東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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5月12日 死人憑き

 

 私の朝は早い。ソラちゃんに付き合う時は勿論、いつだって三番目か四番目に教室の扉を開けて、まだ人がまばらな室内に、私の小さな挨拶が溶け込んでいく。

 朝の静寂に包まれた教室で椅子を引く音が、私は好きだった。人の目を気にしなくてもいいし、朝特有の穏やかな空気も好き。一方で5月12日の今日に限って少しばかり勝手が違うのは、仕方のないことなのだろう。

 机に鞄を下ろしていると、私よりも前に登校していた柊さんが声を掛けてくる。

 

「おはよう遠藤さん。体調の方はどう?」

「おはようございます、柊さん。えっと、はい。もう大丈夫だと思います」

 

 体調はどうかと問われても、多少曖昧にそう返すしかなかった。正直なところ、よく分からないというのが本音だ。

 事が起きたのは、昨日の5月11日。携帯で時坂君から聞いた話では、私は昨日テニスコート上で突然倒れてしまったらしい。ケイコ先生の診断によれば、病み上がりの身体で激しい運動―――要するに全力の打球を繰り返したことで、軽い貧血を起こしてしまったそうだ。そんな私を保健室へ運んでくれたのが、偶然近くを通り掛かった時坂君とユウ君だった。

 気付いた時には保健室のベッドの上で、その後は保護者代わりのタマキさんによって自宅へ送り届けられた。倒れた際の記憶があやふやな上に、自覚症状らしいものが微塵も感じられなかったけど、沢山の人に心配を掛けてしまったのは事実の筈だ。アリサ先輩らの所にも後で顔を見せに行こう。

 

「確かに顔色は良いみたいね」

「はい。でも念の為に、体育の授業は見学にしようと思います」

 

 元々先週末の欠席の影響で授業に遅れがちになっていたし、無理をしてまた倒れてしまっては本格的に不味いことになる。明日と週末のアルバイトのことを考えても、今日のところは大人しくしていた方が安牌だろう。

 

「大事なさそうで安心したわ。でも記憶があやふやって言っていたけど、本当にそうなの?」

「はい、全然覚えていないんです。寒気がしたと思ったら、もう倒れて・・・っ・・・・・・?」

 

 答えながら視線を上げると、随分と近い位置に柊さんの顔があり、思わず後ずさってしまった。

 本当に覚えていないのだ。小さい頃に一度だけ似たような経験をしたことがあったけど、あの時と比べてもやはり感覚が異なっている。少なくとも『倒れた』という自覚はあっていい筈なのに、昨日はそれすら無かった。少しばかり気味の悪さが残ってしまう。

 

「そう。また体調が悪くなったら、我慢だけはしないでね。日直も今日は私が引き受けるわ」

「はい、そうしま・・・・・・あっ!?」

 

 何気ない柊さんの申し出に慌てて腰を上げて見ると、既に配布物の類や日誌が教壇の上に置かれていた。黒板の隅に掛かれていた筈の私の名前も『柊明日香』に書き換えられていた。

 柊さんってすごい。そう感じつつも申し訳ない気持ちと情けなさで一杯になった私は、朝から大きな大きな溜め息を付いていた。

 

________________________________________

 

 その日の放課後。私は昨日と同じ足取りを辿って、敷地内の南西へと向かった。南側へ出たところで、遠目にはアリサ先輩の背中が映り、エリス先輩の姿は何処にも無く―――寧ろ昨日とは異なる一つの変化に、私は大いに首を傾げてしまった。

 

「あら、遠藤さん。今日も来てくれたのね。身体はもう大丈夫なの?」

「はい、もう平気ですけど・・・・・・あ、あの。フェンスは、どうしたんですか?」

 

 一般的にテニスコートはボールが外へ出ないよう、フェンスの類で囲まれる。杜宮学園のテニスコートも例外に漏れず、コートの南と西側に緑色のネットフェンスが設置されていた。されていた筈だ。なのにそれが『無い』。昨日には在った西側のフェンスが、綺麗サッパリ消えてしまっていた。

 

「私も聞いた話だけど、昨日貴女がフェンスへもたれ掛かった際に、根元から倒れてしまったそうなの。そのままにしては危険だから、昨日のうちにゴロウ先生が撤去してくれたみたいね」

「あ・・・・・・す、すみませんっ。えと、本当にすみません!」

「フフ、気にしないで。ゴロウ先生も倒れる瞬間を見ていたらしくって、元々施工が悪かったのかもって言っていたわ。遠藤さんに怪我が無かっただけでもよしとしましょう?」

 

 何て真似をしでかしたんだ、私は。施工に不備があったにせよ、相当な破壊力のタックルをフェンスへ見舞ったのだろう。新しく設置するにもそれなりの費用が掛かってしまう。これは教職員の方々にも謝罪をしないといけない。

 それにしても、「聞いた話」というアリサ先輩の言い回しには引っ掛かる。私が倒れた時には、先輩もコート上に立っていた筈なのに。

 

「実は私もエリスも、よく覚えていなくって。遠藤さんが倒れて、気が動転していたのかもしれないわね。それに貴女には悪いことをしてしまったから、謝らなきゃいけないのは私達の方よ。ごめんなさい、遠藤さん」

「いえ、そんな。気にしないで下さい」

 

 私とアリサ先輩は頭を下げながらの「すみません」「ごめんなさい」を二、三度繰り返した後、二人揃って笑みを浮かべた。どう考えても私の方に責があるような気がするけど、今回はお互い様ということにして水に流して貰おう。

 私がアリサ先輩の相方について聞くと、エリス先輩はクラス委員同士が集うミーティングに参加中とのことだった。普段のお嬢様面をするエリス先輩はクラスでも評判の良いクラス委員長だそうで、本人もそんな自分を割と気に入っているらしい。

 

「じゃあ、エリス先輩が来るまで練習できないんですね」

「いつものことよ。でも、そうね。遠藤さん、少し相手をして貰えるかしら」

「え、ええ?」

「大丈夫、軽くボレーボレーをするだけよ。グリップテープを新調したから、感触を確かめておきたいの」

 

 アリサ先輩はそう言って、予備のラケットを貸してくれた。昨日の一件があるしコートに立つ訳にはいかないけど、近距離でボールを当てるぐらいならほとんど動かずに済む。アリサ先輩の役に立てるのなら、喜んで付き合おう。

 私達は三メートル程度の間隔を空けてコートの脇に向かい合い、静かにボールを打ち合った。アリサ先輩はグリップの握り具合を確かめながら、私は手元に戻ってくるボールをそっと叩くを繰り返す。

 ボールは正確に、そのほとんどが正面からやや右側の前方、私の打ちやすい場所へ返って来た。一見地味に映るやり取りかもしれないけど、この域の正確性とコントロールは易々とは身に付かない。やはりとんでもない人だ。

 感心していると、アリサ先輩が唐突に切り出してくる。

 

「私達は、少し似ているのかもしれないわね」

「似ている、ですか?」

「私もテニスは家族に教わったの。私のお母さんも、ソフトテニスのトップ選手だったのよ。一時期はナショナルチームに選手として所属していたわ」

「に、日本代表?」

 

 アリサ先輩は手を止めずに語ってくれた。

 アリサ先輩のお母さんは二十歳にしてナショナルチーム選手として選抜され、四大国際大会でも実績を残したトップレベルの実力者。そんな女性を母親に持つアリサ先輩も、幼少時から当たり前のようにラケットを握っていた。物心付いた時にはコート上にいて、小学生に上がると同時にジュニアチームへ所属。エリス先輩との出会いも、その頃の話らしい。

 現役を退いた後は、選手ではなく指導者としてナショナルチームに残留。アリサ先輩のテニスも、母親譲りの面が多々残っているそうだ。

 

「すごく不器用な母親だったと思うわ。テニスで叱られたことは少なかったけど、褒められたことも数えるぐらい。いつも仕事みたいに淡々と指導するだけで、周囲からも変な目で見られていたわね」

「・・・・・・その、何て言ったらいいか」

「フフ、ごめんなさい。でも子供の頃って、幼いなりに色々考えたり感じたりするものでしょう?不器用で偏屈な愛情はしっかり受け取っていたし、私はそんなお母さんが大好きだったわ」

 

 そう言って笑うアリサ先輩の表情を見れば、すぐに理解できる。多少私とは経緯や事情が違っているけど、確かに通じる部分はあるかもしれない。

 それに―――先輩は今、「だった」を三度言った。己の肉親を語る上で使われた過去形。聞かなくたって分かってしまう。それも含めて、私とアリサ先輩は似ている。そういうことなのだろう。

 

「だから私は、テニスで負けては駄目なのよ」

「え?」

「おーっす。悪い、遅くなった」

 

 僅かに乱れたアリサ先輩のボールを返したところで、背後からエリス先輩の声が聞こえた。振り返った先には、小走りで駆けて来る運動着姿のエリス先輩がいた。

 私が昨日の件について謝罪すると、エリス先輩はひどくつまらなそうな表情を浮かべたと思いきや、悪戯に笑った。

 

「別にいいって。でもその代わりに入部してくれるんなら話は別だけどな」

「そ、それは違う話で・・・・・・あ。クラス委員のミーティングに、二年生の柊さんって出ていましたか?」

「柊?ああ、二年B組のあいつか」

 

 放課後に日直を代わってくれたお礼を言おうと思っていたのだけど、柊さんはSHRが終わった後すぐに教室を出て行ったことで、声を掛け損なってしまっていた。エリス先輩が来たということはミーティングも終わっている筈だし、今からならまだ間に合うかもしれない。そう考えていると、エリス先輩が言った。

 

「ミーティングが終わった後、屋上に行ったと思うぞ」

「屋上?」

 

 エリス先輩の話では、ミーティングは生徒会室の一画で行われていた。ミーティング終了後に中央階段を下ろうとしたエリス先輩は、屋上へ繋がる階段を上る柊さんの背中を目撃したらしい。

 柊さんは特徴的な容姿をしているし、エリス先輩の見間違いという訳でもないのだろう。何かしら用事があったもかもしれない。

 

「すみません、今日はこれで失礼します」

「いつでも来いよ。大歓迎だから」

「で、ですからそれは話が違います」

「フフ。またね、遠藤さん」

 

 私は困り顔で先輩らに挨拶をしてから、屋上へ向かった。

 

_______________________________________

 

「ごめんなさい。待たせてしまって」

「いいって。俺達もさっき来たばっかだしな」

 

 5月11日の放課後に続いて、屋上の隅に集う四人の適格者達。コウ、ユウキ、ソラ、そして今し方合流したアスカ。その目的は言わずもがな、昨日に発生した異界化の真意を探ることにあった。

 

「三人共昨日の記憶は無いみたいだし、今回は被害が小さくて何よりだったな」

「結果的にはでしょ。コンクリートで固定されたフェンスを薙ぎ倒すって、相当な衝撃だよ。それに『元凶』はまだ何処かに潜んでいるみたいだしね」

 

 昨日に異界化の影響を受けたのは、テニスコート西側のフェンスのみ。あの場に居合わせた人間が少なかったこともあり、結果として怪我人を出さずに済んだものの、現象自体はユウキが言うように決して穏やかではない。先回りをして再発を防ぐ為にも、早急に事態の解明に当たる必要があった。

 

「でもこれで、元凶には大きく近付くことができましたよ」

「ええ。市民体育館の事件と照らし合わせれば、共通点はかなり絞り込めるわ」

 

 現時点の共通事項は、異界化が発生した際に三人の女子がいたということ。発生場所にテニスコートがあったことと、テニスというキーワード。手探り感が否めなかった昨日と比較すれば、異界化と引き換えに大きく前進することができていた。

 

「特に気になるのは、どちらも同じ三人が居合わせていたっていう点ですよね」

「そうね。三人のうちの誰かに共鳴した可能性が、最も高いのだけど・・・・・・」

「なら相沢の時みたいに、サーチアプリを使えばいいんじゃねえか?」

 

 コウの案に、アスカは首を横に振った。

 

「『死人憑き』が異界の主の場合、異界化が読み辛いのよ。サーチアプリが算出した数値の信憑性は低い。寧ろ惑わされてしまうケースが多いの。市民体育館の時のような先回りは、期待しない方がいいわ」

「そうなのか・・・・・・随分と厄介な相手なんだな」

「以前にも話したけど、異界化について分かっていることは少ない。私達が把握している情報の多くは、副次的な現象や人間の証言、目撃談に過ぎない。そこから可能性を探し出すしかないのよ」

 

 今回の件を例にすれば、異界化の際に周辺の気温が下がるという現象は、過去の事例から導き出された言わば経験則。『何故気温が下がるのか』という仕組み自体は明らかではなく、単に可能性を割り出しているに過ぎない。

 同時に結社へ蓄積された情報の半分以上が、執行者をはじめとする者達の経験でしかない。人間の感覚という不確かなフィルターを通している限り、そこには錯覚という誤差が生じる。曲解や想像が入り混じった情報は誤った可能性を生み、攪乱する。今回の事件に関わっているとされる死人憑きも、アスカの憶測である以上、元凶の正体とするには確実性に欠ける結論だった。

 

「とりあえず、もう一度話を整理した方がいいと思います。あの三人にもいくつか共通点がありますよね?」

 

 ソラの声に、アスカが昨日同様サイフォンを用いて現状の整理を始める。

 まずはテニス。女子テニス部の二人は共卓越した実力者で、数ある大会で実績を残しているという点は、杜宮学園でも知れ渡っている事実。そしてアキについても、コウとユウキは直に目の当たりにしていた。

 

「俺はテニスをよく知らねえけど、あれはもう女子高生の域じゃねえと思うぜ。色々な意味で」

「一子相伝の暗殺拳の使い手か何かでしょ。ジョインジョインアキィって感じ」

「ユウキ君、何言っているのか全然分かんない」

「まあ今のは置いといて。そろそろ話してもいいんじゃない、コウ先輩」

 

 思わせ振りなユウキの台詞に、ソラとアスカがコウの様子を窺う。

 三人の共通点の他に、見逃せない一つの事実。そしてコウとユウキの予感。簡単に触れてはいけないと思う一方で、異界化の瞬間に耳にしてしまった以上、やはりソラとアスカにも伝えておかなければならない。

 

「あいつには、兄ちゃんがいたらしい。半年前に、亡くなっちまったそうだ」

「・・・・・・そう。お兄さんが」

「なあ柊。お前が言うように、本当に死人憑きってのが元凶だとして・・・・・・もしかして、その呼び名に何か関係があるのか?」

 

 死人憑き。アキが抱える過去。両者を結び付ける、故人という概念。言葉以上の繋がりはあるのかというコウの問いに対し、アスカは頷いて同意を示す。

 ほとんどの場合、死人憑きは特定の故人に対する強い感情を敏感に嗅ぎ付け、その持ち主と共鳴する。その名から連想される、特有の性質と傾向があった。

 

「やっぱりそうなのか。ならどうして昨日のうちに話してくれなかったんだよ」

「故人に対する想いと一言で言っても、それは人として当たり前の感情でしょう。私達ぐらいの年代なら、親しい肉親や知人を亡くした過去を持つ人間は大勢いるわ」

「・・・・・・まあ、それには同意だ」

「感情が無形である以上、人の数だけ想いは存在する。愛情のように言葉で簡単に表現できる感情もあれば、そうでない複雑な物もある。真っ直ぐと、歪。死人憑きはとりわけ後者に憑り付くのよ」

「遠藤先輩もそうとは限らないって訳ね。でも昨日の様子だと、結構ヘビーな感じがしたよ」

「ちょっとユウキ君、そういう言い方は」

「待って」

 

 ソラが言い掛けたところで、アスカが手を前に出して制止する。三人がその意味を理解しかねていると、アスカの視線は後方。屋上と屋内を繋ぐ扉のある方角へと向いた。アスカは表情を曇らせて言った。

 

「私としたことが・・・・・・お願い。逃げないで、出てきて貰えるかしら」

 

 声を掛けてから、十数秒後。その先には、当の本人が立っていた。

 

__________________________________________

 

 誰もが唖然とした。他人に聞かれてはならない以上、異界に関わる事柄は人前で絶対に話さない。そう決めていた筈なのに、最も聞かれては困る人物が、四人の視線の先に立っていた。アキは今にも泣き出してしまいそうな表情で床面を見詰めながら、ゆっくりと四人の下へ歩み寄った。

 

「遠藤さん、正直に答えて。いつからそこにいたの?」

 

 アキは俯いたまま、声を出せずにいた。その様子から、四人は最悪の返答を受け取ったのだと理解した。

 事実アキはアスカから一歩遅れて屋上に辿り着き、話の冒頭こそ聞き逃していたものの、大半を立ち尽くして聞いていた。その大部分へ理解が追い付かない一方で、聞いてしまっていたのだ。フェンスが壊れた原因、異界化をはじめとするキーワード、そして四人が己の過去に触れようとしたことも。

 困惑するコウら三人とは裏腹に、アスカはやれやれと肩を落とした後、静かに口を開く。

 

「仕方ないわね。遠藤さん、先に謝っておくわ」

「え・・・・・・な、何ですか?」

「大丈夫、動かないで。すぐに終わるから」

 

 アスカが取った方法は、執行者として当然の判断。民間人を巻き込んではいけない、一歩たりともこちら側へ踏み入らせてはならないという理念に基づく、当たり前の選択だった。

 

「待てよ、柊」

 

 アキの記憶を操作すべく掲げられたアスカの右腕を握り、コウが両者の間に割って入る。アスカは訳が分からないといった様子で、目を細めてコウの右手を睨みながら言った。

 

「何の真似かしら、時坂君」

「それはこっちの台詞だろ。遠藤には記憶操作が効かねえって言ってなかったか」

「前回よりも強力な術式を使うわ。少し消去の幅が広がってしまうけど、目を瞑るしかないでしょう」

「だったら尚更だ。今回は話が違うと思うぜ」

 

 アスカが記憶操作の術式を使用する姿を、コウは何度か目の当たりにしている。4月17日には、不運にも異界に関わってしまったシオリの記憶をアスカが消去することで、当人を平穏な現実世界へと送り帰していた。

 しかし今回に限って言えば、アキは耳にしただけ。偶然立ち聞きをしてしまったに過ぎない。そんなアキの記憶までもを、しかも通常とは異なる術式で大部分を消し去ってしまうのは、道理に外れている。そもそも他者の記憶は簡単に操っていいものではない。それがコウの言い分だった。

 

「感情論と正論を振りかざしてしまうのは、あなたの悪い癖だと受け取っておくわ。それで、この状況はどう対処すべきなのかしら。『今のは全部妄想です』で済まそうとでも?」

「いや、最終的にはお前に従うべきなのかもしれねえけど・・・・・・どっちにしろさっきの話だと、俺達は遠藤のかなり深い部分に触れないといけねえ。違うか?」

「それは・・・・・・」

「なら俺達も、腹を割って話すべきだろ。たとえ消えちまう記憶だとしてもだ」

「聞きたい過去を聞き出してから、記憶を消せと言いたい訳?」

「違う、そうじゃねえよ。聞き出すんじゃなくて、筋を通して今の遠藤と正面から向き合うべきだって言ってんだ。同じB組のクラスメイトとして、一人の友人としてな」

「まあ、僕もコウ先輩に賛成かな」

 

 ―――たまには素直になった方がいいよ。急にいなくなっちゃうことだってあるんだから。

 

 アキの何気ない一言が現実の一歩手前まで迫った時、そして掛け替えの無い姉を取り戻した瞬間に、ユウキはアキの言葉を胸に刻んだ。そんな彼にとって、アキの過去は決して他人事ではなく、そこに触れるということの重みを誰よりも理解していた。

 そして勿論、アスカにとっても。分からない筈がなかったのだ。

 

「・・・・・・いいわ。この場はあなたに任せましょう」

「ワリィ。損な役回りをさせちまって」

 

 それまで背を向けていたアキへと振り返り、コウは改まった声で言った。

 

「遠藤・・・・・・いや、アキ。何が何だか分からねえってのが、正直なところだと思う。でも頼む、聞いてくれ」

 

 市民体育館の事件は、地盤沈下が原因ではない。昨日も普通では起こり得ない『何か』が起きた。異界という単語を使わずに、コウはアキに語り始める。余りにも突拍子が無い非現実に、しかしコウの只事ではない表情に、アキは自然と聞き入ってしまっていた。

 

「普通じゃない、何か?」

「ああ。お前は勿論、もしかしたらテニス部のあの二人だって、またあんな事件に巻き込まれちまうかもしれねえんだ。だからその、上手く説明できねえけど。お前の兄ちゃんの話を、聞かせてくれねえか?」

「・・・・・・それが今の話に、関係あるんですか?」

 

 関係あるかもしれないし、ないかもしれない。そんな半ばいい加減とも取れるコウの返答に、アキは周囲を見渡した。目を閉じて普段とは違う顔を見せるアスカ。様々な感情を浮かべて自身を見詰めるソラ。珍しく真剣で神妙な面持ちのユウキ。頭を下げて頼み込むコウ。

 興味本位や気紛れなんて物は、何処にも無かった。あるのは切実な想いと、友と呼んでくれたクラスメイトの姿。そして得体の知れない『危険』。自分自身はともかく、テニス部の二人も巻き込まれかねないというコウの言葉に、分からないことだらけの中で、アキは静かに口を開いた。

 

「私は・・・・・・お兄ちゃんを知って貰うには、私のことから話さないといけませんね」

 

_________________________________________

 

 二つ年上の、唯一の兄がいた。体格に恵まれていて、小さい頃から運動系の催しがある度に活躍しては、周囲を驚かせる。運動会ではいつも英雄扱いされていた。口数は少なくて寡黙な方だったと思うけど、所謂人当たりは良い人だったし、お兄ちゃんを慕う友人は大勢いた。

 両親が朝から晩まで働き詰めのパン職人だったこともあり、私とお兄ちゃんはいつも二人。二人一緒が当たり前で、兄妹喧嘩らしい喧嘩なんて一度も無かった。好きとか嫌いとか、そういう概念もなかった。お兄ちゃんが中学一年に上がるまで、お風呂さえ一緒だった。

 田園風景が広がる田舎町に遊び道具は少なく、学校が終わった後は決まって町民体育館へ走った。とりわけ敷地内にあった一つのテニスコートは、私達の遊び場。日が暮れるまで、ボールを打ち合った。年頃の男の子がサッカーや野球に入れ込む中、お兄ちゃんはいつだって私とのテニスを選んだ。両親も日頃の忙しさを申し訳なく思ったのか、年齢に見合ったラケットやボールを買い与えてくれた。

 

『なあアキ。俺さ、テニス部に入ったんだ』

 

 事情が変わったのは、お兄ちゃんが中学で部活動を始めた時。才能もあったのだろう。未経験者がほとんどの中、新入部員である筈のお兄ちゃんにとってテニスは日常の一部。本格的な指導者と練習の場を手にしたお兄ちゃんは一気に急成長を遂げ、一年生の身でレギュラーの座を勝ち取った。

 あの頃から、私も変わった。ラケットは遊具用から競技用のそれに代わり、お兄ちゃんとの遊びは競技としての練習に代わった。お兄ちゃんを介して知識を身に付け、ラケットを振るう毎日。変わらなかったのは、時間を見つけては二人でコート上を走り回るという日常だけだった。

 一方の私は、中学では部活動に入らなかった。お店の手伝いにもそれなりに時間を割くようになっていた時期だったし、何よりお兄ちゃん以外の誰かとのテニスには、少しも魅力を感じなかった。

 高校生になったお兄ちゃんは、活躍の場を広げた。元々最寄りの進学校は強豪校として知られていて、体格を活かしたお兄ちゃんのテニスは、全国区で通用するレベルにまで達していた。県内に留まらず、その名は高校のテニス界に知れ渡った。そんなお兄ちゃんが、私の自慢だった。

 

『ありがとな。いつも付き合ってくれて』

 

 その一言が、堪らなく嬉しかった。私はテニスの教養本を買い漁り、より本格的なテニスを勉強した。戦術や練習方法を研究し、遠出をして大きな大会に出向き見学することもあった。

 何よりお兄ちゃんの練習相手として役立つ為に、己の鍛錬を怠らなかった。お兄ちゃんのフォームを真似して、男子に負けない打球を求め始めた。お兄ちゃんと同じ重量級のラケットを、来る日も来る日も振るった。それが引き金になったのだと思う。私の右肘が壊れたのは―――お兄ちゃんと同じ高校に入ってからのことだった。

 

『ごめんなさい、お兄ちゃん』

 

 ずっと続くと思っていた日常は、跡形も無く崩れ去った。右肘を痛めた私はお店の手伝いすらままならず、専門医の指導でリハビリを始めた。逸る気持ちとは裏腹に治癒には時間が掛かり、夏のインターハイに向けて練習に励むお兄ちゃんの姿を、私は見守ることしかできなかった。ひどく歯痒くて、リハビリを焦っては専門医に怒られるを繰り返した。

 その頃になって漸く、自分が『普通ではない』ことに気付かされた。テニスやパン作りの時間を失った私には、何処にも居場所が見付からなかった。親しい友人がいなかった訳ではないけど、少なくとも教室では、独りぼっちだった。

 

『聞いた?あの子の話。近付かない方がいいよ』

 

 知らぬ間に、私を見る奇異の目だけが増えていった。必死になって兄を支えようとする私の姿は、他人からすれば常軌を逸しているとしか映っていなかった。近親相姦願望を持つ妹という噂を耳にしたのは、一度や二度ではなかった。

 周囲の目を気にするようになったのは、あの時期からかもしれない。同年代、特にクラスメイトの視線は、私にとっては侮蔑や拒絶以外の何物でもなかった。誰かが私を見る度に息が詰まり、声が出なくなってしまう。知り合い以外とは、まともに会話すらできなくなっていた。

 お兄ちゃんは私を気遣いながらも、変わらずにテニスへ打ち込んだ。だから私は、分からなくなってしまった。何故自分がラケットを振るっていたのか。私にとってのテニスは、一体何だったのか。時間を持て余しては考えて、答えが出ずに塞ぎ込む。それまで続いていた日常が当たり前過ぎて、私は段々と自分を見失っていった。

 そしてリハビリの効果が出始めた、夏のインターハイ当日―――別れもまた、突然だった。

 

_________________________________________

 

「お店を閉めて、両親と一緒にお兄ちゃんの応援に駆け付けたんです。その時の事故で、お兄ちゃんとお父さんを亡くしました。その後は・・・・・・お店については、時坂君にも以前話したことがありましたね」

「・・・・・・そうだったっけな」

 

 大切な肉親を亡くしたのは、アキだけではない。伴侶を失ったアキの母親コマキに、自営のベーカリーを守る気力は残されていなかった。アキの手助けの甲斐あって、暫くの間は続けることができたものの、本来の店主が不在では人手不足は勿論、商品の質に関わってしまう。次第に客足も離れ、遂には店その物を手放すしかなかった。

 すっかり意気消沈した二人に手を差し伸べたのが、コマキの妹のタマキだった。タマキの勧めでアキは杜宮学園の転入試験を受け、精神を病んだコマキは東端にある実家で療養生活を始めた。アキには心機一転して貰おうと、自身が借りているアパートでの一人暮らしを提案した。

 

「それが私とお兄ちゃんの、っとと」

「あ、アキ先輩、大丈夫ですか!?」

 

 話しながら突然ふら付いたアキの身体を、ソラが支える。アキは憂い顔のソラに力無く笑った。

 

「すみません。流石にあんな話を聞かされた後、昔を思い出したら・・・・・・少し、一人にして貰えませんか」

「で、でも」

「大丈夫。もう立てるから」

 

 アキはしっかりと両の足で立ち直した後、「失礼します」と一言を置いて、踵を返して歩き始める。コウは一瞬躊躇いつつも、その場を去ろうとするアキへ言った。

 

「話してくれて、ありがとな」

「いえ。参考になりましたか?」

「ワリィ、それはまだ何とも・・・・・・でもさっき言ったことは本音だぜ。付き合いは短いけど、俺はお前をすげえ奴だって思ってる。一人の友人としてだ」

「・・・・・・ありがとう、ございます」

 

 それがコウの精一杯だった。何かを想わずにはいられないユウキもソラも、押し黙ってアキの背中を見詰めることしかできなかった。一方のアスカは顎に手をやりながら、考え込むような仕草を取っていた。

 

「柊、どうかしたのか?」

「少し、気になることがあって・・・・・・」

 

 小声でそう返したアスカは、何かに思い至った様子でアキの後に続いた。急ぎ足で階段を下ると、ちょうど三階へ下りたアキの背中が視界に入る。アスカはアキを呼び止めた後、先程の話の中にあった一点について触れた。

 

「ごめんなさい遠藤さん、気を悪くしないで欲しいのだけど。さっき貴女が言っていた『事故』って、交通事故か何かかしら」

「あれは・・・・・・正確に言えば、自然災害です。柊さんは知らないかもしれませんね」

 

 アキは半年前の『事故』の原因について、簡潔に説明した。全てを聞き終えた後、アスカは努めて表情を変えようとせず、平然と立ち振る舞って階段を下るアキを見送った。

 自身の予想が当たっていたのか早合点なのか、現時点では判断が付かない。まずは確かめることが先決だ。そうアスカが考えた矢先に、背後から彼女へ声を掛ける女子生徒の姿があった。

 

「記憶操作の術式、使わなくて宜しかったのですか?」

「・・・・・・精神状態が不安定な今の彼女に、強力な術式は危険過ぎる。そう判断したまでです」

 

 アスカは振り返らずに、声の主へと問い掛ける。

 

「一つお尋ねします。と、わざわざ前置かなくてもいいのかしら」

「はい。あの災害の対処に当たったのはこちら側ですから、私も存じています」

 

 半年前の夏、7月31日。関東某所で発生した竜巻は、観測史上二番目に強力とされるF3クラス。家屋の全半壊は三百を超え、およそ千台以上の自動車が被害に遭い、死者十数名と四百名の負傷者を生み出した。自然災害としては小規模であっても、日本では珍しく被害の大きい竜巻災害として、そして数名の『行方不明者』が発生した事例として、大々的に報道された。そして『裏の世界』では単なる自然災害ではなく、一つの小さな災厄として知られていた。

 

「彼女もまた、異界との因縁を持つ人間なのかもしれませんね。現時点では、何とも言えませんが」

「やはり・・・・・・そうだったのね」

「今回の事件との関連性は無いと考えます。ですがあの災害の裏には、S級グリムグリードがいた。それが真実です」

「一度繋がりを持った人間の中から、連鎖的にグリードと共鳴してしまう者が現れるケースがある。その可能性についてはどうお考えですか?」

「可能性はあるとだけ。いずれにせよ助力は惜しみません。いつでもお声掛け下さいね」

「・・・・・・お気持ちだけ頂いておきます。ご協力、感謝します」

 

 


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