惨事になるのではないだろうか。

「……ここでもやるのか?」

「はい。勿論、人が集まってる場所で人がケガするようなものを投げるのはご法度ですよ。投げるのはだいたい手袋とか、マフラーとか、上着とか、そういう小物です。で、ウチらは帽子です」

 流石にその辺りの分別はついているらしい。あゆみは制服の帽子を手に取って、両手で抱えた。手袋を選ばない辺り、彼女らしいと言えるだろう。同時、水先合案内人たちの服装にも納得する。

「それで、全員が制服姿か。……今年中に使ったものなら、なんでもいいのか?」

「はい。何か、投げたい物があるんですか?」

「ああ。調度いいものがある」

 言って、静かに懐に手を入れる。大事な、とても大事なものを仕舞ってあるその場所に、手を入れ、それを掴んだ。

 惜しむ気持ちはある。だが、これこそが相応しい。今の話を聞いて、これ以外に投げる物が思い浮かばなかった。

 この機を逃せば、きっと、もう二度と、これを手放すことができなくなる。又と無い機会を得られたのだと、自分に言い聞かせる。

 気楽なあゆみとは対照的に、ナイブズが重大な決意を固めていると、横合いから珍妙な叫び声が聞こえて来た。

「あうぐーりお!」

「ぼなーの!」

「アウグーリオ!」

「ボナーノ!」

「アウグーリオ!」

「ボナーノ!」

 何かの掛け声だろうか。灯里とアイ、光と愛、真斗と守が一緒になって叫んでいる。水先案内人等周囲のネオ・ヴェネツィアの住民に慌てた様子は見られないことから、薬物か何かで気が狂れたわけではなく、何らかの意味のある行動なのだろうと推察する。

「なんだ、あれは」

「新年の挨拶ですよ。アウグーリオが掛け声で、ボナーノが『あけましておめでとう!』って意味で、新年になるのと同時に叫びながら、みんな物を投げるんです」

 そういうことかと納得する。恐らく、間近に迫った本番に向けて、ネオ・ヴェネツィアの外から来た者達が練習しているのだろう。

 双葉と誠は遠巻きに見ていたのだが、やがてアリスと藍華に背を押され、光と愛に手を引かれ、一緒に叫び出した。ナイブズも手招きされた気がしたが無視して、あゆみと話を続ける。

「お前には最初に会った時も、こうして色々教えてもらったな」

「そういえばそうでしたね。いやー、あの時はこんなに仲良くなれると思いませんでしたよ」

 水の3大妖精、天上の謳声を歌えなくした、見るからに怪しい風来坊に、よくも声を掛け、舟にまで乗せてくれたものだ。

 あの時の自分はつくづく厚かましかったものだと、我が身を振り返る。

「……お前には今年、色々世話になったな。礼を言う」

「ウチの方こそ、色んなことを教えて貰いました。来年もよろしくお願いしますっ」

 そういえば、再会を約束したのも、あゆみが初めてだったか。そんなことを思い出して、微かに笑みを浮かべるが、少女の言葉を肯うことはせず。

 あゆみもナイブズの態度に何か違和感を覚えたようだが、そこへ丁度良く、灯里の元気な声が割って入った。

「ナイブズさーん! ネオ・ヴェネツィアの年越し、知ってますかー?」

「調度、あゆみに教えてもらったところだ」

「はひっ、そうでしたか」

 興奮して先走ってしまったと、羞恥から俄かに顔が赤くなる。初めて花火を見たあの時も、今のような調子で話しかけて来たのだったか。

 灯里からすれば間の悪いことだったが、ナイブズからすればいいタイミングだ。調度、灯里には確かめたいことがあったのだ。

「俺を探そうと言い出したのはお前らしいが、何故だ?」

 灯里こそが、ナイブズを探そうと言い出し、結果的にこの場にまで招き寄せた張本人。どうやらその意図は全員が把握していたわけでは無いようで、暁をはじめ、多くのものが灯里に注目した。

「ナイブズさんが、私達を繋いでくれたからです」

 柔らかな笑みと共に告げられた言葉。

 何の迷いも、躊躇いも無く伝えられた言葉の意味がまったく分からず、ナイブズは困惑し、鸚鵡返しに聞き返した。

「俺が……お前達を?」

「はい。見て下さい、今ここには、たくさんの人たちが集まっています。でも、私達みんなが知っていたのは、ナイブズさんだけなんです。こんなにもたくさんの人達の中で、私達はみんなが、ナイブズさんと出会えていたんです」

 言われるまま、周囲を見回す。サン・マルコ広場に集った人間の数は、正確な人数はわからないが、千人は軽く超えているだろう。それだけの人間がいても、灯里たち全員が共通して見知っている人間はナイブズしかいない、ということだろうが――そもそも二宮誠に至っては今日の昼前が初対面なのだが――それがどうしたというのか。

 灯里の真意を測りかね、続く言葉に耳を澄ます。

「それだけじゃありません。私は、ナイブズさんと会えていたから、ぴかりちゃんやてこちゃんと出会えて、あゆみちゃんやアトラちゃんや杏ちゃんとも会ってすぐに仲良くなれました。アリシアさんが昔のお友達とまた会えたのも、私がその人たちに会えたのも、ナイブズさんがいてくれたから」

 灯里は、そこで一度言葉を切って、目を閉じて深呼吸をする。

 今日までの一年間を振り返り、その中で、ナイブズが繋いでくれた幾つもの縁を思い返して。

 再び開いた瞳は、まるで灯りが点いたように輝いていた。

「きっと、みんなもそうなんです。今日初めてみんなで集まったのに、すぐにみんなで仲良くなれたのも、みんながナイブズさんを知っていたからなんです。ナイブズさんと出会えたから、みんながみんなと出会えていたんです。今年一年の出会いが、こんなにもたくさんあって、どれもが素敵な宝物になったのは、ナイブズさんが私たちを繋いでくれたからなんです。人と人が出会うのは、それだけでも素敵な奇跡。けど、それだけじゃない。出会いがまた、新しい出会いを、新しい奇跡を連れて来てくれていたんです。だから、私達を繋いでくれた、私達を出会わせてくれた、私達の真ん中にいるナイブズさんと、今日はどうしても一緒にいたかったんです」

 完全に予想外の言葉の数々に、開いた口が塞がらない。呆然として、ただ灯里の顔を見る。

 間抜けな、気の抜ける、毒まで抜けるような笑顔。人里を照らす灯りのイメージが、不意に浮かび上がった。意識が変なところと繋がったようだ、早く正気に戻らねば。

「恥ずかしい台詞禁止!」

「いやいやいやーん!!」

「ええーっ!?」

 藍華と暁と愛によるツッコミ、光と双葉の悶絶の叫び、それらにショックを受けた灯里の声。それらが鼓膜を刺激したことで、ナイブズは漸く我に返った。極めて静かに混乱するという、得難い体験をすることになるとは思わなかった。

 ナイブズの虐殺者としての前歴や素性を知らぬとはいえ、得体の知れない風来坊に対して、よくもこんな好意的評価が出せたものだと感心してしまう。同時に、今の言葉を聴いて自然と湧き上がる不思議な喜びが、不思議な嬉しさがあった。

 そして、漸く分かった。ナイブズが藍華たちのように、灯里の言葉を恥ずかしいと思わない理由が。

 恥じらいも躊躇いも無く、変な見栄を張ることも無く、自分の想いをそのまま言葉に変えて相手に伝えられる素直さ、純粋さ。それを心のどこかで羨ましく感じ、同時に共感できていたからだ。流石に、自分に向けられたものにまで羨ましさは感じなかったが、そのお蔭で気付けたのだ。

 灯里を中心に作られる輪から少し離れて、1人の女性に声を掛ける。

「アテナ」

「はい?」

 名を呼ばれて、アテナは不思議そうに小首を傾げてから、ナイブズの前まで歩み寄って来た。初めて素顔を見せた時、恐怖で凍り付いたのが嘘のようだ。

 そう。あれこそが、すべての始まりだった。

「俺の始まりはお前だ。お前と会えたお蔭で、俺はこうして、多くのものと繋がれた。改めて、礼を言う」

 灯里の言葉を借りる形で、アテナへと感謝を伝えた。

 碌に聞きもせず歌に罵声を浴びせるという、凡そ最悪とも言える出会い。それでも、あのアテナとの出会いこそが、水の惑星でナイブズが踏み出した、新たなる旅路の最初の一歩だったのだ。

 アテナと出会えたから、あゆみと出会い、灯里達と出会い、晃と出会い――灯里の言うように、出会いが出会いを呼び、生まれた縁が新たな縁を繋いで結んでくれたのだ。

 すると、アテナは笑みを浮かべて、意外な言葉を返した。

「私の方こそ、ありがとうございます。歌を咎められたのは、とても辛かったです……けど、歌ってほしいって言われて、歌を褒めてもらえて、嬉しかったです。それに、今はなんだか、前より歌うのが楽しいぐらいなんです」

 理不尽なあの体験ですら、糧として前に進む。見た目の儚さとは裏腹の逞しさ。

 この言葉を聴いて、感心するよりも先に自然と口が動いて、言葉を紡ぎ出した。

「……ありがとう、アテナ・グローリィ。俺を許してくれて……受け入れてくれて。お蔭で俺は、人と共に生きることが……生き直すことができた」

 口から滑り出た、素直な言葉。アイーダにも「人間にも素直になれれば」と心配されていたが、灯里に触発されたのか、今この時に、素直になれた。

 この星に来た当初は、人間に許しを求めていたわけではないし、人間に受け入れられずともいいと、心のどこかで思っていた。だが、アテナはナイブズの傲慢を許し、ナイブズの無知を受け入れてくれた。そのお蔭で、ナイブズは多くの人と出会い、言葉を交わし、行動を共にし、議論を交わし、共感を覚え、食卓を共にし、摩訶不思議な体験さえ共有し――今、皆とここにいる。

 すべての始まりはアテナ――今ここにいられるのは、すべてアテナのお蔭。

 そのことに対する心からの感謝を、やっと伝えられた。

 

 

 

 

「ナイブズさん……?」

 アテナはナイブズ様子に、平素と異なるただならぬものを感じ取り、ナイブズの名を呼び、心配そうに顔を覗き込んだ。

 丁度同じタイミングで、顔に何かが貼り付いた。手に取ったのは、四角い紙片――紙吹雪を撒き始めたのだ。もうじき日付が変わり、新年を迎えるという合図だ。

 広場に集まった人々は、それぞれ思い思いの物を手に取り、年越しの準備を整える。屋台も一時休止となり、その時を皆が今か今かと待ち受けている。アテナも晃やアリスに急かされて、一先ず帽子を手に取り、新年の瞬間を待つ。詳しいことは、この後すぐ、また明日に聴けばいいのだと。

 

 ナイブズも周囲の人間に倣い、投げる物を懐から取り出す。

 それは、同胞たちから受け取った(はなむけ)――行き先の書かれていない、白紙の切符。

 取り出して、暫し見つめる。いざその時が来ると、惜しむ気持ちが自然と湧いて来る。だが、もう決めたことだ。

 切符を、拳を作るように、きつく握りしめる。

 新年を迎えるカウントダウンが、いよいよ始まった。

 10(ディエチ)(ノーヴェ)(オット)(セッテ)(セイン)……

 

 未来への切符は、いつも白紙なんだ――ヴァッシュ・ザ・スタンピードは言った。

 ナイブズは確信した――ならば、未来に辿り着いた今、もう白紙の切符はいらない。

 

 ……(チンクェ)(クアットロ)(トレ)(ドゥーエ)(ウーノ)

『アウグーリオ! ボナーノ!』

 新しい時の始まりを祝う歓喜の叫びと共に、大鐘楼の鐘が打ち鳴らされ、様々なものが宙へ投げられる。

 多くの物は重力に従って、5秒と経たずに地面へ落ちた。人々はそれぞれ、自分が投げたものを拾い直したり、勢いよく投げすぎて遠くまで飛んで行った物を取りに走ったり、拾おうとして他の人とぶつかったり、頭同士をぶつけて痛がったり、様々な姿が見られる。

 そんな中、ナイブズは未だ宙を見上げていた。

 白紙の切符は、紙吹雪と共に宙を舞っていたが、やがて、微風(そよかぜ)に流されて、目の届かない何処かへと消えて行った。

 それを見届けて、ナイブズもまた、サン・マルコ広場から姿を消した。

 誰の目にも届かぬところで、白紙の切符は羽根のようにひらひらと宙を舞い続け、打ち上げられた花火と一緒に、光と爆ぜた。

 

――ありがとう。そして……さらばだ――

 

 ナイブズに近しい人間たちに届いた、心へと直接響いた不思議な囁き。

何も知らない者達は空耳かと思ったが、どうやらこの場にいる全員が聞いたらしいことに首を傾げた。

 その感覚を知る灯里と双葉は、大慌てで周囲を見回して、すぐにナイブズの姿が消えていることに気付いた。

 唯一、事前に別れを告げられていたアテナだけが、その言葉を事実として受け止めていた。

「……ほとぼりが冷めたら、また、会いましょうね。ナイブズさん」

 1月1日――新年を迎えると同時。

 この日この時を境に、ミリオンズ・ナイブズはネオ・ヴェネツィアから姿を消した。

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの街を出てすぐ、ナイブズは走り出した。自分を追ってくる気配に気づき、それを引き離そうとしたのだ。

 地球連邦政府は、ナイブズを刺激せず、火星上にいる間は火星総督府による保護観察下で様子を見ることに表向きは同意した。だが、その本心ではナイブズを始末したくてしょうがないはずだ。特に、強硬派の筆頭格として店主と議論を戦わせたというクロニカは。

 アイーダの乱入と、彼女の両親の口添えもあって、クロニカら強硬派もその場は引き下がったようだが、秘密裏に刺客を送り込む可能性は非常に高かった。

 その懸念もまた、ナイブズがネオ・ヴェネツィアを離れることを決めた一因だ。

 では、実際に今ナイブズを追って来ているものが、刺客や暗殺者の類であるかと言えば、違っていた。走り出してすぐに分かった。

 ナイブズを追い抜かして駆けて行くのは、紅化粧を全身に施した、美しき白い狼。夜闇に包まれた野原でも尚燦然と輝く白き威容は、昨日までとは違って見えた。

 追手では無かったが、これは一体どうしたことか。人間好きで賑やかなことも好きなあの大神が、なぜ祭りの喧騒から離れていくのか。

 分からないが、大神が走り抜けた跡に咲き乱れる黄金の草花に導かれるように、今度はナイブズが後を追う。

 走って、跳んでを繰り返し、辿り着いたのは風力発電の風車が林立する丘。あの日も導かれた場所だ。

 あの時はアマテラスの背にアイがいたが、今はナイブズの他に誰もいない。

 それ以外にも、何かで見た覚えがあるような気がしていたが、思い出した。過去から帰る時に、長居させられた光の回廊の中で垣間見た、過去の火星の歴史の光景の一つ。大神アマテラスが一度命を終えた場所が、ここだったのだ。

 こんな場所へ連れて来て、何をしようというのか、何を見せようというのか。大神は黙して語らず、ただ、尾を翻し、尾の先で天を指し、丸を描いた。途端に発生した、強烈な力の波動、時空間の乱れ。

 一体何が起きたのかは、ネオ・アドリア海の方を見て分かった。

 水平線の向こうから太陽が顔を出し始め、空を、海を、街を、白く染めていた。

 慌てて、懐中時計を取り出して時刻を確認する。ナイブズの体感時間では日付が変わってから30分と経っていないはずだが、時計の針は予報通りの日の出の時刻を指していた。

 ふと思い出す。天道神社の神主・天道秋人が語った、大神アマテラスの伝説の一つを。夜を朝に変えたという、流石に作り話だろうと聞き流していた一節を。

「時間短縮……いや、時空間を跳躍させたとでも……?」

 考え込むが、答えは出そうにない。何故狼が尾の先で丸を描いただけで、夜が朝になるというのだ。少なくとも太陽を物理的に引き寄せたわけではなさそうだが。

 ふと、足に何かが当たった。見ると、アマテラスが前足で、ちょんちょん、とナイブズの足を叩いていた。目が合うと、今度はナイブズと太陽とを交互に見て、最後に一つ吠えた。太陽を、景色を見ろ、ということらしい。

 草原に腰を下ろして、太陽が昇る様を――降り注ぐ光が街を、海を、大地を遍く照らす様子を、静かに見守った。

 光を浴びる街を見ているだけで、様々な想いが胸に去来した。色んな思い出が、頭の奥から次々に湧いて出て来た。

 それらが、ナイブズの決心を新たにし、より強いものへと変えていく。

 やがて、ナイブズ自身も直に太陽の光を浴びて、太陽の全てが姿を現した頃に、再び立ち上がった。

「俺は、この星で生きていきたい。弟が生まれ直らせてくれたこの命で、生き直したい。あいつや、お前達のように、人に寄り添って」

 店主にも伝えた答えを、アマテラスにも伝えた。

 これこそが、ナイブズが旅立つ本当の理由。

 この星で生きて行こうと決めた時、この星のことを、この星で生きる人間たちのことをもっと知りたい、理解を深めたいと思った。現在の様子だけでなく、過去の姿も含めて。

 その為には、情報媒体で見聞を広めるだけでは足りない、一つの場所に留まっていてはいられない。実際に、自分自身の目で見て、耳で聴いて、肌で感じて、体験を経てこそ、真の理解を得られる。ヴォガ・ロンガの体験から学んだ、ある種の真理だ。

 だから、旅に出る。その他の事情は、今この時期に発つ理由付け程度のものでしかない。

 アマテラスは、ナイブズの言葉を聴いて満足げな表情を作ると、体を撓らす動作を見せ、勝ち鬨のように高らかに遠吠えを上げた。

 大神から祝砲代わりの号咆とは、景気づけにはこれ以上のものはあるまい。

 礼代わりにアマテラスの頭を撫でて、遠くに見えるネオ・ヴェネツィアへと目を向ける。

「ほとぼりが冷めたら、また会おう」

 誰にともなく告げて、ナイブズはザック一つだけの荷物を携えて、旅立った。一度も振り向かず、決して歩みを止めることなく。

 行く手に道が無くとも、歩き方は決めてある。それだけでもあとは何とかなるものだと、210年間、砂の惑星を歩き続けている男が教えてくれた。

 少なくとも、歩いて旅をするのに、切符が必要無いのは間違いあるまい。

 蒼い陽射しを浴びて、風を切って歩く。

 微かな笑みを浮かべる彼の行く手に待つものは、新しい出会いと奇跡(未来)

 




次回、最終回

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。