(精神その他色々なものが削れる音)
呆と遠く遠くで揺れる意識の中で、羽黒は幻と出会う。
呻き哭くように絶え間なく染みる葉擦れの音。
ぼやけたシルエットだけを滲ませる欠けた白い月。
硝煙の匂いは紛れもなく闘争の爪痕であるのに、己が終止符をぶち込んだ異形達の印象は希薄そのもの。
本能のままに深海棲艦を殺し続ける、自動機械と何も変わらない己だった頃の記憶。
彼女の認識を支配していたその幻の名前を知識から引き摺りだすのに、決して短くはない時間が必要だった。
(これが―――走馬灯)
羽黒の経験は豊富とは対極にある。
生まれは屍が変じたもの、そして伊吹春也という苛烈な思念に“汚染”されたのが始まり。
今彼女に見えている光景――あやふやな彷徨を深海棲艦狩りをしながら続けていた時間と、やっと自らの主を見つけて付き従った時間を比べても、前者の方がまだ長い。
それだけにただ一つの例外を除いた世界の全てに対しこの羽黒という艦娘は鈍感であり、それだけにただ一つの例外に対して彼女はどこまでも純真だ。
(じゃま……邪魔、なの……)
およそ普通の人間らしい感情を持っていれば心的外傷と言っていい程の孤独だった長い長い放浪の時間。
いつ終わるとも定かならぬ、見知らずの主を求める捜索行は二度と繰り返すことなど絶対に御免である忌々しい記憶。
そのフラッシュバックが襲ってきてなお、羽黒はそんなものを一顧だにしない。
――――司令官が、見えない。
どこまでも恋い焦がれ追い求めた己の主。
彼女にとって絶対であるその対象は、やっと見つけた自分の存在意義なのだ。
更に言えば。
羽黒に、そんな相手に受け容れてもらえてよかったという安堵は無かった。
羽黒に、こんな自分を受け入れてもらえてうれしいという高揚も無かった。
羽黒に、状況が崩れ一緒にいられなくなるのが怖いという不安も無かった。
そんなことを考えられる程に、彼女は未だ“生きている”時間を積み重ねてはいないのだ。
良く言えば純粋、そして彼女の慕う提督との繋がり、その根源たる祈りを思えばあまりに残酷な皮肉。
生きることの尊さを、羽黒はまだ自身の経験として実感したことが無い。
だから彼女の異能は護りなんて知らず、春也の殺意のみに特化して共鳴した形で開花した。
だから―――ただの兵器として、春也の為に何の躊躇いもなく生死の境界線を超えてしまった。
だから。
常人ならばおよそ生きているのが奇跡であるような血塗れの重体で、必死に彼女を抱えて泣き叫ぶ春也の慟哭は、羽黒に何の感傷も齎さない。
“そんなことよりも”、彼の姿が見えないことが何よりも苦痛だった。
繋がりを通して、自分の身体が黒く罅割れながら崩壊していることを知っても。
もはや次に意識を手放せば二度と目覚めることはないと知っても。
それを誰よりも惜しんでくれるのが他でもない自分の主なのだと……ちゃんと愛してくれていたのだと知っても。
(もう……もう何も見えない……)
きつく握られた右手の暖かさより、春也の姿を見続けていたかった。
それが出来ないことが、頬を伝う涙の理由だった。
そして。
「―――――おやすみなさい、羽黒」
左手に別の暖かさが生まれ、羽黒の存在の全てがそこから吸い取られ始める。
まだ使える部品<資源>は大破した夕立の損傷の充填に。
蓄積されたエネルギー<練度>は上乗せで夕立に積み上げられ。
新たな次元を突き抜けた祈りの具象化理論<術理段階>を夕立に引き継ぎ。
兵器が壊れてもう使い物にならないならば、後継機の材料として利用されるのは当然。
そして、運用されたデータを元に後継機の改良に活かされるのもまた当然。
それは、当の羽黒にとっても自明の理屈であったけれども……それだけでもなかった。
きっと目的としては、そんなものついでだった。
夕立に吸い込まれた自我の残り滓の中で、夕立の視界で――――かつて羽黒という艦娘だったナニカを抱いて茫然自失とする伊吹春也の姿を一目見ることができた。
一度きりの最後の奇跡はたった一瞬だったけれど、彼女の唯一の願いは叶えられた。
だから、一つだけ羽黒は感情を覚える。
『ありがとう、夕立<わたしのともだち>――――、』
そこに確かな友情はあった、主を同じくする仲間と。
『ありがとう、司令官<わたしの、ごしゅじんさま>…………!!』
たとえ他人からどんなに否定されても、幸せだと思える最期を迎えさせてくれた存在に。
感謝。
覚えたてのそれをすべてぶつけるようにして。
羽黒は、死んだ。
…………。
「――――ありがとう?」
乾いた濁泥。
懐でぽろぽろとばらけていく、死体にすらならなかったナニカ。
それを振り払うでもなく、かき集めるでもなく、汚れた掌を見ながら春也の心が白く染まっていく。
羽黒は、幸せに死んでいったと、そう伝えてきた艦娘との繋がりは残り香もなく消え去ってしまっている。
僅かでも伊吹春也という提督の存在の一部を占拠していたそれが消えた空白感が――――湧き上がり続ける黒い激情を覆い尽くしていた。
感謝の言葉を言いながら、穏やかに死ねたと――――なんだそれは?
兵器だから、主のために決死を承知で戦闘を完遂したと――――なんだそれは?
夕立に全てを託し、あとは春也を一目見られただけで良かったと――――なんだそれは?
「なんだよ、それは―――ッ!!?」
死。生命の終わり。
その最悪のバッドエンドに虚飾するような、「せめてもの救いがあった」かのような欺瞞。
羽黒が、特殊な事情によるものにせよ自分を一心に慕ってくれて憎く想う訳もない少女が………死んだのに。
悲しいのに、ただ悲しいだけで十分なのに。
確かに心の内で、先ほど消し飛ばした混沌種に対するものと同種の怒りが燻る。
――――たとえどんな理由があったって、人間が殺されていい理由なんてどこにもありはしないのに。
――――人の死に、何の価値もありはしないのに。
“どうしてありがとうなんて言いながら羽黒は死ななければならなかった?”
「泣けよ、俺……なんで涙が出てこないんだよ……!?」
ある意味で羽黒の想いすらも否定するようなこの怒りは、空虚と悲嘆が勝手に降り積もってどんなに塗り潰されても、心の奥底に根を張って消えない。
悲しみに浸ることも、真摯に弔うことも許されない業だとでもいうのか。
それが提督として進化していく代償だとでもいうのか。
その人間らしい情動とは別のベクトルで無理やりに心を動かそうとしてくる渇望で、ありとあらゆる感情が張り裂ける寸前だった。
それこそ皮肉にも羽黒が死んだせいで意思の多くが凍止していなければ、発狂しかねないほどに。
先鋭化しすぎた異常者の破綻、自滅――――だが、それを許さない存在は、果たして如何に評し断ずるべきなのか。
羽黒に与えた以上の慈愛をもって春也をそっと後ろから抱きしめる腕は、夕立の小さな少女然としたそれだった。
「大丈夫、だいじょうぶ。夕立は、最後の最後まで提督さんと一緒よ?」
「………っ」
穏やかで染み込むような声は、すっと極限寸前を長時間走り続けた心身の手綱をいともたやすく解かせる。
夕立もまた、羽黒と同じ兵器。
羽黒と同じ、兵器なのに心があって、命があって、それを人間に似せた肉体で精一杯に伝えてくれる、艦娘。
けれど羽黒の分まで生きる、自分は春也を置いて死んでいったりはしないと誓う言葉が、白と黒でせめぎ合う心を前者の色に静かに塗りつぶしてくれた。
夕立の言葉なら、世界のどんなものよりも信じられるから。
こんな惨い場所にいきなり飛ばされた春也にずっと味方してきた彼女が信じられなければ、他に何も信じるものなどありはしないから。
今はただ、甘えるように夕立の胸に頭を凭れさせ、意識を沈めていった。
そんな春也に聞こえないのを承知で、夕立は自らの想いを語り続ける。
「たとえ何を敵に回しても、夕立は提督さんの為に戦い続けるわ?ずっと、ずっと!」
僅かに速度を増す、艦娘には必要なのかも分からない心臓の鼓動を提督に聞かせながら。
深紅に染まる瞳、頭上で左右に跳ねるようになった癖毛、鋭く伸びる犬歯。
戦友を吸収した際に春也の知る“進化した姿”へと外見を変え、その唯一の相違点となる額部分の『羽黒の髪留め』を弄りながら。
「―――だから提督さんは、安心して全てを否定していいっぽい」
『人が理不尽に殺される………本当に間違っているのは、そんな風に出来ている世界だ』
春也自身が抑え込みながらも、受け止める今の夕立すら許容が精一杯なその祈り。
世界のシステムそのものを否定する意思を、それ故に世界全てを敵に回す運命をこの瞬間に決定させた主の渇望を。
「さあ――――素敵なパーティー、始めましょ?」
友の死ですら冷や水にもならない高揚もろとも持て余しながら、どこまでも優しく抱擁を捧げる主にそっと囁き続けていた。
――――今回の設定紹介は自粛します――――