夢現   作:T・M

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今回はオリジナルキャラクターの出番が多く、また設定や世界観の独自解釈などもありますので、苦手な方はご注意ください。


#21.随神(かむながら)

 朝の陽射しが差し込むネオ・ヴェネツィアの街を、ナイブズは一人で歩いていた。まず向かうはゴンドラ乗り場、そこを経由して目指すはネオ・アドリア海に浮かぶ島の一つ。かつて訪れた桜の名所がある天道(てんとう)神社だ。

 本来ならもっと早くに乗り込むつもりだったのだが、あちらにも準備があると待たされ、今日に至った。曰く、季節の変わり目や季節の始まりは行事や祭事が多く執り行われるのだとか。それらが落ち着くまでは待ってほしいのだと、店主を通じて伝えられた。

 待たされる間に興味や関心が潰えることは無かった。ナイブズをして瞠目せしめた、神秘以外に形容の仕様が無い仕業――『ふでわざ』と言っていたか――、天に星を描き銀河と成し、風を吹かせてそれを回すという、物理法則も何もかも超越した、言葉にすれば馬鹿馬鹿しくなるほど荒唐無稽な超常現象。その正体が如何なるか、気にならないはずがない。

 プラントこそは絶対的なる優越者という認識を破却した今だからこそ、あれを成した力の正体を、その仔細を知りたいのだ。

「ナイブズさん、おはようございまーすっ」

 水路の側から聞き覚えのある声で呼ばれ、足を止めてそちらへ振り向く。舟の上で、あゆみが元気に手を振っていた。

「あゆみか。久しいな」

 ナイブズの返事を聞くと、あゆみはオールを操り舟を寄せて来た。

「今日はお互いに一人ですね」

「俺は基本的に一人だ。それに、最初に会った時はお前も一人だっただろう」

「あ、そういえばそうでしたね」

「今の口振りだと、杏やアトラとは普段から一緒なのか」

「はい。トラゲットで知り合って、仲良くなって以来、ちょくちょく合同練習やってます」

「違う会社でも、一緒に練習することに問題は無いのか?」

「会社の垣根を超えた合同練習は、昔からある慣習なんですよ。あの水の三大妖精も、半人前(シングル)の頃から合同練習をやっていた仲良しトリオだって話もありますからね」

「そして、その三人の弟子も、か」

 何とはなしに、とりとめもない会話をしていると、あゆみは急に、きょとん、とした表情になった。

「え? ナイブズさん、藍華お嬢たちとも知り合いだったんですか?」

「偶に会う」

 藍華と面識があることに、それ程驚かれるような要素があるのだろうかと首を傾げる。他方、あゆみも少し思案していて、すぐに何かに納得したようだった。

「っかー! そうか、ウチの知らない話が広まってたのはそういうことかーっ!」

「なんだ、急に」

「いや、ナイブズさんに直接あの話を聞いたのはウチらだけだと思ってたから、聞いた覚えの無い話が増えてたのが不思議だったんですよ。そうか、藍華お嬢が……」

 あゆみは興奮気味で、肝心の情報を断片的にしか伝えてこない。だが、既にある知識と照らし合わせれば、意味するところを察するのは容易だった。

 やはりというべきか、ヴァッシュの話を最初に広めたのはあゆみだったらしい。周囲が話しているのを聞いても自分が広めたものばかりだったのが、ある日急に自分が知らない内容が増えていて、それが不思議だったのだろう。

「藍華には話していない。灯里から聞いたのだろう」

 ナイブズがヴァッシュの話を、あゆみよりも詳しく聞かせた人間は灯里、アイ、光、この3人だけ。そして、3人の中で藍華と接点があるネオ・ヴェネツィアの住人は1人だけ。世間話のついでや話の種にと、話を広めるぐらいのことはしていてもおかしくはあるまい。

「灯里……っていうと、あのARIAカンパニーの?」

「有名なのか?」

「ARIAカンパニーは姫屋不動のトッププリマだったグランマが、ある日突然に退職して立ち上げた会社ですからね。そこに同年代の新人がいるとなったら、ウチじゃなくても気になって調べちゃいますよ」

 グランマ――天地秋乃の意外な経歴に驚くと同時に、それならばと納得する。

 そのままARIAカンパニーの話題に移ったのだが、その運営方針にまたも驚かされた。創業以来、小規模経営を旨としており、最大で社員は2人(実質マスコットである火星猫の社長は含まない)、設立直後に至っては10年以上もの間1人だけだったのだとか。

 そんな秋乃が育て上げた後継者は、水の三大妖精の一人に数えられ、誰もが認める業界トッププリマのアリシア・フローレンス。そのアリシアも秋乃の引退後から数年は1人で会社の運営をしていたというのだから、ある種徹底したものだ。

 このような先達がいるとなれば、灯里がそこに所属しているというだけで注目されるのも納得できた。尤も、灯里の特異性ともいうべき特徴は、水先案内人とは異なる方面で発揮されているような気もするが。

「ナイブズさん、また、あの話をしてくれませんか? ほら、調度練習台が乗れそうなスペースも」

 自分はARIAカンパニーの話をしたのだから、ということだろうか。それとも、あゆみに話していなかった部分で、何か気になるところでもあったのか。どちらにせよ、答えは決まっている。

「今日は用事がある」

「あ~……そうですか。それじゃあ、しょうがないですよね。それじゃあ、また今度、お願いします」

 残念そうな様子を臆面もなく見せながらも、食い下がることもせず、あゆみはあっさりと引き下がった。

 そこで短く別れを告げようとした時、こちらに向かってくる気配を感じた。そちらを振り向くと、見覚えのある白い狼が走って来るのが見えた。

「あれは、シラヌイ」

 ナイブズが名を唱えると、シラヌイは元気に一声鳴いた。大きく跳んで着地し、ナイブズの前にちょこんと座るが、向いているのは水路の側――あゆみに顔を合わせていた。

「アイちゃんと一緒にいたシロちゃんじゃん。元気にしてた?」

 舟から身を乗り出し、あゆみは優しくシラヌイの頭を撫でた。シラヌイは目を細め、嬉しげに喉を鳴らした。

「お前が迎えに来たのか?」

 ナイブズが声を掛けると、シラヌイは一度だけ小さく吠え、頷くようなしぐさを見せた。どうやら、そういうことらしい。

 これを聞いて、あゆみは「へ~」と声を漏らし、意外そうで、それでいて好奇心を刺激された様子だ。

「ナイブズさん、シロちゃんの家に行くんですか」

「ああ。ネオ・アドリア海の島にある神社だ」

「そこって、千本鳥居のある所ですか?」

「いや、桜ならあった」

「ああ、そっちですか」

 春に見た桜を思い出し、ふと気付く。あの時は、この狼の気配は微塵も感じなかった。狐の仮面を被ったものならいたが、あれは全く違う存在だ。しかし、この狼の纏う雰囲気は、どこか桜の舞い散るあの時あの場所を思わせる。

 龍宮城では天の慈母とも呼ばれ、海の慈母とも呼ばれたグランドマザーと並んで称されていた。白い体毛に紅い化粧を施したこの狼は、何者なのだろうか。

 そんなナイブズの疑問など露知らず、シラヌイはあゆみをじっと見ている。

「ウチの顔がどうかした? シロちゃん」

 見られていることに気付いて、あゆみが声を掛けると、シラヌイはあゆみとその背後の海へと視線を交互させた。

「もしかして、誘ってくれてるの?」

 ワン、と元気な返事。これに、あゆみは笑顔で答えた。

「よっし、一緒に行きましょう、ナイブズさんっ」

「練習があるんじゃないのか?」

「ええ。ですから、ウチの練習相手を大柄な男性と大型犬に頼んで、ネオ・アドリア海まで行って、途中立ち寄った島で休憩しようと思います」

「物は言いようか」

 初めて会った時に自分が半ば以上も押し付けた屁理屈を、まさか一年以上を経た今になって返されるとは。これにはナイブズも堪らず、僅かに苦笑を漏らす。

「ウチが一緒だと、迷惑ですか?」

 漏れ出た苦笑いを拒絶的な感情の表れと思ったのか、あゆみは不安げな表情で尋ねて来た。

 ポン、とシラヌイの頭を叩き、答える。

「こいつが連れて行こうとしているのなら、問題あるまい」

「ありがとうございます!」

 何故、事実を伝えただけで礼を言われるのか。ノーマンズランドではまるきし無縁だった無邪気な感謝の言葉が、火星では当たり前のように向けられてくるのだから、未だに慣れない。

 これも社交辞令というものの一つなのだろうかと、今更ながらに思い悩む。

「それでは、ナイブズさん、お手をどうぞ」

 気を取り直して、一つ咳払いをしてから、あゆみは水先案内人としてナイブズへと手を差し伸べた。その手にナイブズが触れるよりも先に、白い前足が置かれた。

「……そのお手じゃないよ、シロちゃん」

 ぽあっとした表情でシラヌイは首を傾げて、ナイブズは一つ溜め息を吐いた。

 その後、島までの移動の間、あゆみの質問への答え合わせのような形で、ヴァッシュの話を新たに伝えることになった。

 

 

 

 

 目的地となる島に到着すると、嗅覚を刺激する不思議な匂いに気を取られた。春に来た時はこんな匂いはしなかったはずだ。

 花は花粉を飛ばすと同時に匂いも拡散させるという知識に基づき辺りを見回すが、それらしいものは見当たらない。何かしらの香料を使っているのだろうかと推測しつつ、シラヌイに続く形で舟を下りる。

 あゆみが舟を係留するのを待ち、春に訪れた時には素通りした神社へと向かう。

 神社に特有の赤い門のような構造物――鳥居――の前に、和装の男が立っていた。あの日、シラヌイと共にナイブズを龍宮城へと誘った人間の一人、天道(てんとう)(じょう)だ。

「お待ちしていました、ナイブズさん。そちらの水先案内人(ウンディーネ)さんは、お連れの方ということで?」

「そうなる」

「姫屋のあゆみ・K・ジャスミンです。シロちゃんの招待で一緒に来ました」

 あゆみの自己紹介を聴いて、歓迎の言葉を伝えると、丈はシラヌイへと向き直り、大きく溜め息を吐いた。

白縫糸(しらぬい)様、また勝手に抜け出して……。世話をしている秋穂と秋生の身にもなってやってください」

 やはり、ナイブズを迎えに来たことはシラヌイの独断だったらしい。咎められると、シラヌイはそっぽを向いて知らんぷりを決め込んでいた。なかなかになめた態度だ。

「シラヌイ……様?」

 あゆみは、丈が狼――彼女の認識では犬だろう――に対して敬称を用い、畏まった態度で接していることに首を傾げている。一切の事情を知らなければ、これが普通の反応だろう。ナイブズとて、この狼が普通でないことを知らなければ、同様の反応を示したことだろう。

「色々と事情があるんだ。それじゃあ、ご案内します」

 丈はシラヌイに関する説明を省き、ナイブズたちを奥へと案内する。

 ちらりと、少々困惑した様子のあゆみを一瞥してから確認する。

「一緒で構わないのか?」

「ええ。白縫糸様がお連れしたということは、そういうことでしょうから」

 短く、最低限の内容での返事だったので、当のあゆみは余計に困惑した。ナイブズも、シラヌイはこの神社において大きな権限や決定権を持つのだということは理解できたが、「そういうこと」の指す意味は分からなかった。

 ナイブズやあゆみが問いを重ねる間も無く、丈は石畳の道の左側を、シラヌイもその右隣、即ち中央を歩き出した。小さく溜め息を吐いてからナイブズは先導に従って歩き、あゆみもそれに続いた。

 鳥居を潜った参道の先にある社殿の脇を通り抜け、『社務所』と書かれた看板の掲げられた、小さな和風建築の建物の中へと入る。

「どうぞ」

 丈に促され、中に入る。靴のまま入ろうとして、足元に靴が脱ぎ揃えられているのを見つける。これにあゆみも不思議がっていると、日本家屋では玄関で靴を脱いでから入るのが礼法なのだという。ナイブズもあゆみも、慣れない慣習に戸惑いつつ、靴を脱いで社務所に上がる。

 シラヌイはそのまま上がろうとしたのだが、後からやって来た少年少女――双子の弟妹らしい――に捕まって、専用の足拭きマットで足裏の汚れを落としていた。

 便宜上『社務所』と書いてあるが、実際は自分たちの家なのだとか、季節の行事が終わると途端に暇になるとか、丈が説明するのを聴きながら、奥へと入る。

 廊下を進んだ奥の部屋、客間まで案内される。紙の張られた珍しいドア――障子――を、丈が一度廊下に座して、横から引くようにして開ける。

 日本の旧い文化は西洋文化を基盤とした現代とは異なる部分が多いと、多少は知識で有していたが、実際に直面すると日常の些事でさえもここまで違うものかと、驚嘆の念すら覚える。

「では、ごゆっくりと」

 ナイブズとあゆみ、そしてシラヌイが中へ入ると、障子が閉じられた

「よっ。待ってたぜ、お客人」

 植物を織り込んだ網目状の床――畳――に座してナイブズを待ち受けていたのは、見覚えのある男。今日は正装を着込み、身形も整えているようだが、見間違うほどでもない。

「久しいな。夜光鈴の時以来か」

「久々に、あれの買い手がついて嬉しかったよ。もう十年以上、売れ残っていたからなぁ」

 ナイブズを花見に誘い、夜光鈴を手に取らせた、奇縁の男。こうして三度(まみ)えることになろうとは、思ってもみなかったが、同時に納得できる部分もあった。

「改めて、挨拶しないとな。天道神社の神主、天道秋雨(あきさめ)だ。そっちのお嬢さんは、姫屋の水先案内人(ウンディーネ)さんか。こんにちは」

「こんにちは、姫屋のあゆみです」

 簡単にあいさつを済ませて、秋雨の前に用意されたクッション――座布団――を勧められ、その上に座る。あゆみと、何故かシラヌイも、それぞれナイブズの隣に座る。

「これからちょいっと長話をするんでね、退屈になったら寝るなり帰るなりしてくれ」

 今日の予定を何も知らないあゆみに向けて、秋雨は前置きをしたのだが、退屈になるのが前提とばかりの言い方が少々気に掛かった。あゆみもそこを察してか、苦笑を漏らす。

「何の話ですか?」

「今じゃすっかり忘れ去られた、火星の御伽噺さ。まずは、そうだな……昔々、神出鬼没の紙芝居屋ってのがいてな。百年程の間、火星全土で目撃証言が相次いだ、謎の紙芝居屋だ」

「紙芝居……?」

「絵本の読み聞かせみたいなもんだな。使うのは絵本じゃなくて大きな紙で、仕事だけあって語り方も大仰だったらしい」

「100年もいたって、まるでカサノヴァみたいですね、その人たち」

「ん?……ああ、そうだな。で、その紙芝居屋が語って聞かせていた御伽噺を、今日は俺が披露しようってわけだ」

 一通りの事前説明が終わり、あゆみは隣のナイブズに顔を向けた。

「……これ聴きに来たんですか? ナイブズさん」

「気になることがある。その確認のついでだ」

 ナイブズと紙芝居屋の御伽噺に接点が見出せないのか、あゆみは難しい顔をしている。

 正直、今のところナイブズもこの話を聞くことにさして興味が無い。本題に入るためにはどうしても必要だからと言われたから、ある意味仕方なしに聞くに過ぎない。

「さて、今より遡ること三百年以上前。火星入植黎明の時代、火星がアクアと呼ばれる少し前のことで御座います……っと。あんたが前に聴いた話の、ちょいと後のことさ」

 最初だけ仰々しい語り口だったが、すぐにそれも崩れた。

 前に聞いた話の続き。つまり、龍宮城で聴いた、グランドマザーがこの火星に生命力を宿し、生き物が生きられるようにした、あの後のこと。

 先程話に出た『紙芝居屋』というのが店主の父親のことだとすると、グランドマザーに関わりがあることだということになる。

 ナイブズが思考を整理したのを見計らってか、秋雨はゆっくりと語り始めた。

「今じゃあ信じられないことなんだが、当時の火星は嵐やら旱魃やら洪水やら暴風やら豪雪やら、自然災害が至る所で起こってたそうだ。今じゃ完全掌握している地球でも、災害が頻発していた時代なんだから、当たり前と言えば当たり前だよな」

「どうしてです?」

「地球での気象制御技術を使おうにも、火星の環境は地球と全然違うからな。はっきり言って殆ど当てにならなかったそうだ。火炎之番人(サラマンダー)の前身となる先達も、生き物が最低限生存できる条件を満たすので精一杯だったんだとさ」

「へー……」

「大地を削り取るのではないかというほどの豪雨、大地を埋め尽くし凍て尽くすほどの豪雪、地表から全てを吹き飛ばすほどの暴風・竜巻・旋風、湖沼が干上がり地面がひび割れるほどの旱魃……いやほんと、想像が追い付かないほど酷いもんだったらしい」

「この星で旱魃、か」

「ホントに想像できないですねー……」

「だろ? だから、忘れられちまったんだろうなぁ……。肝心の絵も無くなっちまって……っと、失礼」

 絵が無くなったことを口にした途端、秋雨は見るからに気落ちして、悔しそうにした。龍宮城でも「絵が無くなったから語り継げなくなった」という旨の発言があり、天道の兄妹も絵についてやけに執心していた。そのことに由来するのだろう。

 果たすべき役目を果たせず、挽回することさえできない苦しさと悔しさ、と言ったところか。

 秋雨は一つ咳払いをして、気を取り直してから話を続ける。

「人々は新天地でも直面した災害……自然の猛威を畏れた。同時に、祈りを捧げた。助けて下さいとか救ってくださいとか、そういうのじゃなく、一日も早く、より良い日が来ますようにと。その祈りが、海の底に眠る御方へと届き、その御方が、天の慈母を招き寄せた」

「海と天の、慈母」

 遂に出てきた、グランドマザーを意味する単語。そして、それに並べられた単語が指す存在は、今、隣で……――丸くなって寝ている。

「天の慈母は白い狼の姿に化身して、或いは狼の石像に降臨して、火星全土を駆け巡ったそうだ。災いあるところに颯爽と現れ、その尾を音楽を奏でるかのように翻した。さすれば忽ち風も雨も止み、雪と寒さも緩み、日差しも穏やかになり、駆け抜けた後には草花が咲き乱れたという。凄いところじゃ、夜が朝になったなんて話もある」

 白い狼――赤い化粧を施したシラヌイ。

 尾を翻す――筆業、筆しらべ。

 それによって起きた、災害を鎮めるという超常現象――天に星々が描かれ、風が吹いたあの瞬間。

 駆け抜けた後に咲き乱れる草花――あの日、図らずも共に駆けて目にした光景。

 少しずつ、何かが符合し始めた。

「火星の大地を駆けるその様子は、さながら野を縫う白い糸のようであったとか。以来、それを見た者たちは、そしてうちの先祖たちは、畏敬の念を込めてその狼を『白い縫い糸』と書いてシラヌイと呼び称し、感謝と共に崇め奉った」

「シラヌイ……」

 シラヌイの字と意味、由来が語られ、確信に至る。

 隣で寝こけているこの狼の正体は――ナイブズがその存在を否定し、その不在を確信していたもの。

「その狼が、神様だったんですか?」

 あゆみも同様の結論に至ったらしく、半ば呆れたような調子で疑問をぶつけた。無理もあるまい、近代に起こった実話として捉えるには、あまりにも荒唐無稽なことなのだ。

 こんな話をすんなりと信じられるとすれば、灯里や光やアイのような者たちぐらいだろう。

 否定にも等しい疑問を投げ掛けられて、秋雨は苦笑した。だが、怯んだような様子は寸毫も無い。

「動物が神様なんて、今の時代じゃあ笑い話にもならないよな。当時だってそうだったろう。けど、みんな大真面目にそう思ったんだと。神様が、命を懸けて自分たちを救ってくださったと」

「……命を懸けた?」

 意外な言葉に、思わず聞き返す。ナイブズの考えている通りならば、その白縫糸が死んでいるはずがないのだ。

 しかし、秋雨は悲しげな表情で小さく頷いた。いつの間にかシラヌイも起きて、秋雨の話に耳を澄ませている様子だった。

「白縫糸様はその時、力を使い果たし、命を落とした。神とて生きとし生けるもの。限界を超えた力を揮い続ければ、命を削っちまうのも道理さ」

「何故、そこまでして……」

「慈悲深き神の御心は……――あ~いや、違うな。きっと、白縫糸様は人間を、この星で必死に生きようとしていた生命を、愛していらしたんだ。自らの命を費やし、使い果たすのも、惜しくは無いほど。その最期は、弱り切った自らを抱き、涙を流す者の頬を舐め、泣き止んだのを見て優しげに一声鳴いてから力尽きた、というものだったらしいからな」

 生きるには辛く苦しい星で、必死に生きようと足掻く者達への、自らの命すら顧みぬほどの愛と慈しみ。

 どれほど超越的な力を持とうとも、自らも同じ、この世界に生きるもの。それを自覚し、静かに人に寄り添い生きる。

 その身に赤を纏い、星中を駆け回り、弱きものを自らの手で守るため、この世の摂理とも云うべき現象に挑み続け、力尽きた。

 どの星にも似たようなもの(バカ)がいたものだ。それに、その白縫糸が死んだのも当然だろう。ヴァッシュが150年続けて来たようなことを、恐らくは数年にも満たない期間に圧縮して行ったのだから。

 そう、白縫糸は死んだ。ならば――

「なら、こいつはいったい……」

「そうだ。さっき、シロちゃんもシラヌイって名前で呼ばれてた」

 ナイブズの呟きが聞こえたようで、あゆみもシラヌイを見る。シラヌイは、ぽあっとした表情で首を傾げた。惚けているのか、なめられているのか、それとも何も考えていないのか、判別がつかない。

「生まれ変わりみたいなもんさ」

 さらりと、秋雨が答えを告げた。思いもよらぬ言葉に、あゆみは身を乗り出しそうなぐらいの勢いで向き直った。

「本当ですか?!」

「信じるかは君次第だ」

 そこで、ナイブズに目配せがあった。一般人には聞かせられないような事情がある、と言ったところだろう。

 その後、この神社が信仰する神と現在一般に普及している宗教における神との定義や信仰自体の違い、白縫糸には実は神としての本当の名前がある(アマテラスでまず間違いあるまい)が恐れ多いので普段は通称で呼んでいること、自然への畏怖と感謝などについて補足され、話が終わる頃には、あゆみは今にも目を回して倒れそうな様子だった。

「……っかー。なんか、一辺に色々聞いて、頭がくらくらしてきた」

 話が終わり、あゆみは体勢を崩して左手を床に付き、右手を額に当てた。

 頭を随分使ったから、冷えやすい体の末端部分を当てて冷まそうとしているのだろう。

「退屈はしなかったかい?」

「はいっ。面白かったです」

 疲れていても、返事は元気に快活に。あゆみらしい一面を見たものだ。

 秋雨は一瞬、意外そうな表情を見せて、すぐに口元を綻ばせた。

「そうか、そいつは良かった。折角だ、昼飯も食べて行ってくれ。調度、昨日の風で一気に金木犀の花が落ちたんだ、見ながら食べるのにちょうどいい」

 余程あゆみの言葉が嬉しかったのか、予定にはない昼食に誘われた。ただ、途中で出て来た植物の名に、あゆみも「キンモクセイ?」と鸚鵡返しに同じ名前を唱えて首を傾げていた。

 ふと、今まで話に集中していて気にならなかった匂いが、嗅覚を刺激した。海辺の時と同じものだが、今度はより匂いが強い。

「……ここに来てから何か甘い匂いがしているが、それか?」

「ああ。香りが強すぎるってことで、ネオ・ヴェツィアの街中じゃまず見かけない」

 離れていても香料を使っているのではないかというほどに香る、天然の花の匂い。そして、花が落ちたから見るにはいい、という言葉も気になり、ナイブズは昼食の誘いを了承し、あゆみも快諾した。

 金木犀のある庭までの移動がてら、金木犀についての説明を受けた。

 曰く、地球にかつて実在した樹齢千年を超える金木犀の芳香は、2里――メートル法に換算して約8km――の遠方にまで届いたという伝承があるほどに、香りが強いことで有名だという。

 樹齢千年という途方もない数字に、ナイブズも驚きを露わにしたが、これから見る金木犀も樹齢百年余り、御神木の桜の大樹に至っては樹齢三百年をゆうに超えるという。

 かつて地球の神社では樹齢千年の御神木はさして珍しくもなかったとも付け加えられ、ナイブズは自分の150年が、生物としては取るに足らない些末なことなのだと気付かされた。

 ノーマンズランドでは樹齢50年の樹木ですら希少だったのだから、植物が長命の生物だという知識に、実感と認識が伴っていなかったのだ。

 隣では、あゆみが植物も動物と同じ生物だということに少々驚いている様子だった。

 自然への畏怖と感謝が薄れると同時に、最も身近でありその象徴的存在である植物への意識も低下するのは、人間の歴史に鑑みて当然のことなのだろう。

「さて、話している内に着いたぜ」

 言って、秋雨は道を開けて、ナイブズとあゆみを促した。

 微かに向かい風が吹き、一際強い甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「わぁ……」

「一面のオレンジ色……すべて、花か?」

 庭の中央に聳え立つ大樹には、一つも花が付いていなかった。代わりに、地面が一面、オレンジ色で染まっていた。身をかがめてオレンジ色に触れ、それを纏めて掴み取り、観察すると、それは指の先にも満たないほど小さな花だった。その小さな花が、決して狭くない庭を覆い尽くしていたのだ。

「綺麗……お花の絨毯だ」

 あゆみは花で埋め尽くされた庭へと入っていき、その感触や香りを楽しみ始めた。

 秋雨は食事の手配と準備のためにと一度戻り、ナイブズはその場に立って、暫く辺りを眺めていた。シラヌイは、気付いたらあゆみと遊んでいた。

 本当に、先程語られたような存在なのだろうかという疑問が湧いてきたが、そんな所もヴァッシュに似ているのではないかと思ったら、何故だか納得できてしまった。

 暫くして食事が届き、天道の一家と共にその場で昼食を摂った。

 甘い香りに包まれての食事というのは妙な気分だったが、悪くないものだった。

 出された茶に金木犀が香り付けに使われていると聞いて驚いた隙に、シラヌイにおにぎりを一つ奪われ、奪い返し、涎がべっとりと付着していたので押し付けるような珍事はあったが、些末なことだった。

 美味い料理を食べ、美味い酒を飲み、地に落ちた花々を時に愛で、その合間に人と言葉を交わす。

 “楽しい”気分とはこういうものだっただろうかと、僅かながらに思う。もし本当にそうだとしたら、楽しいのは凡そ150年ぶりになるだろうか。

 

 

 

 

「っかー! 面白い話を聞いて、綺麗な花を見て、美味しいお茶とご飯も御馳走になって、今日はいい日だったー!!」

「態々口に出して言うことか」

「いいじゃないですか、言いたくなったんですから」

 他愛のない言葉を交わして、鳥居を潜る。余程楽しかったのか、あゆみは満面の笑みを浮かべていた。

「お気に召したなら、光栄至極だ」

 見送りに来た秋雨が言うと、くるりと回って、丁寧に頭を下げた。

「今日はありがとうございましたっ。また、来てもいいですか? 今度は友達と一緒に」

「ああ、いつでも来てくれ。今日のようなもてなしはできんが、歓迎するよ」

 別れの挨拶を交わすと、あゆみはナイブズへと向き直った。

「ウチはもう帰りますけど、ナイブズさんはどうします?」

「まだ、確かめることがある」

「そうですか。じゃ、また会いましょうね」

「機会があればな」

「その時はヴァッシュさんの話、お願いしますね」

 あゆみは一人で舟に乗り、ネオ・ヴェネツィアの街へと戻っていった。途中までは時折振り返っていたが、潮の匂いが花の香りを遮るほどの距離になると、振り返らずに舟を漕いで行った。

 それを見送ると、ナイブズは踵を返し、秋雨を伴って天道神社へと戻った。

 

 結論を言うと、筆業や筆しらべについて実演と共に仔細を教えられても、ナイブズは理解することができなかった。そもそも、その担い手である当人たちですら、それがどういう原理で起こる現象なのか、その全容を全く把握していなかったのだ。シラヌイに関しては知っていて惚けている可能性もあるが、確認のしようも無い。

 だが、ナイブズは今日の結果に不満は無かった。寧ろ、満足していると言ってもいい。

 理解には至らずとも、多くを知ることができ、新たな発見もあった。

「この星の人間たちの、心の奥底での“感謝”が今もあるから……彼女は、今もあそこにいるのだな」

「そういうことになります」

 それだけで、十分だった。

「つまり、貴方が今ここにいるのも……」

「それは無い。俺が本来、人間から向けられるべき感情は、憎悪、憤怒、怨恨、狂気、恐怖……そんなものだ」

 だから、それ以上など、望むべくも無かった。

 

 俺が変わったとて、俺を知る者すべてが変わるわけでは無い。俺の変化が必ずしも受け入れられるものでもない。ロスト・ジュライを経たお前でさえ、そうだったのだから。それでもお前は、俺に仕切り直せと言うのか? ヴァッシュ……。

 そしてグランドマザー、アマテラス、ケット・シーよ。

「俺をこの星に誘い、迎え入れた者達よ。お前達は俺の変化に、何を見ている? 何を願っているのだ?」


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