「やあ比企谷」
「なんだろう。今年に入ってからこんな場面が増えた気がする」
俺の前には一枚の紙を持った平塚先生がタバコを吹かしながら座っている。紙には職場見学希望調査票と書かれている。
もう聞かなくても誰が書いたものかなんてわかっちゃったよ。
「大体察しましたけど一応聞いときます。なんで俺は呼び出されたんですか?さっきまでめぐりん特製ハンバーグ弁当を美味しく食べていたところだったんですが」
あの愛妻弁当云々の会話の末、めぐりは本当に弁当を作ってきてくれた。なぜか翌日ではなく三日後だったが。それからというもの俺が購買で何かを買うことはなくなった。
うん、お財布にも優しいね。
「ふむ。この紙をみてもらおうか」
俺は平塚先生から手渡された紙を見る。
なるほど、希望する職種が専業主夫で、希望する職場が自宅か。なんというか、流石八幡だな!
「流石八幡、考えることが違う!」
「お言葉だが比企谷、お前が去年何を書いたか覚えているか?」
平塚先生がため息を吐きながら問うてくる。
「希望する職種が妹と弟に永久就職で、希望する職場が自宅です!」
「お前が人のことを言える立場かー!」
「あひぃん!」
そういえば、去年の同じ時期に俺も呼び出された気がする。
あの時は結局、どこかの新聞社に行ったんだっけな。平塚先生に希望者が少ないからと無理やりはめられたのを覚えている。
「とにかく、放課後にでもお前の弟を呼び出すつもりだ。お前からも注意くらいはしておけ」
「俺が何か言っても無駄だと思いますけどねー」
「ふふ。意外にお前を鈍感なのだな。まあいい、頼んだぞ」
なんだよ鈍感って。八幡のことを俺がわかっていないとでも!?まさか、そんなことあるわけない!……なんかヤンデレみたいで怖いな俺。
「了解しましたけど、なんで毎回俺を呼び出すんですか?ワンクッション置かなくても直に行けばいいじゃないですか」
「お前と話したい、では不満か?」
「不満です」
俺はドヤ顔でそんな言葉を吐く平塚先生をバッサリと切り捨てた。
「そこは少しときめくところだろう!」
「いや、ないです。無理無理」
「そこまで拒否されると流石に傷付くのだが。まあいい、今回はもう一つ伝えておきたいことがあったのだよ」
「なんですか?」
平塚先生の苦々しい顔に嫌な予感を感じる。
「陽乃から呼び出しだ」
神は死んだ……!
午後八時、俺はホテル・ロイヤルオークラの前に立っていた。
俺の今の服装は、黒い立ち襟のカラーシャツ、今回の呼び出し主から貰ったグレーのジャケットにジーンズに革靴だ。
普段ならば無造作になんとなく整えるだけの髪もワックスで固めている。
『エンジェル・ラダー天使の階』今回の呼び出し主である陽乃さんから指定されたこの店はドレスコードがある。そんな洒落た店など普段の俺ならば絶対に来ないのだが、陽乃さんが来いというのであれば来ないわけにはいかない。
まあ、わざわざこんなところに呼び出す必要もないとは思うのだが。
そして陽乃さんから伝えられた時間の五分前、俺の前に一台の車が止まる。
「やっほー!久しぶり、颯太」
黒塗りの車から降りてきた白の悪魔は俺に手を振ってくる。
雪ノ下陽乃、奉仕部部長である雪ノ下雪乃の実の姉であり、俺が一年生の時に知り合った二つ上の先輩だ。現在は国立理工系の大学に通っている。
その才覚は総武高に在籍していたころから遺憾なく発揮され、学校のマドンナ的存在だった。
優れた容姿に天性のカリスマ性を持った彼女を誰もが愛し、誰もが崇拝していた。いつもニコニコ、優れた対人能力を持った彼女を嫌うものなど存在しなかったのだ。
しかし、そんな彼女の本性を知る者は意外と少ない。
皆に見せる笑顔の下に隠された本当の姿を俺は知っている。
そんな裏表のある彼女だからこそ、俺は雪ノ下陽乃という人物に興味を持ったのだ。
「お久しぶりです、陽乃さん」
「うん」
「……」
「……」
妙な沈黙が訪れる。
なぜ女性は俺が今から言おうとしている言葉を言わせたがるのだろう。特にこの人は自分が他人からどう見られているのかわかっているだろうに。
「綺麗ですよ。まあ、陽乃さんは何を着ても似合いますけどね」
「うん、知ってる!」
うぜぇなぁ……。
しかし、言っていることに嘘はない。
純白のドレスはきめ細やかな白い肌と合わさり陽乃さんの魅力を引き立たせているし、露出少な目のドレスにも関わらず主張してくる胸も視線が引き寄せられる。頭についている白い花付きのカチューシャも彼女によく似合っている。
「じゃあ行こうか」
「はい」
陽乃さんは俺の左肘に手を添える。
俺はそれを確認すると陽乃さんと歩幅を合わせるようにして歩き出した。
「いつ振りだっけ」
「めぐりが生徒会長になってお祝いした時以来ですよ」
東京湾を眺めながら陽乃さんは話し出す。
「あー、あれは楽しかったよねー!」
「めぐりが陽乃さんにいじられてただけですけどね」
「そうだっけなー」
あの時のめぐりは可哀想だった。
幾度となく襲い掛かる陽乃さんの無茶ぶりに応え続けるめぐりは、見ていて非常に痛々しかった。
「どう?私のいない高校生活は。寂しい?」
「それ、会う度に聞いてますよね?もう二年目ですよ?寂しいわけないじゃないですか」
「つまんなーい!そこは寂しいって言うところでしょー!」
陽乃さんは唇を尖らせながら俺の肘をつねってくる。
「痛い痛い痛い!肘をつねらないでください!」
「知らなーい」
そうこうしているうちにエレベーターは最上階へと到着する。
一度は離れた陽乃さんの手が再び俺の肘へと帰ってくる。それと同時に陽乃さんから柑橘系の香りが漂ってくる。一度この匂いを好きだと言ったら、それから事あるごとにこうしてくっついてくるようになった。
まあ、少し匂いフェチの傾向がある俺にとってはご褒美であることに間違いはないのだが、何分少し恥ずかしい。
「ふぅ……」
エレベーターを降りた先にあるバーラウンジに入っただけでも軽く息を吐いてしまう。
陽乃さんに連れられ何度かこのような店に来たことはあるが、本来俺はこんな店には全くの縁がない庶民だ。いつ来ても慣れることはない。
重そうな扉を開けると、ホテル・ロイヤルオークラの最上階からの夜景が俺達を迎えてくれる。
そしてすぐさま一人の男性がこちらへ寄ってくる。
男性は陽乃さんの顔を見ると小さく礼をし、カウンターではなく窓際の夜景の見えるテーブルへと案内してくれた。おそらく事前に陽乃さんの方から連絡を入れていたのだろう。それにしてもスタッフに顔を覚えられていることは異常だが。
「何か頼むー?」
そう聞かれてもハッキリ言って何を頼めばいいのか分からない。
「お茶……」
「ここに来てお茶を頼む人なんていないよ。お酒は飲まないんだっけ?」
「まだ飲めません」
「真面目だねー」
お酒は二十歳からって決まってるんですよ!まあ、二十歳になっても積極的に飲むつもりはないが。
「じゃあとりあえずジンジャエールだね」
「ういっす。お願いしやっす」
「驚くほど店に合わないセリフだね」
テンパってるんですよ!察してください!
「あ、ちょっとトイレ行ってきます」
「早く帰ってくるんだよー」
「うっす」
緊張すると尿に来るタイプなんだよね。
「ん?」
トイレから戻ってくるとカウンターに立つ一人の女性が目に入る。正確には少女といった方がいいかもしれないが。
その風貌は大人っぽい完全なバーテンだが、よく見ると少し幼さも残っている。
そして何より、我が総武高で何度か見かけたことがある。
「やあ」
「……あなたは」
どうやらこの子も俺のことを知っているようだ。
「よく平塚先生の呼び出されている人……」
「不名誉な覚え方をありがとう。バイト?」
「はい」
こんなところでバイトをしているということはそれなりの理由があるということだろう。
「そっか、遅くならないようにね」
そういうと俺は彼女に手を振ってカウンターを去った。
遅くならないようにとは言ったが、おそらく彼女は法を犯してバイトを行っている。近々問題になるかもしれないな。
「ただいまです……陽乃さん?」
「何かな?颯太」
考え事をしながら陽乃さんの元へ戻ると、とても良い笑顔をした陽乃さんが迎えてくれた。
「怒ってます?」
「怒ってないよー?ただちょっと、私を放って若い女の子と話してる誰かさんにむかついてるだけだよ?」
「すいませんでしたー!」
怒ってた!超怒ってたよ!
「まったく、次はないよ?」
「もちろんでさぁ!」
俺は首が折れるかという勢いで頷く。
「よし、じゃあ聞かせて?学校での事」
俺の夜は長そうだ……。