夢現   作:T・M

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今回は暴力描写があります。
そういうものが苦手な方、ARIAとのクロスでそういうことは許せないという方などは、お気を付けください。
とは言っても、誰かが傷ついたりということはありません。


#18.夏の青空

 夏の太陽に照らされ、降り注ぐ光を照り返す水面の煌めきが他の季節に無い華やかさを彩るネオ・ヴェネツィア。そんな表通りから離れた、薄暗く湿った路地の裏を進んだ奥の奥。

 光明と宵闇の境界線を引くような陰影の中に建つ、殆ど読めない看板を掲げた一軒の店舗。その屋根の上に、黒髪の男と金髪の少女が隣り合って座っていた。

 少し離れた家屋の窓や屋根、軒下、路上、等々、所々から猫や火星猫たちがその様子を覗き見て、2人の――ナイブズとアイーダの訓練模様を見守っていた。

「俺の教えられることは、これで最後だ。後は慣れ次第だ」

 アイーダと出会ってから、早10日。竜宮城から戻って間もなく、ナイブズは彼女にプラントの“力”の制御法をレクチャーしていた。というのも、本来彼女が火星を訪れた理由がそのことに起因するというからだ。

 詳しい事情は敢えて聞いていない。関わり過ぎることで、アイーダに悪影響を必要以上に及ぼさないようにという配慮だった。ただ、アイーダから感じる“力”が不安定だということは気付いていたので、それを解決するためだということは察していた。

 どうやら最初の予定ではグランドマザーやアマテラスから教えを受ける予定だったらしい。だが、ナイブズがプラントの“力”の制御に精通していることを知っていた店主からの推薦と、アイーダとグランドマザーからも直に頼まれ、ナイブズが代わりに“力”の制御方法を教えることになった。他ならぬ同胞の頼みとあっては、ナイブズに断る理由は無い。

 研究による知識と研鑽による経験値。それらを惜し気なく注ぎ込み、ナイブズはアイーダに“力”の制御方法を基礎から丁寧に教え込んだ。

 その甲斐あって、アイーダの滞在スケジュールの都合上存在した半月の期限が過ぎるよりも早く、アイーダはプラントの“力”の制御の基礎をマスターした。呑み込みが早いから、ひと月も経たない内に完璧に制御できるようになるだろうと、ナイブズは見立てていた。

「うん。ちゃんと毎日、練習するね」

「そうするといい。ただ、間違っても“力”は全開で開放するな。理性まで吹き飛ぶ可能性がある」

「時々、変なジョークを言うよね、ナイブズって」

「……そうか?」

 出会った頃のぎこちなさも少なくなり、アイーダも今では多少は冗談を口にして笑顔を見せるようになってくれた。尤も、ナイブズには冗談を言っているつもりは無いので、時折感性の噛み合わなさに戸惑うこともあるのだが。

 それでも、ヴァッシュと袂を別って以来、初めて経験する同胞との語らい、穏やかに過ごす時間。同胞の自由を願っていたナイブズにとって、それは夢のような時間でもあった。

 同時に、胸に去来する想いもある。プラントの“力”の研究と研鑽の土台は、夥しい量の人間の死によって成り立っている。そんな血塗られたものを用いて、半分はその人間の血肉を有す無垢な同胞に、何かを教えてよいものなのか。

 ――だが、これ以外に自分がしてやれることは何も無い。

 どれほど考えても、行き詰まる結論は結局同じ。そして、今、自分にできることをしてやりたいという思いが、後ろめたさを凌駕する。これもまた同じことだ。

「火星の空も、地球の空も蒼いけど、ノーマンズランドの空はどうだったの?」

 言われて、ナイブズは空を見上げた。

 水の惑星と砂の惑星。穏やかで静かな街と銃声と喧騒が響き渡る街々。

 違いは数え切れないほどあれど、今目の前には、同じものが一面に広がっていた。

「同じ、だな。同じ青空だ」

 違うものばかりだと思い込んでいたが、いつも目の前に、同じものはあったのだな。

 ふと、青空の中に、より深い蒼の面影が見えた。忘れようもない、あの男。どれだけナイブズがぞんざいに扱おうとも忠義を尽くし続けた、奇妙な人間。

「やぁ、こんな所にいたのか」

「店主さん」

 下から声が掛かり、見下ろすと外出していた店主が戻って来たようだった。以前は月に一度程度の頻度だったのだが、ここ最近は数日に一度の頻度でネオ・ヴェネツィアの街へと赴いている。

「アイーダ、そろそろ帰った方がいい。君のお目付け役がまた痺れを切らせそうだ」

「うん。それじゃあ、ナイブズ、またね」

「ああ。また」

 店主の言葉に素直に頷いて、アイーダは屋根から飛び降りて足早に去って行った。順路は以前に教えてあるし、もう何度も通っているから、今更見送りは必要あるまい。

 去り際、アイーダは一度振り返って、ナイブズに手を振った。こういう時どうしていいか分からず、ナイブズは微動だにしない。その様子が可笑しかったのか、微かに笑みを浮かべて、真っ直ぐに帰って行った。

 少女の姿が影の向こうへと消えていき、気配も感じられなくなったのを確認してから、ナイブズはあることを呟く。

「……やはり、地球でもプラント自身による能力制御は未発達らしいな」

「意図的にリミッターを掛けるという発想しか、地球政府と地球の技術者にはないからね。外的な働きかけで不安定な能力を安定させようと必死だったんだよ。それに、君と弟さんが見せた自律種の可能性は、人間が恐怖と脅威を覚えるのに十分だろう」

 敢えて聞こえるように呟いた、敢えて聞かせた。そうしたら案の定、店主は問い質してもいないのにすらすらと地球側の事情を解説した。ノーマンズランドでの事件も含めて。

 ナイブズも図書館などで情報端末を利用して、地球連邦政府の開示している情報や民間企業のニュースサイトなどを不定期にチェックしている。その中に、プラント自律種と人間とのハーフの存在や、ノーマンズランドでナイブズが起こした人類との決戦に纏わる情報は一切開示されていない。

 ノーマンズランドについても、1世紀半以上も連絡が途絶していた船団の末裔達と奇跡的に邂逅を果たした――といった旨の報道にのみ限定されていて、それ以上の情報はネットワーク上に転がっていない。ナイブズの行動が情報統制を徹底させるほどだったということもあるだろう。

 なのに。目の前のこの男は、さも当然のように語ってみせた。ナイブズのみならず、ヴァッシュの“力”の使い方についてさえも。

「お前は何者だ?」

「この店の店主だよ。探し物と調べ物が得意なのは、取り柄だと自負している」

 猜疑の瞳で睨んでも、店主は平素と何ら変わらない。取り柄の詳細を詰問しても、はぐらかされて終わりだろう。

 少し前までは気にも留めていなかった。しかし今は、この男の正体が気になっている。

 ナイブズよりも永い時を生きる人外の存在でありながら、人と何ら変わらない気配を持つこの男は、いったい何者だというのか。今までどのような意図で、ナイブズを居候させ、また仕事をさせていたのか。

 それを知る日は――きっと、いつか来るのだろう。少なくとも、ナイブズがこの店に逗留している限りは。

「君に仕事を頼みたい。この時期に街に流れている、ある“噂”。その怪異が人々に手出しをしないよう、君にも見張ってほしい」

 唐突に、店主が仕事を放り投げてきた。いつものことではあるのだが、今回ばかりは眉を顰めた。噂に怪異など、こんなにも要領を得ない仕事内容は初めてだったのだ。

「怪異?」

「いわゆる、おばけだよ」

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの七不思議、その内の一つは夏の時期に限定されるものであり、いわゆる怪談である。

 遡ること中世は地球のヴェネツィア共和国。サン・マルコ広場は当時から街の表玄関として扱われ親しまれていたが、罪人の公開処刑場としても使われていた。これは、娯楽に乏しい当時、公開処刑が大衆娯楽としての側面を有していたことにも起因するという。

 ギロチンが罪人の首を落とし、観衆が異様な熱気に包まれる。そんな夏のある日、一人の女性が刑を執行された。罪状は詳しくないのだが、こんなエピソードだけは今も残されている。

 女性は処刑後に自分の遺体をサン・ミケーレ島に埋葬してほしいと願い出た。だが、当時の墓所は過密状態、何より極刑に処されるような罪人の願いが聞き入れられるはずもなく。刑の執行後、女性の遺体はその他の罪人たちと同様に処理された。

 しかし、それを無念に想ったのか。以来、夏になるとサン・マルコ広場の巨大な支柱に黒い喪服の女性の姿が見られるようになった。その女性は夜、一人で舟を漕ぐゴンドリエーレに声をかけ、サン・ミケーレ島に連れて行ってほしいと頼むという。

 その願いを聞き入れなければ、それでお終い。だが、万が一聞き入れてしまえば

 

 神隠しに遭い、そのゴンドリエーレは二度と戻って来られない。

 

「……というのが、黒衣の君という、ネオ・ヴェネツィアにも伝わっている怪談です」

「そうか、参考になった」

 道すがら、アテナからネオ・ヴェネツィアの夏の怪談――店主の言っていた噂話ついて聞き出し、その内容を把握する。都市伝説や民間伝承の類のようだ。

 態々街に出てアテナに訊く羽目になったのは、店主が頑なに噂話の詳細を説明することを拒否したからだ。「ここ最近はアイーダのために籠り切りだったから、気分転換も兼ねて、偶には私以外から話を聞いてみてはどうかな?」と。

 普段は頼まなくても勝手に喋るような男だというのに。竜宮城での一件で、余計な気回しでも始めたようだ。

 そんな次第で街に出て、誰に話を聞こうかと思案しながら歩き回っていると、偶々アテナの姿を見つけた。

「いえ。私こそ、助けてもらいましたから」

「知っている店に行くのになぜ迷う?」

「さあ……? どうしてでしょう?」

「俺に分かるか」

 案の定と言うべきか、アテナはまたも道に迷っていた。うっかり別の店と間違えてしまい、待ち合わせの喫茶店がどこにあったか分からなくなってしまったのだという。

 この街に来たばかりの頃――カーニヴァルの時と同じように、道案内の交換条件に噂話の内容を聞くということになった。アテナならばこのような交換条件が無くとも話してくれただろうが、この方がナイブズも気楽だった。

 目的地の喫茶店の中に入ると、見知った顔が出迎えた。

「よ~やくお出ましか、アテナ」

「ナイブズさん、ありがとうございます」

「すでに案内の対価は得ている」

 暑さにうだれたのか、覇気のないけだるげな声で晃が呼びかけ、アリシアは席を立って丁寧に頭を下げた。見事なまでに対照的だ。

「なんだ、アリシアもこいつと知り合いだったのか?」

「前に、アテナちゃんと一緒に夜光鈴を買いに行った時に、偶然ね」

「ではな」

 ナイブズは用が済むと、短く告げて踵を返して店を出た。向かう先はサン・マルコ広場だ。ここからは少々距離があるが、そう急ぐ必要はあるまい。

 アテナは席に着く前にナイブズへお礼を言って、すぐに話の輪に加わった。ナイブズの話題はすぐに逸れて、外へ出る頃にはレデントーレという祭りと3人の後輩たちへの指導についての話に変わっていた。

 ここからサン・マルコ広場へ行くには大運河を渡る必要があり、渡し舟――トラゲットを利用することにした。漕ぎ手の2人はあゆみとアトラ、見知った2人だった。あゆみに手を引かれて、他の乗客と共に黒い渡し舟へと乗り込む。

 昔は、人混みを汚物に群がる蛆虫の大群のように感じていたが、今はそう思うことも無い。人の呼吸が、生きているという息吹が、今まで聞こえなかったものも聞こえてくる。

 対岸へ渡ると、あゆみとアトラ、そして杏とも短く言葉を交わす。アイや白い犬――アマテラスのことだろう――と共に灯里を探していたことを覚えていて、無事に会えたのかと心配そうにしていた。結局はその日は会えなかったが、アマテラスが気を利かせたこと、後日に会っていたことを伝えると、安堵の溜め息を吐いた。顔見知り程度の相手にも親切なことだ。

 去り際、あの日のナイブズのことが妙な噂になっていることを教えられた。「俊足の犬と同じ速さで走る黒髪の超人現る!」とごく一部で話題になっているらしい。というのも、杏とアトラの指導官にあたるプリマが、舟を追い越して水路の段差を跳び越えるナイブズを目撃していて、そこから話が広まったのだという。そういえば、あの時に白い舟を追い越した覚えがある。こんな風に変に噂が立っては動き辛くなる。これからは自重すべきことだろう。

 杏の交代の時間が来たということで、3人は小走りで持ち場へ向かい、ナイブズもサン・マルコ広場へと向かう。

 道中、灯里たちと出くわした。雑貨屋から出てきて、3人とも両手で買い物袋を抱えている。アリシアと晃からレデントーレという催し物を行うよう指図され、その準備のために奔走しているところだという。喫茶店で話していたのはこのことだったのだろう。

 レデントーレとは屋形船という特殊な船を用いて行われる祭りらしく、ネオ・ヴェネツィアの夏を代表する祭事の一つらしい。招待制ということで、ナイブズには縁の無い祭りだろう。

 話が落ち着いてナイブズが立ち去ろうとすると、灯里が叫ぶような声で呼び止めて来た。灯里のらしからぬ大声に思わず足が止まり、振り返る。

「あ、えっと、その……ナイブズさんっ。竜宮城のこと、覚えてますか?」

「忘れられるはずがない」

 問われ、即座に返す。愚問とまでは言わずとも、何を言い出すのかと思えばこんなことか。

 ナイブズは平素と変わらず、しかし今の返事を聞いた藍華とアリスは目を点にしている。今にも脱力して、買い物袋を落としてしまいそうなほどだ。続けて言葉の来る気配も無いことから問答を打ち切り、サン・マルコ広場へと向かう。

 去った後、灯里が質問攻めにされたことは知る由もない。

 その後も、今日は妙に見知ったものたちに出会った。

 買い出し途中のアルと出くわし、地下の見学は夏が終わったころにと約束を取り付けた。今日はアイーダの火星体験プログラムがノームの職場見学ということもあってそれとなく聞いてみたが、末端にまで話は行っていないようだ。だからこそ、アルたちは今日に限って買い出しの量が多くて苦労しているのだろう。

 サン・マルコ広場の手前では待ちぼうけを喰らっている暁に絡まれ、サン・マルコ広場に入る時には上空をウッディの乗ったエアバイクが駆けて行った。

 本当に、今日はよく人と出会う日だ。お蔭で、ここまで来るのに随分と時間が掛かってしまった。

「やあ、遅かったね。話は聞けたかな?」

 遅かったせいか、店主に待ち伏せをされていた。態々折り畳みのイスまで用意して、腰掛けて本を読んでいた。

「……俺が来る必要はあったのか?」

「私にも、この時期は用事がある。見えるかい?」

 ナイブズのやっかみもさらりと受け流して、店主は本を閉じてサン・マルコ広場を指した。言われるまでも無く、既に見当はついている。

 サン・マルコ広場にある石柱の内、頂上に有翼の獅子を頂く柱の根元にある段差に腰掛けている、真夏の日差しを意に介さない全身を黒で覆った――顔も黒いヴェールで覆っている――白い、血流の止まった死人のように青白い肌の喪服の女。

「確かに、人間ではないようだな」

 猫の國の住人達を始めとしたナイブズが今まで見て来た人外のものたちとは、全く異なる異質な気配、存在感。感知することは容易かった。

 噂の通りならば、大昔の地球で死んだ罪人が態々火星にまで引っ越してきたということになるが、建物の移築の際に、ゴキブリなどの虫のように一緒に紛れ込んできたのだろうか。

「そして、噂そのままの存在ではあるのだが、霊魂では無い」

「矛盾しているな。あれは、大昔の地球で処刑された女の怨霊ではないのか?」

「そう。だからこそ、彼女は噂話そのままの怪異なんだ。噂話のオチとあれの正体については、私から話しておこう。尤も、正体に関しては私の推測だけどね」

 店主の相も変わらぬ迂遠な物言い、自分でやれば済むことを敢えてやらない遠回しなやり方。これは相手に思考や行動を促すものだと気付いたのは、竜宮城での灯里たちとのやり取りを見てからだ。

 何故こんな不確かなやり方をするのかと訝しみ、怪異の噂のオチ、そしてそこから推測される正体についての話を聞き終えてから、ナイブズの裡にある疑問が生じた。

「………………霊魂が実在するのか?」

 最初、怪談や噂話は『あるはずの無いものを、さも実在にするように囃し立てたもの』と認識していたがために、悪霊だの怨霊だのという言葉にもさして疑問も持たず、そういう設定なのだと軽く流していた。

 だが、今の話を聞く限り、店主は霊魂の存在を前提としている。霊魂の実在を確信しているのだ。

「うん。弱々しくて君でも気付けていないようだけど、今も君の傍に1人いるよ。この街に来てから……いや、きっと、この星に来るよりも前から」

 返って来た答えは、あまりにも意外なもの。今もすぐ近くに霊魂がいるのだという。曰く、噂の怪異はそういう類のものとして非常に力の強い存在で、ごく僅かでも霊感などの特別な感受性を持っていれば見えてしまう。一方、普通の霊魂は余程強い霊感などを有していなければ目に見えず触れることも感じることもできない。

 だが、確かにそこにいる。ここにいるのだと、店主は断言する。

「……そうか」

 小さく頷き、監視の仕事を引き継ぐ。店主は椅子を片付け本を仕舞って、人混みの中に紛れて消えた。

 自分に纏わりついているという1人の霊魂。それが本当だとして、一体誰だろうか。少なくともレムやコンラッドではあるまい。なんとなく、そういう確信がある。ナイブズに殺された人間の怨霊ならば納得できるが、果たしていったいどの人間やら。

 それに、テスラ。生前の、元気だった頃の姿で俺の前に現れ、あそこまで導いた君は……俺に何を伝えたかったんだろうな。

 日向に座る怪異を視界に収めつつも、ナイブズの意識は暫く、己の影の中にあった。

 

 

 

 

 ナイブズがサン・マルコ広場を訪れたその日から、噂話の怪異(おばけ)“黒衣の君”の姿は毎日見られた。

 日が暮れて、日が落ちて、夜が更けて、夜が明けて、日が昇っても変わらない。かと思えば、瞬きの間に姿を消して、辺りを見回す内にいつの間にか元の場所で座っている。

 幽霊とは薄暗い時間帯から真っ暗な真夜中のものだというイメージが漠然とあったが、どうやらそういうものでは無いらしい。件の怪異も、姿がよく見たら透けているとか、影が無いとか、そういうことも無く、一見するとただの人間と変わらない。

 ただ、大勢の人間の中、ポツンと空いた昏い洞のような黒い穴。その存在感は異様であった。尤も、まっさらな土地の中に湧き出た赤黒い血の沼のような自分が言えた義理ではない、と内心で自嘲する。

 様子を観察すること2日目にして、怪異への人間の反応が2種類に大別できた。

 怪異の存在に気付いているものと、怪異が存在していることに気付いていないもの。これは人間だけでなく、火星猫等の動物にも当て嵌められた。

 怪異の存在に気付いた動物たちは一目散に逃げ出し、或いは威嚇してから去っていく。人間もごく稀に気付くものがいるが、遠目に眺めるだけで、やがて視線を外していた。

 一方の怪異の方は、何か品定めをしているようにも、ただぼんやりと存在しているだけにも見えた。

 ナイブズが見張っているからか、それとも何か別の要因でもあるのか、怪異は何の動きも見せないまま、光陰が矢の如く過ぎ去っていく。

 特に危ないのは人気の少なくなる夕方以降だということで、夜を中心に見張りを続けているが別段変化は起こらず、このまま何も起きないのではないかとナイブズが思い始めた、あくる日の夜。

 人影が疎らになってきたサン・マルコ広場の柱の傍に、怪異はひっそりと佇んでいる。その前を、一艘の白い舟が通りかかった。操り手は、白地に黄色いラインのあしらわれた制服の水先案内人。褐色の肌に銀の短髪。見間違えようもなく、アテナ・グローリィに相違なかった。

 視線を戻すと、怪異の姿が無い。しかし気配は消えていない。もしやと思い、視線を再びアテナの方へ向けると、岸辺に寄っていたアテナの舟に怪異が声を掛けて呼び寄せて、そのまま乗り込んだ。

 水先案内人を、宵闇の彼方へと連れ去るものが、アテナ・グローリィに狙いを定めた。ナイブズの知る人間に。ナイブズに、あの歌を再び聴かせてくれた天上の謳声(セイレーン)に。

 その認識を得たのと同時、ナイブズは行動に出た。

 大地を蹴って、跳躍。走るのではなく、跳ぶ。

 一跳びで、怪異を手の届く範囲に捉える。

「俺が連れて行ってやる」

 返事はおろか反応すら待たず、ナイブズは怪異の首を鷲掴みにして、再び跳んだ。

 取り残されたアテナは、いきなり消えてしまった乗客のことでおろおろしていた。

 まだこの程度は動けるか、と確認し、肉体の衰えを痛感する。

 黒髪化が極限まで進行する前ならこの程度の距離の移動にさして時間は掛からなかっただろうに、今は数分の時間を費やして目的地――“墓地の島”サン・ミケーレ島へと迫っていた。

 一際強く大地を蹴って、対岸から一息に跳躍。着地点は、墓標の立ち並ぶ、その中央。墓地の島という通称そのままに、辺りは一面が墓石と白い花で埋め尽くされている。

 生命に溢れるネオ・ヴェネツィアの街、その死を一点に集約したかのようなこの場所に、ナイブズはある種の懐かしさを感じていた。

 懐かしき死の気配、死の臭い。かつて身の回りに溢れていた、自らが齎していた、人の死、生命の終末。

 そんな感慨に耽った僅かの間に、手の中から掴んでいた感触が喪失され、代わりに、ナイブズの目の前で怪異が身に着けた黒衣を整え、居住まいを正していた。

「私を連れて、自分からここまで来てくれたのは、貴方が初めてよ。男性なのも、人間じゃないのも初めて。こんなに強引だったのも」

 なにが可笑しいのか、けらけらとした笑いを含んだ声で、怪異が告げて来る。

 その時、急に風が吹き、ヴェールがめくれた。

 そこには、何も無かった。ヴェール越しに見えた輪郭や面影、横顔で捉えていたはずの顔が、頭部が、面貌が、何も無いのだ。

 すべては見せかけ。中身も実体も無い、人の形を借りた怪異。店主の言っていたこれの正体に合点がいった。

「私たち、きっとお友達になれると思うわ。だって、貴方……私とおなじだもの」

 おなじ。何がどう同じだというのか。予想も予測もできないが、面と向かってこれにそう言われることは、許しがたいほどに腹立たしい。

「失せろ。でなければ――」

「そんなこと言わないで。私と一緒に行きましょう……?」

 警告を遮って、怪異は、ずい、と詰め寄って、ナイブズの頬へ手を伸ばしてくる。

 この手が触れたら消すか。

 殺せずとも“持って行く”ことはできるだろう、という推測から対応を決めた、正しくその瞬間であった。

「黙りたまえ」

 ナイブズと怪異以外の、第三者の声が響く。同時、怪異の体が頭から縦に押し潰された。その光景に、ナイブズは既視感を覚えた。

 あの時もナイブズは、言うことを聞かず言い付けを守らなかった子供に拳骨を落とすようにして、これをやっていた。あの男に対して。

「愚かしい、上に度し難い。その存在の生死の有無に関わらず、絶殺されて然るべきだ」

 突如として現れた第三の男は、状況を全く呑み込めていない、辛うじて人の形を保っている怪異を見下して、冷淡に告げた。

 その言葉に宿るのは純粋な殺意。その瞳に宿るのは純粋な狂気。この星に、この街に、決してありえないもの。邪悪とは異なる負の感情。

「気が遠くなりそうだよ。この僕の前で、ナイブズ様にお声を掛けて頂きながら、それを無視して詰め寄り、あまつさえナイブズ様を煩わせようなどと」

 膝を折り、押し潰された怪異の上に跨って、後ろから、頭の上から顔を覗き込み重ねて告げる。

 ナイブズの位置からは見えないが、整った端麗な顔貌が――この星の人間にとって――悍ましいほどに狂気で歪んでいるのは想像に難くない。

「ひっ……ひぃぃぃ!?」

 恐怖に慄き、潰れた体で、手だけを必死に動かして這いずる。無様という言葉そのままの姿で、怪異は夜の闇へと消えていった。

「追いますか?」

「構わん」

「は」

 男は指示を仰ぎ、返答を貰えば即座に応じ、すぐさまナイブズの前に跪いた。そうすることが当たり前であるように、ナイブズの従者として、下僕として振る舞う。

 どうやら、幻の類ではないらしい。

「何故、お前がここにいる? ブルーサマーズ」

 レガート・ブルーサマーズ。ナイブズに他の何者よりも心酔し、狂信し、忠誠を誓った人間。

 ナイブズが人減らしのために集めた“よく切れるタフなナイフ”――異常殺人者集団GUNG HO GUNSのメンバーの選定する役目を任せ、特別枠の13(ロストナンバー)12(ラストナンバー)を除いたメンバーへの指揮権と粛清権を与えていた、いわば腹心とも言える存在。

 無論、火星の住人ではないし、ノーマンズランドから来る手立てなどある筈も無い。ここにいるはずの無い人間が、どうしてここにいるのか。

「あの戦いで、私は死にました。ただ……ナイブズ様のお傍にお仕えしたい。その一心で、魂だけと成り果てたこの身ではありますが、この地まで憑いて参りました」

 返ってきた答えは、あらゆる想定を超えたものでもあり、却ってそれしかないだろうなと納得できるものでもあった。

 店主がナイブズの傍に魂がいると言っていたが、それこそがブルーサマーズだったのだ。あの時は人の形を成していないと言っていたが、今はこうしてはっきりと、生前の姿そのままだ。違いがあるとすれば、目を凝らせば向こうの景色が透けて見えることぐらいか。

「今まで意識はあったのか?」

「いえ。朦朧としたまま、漠然と、茫洋と漂っていただけ。つい先程まで、私に“自分自身”という認識さえありませんでした。恐らく、今の時期とこの場所が、私が自分自身を取り戻すきっかけになったのだと愚考します」

「そうか」

 なんとなく、気になったことを訊いてみると、ブルーサマーズは律儀に答える。その答えを聞いて、ナイブズはすぐに興味を無くして素っ気なく返した。

 顔を地面に向けて跪くブルーサマーズと、それを見下ろすナイブズ。両者共に動かず、語らずのまま静止し、刻々と時が過ぎる。

「……ブルーサマーズ。お前はどうやって死んだ?」

 何とはなしに、そういえばこの男は死んでいたのだなと、その死に方が多少気になった。

 かつて人間を徹底して見下し毛嫌いしていたナイブズではあったが、ブルーサマーズの能力については高く評価していた。

 恐らく、GUNG HO GUNSのどのメンバーでも、エレンディラでさえも、この男は殺せない。人間では、この男を殺すことはできない。たとえ軍隊であったとしても、サイボーグであったとしても、改造人間であったとしても、それが脳髄や神経を持つ生物の範疇の存在である限り。

 考えられる死因は地球の宇宙戦艦とナイブズとの砲撃戦の余波、戦艦落下の際の衝撃など、要するに事故死の類だろうと、ぼんやりと予想を立てる。

「は。ヴァッシュ・ザ・スタンピードに、私を殺させました」

 何の確定情報も無しに、勝手に死因を決めつけていた。

 それだけに、ブルーサマーズの口から告げられた予想外の言葉を、すぐに理解することができなかった。

 

 

「なんだと?………………なんだとっ」

 思考が上手く纏まらず、何度も同じ言葉を繰り返しながら、ブルーサマーズへと詰め寄る。だが、今度は即答せず、ブルーサマーズは跪いたまま微動だにしない。

 この男は、ある意味ナイブズ自身よりもミリオンズ・ナイブズという存在を知悉している。

 今、ナイブズが興奮状態であり、何を言っても正常な思考の下に理解をすることができないと見抜いて、押し黙ったまま、一言も発さずに自制を促している。

 そのことに気付き、一度大きく深呼吸。以前――ヴァッシュを方舟に幽閉することになったあの時にも、ブルーサマーズはナイブズの判断ミスによる自滅を未然に防いだことがあった。まさか、こんなことがまた起きてしまうとは。

 呼吸を整え、心の動揺を鎮める。再び、ナイブズはブルーサマーズを問い質す。

「本当か」

「はい」

「どうやったら、あいつが人間を……」

「GUNG HO GUNSを離反し、ヴァッシュ・ザ・スタンピードと行動を共にしていたダブルファングを、クリムゾンネイルの死体を操ってあの男の前で首を絞め、選択を迫りました。ダブルファングを見殺しにするか、僕を殺すか」

 すらすらと、打てば響き呼べば答える調子で、ブルーサマーズは淡々と語った。ヴァッシュ・ザ・スタンピードの信念が折れたその瞬間を、簡潔に、明瞭に。

「……選んだのか、あいつが。自らの手で、人を殺すことを……」

 ありえない。

 信じられない。

 そんなはずがない。

 あってはならいことだ。

 様々な否定の言葉が、次々と思考の奥底から浮かび上がってくる。

 自分が殺されそうになっても絶対に人を殺そうとしなかったあいつが、ミリオンズ・ナイブズさえも赦し救った弟が、150年をかけてラブ&ピースを唱え続け人とプラントの懸け橋となったヴァッシュ・ザ・スタンピードが……人を、殺したなどと。

「はい。かの聖者は、自ら選び、自ら折れました。あの男の心、我が命で以て、確と折りましてございます」

 ブルーサマーズの言葉や態度に嘘は見えない。

 それに、この男はそれぐらいのことはやる。

『ヴァッシュ・ザ・スタンピードに最高の苦痛を与えろ』

 ナイブズが下したこの命令を遂行するためならば、自分の命を使うぐらいはやってのける。ブルーサマーズとはそういう男だと、ナイブズは知っている。

 ならば、ヴァッシュが人を――レガート・ブルーサマーズを殺したということは、事実なのだろう。

 それはつまり、ヴァッシュはあの時、想像を絶する挫折と絶望を乗り越えて、立ち上がって来たということだ。

 そう考えたら、不思議と笑えてきた。天を仰ぎ、笑い声を漏らす。

 ヴァッシュよ、お前は本当に凄い奴だよ。俺は一度折れただけで、このザマだと言うのに。

「まさか、お前がそこまでやっていたとはな」

 ナイブズでも遂に成し得なかった、ヴァッシュの心を折るというある種の偉業。それを成し遂げていたとあっては、この男の評価を改める必要がある。

「ナイブズ様……?」

 隠しようの無い困惑を顔と声に表わして、ブルーサマーズが顔を上げる。ナイブズも上に向けていた顔を下ろす。いつ以来か、2人の視線が交錯した。

「よくやった。俺の想像以上の働きだ」

 この男には、何一つ期待したことが無かった。こと、最終決戦におけるヴァッシュとの戦いにおいては、地球からの艦隊を殲滅するまでの時間稼ぎになればいい、という程度の認識だった。

 それが、足止めも果たしたうえで、ある意味では勝利以上の成果を上げていたのだ。一言、褒めるぐらいはしても良かろう。

 そんな軽い気持ちで発した言葉だったのだが。

 数秒の間を置いて、その言葉を受け取ったブルーサマーズはボロボロと泣き始めた。

「……何故、泣く」

「も、もうし……申し訳、御座いませんっ。た、ただ……褒めて、頂けるとは……っ……夢にもっ、想わず……っ。申し訳っ、ございませんっ……! ナイブズ様の……っ、御前でっ、このような……醜態っ、をっ」

 滂沱の涙を流しながら、嗚咽交じりに返って来た言葉に、つい溜め息が出る。

 忠誠を誓うのは勝手だが、こうやって一々大仰で大袈裟な反応があるから、この男は鬱陶しいのだ。

「泣くな。話ができん」

「はっ……はいっ」

 ナイブズが一言命じても、完全に泣き止むまでに1分ほどかかった。

「そういえば、お前と会った時にもこんなことがあったな」

「はい、覚えております。ナイブズ様にお仕えすることを許して頂いた時に。それから……私が、名前を賜った折に」

 ああ、そうだった。この男のレガートという名前は、自分が名付けたのだった。

 ナイブズの持つプラントの“力”による人類の駆除。その肩慣らしとして街を一つ切り刻んだことがある。その時に、ナイブズは名無しの少年と出会った。

 本当なら、首を刎ねるつもりだった。未知の生物と言っても過言ではないプラント自律種の肉体を操り、一度ならず二度までも絶対的な死を免れて生き延びた、その特殊な技術と技量と才能は、育てばあらゆるプラントの脅威になる恐れがあった。

 だが、あの時ナイブズは気まぐれを起こした。目に涙を湛えながら浮かべた、絶望と安堵の入り混じった微笑みがそうさせた。

「名無しのまま呼び名が無いのは不便だと、適当に名付けた。それだけなのに……何故、お前は泣いた?」

「うれしくて、うれしくて……溢れ出す感情が止められず、そうしましたら、涙まで溢れて来てしまい……。申し訳御座いません、幾度もナイブズ様の御前で汚物を垂れ流すような行為を」

「構わん。今は、そう思うことはない」

 先程のやり取りと似たようなことを、昔もしていた。すぐに気付かなかったのは、あまりにも状況が、ナイブズの心情が違っていたから。

 あの時は、人間の流す涙など垂れ流す糞尿と等しい汚物の如く嫌悪していた。

 今は、人間の流す涙からその感情を慮るようになっていた。

 ナイブズの心証に、これほど大きな変化が生じたその原因は、言うまでもなく。

「俺は、ヴァッシュに負けた」

 告げられた言葉に、ブルーサマーズはぎょっと目を瞠ったが、やがて、寂しげに、悔しげに、すっと細めた。

「……やはり、そうでしたか」

「気付いていたのか?」

「はい、感じていました。ここに来てから、ずっと……ナイブズ様の周囲に、ひとの息吹を。そして、ナイブズ様が、私を含む人類へと常に向けていた、殺意や憎悪が……消えて、いることも」

 ミリオンズ・ナイブズがそれほど変節した原因は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードに敗北した以外にありえない。

 この男は、やはりナイブズ以上にナイブズのことをよく分かっている。そんな男からこう言われて、改めて、ナイブズは自分自身が大きく変容したのだと気付いた。もう人類を憎悪していないと、当の人間から言われても、何ら込み上げて来るものが無いほどに。

 ナイブズは表情を変えず、ブルーサマーズは悔しげに顔を俯け、2人は無言のまま動きもせず、暫く時が過ぎた。

 突然、火薬の炸裂音が響いた。

 ナイブズとブルーサマーズは同時にその方向を注視し、どこからの砲撃かと目を凝らす。

 砲弾の風切り音が微かに聞こえるが、とても武器としては使い物にならないほど遅い。なにより、何時まで経っても着弾しないと思ったら、上空めがけて発射されていたのだ。

 下手糞の暴発かと思った、その瞬間、夜空に光の花が咲いた。数秒の間を置いて響く爆発音。これには覚えがある。

「花火か」

 そういえば、レデントーレで花火がどうのという話を、灯里たちや暁が話していた。今日がその日だったのだと気付いたのは、2発目の花火が打ち上げられてからだ。

「ハナビ……? 特殊な照明弾では、ないのですか?」

「観賞用だ」

「観賞……の、火器……ですか」

「火薬には、こういう使い道もあったらしい」

 次々と打ち上げられる花火に、ブルーサマーズは困惑しながらも見入っていた。ナイブズもまた、瞬く間に散ってしまう光の花を観賞する。

 色鮮やかな、様々な形状の花火が次々と打ち上げられる。遠くで見るのも、花火の全容を把握できて悪くないものだ。

「……なぜ」

 花火の切れ間に、ブルーサマーズが、ぽつり、と言葉を漏らした。

 一度途切れたその言葉の先をナイブズが促すと、ぽつり、ぽつりと、ブルーサマーズは胸の裡に沸いた疑問を紡いでいく。

「あの男の心は、僕を殺したあの時、あの瞬間に、間違いなく折れたはず。なのに、何故……ヴァッシュ・ザ・スタンピードは、再び立ち上がることができたのでしょうか」

 何故、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは『人を殺した』という最大最悪の挫折と絶望を超えることができたのか。

 同じくあの決戦で『完膚なきまでの敗北』という大きな挫折を味わったナイブズは、ヴァッシュに撃たれて最期を迎えることを望むまでになり、再起する気力など無くなったというのに。

 どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードは、身を挺してナイブズを救うという、今までと変わらぬ選択をあの時も行うことができたのか。

 その答えはすでに、この星で過ごした日々に得ていた。

 人を殺さぬ火薬の光から視線を外して夜空を見れば、星々の他に、浮島が其処彼処に点在しているのが此処からでも見える。

「ある人間が言っていた。ヒーローとは、一人だけで戦うばかりのものではないし、殴り合うだけのものでもないと。きっと、あいつの戦いはそういうものだったんだろう。だから……一人では無かったから、一度折れても立ち上がることができた。俺の前に立ち……俺を、打ち負かすことができた」

「ナイブズ様……」

 ブルーサマーズが絶句しているのは、ナイブズが自らの敗因を語るのに清々しさすら感じていることを見抜いたからか、それとも、人間の言葉を引用したことに驚愕したからか。よくよく考えてみれば、ナイブズ自身も驚くべきことだ。

 ナイブズはずっと、独りで戦っているつもりだった。膝下の人間はすべて駒か道具、同胞たるプラント達でさえも、自らよりも劣る救済の対象として、本当の意味で対等に見ていなかった節もあった。

 ヴァッシュはずっと、誰かのために戦っていた。時には何者かの力を借りて、助けられ、肩を並べて戦うことすらもあったようだ。惑星に生きる全ての人類とプラントを同胞として――いや、家族のように思いやり、対等な同じ生命として愛していた。

 そんな男だからこそ、また立ち上がれた。立ち上がる力を与えてくれるものがいた。支えてくれる仲間たちがいたのだと、今ならば分かる。

 独りでは倒れて起き上がれなくなったらそれまでだが、周りに他の誰かがいて、その誰かが手を差し伸べてくれれば、支えてくれれば、立ち上がることも歩き出すこともできる。考えてみれば、簡単な理屈だ。

 こんな簡単なことにさえ、かつてナイブズは気付かなかった。だが、今ならば分かる。

 ヴァッシュだけではない。本当は自分もまた、人間に助けられていたのだと。

「ここに来てから色々とあった……。状況整理だ、俺の話に付き合え」

「はっ……はい!」

 ナイブズは語る。砂の惑星から水の惑星に来るまでに乗っていた不思議な汽車に始まり、ネオ・ヴェネツィアで過ごした日々、出会った物事を、同じ砂の惑星からやってきた男へと。そして、己自身で振り返る。これまでの日々を。

 途中、最後の大輪が咲いた音が、少しだけ時を置いて響いた。

 

 

 

 

 ふと気付くと、空が白み始めていた。黒い夜空に少しずつ青が混ざり、濃い青はやがて空色とも呼ばれる淡い青へと変わっていく。変わりゆく空の色を、ナイブズは、その傍に控えるブルーサマーズは、何も言わずに眺めていた。

 空の色だけは、この星もあの星も、何ら変わらない。その空の色とブルーサマーズの髪の色が、同じ青に重なって見えた。

 こういうことは、やはり、言って伝えなければ意味が無い。

 店主の言行が反りに合わないことを思い返しつつ、ナイブズはブルーサマーズへと視線を向ける。

「ご苦労だった、レガート・ブルーサマーズ。お前は、よく働いた。もう休め」

 ナイブズのためならば我が身を省みず己の身体も魂も苛め抜き、その生涯を賭して尽くし続けた男へと言葉を贈る。死して尚、付き合う必要はないのだと。

 配下の人間はすべて手駒であり、自分の所有物であり、自分の力の末端だと思い込んでいたために、今まで気付かなかった。だが、ナイブズもレガートには、幾度か助けられていた。同程度に私情で暴走していたが、些細なことだ。

 面倒な雑務を押し付けても嫌な顔一つせず、能力の増大から暴走とも取れる判断ミスを犯したナイブズを引き留め、重要な局面で半年以上もの間ヴァッシュの動きを不休で封じ続けた。最終決戦で地球の艦隊との戦闘に集中し勝利できたのも、あと一手で完全勝利というところまで漕ぎ着けたのも、レガートがヴァッシュを抑えていたお蔭だ。

 思い返すほどに、自分も人間に助けられていたのかと思い知る。それを気にもかけずに無視し続けていたのだから、最後の最後にヴァッシュに負けたのも当然だ。

 レガートは、また涙を流した。しかし、嗚咽などは混じらず、瞳から零れた涙が、静かに頬を伝う。顔には、生前に見た覚えのない、狂気が抜け落ちたような、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます、ナイブズ様。僕は……ナイブズ様のお蔭で生まれ直せただけでなく、死に直すことまでできました。これほど、幸せなことはありません」

 生まれ直し、死に直す。

 その言葉が、不思議と耳朶を打ち、己の内に深く沁み入る。

「ナイブズ様。新たなる旅路、お疲れの出ませんように……どうか、お気を付けて」

 涙を拭おうともせず流れるまま、微笑みを浮かべたままそう告げて、レガートは深く頭を下げた。直後、朝日が墓地の島へと差し込み、強く風が吹く。

 舞い散る花びらと共に、レガートの魂は光に解けるように消えて逝った。

「さらばだ、レガート・ブルーサマーズ」

 ナイブズもまた、夏の青空へと別れを告げる。

 

 

 

 

「おはようございます、ナイブズさん」

「アテナか」

 サン・ミケーレ島の墓所で寝ていると、不意に声を掛けられた。予想外の珍客に驚きつつもゆっくりと立ち上がる。

「こんな所で何をしている?」

「昨夜のことをアリスちゃんに話したら、『それって七不思議の黒衣の君ですよ!』って、でっかい声で言われちゃって。そうしたら、幽霊が消える前にナイブズさんの声が聞こえたのを思い出したので、早朝練習がてら、様子を見に来たんです」

「そうか」

 そういえば、あの怪異をアテナの目の前で連れ去ったのだった。そんなこともすっかり忘れるほど、その後の出来事は印象的だった。

「舟に乗れるか?」

「はい。大丈夫ですよ」

 ナイブズがここで寝ていたのは、明るいと対岸までの移動が目立ち過ぎるからだ。夜暗くなったのを見計らって街に戻るつもりだったが、日中でも穏便に戻れる手段があるなら、それを使うに越したことはない。

 起き上がり、アテナに先導されて船着き場まで向かう。道中、何か気がかりなのか、アテナがチラチラと視線を向けて来る。

「あの……あそこで、なにかあったんですか?」

「旧い知り合いと会って、話していたら夜が明けていた。それだけだ」

 それだけのこと。本当に、たったそれだけのことだった。だと言うのに、舟に乗るまでの間、やけにアテナはその内容を問い質してくる。

 理由を聞くと、ナイブズが懐かしそうな顔をしているのを初めて見た、ということだった。

 どんな表情をしていたのか、自分では想像もつかないが、確かに懐かしくはあった。

 遠き水の惑星で思わぬ再会を果たした、砂の惑星で力尽きた部下。

 何者かへの敵意、悪意、害意。それによる暴力の行使。

 何よりも懐かしきは、あの死の気配。

 忘れ難く、忘れているつもりも無かった過去。血に塗れたまま突き進んでいたミリオンズ・ナイブズの道。それらを、懐かしいと感じた。

 あの星の日常が遠くに感じるほど、俺はこの街に馴染んでいたのだな。

 舟に乗り、砂の惑星と変わらぬ青空と、砂の惑星には無い青き大海が同時に目に入る。両者の交わる水平線は、境界は見定められても、輪郭は見極められない。それを眺めながら、ナイブズは無言を通し、アテナもやがて追及をやめた。

 岸に上がって海が途絶えても、夏の青空は、ナイブズの行く先にまで広がっている。


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