夢現   作:T・M

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#24.ナイブズ

「いーわよねー。アリシアさんとアテナさんは、晃さんみたいにガミガミ怒らないで」

「けど、アテナ先輩のどじっ娘はそれを補って余りあります」

「それは……あるかも」

 藍華の操舵する(ゴンドラ)はアリスとまぁ社長とヒメ社長を乗せ、今日も合同練習をするべくARIAカンパニーへと向かっていた。

 少し前までは灯里を通じて知り合った新しい友人や、神社で起こった摩訶不思議な現象の話題で持ちきりだったが、2人とも、ここ数日はすっかりいつもの調子に戻っていた。

「その点、やっぱりアリシアさんは完璧だわっ。怒らない、ドジもしない、それどころか寛容で優しくてしっかり者で、とっても素敵」

「今日も藍華先輩、絶好調ですね」

 晃への愚痴からのアリシアへの憧憬と賛美、まさしくいつもの調子の藍華であり、いつも通り、アリスとヒメ社長はジト目で見返して溜め息混じりになっていた。

 そんなこんなでARIAカンパニーの近くまで来たのだが、屋根の上にアリア社長を見つけて、藍華とアリスは自分たちのうっかりミスに気付いた。

「あ、いつもの癖でつい来ちゃったけど……」

「今日は灯里先輩、トラゲットでしたね」

 アリア社長が暢気に日向ぼっこしているのを見て、今日は灯里が合同練習に参加しないことを思い出した。

 2人とも、つい先日にトラゲットをしている会社の友人に灯里のことを話していたのに、昨夜まではちゃんと覚えていたのに、いつもの習慣で、体と頭が勝手に動いていたようだ。それほどに、藍華とアリスにとって、灯里と一緒に3人で過ごすことが当たり前のことになっていた。

 気恥ずかしくなりながら、藍華は気を取り直すように、アリシアの白い舟もないことを指摘して、がっくりと、大仰に項垂れた。がっかりしすぎて力が入らないので、漕ぎ手を交代とすることとなった。

 本当にがっかりしたのはどちらにでしょうね、とは内心で思っても、表には出さず、アリスはゆっくりと舟を漕ぎ出した。その際に、まぁ社長がアリア社長に会いたいのか、大きな声で鳴いたのだが、それに気付いたアリア社長は、驚いて屋根から落ちてしまった。

 申し訳なく思いつつも、これで近くまで行ったらまぁ社長がアリア社長のもちもちぽんぽんに突撃するのは目に見えているので、舟はそのまま進んで行った。

「そういえば、後輩ちゃんのトラゲットやってる友達って、どんな子?」

 アリスの観光案内の練習を聴いている内に落ち着いて、藍華はそんなことを尋ねた。

 藍華の印象では、アリスは口下手で不器用で、友達作りが苦手に思えたからだ。寧ろ、灯里がいなければ今頃、こうして一緒にいることも無かっただろうとさえ思えてしまう。それぐらい、小生意気で最悪に近い第一印象だったのだ。

 そんな藍華の心配をよそに、アリスは操舵の手を休めずに答えた。

「アトラさんと杏さんですね。アトラさんは眼鏡が、杏さんはムッくんが好きですっ」

 意想外の答えに、藍華の表情が僅かに引き攣る。

 どんな人かと問われて、人となりではなく何が好きかを答えてしまうとは、やっぱりこの子はどこかずれてる。上手に友達付き合いができているのか、心配になってしまう。

「眼鏡が好き? 眼鏡を掛けてるんじゃなくて?」

「視力矯正用の眼鏡を掛けていますし、眼鏡の収集自体が趣味だとも言っていました」

「へぇ、今時眼鏡で視力矯正なんて珍しいわね」

「アトラさんはでっかいオシャレさんで、10個以上も眼鏡を持ってるんですよっ」

「なんとっ!? それはすごいわねっ」

 どうやら、好きなものの部分が印象的だから、真っ先にそこを答えたようだ。ムッくんの方に関しては、アリスが大好きなキャラクターなのだから、同好の士が見つかってよほど嬉しかったのだろう。

「藍華先輩の言っていた方は、どんな人なんですか?」

 アトラと杏の説明を簡単に済ませて、今度はアリスが藍華に尋ねた。

 ヒメ社長を撫でながら、藍華は彼女を知る切っ掛けになった出来事を思い出した。

「あゆみさんって言うんだけど、変わった人でね、最初からトラゲット専属志望で、ずっと片手袋(シングル)のままでいるって宣言までしたのよ。春頃だったかしら? あゆみさんの指導官の人が、一人前を十分に目指せる腕前だって説得してたんだけど……」

 

「ウチがやりたいのはトラゲットなんですっ。ウチにとって、ウチがなりたい水先案内人(ウンディーネ)は、トラゲットの片手袋(シングル)なんです!」

 

「って、凄かったのよ。たまたま居合わせた私もたじろくぐらい」

「凄い方なんですね……。その時のことがご縁で?」

「そ。話してみたら、結構気が合ってね。私を面と向かって『お嬢』なんて呼んでくるけど、そういうところも全部ひっくるめて、私とちゃんと向き合ってくれる人でさ……今まで、晃さんぐらいしかそういう人がいなかったから、嬉しかったなぁ」

あゆみとの出会いや人柄を語ると同時、水先案内業の老舗『姫屋』の御令嬢という立場ゆえの悩みが、気付かぬ内に零れ出た。

 これを聞いて、アリスは藍華の知らなかった一面を知ると同時、自分の言葉が足らな過ぎたと気付いた。自分はあゆみという人がどういう人か知れたけれども、藍華にはアトラや杏がどういう人か、ちゃんと伝えられていないと。

「……アトラさんと杏さんとは、まぁくんを切っ掛けに仲良くなったんです」

「まぁ」

 だから、ちゃんと伝えたいと、そう思った。2人は、大事な友人なんだと。あの時のことも簡単にしか話していなかったから、今一緒に伝えよう。

「なぬっ。てっきり、ムッくんが切っ掛けだとばかり」

「それは、その後です。前にお話ししましたよね、まぁくんがオレンジぷらねっとの社長になる前、夜に探したこと」

「後輩ちゃんが不安になって、まぁくんを元いた所に置いて来て、また戻ったらアテナさんと入れ違いになってたんだっけ」

「そうです。藍華先輩の余計なお言葉のせいで、でっかい不安に苛まれました」

 ナイブズとお手玉のように遊んでいたまぁくんが、ぐったりしたわけでもなく、そのままのんびりのびのびと寝転がっているを見て、一緒に寝転がったのが、事の始まり。

 まぁくんを鳴き声からそのまま名付けて、誰にも内緒で自社寮の部屋にこっそり連れ込んだ。当時、アリスは誰にも、同室のアテナにも気付かれずに上手くやれている根拠の無い自信があった。だが、合同練習中に藍華に「とっくに気付かれていて、実は猫嫌いのアテナ先輩が始末しようとしている」と冗談交じりに指摘されてしまった。

 そんなことある筈がないと言い返したのだが、調度その日、寮に帰ると実際に他の水先案内人たちにバレていて、アテナにもとうに気付かれていた。そして、まぁ社長について話し始めたアテナの手には、間の悪いことに果物ナイフが。

 悪い妄想を断ち切れず、アリスはまぁくんを元いた場所に置いて来てしまったのだ。それでも、結局5分と経たない内にまた戻ったのだが、その僅かの間に、まぁくんの姿は忽然と消えてしまっていた。

「ぐぬっ。そ、そのことは本当にごめん……」

「いえ、お気になさらず。もう過ぎたことですし」

「まぁ!」

 まぁ社長が一声鳴いて、ヒメ社長は優しく撫でるように藍華へと体をすり寄せた。2匹とも気にしなくていいよと伝えようとしているのは、言葉が通じずとも分かった。

 アリスもちょっとした意地悪で掘り返しただけで、今はもうまったく気にしていなかった。寧ろ、何度でも真剣に謝ってくれる藍華の真摯さ、真面目さがとてもうれしかった。

 藍華が気を取り直したのを確認してから、アリスは話を続ける。

「あの時、一緒にまぁくんを探してくれた人がいたって話はしましたよね?」

「同じ会社の……あー、そっか! それが……眼鏡とムッくんの」

「アトラさんと杏さんです」

「後輩ちゃんが余計なこと言うから、そっちが印象に残っちゃったのよっ」

 びしっと指摘され、今度はアリスが何も言い返せなかった。

 言い返せなかったので、強引に話を先に進める。

「そういうわけで、まだ短いですけど、まぁくんを一緒に探して以来、アトラさんと杏さんとはお友達として付き合わせてもらってます」

 勢い任せで言い終わってから、友達という言葉を自分で口にしたことに妙な気恥しさを覚えた。

 そんなかわいい後輩の様子を見て、藍華は優しく微笑んだ。

「良かったわね、同じ会社の子とも友達になれて」

「……はいっ」

 言われて、気付けて、嬉しくて、アリスも笑顔で応えた。

 会社で出来た、初めての友達。それを祝福してくれたのは、会社の外で出来た、初めての友達。藍華の方から、自らもまたアリスの友人であると、ごく自然に言われたのが、何より嬉しかった。

 気持ちが落ち着いてから、気を取り直して話を更に先に進める。ある意味、ここからが本題なのだ。

「それで、実はですね。アトラさんと杏さん、姫屋にも友達がいるらしいんですよ」

「あら、奇遇ね。私の知っている子かしら」

「……あゆみという名前で、トラゲットに情熱を注いでいる、竹を割ったような性格の人らしいです」

「……どう聞いても、さっき私が話したあゆみさんよね、それ」

「はい、でっかい偶然です」

 藍華もあゆみからトラゲットを通じて他の会社に友達がいるとは聞いていたが、名前までは聞いていなかったのだ。

 驚くべき偶然の一致。だが、この偶然はそれだけに留まらない。

「で、その3人は今日きっと……」

「灯里先輩にも会っているでしょうね」

 言って、互いの視線が交錯し、特に意味も無く頷き合う。

「ホント、凄い偶然ね」

「はい、でっかい偶然ですっ」

 この場に灯里がいたら、きっと「素敵な奇跡(みらくる)だね」と恥ずかしい台詞を言っていたであろうと、2人ともが思っていた。

 同じ頃、実際に灯里があゆみ、アトラ、杏の3人に、2人が直感したのと全く同じことを言っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 灯里が初のトラゲットを終えてから数日後のある日。ARIAカンパニー2階の従業員用スペースに、6人の水先案内人と3匹の猫が集まっていた。

 彼女たちが今日集まったのは偶然ではなく、あることを話し合うため。彼女たちを繋げる、ある謎を少しずつ紐解くため。

「というわけで、第一回、ナイブズさんを語ろうの会、始まり始まりー!」

「わーい」

「ぷーい」

「まぁー」

 姫屋のあゆみが音頭を取り、灯里を始め集まった面々は一斉に拍手する。詳しい事情を聞かされていなかった2人を除いて。

「なにがどうしたらこうなるのよっ!?」

「藍華お嬢、興奮しすぎですよ。ほら」

 吠えるような勢いで藍華が渾身のツッコミを入れるが、あゆみによってさらっと流されてしまう。

 淹れたばかりのホットミルクを差し出され、大人しく受け取って、カップを通じてじんわりと伝わる熱を掌に感じながら、ゆっくりと、一口ずつ飲んでいって心を落ち着かせる。

 藍華が落ち着き始めたのを見て、アトラと杏が、詳しい事情を知らない藍華とアリスに向けて簡単に経緯の説明をする。

「灯里ちゃんと話してたら、私達の共通の話題でナイブズさんが出て来て……」

「それで、みんなで集まって、ナイブズさんについて話し合ってみようってなったの」

「はぁ……どういう話の流れがあったのか、でっかい気になります」

 納得しつつも、少し呆れつつ、アリスが呟くと、今回の集まりの発起人であるあゆみが苦笑した。

「ナイブズさんって、色々謎だらけだからさ。折角ナイブズさんと直接会ったことのある者同士で仲良くなったんだから、ちょっとそういうことを話してみたくないですか? 藍華お嬢」

 あゆみから話を振られて、ホットミルクを飲みつつ、藍華は落ち着いて夏の終わりの頃の出来事を思い出していた。

「確かに……夏の時も、結局詳しく訊けなかったのよね」

「そういえば、あの時は結局、私たちがお話の感想を言っただけで終わってしまっていましたね」

 藍華の言葉に、アリスもはっとなって同意する。

 レデントーレを無事に終えて、灯里とナイブズを探し歩いて、夜になって漸く出会えた時の事。

 ノーマンズランドという星から来たことを確かめた後、3人はそれぞれにナイブズへ質問したのだが、先にナイブズの質問に答えている内に時間切れになってしまっていたのだ。

 そのことは、今でもちょっと引っかかっている。あの時聞きたかったことへの答えや色々な謎を解き明かすことはできなくても、知っていることを出し合って、新しい発見はあるかもしれない。

 そう考えると、ちょっと面白いかもと思い至り、藍華とアリスも、この会への参加に乗り気となった。

 一方、まぁ社長によってアリア社長のもちもちぽんぽんが大ピンチになろうとしていたのだが、ヒメ社長以外誰も気付いていなかった。

 

 

 まずはそれぞれのナイブズへの印象や知っていることを言っていこうということになり、一番手として話し始めたのは、あゆみ。

 今回の発起人ということもあるが、それ以外の理由もある。

「多分、この中でナイブズさんと最初に会ったのはウチだと思う。天上の謳声(セイレーン)が復活してすぐのころ」

 あゆみの言ったとおり、この中でナイブズと出会ったのはあゆみが最初。言葉を交わした人間としても2人目である。

 全員が異論無しと頷く中、ただ一人、灯里だけが「天上の謳声(セイレーン)の復活」の部分で首を傾げていた。それに気付かず、あゆみは当時の――火星に来たばかりの頃のナイブズとの出会いを思い出した。

「あの時は……なんだか、高圧的というか、威圧感ていうか、そういうのがあったなぁ。態度とか喋り方とか、どこか上から目線て感じで。話の交換条件で舟に乗せろって言われた時は、急に言われて驚いたのもあったけど、緊張して、ちょっと身構えちゃったな」

 あゆみは苦笑を交えながら、当時のことを振り返る。今にして思えば、天上の謳声(セイレーン)を歌えなくするような難癖をつけた相手に、好奇心だけでよくも声を掛けられたものだと思う。けど、不思議とあの時は、そういうことを思わなかった。

 話しかけやすかったというか、ナイブズも話しかけられるのを待っていたような、そんな気がしたのだ。

 そんなことを思っていると、あの時のことを思い出して、つい笑いが漏れる。

「けどさ、ウチが半人前(シングル)だから(ゴンドラ)には乗せられないって言ったら、練習台として乗せろなんて言って来てさっ。目的地に行きたいとか、目当ての水先案内人(ウンディーネ)とかでも何でもなく、ただ(ゴンドラ)に乗りたいなんて、面白い人だって思ったよ」

 その上、適当なところで捨てていくと言っても、それで構わないと返して来たのだから、愉快痛快極まりない。

 その話を聞いて、灯里と藍華が口元を綻ばせた。どうしたのかと思えば、アイという少女を無賃で乗せた時のことを思い出したのだという。

 アリスやアトラや杏も交えて、そのアイという少女の話題で暫し盛り上がるが、あゆみはある疑問を懐いた。不自然な点に気付いたという方が、より正確か。

 藍華が他社の半人前と一緒になって、少女を乗せて観光案内紛いのことをしていたことは、姫屋でも噂になっていた。その件は晃の指導と、藍華の両親である姫屋の経営トップ直々の叱責と厳重注意によって幕を閉じた。これは当然のことだろう。やや厳しいとも思えるが、藍華の『跡取り娘』という立場上、止むを得ない側面もある。

 一方で、あゆみがナイブズを乗せたことを咎められたことは一度も無い。3度も乗せたことがあるというのに、ただの一度も。

 偶然、3度とも会社の誰にも気付かれなかったのだろうか?

「それで、あの話を聞かせてもらったのも、あゆみさんが最初なのよね」

 藍華に再び話を振られて、あゆみは懐いた疑問をすぐに手放した。この場で考える必要もないし、多分気にする必要も無いと思えたからだ。

「うん。ウチが、トラゲット専属の水先案内人(ウンディーネ)を目指してるけど、周りからはみんなと同じように一人前(プリマ)を目指せって言われてるって……ちょっと、愚痴っちゃったんだ」

「あら、そうだったの」

「それ、初めて聞いたよ」

 それなりに付き合いの長いアトラと杏は、あゆみの告白に驚いている。

 2人にはバレないように特に気を遣っていたから当然だけども、ちょっと寂しくもある。

一人前(プリマ)を目指してる2人には言い辛いよ。結局、誰にも相談もできてなかったし。けど、知らないおっちゃんになら、ちょっと愚痴ってもいいかなって思ったんだ。……そしたら、話してくれたんだ。遠い砂の星で頑張ってる、優しいガンマンのことを」

 通りすがりの、これから会うことも無いだろう、見ず知らずの赤の他人だからこそ、零れ落ちた不安と不満。

 適当に聞き流されるか、曖昧な返事を貰えるか、どうなってもそれでいい、という程度の考えだった。それらしい励ましの言葉が聴けるかという期待さえなかった。

 けど、ナイブズは話してくれた。途方もない夢を追い続けた、馬鹿な男の話を。

 一度ならず、二度、三度と、会う度に続きをせがむ、あゆみの大好きな物語。つい近しい水先案内人たちに話していたら、いつの間にかネオ・ヴェネツィアの水先案内人全体にまで広まっていた、赤い衣を纏った、平和主義者の心優しきガンマン――ヴァッシュ・ザ・スタンピードの戦いの日々の記録。

「それで、ヴァッシュさんの話の後にさ、『過去と未来の自分に誇れるなら、最後まで貫き通せ』って、そう言ってくれて……凄く嬉しくて、心強くて、励まされたよ」

 思い掛けない、掛け替えのない言葉を貰ったあゆみは、この日以来、トラゲット専属の水先案内人を目指すことを迷うことは無くなった。それどころか、一人前を目指すことへの指導や誘いをはっきり断り、トラゲットの片手袋で居続けるのだと宣言もできた。

 あゆみにとって、ナイブズはいくら感謝しても足りないぐらいの大恩人になっていた。

 

 

 あゆみの話が終わると、次は誰かとなる前に、アリスが静かに手を挙げた。

「次、いいでしょうか?」

「後輩ちゃん、なにかあるの?」

 藍華が聞き返す形で先を促すと、アリスは手を下ろし、一度深呼吸してから、静かに口を開いた。

「ナイブズさんがアテナ先輩を歌えなくしたことは、皆さんご存知ですよね?」

「えっ、そんなことがあったの!?」

「え」

「ま」

「にゅ」

「にゃ」

 灯里の思わぬ反応に、彼女以外の全員が呆気に取られ、視線を集中させる。

 ナイブズがアテナを、の部分は百歩譲っていいとして、灯里は火星暦で今年の始めにあった『天上の謳声(セイレーン)が歌えなくなった』という大事件を知りもしないというのだ。カーニヴァルが終わるまでの間はオレンジぷらねっと内で箝口令も敷かれていたが、事態が解決した後は自然と噂話が広まっていたというのに。

「あー……そういや、あんた、あの時点でアテナさんのこと知らなかったわね」

 藍華が思い出したのは、ナイブズと初めて会った宝探しをしていた時のことだ。あの時灯里は、水の3大妖精のアテナ・グローリィを全く知らなかったのだ。

 これを聞いて、あゆみ、アトラ、杏は絶句し、アリスはわざとらしく、でっかい溜め息を吐いた。

「仕方ありませんね。灯里先輩がでっかいにぶちんなのは、今に始まったことじゃありませんし」

「ええーっ」

 冗談めかして茶化すアリスに、灯里は真剣に大仰な反応を示すのだから、驚いていた3人もいつの間にか口の端に笑みを浮かべて、アトラと杏が簡単に当時のことを説明した。

「アテナさんが急に歌えなくなって、あの時のオレンジぷらねっとは凄い騒ぎだったの」

「姫屋の晃さんに詳しく事情を聞いてもらって、所属社員全員に、アテナさんに暴言を吐いた男を見つけろ、って命令が出たぐらい」

「そ、そんな事件があったんだ……」

「私もそのことは後日知ったんだけどね」

「ウチも。聞いた時は、まさかその当人と仲良くなれるとは思ってなかったよ」

 灯里の想像を超える深刻な大事件だったが、藍華とあゆみが軽妙に鷹揚に続いてくれたお蔭で、場の空気が不必要に重苦しくなることは無かった。

「どうしてナイブズさんは、アテナさんの歌に文句を言っちゃったんだろうね?」

 灯里がふと口にした、素朴な疑問。その答えを知る皆は、誰が音頭を取ったわけでもなく、口を揃えて同時に答えた。

『波の音を聴くのに邪魔だったから』

「……ほへ?」

 意想外の答えに、灯里は惚けたような表情で素っ頓狂な声を漏らした。

 誰だってそうなる。自分だってそうだった。皆の心は一つだった。

「本人から聞いた時は呆れたわよ。けど、すごく真面目な顔で言ってて、本当なんだっていうのは伝わったわ」

「けど、水が一滴も無い砂の惑星から来てたって言いますし、仕方ないんじゃないですかね?」

 ナイブズから直接に理由を聞いていた藍華とあゆみは、何とはなしに取り繕うように補足する。灯里はそれに納得したように頷く。アトラと杏も同様だ。

 けど、アリスだけは眉間に皺を寄せて、険しい表情だ。

 今なら分かるし、納得もできる。でも、あの時はそうでは無かったから。

「それでも、私……アテナ先輩をあんな風に追い詰めたナイブズさんが、正直、でっかい嫌いでした。カーニヴァルが終わって、また歌えるようになって、アテナ先輩はもう済んだことだからって言ってましたけど、もし会うことがあったら、でっかい文句を言ってやろうって決めてました」

 アリスはオレンジぷらねっとに入社して以来、社員寮でアテナと相部屋で過ごしている。不安な夜も、眩しい朝も、忙しい日も、そして仕事の時も、いつも一緒だ。

 だからこそ、必死で平静を取り繕っていたアテナが、歌以外にも如何に追い詰められていたか、誰よりもよく知っていた。晃が調度良く訪ねて来てくれていなかったら、あのまま潰れてしまっていたかもしれない。

 なのに、アテナはアリスの知らぬ間に謳声を取り戻し、完全に復調していた。その経緯が、原因の男に請われて歌ったから、だというのだから、呆れるしかなかった。同時に、そんなことをさせた厚顔無恥な男への激しい憤りも懐いた。

 もしも会ったら、文句や嫌味を思いつく限り言って困らせ弱らせ、アテナにちゃんと謝らせてやろう、なんてことも考えていた。自分はその男の顔も声も知らなかったのに。それに気付いて、色々馬鹿らしくなるまでには、然程時間は掛からなかった。

 どうせ、会うことも顔を合わせる機会も無い。もし万が一街で出くわしたとしても、自分が分からないように、相手の男――ナイブズも、自分のことなど分からないだろうと、そう思い込んでいた。

 実際は、違った。カーニヴァルの日、仮面を着けていたナイブズと、アリスは会っていたのだ。

「でも……私はナイブズさんが全然分からなかったのに、ナイブズさんは私のこと、一目で分かったんです。私は声も何も覚えていなかったのに、ナイブズさんは私の顔も名前も憶えていて……。それに、ちゃんとアテナ先輩が歌えているか心配してくれて、それで、嫌いな感情はほとんど無くなりました」

 時が経ち、間が空いて、不意打ち気味に遭遇したナイブズは、一目でアリスの名を言い当てた。そして、相手がナイブズと知ったアリスが、嫌味を隠さぬ声色で皮肉交じりにアテナの快調を伝えると、ほんの少し、表情と声音を和らげた。

 たった、それだけのことだった。それだけで、大切な先輩を追い詰めた男を許してしまったのは、今でも単純だと思う。けど、実際に会ったナイブズは、イメージしていた酷い男と違っていて、アテナを励まし、復活へと導いたのが、不思議と納得できたのだ。

 あと、灯里に誘われてごく普通に宝探しに参加した、意外過ぎるフットワークの軽さとノリの良さも好意的なポイントだった。

「宝探しの時だね。ナイブズさんって、どんな些細なことも覚えててすごいよね。アリスちゃんのことと、あと、あの階段も」

「実はウチも。たまたま大運河の近くを通りがかって、渡し舟に乗っているのを遠目に見たのを覚えてたって言われて、びっくりしたよ」

「凄い記憶力ですねっ」

 灯里とあゆみがナイブズの記憶力にまつわるエピソードを補足し、それに素直に感心する。

 出会った一瞬一瞬を決して忘れずにいる、そのことには素直に尊敬の念が湧いてきた。

 

 

「アテナさんのことだけど、晃さんが実際に会って文句言ってたわよ。凄い剣幕だったから……今でも覚えてるわ」

 アリスの話を引き継ぐ形で、今度は藍華が話し始めた。彼女にとって忘れ難い、春の日の出来事だ。

「あの真紅の薔薇(クリムゾンローズ)に詰め寄られるなんて……ちょっと、ドキドキしちゃいそう」

「うん」

「いやいやいや、あの人、怒るとめっちゃ怖いからな?」

 アトラと杏が変な方向に盛り上がりそうになったところへ、あゆみがすかさずツッコミを入れる。藍華と一緒にいれば、自然と晃と接する時間も増えて来る。あゆみも晃の素の部分や厳しさを知る1人なのだ。

 確かに、あゆみも言う通り、晃は怒るととても怖い。親よりも怖い。けれど、世の中、上には上がいる。

「その怒ると怖い晃さんが本気で怒って詰め寄っても、全く動揺しないどころか、逆に威圧してたのよ、ナイブズさん。傍から見てて冷や汗ものだったわ……」

 半人前(シングル)時代からの親友であるアテナを再起不能寸前まで追い詰めたというナイブズに対して、晃は激しい怒りを燃やし、それを肚の内に溜め込んでいた。

 実際に相対したあの時、まるで少しずつマグマが噴出し、大噴火を起こしそうだったのを、隣にいた藍華はひしひしと肌で感じていた。

 あの時、冷静にツッコミを入れることができたのは、藍華自身がナイブズの人となりを知って悪い人ではないと分かっていたのと、ナイブズ自身が微塵も動揺していなかったからだ。

 無視するのではなく、聞き流すのでも受け流すのでもなく、正面から全部を受け止めていた。あの晃の怒りを全て受け止めた上で、少しも揺らぎもせず、傍にいるだけの藍華が威圧されてしまうほどに堂々としていた。あまりに堂々としていたものだから、少し見惚れてしまった。

「その時、ナイブズさんはどう答えたんですか?」

 アリスがやや緊張気味に、身を乗り出すように訊いて来る。晃への答えが、即ちアテナに纏わるものだと分かるからだろう。

 この時の問答をよく覚えているから、すぐに返事をできた。

「アテナさんの歌は、今まで聞いたどの音楽よりも、いい歌だった。文句言ったのは間違いだったって」

 ナイブズがそうしていたように、恥ずかしげもなく、さらりと答える。

 言ってみて思ったが、詩的でも感情的でもない、実直で飾り気のない言葉だが、恥じらいなく素直な言葉を口にするのは、やっぱり十分に恥ずかしい。

 いつもいつも、よく平然とこういう風に言えるものだと、変なところに感心してしまう。

「はっきりと、そこまで言えるものなんですね」

「晃さんも、それですっかり毒気が抜かれちゃったのよね」

 ナイブズとは対照的に、普段からはっきりとした物言いだが、ここぞという時に素直な言葉を口にできないアリスは、ナイブズの言葉に神妙な様子で感心していて、それがどことなくあの時の晃と似ていたものだから、藍華も茶化す気が失せてしまった。

「藍華ちゃん、その時の事、よく覚えてるんだね」

 灯里にそう言われて、藍華もまた、素直に自分の胸の内を明かす。

「実はその後、ナイブズさんをちゃんと仕事として、お客様として(ゴンドラ)に乗せたのよ。ナイブズさんから御指名でね。だから、よく覚えてる。たとえ気紛れでも、その時の都合でも、初めてお客様に選んでもらえて、嬉しかったから」

 普通、水先案内人が客からの指名を受けて事前に予約が入る、ということはまずない。

 水の3大妖精などの並外れた人気者以外は、指定の待機場所で客を待つのが普通であり、指導官同伴の半人前に指名が入ることなどまずありえない。特に、姫屋のような大きくて歴史のある会社では。

 それでも、藍華は選ばれた。調度目の前にいたから、程度の理由であったとしても。隣にいるのが水の3大妖精“真紅の薔薇(クリムゾンローズ)”晃・E・フェラーリだと知っても、微塵も惜しむ様子も見せずに、ナイブズは藍華を選んでくれた。

 

「いい体験だった。……お前達のお陰だ、礼を言う」

 

 何より、仕事を終えた後にナイブズが言ってくれた、素っ気ない、何気ない、このお礼の言葉が、何より嬉しかった。

 あゆみとは逆に、藍華はナイブズのお蔭で、一人前を目指すことをより強く心に誓えたのだ。

 

 

 次に話すのは、アトラと杏の2人。ナイブズを舟に乗せたという話題から、合同練習中にあゆみの漕ぐ舟に一緒に乗ったことがあるのだと、そこから話は始まった。

「私たちが会ったのは、ある場所に迷い込んでしまった時」

「先にも進めなくて、後にも戻れなくて、怖くて不安だった時に、ナイブズさんが助けに来てくれたの」

 今思い出しても、空恐ろしい、夏も間近に控えた暑い日に、背筋の冷えたこわい出来事。

 このまま誰からも忘れられて、消えて無くなってしまうんじゃないかと不安になった時に掛けられた声は、不愛想でぶっきらぼうだったけど、とても心強かった。

「その場所って、どこですか?」

 この話をまだ2人から聞いたことの無かったアリスは、興味深そうに尋ねた。アトラと杏は、一度お互いの目を見て頷き合い、タイミングを合わせて一緒に答えた。

「ネオ・ヴェネツィアの七不思議の一つ、無限回廊の水路」

 意外な答えにアリスはきょとんとしてしまうが、他の面々はそうでは無かった。

「あそこに、アトラちゃんと杏ちゃんも……」

「あの時は本当に怖かったなー……」

「なぬっ、あゆみさんも行ってたとは初耳よっ」

 意外や意外、なんとアリス以外の5人全員が、その無限回廊の水路に迷い込んだことがあったのだ。

 彼女らの人となりからして、グルになってアリスを騙そうとしていることはまずありえないし、寧ろこういう冗談は決して言わないと分かっているから、アリスには信じるより他なかった。

「本当にあるんですね、ネオ・ヴェネツィアの七不思議」

「私たちも、実際に迷い込むまで全然信じてなかったわ」

「ナイブズさんも『人間の常識が半分以上通用しない場所だ』って言ってたし、本当に不思議な場所だったよ」

 アリスが感心したように言うと、アトラは溜め息混じりに頷いて、杏は当時の様子を簡単に教えてくれた。

「そっか、杏ちゃんたちはナイブズさんに助けられたんだ」

 自分たちが迷い込んだ時には、追いかけていたアリア社長に助け舟を出してもらった灯里は、自分たちとは異なる境遇のアトラたちを助けた相手に興味を示した。

「ええ。あゆみの話で、いい人なのかな、とは思っていたけど」

「ぶっきらぼうで、ちょっと顔が怖かったけど、私たちの質問にもちゃんと答えてくれて、すごくいい人だったよ」

「その後も、色々質問攻めにしちゃったけどね」

 あゆみも加わって、3人で当時のことを詳しく語る。

 アクア・アルタが収まり、3人揃っての自主練習を再開したあの日、杏が偶然にも、いつもは門扉によって閉ざされていた水路が開かれているのを発見した。

 ちょっとした好奇心から、あゆみがそちらへ舵を切り……気が付けば、行けど進めど、同じ場所を延々と彷徨うこととなってしまった。

 最初は冗談を飛ばしたりもしていたが、次第に口数も少なくなり、やがて七不思議の『無限回廊の水路』であると気付いたはいいが、藍華の時のような脱出方法が何もない。

 その時に覚えた恐怖は、筆舌に尽くしがたいものだった。実際に、声を漏らすことさえできなかった。

 そんなどうしようもないところへ、突然降って来た声、現れた人影によって齎された安心感もまた、大きなものだった。その人物があゆみに“あの話”を教えてくれた“ナイブズさん”だと分かった時には、歓声を上げたいぐらいだった。

 ナイブズは脱出方法を教えてすぐ戻ろうとしていたが、あゆみが引き留め、杏とアトラも賛成して、帰り道を一緒に舟に乗り、新しい話を聞かせてもらった。それを聞いている内に、あれよあれよと外へと至り、無事に青空の下へと戻って来られた時の、喜び、嬉しさは、今でも忘れられない。勿論、ナイブズへの感謝も。

 その感謝の形として、その日は3人で代わる代わる、ナイブズを舟に乗せ、街を案内して回った。本人の提案もあり、あくまで練習台名義だったが。

 

 

「不思議な場所でナイブズさんに会ってたのが、まさか灯里以外にもいるとは思わなかったわ」

 あゆみたちの話を聞いて、藍華がそんなことをこぼした。

 先日の神社での一件で藍華とアリスは共に十分過ぎる程に不思議体験を満喫し、その直後にナイブズと会ったが、場所はごく普通の現実世界。別世界のような摩訶不思議の空間ではなかった。

 これを聞いて、灯里は今まで不思議な場所で出会ったナイブズの姿を思い出していた。龍宮城で、そして過去の火星での、彼の立ち振る舞いを。

「ナイブズさんは、不思議な場所にいる時、いつも自然体だった。私は、周りの不思議に驚いてばかりで、ちゃんと見るのもままならなかったのに。まるで、そっち側にいることの方が、当たり前みたいで」

 龍宮城で出会った時、あまりの事態に呆然とする灯里とアイを醒ませてくれたのはナイブズだった。

 猫妖精(ケット・シー)を始め、火星の慈母(グランドマザー)と呼ばれる巨大プラント、シラヌイ改め大神アマテラス、龍宮城の主である龍王、そして不思議な店の店主。灯里達を見守り、寄り添い、昔話をしてくれた彼らの側に、アイーダを連れてナイブズも立っていた。アマテラスたちを敬い付き従っていた天道兄妹とも、明らかに様子が違っていた。

 過去の火星に迷い込んだ時も、ナイブズは明らかに、あそこが過去だと分かった上で行動していたのだと、今なら分かる。アマテラスの力や正体だって、予め知っていたようだった。それでも平然と、冷静に、何事かを見て、確かめているように思えた。

 火星に奇跡が起きたあの瞬間は、一緒に驚いていたけれど。

「そっか。それであの時、あんなことを聞いたのね」

「不思議の側の人ですか、でしたか。返事は、私たちの方が余程不思議だ、なんて言われましたけど」

 藍華とアリスが思い出したのは、夏の終わりの日。ナイブズから話を聞こうと、探し回った日のこと。幻の夜光鈴の光に導かれて、ナイブズの遠縁の親戚というアイーダも交えて、3人は色々質問をした。

 結局、ちゃんと返事を得られたのはノーマンズランドという星の出身ということと、別れ際の灯里の質問だけ。それ以外の質問の答えは、ナイブズからの質問に先に答えている内に時間切れとなってしまって、結局聞けず仕舞い。神社で会った時も、それどころではなかったから、すっかり忘れていた。

 一方、アリスが口にしたナイブズの返事の内容に、あゆみたちは、「へぇ」と声を出して驚いた。

「砂の星の出身だと、水の星は色々珍しいってことなのかな?」

「それもあると思うけど、それだけじゃない気もするわね」

「……まるで、ナイブズさん自身、人間じゃないような口ぶりだよね」

 杏とアトラの無難な推測に続いて、あゆみがとんでもない仮説を打ち立てた。

 一瞬、全員の目が点になり、アリア社長とヒメ社長が少女たちを見守る目を変える。

「まっさかー」

 直後、笑い声混じりに全員が否定し、言った当人さえも「っかー! 無いかーっ」と笑っている。その様子を見て、アリア社長とヒメ社長は、一つ溜め息を吐いた。まぁ社長は、遊び疲れてしまったのか、いつの間にか寝ている。

「そういえば、ナイブズさんって、どうしてまだ火星(アクア)にいるんだろ? ふらっと立ち寄っただけで、仕事とか観光とか、何の目的も無いらしいのに」

 ふと、あゆみはそんな疑問を口にした。ナイブズは居候先の店で日銭を稼いでいるらしいが、その仕事をしに来たわけではなく、目当ての場所や明確な目的があるわけでもないと言っていた。

 ならば、ナイブズがこの街に留まっているのは、如何なる理由によるものなのか。単なる気紛れや、無意味な道楽のようなものでないということは、ここにいる全員が感じていた。ただ、それを明確な言葉にできない。ナイブズが内に秘めたものまで踏み込んだことが無いのだ。

 唯一人、水無灯里を除いて。

「……ナイブズさんは、変わろうとしてるんだと思う」

 ぽつり、と呟くように、囁くように、小さな声で、灯里は話し始めた。

「変わる?」

「うん。この前会った時、ナイブズさん……自分は変われるはずがない、変わっちゃいけないんだって、そういうことを言ってて……とても辛そうだった」

「あのナイブズさんが……」

 灯里の言葉に、あゆみは酷く驚いた。揺るぎ無く、恥じ入らず、堂々として――そういう力強いイメージばかりを、ナイブズに持っていた。弱音同然の言葉を吐き出すとは、考えたことすらなかった。それは、藍華も、アリスも、アトラも、杏も同様だった。

 信じられない気持ちが強い。けれど、それ以上に、今の灯里が嘘を言っているとは、とても思えなかった。あの時のことを思い出し、語るだけで、灯里はわけも分からない恐怖に、自分でも気づかぬ内に、微かに震えていた。

 

「……そう上手くいくものか。過去の積み重ねによって今の自分は成り立っている。未来図もその延長だ。過去に業を積み重ね、手を汚し、恨み憎しみ怒りを集めたものの行く末は、分かり切っている。決まっているも同然だ」

 

 灯里は思い出す、あの時のナイブズの言葉を、一字一句違えることなく。それほど鮮烈に、あの時の言葉は焼き付いていた。それだけ強烈に、心に打ち付けられていた。

 あの日まで見たことの無かった、人間の表情。天道秋人の絶望と並ぶ、負の感情の極限。文字に表わすならば、虚無。

 かつて、遥か遠き砂の惑星で、天を照らす2つの太陽よりも、尚激しく、尚強く、人の世の全てを灰燼に帰すべく赤黒く燃え滾り猛り狂った、憎悪と憤怒の炎。それが燃え尽きて残された、ナイブズの心に空いている昏い、暗い、闇のような無、空虚な暗黒。

 灯里が、双葉が、光が、あの日ナイブズに垣間見た理解の及ばぬ恐怖。ナイブズの虚無の奥底で、未だ微かに燻る怒りの火。それこそが、あの恐怖の根源。

 誰もそれは知らない。当人たちも、ナイブズ自身もだ。

 なぜならその直後に、ナイブズの虚無は、異なるもので満たされたから。

「けど、そんなことないですよって、私が言ったら……ナイブズさん、大笑いして」

 少なくとも、灯里はそう感じていた。自分で信じることもできないほどに、あやふやで、曖昧な直感だが、そう思えるほどに、直後のナイブズのあの笑い方は、笑い声は、笑い顔は、無邪気で、満足げだったのだ。

「寡黙なイメージのナイブズさんが突然大笑いして、でっかいビックリでした」

「というか、悪役みたいな高笑いがミョーに様になってたわね」

「ええーっ」

 全く異なるアリスと藍華の見解に、思わず灯里は声を上げた。まさか傍から見たら、あの瞬間がそんな風に見えてしまっていたとは。

「そんなことがあったんだ。見たかったなぁ」

「ナイブズさんが笑うところって、ちょっとイメージできないかも」

「そうね。……けど、悪役の高笑いのイメージなら、なんとなく似合いそう?」

 あゆみも杏もアトラも、そちらの方へと話が逸れてしまった。あの時の緊張感を伝えきれない、自分が恨めしい――などと、灯里はちょっといじけているのだが、本当の所は、あまりにも灯里らしくない緊張の仕方を心配したアリスと藍華が場を和ませて、あゆみたちもそれを察して乗じたのだった。

 一頻り、ナイブズの笑い方で盛り上がって、何故かヴァッシュの笑顔とはどんなものだろうかという議論を経てから、本題へと戻る。

 たまたま立ち寄っただけの火星に、ネオ・ヴェネツィアに、ナイブズが1年以上の月日を経ても留まっている理由。それは、この星でなら、この街でなら、自分を変えられるかもしれないと、そう思ったからではないだろうか、と。

 そうなると、気になるのはナイブズが自分を変えたいと思った理由、動機、経緯だが、こればかりは本人に聞かなければ分からない。

 ただ、双子の弟が物語になるような人生を送っているのだから、ナイブズもきっと、同じぐらい波乱万丈に満ちた人生を送って来たのだろう。

「もしかして、ナイブズさんにそんなことないよって伝えたのが、あの『白紙の切符』なの?」

 話している内に、アトラはつい先日、自分に贈られた灯里の言葉を思い出し、もしやと思って尋ねた。しかし、灯里は首を横に振って、意外過ぎる答えを口にした。

「ううん。それは、元々はナイブズさんの言葉。けど、他の部分は、ぴかりちゃんとてこちゃん――私の友達と一緒に、ナイブズさんに伝えたことなの」

 これを聞いて、あゆみも、アトラも、杏も、感心して声だけを漏らす。最も印象的だった『白紙の切符』の一節が、まさかナイブズの言葉だったとは思いもよらなかったのだ。

 それが、双子の弟から、そして育ての親からナイブズへと託された言葉でもあることは、少女たちは知る由も無い。

「なによなによ?」

「何の話ですか?」

 話について行けず、藍華とアリスは詳細の説明をせがんだ。

 あゆみはいたずらっぽく笑うと、アトラを指して口を開いた。

「ウチは愚痴を言わないけど、アトラは愚痴を言っちゃったって話」

「あゆみったら、もう」

 事実だけに否定はできず、それでもあの日の自分を思い出して、恥じ入る気持ちが湧いて出て、アトラは赤面して俯いてしまった。

 当人が話せなくなったので、代わりに杏とあゆみ、そして灯里も教えてくれた。

 4人のチームでトラゲットを共にした日、その日の営業が終わると、アトラは一人前(プリマ)になることを諦めて、半人前(シングル)のままトラゲットを生業にしようと口にした。半年ほど前に一人前への昇格試験に落ちたことへのショックが未だに拭えず、無理に笑顔を貼り付けて過ごしていたが、その裏ですっかり気落ちしてしまい、自信を喪失してしまっていたのだ。

 気に入っているとか、トラゲットが好きだからとか、アトラは転向の理由や動機を上辺は上手に取り繕おうとしていたが、それは要するにただの脱落宣言だと、あゆみが鋭く指摘した。

 たった一度の失敗で臆病風に吹かれて、杏のように諦めずに挑戦し続けることはおろか、もう一度再挑戦することさえしない。

「そんなことで、今までの自分と、これからの自分に、今のアトラは誇れるの?」と、自分に勇気を与えてくれた言葉を、今度はあゆみがアトラへと贈った。

 それを聞いて、同じ苦しみを何度も味わっている杏が、そして、何も無い星(ノーワンズランド)水の惑星(アクア)へと変えてくれた先人たちの祈りを知る灯里が、それぞれ、励ましの言葉を贈った。

 その時に、灯里が贈った言葉とは――

「……私たちの心には、行き先の書かれていない、未来への白紙の切符がある」

「真っ白で、何も無いみたいで、触れることもできなくて……でも、心に溶け込んでいて、いつでも、どこでも、傍にある」

「それさえあれば、どんな未来にも自由に行ける。きっと、なりたい自分にだってなれる」

「そんな祈りが、この星には、目一杯に籠められてるから」

 ――アトラが、杏が、あゆみが、灯里が、それぞれに区切って、あの時の言葉をもう一度紡ぎ出す。

 今より先へ、一歩でも前へと踏み出す勇気を与えてくれる、祈りの言葉を。

「は……恥ずかしい台詞っ、禁止ィィィー!!」

「でっかい恥ずかしいですっ!!」

 思わぬ4人の連係プレーに、藍華とアリスは恥ずかしさのあまり一緒に叫ぶ。この大声に驚いたまぁ社長が跳ね起きて、ビックリしすぎて反射的にアリア社長のもちもちぽんぽんに噛みついた。

 アリア社長とヒメ社長の悲鳴が届いて、アリア社長を助けに灯里とアリスがあわあわと向かった。

 残ったあゆみは、にかっ、と藍華へと笑い掛けた。

「いいじゃんか、お嬢。ウチは好きだよ、このセリフ」

「あたしも。スポンジが水を吸い込むように、すぅっとしみ込んで、ずっと胸の中に息づいているみたいで」

「この後の灯里ちゃんのセリフも、言ってあげましょうか?」

「いい! 恥ずか死ぬ!」

 杏とアトラも一緒になって、藍華へと追い打ちをかける。

 

 いつもと変わらぬ水の惑星の少女たちの日常が、今もこうして続いている。

 砂の惑星からの来訪者の存在は、もう異物でも珍客でもなく、すっかり彼女たちの日常の一部となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナイブズは先日の一件――過去の火星へと導かれた一件が片付いてすぐ、店主を使って神社からそのまま龍宮城へと訪れていた。

 あの時、ナイブズの目の前で起きたことについて、当事者から――あの時代の生き証人である火星の慈母(グランドマザー)と、そして店主からも、深く詳しく話を聞くために。

 もう何日も、龍宮城の聖域で話は続いている。

 あの時にアマテラスを復活させた奇跡と火星の慈母との関係。

 その後の火星開拓の真実におけるアマテラスや火星の慈母の、当時の人間たちや人外の者達との関わり方。

 それら、過去の話は既に終わり。昨日からは、今の話が続いていた。

 今、彼らが話しているのは――ナイブズがこの星で出会った人々について。

 アテナ・グローリィ、あゆみ・K・ジャスミン、天地秋乃、水無灯里、藍華・S・グランチェスタ、アリス・キャロル、晃・E・フェラーリ、出雲暁、夢野杏、アトラ・モンテヴェルディ、アリシア・フローレンス、綾小路宇土51世、アルバート・ピット、アイ、天道の一家、アパ老人、小日向きの、小日向光、大木双葉……そして、レガート・ブルーサマーズ。

 火星に来てからの2年に満たない間で、出会った人々。顔を合わせ、言葉を交わし、僅からながらも同じ時を過ごした者たち。火星で出会った彼らこそが、ナイブズを変えていた。

 いつしか、人間を値踏みすることも忘れて、向き合うどころか、隣で息をして存在していることが当たり前なのだと、感じさせてくれていたほどに。

「そう、この星に来て、色んな人たちに会ったのね。ナイブズ」

「ああ。どいつもこいつも、得体の知れない風来坊に好んで関わる……不思議なぐらい、お人好しなやつらだ」

 あの日、ナイブズは声を上げて笑った。人間に共感していたと自覚して。人間に変わってもいいのだと励まされて。

 そうさせた感情は、分からないものではない、理解できないものではない、身に覚えの無いものではない。

 まだ幼い頃、育ての親であるレム以外の人間――コンラッドに出会って、共に歩んで行こうと、受け入れられた時に懐いた、ナイブズに涙を流させた、あの想い。

 果てしない怒り。尽き果てぬ哀しみ。歪み狂った楽しみ。

 テスラを知り、狂ってしまったあの日から、自分でも気づかぬ内に欠けてしまっていた、大切な感情。

 ナイブズの虚無を満たした、温かな熱。

「お蔭で、思い出せたよ。喜びが、どういうものだったか」

 人間と分かり合えた喜び。ミリオンズ・ナイブズの感情から欠落してしまった、大切なこころ。

 今更気付いた、自分の変化。誰が許さなくとも、誰の許しが無くとも、自らが気付く必要さえなく、ミリオンズ・ナイブズは変わっていた。

 この、水の惑星で。

「喜怒哀楽は、感情の基盤。欠けていた喜びを取り戻した君は、この星で何を想う?」

「……さあな。気が向いたら答えてやる」

 答えは、既に得ている。

 ただ、許されるのならば、今少し、この時、この場所に――

 この、奇跡の星に、今暫く――

 


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