夢現   作:T・M

22 / 31
今回もまた設定等の独自解釈が多く、加えて主人公ナイブズの出番が少な目ですので、苦手な方はご注意ください。


#22.過去と現在

 ネオ・ヴェネツィアの街の中心からも大通りからも大運河からも外れた、ネオ・アドリア海を臨む、ある種寂れた雰囲気の一画に建つ、一軒家のように小さな水先案内業の会社。

 歴史も浅く、見た目相応に弱小零細なれども、創立から現在に至るまで、常に水先案内業界で存在感を放ち続ける名店。

 初代の大妖精が退いた後も、直々に薫陶を授かった白き妖精が後を継ぎ、まだ見ぬ未来へと向けて伝説を紡ぎ続けている――

 

 そんな風に謳っていた記事の内容を、何とはなしに思い出す。

 今こうして、実際にその場所に立っていると思うと、不思議な緊張感を覚えてしまう。予定を立てて、予約も済ませて、約束もして来ているのに。

 自分は今、特別な場所にいるんだという、高揚と不安が入り混じった、そんな気持ち。

 そんな風に物思いに耽る1人がいる一方で、もう1人は大きく息を吸って、大きな声で呼びかけた。

「あーかーりーちゃんっ」

 周囲に他の家や建物が無いからいいようなものの、隣に立っていて耳が少しキーンとなるような大声。今日も変わらず、小日向光は元気だ。

「ぴかりちゃんっ」

 光に呼ばれて、いそいそと現れたのはARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)

 夏のある日、摩訶不思議な体験をし、そこで出会い、仲良くなったという、光の新しい友人。

「久し振り~」

「会いたかったよ~」

 彼女の名前は水無灯里。桃色の髪が目を引く、素敵な水先案内人。

 自分たちと年齢はさして変わらないのに、もう社会に出て働いて、一人前を目指している。今の時代ではさして珍しくないことだが、学生の自分たちと比べると、ただそれだけで立派に思えて、ちょっと気後れしてしまう。

 光と灯里が話しているのを、なんとく、ぼんやりと見ている……ことになるかと思いきや、2人とも急にこっちを見た。

「あなたが、夢のプロフェッショナルのてこちゃん?」

「おっ、大木双葉ですっ」

 そうだった。あの日、ぴかりが電話であのことを口走ってたんだ!

 自分と灯里にも接点があったことを思い出し、慌てて訂正する。焦りと緊張で、途中で声が裏返ってしまう。

 ぴかりが付けてくれた“てこ”という愛称は嫌いじゃない。寧ろ、今では好きなくらい。……けど、初対面の人にまで呼ばれてしまうのは、やっぱり恥ずかしい。

「アダ名はてこ、自称夢の……」

「却下!」

「いや~ん♪」

 更なる爆薬の投下を未然に阻止。光は止められることが分かっていたのか、いつもの調子で「うぴょっ」と笑って軽く流している。

 溜め息を吐いて、その間にも、次の話題が灯里の口から出る。

「……どうして“てこ”なの?」

「それはね、おでこ――」

「却下! 却下ぁ!!」

 次から次へと出て来る恥ずかし禁止ワードの数々に、つい気付かない内に、制止の声も動きも大きなってしまっていた。それを咎める声は、当然飛んで来た。

「こらっ! いくら他に人がいないとはいえ、静かにする!」

 灯里と話している内に、一緒に来ていた火鳥真斗――担任教師であり部活の顧問でもある――はARIAカンパニーの事務所の方に移動していて、そこのカウンターの所から怒鳴られてしまった。

「す、すいませんっ」

 光と、何故か灯里も一緒になって頭を下げる。それがなんだかおかしくって、3人とも、互いの顔を見合わせて、自然と頬が緩み、目を細めた。

 

 一方、ARIAカンパニーでは真斗が教え子2人に代わって手続きを済ませていた。

 今日は、遥々大陸の田舎から修学旅行にやって来た、夢ヶ丘高校の生徒たちの自由行動の日。

 本来ならば引率の教師がここまでする必要はなく、こういう部分も含めて社会体験させるべきとは思ったが、あまりにも楽しそうにしているものだから、つい手を出してしまった。

「今日は態々、ありがとうございます」

「いえいえ。調度、今日は私の予定も空いてましたから」

 カウンターの向こうで、アリシア・フローレンスは柔らかに微笑んだ。

水の三大妖精と謳われ、当代随一のトッププリマと噂される人気者の予約が、そう簡単に丸一日も空くものではないということは、素人でも分かる。色々と気を使ってくれたことは想像に難くないが、その佇まいからはそういったことを一切感じさせない。

 優雅に泳ぐ白鳥は、水面の下の激しい動きを決して他者に見せない。このうら若き白き妖精にこそ、白鳥の例えは相応しいと思えた。

 そんなことを考えていると、はたと互いに目が合った――いや、お互いに相手を見ながら何か考え込んでいたようで、今になって相手も自分を見ていることに気付いた。

「あの、火鳥先生、失礼ですが……どこかで、お会いしたことはありませんか?」

 急な質問に、少し首を捻る。

「私は、ネオ・ヴェネツィアに来たのは今日が初めてなので、多分会ったことは無いかと……」

「そうですか。すいません、変なことを訊いてしまって」

「いえいえ、構いませんよ。……プライベートで来た時は、私もお願いできますか?」

「ええ、是非」

 照れ笑いを浮かべる乙女の姿を見て、まるで夢でも見ているように思えてしまったのは、どのような気の迷いか。同じ女性から見ても美しく綺麗な女性だとは思うが、見惚れるほどのことでもないはずなのに。

 初めてのネオ・ヴェネツィアで浮かれているのは、どうやら生徒たちだけではないようだ。浮つく心に喝を入れつつ、アリシアと挨拶を交わしたところへ、調度生徒たちがやって来た。

「それじゃあ、私はもう行くぞ。帰りは迷子にならないように」

「はーい!」

 光の元気な返事を聞いて、却って不安になる。ネオ・ヴェネツィアの街は広くて複雑で入り組んでいるから、迷わないよう移動の際は細目に地図を確認するよう言い付けておいたのに、開始30分と経たない内に迷子の2人組を発見してしまったのだ。

 しかし、今はこの街を案内するプロがいるから大丈夫だろうと、自分自身で結論を出し、その場を立ち去る。生徒たちは自由行動だが、教員はそうも行かないのだ。

 橋を渡ったところで、猫を連れた水先案内人の2人連れと擦れ違った。

 1人は生徒たちと同年代、もう1人は更に若くミドルスクールぐらいの背格好に見えた。

 

「灯里、来たわよ」

「お邪魔します」

「藍華ちゃん、アリスちゃん、ヒメ社長、まぁ社長、いらっしゃい」

 藍華とアリスが挨拶をすると、それに灯里が応じた――その脇を駆け抜ける、小さな影が一つ。お昼寝から戻って来た、アリア社長へと飛び掛かった。

「まぁー!」

「ぷいにゅー!?」

 とても小さなパンダのような姿をした、火星猫の仔猫。つい先日、ちょっとした騒動を経てオレンジぷらねっとの新社長に就任したばかりのまぁ社長が、アリア社長のお腹に噛みついたのだ。

 これを初めて見る光と双葉は慌てたが、他の面々はいつものことだと焦りも見せない。

「今日もでっかいもちもちぽんぽん大ピンチです」

「アリア社長、大丈夫ですか~」

「ぷ、ぷいにゅ~……」

「まぁ~」

 慣れた手つきでアリスがまぁ社長を回収し、噛み跡がくっきりつくほど噛まれて涙目になっているアリア社長を、灯里は優しく抱き上げた。噛まれた拍子に落ちてしまった帽子を頭に乗せてもらって、高い高い数回で泣き止み、無邪気に笑うアリア社長を見て、ヒメ社長はどこか冷たい視線を送っている。

 そんな猫たちの織り成すドラマに、光の胸に去来する想いがあった。

「ちゃ顧問とお姫……連れてくればよかったね」

「うん、駄目だから」

 2人の入学と同じくして部室に居つくようになった猫と、2人が拾った仔猫。連れて来たかった気持ちは分かるが、修学旅行に連れて来るのは駄目なことだ。旅のしおりにもそう書いてある。

「あらあら。それではお客様、灯里ちゃんがもう連絡してありますけど、改めてお伝えしますね。今日は灯里ちゃんの練習も兼ねて、指導員の私の他に姫屋の藍華ちゃんと、オレンジぷらねっとのアリスちゃんも同行させていただきます」

 猫たちを中心に賑やかにしていて、5人ともすっかり本来の目的を忘れていた。

 アリシアに声を掛けられて、やっとお互いにちゃんと自己紹介すらしていないことに気付いた。

「夢ヶ丘高校から来ました、小日向光です。みんなからは“ぴかり”って呼ばれてます。今日はよろしくね!」

「えっと、大木双葉、です。今日は、よろしくお願いします」

「水無灯里です。ぴかりちゃんは久し振りだけど、双葉ちゃんははじめましてだね」

「姫屋の藍華・S・グランチェスタです。こちらは、当社の社長のヒメ社長」

「オレンジぷらねっとのアリス・キャロルです。まぁ社長と一緒に、今日はでっかいお世話になります」

「まぁ!」

 改めて自己紹介する少女たちの姿を、アリシアは微笑みながら、アリア社長と共に見守っていた。

 色々あって、すっかり出発の予定時間を過ぎていたので、すぐに社屋のすぐ下に造られている(ゴンドラ)乗り場へと移動する。

 その移動中、双葉は今日、ここに来ることになった理由を思い返す。

 火星の長い夏も終わりが近かったある日。ダイビング部のメンバーが揃った時に、光がみんなに披露した御伽噺。

 海の底で起きたという、摩訶不思議な体験。

「……龍宮城とか、神様とか、本当にあるのかな」

 誰に問うでもなく、ぽつりと呟く。

 意外にも、その声は波の音に呑まれることなく、すぐ後ろを歩いている2人の少女に届いた。

「今日はそのことを確かめるためもあって、私たちも同行させていただきます」

「そうなの?」

「ごめんなさいねー。後輩ちゃんがどうしてもって聞かなくて」

「藍華先輩、自分もでっかい乗り気でしたよね?」

「うっ」

 更に意外なことに、この2人は同じ御伽噺を知っていて、それを半信半疑の様子なのだ。半分程度しか疑っていなくて、半分ぐらいは信じているようなのだ。

「信じてるんですか? その……龍宮城の話」

「灯里だけだったら寝言で済ませられたんだけど……」

「別の方も同じ証言をしていましたので、もしかしたら、と」

「別の方?」

「ナイブズさんって言うんだけど、この人も中々不思議な人でね」

「言葉に説得力……いえ、重みがあって、なにか普通とは違う雰囲気の人ですね」

「いつも仏頂面だから威圧感があるわよね」

「今にして思えば、あのアテナ先輩を一度本気で落ち込ませてもいるんですよね……」

 厳つく、威圧感があって、どうやら怖い人らしいのだが、話している藍華とアリスからは敬遠するような態度は無く、寧ろ親しみに近い感情を持っているようだった。

 それに、自分と同じように思っていた2人を、信じさせる方へと向けさせたというそのナイブズという人に、ちょっと興味が湧いてきた。

「おーい、こっちこっちー」

 つい立ち止まって話している内に、光は既に灯里とアリシアと一緒に(ゴンドラ)の前まで着いていて、大きく元気な声で3人を呼んだ。居ても立っても居られないとばかりに。

「藍華ちゃん、アリスちゃん、双葉ちゃん……」

「“てこ”です」

 なのに、こういうところは頑として譲らないのは何故なのか。何故わくわくで忘れ去ってくれないのか。

「はひ?」

「てこ?」

「却下!」

「てこはてこです!」

「却下ぁー!」

 光はいくら却下しても聞く耳を持たない。

 他方、藍華とアリスは何か納得したようで、うむと一つ頷くと、親しげに双葉の肩を叩き、親しみを込めて彼女の名を呼んだ。

「よしっ。今日はよろしくね、てこちゃん」

「宜しくお願いします、てこさん」

「ええーっ!?」

 遠きネオ・ヴェネツィアの街でも、大木双葉の愛称が『てこ』で確定した瞬間であった。光はうぴょぴょとご満悦、双葉はあわあわと慌てるばかり。

 そんな少女たちの織りなす輪を見て、アリシアは、あらあら、うふふ、と微笑んでいた。

 

 

 

 

「はひー。5人もお客様が乗ってると、やっぱり大変だねー」

 街の水路を抜け、ネオ・アドリア海へと出て暫くすると、灯里はつい、そんな弱音を口にしてしまった。「お客様の前でこんなことを口にしてしまうのは言語道断! 弛んでるからそうなるのだ!」という、晃のお叱りの言葉が聞こえてくるようだった。

「団体客を乗せるのも珍しくないんだから、慣れなきゃダメダメよ」

 しかし、出てきた注意は藍華からの気さくなもの。こちらも、晃さんがいたら……などと考えてしまうのは、それだけ先日の晃の指導が骨身に沁みていればこそ。正しい教訓を常に思い出せるのは、決して悪いことではない。

 ただ、今日はその正しさの出番はなさそうだ。今日は実践教習というよりも、アリシア付き添いの下で、友達同士でのお出掛けに近い。

 普段はこういう時にも張り切って真面目に頑張る藍華も、出発前に双葉と会話して打ち解けたこともあってか、その雰囲気を受け入れているようだ。

「そうねぇ……それじゃあ今度、トラゲットに行ってみるといいかもしれないわね」

「トラゲット、ですか」

 藍華の言葉を聞いて、アリシアはすぐさま灯里に提案してきた。

 トラゲット――2人一組で運行する大運河の渡し舟なら、灯里も何度か乗ったことがある。水先案内業界で、半人前(シングル)同士でもお客様を乗せられる唯一の仕事。違う会社の半人前(シングル)とも組むことがあり、水先案内人(ウンディーネ)ファンの間でも密かな人気を持つ、ちょっとしたネオ・ヴェネツィアの名物の一つ。

 色んな会社の半人前(シングル)水先案内人(ウンディーネ)たちが、一緒になって頑張っている場所。そこに自分も参加できると思うと、なんだかワクワクしてくる。

「そうだ、トラゲットなら姫屋で面白い人がいるから紹介しておくわよ」

「オレンジぷらねっとの、その……と、友達の片手袋(シングル)の人にも話しておきましょうか……?」

 灯里が乗り気なのを見て、藍華とアリスも続けて声を掛けて来たが、アリスがちょっと気恥ずかしそうに口にしたある言葉に、灯里も藍華も食いついた。

「後輩ちゃんに友達が!?」

「どんな子なの?」

「藍華先輩、でっかい失礼です。灯里先輩は、会ってからのお楽しみです」

 そうやって、いつもの合同練習の時のような調子で会話が弾み、その間、光と双葉の相手はアリシアと社長たちがしていた。

 光はアリア社長と意気投合し、ヒメ社長とまぁ社長は双葉に懐いている様子だった。

 それらを見計らって、アリシアは3人に声を掛ける。

「みんな、楽しいのは分かるけど、お客様のことも忘れちゃだめよ」

 乗せているのが友人でも、お客様には変わりない。

 アリシアにも指摘されるほど気が緩んでしまっていたと気付いた3人は、ピン、と背筋を伸ばした。

「は、はひっ」

「失礼しましたっ」

「でっかい申し訳ありません」

 三者三様に、お客様である光と双葉に謝る。だが、2人は少しも気にした様子を見せない。

「大丈夫ですよ。賑やかなのって、一緒にいるだけで楽しいですしっ」

「ぷいー!」

 アリア社長をあやし、うぴょぴょと朗らかに屈託なく笑いながら、光は言う。まぁ社長を肩に乗せ、ヒメ社長の顎の下を撫でて、双葉も静かに頷いた。

「それに……こうして、(ゴンドラ)に乗って、海の上にいて、波に揺られて、潮風とお日様を浴びていると、まるで、星に抱かれてみたいで……それだけで、胸が一杯になっちゃうんです」

「それ、分かります。まるで、星のゆりかごに、揺られているような」

 双葉の言葉に、灯里は即座に頷く。

 自然と互いの視線が交錯し、灯里は満面の笑みで、双葉は気恥ずかしくなったのかちょっと頬が紅潮して、顔を俯けた。

「いやいやいやーん!」

「恥ずかしい台詞、きっ……」

 他方、2人の言葉を聞いて、光は大仰な身振りで悶絶。藍華は決まり文句を言おうとしたが、今回は灯里と一緒にお客様もそれの対象ということで、流石に不謹慎且つ失礼に当たると思い、言い切る前に踏みとどまった。

「……禁止?」

 が、当のお客様、双葉本人に最後の一言を言われてしまった。

 藍華は自己嫌悪で頭を抱えたが、言った双葉は小首を傾げて軽い調子で、まるでそれに親しみがあるかのようだった。

「よく分かりましたね、てこさん」

地球(マンホーム)の友達に、同じこと、言われたことがあったから」

 そう言って、双葉は空を見上げた。その見つめる先は、鳥よりも、雲よりも、高く遠い。蒼穹の深くにある、遥かなる蒼を探すかのようで。その姿を見ていると、なんだか、堪らない気持ちになった。

「てこちゃんも、地球(マンホーム)から来たんだね。私も、地球(マンホーム)から来たんだよ」

「そうなんですか」

 共に、年若くして地球から移り住んで来た同年代の少女。

 片や親の仕事の事情で、片や直感的な就職でと、成り行きこそは違うが、一緒な部分の方が多いのだから、打ち解けるにも、話が弾むにも容易かった。

 2人の地球での思い出話や火星での体験談を聞く内に、舟は目的地の島まで辿り着いた。

 

 

 

 

 舟を船着き場に係留すると、早速お出迎えが現れた。灯里と光が見知った相手のようだ。

「あっ、シロちゃん」

「お迎えに来てくれたんだ」

 尾を振りながら勢いよく駆け寄って来た白い大型犬――と、一同が思い込んでいるが実際は狼である――は、シロちゃんと呼ばれると嬉しげに一声鳴いて立ち止まった。

 双葉はアリスや藍華と一緒に、驚いて少し後ずさりしてしまったが、すぐに自分も見覚えがあることを思い出した。

 夏のある日、ダイビングを終えて戻って来た時、怖い男の人と目が合ってしまって、動けなくなった時。助けてくれたのが、この白い犬だった。

 改めて、具に全身を見る。文化教育の講義で見た資料映像、日本の伝統文化『歌舞伎』の役者のような、紅い隈取が目を引く全身の紅化粧が、とても綺麗だ。

 アリア社長たちが挨拶を交わすころには、皆すっかり白い犬の存在に慣れていた。それを待っていたのか、白い犬は先に立って歩き出した。

 灯里曰く、火星猫と同じかそれ以上に賢いそうなので、自分たちを案内してくれているのに間違いないということだった。

「それじゃあ、シロちゃんに案内してもらいましょうか」

 アリシアの号令に従って、全員が白い犬の後をついて行く。やがて鳥居が見え、その前に4人の和装の人達が待ち構えていた。その中央に白い犬は悠々と進み、堂々と座す。

「本日はようこそ御出で下さいました。天道神社一同、歓迎いたします」

 白い犬の右隣に控える青年が歓迎の言葉を述べ、4人ともが深々と頭を垂れたのだから、双葉たちは皆一様に戸惑ってしまった。

 光の祖母から「面白い話が聴けるから行ってみな」と言われたから、自由行動の日程に加えただけだったのに、こんなことになってしまうなんて。

 双葉が混乱していると、藍華とアリスが大袈裟過ぎるのではと指摘した。それには、両端の少年少女が答えてくれた。

「お花見の時期と行事の時以外、殆ど参拝者が来ないのです……」

「今の時期ともなれば、閑古鳥が鳴くのが通例となっています……」

 だからこそ、こういう時の参拝者は大事にしたいのだと、割と切実な理由だった。

 面白くも無い話は終わりにしまして、と青年が話題を強引に元の方向に戻す。

 何やら準備に手間取っているらしく、神主にはまだ会えないらしい。そこで提案されたのは、神社の周りの庭の散策だった。

 敷地内の随所に四季折々の花が植えてあり、今は勿論秋の花が見頃を迎えているとのこと。金木犀という木が秋の一番の名物らしいが、今年はもう散ってしまったらしい。

 準備にはそれほど時間もかからないということで、アリシアが光と双葉にどうするかを確認してきた。あくまで今日の主役は、お客様の光と双葉なのだから、と。

 光は即座に了承し、双葉もそれに追従する形で頷いた。

 青年は自分の弟妹たちに、白い犬――シラヌイ様と呼んでいる――の世話と客人の案内を任せ、自分は準備の手伝いがあると、一礼してから神社へと急ぎ足で戻って行った。

 自分よりも年上の人ばかりの団体の相手を任された少年少女たち――双子の兄妹の秋生と秋穂、末妹の紅祢は、しっかりしたもので、自身の役目をしっかりとこなしていた。秋生と秋穂は元々植物が好きで、案内の役は以前から務めているのだという。

 皆が一様に感心するが、それを言えば学業と仕事を両立させているアリスの方がもっとすごい、と本人たちは返す。不意に褒められて、アリスは赤くなった。そんな微笑ましい姿に、アリア社長たちやシラヌイも笑っているようだった。この時気付いたが、いつの間にか、アリア社長はシラヌイの背の上に乗っていた。

 途中、桜の広場の前を通りがかる。春であればきっと綺麗だったことだろうが、残念ながら、今は秋。桜の見頃は疾うに終わっている。

「桜の木も、今の時期は枯葉かぁ」

 何の気なしに呟いた、見たままを捉えた当たり前の言葉。けれど、それにも彼らは答えてくれる。

「冬を迎えるころには枯れ葉もすべて落ちて、枯れ枝となります」

「けど、冬の終わりには芽を吹いて、蕾が出でて、春にまた花が咲きます」

「咲いた花はすぐ散って、夏を迎える頃には青葉を茂らせます」

「そうやって、桜は四季それぞれで違う姿を見せてくれます」

「今、秋の見所は、秋にしか見られない枯葉」

「これから訪れる冬の見所は、花にも葉にも隠されない木々の枝振り」

「一番の見頃の春は過ぎていますけど」

「見所は、秋にも、いつの季節にもあるんです」

 秋生と秋穂の息の合った解説に、嘆息が僅かに漏れた。

 桜という木は、花見の時期にだけ価値があって、それ以外には意味が無いのだと心のどこかで思っていた。けど、そんなことはなかったのだ。

 人が季節によって装いを変えるように、木々もまた、季節に合わせて居住まいを正している。だからこそ、春にあの綺麗な、美しい花が咲くんだ。

「2人とも、恥ずかしい台詞禁止!!」

「いやいやいや~ん!」

「あらあら、うふふ」

 自分でも気づかない内に、灯里と一緒に心の声を口にしていたらしい。これに気付いて、双葉は恥ずかしさのあまり真っ赤になって、光と同じことを口走った。これに、そこまで恥ずかしかったの、と灯里は軽いショックを受けていた。

 他方、アリスはツッコミと見守り役を他に任せ、まぁ社長やヒメ社長と一緒に、マイペースに見学を続けていた。

「奥にあるでっかい木はなんですか?」

「当社の御神木です。樹齢は三百年を超えているのですが、実は、あちらは二代目で……」

 紅祢による御神木の解説が終わる頃には全員落ち着いて、次の見学場所に移動することになった。そこから逸れて、広場の奥へと向かっていく姿が一つ。

「あっ、シロちゃん、アリア社長、どこに行くんですか~」

 アリア社長を背に乗せたまま、シラヌイは早足で去っていく。それに気付いた灯里も、ふらふらとそれに付いて行ってしまった。他のみんなは、誰も気付いていない。

「灯里さん、みんな行っちゃいますよっ」

 なんだか不安になって、双葉は光に声を掛けるよりも先に灯里の後を追った。きっとみんなもすぐに気付いて追ってくると思ったのだが、誰も気付かず、先に進んでいく。

 そんなことは露知らず、灯里はシラヌイを追って、双葉は灯里を追って、奥へ奥へと進んでいく。

 桜の広場の奥に、小さな鳥居がひっそりと建っていた。その向こうには、ネオ・ヴェネツィアの街ではまず見かけない、とても大きな木が佇んでいた。

 桜の木のようだが、他の木より倍以上も大きい。見上げるばかりの壮観にも、灯里と双葉はこの時ばかりは見惚れなかった。

 目の前に、もっと気を惹かれる、不思議なものが見えたからだ。

「なんだろう……?」

「光ってる……」

 鳥居を潜った調度真正面にある、幹にできた窪みが、中から光を放っていた。

 あまりにも異様で、しかし不気味さは無く、敢えて言えば神々しさのようなものが感じられる、何かの扉のようにも見える、摩訶不思議な光。

 シラヌイはその前で立ち止まったのだが、アリア社長はシラヌイの背から降りて、光の中へと入って行ってしまった。

「ぷいぷい」

「あ、アリア社長。待ってくださ~い」

「灯里さん!? あ、危ないですよっ」

 光の中へと、灯里が釣られるように入って行き、双葉は一瞬躊躇ったが、急に吹いた強い風に背を押された勢いを借りて、慌ててその後を追った。

 2人が入って行ったのを見届けたシラヌイは、御神木に寄り添うように座り込んだ。その様子を、木の枝の上から黒猫たちも見守っていた。

 調度その頃、光たちは灯里と双葉、そしてアリア社長とシラヌイの不在に気が付いていた。

「……あれ? てこと灯里ちゃんは?」

「灯里ってば、ま~たどっかにふらふら行っちゃったわね」

「てこさんは、灯里先輩について行ったんだと思います」

「アリア社長も一緒みたいだし、きっと大丈夫よ」

「それに、白縫糸(しらぬい)様が見そなわされていらっしゃいますから、後程、ご一緒に戻られるでしょう」

 アリシアの言葉を紅祢が肯定すると、光たちも一先ず納得して、そのまま見学を続けることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「何かあったのか?」

「採掘基地でまた事故だってよ。これで何回目だよ……」

「何人かは奇跡的に助かったらしいけど、なんだろうな、白い狼に蓮の葉って」

「さあ? どうせ気が動転してたんだろ。そんなことより、地下の重力パイプは無事だったんだろうな。一つでも壊れてたら厄介だぞ」

「もうプラントは、全部地球に引き上げちまったからなぁ……」

「急に決まったよなぁ。なんかやったらばたばた慌ててよぉ」

「噂じゃ、ジオ・プラントが一つ丸ごと行方不明になっちまったとか」

「アホか。設置されてたジオ・プラントの大きさを考えてから言えっての」

「あーあ……やっと嵐が終わって、やっと一息つけたっつーのに……」

「そういや、聞いたか? あの神社の木、この前の嵐で死んじまったんだってよ」

「気の毒になぁ……文化移築の先駆けにって、自分たちから名乗り出て来たんだろ?」

「計算ミスがありゃあ沈むかもしれない場所に、態々来てたんだ。こういう覚悟もあったんじゃねーか?」

「けどよぉ、綺麗な桜だったのにさぁ……勿体ないよ」

「それは、まぁ……そうだよな」

「神社の桜、白い狼に蓮の葉か」

「どうやら結局、目的地は同じみたいだな」

「……そのようだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 光の扉を潜った先は、光の回廊だった。

 どれだけの時間、そこを歩いていたのか、よく分からない。長かったのか、短かったのかさえ判然とせず、全部の感覚が曖昧だ。

 光の中から出た先は、どうやら先程と同じ神社のある島らしい。だが、明らかに違う点が一つ。

「さっ、寒い……っ」

「はひーっ。アリア社長、寒いですっ、コガラシ一号ですっ」

「ぷぷぷいにゅぅぅぅ」

 まるで真冬のような、突き刺さるように冷たい空気が強い風に乗って襲ってきた。

 夏が終わり秋になって少しずつ“涼しい”から“寒い”になって来ていたものの、先程までは風もなく穏やかな小春日和で、暖かいぐらいだった。

 自分たちが光の中に入ってから出るまでの間に、一体何が起こったのだろうか。

 そんな疑問を抱く暇すらなく、次の事態が双葉に襲い掛かる。

「ぴゃっ!?」

 突然、足に何かが触れた。驚いて、短い悲鳴を上げ、思わず灯里に駆け寄る。

 2人一緒に、足元に視線を落とすと、そこには、丸くなって地面に伏している、白い犬の姿があった。どうやらこの犬の尻尾が触れて、驚いてしまったようだが、2人の意識に、もうそのことは無かった。

「シロちゃん……?」

「けど、お化粧が……」

 その白い犬は、どうやらシラヌイのようだったが、様子がおかしい。

 雪や雲のように白く整っていた毛並みは乱れてぼさぼさで、土や砂が付着し、所々黄ばみのようになっている箇所もあり、薄汚れていた。

 全身に施されていた紅い化粧も少なくなっているし、残っている部分も色が褪せてしまったように薄くなっている。

 何より、体から肉が落ちてやせ細り、酷い疲れで草臥れてしまっていることが、寝ている状態でも分かった。

「にゅ~……」

 その姿を心配したのか、アリア社長は悲しげな鳴き声を漏らしながら歩み寄り、前足でシラヌイの頭をポンポンと叩いた。

 シラヌイは耳をぴくっと動かし、尻尾を持ち上げて暫く動かしたが、すぐに下ろして、また寝てしまった。それと同時に、風が止み、陽射しが少しだけ強くなった。

「あ、風が止んで、ちょっと温かくなりましたね」

 双葉は、何かほっとしたように呟いた。灯里も「そうだね」と頷きつつ、シラヌイの変化を心配する。

 龍宮城で会った時も、つい先程も、あんなに元気だったのに、まるで一息に百年分も年老いてしまったようなこの変わりようは、どういうことだろうか。

 アリア社長に倣い、その場に屈んでシラヌイの頭を毛並みに沿って優しく撫でる。シラヌイは何も抵抗せず、反応さえ見せず、されるがまま、ただ静かに眠っている。

 ふと、思い出した。そういえば、シラヌイにはもう一つ、別の呼び名があったはずだ。

 海底の龍宮城で出会った、火星の慈母(グランドマザー)と呼ばれるプラントが口にしていた呼び名は、確か――

「大神様! 如何なさいましたか!?」

「はひっ!?」

「ぴゃっ!?」

 突然飛び込んで来た男性の叫び声に、灯里は手を放してその場で硬直し、双葉もまた同様だった。

 立ち上がり、振り返ると、そこには神社の制服――神主の装束を着た男性が、息を切らせてこちらを見ていた。どうやら、彼にとっても驚くべき状況が目の前にあるらしい。

「……えーっと、参拝の方かな?」

「わ、私、本日お邪魔させてもらっています、水先案内人(ウンディーネ)の水無灯里ですっ」

「お、大木双葉、ですっ」

「ぷいにゅっ」

「あ、こちらはアリア社長です」

「これはどうも、ご丁寧に。この神社の神主の、天道(てんとう)秋人(あきと)です」

 お互いにぺこぺこと頭を下げ、簡単な自己紹介を済ませるが、神主はひどく怪訝な表情をして、灯里とアリア社長を見ている。

「……ええっと、ウンディーネと? それに、そちらは社長と?」

「あ、はい。そうです」

「……ウンディーネとは、欧州文化圏に由来する、水の妖精の?」

「はひ。そうです」

「で、そちらの犬が、社長?」

「にゅ!?」

「アリア社長は猫さんです、火星猫。ほら、肉球も」

「火星、猫?」

 説明すればするほど、神主の困惑は深まっていくばかりで、灯里もだんだんと不安がこみあげて来た。そこへ、助け船を出してくれる人物が新たに現れた。

「ウンディーネはある職業の通称だ、そのままの意味ではない。そっちの猫の社長というのも、マスコットのようなものだ」

「ああ、そういう意味でしたか。ありがとうございます、ナイブズさん。何分、世情の移ろいには疎いもので……」

「疎いのは俺も同じだ。俺も、この星に来てから学んだ」

 神主の後から、ナイブズが顔を出した。見知った人物の登場に、少しだけ安心した。

 ナイブズの方は2人を見て驚いていたが、同時に何かに納得しているようだった。

「ナイブズさん、こんにちは。ナイブズさんも来てたんですか」

「……どうにも、この星にはお人好しとお節介焼が多いらしい」

「はひ?」

 返事になっていない返事に、つい聞き返してしまうが、ナイブズの方には答える気が無いらしく、双葉の方へと顔を向けた。

「お前は一度、海女人(あまんちゅ)屋の前で見たな」

「は、はいっ。おっ、お久し振り、ですっ」

 ナイブズは双葉とも短く言葉を交わすと、すぐに視線を2人の背後へと向けた。

「ぷいっ、ぷいにゅ!」

 アリア社長もアピールしているのだが、まるで相手にされていない。

 一度、ちらと目を向けられただけで、アリア社長も落ち込んでしまった。涙目になってしまったアリア社長を慰めるため、抱っこしてあやす。

「もしや、君達も御神木を見に来てくれたのかな?」

 ナイブズとの挨拶が終わったのを見計らってか、神主がそんなことを訊いてきて、灯里は小首を傾げた。

 息子さんたちにも話がちゃんと伝わっていて、今日の為の準備中とも言っていたのに、どうして神主さんは、今日、双葉ちゃん達が来ることを知らないみたいに言ってるんだろう?

「御神木って、この……」

 疑問を懐きつつも、背後に聳え立つ御神木の方へと振り返って、2人は異変に目を瞠った。

 つい先程まで悠然と佇んでいた御神木が、根っこが地面から抜け出て、倒れてしまっていたのだ。

「アリア社長、大変です! 倒れちゃってます!」

「ぷいにゅ~!?」

 見るも無残な光景に、灯里もアリア社長も堪らず叫んだ。双葉は青褪めて、暫く言葉を失っていたが、ふと、何かに気付いた。

「…………あれ? こんなに、大きかったでしたっけ?」

「ほへ?」

 言われて、改めて倒れている御神木を見る。幹の太さだけで、灯里はおろか、ナイブズの背よりも大きい。先程見た時は、こんなに太かっただろうか?

「針小棒大、その逆もまた然り、ということかな?」

「噂は必ずしも、正鵠を射ない」

 神主とナイブズは、どうやら情報の錯誤として受け取っているようだが、そんなことは無いはずだ。

 光の回廊を抜けてから、次々と直面する『違い』の連続に、灯里と双葉は、なんだか混乱してきた。

 そんな2人の心の内は露知らず、神主は倒れた御神木へと歩み寄り、倒れた経緯について説明を始める。

「元々、この土地にあったわけじゃないからね。地球から植え替えた後、しっかりと根付く前に、度重なる嵐で地盤が脆くなったところへ、最後の大嵐で……」

「……あらし?」

 聞き慣れない単語に、灯里と双葉は口を揃えて、一緒に聞き返す。

 比喩表現などでよく見聞きする単語ではあるが、神主は名詞として用いていた。そういえば、元々は気象現象の名前だったと習ったような気もする。

「そんなに酷かったのか? その嵐は」

「一週間ほど強風が続き、最後の三日間は豪雨までも伴いました。特に最後の日は、酷いものでした……」

 ナイブズに問われると、神主は幹に手を触れ、遠くを見つめるようにして語った。

 それを聴き、思い出した。嵐は、かつて地球で存在した気象現象だ。

 暴風と豪雨を伴う悪天候。気象制御技術が発達した現代では発生しなくなり、今では名前としての意味は殆ど失われて『嵐のような騒ぎ』など、修飾語や形容詞としてしか使われなくなった言葉。

 現在では、地球は勿論、火星でもまず発生しない気象現象。アナログ操作で地球より気象制御にムラがある火星でも、被害が出るほどの大雨や強風が発生するのはまずありえない。無論、それらが同時発生する嵐など以ての外だ。

 それを、神主はつい最近、この星で、この街で起こったのだと語った。少し前まで『秋の長雨』が続いていたけれども、それは嵐どころか、大雨ですらなかった。

 灯里だけでなく双葉も、そのことを気にかけている。ナイブズは気付いていたが、神主は気付いた様子もなく、御神木から手を放し、シラヌイの前に跪く。

「申し訳ございません、大神様。貴方がお帰りになられるまで、朋友たる御神木を御守りすることができませんでした」

 神主はシラヌイをオオカミ様と呼び、礼を以て接し、深く詫びた。

 飼い犬を甘やかしているとか、大事にしているとか、そういうものではない。まるで物語の登場人物が王侯貴族に対するように敬意を払い、丁重に扱っている。

 そんな風に扱われても、シラヌイはむずかることはおろか何の反応も示さず、目を開けただけで、丸まったまま眠るように動かない。その様子は、まるで疲れ切った老人のようだった。

「シロちゃん、凄く疲れてるみたい……」

「それに、お化粧も落ちちゃって、なんだか可哀想……」

 灯里と双葉が、それぞれに呟く。すると、神主はひどく驚いた様子を見せた。

「君たち、大神様の化粧が見えるのかい?」

「え? はい。綺麗な紅で、白い毛並みによく映えてます」

「歌舞伎の役者さんみたいな……えっと、隈取って言うんでしたっけ?」

 灯里と双葉の答えを聞いて、それだけで、神主は妙に嬉しそうにしていた。ただ見たままを口にしただけで、なぜこんな反応をされるのか分からなかったが、つい、自分もつられて笑ってしまう。

「立ち話もなんだし、これも何かの縁。お茶菓子もあるし、灯里ちゃん、双葉ちゃん、アリアくん。少し休んでいくかい?」

「ぷいにゅ~!」

 神主の提案に、アリア社長は真っ先に賛成した。十中八九、お茶菓子が目当てだろう。

「あ、ナイブズさん、宜しかったですか?」

「構わん」

 頭の上で跳ねていた虫を手で払い落しながらナイブズも了承し、灯里と双葉も一言二言相談して、その誘いを受けた。

 神主に先導されて、ぞろぞろと社務所へと向かう。ただ、アリア社長が置き去りにされてしまうシラヌイを心配しているようだった。

「あの、シロちゃんは?」

 連れて行けないんですか、という意味で聞いただけだった。

 だが、神主は深い悲しみと諦めの混ざった複雑な表情に、作り笑いを貼り付けて返した。

「……もう、食事も摂れないんだ」

 

 

 

 

 社務所に入り、客間へ案内されて、出されたのは御饅頭と緑茶。神社という場所も含めて、日本の良き伝統“和”のイメージそのままだ。

 お茶を飲み、お饅頭を食べて、暫しまったりと時を過ごす。アリア社長も、特製の猫まんまにご満悦だ。

「いや、それにしても驚きました。神空間に平然と出入りできるお客さんが2人……いや、3人もいらっしゃるなんて」

 人数分のお茶のお代わりを淹れながら、神主はそんなことを口にした。聞き慣れない単語に、全員が首を傾げる。

「神空間?」

「神様の御坐(おわ)す空間のことです。今では殆ど普通の空間と同じですけども、御神木があった場所に、ああして大神様がいらっしゃったのですから、自然と神空間も顕れましょう」

 ナイブズが聞き返すと、今度は不思議な返事が。

「ええっと、つまり……」

「シロちゃんが、神様……?」

 双葉と灯里、2人で言葉を区切って連ねるようにして、一緒に荒唐無稽な予想を口にする。

 もしかしたら、もっと深遠な、子供には分からないような含蓄のある言い回しだったのかもしれないが、言葉通りに受け取ると、それ以外の意味があるようには思えなかった。

「うん、そうだよ」

 あっさりとした肯定。まず間違いだろうと思って、否定されたうえで答えを教えてもらおうと口にしただけに、双葉も灯里も、まさかの解答に驚いた。

「え、けど……犬、ですよね?」

「狼だ」

「オオカミ!?」

 これまでシロのことを犬とばかり思って接していたが、ナイブズから訂正され、双葉は堪らず大声を出した。

 ナイブズに声を掛けられて驚いたというのもあるが、それ以上に、オオカミは獰猛な肉食獣で危険な動物というイメージがあり、今までそんな危険な生き物に無防備に接していたと思うと、怖くなってしまったのだ。

 そこへ、神主が新しいお茶を差し出した。

「良き獣と書いて、狼。そんな字を当てるほど、当時の人々にとって狼は特別な存在だったんだ。高い知能を持ち、やたらに人里に立ち入らない理性を持ち、領域を犯すものを決して許さない誇りを持つ。故に神聖視され、神の化身、或いは山の神、森の神そのものとして、時には害獣を狩る農耕の守護神として崇められた」

「ふわぁー……」

 自然と、感嘆の吐息が漏れる。

 知らなかっただけでなく、自分では思いつきもしなかった、古い時代の人々の考え方。その断片に触れただけで、まるで過去と触れ合っているような気がした。

 この時、灯里も同様の反応とほとんど同じ思考をしていたことを、双葉は知る由も無い。

「あと、狼に限ったものではなく、動物や植物への信仰は珍しくないよ。例えば、当社の御神木、桜の……」

 2人の反応に気を良くしたのか、神主は更に話を続けようとして、そこで言葉に詰まった。

 今まで通りだったなら、すらすらと湧水のように言葉が出ただろう。だが、今は言えなかった。

 それがもう、失われてしまったから。

 そんなことは、来たばかりの双葉にも分かった。

「……うん。当社の御神木もね、そういうものだったんだ」

「地球から持って来たのか?」

 気まずい空気になる間すら与えず、ナイブズが矢継ぎ早に質問を投げ掛けた。双葉は、この配慮の無い言動に呆れてしまった。しかし、だからと言って自分に何か掛けられる言葉があるわけでもなく、黙って見守るしかできなかった。

「ええ。地球で、地表面の機械化管理計画が実行され、その区画整備で神社が山ごと削られることになってしまいまして。座して滅びるよりも、新天地へと挑むのが良いと、そう思い決め、共に参った次第なのですが……先達に申し訳が立ちません。樹齢二千年を超える御神木を守ることができず……あまつさえ、最期に守られたのですから」

 地球の地表面の機械化整備。それは双葉もよく知ることだが、とてもおかしなことが聞こえた。神主はそれを現在進行形のこととして語ったが、それは歴史の授業で習うことなのだ。

 嵐のことと言い、もしかして、ここは――

「木に、守られた?」

 ナイブズが問いを重ねて、それが耳に入り、はたと我に返る。ナイブズの低く重い声は、何故だか耳の奥底に直接響いて来るような感じがして、少し苦手だ。

「御神木が倒れたことで、風が遮られて……そのお蔭で、あの日の大嵐で、この神社が倒壊することを免れたのです」

 神主の声は震えていた。悲しみか、悔しさか、苦しみか。言葉はいくつか出て来ても、守りたかったものに守られた事実がどれほど辛いものなのか、想像もつかなかった。

「きっと、あの桜の木は、この神社が大好きだったんですね」

 不意に、灯里がそんなことを呟いた。

 神主とナイブズは呆気に取られているが、双葉は少しの間を置いて、灯里が言っていることを理解できた。

「そっか。だから、最後に……潰さないように、守れるように、そういう風に倒れたんだ」

「うん。きっと、そうだよ」

 神主自身もそう言ったように、御神木は神社の側面を遮るように倒れていた。ただ、それで神社が暴風雨から守られたのなら、倒れた方向がおかしい。本来なら、風に押されて別の方向に倒れているはずだ。

 嵐について詳しくないし、その時だけ風の吹く向きが違っていたのかもしれない。

 それでも、先程、御神木について語ろうとしていた時の神主の誇らしげな表情に、直後の悲しげな眼差しに、そうあってほしいと願わずにはいられなかった。

 神主は、呆気に取られた表情で、灯里と双葉を交互に見て、次いで、壁の向こう――御神木の方を向いて、ボロボロと泣きだした。

「…………ありがとう……」

 その言葉は、なにものに向けられた言葉なのか。推し測ることは、難しかった。

「私、変なこと言っちゃいましたか?」

「だ、大丈夫ですか?」

「ぷいぷいぷい~」

 大人が人前で泣くなど、滅多にあることではない。灯里も双葉もアリア社長も、おろおろと狼狽えてしまう。

 それを察してか、神主は袖口で涙を拭って、無理矢理に笑顔を装った。

「ありがとう、大丈夫だよ。感極まったというか、なんというか。すまないね、いい大人が泣き虫で」

 神主は、自分はとても涙もろい性質で、こういうことも昔からよくあることだから、心配しなくて大丈夫だと言った。

 そう言われると、尚更、胸が締め付けられるように痛い。

「シラ……いや、あの狼は随分弱っているようだが、何があった?」

 またも、ナイブズは神主が弱っている時に、無神経に質問をぶつけた。

 ……ううん、無神経じゃない。神主さんが気を紛らわせるようなことを、丁度いいタイミングで訊いてるんだ。

 本人に聞かれたら即座に否定されそうな思考だが、双葉がそれを知る由も無い。

「大神様が弱っている理由ですが、一つは単純な衰え。もう一つは、その衰えた体に鞭打って、度々遠出をしていました。先日の遠出から戻られてから、遂にこれまでの無理が祟り、そこへ旧友たる御神木の件も重なって、相当参ってしまっているようで」

「採掘基地の事故で、助かった人間が蓮の葉や白い狼がどうのと証言しているという話を聞いたが」

「ええ。大神様の御力です」

 ナイブズの問いと、神主の答え。2人はある程度の共通認識を前提とした上で話しているためか、真面目な会話の中に突然出て来た『蓮の葉』という単語が、一見するとまるで無関係にしか思えず、妙に浮いているように感じてしまう。

「シロちゃんって、そんなにすごい力を持ってるんですか?」

 灯里は、何か思い当たることがあったのか、ナイブズと神主の会話に割って入った。そういえば確かに、今の会話だと『シラヌイは蓮の葉を使って人を助ける力がある』ということになるから、とてもおかしな話だ。

「さっき、君たちの前でも一度使っていたよ」

「え?」

「にゅ?」

 神主の言葉があまりにも予想外なものだったから、口から声が漏れ出てしまった。多分、灯里も一緒だろう。

「君たちが寒がっていたから、風を止めて、陽射しを強めて下さったんだ」

 蓮の葉が、などというものとは全然違う、気象を、天候を操ったのだという言葉に、唖然呆然となり、言葉が出ない。

「たった、それだけの為に……?」

 店主の言葉の意味を理解し、是とした上で、ナイブズは眉を顰めて聞き返した。それを聞いて、双葉は漸く気付いた。

 力を使い果たして、大切な友達だったという御神木が倒れたというショックで寝込んで、ご飯を食べられないぐらい弱っているのに。

 ただ、目の前で寒がっている2人と1匹の為だけに、その力を使ってくれた……?

「今までも、同じようなことをずっと続けてきました。なにしろ、あの御方は……ぽかぽか陽気が御信条の、お天道様ですから」

 誇らしげに、寂しげに、泣きたいのを笑って誤魔化しながら、神主は言った。

 自分も泣き虫だから、泣きたいけど泣いちゃいけないと強がる辛さは、身に沁みて分かった。

 

 

 

 

 シラヌイの力に話が及んだことで、再び倒れた御神木の前へと戻って来た。

 相変わらず、シラヌイは御神木に寄り添うように眠ったまま、動こうとしなかった。

「……いっそ、我々は潔く滅びを受け入れるべきだったのかもしれません。そうすれば、少なくとも大神様を、こんなにも苦しめることは無かった」

 ぽつりと、神主はそんなことを言い出した。

 声色から滲み出ているのは、後悔と悲しみ。

 今まで見たことも、聞いたことも無い、深く、昏い、洞のような感情――言うなれば、絶望。

火星(かせい)になど、来なければよかった。こんな、何も無い星(ノーワンズランド)になど。あるのは、苦しみと痛みばかりだ」

「そんな……っ」

 今まで誰からも聞いたことが無かった、火星に来なければよかったという言葉に、灯里は打ちのめされるような思いだった。

 自分はこの星に来て、たくさんの、かけがえないものと出会えて、本当に嬉しくて、火星(アクア)に来てよかったと今この瞬間も思っている。だから、そんな後悔だけは誰にもしてほしくない。

 けれど、もしもここが自分が思っている通りの場所なら、自分には何かを言える資格が無い。こんな苦しみの上に自分たちの世界があったことを知らず、ただ平穏な日々を享受していた自分には、何かを言っていいと、神主の言葉を否定していいと、思えなかった。

「旧世紀の土木や採掘の工事のように、日々事故が起こり犠牲者も日常茶飯事。そうしてでも半端に地球に近づけた結果が、制御できず予測も難しい自然災害の頻発。そんなことをしているのも、人類文明発展の題目で行われ続けた後先を考えない乱開発の悪影響。全ては人間の自業自得だな」

「返す言葉もありません」

 ナイブズは容赦なく、現実を突きつける。しかしその声色は詰問するようなものではなく世間話をするような平坦なもので、あくまで確認しているという風だった。

 それは、灯里でも、誰でも、知っていることだった。そういうことがあったのだと、誰もが子供の頃に習うことだった。

 やがて誰しもが、当たり前の日常を過ごす中で、忘れていくことだった。

 ごう、と風が強く吹く。気付けば陽射しも、来た時のように弱まっていて、寒さが体の芯まで突き刺さる。

 

――私達しか知らない事は、私達が忘れてしまえば、私達がいなくなってしまえば、他の誰にも知られることなく……何も無かったものと同じになる――

 

 夏のある日、訪れた不思議な店の店主の言葉が脳裏に蘇る。そして、この言葉の本当の意味を、今、やっと理解できた。

 人々から忘れ去られ、知られることすらなくなってしまった、過去の現実。それを知る人にとって、その事実はどれほど辛いことか。

 忘れ去られようと、知られなくなろうとも、その時の人々は、確かにそこにいたのに。その人たちがいたからこそ、今の自分たちがいるのに。

 シラヌイの傍に跪いたまま動かない神主に、掛ける言葉が見つからない。本当ならいないはずの自分が、何も知らなかった自分が、何かを言っていいのかさえ分からない。

「あのっ。実は、私も地球(マンホーム)から来たばかりなんですっ」

「……そう、なのかい?」

 ただ居るだけで息が詰まりそうな、重く、苦しい空気の中、それでも、少女は――大木双葉は、勇気を振り絞って、声を張り上げた。

 ずいっと迫るような勢いで言われて、神主は落ち込むことも忘れてビックリしている。それは灯里も同様だ。

 双葉は、引っ込み思案で恥ずかしがり屋の少女という印象を持っていたから、この時に前へと出て来たことは驚きだった。

「最初、火星(アクア)に来た時は、不便で、色々自分でしなくちゃいけないことが沢山で、大変で、ちょっと嫌だなぁって思ってました。けどっ、海が、とても綺麗でした。海がこんなに綺麗なんだって、私、火星(アクア)に来て初めて思ったんです。それが、とてもうれしくて、だから、えっと……」

 話している内に、段々と早口になり、徐々に言葉に詰まっていく。勢いだけで言い始めて、実は言いたいことが纏まってないことに気付いてしまって、焦ってしまっているのだろう。それがなんだか可笑しくて、不思議と、灯里の心が解れた。

 そうだ。良いか悪いかなんて、気にしなくていい。伝えたいことがあるなら、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。あの時、店主さんに言ったように。

「私も、去年に地球(マンホーム)から来たばかりなんです。あ、火星(アクア)暦で、ですけど」

「アクア……」

 アクアという言葉を、神主は鸚鵡返しに呟いた。

 何か珍しがっているようでもあり、感慨深げでもあった。

 もしも、自分の思っている通りなら……――という思考は、今は必要ない。今は、想いを言葉に変えて、紡ぎ出すだけ。

地球(マンホーム)と比べて、火星(アクア)は不便だと言う人は多いです。歩くのも、食事を作るのも、仕事をするのも、自分でやらないといけないことばかりだって。けど、そうやって、火星(アクア)の街々は、ネオ・ヴェネツィアは、たくさんの人たちが手作りしてくれました」

 顔も、名前も、年齢も、国籍も、性別さえも知らない、たくさんの人達。

 彼らが作り上げ、譲ってくれたもの。遺してくれたもの。伝えてくれたもの。

 目を瞑り、それらの姿を思い出す。少しでもはっきりと、鮮明に。

 今この時に、この人に、伝えられるように。

「何も無い大地に作られた、手作りの楽園。そこで出会えたのは、地球(マンホーム)では見られなかった……なくなってしまった、素敵な、手作りのものばかりでした。街も、家も、料理も、品物も、お店も、お仕事も……出会いも。そんな奇跡すら、誰かの手作りみたいで」

 ここまで言って、はっきりわかった。

 この人に一番伝えたい言葉は、とても簡単な、たった一言。

「だから、私、この星に来られて良かったです。そんな火星(アクア)という星があること、それは、とっても素敵な奇跡だなって……そう思うんです」

「私もっ。火星(アクア)に来てから色んな事があって、新しい友達ができて、自分で嫌だなって思ってたところも、ちょっとずつ変えられてて……この星に来て、良かったですっ」

 1人は穏やかな微笑みを浮かべ、1人はやや興奮気味に頬を紅潮させながら、少女たちは自らの想いを伝えた。

 地球から火星に来てよかったと。故郷を追いやられ、別天地で苦境に嘆く男へと。

 その様子を、ナイブズとアリア社長、そしてシラヌイは静かに見守っていた。

 神主は暫く惚けたような表情で固まっていたが、やがて一つ溜め息を吐いて、何かに納得したように頷き、立ち上がった。

「……情けないなぁ。弱音を吐いて、その上、女の子に励まされてしまうなんて」

「ご迷惑でしたか?」

「ううん、ありがとう。お蔭で思い出したよ。死に場所を探しに来たつもりが、いつからかこの星で生きたい、生きて行きたいと、願っていたことを」

 『死に場所』という不穏な言葉に、どきりとする。

 今この星は、そんな言葉が当たり前に出て来るほど過酷な環境なのだと、思い知らされる。

 そこへ、今までシラヌイの傍にいたアリア社長が半ベソを掻きながら、灯里の許へ歩いてきた。

「アリア社長、どうしました?」

「帽子が飛んでいっちゃったの?」

「にゅ~……」

 双葉が逸早く、アリア社長が被っていたお気に入りの――灯里やアリシアとお揃いの、ARIAカンパニーの制帽が無くなっていることに気付いた。先程、強い風が吹いた時に飛ばされてしまったのだろうか。

 辺りを見回したが、帽子はどこにも見当たらない。ナイブズが何故かシラヌイを注視しているのでそちらを見ると、シラヌイは目を開けてアリア社長を見遣り、そちらへ尻尾の先を向けて、ふわりと翻した。

 一瞬、指揮者の(タクト)に応えたかのように、音楽のような何かが視えたのは、気のせいだろうか。

「にゅっ!?」

 急に、アリア社長がビックリして素っ頓狂な声を出した。見ると、アリア社長の頭に、いつの間にか帽子が乗っかっていた。

「ほへ? アリア社長の帽子が……?」

「あれ? あれれ?」

 誰かが見つけたわけでもなく、届けてくれたわけでもない。一体、何が起こったのか。

 灯里と双葉が不思議そうにしていると、神主はゆっくりと口を動かした。

「失せ物、忽ち蘇る。大神様の筆しらべ、蘇神(よみがみ)の業」

「ぷいにゅっ! ぷい! ぷい!」

 神主の言葉を聞くや、アリア社長は大喜びでシラヌイへと駆け寄り、何度もお礼をして、抱き付いて頬擦りまでしている。これには流石に、寝たまま動かないシラヌイにも困った様子が見えた。

「目の前で困っていれば、事の大小どころか、人畜の別すら無いのか、こいつは」

 ナイブズは今何が起きたのか理解しているようで、シラヌイに対して呆れていた。

 未だ理解の追い付かない灯里と双葉に、神主が教えてくれた。

 シラヌイは“筆しらべ”という摩訶不思議な力を持っており、それによって色々なことができるのだという。

 水面に蓮の葉を浮かべたり、水の流れを操ったり、風を止めたり逆に吹かせたり、陽射しを強めたり、無くなってしまった物を蘇らせたり。今、アリア社長の失くしてしまった帽子を作り出したのも、シラヌイの仕業なのだと。

 ささやかなことではあるが、なけなしの力を使うことには変わらず、今の状態では命を削るのにも等しい。それでも、シラヌイは一切の躊躇なく、大事な物を失くして悲しむアリア社長の為に力を揮った。

「そういう方なんです、昔から……。きっと、もっと、ずっと、昔から」

「まるで、『幸福の王子』みたいですね」

 神主の話を聞いて、灯里は現代にも伝わる有名な童話を思い出した。

 両の目を失い、美しい体が汚れてみすぼらしくなることも厭わず、ただ純粋に、懸命に、命尽き果てる瞬間まで、人々の幸福を祈り続けた、石像に宿った高貴な魂と、その従者。

 灯里は自然と、シラヌイに歩み寄っていた。双葉も同じだ。どちらからともなく、その場にしゃがみ込み、シラヌイの身体に触れた。

 寒い空気に晒され続けて、体はとても冷たかった。ボロボロになった体毛は手触りも悪い。けれど、その奥には、お日様のような優しい温かさがあった。

「ありがとう、シロちゃん。今まで、ずっと、ずっと、みんなのために頑張ってくれて」

「ありがとう……」

 2人の少女は心からの感謝の言葉を、大神へと贈った。

 次の瞬間、周囲の空間に異変が起こった。

 急に辺りが夜のように暗くなり、自分たち以外のものが一切無くなったのだ。

 

 

 

 

「なんだ?」

「神空間の顕現……? これは、一体……」

 ナイブズと神主は努めて冷静に振る舞っているが、それでも困惑の色は隠せない。灯里と双葉、アリア社長も同様だったが、不思議と怖くはなかった。寧ろ、夜に星空に包まれ、見守られているような、不思議な安心感があった。

 続けて、周囲に小さな光の珠が現れた。雪のようにも見えたそれの正体は――

「この、はね、は」

 ――羽根だった。ナイブズはそれが何かを知っているが故に、瞠目し、言葉を失った。

 残る3人と1匹はそれぞれ、地から湧き天から降り注ぐ、雪と見紛う純白の羽根に手を伸ばす。

「不思議……とっても、あたたかい」

「まるで、天使の羽根みたい」

 それぞれが羽根を手に取り、まじまじと見つめる。

 鳥類のものとは異なる、どこからともなく現れた、摩訶不思議な羽根。双葉が天使と表現したのも頷けるし、ある意味で適確な表現でもあった。

 ナイブズが手に持った羽根を額に当てると、突如、羽根が光となって爆ぜた。その反応は、全員が持つ羽根に連鎖した。

「うおっ!?」

「ぴゃっ!?」

「はひっ!?」

「にゅっ!?」

 目の前で弾けた光が、一瞬、視界を白く染め上げる。その瞬間に、頭の中に直接、イメージが伝わった。目で見るのでもなく、耳で聞くのでもなく、肌で感じるのでもなく、頭に、心に、直接響いたそれらは、様々なかたちをしていた。

「今のは……記憶、とは、違う……?」

 ナイブズは戸惑いを露わに呟く。

 その羽根の本質を、誰よりも身を以て知っていればこそ。

「……祈りは力なり、力は祈りなり」

 一族に代々伝わる言葉を、神主は呟いた。

 其れは、遠い先祖が弟子入りした、神仰伝導師・天道太子一寸が、自ら記した妖怪絵巻物の最後に書き添えた一節。

 羽根から伝わった、暗き冷えた心を癒す温かき温もりが、それを思い出させた。

「お祈り……うん、そうですよ」

「ありがとう、という感謝。きっといい星になりますように、という願い。必ずいい星にしてみせる、という誓い……」

「色々な人たちの、色々な祈り」

 2人の少女は、神主の言葉を力強く肯定し、自らもまた祈った。

「明確な誰かではなく、漠然とした、なにものかへの祈り……。それが、この羽根に……」

 ナイブズは、胸元に仕舞っている白紙の切符に手を当て、降り注ぐ羽根を見上げていた。かつて、ノーマンズランドで奇跡が起きた、あの時の人々のように。アリアもまた、空を見上げていた。

 徐に、シラヌイが立ち上がった。尾を揮い、その先を暗い空へと向ける。すると、暗くなった空に次々と星が現れ、見たことも無い星座を次々に描いていく。

 鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、猿、猿、鶏、ペンギン、鯨、猪、猫。

 一見して統一性の見られない星座たち。だが、星々には強い結びつきがあるようにも見えた。

 次第に星座を成す星々の輝きが増し、それぞれの星座が一つの光となって、次々にシラヌイの身体へと宿っていく。

 それに呼応するように、シラヌイの身体に幾つもの変化が現れる。

 疲れ果て草臥れた顔と体に、活力が戻った。

 泥と砂で薄汚れた体は、光と見紛う純白となった。

 背には太陽を模った、日輪の如き炎を宿した鏡が現れた。

 全身の化粧は、灯里達のよく知るものから、更に細部にまで行き渡るものへと変化した。

 ボサボサになっていた体毛は美しく靡き、一部が馬の鬣のように伸び、たなびいている。

 誰もが見惚れ、言葉を失う中、感極まった神主は滂沱の涙を流し、歓喜に叫んだ。

「野に降り立ちし白き威容……! 紛れも無く、大神アマテラス様!」

 その声に応えて、シラヌイ――アマテラスは勝鬨を上げるかのように遠吠えした。世界の隅々にまで響き渡るように。

 そこへ、ぴょんぴょんと跳ね回る小虫のようなものがアマテラスの足元から現れて、そのまま頭の上へと乗っかった。

「へっへェ! 遂に来たなァ、この時がよォ! 待ち侘びたぜ、アマ公!」

「その声は、お師匠様!?」

 姿が見えず声だけが聞こえる新しい人物の乱入に、その人物をよく知る神主が反応した。

 辛うじてナイブズにのみ、テントウムシのような装束を纏った小人の旅絵師の姿が見えた。

「秋人ォ! お前、今この瞬間をしっかり見たかァ!!」

「……はいっ。この目の奥、瞼の裏、脳の髄、魂の奥底までも、確と刻み込みました!」

「だったら、お前が描くんだ。新天地へと降臨された、大神アマテラス様の御尊容をォ!」

「わ、私がですか!?」

「こいつは宿題だ。オイラとアマ公が戻ってくるまでに、必ず描き上げておけよォ! お前もまた、天道太子の一門、オイラの弟子なんだからなァ!」

 突然言い付けられた宿題に、神主は泣くのも忘れて慌てている。

 一方、神主の師匠――当代の天道太子は虚空に筆を走らせ、灯里と双葉に一輪の花を贈った。

「お嬢ちゃんたち。いつか、こいつの絵を見てやってくれよ」

「はいっ」

 花をしっかりと手に持って、一緒に返事をする。

 それを見届けたアマテラスは一度ナイブズを見て、続けてアリアを見て、神主たち3人を見た。神空間が解かれ通常空間へ戻ると、アマテラスは御神木に向けて一つ吠えてから、火星の大地へと旅立って行った。

「……行っちゃったね」

「行っちゃいましたね……」

 まるで、神話の一場面に居合わせたかのようで、2人はちょっと放心気味だった。

 ナイブズは御神木を見遣り、アリアは灯里の足元へと移動した。

 神主はアマテラスが旅立って行った方を向いたまま、ぽつり、ぽつりと語り出した。

何も無い星(ノーワンズランド)というのは、この星の元々の姿から取った皮肉であり、蔑称に近い。対して、アクアという名前はね、火星開拓が計画通りに進めば、惑星地表の9割近くが水で覆われることになるという指標から、誰からともなく呼び始めたものなんだ。いつかこの星は、水の惑星(アクア)と呼ばれるに相応しい、素晴らしい星になる、美しい星になってくれる、そんな星にしてみせると、そういう祈りを込めて」

「そうだったんですか……」

 知られざる火星の名前の変遷、“今”では当たり前に呼んでいるアクアという言葉の意味。これらもすべて、忘れ去られてしまったもの。

「私も頑張るよ。君達が“アクア”と呼ぶ星に、ちゃんと繋げられるように」

 だが、その祈りだけは、世代を経て、由来が喪失されて尚も、確と受け継がれていた。

「にゅ」

 アリアに呼ばれて、皆がその指す先を見る。御神木の前に、再び光の門が現れていた。

 神主もそれを知っているらしく、一つ頷いて、穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、水の惑星(アクア)からの御客人方。どうぞ、お元気で」

 神主――天道秋人は目を伏せ、深々と頭を下げた。

「行くぞ」

 ナイブズに促され、灯里と双葉は何も言えないまま、そこから立ち去った。手に持った花を、優しくも強く握りしめて。

 彼らが潜ると、光の門――幽門は忽ち閉ざされた。

 

 

 

 

 光を潜った先は、いつもの火星だった。

 小春日和の温かさが、体を優しく包む。

「……帰って、来たんだ」

「……はい」

 振り返ると、そこには天道神社の御神木が立っていた。幹の太さは、やはりナイブズの背を超すほどではない。手の中にあった花――コスモスも、いつの間にか消えてしまっていた。

 ワン、と小さいなき声が聞こえる。ここでずっと待っていたらしいシラヌイが、2人を出迎えてくれた。

 2人はお礼を言いながら、シラヌイの身体を撫でる。そこで、ふと気付く。先程のアマテラスと、このシラヌイ。同じ犬……改め、狼で間違いないのだろうが、いったいどうして今も生きているのだろうか。

 そんな疑問を懐いていると、後ろから元気な声が飛んできた。

「あ、灯里ちゃんとてこ、見ぃ~っけ!」

 続けて、大きなホイッスルの音。2人を見つけた合図のようだが、先程の大きな声だけで十分だった気がしなくも無い。

 真っ先に来たのは、アリシアと紅祢だった。

白縫糸(しらぬい)様、一体どちらへお連れしていたのですか。姿が見当たらずに心配しましたよ」

 紅祢が抗議すると、シラヌイは、ぷい、とそっぽを向いて知らんぷり、聞こえないふりをしていた。

 そんな微笑ましい光景を見ていると、先程までのことが嘘のように思えてしまう。

「……この桜の木、他のより大きいんですね」

 それを確かめるためか、双葉は御神木の桜の木へと振り向いた。その時気付いたが、2匹の黒猫が灯里達を見下ろしていた。

「この神社が地球から移築されて来た時に、一緒に樹齢二千年を超える御神木の桜の木も移植されたらしいわ。けど、その木は不慮の事故で倒れてしまったの。それでもね、不思議なことに、その倒れた木を片付けた後、同じ場所に新しい芽が生えて来たんですって」

「ネオ・アドリア海に水が入ったのと同じ頃だと伝わっています。その芽が育った姿こそが、この御神木で御座います」

 アリシアと紅祢が、丁寧に説明してくれた。あの後のことを知り、それが確かに今に繋がっていると分かり、2人は顔を見合わせて、一緒に安堵し、喜んだ。勿論、アリア社長も一緒だ。

 やがて他のみんなも集まって来て、まぁ社長にアリア社長が噛みつかれる一幕を経てから、準備も整ったということで当初の目的を果たすべく、神社の境内へと向かうことになった。

 この時判明したことだが、2人がいなくなってから、こちらでは20分程度しか経っていなかった。白昼夢を見ていたと言われても、信じてしまいそうだった。

 神社で一番大きな建物――拝殿の中に案内され、用意された座布団の上に座る。ちゃっかり、アリア社長たちに混じってシラヌイも入って来ていた。

 やって来た神主が思いのほか気さくな人物で、つい先程出会った神主とは全く違った。挨拶を軽く済ませると、本題に入る前にどうしても見てもらいたいものがあると言われた。

「ごめんなさいね、随分待たせちゃって。御先祖様の絵を引っ張り出すのに、時間が掛かっちゃって」

 巫女装束ではなく、質素な和服を着た女性――神主の妻だという――が、簡素な装飾の施された漆塗りの箱を持って来た。

 その中から現れた絵を見て、言葉を失った。

「先の天道太子様の絵は悉く失われちまったけど、その弟子だった御先祖様、この神社を火星(アクア)に移した当時の神主、天道秋人が描いた、この一枚だけは遺されていた。今日の話は、これを見てからが話し易い。大神アマテラス様、火星の地への御光臨の絵だ」

 珠のようにくるまっている純白の羽根が降りしきる中、天に向かって吠える、全身に紅の化粧を施した白い大神の姿。

 つい先程目にした光景が、まざまざと蘇る。

 紙は、経年劣化で一部は褪せ、黄ばみ、端々に切れ目もあった。

 それでも、その絵に籠められた想いと祈りは、微塵も色褪せてはいなかった。

「人の想いは、祈りは、こうやって……」

「時間さえ超えて、届いて、繋がるんですね」

 灯里と双葉は、目の端に涙を湛えた。その涙を、シラヌイの見えざる筆が優しく拭った。それが変にくすぐったくて、一緒になって笑った。

 そんな2人の様子を、他の皆は怪訝に窺っていた。どうやら、今日の話は、予定よりも長くなってしまいそうだ。

 

 

 

 

 

「……あれ? そういえば、ナイブズさんは?」

「一緒に帰って来ましたよね……?」

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。