天災兎の愛は重い   作:ふろうもの

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天災兎は渚の女神

「おい、起きてるか?」

 

 強く肩を揺すられてようやく目が覚めた。

 寝起きの初っ端に一夏の顔を近距離で拝むことになるとは、なかなか心臓に悪い。起こしてくれるのは嬉しいが、ちょっと近過ぎないか。

 いやいやいや、近い近すぎる。なんでこんなに顔との距離がないんだ。

 

「そうか?」

 

 割と失礼な言い方でも許してくれるのは一夏の美点だが、もう少し男同士における適切な距離感というものを会得して欲しい。バスという狭い空間でのことで、顔のみならず身体まで近いじゃないか。こんなことをされてはまた俺が恨まれる。

 ほら、同じバスに乗っていた篠ノ之とオルコットが恐ろしい顔をしているじゃないか。これはちょっと、一夏には見せられない。

 正味な話、このまま酷い筋違いの恨みを買い続けたいと思わないので立ち上がる。ふっと、視界が眩んだ。随分と長い間眠っていた為か頭に血が回ってないらしい。

 

「ずっと眠りっぱなしだったし、本当に大丈夫なのか? 気分は?」

 

 ――いや、単に寝過ぎて立ちくらみをしただけだ。だから大丈夫。

 

 と俺が言うものの、一夏はやはり良心の塊の様な男である。

 

「千冬姉ぇ……織斑先生には俺から言っておくから、気分が良くなるまで座っておいていいぞ。荷物は俺が下ろしておくからな」

 

 何もそこまでしなくていい、と言うが早いか一夏は俺を頼ってくれと言うとバスを降りてしまった。またもや篠ノ之とオルコットのもの凄い視線を浴びながら、俺は溜め息を吐いた。

 

「あはは、災難だったね」

 

 まったくだ、と話しかけて来たデュノアに首肯する。

 最近、デュノアはラウラと過ごすことが多いせいか、一夏は前より増して俺と絡む様になってきた。何故前より増したのかはよくわからない。俺と絡む分を篠ノ之やオルコット、凰とかに向けてやればいいのだが、そううまくいかないのは世の常だ。

 無論、デュノアも例の三人に洩れることなく一夏を恋い慕っている。が、デュノアはラウラと一緒に居る関係上、一夏だけでなく俺と居ることも多い。その結果として一夏とペアになることが多いのだから、一番立ち回りが上手いのはデュノアだと思う。

 将を射んとすればまず馬を射よ、とはよく言ったものだ。

 

「父よ、頭は大丈夫なのか?」

 

 そして、えらくド直球な言葉を投げ掛けてくるのはラウラである。寝ていただけでなんと辛辣な。

 

「ええと、その言い方はダメだよ、ラウラ」

「えっ? あっ……ごめんなさい」

 

 いや、俺は気にしてないぞ。日本語って難しいのは俺にもわかるから、だからそんな悲しそうな顔はしないでくれ。

 

「え、えっと、じゃあ……頭は痛くないのか?」

 

 ――なんだって?

 

 頭、と言われてもなんのことだろうか。皆が知っている通り、俺は一夏に起こされるまで爆睡していたから、まさか顔に落書きでもされたか。しかしそうなるとラウラの物言いにはまったく当てはまらない。

 

「えっとね、君が寝てからバスが揺れる度に頭を窓にぶつけててね。結構凄い音がしてたんだよ?」

 

 そんなことが。その割に頭はあまり痛くないが。

 

「途中から音がしなくなってたから、首の向きが変わったのかな? っておもったけど、そのタオルのおかげみたいだね」

 

 デュノアに言われて気付いたが、肩に白いタオルが一枚乗っていた。これが先程まで俺の頭と窓の間にクッションとして挟まれていたのだろう。

 しかし、問題が一つあるとすればこのタオルに俺は見覚えがないということだ。もちろん、起こされる前に一度起きてタオルをクッションにしていたということもない。

 

「父よ、それはどういうことなんだ?」

「え、それってどういうこと……?」

 

 ラウラとデュノアが同時に疑問の声をあげた。俺がわからないんだから二人にはもっとわからない。

 しかし一見するとわかりにくいがこのタオル、肌触りが尋常なく気持ちいい。ふかふかだ。なんだこれ、本当に地球上の繊維質で出来た物なのか。それにちょっと良い匂いもする。ここまでくれば、やはり、これは、あの人の。

 

「ど、どうかしたの?」

 

 いや、このタオルの持ち主が誰かわかった。

 

「え?」

 

 デュノアの疑問を置いといて、決定的な証拠を探す。やっぱり、ここに刺繍があった。

 タオルの端にピンクの糸で刺繍された、デフォルメされた自画像。

 

「……篠ノ之博士だ」

 

 なんとも言えない空気が流れる。

 俺からすれば慣れたものだが、やはりラウラやデュノアにとっては受け入れがたい事実だろう。待機状態とはいえISのセンサーに引っかかることもなく、臨海学校とはいえ世界で最強の防衛体制が内外に敷かれているバス。そこへ誰にも気付かれることなく侵入しているのである。あまつさえ移動中は隣に座っていた一夏でさえも、束さんがタオルを枕代わりにしていったことに気付いていないのだ。

 座敷童と言うか、ぬらりひょんというか、科学全盛の時代ではあるが傍から見るとホラーである。

 案外、バスの天井に張り付いていたりするんじゃないか。

 

 ――ひょっとして?

 

「ど、どうかしたのか?」

 

 思わず椅子の下を覗いて見たが、人が入れるようなスペースはもちろんない。訝しむのを通り越して心配してくるラウラに気にしないで欲しいという旨を伝えると、二人と一緒にバスを降りるのであった。

 

 ◇

 

 一人で使うには広さが過ぎて、また豪華が過ぎる和室。真新しい畳張りの床の上に荷物を遠慮なく下ろす。ほのかに香るいぐさが、気持ちをリラックスさせてくれる。窓の外にはちょっとした庭と露天風呂が付き、竹で編まれた柵の向こうは一面の海を見渡すことが出来る。

 指導要領でいえば高校生にISという+αを付加した身分である。それがここまでグレードが高い部屋に泊まれるとは、世界に轟くIS学園の名は流石といったところか。

 これが国の金、ひいては人の金で泊まれるのだからラッキーだな、と思うのは我ながら現金な話だ。

 

 ――しかし。

 

 思うところはある。如何にIS学園が世界に名立たる組織であり、また未来の国家代表らが通う教育施設とはいえ、この超が幾つも付く高級老舗旅館の選択には些か疑問が残る。元々、IS学園が贔屓にしている老舗旅館の方に行先は決まっていたのだが、保安上の理由とかで出発数日前にここに変更になったのだ。

 中止ではなく、変更。山田先生は言葉を濁していたが、どうにも上層部からの通達らしいことは雰囲気で察することが出来た。

 が、この上層部の意思決定に関しては俺がどうにかできる問題じゃない。上には上の考えがあるだろうし、そもそも俺には何の金銭的負担はないので正直どうでもいい。

 嘘だ、束さんの影がちらつくのは気になる。

 

 ――それにしても、いい天気だ。

 

 半ば現実逃避気味に、今の状況を堪能することにする。日差しは夏らしく厳しいが、吹き込んでくる海風が頬を撫でて気持ちが良い。ここに来るバスの中であれだけ寝ても、眠りへと誘おうとしている様だ。あくびをしながら座布団を枕にして畳の上に倒れ込む。フローリングと違って、畳の上だと妙に落ち着く。海外勢はベッドの方がいいのかもしれないが。

 なんでもないことを考えていると、すぐに身体の奥がじんわりと温まって来た。遠く潮騒の音が聞こえるからか、波に揺れる様な感覚もやってきた。

 

 ――次の集合時間にはまだ余裕がある。

 

 あくびをしながら眠ってしまう前に携帯の目覚ましをセットした。そこまでは、なんとか覚えている。

 

 ◇

 

 潮の打ち寄せる音に混じって、優しい歌声が聞こえる。どこか懐かしい歌のリズムに合わせて、お腹をぽんぽんとさすられている。頭も、優しく撫でられているようだ。頭を預けていた、お世辞にも快適とは言えなかった座布団。それが今では柔らかさの中に丁度いい温かさと硬さがある。

 目を開ける。何かが覆いかぶさっているようだ。真っ暗とまではいかくとも、随分と影になっている。どかすことができるだろうかと手で触れてみた。

 

「ひゃぅ!?」

 

 寝ぼけ気味の頭では、歌声が可愛らしい悲鳴になったなぁというくらいしか認識できない。それにしてもこれ、柔らかいな。すくいあげるようにしてみたり、形を探る様に手を這わせてみたり、好奇心に任せて正体を探る。

 手に驚くほど馴染む、柔らかい謎の物体。丹念に正体を探っていると、表面につんと硬くなったものが現れて――まさか、これは。

 

「もうっ! ダメだよ!」

 

 ――むがっ!

 

 凄いアホっぽい声が自分の口から洩れたことに驚きだが、今まで覆いかぶさっていた謎の物体が俺の顔面に押し付けられたのである。変な声が出てしまうのも仕方ないだろう。

 

「あのね、いくらなんでも限度っていうのはあると思うよ?」

 

 声の主が束さんであり、声が上から降ってくるということを加味した上で、この俺の顔面に押し付けられている柔らかい物は何か。

 

 ――つまり、束さんのおっぱいである。

 

 至福、以外になんと表現すればいいのだろう。一度は大きなおっぱいに思いっきり顔を埋めてみたいと、男なら誰しも考えたことはある筈だ。しかしながら、小さいおっぱいも良い物なのは自明の理だ。それはともかくとして、こんな風におっぱいを押し付けられるのも束さんが巨乳の持ち主であるおかげだろう。

 とにかく男の下半身に直撃するこの状況は、全身の血流をかっと燃えたぎらせるには充分だった。ついでに、頭の血はさっと冷えていくのを感じる。熱くなる下半身とは別に、顔が、青ざめていくのがわかる。

 

 ――酸欠。

 

 おっぱいに埋もれて死ぬとか、マジか。わかりました、俺が悪かったので許してください束さん、と発する声はすべておっぱいに塞がれてもごもごとしたものにしかならない。

 必死に束さんの肩を叩いて降参の意思表示をする。

 

「ふふーん、わかったならイタズラは……まったくしちゃダメってことはないけど、それでも束さんも恥ずかしいっていうか……」

 

 というか自分から押し付けるのはオッケーなんですか。

 

「そりゃあ、束さんからする時もあるけどね? その時は平均で7時間41分35秒くらい前から心の準備をしてるし……やっぱり君から攻められると嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが爆発しちゃって……!」

 

 顔の上でおっぱいが左右に揺れる感覚。多分、束さんはいやんいやんと身体をよじっているのだろう。時々、ほんのちょっと凹凸らしきものを感じるのだが、これは下着なのだろうか。

 いや、それよりもだ。息が本格的に苦しくなってきた。肩を四つ叩くのはタスケテのサインである。タップ、タップです。

 

「……あれ? あぁぁぁ! ご、ごめんね! 大丈夫!?」

 

 ようやく束さんのおっぱいがため(ブレストロック)から解放された俺は、起き上がって肺に目一杯の空気を送り込む。磯の香りを感じる夏らしい空気だが、はっきりいえば物足りない。

 束さんのおっぱいに埋もれていた時、感じていた至福の甘さは今の空気にない。束さんのボリューム感あふれる胸の中でむせ返る程に蒸れた熱気。しかし匂いは不快ではなく、ほのかに甘いミルクの様でむしろ気持ちを落ち着ける。それでいて艶めかしく、官能的な予感を連想させる空気を吸い込めるのは、やはり先程の苦しさの中にしかないのだ。

 

「めっ、だよ! えっちなこと考えるのは禁止っ!」

 

 胸を隠しながら束さんが可愛く叫ぶ。横顔は満更でもない、という感じだが、言ったら間違いなく反論されるので黙っておく。が、俺が若干ニヤついているのが悪かったのか、束さんは頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。

 こうなってしまうとどうにも俺は弱い。引け目はこちらにあるし、拗ねさせてしまった負い目から俺はただひたすら謝る事しかできなくなってしまう。

 

「……反省してる?」

 

 束さんが、ジト目でこちらを見ている。

 

 ――もちろん反省しています。

 

「じゃあ、次はあんなえっちなことしないって、約束できる?」

 

 う、という声にならない(うめき)が漏れた。この時の俺の顔は、世界がどれだけ広くとも突き抜けて滑稽な顔をしていたに違いない。そんな俺を見て束さんはふふ、と笑ったかと思うと。

 

「そんな顔しないで? もう、男の子なんだから」

 

 と、私の胸に飛び込んできなさいと言わんばかりに手を広げた。

 

「私に甘えたかったんだよね?」

 

 束さんは微笑みながら、小首を傾げた。

 一も二もなく、束さんの胸元へと飛び込みたい。あの胸の中に飛び込んでひたすらに呼吸をしたい。柔らかな胸をいじり回したい。先程束さんの胸を触ってしまった反動か、怒涛の様に欲望が溢れ出し心臓は早鐘を打つ。

 それでも、ひとかけらの理性が俺を抑え込む。

 

「どうしたの? それとも……私に甘えるのは、嫌?」

 

 心底悲しそうな束さんに、そんな訳がないですと叫び出しそうになった時――。

 

「ちょ、ちょっと!? 大丈夫!?」

 

 束さんがこの世の終わりとでも言いかねない、真っ青な顔をしている。珍しいこともあるものだと思っていると、どろりと粘ついたものが唇に触れた。手の甲で擦ってみると、血が付いている。

 

 ――鼻血だ。

 

 興奮のあまり血が出て来たのか、この気温の中で昼寝をしていたのが悪かったのか、あるいは両方かも知れない。とにかく、それらが身体の不調となって表れていた。

 しかし、頭に昇っていた血が外に出たおかげか随分と頭が冷静になっていた。痛い位に興奮していたのも、すっかり圧を失って落ち着いている。

 

「なんともない? よかったぁ……」

 

 ほっとした束さんが脱力する。確かに鼻血が出てしまっただけなのでそこまで騒ぐことでもないのだが、一応不調は不調である。指定されていた医務室代わりの部屋に顔を出しておこう。

 

「はー、びっくりしたよぉ。でも束さんのバイオメトリカルな生体同期的体調管理は万全だったのに、こんな時に鼻血が出るなんておっかしいなぁ……」

 

 脱力したり驚いたり真面目になったりと、束さんは相変わらず見ていて飽きない人だ。そんな束さんを邪魔するわけにもいかないので、俺はそっと部屋を後にすることにした。

 体調不良を建前にした、戦略的撤退である。

 

「って、あぁぁぁっ! ちーちゃんに邪魔をされずに一緒にのんびり過ごす計画がぁぁぁ!」

 

 部屋を出る時、そんな束さんの悲痛な叫び声が聞こえてきたが引き返すことはしない。何故なら地獄の獄卒よりも恐ろしい顔をした織斑先生が、俺の部屋に飛び込んで行ったからである。

 

 ◇

 

「で、何か釈明はあるか?」

「きゃー! ちーちゃんこわーい!」

 

 あはは、と笑い声を上げながら憤怒の表情の織斑先生から逃げ回る束さんは実に楽しそうである。織斑先生が全力で動いているのを初めて見たが、あんな修羅の如き動きをする織斑先生の姿は怖いってもんじゃない。しかしそれを笑いながら、兎が跳ね回る様に追撃を全てかわしてしまう束さんも十分ヤバい。

 

 ――二人が、海に繰り出す為の水着でなければ。

 

 一体俺の部屋でどんな交渉が繰り広げられこうなったのか。人の身に過ぎない俺にはなんらわかりはしない。

 ただ、織斑先生は黒のビキニを。束さんはオリエンタルなピンク色のビキニの上に無地の白Tシャツを着ている。Tシャツは大きめの半袖で、膝上位までの裾の長さがある。何故Tシャツを着ているのに束さんの水着の色がわかるのかといえば、束さんが跳ね回る度にTシャツの裾が舞い上がりピンクの布地が見えるからだ。下着でなく水着であることは重々承知しているが、どうしても目が向いてしまうのは仕方ないんだ。

 ともかく、こういう気の抜けた格好で、傍目から見れば殺し合いと勘違いできるくらいの殺気を放って束さんをシメようとする織斑先生。それを笑顔でかわし逃げていく束さん。ギャップがあり過ぎてどうにも、真面目に受け止めるには真剣さが足りない。

 

「……束さん、凄いな」

 

 いや、お前の姉さんも同じくらいヤバいと一夏の呟きに返しておくと、パラソルとビーチチェアといった海水浴の為の拠点準備をすることにした。

 日差しはかなり強く気温も高い。休む場所もしっかりと準備しておかなければ。先程鼻血を出したばっかりだし、熱中症で救護室行きなど冗談にもならない。

 

「私も手伝います、お父様」

「むっ、私も手伝うぞ。父よ」

 

 クロエとラウラが競うように手伝いを申し出てくれる。いつの間にクロエが合流したのかまったくわからないが、束さんに真意を問いただすだけ無駄であるのでこの際いい。しかし、なんで二人ともスクール水着なのか。しかも、旧スクール水着というフェティッシュでマニアックなチョイスになってしまったんだ。

 

「お父様は、いえ、男性はこういう水着が好きだとリサーチ結果から得ましたが?」

「ああ、クラリッサから私の肉体を活かすのはこれが一番だと聞いたが?」

 

 だからといって疑問を持たないのはよくないと俺は思う。

 胸元のゼッケンに『くろえ』『らうら』と書かれた女子高生二人を父親と呼ばせながら引き連れた男子高校生など、控えめに言って不審者だ。特に事情を知らない同級生の視線で穿たれて死んでしまいそうだ。用意が済んだら、皆でオシャレな水着を買いに行こう。旅館の売店にもっといい水着があった筈だ。

 

「お父様にもそんな甲斐性あったのですね……」

「父は元から私たちの事を考えてくれる最高の父だぞ!」

「そうですか、私にはとてもそうとは思えませんね」

「なんだと!」

 

 はい、二人とも喧嘩しない、しないで、頼むから耳目を集める様なことは止めて、本当に。流石に俺の心がもたない。

 

「わかりました、この場ではやめときます。では、最後に飲み物ですね」

「そうだな、父が言うなら……私の方がいっぱい持てるからな!」

「あれー!? 束さんの事はスルーなの!? ちょっとくらい援護してくれてもいいんじゃないかなー!?」

 

 ははは、流石に激怒した織斑先生が相手だと俺は何もできません。頑張ってください、束さん。

 

「父に同じく。織斑教官が本気では……」

「……申し訳ありません、束様」

「薄情者ー!」

 

 そういう割には余裕そうな顔をしているので、束さんは大丈夫だろう。人外の争いを繰り広げる大人二人と尻目に、俺たちは予定通りに買い物に行くことにした。

 

「ええい! 学園の上層部に掛け合って臨海学校の行先を変更したのはお前だろう、束!」

「そうだよー? どうせならグレードも高い所がいいじゃーん!」

「上げ過ぎだっ!」

「あははっ! 私も出資してるんだからいいでしょー! 愛しい彼にあんなところ泊めさせられないよー!」

 

 束さんの笑い声と織斑先生の怒号が、青空のもとに響き渡った。

 

 ◇

 

「……頼みが……ある」

 

 いったいなんでしょうか、織斑先生。

 水着をフリル付きの黒ビキニに着替え直したラウラに扇がれながらじゃ、いつもの威厳は出ていませんよ。それに織斑先生がもたれているビーチチェアとパラソルは俺たちが用意したんですが。

 

「……本当に……すまないと思っている」

「大丈夫ですか、教官?」

「……教官は……やめろと……言っているだろう……」

「スポーツドリンクを追加で買ってきました、お父様」

 

 ありがとう、とツインテールに髪を結ったクロエからスポーツドリンクを受け取る。髪形でいえばラウラもツインテールだし、水着でいえばクロエもラウラとは色違いの、フリル付きの白ビキニを着ている。

 ペットボトルを織斑先生に渡しながら息を吐くごとに上下しては揺れている、織斑先生の意外に大きい胸を盗み見た。普段は恐ろしさばかりが先行するが、こうして弱っているところで見ると大人の女性らしい艶っぽさがあることに今更に気付く。

 

「……炎天下で……束を相手にするんじゃ……なかった……」

 

 女傑という称号が最も似合う織斑先生がこうも息も絶え絶えなのは、予想を裏切ることなく束さんのせいである。

 織斑先生は俺たちが水着を選んで、更にクーラーボックスに飲み物を買って詰めている間ずっと束さんと浜辺で追いかけっこをしていたそうだ。聞いているだけで倒れてしまいそうな話である。事実、織斑先生はグロッキーだ。

 

「むー、さっきからちーちゃんばっかり。束さん妬けちゃうなー!」

 

 そんなことを言いながら、織斑先生を再起不能(リタイア)にまで追い込んだ束さんが戻ってきた。あれ、そういえば束さん、織斑先生がここで休んでからどこに行ってたんだろうか。

 

「ふっふっふー、よくぞ聞いてくれました! 身体を冷やす為には南極の氷が一番だからね! ちょっと泳いで取りに行っていたのさ!」

 

 どやぁ、という効果音がピッタリな束さんに合わせて、胸がたゆんと揺れた。水に濡れてぴったりと張り付いたシャツが、巻き起こる魅惑の上下運動を如実に伝えてくれる。シャツが透けることによって見えるビキニが、下着の様に見えもして内心穏やかではない。

 

「……南極の氷が良い、か……初めて聞いたな……」

「そりゃそうだよ! だって私がさっき決めたんだからね!」

 

 どやどやどやぁ、と普段の織斑先生なら既にキレていそうな勢いの束さんである。胸をはる束さんに合わせて、薄い布地が引き延ばされる。白い肌とピンクのコントラストが、薄いベールによって申し訳程度に隠されているのがギリシャの女神像を彷彿とさせる。

 

「ま、そんなことはどうでもいいんだ。ほら、早くちーちゃんにこの氷を枕にして渡してあげなよ! はい、これタオルね!」

 

 なぜそこで俺に手渡すのか、どこからその氷が出て来たのか。今更束さんの行動を理解しようとするだけ不可能なのだから、言われた通り氷をタオルでくるむことにしよう。

 氷だから当たり前だけど、本当に冷たい。

 

「ほらほら、何してるのさ」

 

 ――あの、束さん? 近くないですか?

 

「えー? なんのことー?」

 

 俺の顔の横で、そんな無邪気な声を出さないでください。というか束さんの頬が俺の頬にくっついているんですが、どことは言えないですが非常に大きくて柔らかなところが、背中に。

 

「んー? どこがどこに当たってるのかなー?」

 

 女神(ヴィーナス)なんかじゃない、悪魔(サキュバス)が俺の耳元で囁く。

 

「ふふふ、もちろん……当ててるんだよ?」

 

 こんなに近くに居るというのに、クロエは気付いていないのだろうかラウラと共に織斑先生を団扇で扇いでいる。首を動かせないから目に見える範囲でさえ、他の生徒たちがこちらを見て騒いでいるという様子もない。どういうことだ。

 そんな俺の考えを余所に、束さんは俺の背中に抱きついたまま。獲物を絡め取る様に指を俺の手に這わせて氷にタオルを巻いていく。束さんという糸に操られた人形になった気分だ。

 

「……わ、私の前で……不純異性交遊は……」

「はーい! ちーちゃん氷枕だよー!」

 

 今の状況は織斑先生にしか見えていないのか。体力を削られきった織斑先生の批難も弱々しく、誰にも聞きとられることはない。当の俺はすっかり束さんの支配下だ。

 束さんの息遣いが、とても近い。俺を介さず織斑先生に氷枕を渡せばいいのに、わざわざ俺に氷を持たせたのはこの為だったのか。

 織斑先生に氷枕を渡した束さんの手が、するすると視界の外へ消えたかと思うと俺の肩を軽く掴んだ。

 

「……ねぇ」

 

 ぞくり、と背中を期待への恐怖とも甘美な痺れともとれないものが走る。俺の胸に垂れて張り付いた束さんの長い髪から、水滴が流れて落ちていくのを妙にはっきりと感じた。

 耳に息を吹きかけるように、そして俺にしか聞こえないように小さく、海の底へと誘う様な声で束さんは続ける。

 

「さっき、ちーちゃんのおっぱい、見てたでしょ?」

 

 どきり、と心臓が興奮とはまた別の鼓動を打った。いやに冷たい汗が、額を流れる。束さんの声色は全く責めているものではない。むしろ、悲しみに満ちている声。

 それがどうしようもなく、俺の心臓を絞り上げていく。

 

「もしかして、私じゃ……駄目?」

 

 束さんが、俺を抱く力を強める。押し付けられていた豊かなものが、俺の背中で更に形を変えていく。熱い柔らかさは柔軟に背中へと吸い付き、水を吸ってごわりとしたシャツと薄めの水着の感触が、暴力的なまでに俺の脳髄に訴えかけてくる。

 

「君を、満たすことはできないの……?」

 

 耳を()まれるのではないかというくらいに、束さんの唇の熱が俺の耳に伝わってくる。目の前が真っ白になっていく。俺の前にはビーチチェアに横たわる織斑先生が居る筈なのに、脳が視覚を遮断するほどに束さんの情報に飢えている。

 

 ――溺れる。

 

「私が、君の一番なんだから……」

 

 ――溺れてしまう。

 

 もう、溺れてしまおう。立ち上がって、束さんの手を取って、どこか誰も居ない場所で束さんを貪りたい。束さんは許してくれるし、それを望んでいるのだ。

 今だって、誰にも織斑先生以外には誰にも気付かれていないのだ。世界の誰にも邪魔される、思う存分に束さんを思いのままに出来る筈。

 

「な、な、な、何をしている……!」

 

 渚に降臨した小悪魔に侵されてどうしようもなくなった俺を正気に戻したのは、怒りに震える同級生の声だった。

 

「げぇっ!? 箒ちゃん!? なんでバレたの!? 光偏向ステルスフィールドは39.872秒ごとの63255秒分の1に存在する修正期間中に0.00035度以下のズレもなくウィークポイントから見ないと見破れないのに!?」

「この――!」

 

 ◇

 

 篠ノ之がなんと言ったかは覚えていない。この痴女姉だったか馬鹿姉だったか。

 ただ、篠ノ之のおかげで正気に戻った俺は即座に砂浜に倒れ込んで寝そべることにより、プライドの代わりに社会的な死を免れたのである。異性が99%を占める中、大変なことになっている下半身を見せてしまうことだけは絶対にダメだ。

 クロエもラウラも、急に倒れ込んだ俺を心配して濡らしたタオルを掛けてくれたり冷えたスポーツドリンクを渡してくれたりするのだが、その優しさが今はツラい。

 

「おい、起きてるか?」

 

 泣きそうな気持ちを(こら)えながら、砂浜に突っ伏していると一夏の声がした。仕方なしに顔を上げると、近い。だからさ、なんでお前はそんなに距離が近いんだ。顔の近くでしゃがむんじゃない。男の股間が近いとかどんな拷問だ。

 これ以上、一夏の下半身とのご対面は嫌なのでとにかく立ち上がることにする。

 

「お、おい、本当に大丈夫か……?」

 

 俺は大丈夫だから、一夏は篠ノ之の心配をした方がいい。束さんと追いかけっこなんて織斑先生の二の舞になるだけだからだ。

 

「そうか……それもそうだな。ちょっと飲み物とタオルとか用意してくるよ」

 

 一夏が離れていくのを確認して、俺は砂浜に座り込んだ。臨海学校は始まったばかりだというのに、とてつもない疲労を感じる。クロエが掛けてくれたタオルを頭に乗せて、ラウラが渡してくれたスポーツドリンクを飲む。

 ふと、気になってクロエとラウラに尋ねてみた。

 

 ――なぁ、さっきまで俺と束さんは何をしていた?

 

「……? なんのことですか? お父様はずっと私たちと一緒だったではありませんか?」

「いきなり篠ノ之が突然怒り出して、その……母が急に現れて驚きはしたが父はずっと私たちと織斑教官を看ていたじゃないか」

 

 変な事を聞いてしまったことを謝って、怪訝な顔をする二人を宥めて繰り広げられる姉妹喧嘩を見る。束さんが篠ノ之に見つかった時に叫んでいたことを鑑みれば、例のステルスフィールドとやらを使ってバスの中に潜んでいたとしてもおかしくない。

 

 ――まさかずっと隣か、あるいは目の前に居たのだとしたら。

 

 ほんの少し怖くなってしまい、掻き消すようにスポーツドリンクを飲み干した。

 

 ――そんなことある訳ないよな。

 

 束さんは、実の妹にマジギレされているというのに楽しそうに笑っていた。

 




夏ですね、毎度更新が遅れて申し訳ありません。
肉感的で官能的な表現って難しいですね。
安易な箒&一夏オチに走ったのはR18がダメなのとだいぶ長くなったからです。

束さんのおっぱいで窒息死したい人生だった。
エッチよりえっち表記の方がエッチな感じしません?
私はします。
クライン・クライン様の膝枕ネタを使わせて頂きました。

臨海学校編を一話に収めようと思ったけど長くなるので二話にします、多分。
今回は比較的健全な朝から昼辺りの導入部、のつもり
後編は混浴温泉含めたムフフな夕方から夜の部となる二部構成の予定です、きっと。
一話独立形式なので、リクエストにもあった温泉回は別れていても問題ないのです。
でも次回更新は未定、内容は束さんと温泉入るのをいつかするのは確定、いつか。
そろそろ束さんが途中から現れるパターンでなく、最初からイチャラブする感じを。
何やっても疲れがとれないのがとてもつらい。

よもぎもち様、夜渡様、hisashi様、誤字脱字報告ありがとうございます。

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