夢現   作:T・M

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#25.ヴォガ・ロンガ

 秋も深まり、空気は徐々に肌寒さを増していき、いよいよ秋の終わりを感じさせるほどになっていた。

 この頃になると、ネオ・ヴェネツィアの街、特に水路が俄かに活気付く。間近に迫った秋の祭典『ヴォガ・ロンガ』へと向けた特訓の為に、アマチュアや愛好家も、時間を縫い、暇を見つけては、舟に乗って水路へと繰り出す。

 観光客向けの宣伝ポスターや無料配布のチラシでそれらの情報は得ていたが、実際にそれがどれほどのものなのか、よく分からなかった。静かで穏やかなこの街で、何事かを大仰に喧伝するのは極めて珍しいから、それだけのことなのだろうとは思っていた。

「さあ、今年もやってまいりました『ヴォガ・ロンガ』! ネオ・ヴェネツィアの晩秋を飾る一大イベント、間も無くスタートです!」

 空中の飛行船から、行事用の街頭のスピーカーから、テレビから、至る所から発せられるアナウンスが、ネオ・ヴェネツィアの全域に響き渡り、ナイブズの耳にも届く。

「これだけの舟が集まるのか……」

 ぐるりと周囲を見回す。360度全方位、見渡す限りの舟の群れ。海面を覆い尽くそうかというほどの舟の密度。

 この街に逗留して既に1年半以上。舟などはすっかり見慣れたものだと思っていたが、一帯の海面を埋め尽くそうかというほどの集合は、圧巻であり、壮観でもあった。

「毎年、ゆうに千を超える舟が一堂に会するこの様子は、何度見ても壮観だ。荘厳な観艦式にも見劣りしない、活気と活力に満ち溢れている」

「観客も多いようだな」

「ヴォガ・ロンガは秋の締め括りを象徴する、この街の一大行事だからね。観光客も自然と集まる」

 立って半ば見惚れているナイブズに対して、店主は座って、舟の群れを眺めながらゆったりとしている。こうして舟を用意していたことと、ここまで来るまでの手際の良さからして、この状況にも慣れている、つまり過去に参加経験があるのだろう。

 そう、ナイブズは今、ヴォガ・ロンガのスタート地点にいる。舟に乗って、ヴォガ・ロンガの会場たる海上にいる。店主の提案に乗って、祭りの場へと集う一人として、この場に列しているのだ。

「元々の地球でのヴォガ・ロンガは5月、春の終わりごろの行事だったのだけれど、面白いことに、火星では晩秋の風物詩として定着している。地球ではカヌーのような大人数が座って一緒に漕ぐ船も多かったけど、今や火星では立ち漕ぎの舟だけで、複数乗っていても、それは漕ぎ手の交代要員で一緒に漕ぐことはしない。まぁ、地球での時に大型の手漕ぎ船が水路を塞いだり沈没したりと事故を幾度も起こしていたというのもあるが……最たる因は明快明瞭明白明解、水先案内人(ウンディーネ)の人気があればこそ。みんなが、かの水の妖精たちに肖っている。その水先案内人(ウンディーネ)たちの間でも、過去に一度だけあったある逸話が形を変えて噂話として広まっていて――……」

 聞いてもいないのに、勝手に長々と解説を始めるのにも、もう慣れた。最初は鬱陶しかったが、今では情報を得るための手段の一つとして割り切れるようになっていた。

「まるで、地球でのことも見て来たかのような口ぶりだな」

「うん、実際に何度も観に行ったし、参加したこともあるからね」

 店主はさらりと言っているが、チラシの年表に誤謬が無ければ、地球でのヴォガ・ロンガの最後の開催は400年以上昔のこと。店主の言が真実であれば、少なく見積もってもナイブズの3倍以上の歳月を生きていることになる。

 人間ではないことは間違いないだろうが、店主の気配や存在感は人間と殆ど変わらない。猫妖精や大神のような人外というよりも、人間が何かしらの方法で長命化し、元々の人間とは少し違った存在になった……というところか。それが具体的に何を指すかは分からないが。

「舟の漕ぎ方の知識は有しているね?」

「実践は初めてだが、然して問題あるまい」

「そういえば、夏祭りには行ったかい?」

「夏は花火を見たぐらいだが」

「こういったレースのような催しへの、忌憚無き意見を」

「定められた順路を行くだけのことで優劣や順列を競うことは、漕ぐのも見るのも退屈としか思えんな」

 等々、考え事をしている間に、基本的過ぎて意図が全く読めない質問を繰り返され、すべてに即答する。

 全ての返答を聞いた店主は、一つ頷いて、何やら笑みを浮かべた。

「では君に、父が私に言ったのと同じ言葉を贈ろう。真理を得たくば、まず何事も己の体で経験せよ」

 確かに、ヴォガ・ロンガのことを知って「意義や意味が全く分からない」と零しはしたが、それを知る為に実際に参加する必要性はあるのだろうか。開催までの経緯や、これまでのレースの歴史などを調べれば、それで良いような気もする――というのが、昔日の店主と、今のナイブズに共通すること。そして、実際の体験を経て真理を得たのが、今目の前にいる男、というわけか。

 こんな些末な事柄に真理など存在するのかは疑問だが。

「まぁ、いいだろう。貴様の企みに乗ってやる。祭りに参加することにも、興味はあったしな」

 オールを肩に担ぎ、数度手で回し、感触や重量を確かめる。

 旧世紀の物から材質に画期的な技術革新があり、少女であろうとも振り回せる程度に軽量化されているのだ。ナイブズにとっては木の枝とも大差無い。

 舟の前進、後退、方向転換の理論も数式まで頭に入っている。頭で意図した動きと、実際の身体運動との誤差も極めて微細。素人のぶっつけ本番だが、ただ順路を進みゴールにまで辿り着くことに、さしたる問題はあるまい。

 寧ろ興味は、祭りの当事者、参加者の雰囲気とはどういうものかということにある。カーニヴァルの時は、ただの傍観者でしかなかっただけに。

「それは良かった。では、私はここらで失礼するよ。ゴールまで、頑張って」

 まるでゴールまで辿り着くことが難業であるかのような言葉が耳に届き、視線を向けるまでの数瞬の間に、店主の姿は舟の上から消えていた。周囲の人間の誰も反応を示していないのは、如何なる魔術(マジック)によるものか。

「さあ、いよいよ、レーススタートです!」

 各所のスピーカーから、ヴォガ・ロンガのスタートを予告する声が響く。それを合図に、参加者たちは思い思いの表情で、所作で、掛け声で、それぞれにオールを構える。ナイブズもそれに倣う。

 10からのカウントダウンが始まり、0を告げる代わりに火薬の炸裂音が鳴る。聞き慣れない鳴り方は、ただ音を鳴らすだけの炸裂だからか。

 一斉に漕ぎ出される舟の流れに押されるように、ナイブズもまた舟を走らせる。

 

 

 

 

 舟を漕ぎ出して、早一時間。先頭グループは全行程の四分の一をクリアしている頃。

「……っ。これは……」

 ナイブズは下位グループで、自らの見通しの甘さを思い知らされていた。今もまた、ごく一般的な男性、そして小柄な女性に追い抜かれた。

「ロスが大き過ぎる。上手く力が伝わっていないのか……?」

 単純な筋力ならば、間違いなくナイブズが全参加者で最も優れているが、必要とされる力の上限はごく小規模なもの――ナイブズにとっては極めて微小なほど――なので活かしようが無い。加えて、力任せにオールを漕いでも消費したエネルギーと発生するエネルギーの齟齬が大きくなり、体力の消耗度が増すばかりで、さしたるスピードが出ない。

 単純に腕力=推進力とはならないことは先刻承知ではあったが、これ程とは。

 そして、オールという使い慣れない道具を介することと、水の抵抗力。これらを考慮から外してしまっていたのも大きい。正確には、さしたる問題ではないと思い込んでしまっていた。

 まずオールの動かし方がどうやら間違っているらしいが、他の参加者と見比べた限りではそれほど間違っていないように見える。やはり、オールにかかる水の抵抗を考慮できていない、慣れていないことが大きいらしい。

 緩やかなカーブや僅かな横移動にさえも手間取り、想定以上の時間が掛かる。

「まったく……あいつのことを、下手糞とは……もう言えんな」

 思い出すのは70年ほど前。ヴァッシュと遂に袂を別ち、離れて生きて行くことになったあの時。

 ヴァッシュを卑劣な手段で騙し、身ぐるみを剥いでのち炎天下に放置して殺そうとした村の連中を、“力”によって攻撃的に変形させた肉体の練習がてらに皆殺しにしたことがあった。

 あの時、それを目の当たりにしたヴァッシュは激怒し、混乱し、拾った拳銃をナイブズに突き付け、撃った。命中したのは左肩。明らかに狙いを外したこれに、ナイブズは「もっとよく狙えよ、下手糞が」と言い放ち、返す刀で銃を持っていたヴァッシュの左腕を狙い、狙い通りに肘から切り落とした。

 後の決戦の時にも「あの下手糞が、よくもここまで」などと上から目線でいたが、初めて触ったものを初めて使うのなら、それは誰であろうと――人だろうとプラントだろうと、ヴァッシュだろうとナイブズだろうと、下手糞なのは当たり前だ。

 当時の自分に今の自分のこのザマを見られたら、同じように失笑されるか? それとも、何を阿呆なことをしているのかと呆れられるか?

 そんなことを考えつつ、えっちらおっちらと舟を漕ぐ。基本は単純作業の連続だから、不意に思考があらぬ方向に飛んでいく。

 改めて、これを優雅に華麗にこなしていたアテナと晃、彼女らを筆頭とした水先案内人(ウンディーネ)たちの技量に感嘆する。同時、旧世紀の地球では男の仕事だったというのにも納得する。ほんの数kmでナイブズの呼吸が僅かにでも乱れるほどだ、旧世紀の重いオールではかなりの重労働だっただろう。

 更に時が経ち、幾つ目かの曲がり角を抜けて大きな水路へと出る。まだ全行程の三分の一にも満たない、先が思いやられる。

「おっ、ナイブズさん!」

「あー、ナイブズさんだ~」

「ぷいにゅ~」

 ふと、斜め前方から声が掛けられた。よく見ると、そこにいたのはあゆみと灯里だった。あの2人も参加していたのか。いや、それにしては、なぜこんな下位に? あの2人の力量ならばナイブズが追い付けることなど無いはず。

 ナイブズが怪訝に思っている内に、灯里とあゆみは減速して、ナイブズが追い付くのを待ち受ける。ナイブズが並走する2艘の舟のすぐ後ろにまで来ると、今度は僅かに速度を上げてナイブズの舟の速さに合わせた。

 半人前でもこれほどかと内心で舌を巻きつつ、口からは言葉を放つ。

「あゆみに、灯里。こんな所で何をしている?」

「いやー、困ってる人を助けてたらすっかり遅れちゃって」

「それで、折角だから一緒に、のんびりゆっくり、漕いでいきましょうってなったんです」

 詳しく聞けば、オール操作を誤って逆走して混乱している参加者がいて、それを2人一緒に助けて落ち着かせ、ちゃんと漕げるようになるまで付き添っていたのだという。その後も、落ちた荷物を拾ったり、知り合いに挨拶をしたりと、そんなこんなですっかり遅れたらしい。

「ぷいにゅっ」

「そうそう。アリア社長がナイブズさんを見つけて、知らせてくれたんですよ」

 アリアが胸を張って自慢げだったが、一瞥しただけで済ませ、頷きもしない。そんなことよりも、気になることがある。

「レースは優劣を競い、より高い順位を目指すものだろう。それでいいのか?」

 それこそがレースの基本構造であり、参加意義の前提である筈。しかしこの2人からは、そういう意気が全く感じられない。いや、当人たちが既にその気が無い旨は言っていたか。

「えへへ。なんだか、とっても楽しくて……早くゴールするのが勿体ないんです」

「ウチも。アトラと杏、藍華お嬢とアリスちゃんは、一番目指して競争してますけどね」

 朗らかに笑いながら、2人は本当に楽しげに言う。水先案内人なら舟などいつも漕いでいるのに、何が楽しいのだろうか。

「ヴォガ・ロンガの楽しみ方は、人それぞれです。ナイブズさんは楽しめてますか?」

「楽しむ……?」

 灯里に問われて、ナイブズは考える――までも無く、あっさりと答えた。

「店主……この舟の持ち主に嵌められて、ぶっつけ本番で放り出されたからな。漕ぐだけで精一杯だ。楽しむような余裕はない」

「初挑戦のヴォガ・ロンガにぶっつけ本番で!? 酷いことするなー、その人」

 あゆみのこの反応から察するに、やはり相当無茶なことを振られたらしい。半分以上はナイブズの認識不足による自業自得なのだから仕方がないのだが、それでもあの店主を多少は恨む。何よりも、今完全にあの男の術中にあるのだと気付いて、無性に腹立たしい。

「初めてで、ちゃんとここまで漕げてるんですから、凄いですよっ」

「知識と実践の齟齬に、驚くばかりだ」

「いやいや、本当ですって。初心者がぶっつけ本番でここまで出来てるんですら、すごいことですよ」

 灯里とあゆみが励まして……いや、違う。迂遠な店主などと違って、この少女たちは心を言葉に乗せて、真っ直ぐにぶつけて来る。考えすぎる自分には、これぐらい素直で単純な相手の方が、きっと相性がいい。

 お前みたいにな、ヴァッシュ。

「それじゃあ、ナイブズさん。私達と一緒にゴールを目指して頑張りましょうっ」

「何故そうなる」

 突然の灯里からの提案に、即座にツッコミを返す。だがこれもまた、即座に返されることになる。

「っかー! ノリ悪いなぁ。だって、そっちの方が楽しくなりそうじゃないですかっ」

「………………否定はできんな」

 快活な笑顔であゆみに言われ、その通りだと頷く。

 現在位置は、先頭争いはおろか、単純な順位を競うことすら億劫になるほどの下位グループ。それならば、後はただゴールを目指して舟を漕ぐだけ。この状況でナイブズが一人で漕いで行ったのでは、本当にただ“ゴール地点へ行く”だけ。今と変わらず、味気ないことこの上ない。確証はないが、確信がある。

 ではそこへ、この2人(と1匹のオマケ)が加わったらどうなるか。

「それじゃあ、決まりですねっ」

「ゴールまでの水先案内、ウチらがさせてもらいますっ」

「ぷいぷいにゅ~!」

「ああ、頼む」

 この2人と一緒なら、自分だけの時とは違ったものが見えるだろう。アテナにカーニヴァルを案内された、この2人と初めて出会い言葉を交わし行動を共にした、あの時のように。

 事実、灯里とあゆみに先導されてから、ナイブズの道行きは大きく変わった。

 コース上しか見ていなかった視界が開けて、水路沿いや橋の上で観覧する人々の存在に気付き、目が行くようになった。これにも気付けないほど自分は余裕が無かったのかと、自分で驚くほどの人の数、遠くからも響く人々の声。

 水路を行く誰しもへと向けられる、沿道に立つ、水路沿いの家に住む、橋や屋上から見下ろす人々からの歓声、声援。舟には乗らずとも、彼らもまたこの祭り(ヴォガ・ロンガ)の参加者。

 熱気。熱を持った気の奔流。それを感じて、僅かに気圧される。カーニヴァルではカサノヴァのオマケであり、ついでであったから、直接にこれらを向けられ、また受け止めることも無かった。

 今、受け止めて分かる。ヴォガ・ロンガという催し、ネオ・ヴェネツィアという場、今この時に集った人々の感情。それらが一体となって作られた、目に見えぬ流れのようなものに呑まれ、抗うことなく身を委ねているような感覚。

 今を楽しみ、共に楽しむ。

 自分自身や身近な知己だけに留まらず、ただ居合わせただけの誰かとも共有し、増幅し、分かち合う。同じものを楽しむという前提が、それを可能とする。

 これが祭り。これが、ヴォガ・ロンガ。ただ気紛れで居合わせただけでも、幼き日のような昂揚を感じる。

「ずっと、漕いでいたいですね……」

「ぷい~……」

「そうだね……」

 これが本来あるべき、楽しむという感情。ナイブズが破壊や殺戮に見出していたものとは、全く異なるもの。

「じきに終わる。……だからこそ、楽しまねばな」

「はひっ」

「はいっ」

「ぷいっ」

 今は、楽しもう。楽しんで良い、楽しむべき時なのだから、楽しもう。

 いや、こう思えているのなら、既に楽しいのか。

 2人の水先案内人(ウンディーネ)に先導され、時にアドバイスを受けつつ、ナイブズは彼女たちと共に水路を往く。

 

 

 

 

 さらに時間が経ち、先頭集団がゴールに迫っているというスピーカーから流れる実況解説を聞きつつ、漕ぎながら食事を済ませる。店主が置いて行った何かの樹皮に包まれていたのは、おにぎりと漬け物。よく見れば中が空洞になっている植物――竹だったか――をそのまま用いた水筒もある。

 他方、アリアのつまみ食いによって食料を失った灯里は涙目になって途方に暮れ、あゆみは財布も弁当も忘れたと絶叫している。

 早くて4時間、のんびり漕げば丸一日かかるというヴォガ・ロンガで、無補給は辛いのだろう。再び手元を見ると、そこには4つのおにぎりが。

「食うか?」

 1つは自分で食べつつ、灯里とあゆみに差し出す。アリアにはやらない。

 2人は大袈裟なぐらい喜びながら、ナイブズにお礼を言っておにぎりを頬張る。自分以外のみんなが食べているからか、おにぎりを欲しがるアリアを睨みながら2つ目を平らげたところで、声が掛けられた。

「あっ、ナイブズさ~ん。灯里ちゃんと、それから……?」

 前方の橋の上から、姿も既に見えていた。褐色の肌に銀の短髪の水先案内人(ウンディーネ)、なによりこの声を聞き間違えることは無い。

「姫屋のあゆみ・K・ジャスミンです、天上の謳声(セイレーン)!」

「ああ、あなたがアリスちゃんの言ってた……」

 橋からナイブズ達に声を掛けて来たのは、ナイブズの見た通り、アテナだった。こういう時は晃やアリシアと一緒にいるものかと思ったが、1人だけのようだ。また迷ってはぐれたのだろうか。

 アテナが灯里とも話をしている内に、舟はどんどん進んでいき、橋の下へと差しかかかる。それに合わせて、アテナは少しずつ橋から身を乗り出してくる。

「おい、落ちるぞ」

 ナイブズがそれを言った直後、アテナはうっかり足を滑らせてバランスを崩し、人体で最も重い頭部が重力のベクトルに逆らえずに下を向き、そのまま橋から落ちた。それを見るや、ナイブズは咄嗟に舟から跳躍し、右手で橋を掴んでぶら下がり、左手でアテナを脇に抱えるように掴んだ。

 周囲は一時、アテナの落下に息を呑み、先程までの賑わいが嘘のように静まり返った。

 やがて、ナイブズが舟へと戻り、アテナを下ろして橋を潜って現れると、堰を切ったように大歓声が沸いた。

 この街の至宝とも呼ぶべき水の三大妖精の一角、何よりかの天上の謳声の無事とあれば、ここまで沸き立つのも当然か……と、理解は追い付いたのだが、その歓声がすべて自分へと向けられているということへの実感が、全く追い付いていなかった。

「ありがとうございます」

 アテナが深々と頭を下げて礼を言う。すると、それに合わせてか、歓声の中に称賛や感謝の声も混ざり出した。

「いいぞー、兄ちゃん!」

「おっちゃん、ありがとうなー!」

 思わぬ反応に呆気に取られていると、あゆみと灯里、それからアリアもナイブズへ惜しみない賞賛と拍手を送って来た。

 自らの行動に、他者が純粋な善意から褒め称える声と拍手を送って来る。今までの150年の人生で一度として経験したことの無い事態に、呆然としてしまう。「落とし物ですよ」とあゆみから取り落としていたオールを渡されて、漸く我に返る。

「どうする、戻るか?」

「えっと……折角ですし、ご迷惑じゃなければ、このまま一緒にいてもいいですか……?」

「そうか。危ういようなら言え、あゆみか灯里に任せる」

「はい。よろしくお願いしますね、ナイブズさん」

 未だ茫然としていたのか、流されるままとんでもないことを了承してしまった。何故ずぶの素人が、一人前の水先案内人(プリマ・ウンディーネ)を、水の三大妖精の一角を舟に乗せることになったのか。

 今更取り消すこともできない雰囲気で、やむを得ず、また舟を漕ぎ出す。

「いや~、それにしても本当に変わりましたよね、ナイブズさん」

「うん。多分、会ったばかりの頃だったら助けてくれなかったと思う」

「そんなこと無いと思いますけど……アリア社長はどう思います?」

「ぷい、ぷぷいぷいぷい……ぷぷいにゅー……」

「……俺の目の前で、俺の話で盛り上がるな」

 女三人寄れば姦しいとは言ったもので、先程までの道中とは比べ物にならないほどに賑やかになり、言葉が飛び交う。しかもその内容がナイブズに纏わるものなのだから、堪ったものではない。最初はアリスについての話題だったはずなのだが、どうしてこうなるのやら。

「あわわ、ごめんなさいっ」

「っかー、すいません。つい夢中になっちゃって」

 ナイブズに言われて、灯里とあゆみは素直に謝罪してきたが、何故かアテナだけは微笑みを浮かべていた。

「なんだ」

「いえ。なんでもありません」

 何でもないことはないだろうとは思いつつ、下手なりに、不器用なりに、ぎこちなく舟を漕ぎ、水路を進んでいく。

 その後も灯里の寄り道、アリアの落水、あゆみの世間話、アテナの鼻唄、ナイブズの操舵ミスなど、様々あり。

 観覧する人々の視線、歓声、声援、応援、歓喜、興奮、全てが混ざり合った熱気。それらを頭の天辺から足の爪先まで浴び、全身の肌で感じる。

 舟はゆっくりと進んでいる。不慣れなナイブズでも苦にならないぐらいの、歩くような速さで。

 

 

 

 

 夕暮れが海を茜に染める頃、3人の舟は無事にゴールへと辿り着いた。

「やっと、ゴールか……」

「っかー! ナイブズさん、灯里ちゃん、アテナさん、お疲れ様でしたっ!」

「大変だったけど、楽しかったです。ね、アリア社長」

「ぷーいにゅ~!」

 肉体的な疲労は然程ではないが、精神的な疲労感からナイブズが溜め息混じりなのに対し、あゆみと灯里は元気溌剌、満面の笑みを浮かべている。疲労の色は見て取れるが、それを上回るものがあるからこそ、この笑顔なのだろう。正直、自分にはできそうにない。

「ナイブズさん、今日はありがとうございました」

 ふと、舟の座席部分から声が掛かる。アテナは柔らかな笑みを浮かべて、ナイブズを見ていた。乗り心地の悪い舟に何時間も乗っていて不快だったろうに、何故、こんな笑みができるのか。……考えるまでも無いか

「楽しかったか? アテナ」

「はい。ナイブズさんも、楽しかったですか?」

「ああ。こんな風に楽しかったのは……初めて、だな」

 このすぐ後、藍華とアリス、杏とアトラ、晃とアリシアたちがやって来て、ヴォガ・ロンガの内容――特にアテナの川への転落未遂事件で大いに盛り上がった。

 ナイブズはすぐにアテナを晃とアリシアに預けて、さっさとその場を立ち去った。さっきまでずっと姦しかったのが、一気に3倍にもなるのなら気疲れだけで退散したくもなるものだ。

 舟を置いて足早に立ち去って、路地には入らず、水路を遡りながら今日の出来事を思い返す。

 自分独りだけでは、到底楽しめなかった。楽しもうという発想すらなかった。ヴォガ・ロンガを楽しめたのは、今日が楽しかったのは、お前たちのお蔭だ、3人の水先案内人(ウンディーネ)たち。

 一緒に舟に乗らずとも、お前たちは立派な水先案内人だ。

「やぁ、ナイブズ。楽しかったかい?」

 脇の路地から声を掛けられる。そちらへ顔を向けると、影の中から店主の姿が現れた。

 相変わらず、全てを見透かしたような物言い。それが不可解で、この男に対する不快感にも繋がっていた。

 だが、今日のことで一つ、分かったことがある。

「少なくとも、昔のお前よりは楽しめただろうな」

 恐らく昔の店主は、火星に来たばかりの頃のナイブズに似ていたのだろう。力や性質ではなく、感情面が。だから、分かったような口を利いて、本当に理解した上で助言を与えて来る。全てを見透かしたような物言いも、過去の自己体験に基づいた、似た者同士への助言(お節介)だったのだ。

 その仮定を肯定するように、店主はナイブズの返答を聞いて嬉しげに笑った。

「そうか、それは良かった。……ところで、(ゴンドラ)は?」

 言われて、舟を乗り捨てて来たことに気付いた。たった今、この瞬間に。

 一度、来た道を振り返り、また店主へと向き直る。

「…………お前が取って来い」

「酷いな君」


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