東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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3月20日 拒絶

 

 最寄り駅から路線バスに乗り、国道沿いを順調に進むこと約十分。

 大学構内入口のロータリーに降り立った途端、新鮮味溢れる光景が視界一杯に広がって、思わず足が止まった。私の隣に立っていたアキヒロさんも同様で、感嘆の声を上げ始める。

 

「すっげえ広いのな。大学ってのは全部こうなのか?」

「全部って訳ではないと思いますけど、総合系の大学はこんな感じだと思いますよ」

「見たことあんのかよ」

「はい。一年生の頃、大学の見学会がありましたから」

 

 まだ伏島にいた頃の話だ。大型バスを使い、同学年の生徒全員で、地元の国公立大学を訪ねたことがある。あの時も高校とは比較にならない構内の広大さに驚かされた。まるで規模が異なる別世界だ。

 

(そういえばここって……アスカさんと、時坂君の)

 

 異界関係者が在籍しているからだろうか。私の記憶違いでなければ、この大学はアスカさんと時坂君の志望校でもある。第一志望ではなかったと思うけれど、来年の今頃はあの二人がこの道を歩いているかもしれないと考えると、不思議な感覚があった。

 

「おい。いつまでぼーっとしてんだよ」

「あ、すみません。そろそろ行きましょうか」

 

 入口付近に設置されていた案内板で、現在位置を確認する。念には念をと考え、公式ホームページから構内のマップをプリントしてあるから、迷うことはないだろう。学生の姿は散見されるし、分からなければ尋ねればいい。アイリさんが話していた通り、日曜日でもそれなりの人数がいるようだ。

 二人並んで中央の通りを歩いていると、アキヒロさんが首元に手をやり、息苦しそうな表情を浮かべた。杜宮駅で落ち合って以降、もう何度も目にした仕草。思わずクスリと笑うと、手の甲で頭を小突かれてしまった。

 

「痛っ。あの、アキヒロさん?いちいち叩かないで下さいよ。何回目ですか、このやり取り」

「るせえ。ったく、息苦しくて仕方ねえんだよ。オッサン共は何で平然としていられんだ?同じ人間とは思えねえぞ」

「ま、まあまあ。大学を出たら外していいと思いますよ」

 

 今日の私の服装は杜宮学園の制服姿。一方のアキヒロさんは、紺色のスーツとネクタイを着用した、畏まった出で立ちをしていた。

 アキヒロさん曰く、今の職場へ勤めるに当たって、梧桐さんが彼に贈った平服だそうだ。梧桐さんからは出世『三倍』払いと脅されているらしいけれど、就職祝いのような物なのだろう。見掛けによらず面倒見がいい一面は、高槻先輩を思わせる。

 

「それにしても、金を払ってまで勉強しようって奴の気がしれねえな。理解不能だ」

「そ、そこまで言わなくても……でもアキヒロさんだって、技能講習を受けるって言ってましたよね。何でしたっけ、あれ」

「フォークリフトのことだろ。資格取んのに必要なんだよ。今の職場じゃ必須だからな」

「へえ。フォークリフトって、何に使うんですか?」

「何ってお前、こうやって二本のツメをぶっ刺して荷物を運ぶんだよ」

「ツメを、刺す?」

「だからこういうツメをな、こうやって、こう」

「……キョンシーですか?」

「お前バカじゃねえの?」

 

 再び叩かれた頭部を擦っていると、目的地と思しき建屋が目に入る。地図と周囲の立地を照らし合わせて、再度確認。間違ってはいないはずだ。

 

「理学部棟三号館……ここですね」

「やっとかよ。さっさと入ろうぜ」

「あ、待って下さい。日曜日は開いていないそうなので、インターホンを使わないと」

 

 インターホンを鳴らすと、事務員と思しき女性が対応してくれた。

 指示に従い、入ってすぐのエレベーターに乗って五階へ。通路に出ると人気はなく、私達の足音だけが際立って聞こえた。各部屋の扉には研究室名の他、担当教員の氏名が記された札、在席と不在の何れかを示すプレートが掛けられていた。

 そして私達が辿り着いた先は、『植物生理学研究室』。主である大西教授は、私が扉をノックするよりも前に、部屋の中から告げた。

 

「どうぞ。開いているよ」

「し、失礼します」

 

 一声置いてからそっと扉を開けて、恐る恐る中へ入る。

 私達を迎えてくれた大西教授は小柄な初老の男性で、恐らく年齢は私の祖父母と同程度。白髪交じりの頭髪と柔らかな物腰が、緊張感を解してくれたような気がした。

 

「初めまして。杜宮学園の、遠藤アキです」

「戌井だ」

「アキヒロさんっ」

「……戌井アキヒロ、です」

「そう畏まらなくていいよ。普段通りで大いに結構」

 

 大西教授の勧めで丸椅子に座り、室内を見渡す。

 部屋の内部は整然としていて、研究室を思わせる要素は思いの他に少なかった。壁に貼られた見慣れない植物の写真を眺めていると、コーヒーカップを両手に持った大西教授が、テーブルを挟んで向かい合う形で座った。

 

「まずはお礼を言わせて欲しい。本来であれば私が出向くべきなのだろうが、生憎都合が付かなくてね。御足労に感謝するよ」

「こっちも先に言っとくが、会いてえっつーから来てやっただけだ。協力してやるなんて、誰も言ってねえからな」

「あ、アキヒロさん」

 

 アキヒロさんの物言いを改めようとするやいなや、大西教授は大仰に笑い声を上げた。

 

「少し誤解があるようだね。君の異界植物に関する知識が目当てだと、ミズハラ君が言っていたのかな」

「……違うのか?」

 

 アキヒロさんと視線が重なり、思わず首を傾げてしまった。

 私も同じ想像をしていた。「異界植物の研究者がアキヒロさんに関心を示している」と言われれば、その目的は彼の知識にあると考えるのが自然だ。だからこそアキヒロさんも今回の面会に前向きではなかった訳だけれど、どうも食い違いがあるようだ。

 

「勿論、君の知識を疑っている訳でもない。紛れもない本物だと確信しているよ。あの『HEAT』が何よりの証拠だ」

 

 HEAT。怪異に取り憑かれたアキヒロさんが生み出した、強壮剤とは名ばかりの霊薬。

 

「君達は知らされていないかもしれないが、戌井君がHEATの調合に使用した異界植物のサンプルは、ネメシスとゾディアック、二つの勢力によって分析された。両者合わせて、九つのラボの元に届けられたんだ。ここを含めてね」

「そ、そうだったんですか?」

「我々も早々に再現実験へ取り掛かったよ。サンプルを使い、HEATと同様の霊薬を精製すべくね。その結果、どうなったと思う?」

 

 大西教授は両手を上げて、降参を示すような手振りをしながら続けた。

 

「ゼロさ。誰一人として成功しなかったよ。二大勢力が有する、国内有数のラボが総出で取り組んだのにも関わらず、だ。後々になって、本部のラボが成果を出したと聞いているが……この日本では、戌井君。君だけだ」

 

 呼び起こされたのは、杜宮が見舞われた異変の記憶。何度も七月八日が繰り返される中、アキヒロさんは異界植物を駆使して、数々の妙薬をその手で精製した。現実世界の医薬品で例えるなら、安定剤や睡眠導入剤、鎮痛剤といった、市販品と大差ない些細な物ばかりだった。

 けれど、現実にはあり得ないのだ。異界植物とアキヒロさんの知識が揃えば、あらゆる可能性が生まれる。それこそ、HEATに並ぶ異界ドラッグでさえ。

 

「君はその知識に関する何らかを、他者に話したことがあるのかな?」

「ねえに決まってんだろ。ベラベラ喋っていい情報だとは到底思えねえからな。悪用でもされたら堪ったもんじゃねえしよ」

「しかし現実として、君の知識を欲する者はいる」

「だろうな。やっぱアンタもその口か?」

「いいや。私は知的好奇心よりも、秩序を重んじたい」

 

 大西教授は立ち上がって振り返り、腰の後ろで手を組みながら、頭上を仰いで言った。

 

「君が有する知識は、異界植物学の発展へ大いに貢献するだろう。しかし君という存在はあまりにイレギュラー過ぎる。私にはパンドラの箱のようにしか思えない」

 

 唐突な面会の目的が、私にも理解できた気がした。

 これは恐らく、勧告だ。怪異によって植え付けられたアキヒロさんの知識は、一歩間違えれば火種になり得る。パンドラの箱という大西教授の表現は言い得て妙だ。

 私も肝に銘じておこう。アキヒロさんのことだから心配は無用だろうし、言われずとも重々承知という思いもあるけれど、権威筋の言葉だ。用心に越したことはない。

 

「なあ、もっと分かり易く言ってくんねえか。俺はアンタみてえに頭よくねえんだよ」

「そう卑下する必要はない。君は考えていた以上に利口な青年のようだね。自らが置かれた立場を、よく理解しているよ……さてと。細かい話は後にして、よければ食事でもどうかな。この大学の食堂は結構有名でね」

「当然アンタの奢り―――」

「あーあーあー、何でもないです、何でもありませんから」

 

 声と同時に、ついつい手が出ていた。後で謝っておこう。絶対に仕返しされる。

 

___________________

 

 

 大西との面会と食事を終え、大学を後にしたアキとアキヒロは、その足でベーカリーの有名店を見て回った。「折角の機会だから市場調査をしたい」というアキの熱意は留まることを知らず、もう一店、あと一店だけといったように増えていき、結局二人が杜宮駅を出たのは午後二十時。遅くとも夕方には帰って来れるだろうというアキヒロの期待は、見事に裏切られる結果となっていた。

 

「やれやれ。もうこんな時間かよ」

「す、すみません。私のせいで」

 

 大量のパンが入った袋をスクーターのメットインに放り込み、アキの頭部を手の甲で小突く。

 癖になりつつある動作と、不満げなアキの表情。その一連に安らぎを覚え、アキヒロが苦笑していると、アキはぽんと手を叩いて言った。

 

「あっ、そうだ。来週の日曜日、空けておいて下さいね」

「来週?何かあんのか?」

「も、もう忘れたんですか?チヒロちゃんのお家でお楽しみ会をやるっていう話ですよ」

 

 先日の晩にアキの口から語られた、アキヒロにとっては驚愕の誘い。全ての始まりは、やはり七月八日にあった。

 小規模の聖域と化した神社へ逃げ込んだ住民は、アキとアキヒロを含め複数人。父親と逸れてしまった小学生のチヒロもその一人で、友人のフウタとショウゴと共に、境内へ逃げ込んだ少女だった。

 勿論、異界化に関わる記憶は一切なく、局所的な地震に襲われたという全く別のそれと置き換わってはいた。一方で、男女二人に救われたという事実はしっかりと覚えており、アキとの付き合いは今でも続いていた。アキヒロを招きたいというチヒロの誘いは、当たり前の感情に起因していた。

 

「おい待て。まだ行くって言ってなかっただろ」

「でもチヒロちゃん、絶対来てねって言ってましたよ。フウタ君とショウゴ君も、また会いたいって」

「……ああクソ、面倒事ばっか持ってきやがって」

 

 ここ最近は時間の経過がやけに早いと、アキヒロは感じていた。あっという間に一週間が過ぎて、また新たな一週間が始まる。

 だからきっと、次の日曜日もすぐに。アキヒロは不意に緩んだ表情を隠すようにヘルメットを被り、スクーターの座席に跨った。

 

「じゃあな」

「はい。今日はありがとうございました」

「お前が言うなバカ」

 

 アキは手を振りながら、段々と遠退いていくアキヒロの背中を見詰めていた。

 軽口や憎まれ口ばかりの中から時折見い出される、真っ直ぐな一面。一つ、また一つと増えていくに連れて胸が躍り、鼓動が高鳴る。日曜日が待ち遠しくて仕方なかった。

 

「あれ?」

 

 自転車を停めていた場所へ向かおうとすると、足元で何かが光る。屈んでまじまじと見詰めた先には、小さな鍵のような物が落ちていた。

 形状から察するに、二輪車の鍵ではない。寧ろ毎日のように使用しているアパートのそれと同じ類の物。

 

(もしかして、アキヒロさんが?)

 

 念のためにとアキはサイフォンを取り出し、今し方この場を去ったアキヒロの番号へ発信した。数回の呼び出し音の後、通話はすぐに繋がってくれた。

 

『んだよ。まだ何かあんのか』

「アキヒロさん、もしかして鍵を落としませんでしたか?」

『鍵?ちょい待て、何の―――』

 

 ―――突然の轟音に、声が掻き消される。驚きのあまり手を離してしまい、サイフォンが足元へ落下した。

 

「……アキヒロさん?」

 

 ゆっくりとした動作でサイフォンを拾い上げると、既に通話は切れた後だった。再び発信するも、聞こえてくるのは呼び出し音ばかり。一向に繋がる気配がなく、段々と重々しさが首を締め上げて、呼吸が乱れていく。

 

「アキヒロさんっ……!?」

 

 アキは弾かれたように駆け出し、大急ぎで自転車の鍵を開錠してペダルを漕ぎ始めた。

 駅からアキヒロの自宅への帰り道は覚えていた。駐輪場を出て人気の少ない裏道を通り、真っ直ぐに東へ。ほとんど一本道のような物だから、迷う要素はない。一心不乱に自転車を走らせるアキの脳裏には、最悪の可能性が見え隠れをしていた。

 やがて視界に入ってきたのは、道端に停められた一台の軽自動車。その手前には、横倒れになったスクーター、ヘルメット。アキは目元に涙を浮かべつつ、自動車の傍らに立っていた女性に早口で言った。

 

「す、すみません!アキヒロさん、アキヒロさんは!?」

「ま、待って。それって、このスクーターに乗っていた人?」

「そうです。もしかして、事故、ですか!?」

「分からないの。私も今通り掛かって、スクーターが倒れていたから、転倒したのかなって思ったのよ。でも、誰も見当たらないから、変だなって」

「見当たらないっ……?」

 

 大慌てで周囲を見渡すも、アキヒロの姿はない。事故ではないのなら、サイフォン越しに聞いた轟音は何だ。それにあれからたかだか数分間しか経っていないのだから、何処にも行きようがないというのに。この場で一体何が起きたというのか。

 

「え?」

 

 不意に遠方から、声が聞こえた気がした。

 道路を挟んで、住宅街とは反対側の雑木林。数メートル先すら窺えない真っ暗闇の中から、呻き声のような何かが聞こえた気がする。いや、確かに聞こえた。

 

「っ……!」

 

 意を決して、アキは暗闇に身を投じた。生い茂った草木を掻き分けて、一歩ずつ強引に押し進んでいく。徐々に声は鮮明になっていき、不明瞭極まりない視界に、何かが映った。

 複数人の気配。漸く思い出したサイフォンのライト機能を使って、アキは前方の空間を光で照らした。

 

「あ―――」

 

 あまりに悍ましい光景に、アキは呼吸を忘れた。

 両手に握った棒状の『何か』を振り下ろす、男性が四人。地面には、うつ伏せに倒れたアキヒロ。男性のうち一人と視線が重なって、一瞬の静寂が訪れる。

 膠着からいち早く脱したのは、棒を放り投げた男性だった。男性は身動きが取れないでいたアキの背後へと回り込み、片腕でアキの身体を拘束し、一方の腕を口元に当てて、声を封じた。

 

「ん、んんん!?」

「喋るんじゃねえ。何もしねえから大人しくしてろ」

 

 光が消えて、暗闇が目の前を真っ黒に染め上げる。

 しかし目と鼻の先で再開された悪夢は、意思に反して映ってしまう。理解できてしまう。棒が振り下ろされる度に、微かなアキヒロの声が漏れる。本来であれば絶叫してしまう程の苦痛に、声を捻り出すことすらできていない。

 渾身の力を込めて、アキは身を縛る腕を振り払った。解放された声を以って、アキは泣き喚くように叫び声を上げた。

 

「ぶはっ。あ、アキヒロさん!?駄目、やめて!」

「てめえっ……!」

 

 すると突然、右頬を途方もない衝撃が襲った。耳鳴りが響いて、口の中が鉛臭さで一杯になり、拳で殴り倒されたという事実に、後追いで気付かされる。

 

「うあ、あぁあ、あ?」

 

 じんわりと広がっていく苦痛のあまり、地面に蹲っていると、胸倉を掴まれて強制的に立たされてしまう。眼前には、いきり立った異性の顔があった。

 

「まわされてえのか、ああ?」

「えっ……え?」

 

 上着の間から手を入れられて、腹部を撫で回された。

 やがて乳房に届いた手は、ふくよかさを鷲掴みにした後、先端に触れた。

 てらてらとした舌が首筋を這って、音を立てて肌を吸われた。

 理解が追い付かず、それ以上の行いの意味が、分からない。

 

「や、だ。いい、い、やっ」

 

 底なしの不快感。現実が地獄と化して、愕然とした。

 アキヒロが何をされているのか。自分の身に何が起きているのか。分からない。もう、分からない。

 

「おい、何してんだ!?余計な真似してんじゃねえ!」

「ちっ……やってねえよ。剥いただけだって」

 

 終結も突然だった。狂気に及んでいた男性らは、特に急ぐ様子もなく、まるで何事もなかったかのように、その場を去っていった。

 拘束を解かれたアキは、がたがたと身体を震わせながらアキヒロの下へ歩み寄り、地面に膝を付いて、変わり果てた彼をぼんやりと見詰めていた。

 

「アキ、ヒロ……さん」

 

 声は返ってこない。それどころか、微動だにしない。いつもいつもアキの頭を叩いていた左手は、鮮血に染まっていた。

 

「どうして……どうして、こん、な」

 

 地面から世界が崩壊していくようで、アキは身体を揺らしながら座り込んだ。深くて深い絶望の底には、何も見当たらなかった。

 

___________________

 

 

 翌日の朝。

 アキヒロの搬送先である杜宮中央病院のフロントには、高槻シオの姿があった。一報を聞かされたシオは、朝一で病院を訪ねると共に、東京を離れていた北都ミツキと連絡を取り合っていた。

 

『……状況は、概ね理解しました』

「卒業旅行中にワリィな。後輩共はともかく、お前には言っとかねえとって思ってよ」

 

 ミツキは今現在、エリカをはじめとした同性の友人やクラスメイトと一緒に、『プチ卒業旅行』と称した旅路の真っ只中にいた。多少の迷いはあれど、シオは後輩が見舞われた凄惨な事件の一連を、既にミツキにも伝えていた。

 

『それで、その。ニュースサイトにも、複数の記事が掲載されていますが。これは、事実なのですか?』

「ああ。全員が同じ供述をしているそうだ。犯人は全員、『HEAT』に纏わる一件の被害者らしい」

『……胸が張り裂けてしまいそうです』

「俺もだよ。頭がどうにかなっちまいそうだ」

 

 暴行に及んだとされる容疑者、計四名。昨晩の内に自ら警察署へ出頭し、暴行の事実を認めた男性らの供述には、決定的な共通点が存在していた。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、病院送りにされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、人生を狂わされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、トラウマを背負わされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、転職を余儀なくされた報復。

 杜宮市在住の男性という点を除いて、繋がりらしい繋がりが見当たらない四人を繋ぐ過去。HEATを過剰に摂取するあまり、半ば錯乱状態にあったアキヒロによって刻まれた傷。その爪痕が引き金だと、各メディアはこぞって取沙汰していた。

 

『遠藤さんは、今どちらに?』

「午前中は警察署で事情聴取を受けるって聞いてる。どれぐらい掛かるか知らねえが、昼前には終わるんじゃねえのか」

 

 アキヒロが重傷を負った一方、アキの外傷自体は軽度。口内を二針縫うことにはなったものの、日常生活には支障を来さず、叔母のタマキと共に、警視庁が管轄する杜宮警察署に出頭していた。

 

『遠藤さんのことは、私から伝えておきます。エリカさん達に……黙っておく訳には、いきませんから』

「……ああ。宜しく頼む」

 

 一先ずの通話を終えて、深い溜め息を付く。随分と損な役回りをさせてしまったものだと、シオは頭を痛めた。

 そして、背後で目元を真っ赤に腫らしていた、こいつにも。シオは玖我山リオンの肩に手を置いて、優しげな声で言った。

 

「泣くなとは言わねえよ。今の内に、全部出しちまえ」

「っ……アキは、あんなに、頑張ってた。なのに、どうしてアキは、いつもこんな目に……わけ、わかんない」

「ああ。そうだな」

 

 それ以上の掛けるべき言葉が見付からず、シオは目頭を押さえて天井を見上げた。視線を戻すと、病棟の奥からやって来る二人の男性に目が留まった。

 シオやリオンに先んじて駆け付けていた、私服姿のミズハラ。そしてその隣には、疲労感溢れる表情の、白衣を着た男性の姿があった。

 

「今、話せるかい?」

「はい、大丈夫ッス。玖我山、いけるか?」

「ん……」

 

 シオとリオンが案内されたのは、別棟である南館の四階。関係者用の講堂は広々としていて、学園の教室二つ分以上のスペースがあった。

 何故こんな場所に。二人は引っ掛かりを抱きつつ、ミズハラの声に耳を傾ける。

 

「紹介するよ。彼はこの病院で外科医を担当しているヒノハラだ」

「初めまして。ミズハラは大学時代の後輩でね。学部は違ったけど妙に気が合って、今でも付き合いがあるんだ。『あっち』関係でも、度々ね」

 

 何気ない代名詞が『異界』を意味していることは、すぐに察することができていた。そもそも杜宮中央病院は、ゾディアックの息が掛かっている。シオは勿論、リオンは今でも『天使憑き』絡みで通院中の身。異界関係者が複数いたとしても、取り立てて驚きもしなかった。

 合点がいった様子の二人に対し、ヒノハラは重々しい声で告げた。

 

「申し訳ないけど、悪いことから話させて貰うよ。一番の重傷は、右脚大腿骨の骨折だ」

 

 アキヒロの容体。詳細を知りたいと思う反面、耳を塞ぎたくもある。ヒノハラは続けた。

 

「リハビリの期間を含めると、完治まで四ヶ月間は掛かる。暫くは寝たきりの入院生活が続くだろう」

「四ヶ月……そんなに、掛かるんスか」

 

 呟きに近い擦れ声。一方のヒノハラは、ぱんと両手を叩き合わせた後、微笑みを浮かべながら、明るい語気を帯びた声で言った。

 

「そう悲観しないでくれ。彼はまだ若いし、体力もある。僕の見立てが良い意味で外れる可能性だってあるさ」

「……本当ッスか?」

「ああ。それに君達は、この杜宮を救った英雄だ。特別扱いはできないけど、医師として出来る限りの協力はするよ。君達も気を落とさずに、戌井君を支えてあげてくれないか。それが何よりの癒しになる」

 

 ヒノハラの言葉に、シオとリオンは互いの顔を見合わせて、首を縦に振った。

 絶望感ばかりが付き纏う中、垣間見えた僅かな希望。二人は努めて表情から陰鬱さを追い出し、前を見据えた。

 

「アキヒロのこと、宜しくお願いします」

「あたしからも、どうか。お願いします」

 

 ミズハラと固い握手を交わしたシオとリオンが部屋を出て、スライド式の扉が閉まると、二人の同窓だけが残される。

 無言同士の探り合い。語らずとも伝わる意思。やがて口火を切ったのは、ヒノハラの方だった。

 

「なあミズハラ。俺が何を考えているのか、分かってるよな?」

「駄目だ。それだけは……絶対にできない。霊薬は、違うんだ」

 

 方法はあった。一介の薬剤師であると共に、もう一つの世界に生きるミズハラにとっては造作もない選択。適格者に提供している高位の霊薬を使えば、完治四ヶ月どころか、二週間と経たないうちに劇的な治癒をもたらす。異界耐性が強いアキヒロの身体なら、副作用の懸念もない。

 しかしそれは『裏』に限った話。現実世界という『表』においては、決して踏み入ってはならない領域であり、ミズハラ自身の理念に真っ向から反する所業でもある。

 全能の神のようでいて、この世の理を捻じ曲げる悪魔。ミズハラにはどうしても、選べなかった。

 

「それでいい。俺は勿論、お前が気に病む話でもない。そう思い詰めるなよ。顔色が悪いぞ」

「お前こそ、ひどい顔だ」

「夜間急患が入ると、大体こんな感じさ」

 

 かつての学友に背中を叩かれ、ミズハラは不器用に笑った。同時に彼は、奇妙な違和感を抱き始めていた。

 

___________________

 

 

 午後十一時過ぎ。杜宮警察署付近のコインパーキング敷地内で、タマキはアキの帰りを待ちながら、サイフォンの液晶と睨めっこをしていた。

 掛けるべきか。それとも待つべきか。そもそも知らされているのだろうか。最近は安定傾向にあり、着実に前進しつつあったというのに。

 

「コマキ姉……」

「タマキさん?」

「ひゃっ」

 

 不意を突かれ、サイフォンが掌の上で踊った。しっかりと両手で受け止め、ほっと息を付いてから振り返る。

 

「もう終わったの?」

「はい」

「じゃ、帰ろっか」

 

 敢えて多くは語らず、軽自動車のロックを解除して、二人同時に乗り込む。

 タマキの動作は、そこで止まった。エンジンは沈黙したままで、エンジンキーに手を伸ばす様子もない。暫しの間を置いた後、シートベルトを閉めながら、タマキは口を開いた。

 

「その、あのさ。変なこととか、聞かれなかった?」

「いえ、特には。ただ……襲った人達のことは、教えて貰いました」

「……そう」

 

 ハンドルを握っていた手に、過度の力が込められる。キーを回すと、沸々と湧き上がるタマキの感情に呼応するかのように、エンジンが唸り声を上げた。

 私は唯一、全てを知っている。アキの供述は、一部の事実が伏せられている。アキがそう望んだからだ。私は誰にも話さない。話してやるものか。アキを護る役目は私。ずっと傍にいてあげられるのは、私しかいないのだから。

 だから―――この子にとって、あの『男』は。

 

「ねえ、アキ。誤解しないで、聞いて欲しいんだけど。一度距離を取って―――」

「やめて下さい」

「聞いてアキ。彼は貴女とは違うの。違うヒトなのよ」

「やめて!!」

 

 車内に響き渡る怒声。驚きのあまり、タマキは言葉に窮した。アキは筆舌に尽くし難い面持ちで、深い憂いを帯びた小声で、縋り付くように言った。

 

「お願い、言わないで。私……タマキさんのこと、嫌いになりたくない」

「アキ……」

「ごめんなさい。でも、わた、し。ごめん、なさい」

 

 激情の末の無力感。二人分が交差をして、擦れ違う。

 彼を支えてあげたいだけなのに、どうして。

 この子を護ってあげたいだけなのに、何故。

 

「アキ、アタシ……ごめん。ごめんね」

 

 堪らずにタマキは、アキの小さな肩を抱いた。亀裂が入った硝子のような少女を、そっと優しく。それ以外の応えを、タマキは見付けることができなかった。

 

___________________

 

 

 一般病棟の四階には複数の特別個室があり、室内は落ち着いた木目調のデザインが施されている。内一室の扉の前で、アキは深呼吸を繰り返した後、控え目にノックをしてから、扉を引いた。

 

「失礼、します」

 

 音を立てないよう扉を閉めて、振り返る。

 大き目のベッドの上に、アキヒロの姿はあった。右脚は完全に固定されていて、満足に身動き一つ取れそうにない。目を逸らしたくなる痛々しい有り様とは裏腹に、アキヒロはすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

 

(アキヒロさん……)

 

 ベッドの傍らに置かれていた丸椅子に座り、寝顔を見詰めた。

 不幸中の幸いと言うべきか、話に聞いていた通り、顔は無傷。頭部もガーゼに覆われた掠り傷程度で済み、こうして顔を向い合わせれば、普段通りの彼が映る。昨晩の事件が、悪い夢に過ぎなかったかの如く。

 

「おい。何か言えよ」

「っ!?」

 

 丸椅子が傾いて、反射的に前傾の姿勢を取り、どうにか踏み止まる。

 呼吸を整えてから、アキは不服そうに言った。

 

「お、起きてたんですか?驚かさないで下さいよ」

「お前が勘違いしただけだろうが。つーか勝手に入ってくんなバカ」

「ノックしたじゃないですか」

「今さっき起きたんだよ……ワリィ、水をくれ」

「あ、はい」

 

 ベッドサイドテーブルに置かれていた水差しを取り、透明なグラスに水を注ぐ。手渡すと、アキヒロは利き手で受け取り、一気に中身を飲み干した。

 利き腕にも目立った外傷は見られず、自由に動かすことができていた。そんな中、どうしても視線が向いてしまう先が、アキヒロの右脚。大腿骨骨折という重傷の苦しみは、本人にしか理解し得ない。

 

「右脚、痛みますか?」

「そりゃあな。お前の方はどうなんだ。口の中、切ったんだろ」

「平気ですよ。アキヒロさんに比べたら……」

 

 完治まで四ヶ月間。とっくに春が終わり、真夏の一歩手前頃。アキとアキヒロが本当の意味で出会ってから、約一年後の夏まで掛かってしまう。アキは肩を落としながら、週末の件について触れた。

 

「こんな怪我じゃ、お楽しみ会どころじゃないですよね。お仕事の方は、どうなるんですか?」

「……もう、無理だろうな」

「え……どういう、ことですか?」

 

 たったの一声で、不穏な空気が漂い始める。アキヒロは真っ白な天井を虚ろな目で見やりながら、告げた。

 

「梧桐さんから聞いた。面倒事に巻き込まれんのは御免だって、職場の奴らが騒ぎ立ててるらしくてな。俺みてえな厄介モンは、いらねえんだとよ」

「ま、待って下さいよ。だ、だってあれは」

「仕方ねえさ。自業自得だ。お前も……俺なんかに、もう構うな」

「……よく、聞こえませんでした。何ですか?」

「構うなって言ってんだよ。今日で、最後だ」

 

 アキの距離感が狂い出す。

 手を伸ばせば取れるはずの手が、届かない。目と鼻の先にある顔が、途轍もない速さで遠退いていく。

 手を差し伸べたいのに、動かない。動けない。喉がからからに乾いて、口内の縫い目が、熱を帯び始める。

 

「どうして、そんなこと、言うんですか」

「御免なんだよ。俺はどうだっていいが、俺以外の誰かが、なんてのは。もう、我慢ならねえんだ」

「嫌……いや、やだ。やだよ、そんなの」

 

 私が欲しかったのは、何をしてでも支えたいとする勇気だった。誰かが彼を拒絶しようと、侮蔑しようとも、彼が無言で発する声を拾い上げて、応えようとする意志だった。

 私も救われたからだ。刻々と迫りくる死に怯えて、絶望の淵に立たされていた私は、彼に救われた。不器用で直向きな、真っ直ぐな彼がいてくれたから、私は今ここにいる。

 だから私は、彼の贖罪に尽くしたかった。誰一人として彼を認めなくたって、社会には、この世界には手を差し伸べてくれる人間がいることを、私は証明したかった。

 何より―――私が、そうありたかったから。

 

「好き、です。好き、好きなんです。こんなに、好きなのに、どうしてっ……なん、で」

「……もう、いい。いいんだ」

「すっ……きぅ、う、うぅ。ひっ、ぐううぅっ」

 

 けれど何故。世界はこうも、寒いのだろう。

 私はただ―――私でありたかった、だけなのに。

 

 

 

 


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