グランドマザーへ会う為の道程を秋乃から教えられ、ナイブズはアイーダに誘われるまま出発した。
目的地は城ヶ崎村駅から2つ先、みかんの丘駅。そこから歩いて真っ直ぐ進むとすぐに海岸線に出る。そこから左手に歩いて行くと漁港があり、そこを超えて更に進むと浜辺の岩場に海の家という建物が見えて来る。
浜辺に建っている建物はそれだけだからすぐに見つかるだろう、と秋乃は簡単な説明で済ませていた。具体的に示された目印は漁港だけだったが、確かにそれで十分だと現地に立って納得する。
城ヶ崎村同様、この一帯も日本の古き良き時代とやらを再現しているらしく、家屋は疎らで、海岸線沿いには田畑さえもなく砂浜が数kmにも渡って広がっている。その東端にあるのが漁港だが、そこに至るまで目立つ物が他に何も無いのだ。
だからと言って、興味を惹かれる物が無いわけではない。
「わぁ……」
砂浜を見て、アイーダは感嘆の声を漏らした。ナイブズも声に出さなくとも、同じように心を揺さぶられていた。
砂など飽きるほど見ていたはずだが、海辺にあるだけでこうも違うものなのか。
「行ってみるか?」
「はいっ」
目的があってここまで来たが、急を要するわけでも時間に追われているわけでもない。目を輝かせているアイーダを誘い、砂浜へと降りる。
足を踏み出してすぐ、砂漠の砂とは感触がまるで違うことに気付いた。まず間違い無く、水分を多く含んでいるためだろう。
初めての砂浜の感触を靴を挟んで感じながら、アイーダと共に歩く。アイーダなどはくっきりと足跡が残ることもよほど珍しいらしく、先客や自分達の足跡をしげしげと眺めている。
「地球では、砂地は無いのか?」
「人間の生活環境にはまずありません。全て整備されていますから」
精々が公園の地面ぐらいのもの、ということだった。地面さえも珍しいとなると、地球の地表は今、ナイブズが生まれた移民船のようになっているのかもしれない。
地表の殆どが機械化された星の姿を想像して、あまり実感が湧かず、現実味というものが無いように思えた。150年以上、剥き出しの荒野で生き続けて来たからだろうか。
無邪気に砂浜を歩くアイーダの後ろを黙って歩き続けていると、不意にアイーダの足が止まり、浅瀬の方へと視線を向けていた。
「どうした?」
「海の中の砂に、模様があるんです」
返事をしつつも、アイーダの視線は海へと向けられたまま。その先をナイブズも見ると、確かに、海の中の砂には独特の模様があった。露出している砂浜部分にはそれらしいものは一切無いのに、どうしてだろうか。
ナイブズも素朴な疑問を抱き、海の中を注視する。
あの形はどこかで見たことがあるような気もするが、海の中の砂を見ることなど初めてのこと。既視感の正体が掴めない以前に、勘違いではないかと勘繰ってしまう。
「それは、謂わば波の模様です」
不意に、後ろから声が掛けられた。しっかりとした口調だが、声色はまだ幼い。
振り返ると、紅白の和装に身を包んだ少女が立っていた。その傍らには、先日の白い狼の姿もあった。
「波の?」
「はい。寄せては引き、引いては寄せる、波の動きが織りなす形です。ほら、波形や波線の形にそっくりでしょう?」
「本当だ」
少女はアイーダの問いにすらすらと答え、隣に並んでにこやかに解説する。同様に、ナイブズの隣にも狼が歩み寄る。
今日のこの遭遇は、決して偶然などではあるまい。
「お前は何者だ?」
狼と少女、双方に問い掛ける。狼はとぼけた顔でそっぽを向いたが、少女は姿勢を正して恭しく礼を取った。
「天道
少女――紅祢は名乗ると同時に狼の名を告げた。
火星の慈母とはグランドマザーと同義であろう。そうでなければ、あの時とこの時に、シラヌイがナイブズの前に現れる理由が無い。
「シラヌイ……? この狼が?」
「詳しい事情は、また後ほど。さぁ、ゆるりと参りましょう」
アイーダはシラヌイの名を聞いて半信半疑という様子だが、紅祢は敢えて答えようとはせず、少女らしからぬ厳かな口調でナイブズとアイーダを目的地へと促した。
▽
砂浜の東端を抜けて、そのまま漁港を通り過ぎた。それだけで海岸線から砂浜が忽然と消え、大小無数の岩が転がる岩場へと変貌していた。
最初の目的地である海の家“海女人屋”は、その岩場の中にあった。秋乃によれば、これで“あまんちゅや”と読むらしい。岩場の中に人が通り易いように整備された道があり、それに沿って歩けば入口まで辿り着けるようになっていた。
屋号を名乗っているが凡そ店らしからぬ簡素な造りで、小屋と表現した方が正確だ。隙間だらけどころか前後が完全に開いているのだから、空調設備さえあるまい。
そういえば、目的地は何かの店なのかと問うたナイブズに、秋乃は「お店じゃなくて、海の家よ」と返していた。その時は意味がまったく分からなかったが、今なら半分程度は理解できる。
海の家の前には、のんびりとした様子で煙草を咥えた1人の老婆が立っていた。
「おや、アマ公じゃないか。久し振りだね」
老婆はシラヌイを見ると親しげに呼び掛け、煙草を携帯灰皿に捨てる。
アマ公と呼ばれたシラヌイは一声鳴くと老婆に駆け寄り、彼女の前でちょこんと座った。
何故シラヌイという名前でアマ公と呼ばれるのか気になったが、敢えて追及せずナイブズ達もシラヌイに続く形で老婆に歩み寄った。
老婆はシラヌイの頭を撫で、何かを懐かしむような笑みを浮かべた。紅祢は老婆に頭を下げて挨拶し、1人で店の奥へと入って行った。
「あんたたちが、秋乃が言ってたグランマに会いたいっていう2人連れかい?」
シラヌイの頭から手を放して、老婆はナイブズとアイーダに話し掛けて来た。
行く先々で自分のことを待ち受けている人間に次々会うというのは、不思議な気分だ。
「はい。天地秋乃さんからの御紹介で、こちらに伺いました。私はアイーダです」
「ナイブズだ」
アイーダとナイブズがそれぞれ自己紹介すると、老婆が返事をするより先に、店の奥から黄緑色の髪の少女が現れた。
「ばーちゃん、お客様?」
「客は客でも、店の客じゃないよ。あんたは天道さんとこの兄妹の相手をしといてくれ」
「は~い」
老婆と少女の慣れ親しんだやり取りを見るに、祖母と孫の関係らしい。
少女はアイーダと目を合わせると、にかっと笑ってお辞儀して、ばたばたと奥へと戻って行った。
天道の兄妹というのは、恐らく丈と紅祢のことだろう。まさか、同じ姓で同じ系統の衣服を着て似通った顔貌をして、赤の他人ということはあるまい。
ナイブズとアイーダも老婆に促されて海女人屋の中に入り、畳の敷かれた簡素な床に座る。
開口一番、率直に問い質す。
「お前は何を知っている?」
「そうだねぇ。それじゃあ、ちょっと昔話でもしようか」
その昔話の中に答えがある、ということだろう。店主のお陰で、遠回しな言い方や答え方をされるのには慣れたものだ。
頓珍漢な返事にアイーダは目を瞬かせたが、ナイブズは問題無いと小さく言って、老婆の昔話に耳を傾けた。
その内容は、凡そ信じ難いものだった。
老婆が若かりし日に体験した、とても不思議な出来事。
いつものように海に潜っていたある日、海の中で出会った龍神。
龍神から友情の証として受け取った、龍神の鱗のホイッスル。
後日、幼馴染と共に招かれた龍神の國。
そして、龍神の國の民達の聖域に祀られているもの。
あまりにも話の内容が突飛で、話の大筋と要点しか把握できない。細かい部分がどうだったか、思い出す余裕もない。
いきなり大前提が『神の実在』などという悪い冗談としか思えないものでは、信じる信じない以前の問題なのだ。しかし、共にその昔話へ真摯に耳を傾けていたアイーダやシラヌイの姿が、老婆の話を妄言として斬って捨てることを躊躇わせた。
「けど、今はもう、そこへ行く道が閉じちまってねぇ。私が生きてる内には、もう開かないと思ってたが……」
途中で言葉を切り、老婆はシラヌイを見詰め、続けてアイーダ、ナイブズの順で視線を移す。
値踏みするようなものではなく、羨んでいるような、喜んでいるような、様々な感情がないまぜになった視線と微笑みだった。
「あの、貴女はグランマ……あっ、秋乃さんではなく、私達がこれから会いに行くグランマとは、どういう関係なんですか?」
すると、アイーダは老婆にそんなことを訊ねた。言われてみれば、龍神だけでなくグランドマザーに対しても、老婆は特別な感情を込めて語っていた。
老婆はすぐには答えず、視線を海の家のすぐ前の海へ向け、遠く深い場所を見つめた。
「話し友達かねぇ。あの人、世間話とかそういう他愛無い話が好きでね。秋乃と一緒に、何度も会いに行ったもんさ」
その返事は、ナイブズにとって全く予期していないものだった。
▽
目的地に行く為には夜まで待たなければならないらしく、海女人屋で日が暮れるまで時間を潰すことになった。
アイーダは紅祢やぴかりと自称する老婆の孫娘と過ごし、ナイブズはシラヌイと共に海を眺め、波の音に耳を済ませて時が過ぎるのを待った。恐らくシラヌイの方は、単なる日向ぼっこなのだろうが。
店の奥にいた丈はナイブズに挨拶をしてから老婆となにやら話し合っているが、敢えて聞き流した。
暫くして、海の中から人間達がぞろぞろと上がって来て、そのまま海の家へと向かった。海水浴ではなく、装備と海の中から出て来たのを見る限りダイビングというものの帰りだろう。
ふと、最後尾の少女と目が合った。少女は蛇に睨まれた蛙、という諺を体現するように固まってしまった。
威圧や威嚇をしているつもりは無いのだが、それでもナイブズの存在は弱者からは恐るべきものとして映るのだろう。
すると、寝ていたシラヌイがあくびを一つして起き上がり、固まっている少女を見て静かに歩み寄り、手を舐めた。少女はそれで我に返り、ナイブズにごめんなさいと必要も脈絡も無い謝罪の言葉を述べて、狼に見送られて足早に海の家へと向かって行った。途中、足を縺れさせて転んだが、すぐにぴかりという少女が助け起こした。
その後は豚汁というものを食べた以外には特に何事も無く、日が沈み、夜空に星が瞬いた。
街灯も疎らで月も見えないが、星明かりだけでも十分に周囲を見渡せる。他に光源が殆ど無いことを差し引いても、今夜は一際星の輝きが強いように感ぜられる。
時が満ちたことを丈と紅祢に告げられ、老婆に見送られてナイブズはアイーダやシラヌイと共にグランドマザーのいる場所へ向かう為の中継点へと向かった。しかし、老婆の昔話によれば海の國への道は途絶えてしまい、地上と断絶されて久しいということではなかったか。
あの昔話が全て事実であるということが大前提として成り立っているのなら、どうやって道の途絶えた場所へ向かうのだろう。
そんな疑念を抱きながら歩き続け、古びた鳥居をくぐって辿り着いたのは海辺ではなく、海と星空を望む小高い岬だった。
「こんな所に来て、一体何をする気ですか?」
不安になったのか、アイーダが怪訝な表情で丈と紅祢を問い質す。
確かに、海が目の前ではあるが、とても海底へ行く順路とは思えない。そもそも、本当に海底に国があるのかも疑わしいのだ。
「今から、夜空に星を描いて、神風で廻します」
「……え?」
「……なんだと?」
唐突な、あまりにも突拍子の無い言葉に、アイーダ共々碌に思考も回さずにただ聞き返してしまう。しかし丈は答えようとせず、紅祢の前に跪いて優しく頭を撫でる。
「紅祢、お前なら必ずできる。大神様と共に御役目を果たしなさい」
「はい、兄様」
オオカミ様と呼ばれたシラヌイも一声吠えて応えると、岬の先に立つ。丈から一枚の紙と筆を受け取って紅祢も隣に並び、共に夜空を見上げる。
これから何が起こるのか、何をしようとしているのか、そもそも海の底の國に行くという話はどうなっているのか。
さしものナイブズも状況が全く呑み込めず、アイーダと共に立ち尽くすばかりだった。
「天なる慈母よ、海なる慈母よ。今こそ天道の筆業、奏上つかまつります」
何らかの口上を述べて、紅祢は大きな紙を地面に置いて筆を構え、シラヌイは尾を天へと立てて、その先で描いた。紙に、宙に。
「天に煌めけ天鳴門、海に逆巻け海鳴門」
丈が呪文を唱えるように、祈りの言葉を何ものかに捧げる。
暫くして、僅かに周囲が明るくなり始めた。しかし近辺に街灯等の照明の類は無く、光源は天から降り注いでいる星明かりだけだ。
夜空を見上げると、星が瞬いていた。気のせいか、ネオ・ヴェネツィアで見た時よりも星の絶対数が増えているような気がする。
……いや、気のせいなどではない。
今も実際に、ナイブズの目の前で星の輝きが増えている。まるで、誰かが夜空に絵筆の先をつけるように。
星の数が増えなくなると、次第に描かれた星々の輝きが増し、夜空に昨日までは無かった巨大な銀河が現れた。
それを見たシラヌイは大きな遠吠えを上げて、尾の先で輪を描くように翻した。それに倣うように、紅祢も筆を大きな紙の上に走らす。
すると、どうしたことだろうか、それに呼応するように突風が吹き始めた。咄嗟にアイーダを庇い、直接風を受けないようにする。
再びシラヌイの尾と紅祢の筆が翻ると、再び突風が吹く。シラヌイと紅祢の動きと突風との因果関係を疑ったが、そんな些細なものはすぐに思考の片隅からも吹き飛ばされた。
空に煌く星々が、ごうごうと唸るように回っている。
まるで風を受けた風車のように、星々が、銀河が回っているのだ。
「どういう……ことだ……!?」
驚愕のあまり、声が自然と漏れ出る。しかし、これだけでは終わらなかった。
星を映す海面にも、俄かに波が立ち始めた。それは浜辺に打ち寄せる波ではなく、逆巻く流れ。海面に映された星の風車の回転が、そのまま海にまで反映されたかのようだ。
星の風車が生み出した海の逆巻く流れは、遂には大渦となって海に大穴を開けた。
驚こうにも、言葉が見つからない。驚きのあまり声すら失ってしまったような気分だ。
「やった……やったぞ、紅祢! ああ、やっぱりだ。お前だ! お前こそが、浮世に遍く神様への感謝を伝える、お天道様の使者だ!」
「に、兄様!? 落ち着いて下さい! 龍神様へ、御挨拶へ向かわなくては……」
丈は感極まって紅祢に駆け寄るや高々と持ち上げて、そのまま一人で胴上げまで始めた。その様を、ナイブズは瞠目しながらも見つめていた。
こいつらは、こんなことをやろうとしてやったというのか? プラントでさえできないようなことを、ただの人間が?
プラントとは人間を超越した力の持ち主であると、当然の常識としてナイブズは考えていた。
その常識が、渦の中に呑まれて消えた。
「いまのは……いったい……?」
「詳しくは後日、是非とも天道神社へ。じゃあ、アイーダちゃんは紅祢と一緒に
「そうだが、今はそれよりも説明をしろ」
「火星の慈母の御許への道は開かれました。すぐに閉じてしまうことは無いでしょうが、善は急げです」
アイーダからの問い掛けもナイブズからの詰問も聞き流して、丈は居ても立っても居られない様子で急き立てた。
それに応えるようにシラヌイは紅祢を背に乗せると、すぐさまアイーダの襟首を咥えて放り投げて自分の背に乗せた。
「ひゃあ!?」
アイーダが小さく悲鳴を上げたが、意にも介さず、シラヌイは丈を伴って岬から海へと飛び降りた。慌てて岬の突端から身を乗り出して、下を窺う。
静まり返った海面の上に揺らめく巨大な蓮の葉の上に、シラヌイと丈が立っていた。
あの日の別れ際の光景が夢や幻の類ではなかったのだと思い知らされると同時に、神秘という言葉が否応も無く湧き上がって来る。
舌打ちをして、ナイブズも飛び降りる。やはり、シラヌイはナイブズが来るのを待っていたらしく、ナイブズが海面に近付くと蓮の葉が現れ、その上に降り立つ。
海面に揺らめいているとは思えないほど、蓮の葉にはしっかりとした踏み応えがある。蓮の葉には人一人が乗れる種類もあると、幼い日にレムから聞かされた覚えがある。しかし、これはそういったものとは違うと、漠然とした確信があった。
顔を上げ、シラヌイと視線が交錯するが、それも一瞬。
シラヌイはすぐにナイブズに背を向け、沖に現れた大渦を目指して跳んで行った。一跳びでは到底届かない距離だが、降着の度に蓮の葉を作り出し、先へと向かっている。丈は少しずつ遅れながらも、その背を追っている。
問い質すことは適わず。ならば、彼らの行く先に辿り着き、確かめるしかない。
意を決して、蓮の葉を蹴って跳ぶ。シラヌイとの距離は開いていたが、3度跳んで追い付いた。恐らく、シラヌイもナイブズが追い付くのを待っていたのだ。
大渦が目の前という所まで来ると、大渦の中から何かが飛び出して来た。
巨大な魚、ではない。水棲哺乳類のクジラだ。
クジラは海面を跳ねることがあると聞いたことがあるが、その巨躯を一目で見渡せるほどに跳ぶものなのだろうか。10mを超える大きさの生物なら見慣れていたが、水棲生物に特有の流線形の体は新鮮で、暫し目を奪われた。
クジラはシラヌイの目の前に着水し、派手に水飛沫が飛び海面も衝撃で激しく波打つ。それでもこゆるぎもしないこの蓮の葉は、やはり普通ではない。そして、このクジラも。
『おお……天照らしみそなわす我らが慈母よ、お待ち申しておりました。幾星霜振りかに天鳴門が廻り海鳴門が開く目出度き日に、御許を迎えられることは至上の栄誉で御座います』
シラヌイの前にまるで跪くようにかしずき、クジラは人の言葉と異なる言語を紡ぐ。しかしその未知の言語は、頭の中で自然と翻訳され意味を理解出来た。あの車掌と似たような現象だ。
クジラはシラヌイへの挨拶を終えると、視線をナイブズとアイーダへと向けた。
『さぁ、客人達よ、我が背に乗られよ。龍王様の待つ、そして海の慈母を祀る我らが國へとご案内します』
言われてクジラの背の上を見てみれば、座席――と言うよりも輿のような物――が据え付けられていた。あそこに乗れ、ということだろう。
ふと、この状況を当然のように受け入れて、今にもクジラの背に飛び移ろうとしていた自分に気が付く。
こんな御伽噺のような状況を怪訝にも思わず疑問にも思わない自分自身が、なんだか滑稽なように思える。しかし思い返してみれば、この星に来たその日からそうだった。
気付かぬ内に白紙の切符を持って銀河鉄道に乗り、猫達に迎えられて不死身の精霊カサノヴァと共にカーニバルを練り歩いた。
あの星を離れて、この星に来てからずっと、夢と現の狭間を彷徨っていたようなものだ。
そして、今も。
▽
クジラの背に乗って大渦に飛び込み、心の準備をする間もなくナイブズたちは海の底の國にやって来た。こうして今、実際に海の底の宮殿――龍宮城の中にいても、その事実が信じられない。
不可思議な事象にはネオ・ヴェネツィアで慣れたつもりだったが、そんなことはなかった。ここまで理解が追いつかない事態に直面するとは、思ってもみなかった。
そんな混乱が波打ち渦を巻くナイブズの内心など露知らず、出迎えに現れた海の國の住人達は口々に祝福の言葉を紡ぎ、シラヌイを“天の慈母”と呼び称して畏れ敬った。ナイブズとアイーダも、当然のことのように“海の慈母”の賓客として最上級の礼を以って迎えられた。
かつてない状況での歓待を半ば呆然としたまま受け入れ続け、今は案内役に導かれてアイーダと共に龍宮城の中を歩いている。
歩きながら、少しずつ状況を把握し、理解が及ばないものはそういうものとして受け入れて頭の中を整理し、頭の中の混乱を収め落ち着けることに努める。
やがて“火星の慈母”と“海の慈母”と“グランドマザー”がイコールであることを理解し、周囲を観察して思考する余裕が出来ると、ナイブズはまず案内役の姿を改めて見た。
海の國の住民たちは、確かに人間とは異なる存在だと気配からも分かる。だが、外見は人間とあまり変わらず、体の一部に他の海の生物の特徴――魚の鰭や、蟹や海老の甲殻など――が見られる程度だ。
何故彼らも、人ではないのに人と近しい姿をしているのだろうか。元々は、或いは真の姿はそうではないと、アイーダとの会話でさらりと告げているというのに。
そんなことを考えながら歩いている内に、気付けばもう目的地の目の前まで来ていた。
見るからに他とは違う造りの扉。その向こうにあるものへの畏敬や感謝の念を形にしたかのような、厳かで落ち着いた装飾が為されている。
門衛がなにやらアイーダと話しているが、殆ど頭に入らない。
この扉の向こうに、グランドマザーがいる。そして、ナイブズの予想が正しければ、グランドマザーとは――
「この先に、
アイーダは緊張した面持ちで扉の前へと進んだ。ナイブズは止めていた足を進めてアイーダを追い越し、自らの手で扉を開けた。
▽
龍宮城の中心部をくりぬいたように、それは鎮座していた。
いや、きっとそれを取り囲むように、龍宮城は建てられたのだろう。
ナイブズには見慣れた、それでももう懐かしいとさえ思える“それ”――いや、“彼女”は、ナイブズが予期していた通りの存在。
グランドマザーと呼ばれる彼女は、紛れも無いナイブズの同胞。
「超巨大プラント……それも、最初期型の」
ゆうに100mを超える、見上げるばかりに巨大な彼女の姿を見詰めながら、言葉が口を衝いて出る。
電球を思わせる形状の機器。透明な特殊素材のケースの内側には、電球ではフィラメントに当たる部分に球状の物体が、待機状態の彼女がいる。
ノーマンズランドでは町ならばどこでも見かけた、火星ではどこにも見掛けなかった。
少し前まではどこかにいるのが当然だった、最近ではどこにもいないのが自然だった。
そういえば、プラントの姿とはこうだった。確かに、この姿はプラントだ。
取り留めも無い思考が、同胞との出会いによって湧き上がって来る。
ふと傍らのアイーダを見ると、昂揚と緊張が綯い交ぜになったような表情で、頬を紅潮させて嬉しげに笑みを浮かべている。
「すごい……! 本当にいたんだ!」
火星では既に忘れられた昔話や物語の存在。それが地球のプラント達の間では、細々と語り継がれていたのだろう。
その意気に中てられたのか、それともずっと前から目覚めていたのか。
待機状態からゆっくりと羽根を広げ、翼を広げ、球の内側から人間の女性によく似たプラントの本体が現れた。
すると、彼女の――プラントの口がゆっくりと動いた。
「いらっしゃい。待っていたわ、アイーダ、ナイブズ」
肉声と精神感応が混じった独特の声で名を呼ばれ、アイーダが緊張し体を強張らせるのとは対照的に、ナイブズはむしろ今までになくリラックスして、それに応えた。
「……本当に、喋れるのか」
「あら、
「いや、そんなことはない。少し、驚いただけだ」
ナイブズがしみじみと言うと、彼女は――グランドマザーはからかうような調子で答えた。
海女人屋の老婆が話好きだと言っていたから予想はしていたが、実際に対面して驚いた。しかし同時にそれは、ナイブズにとって喜ばしいことでもあった。
「考えてみれば、当然のことだったな。俺たち
人間と同じ姿をして似通った自我を持つ自律種の前に、プラントの姿のまま人間と似通った思考と自我を持つプラントが誕生していたのではないか。
これは以前からナイブズが考えていた仮説だったが、ノーマンズランドではついに確認できなかった。それを、同胞の種としての新たなる可能性を、遠く離れたアクアで見ることが叶うとは、なんという僥倖か。
だが今は、新たなる同胞との出会いの喜びのすぐあとに、黒々とした疑問が吹き出て来る。
また『人間と同じ』だ。
何故『人間と同じ』なのだ。
どうして、人間ではないものから『人間と同じもの』を持ったものが生まれるのだ?
どうして、俺たちプラントは……。
「随分難しいことを言うのね。学者さん?」
「いいや。今の俺は、ただの風来坊だ」
グランドマザーからの茶化すような言葉に、疑問をすぐさま脇に追いやり反射的に答える。
そういえば、何時か何処かで似たようなやり取りをしたような気がするが、今はそんなことはどうでもいい。
ナイブズが口を開こうとして、アイーダがグランドマザーの下へと駆け寄った。
「お婆様。私、あなたに聞いてほしいこと、聞きたいこと、たくさんあるんです! けど、今日はその前に……」
走りながらグランドマザーへと話し掛けて、途中で言葉を切ると同時に、アイーダは息を切らせながらナイブズへと振り返った。
目が合って、息を呑んだ。
彼女の瞳の中に、ほんの僅かに今まで気付けなかった感情が垣間見えた。
今までは押し隠していた、或いは他の事に気を取られていて一時的に忘れていたものが、その時が来て姿を現したのだ。
アイーダが露わした感情の名は、疑念と恐怖。
「私と一緒に、ミリオンズ・ナイブズと話して下さい」
未来への切符は、白紙かもしれない。
だが、今までの道程を記した地図は、白紙ではない。白紙に出来るはずが無い。
今までがあるから、今からがある。
これまでがあるから、これからがある。
だから、今、これと向き合うことになるのは、必然なのだ。
これを初めて実感したのは、藍華の舟に乗って晃と話していた時だった。
なぁ、ヴァッシュよ。
自分の“罪”と向き合うことというのは、こんなにも苦しいものだったんだな。