ネルフ本部のシャワー室には、初号機を降りたシイの姿があった。熱いお湯で身体についたLCLを流していると、徐々に心に落ち着きが戻ってくる。それと同時に、罪悪感もまた蘇る。
(命令……無視しちゃった。ミサトさん、怒ってるよね)
上司であり家族でもある彼女に怒られる事は、シイにとってかなりきついものがある。今思えば、必死に退却命令を出したミサトは、自分の身を案じてくれていたのだろう。それだけに申し訳ない気持ちになる。
(でも……)
まだ頬に残る痛み。脳裏に浮かぶのは怒りに満ちたトウジの顔。それはまるで消えない呪いのように、シイの心を苛み続けていた。
(私……今度はみんなを守れたのかな)
一人きりのシャワー室で、シイは答えの出ない自問自答を繰り返す。やがてLCLを洗い流し終えたシイは、更衣室で身体を拭いて着替えを済ませる。
それを見計らったかの様なタイミングで、更衣室へミサトがやってきた。家で会うのとは違う厳しい表情のミサトに、思わずシイは俯いてしまう。
「その様子じゃ、私が何を言いたいのかは分かってるみたいね」
「ミサトさんの命令を……無視しました。ごめんなさい」
「謝罪は良いわ。何故無視したのか……理由を聞かせてくれる?」
上官としてのミサトの言葉は、あくまで厳しく冷たい。それがシイを一層追いつめていく。
「ごめんなさい。次からは気を付けます」
「理由を話しなさい。でなきゃそんな約束、とても信じられないわ」
「…………使徒が怖くて、つい頭に血が上ってしまいました」
もしあの一件が知られてしまえば、トウジにも迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな思いからシイは咄嗟に嘘を付いた。だがそれが通じる程、葛城ミサトは甘くも無能でも無い。
「嘘ね」
即座に否定されたシイがビクリと肩を震わせる様子で、ミサトは自分の言葉に確信を得る。
「学校で、クラスメートとトラブルがあったそうね」
「!? どうしてそれを……」
「出撃前から貴方の様子はおかしかったわ。一体、何があったの?」
シイの問いには答えず、ミサトは一方的な質問を繰り返す。冬月からはクラスメートとのトラブル、としか聞かされていなかったが、あれだけ無謀な行動に出るのは、よほどのトラブルだろうとミサトは予測する。
焦りからかミサトの質問は既に尋問となっており、それがシイの精神を少しずつ追い詰めていく。
「べ、別に何も……」
「……シイちゃん、その頬どうしたの?」
顔を背けたシイの左頬に、青あざがついているのをミサトは見つけた。頬骨から下に広がるアザは、最後に顔を合わせた昨晩まで無かったものだ。
(殴られた、か)
それなりの荒事を経験しているミサトには、アザの原因に直ぐさま察しが付いた。そしてそれが、ごく普通の生活では絶対につかない事も知っている。
女の子の顔を殴った何者かに、ミサトの心は穏やかでは居られない。
「ねえシイちゃん。貴方がもし黙ってろって脅されてるなら――」
「鈴原君はそんな事してません!!」
「そう、エヴァに乗ったあの子に殴られたのね」
「あ……」
失言に気づき、シイは情けない声をもらす。その態度からシイが男の子を庇っていると察したミサトは、搦め手に出る事にした。
「……話して。でなければ、彼の口から聞くことになるわよ」
ミサトの言葉はシイを追いつめる卑怯なものだ。それを自覚しながらも、ミサトは聞かずにはいられない。
「分かり……ました」
シイは更衣室の椅子に腰掛けると、ミサトと視線を合わせずに話し始めた。
「……鈴原君の妹さん……この間の戦闘で、大怪我をしたそうです」
(八つ当たりか)
ミサトは内心毒づくが、横やりを入れずに次の言葉を待つ。
「私は……みんなを守ったつもり……でした。でも、傷つけたのも私だったんです」
前回の戦闘終了後、シイはネルフのスタッフ達から『人類を守った』『みんなを守った』と言われた。自覚は無かったが、それが再びエヴァで戦うモチベーションになったのも事実だ。
自分は正しい事をした。知らず知らずそんな認識が生まれていたのかも知れない。
「それは違うわシイちゃん。貴方が戦わなければ、みんな死んでいたのよ」
「でも、私のせいで傷ついた人が居るのは事実です」
「…………」
「もし……あそこで私が逃げたら、また傷つく人が出るって思ったら……」
「だから、撤退しなかったの?」
こくりと頷くシイ。ようやく事情を理解したミサトは小さくため息をつく。
「でもね、シイちゃん。今回は上手くいったけど、もし貴方が負けていたらどうなるの?」
「それは……」
「使徒を倒せる唯一の存在、エヴァが負けたら……世界は滅びるのよ」
理屈では分かる。ミサトは正しいことを言っていると。だが、シイの心はどうしても納得が出来ない。
「じゃあミサトさんは、その為には人が傷ついても仕方ないって、そう言うんですか?」
シイは立ち上がり、ミサトと正面に向き合う。
「人類を守るためなら、少しの犠牲は仕方ない。そう言うんですかっ!!」
高ぶる感情を抑えきれず、シイはついにミサトへ思いをぶつける。これこそが、シイの抱いていた矛盾だった。
目に一杯涙を溜め、感情むき出しの視線を向けるシイに、ミサトは一瞬戸惑う。
「……そうよ。人類を守るのがネルフの使命……貴方の使命でもあるわ」
だがミサトはネルフ作戦部長として、心を押し殺して冷たい返答をした。だが本心では無いその答えは、シイの感情を逆なでする結果に終わる。
「私は、私はみんなを守りたいんです! 大切な人を失って欲しくないんです!」
シイは真っ赤な顔で叫び返す。一度激昂した気持ちは留まることを知らない。
「ミサトさんも、ミサトさんだって、大切な人を失えば分かりますよ!!」
「っっっ!!」
瞬間、ミサトはキレた。目を見開いてシイに近づくと、制服の襟を思い切り掴みあげる。
そう……あの時のトウジみたいに。
「甘ったれた事言ってんじゃないわよ! あんた神様にでもなったつもり!?」
「そんなつもりはありません!」
「人が出来る事なんて限られてるの! だからみんな、自分に出来ることを必死にするの!」
ミサトの叫びが更衣室に響き渡る。
「あんたに出来ることは何!? エヴァで使徒を倒すことでしょ!? 人類を守ることでしょ!? だったら、それを全力でやりなさい」
「でも私は……人を傷つけたく無いんです!」
シイの言葉に何かを感じたのか、ミサトはふっと手の力を緩めて掴んだ襟を離した。
「……なら貴方はエヴァから降りなさい」
「…………」
「そんな気持ちで戦ってたら……死ぬわよ」
「……分かりました。私はもうエヴァに乗りません」
最後まで冷たいミサトの言葉に、シイはキッと鋭い視線を返し、感情の赴くまま吐き捨てた。
「短い間でしたけど、お世話になりました」
小さく一礼すると、シイは更衣室から逃げるように走り去った。
残されたミサトは椅子に腰掛けながら、言い得ぬ後悔に襲われていた。
「私は……最低だわ」
大人として、上官として、家族として、全てにとって最低な対応だったと思い返す。もっと落ち着いて話し合えば、違う結果になったかもしれない。
(優しい子だって、分かってたじゃない)
同級生から受けた不条理な暴力と、間接的にでも人を傷つけたという事実。それがどれだけシイの心を苛んだのか、考えなくても分かる。だからこそ、自分は優しく彼女を包み、守ってあげなくてはならなかったのだ。
それなのに一方的にシイを責めてしまった。彼女の思わぬ言葉に反応して、つい暴力まで振るってしまった。
(保護者失格だわ…………ごめんね、シイちゃん)
ミサトは沈黙が支配する更衣室で、一人肩を震わせるのだった。
葛城ミサトという女性はまだ若く未婚です。そんな彼女にいきなり保護者役を求めるのは、少々酷ですよね。
ただこの小説の最終目標、ハッピーエンドを目指すには、ミサトにも精神的に成長して貰う必要があります。彼女がチルドレン達の支えとなる事が、後々の物語に影響を与えると思うので。
次回もまたお付き合い頂ければ幸いです。