玖我山璃音さん。何処かで顔を見たことがある気がする。同じ森宮学園に通っているのだから当然かもしれないけど、やはり思い出せない。一方で記憶が曖昧にも関わらず、不思議と学園以外の場所でという確信に近い物があった。考えても仕方ないのは百も承知でも、考え込んでしまう私がいた。
「うーん・・・・・・」
頭の中で堂々巡りをしながら、キーマカレーを生地で包む作業を繰り返す。連休に入る前まで頭を使ってばかりだった反動なのか、単純な手作業が少しも苦にならない。
モリミィは全ての生地が自家製。対して所謂ベーカリーの大部分は、冷凍生地と呼ばれる大変便利なパン生地を利用している。解凍して焼いてしまえば、超お手軽に焼き立てパンの出来上がり。主婦にとっての冷凍食品と同じで、冷凍生地はベーカリーの強い味方だ。現代では極一般的な物だけど、案外知らない人間も多い。それだけ技術が進歩しているという証でもある。
どちらにもメリットがあるし、勿論デメリットもある。サラさんやハルトさんの手間を惜しまない姿勢は、それだけ従業員へ多忙を強いることに繋がる。でもそのおかげで、こんな私が人様の役に立てる。新しい居場所ができたように思えるからこそ、目が回る忙しさに心地良ささえ覚える―――唯一、『あれ』を除いて。
「アキちゃん、そろそろ時間よ」
「・・・・・・あの、イヤですって言ったら、どうなりますか?」
「あら、聞かなくても分かりそうなものだけど」
有無を言わさぬ物言いで、サラさんが一枚の用紙を手渡してくる。
右上に書かれた日付は今日と明後日、5月4日と5月6日。予想通り、配達指定日と商品のリストだった。配達先は例の杜宮セントラルタワー。もう住所を見ただけで嫌な気分になる。折角無心で作業していたのに。
(き、今日も・・・・・・しかも、明後日まで)
ソラちゃんを思わせる昼下がりの快晴とは裏腹に、私は憂鬱な色を浮かべていた。
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昨日に比べて、杜宮記念公園の利用客はやや少なめ。ゴールデンウィークとはいえ、今日は月曜日なのだから当たり前だ。
公園内では石造りのテラスが魅力的なオープンカフェやクレープ屋台が賑わいを見せ、遊歩道に囲まれた池では貸しボートに興じる親子やカップル客の笑顔で溢れている。杜宮市の特徴とされる街と自然の二面性を一望できる、本当に良い所だと思う。
こんな光景を25階から見下ろすなんて、どんな気分なのだろう。いや、あの部屋の窓は全てカーテンで覆われていたか。何て勿体無い。
「よしっ」
木陰に自転車を停めて、気合いを入れ直す。早いところ配達を済ませて、モリミィへ戻ろう。そう、単なる配達だ。お届けに来ましたはいどうぞ、でさっさと終わらせてしまえばいい。
昨日に小日向君が教えてくれた通りにパネルを操作し、インターホンを鳴らす。意気込んで四宮君の返答を待ち構えていると―――
『はい、どちら様ですか?』
「へ?」
―――不意打ちを食らい、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
四宮君、ではない。聞き間違いの筈も無く、どう聞いたって女性の声だった。焦る余り、部屋番号を押し間違えていたか。申し訳ないことをした。
「えと、あの、すみません、間違えましたっ」
『あら、そうでし―――』
『ちょっと!勝手に何やってんのさ!?』
あれ。今のは四宮君の声だろうか。多少上擦ってはいたけど、今のも空耳ではない。昨日のやり取りと室内の様子から考えて、一人暮らしだとばかり思っていたのに。それはそれで予想外だ。
ともあれ、部屋番号を間違えていた訳ではなかったようだ。気を取り直して配達に来た旨を伝えようとすると、私そっちのけの会話が続々と溢れてくる。
『ねえユウ君。もしかしてこの子』
『そんな訳ないだろ!?ただの配達だから!』
『まだ何も言ってないじゃない』
『いいからもう帰れよ!ほら、先輩も早く!』
「・・・・・・帰っていいの?」
『何でだよ!?アンタ何しに来たんだよ!さっさと部屋に来いって言ってるんだってば!』
『あらあら。ユウ君ったら、何処でそんな台詞を覚えて来るのかしら』
『だあああ!!』
四宮君の叫び声で盛大に音割れをしたスピーカーが沈黙すると、風が木々を揺らす音が周囲から聞こえてくる。
今のは何だろう。昨日とはまるで別人だ。双子や二重人格といったキーワードが脳裏をチラついて仕方ない。とりあえずフェンスゲートも開いてくれたし、パンを届けに行こう。
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エレベーターで25階へ上がる最中、自分自身へ何度も言い聞かせる。
昨日の一件は小日向君が言った通り。四宮君はただの後輩。ソラちゃんと同じで、後輩。何も怖くはない、敬語も必要ない。後輩、後輩、後輩―――よし。
「あっ」
エレベーターの扉が開くと、正面に立っていた一人の女性と視線が重なった。
ベージュ色のカーディガンと紺のスカートが清楚な雰囲気を、緩く巻かれたミディアムロングは女性としての可愛らしさを。手が届きそうで届かない魅力を身に纏う、爽やかな女性だった。
「フフ、こんにちは」
「こ、こんにちは」
女性は口元を手で覆い笑ってから私と挨拶を交わし、入れ替わりでエレベーターに乗った。私は振り返り、女性の声を頭の中で反芻する。
先程は機械越しだったから聞き取り辛かったけど、おそらく間違いではない。あの人がそうか。私は当たりを付けてから、2504号室へと向かった。
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昨日同様に四宮君は玄関へ出迎えようともせず、私は一人玄関の扉を開けた。室内は相も変わらず真っ暗で、陽の光の一切を遮断していた。上層から地上の光景を楽しもうなんて気は微塵も感じられなかった。
「お邪魔しまーす・・・・・・」
奥の大部屋も同じで、椅子に座りパソコンを操作する四宮君は振り向こうともしない。代わりにぶっきら棒な声で、私に言った。
「そこのテーブルに置いといて」
置いたらさっさと帰れと言わんばかりに、一言だけ。ちなみにパンの代金はまさかの前払い。初回の配達の際に「一ヶ月分」と、四宮君はサラさんへ万札を渡したらしい。サラさんも身勝手なその態度に困り果てており、配達を無下に断ることもできないようだ。突き返してやればいいのに。
「えーと。ここでいいの?」
「そう言ってるだろ。用が済んだら早く帰ってよ」
ここまで可愛くない後輩もそういない。ソラちゃんとはまるで正反対だ。
胸中で毒づいていると、テーブルの上に置かれた大きめの皿に目が止まった。
(・・・・・・蒸しパン?)
如何せん室内の明かりが少なすぎて分かり辛かったけど、鼻は利く。この匂いはチョコレートのそれだ。カップ型のグラシン紙に収まった可愛らしいチョコ蒸しパン達が、大皿の約半分を占めていた。
家庭でも気軽に作れる物ではある。でもこの数を作るとなると、結構な手間が掛かった筈だ。固形のチョコレートが絶妙な割合で練り込まれていることからも、それなりに拘った配合で作られた物かもしれない。
「ねえ、四宮君」
「聞こえなかった?さっさと帰って―――」
「あの女の人、もしかしてお姉さん?」
「ぶはっ!?」
聞いた途端、げほげほと咽始める四宮君。はいそうですと言っているようなものだ。
特徴的な目鼻立ちは勿論、同じ部屋に居たということから考えれば想像するに容易い。一緒に住んでいるという訳ではないようだけど、やはり血の繋がった姉弟なのだろう。
「は、話すなって言ったのにっ・・・・・・最悪だ」
「ううん、挨拶をしただけだよ。これもお姉さんが作ってくれたの?」
「食べたきゃどうぞ。どうせ食べないし」
「もうお腹一杯だから?そこ、口に付いてる」
「っ!?」
ゴシゴシと口元を拭い出す四宮君は、何とも言えない表情を浮かべていた。
昨日とは立場が完全に逆転している。四宮君の中でお姉さんがどういった存在なのかは分からない。でも彼の数少ない弱点だということはよく理解できた。これはこれで面白い。癖になりそうだ。
笑いを堪えていると、今度は大皿の隣に置かれた袋が視界に入る。これは昨日配達した中にあった惣菜パンだ。まさか、あれからずっと置きっ放しだったのだろうか。
「ねえ。すぐに食べないなら常温は駄目だよ。悪くなっちゃう」
「なら今日の分もまとめて冷蔵庫に入れといて」
「冷蔵庫じゃなくて冷凍庫。冷蔵庫はパンが一番老化しやすい温度だから、冷蔵するぐらいなら冷凍で保管してから解凍した方がいいと思うよ」
「ああもう煩いな!勝手にしろよ!」
堪えていた笑いが漏れ出てしまうと、四宮君は一層不機嫌な表情を浮かべた。
きっとお姉さんに対しても、同じ態度を取っているのだろう。色々と口煩く言われては、多少の照れと一緒に反発する。他愛のない姉弟喧嘩を一方的に仕掛けているようなものだろうか。
それにしても、喧嘩か。喧嘩らしい喧嘩なんて、一度もしたことがなかった。仲が良かったと言ってしまえばそれまでだけど、何だか変な感じだ。
「・・・・・・羨ましいな」
ヘッドホンを付けた四宮君の耳に、私の声は届いていなかった。
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それから二日後。連休最終日の午後、私は杜宮セントラルタワーへ三度目の配達に向かった。
働いてばかりの五日間だっただけあって、それなりに疲労も溜まりつつあるせいか、自転車のペダルがいつもよりも重く感じられた。時坂君もこの連休はアルバイトに明け暮れていたらしい。お互いに疲れを持ち越さないようにしないと。
(もう15時か)
明確な配達時間は指定されていないけど、前回前々回よりも大分遅い時間になってしまっていた。余り遅くなると、また嫌味の二つや三つを言われるかもしれない。私は自転車をいつもの場所へ停めてから小走りで入り口へ向かい、インターホンを鳴らした。
「・・・・・・?」
ピンポーン。二度目のチャイムが聞こえた後、頭の中で秒針を刻む。
たっぷり十を数えても返事は無かった。もう一度鳴らしても、結果は同じだった。この期に及んで居留守を決め込んでいるという訳でもないのだろう。なら本当に留守なのだろうか。配達を頼んでおきながら、それはものすごく釈然としない。宅配便と違って、再配達という便利なサービスをするつもりもない。
「あれ・・・・・・」
すると返事よりも先に、フェンスゲートが左右へ開き始める。
完全な無言だった。これもひどく納得がいかない。一応、同じ森宮学園の先輩だというのに。
私は多少の怒気を燃やしながら、マンションの敷地内へ歩を進めた。
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無言の対応は続いた。入って来いの一言も無しに、玄関扉は開錠された。どうしてわざわざ他人の神経を逆撫でするような真似ばかりするのだろう。話したことはないけど、絶対にお姉さんとは真逆の性格だ。
「お邪魔します」
一応の挨拶を置いてから、室内へ歩を進める。私が言っても仕方ないけど、少々無用心過ぎやしないだろうか。私に悪意があったら、何だって盗り放題のやりたい放題だ。玄関へ向かう手間と天秤に掛けた結論とは思えないし、他人の目から見ればどう考えてもおかしなこのやり取りに、慣れつつある自分が怖い。
奥の扉を開けると、中央のデスク椅子は空。首を傾げて見渡すと、部屋の端に置かれたベッドの上に寝そべる、主の姿があった。
「・・・・・・はぁ」
呆れて物が言えない。単に眠っていただけじゃないか。しかもこんな真昼間から。陽の光を拒絶しているからか、生活リズムが崩れてしまっているのかもしれない。本当にいい御身分だ。
「これ、テーブルに置いておくよ?」
「・・・・・・ん」
やれやれと紙袋をテーブルへ置いたところで―――違和感に、気付く。
一昨日と比べて、何かが違う。見れば、ベッドの傍らには複数のペットボトルが散乱していた。それにこの匂い。形容し辛いけど、生活臭が濃いというか、やはり室内の様子が前二回とは異なっている。
「・・・・・・四宮君?」
そっとベッドへ近付くと、四宮君はもぞもぞと毛布に顔を埋めた。
脇に置かれた小さな丸テーブルには、小瓶と空になったミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。その二つだけを見れば、大抵の人間は察しが付く。私は声を抑えて聞いた。
「もしかして、具合悪いの?」
「るさいな・・・・・・帰れよ」
今の小声を煩いときたか。いつもの憎まれ口は鳴りを潜め、返答はひどく弱々しかった。
一人暮らしを始めるに当たって、気を付けるべき注意事項の上位、その一つ。タマキさんは口を酸っぱくして言っていたけど、まさか自分が経験するよりも前に目にするなんて思ってもいなかった。確かにこれは相当に辛そうだ。
「熱とか、あるの?」
「そういうのいいって」
「病院は行った?」
「行く訳ないだろ。ただの風邪なんだから」
「それはまだ分からないと思うけど・・・・・・じゃあ、お姉さんには―――」
言い終える直前に、四宮君は瞬時に半身を起こして、腰を下ろしていた私を睨み付けてくる。
触れていないのに分かるぐらい顔は熱を帯び、目も充血し切っていた。
「言うなよ。姉さんには・・・・・・言わないで」
「その・・・・・・うん、分かった。分かったから、寝てた方がいいよ」
そう言われても、お姉さんの連絡先なんて私には知る由も無い。「言うなよ、絶対言うなよ」という振りとも思えない。冷静さを欠くぐらい、追い込まれているのだろうか。
どう見ても辛そうなのに、どうしてそこまで。意地を張っているだけかもしれないけど―――違うか。答えはもっと単純で、身近にある感情だ。先程の不安気な表情は、要するにそういうことだ。
「心配、掛けたくないんだね」
「煩い」
「でもさ、たまには素直になった方がいいよ。急にいなくなっちゃうことだってあるんだから」
「はぁ?」
「もしそうなったら、絶対に後悔する。後悔してからじゃ・・・・・・もう、遅いんだよ」
四宮君は一度、毛布から顔を覗かせて、私と視線を重ねた。
するとすぐに寝返りを打って、普段通りの素っ気無い声で、呟くように言った。
「不幸自慢か何か?嫌いだな、そういうの」
「あはは、ごめん。それで、ここに四宮君のサイフォンがあるんだけど。お姉さんの番号、入ってるよね?」
「っ・・・・・・!」
「ほら、どうするか決めてよ。お姉さんに報せないなら、それでもいいから」
「ああもう。何なんだよ、クラスの評判と全然キャラ違うじゃん。挙動不審でどもりがちじゃなかったのかよ。訳分かんない」
「あーあー聞こえない」
我ながらひどい印象だ。まあ今は置いておこう。大体合ってるし。
ガラケーユーザーの私には、勿論サイフォンの操作方法なんて分からない。タッチパネルも満足に使えない。しかし今の四宮君はそこまで頭が回らないのか、観念した様子で私の問い掛けに答え始めてくれた。
体調を崩したのは一昨日の夕刻頃、私が部屋を去った直後のこと。ただの風邪だろうと思いきや、吐き気がひどく嘔吐を相当な回数繰り返した。直接の表現は控えながらも、お腹の方も同様だったらしい。失った水分を取っても、結局は上と下から出してしまうばかり。もう丸二日間もこんな有り様が続いているようだ。
「カレードーナツが原因だったら、訴えてやるからな」
「そう決め付けないでよ。胃腸炎とかかもしれないし」
それにしても、随分と熱がこもっている。軽い脱水症状を引き起こしているのかもしれない。
幸い冷凍庫にはクラッシュアイスが入っており、私は幼い頃の記憶を頼りに、少量を四宮君の口に含ませた。焼石に水でも、何もしないよりかは幾分マシな筈だ。
ともあれ素人判断は禁物、一度病院で診て貰わないと駄目だ。私が頼れる人間は少ないけど、今は四の五の言っていられない。ここは素直に、助けを求めよう。
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「ふう」
多忙の日々を過ごしていた北都ミツキは、肩の凝りを解しながら重い足取りで自室へと向かっていた。
五日間の連休へ入った途端、隙を見計らったかのように舞い込んできた業務の数々。学生という本分が休業へ入ったおかげで、スケジュールはギリギリ秒から分単位へ繰り上がる程の余裕はあったものの、それは彼女が北都ミツキだからこその話だ。常人なら一日で枯れ果ててしまうところを、良き理解者の助けもあり、何とか繋ぎ止めることができていた。
そんな中で手にした、久方振りの自由。自分だけの時間。世間はUターンラッシュを迎え、ブルーマンデー症候群に近い憂鬱に苛まれ始めている一方で、ミツキにとってはこれからが本番。まだ日も暮れていない休日の午後に解放されること自体が、実に一ヶ月振りだった。だからこそミツキは、戸惑いを覚えていた。
(何だか、不思議な感じですね)
文字通りの自由。明日の早朝まで、何だってできる。ミツキを咎める人間は一人もいない。
しかしこんな時に、自分はいつも何をしていたのか。それがすぐには思い出せなかった。移動や登下校の僅かな間にすることと言えば、ニュースサイトの速報に目を通す、持ち歩いている本を読む、等々。最近は『ナノナップ』と呼ばれる十数秒の仮眠を試みていたのだが、当然こんな時に睡眠を優先する訳にはいかない。外へ出るなら、近場のオープンカフェを訪ねることぐらい。悪くはないが、何処か物足りなさがあった。
自分の境遇を疎ましく感じたことはない。でも時折、主観ではなく客観的に、己を俯瞰して見てしまう瞬間がある。北都ミツキはここに居るにも関わらず、もう一人の私が私を見ている、ひどく浮付いた感覚。
玄関扉の前で呆然と立ったままでいると、背後から扉を開く音が聞こえてくる。何とはなしに、通路の角から音がした方へ顔を覗かせると、そこには一人の後輩の姿があった。
(あれは・・・・・・遠藤、さん?)
これまでに三度、ミツキはアキと対面したことがあった。
一度目は、アキが転入試験で学園を訪れた際。敷地内を簡単に案内して回ったのが、杜宮学園生徒会の現会長であるミツキだった。二度目は約二週間前、アキが住まいを杜宮へ移した後、母親と学園へ挨拶に訪れた時にも、ミツキは一時相席をしていた。
そして―――三度目は、ちょうど二日前。厳密に言えば、アキはミツキに気付いてはいなかった。それもその筈、三度目はアキがつい今し方開かれた部屋へ入っていく瞬間を、所用の為に一時帰宅をしていたミツキが、目撃したに過ぎなかったのだから。
「・・・・・・コホン」
生徒会長という立場上、ミツキは生徒らの様々な情報へ触れる。もう一つの立ち位置を駆使すれば、公には語れないルートで知り得ることができてしまう。
だからミツキは敢えて目を逸らし、時には見て見ぬ振りをしてきた。必要以上の個人情報は、極力遠ざけようと心掛けてきた。同じマンションで『彼』が暮らしていることも知っていた一方で、何故アキがあの部屋を出入りしているのか。どうして今もあんな表情を浮かべているのか。そればっかりは、想像を働かせるしかなかった。
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後ろ手にそっと扉を閉めて、ポケットから携帯電話を取り出す。
見たところ大事無いみたいだし、救急車を呼ぶ訳にはいかない。柊さんや小日向君の顔が浮かんだけど、余り知人に迷惑は掛けたくない。タマキさんらも同じだ。やはりここはタクシーを呼んで、病院まで付き添ってあげるのが無難か。
「こんにちは、遠藤さん」
「え・・・・・・あっ。ほ、北都先輩?」
携帯でタクシー会社の連絡先を調べようとした矢先に、声を掛けられる。
杜宮学園の生徒会長を務める、北都ミツキ先輩。転入試験で学園を訪れた際、案内をしてくれたのが北都先輩だった。転入前に挨拶をして以降は会えずじまいだったけど、北都先輩は私のことを覚えてくれていたようだ。私も初対面の印象が色濃く残っていたから、一目で北都先輩だと認識することができていた。
「私も四宮君と同じ階に部屋を借りていまして。ちょうど今帰路に就いたところなんです」
「そ、そうだったんですか・・・・・・四宮君?四宮君を、知ってるんですか?」
「はい。一応生徒会長ですから、生徒の名前と顔は一通り覚えていますよ」
さらりと簡単に言ってのけたけど、確か杜宮学園には三百を軽く超える生徒が在校している筈だ。まさか本当に記憶しているのだろうか。それに平日でもないのに、何故制服姿なのだろう。色々と聞いてみたいとは思いつつ、こんな上層で暮らしているという事実一つ取っても、同じ高校生の身でありながら、先輩は何処か遠い世界を生きているように思えてしまう。奇妙な距離を感じた。
「それにしても意外でした。遠藤さんは、四宮君とお知り合いだったのですね」
「いえ、その・・・・・・知り合い、という訳では」
「立場上不用意な言動は控えますが、貴重な三年間を無駄にはできませんよね。どうか大切になさって下さい。でも最低限の節度は、しっかりと守って下さいよ?」
目を瞬いて、考えを巡らせること数秒間。
どうやら北都先輩は大変な誤解をしているらしい。いや、本当に勘弁して欲しい。どうしたらそんな結論に至るのだろう。突っ込みどころが多過ぎる。
「あの、違います。私はただ、アルバイトで来ただけです」
「アルバイト、ですか?」
「この連休から始めたばかりなんです。最近デリバリーのサービスをやっていて、今日もそれで」
「デリバリーサービス・・・・・・ふむ」
北都先輩は顎に手をやり、思案顔を浮かべて一歩後退する。
先輩は私の身体を足元から頭部まで食い入るように見詰めると、表情の雲行きが益々怪しくなっていく。おかしい。誤解は晴れた筈なのに、何故そんな顔をするのだろう。
「成程。その服装も、アルバイトの一環という訳ですね」
「あ、はい。仕事中はお店の制服なので・・・・・・あ゛。そ、そうだ。四宮君が―――」
「アルバイトは順調ですか?」
「え?えーと。それがもう、初日から容赦が無いといいますか。四宮君なんてひどいんですよ。初めてのデリバリーであんな・・・・・・じゃなくって!あの、実は四宮君が大変―――」
「ウフフ、遠藤さん」
北都先輩は私の左肩にポンと右手を置いて、笑った。笑っているのに、背後からドス黒い何かが滲み出てきて、全てを飲み込んでしまいそうなその圧力に、目が眩んだ。右の腕力や握力に自信がある私でも、先輩の右手は微動だにしなかった。誰か嘘だと言って欲しい。
「少し、私の部屋でお話をしましょう。勿論、選択肢はありませんよ」
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北都先輩の一声で駆け付けてくれた女性によって、四宮君はすぐさま市内にある総合病院へ送られた。診断結果によると、症状はウィルス性の胃腸炎によるもの。発症から大分時間が経っており、既にピークは過ぎて治り掛けの段階に入っていたものの、やはり軽度の脱水症状を起こしていたそうだ。安静にしていれば明日にでも快復する見立てで、今日は念の為に病棟で夜を過ごす手筈となった。
私が一通りの経緯をサラさんへ伝えると、事情が事情なだけに今日の労働は終了。後で荷物を取りにだけ戻ってくればいいとのことだった。一方の北都先輩は、公園内にあるオープンカフェで一息付こうと私を誘い、二人一緒に遅めのアフタヌーンティを楽しむ流れになっていた。
「ここは度々利用させて頂いているんです。天気が良い日は、とりわけ格別ですから」
「こんな時間でも、結構お客さんが多いんですね」
時刻は午後の17時前。そろそろ快晴の空が夕焼け色に染まる時間帯だ。公園内には元気に走り回っていた子供達の姿も既に無く、大型連休終了間際独特の情緒が、そこやかしこに見受けられた。
「・・・・・・フフ」
ストローでアイスコーヒーを啜っていると、北都先輩は手にしていたティーカップをソーサー上に戻し、小さな声を漏らし始める。
「北都先輩?」
「フフ、あははっ。あは、あははははっ!」
北都先輩の声は次第に大きくなり、遂には腹を抱えて笑い始めてしまった。
一体どうしたのかと狼狽えてしまったのも束の間のこと。結局は私も一緒になって、周囲の目を憚らず、笑った。笑い声は一つとなり、広大な公園の空へ溶け込んでいった。
先輩は目元に薄らと溜まった涙を拭って、途切れ途切れに言った。
「ごめんなさい、私が笑ってはいけませんね。今日という日ほど、自分の愚かさと思慮の浅さを痛感したことはありませんでした。フフ、どうか存分になじって下さい。罵詈雑言は大歓迎です」
「え、えーと」
目茶苦茶気不味い。なじれと言われても困る。北都先輩の大変な疑いは晴れてくれたけど、思い出すだけで笑ってしまう。うん、やはり笑い話ということにしよう。底抜けの恐怖なんて無かった。
記憶の改竄は別として、私が北都先輩について知っていることは少ない。でも心なしか、マンションで出くわした時よりも、表情が晴れているような気がする。制服姿ということは、おそらく今日も学園に顔を出していたようだし、疲れがあったのかもしれない。少なくともドス黒いオーラは感じない。表情は一つだ。
「でも遠藤さん。私が言えた立場ではありませんが、アルバイトは程々にしておいて下さいね。学業へ支障が出ては、元も子もありませんよ」
「はい。重々理解しています。それに・・・・・・」
「それに?」
「いえ、その。自分でもよく分かっていないんですけど。多分、大丈夫です」
杜宮学園へ転入してから早二週間。余裕が持てないうちに一週間が終わり、気付けばゴールデンウィークも閉幕。沢山の出会いに戸惑っては、我を見失った自分と時折向き合って、己の行く末に不安を抱く。一日がとても濃厚で、あっという間に全てが過去の出来事へと変わっていく。
「私、この杜宮を好きになれそうです」
悪くない、と思える。まだまだ手探りだけど、毎日が満ち足りていた。楽しくて辛い、笑ったり沈んだりを繰り返す日々は、何かに溢れていた。空っぽで虚無しか無かったこの『半年間』を、この杜宮でなら取り戻せると、そう思うことができる。少しずつだけど一歩ずつ、着実に。
「アルバイトも、その一つで。私にとっては・・・・・・わ、わた、し」
「遠藤さん・・・・・・」
「あ、あれ。あはは。どう、して」
一度緩んでしまえば、後は止めどが無かった。
北都先輩は私の気が済むまで、日が暮れるまで、私の手を握り続けてくれた。
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別れ際に北都先輩とメールアドレスを交換した私は、一度モリミィへ荷物を取りに戻ってから帰宅した。どういう訳か昼間よりも更にペダルが重く感じられ、たったの十数分で息切れ直前まで追い込まれてしまった。
思っていた以上に疲れが溜まっていると考えた私は、早めに就寝しようと夜の21時にベッドに入り、北都先輩から送信されてきたメールを改めて読み直した。
『おかげ様で、私というちっぽけな人間と、改めて向き合うことができました。私も遠藤さんに負けないぐらい、杜宮を好きになって見せますね。お互いに頑張りましょう』
メールの真意はよく分からなかったけど、今日の一件が先輩にとって良い方向へ働いてくれたことは間違いないようだ。私はお礼の返信メールを送り、明日を想いながら瞼を閉じ、夢の中へと沈んでいった。
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そして―――翌朝。
目覚めと共に途方も無い気怠さに襲われた私は、取り急ぎソラちゃんへ一報を入れた。
「という訳だから、ごめんね。朝のロードワーク、付き合えそうにないんだ」
『だ、大丈夫ですか?私、今からそちらに向かいますっ』
「駄目、来ない方がいいよ。移っちゃう」
『移る?』
「うん。私も、移されたみたい・・・・・・うぷっ」
四宮君を蝕んでいたウィルスの僅かな生き残りは、私の身体を宿主として、急速に増殖を始めていた。結果として私は木曜日以降も自宅療養を余儀なくされ、5月10日の日曜日まで、ぶっ続けに九日間の超大型連休を取る羽目になった。
今後一切、四宮君のことは『ユウ君』と呼んでやる。人知れず、私はそう心に決めた。
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○おまけ
「遠藤さんが昨日から休んでいることも、あのアプリが関わっている可能性があるわ」
「それは違うと思うぜ」
「私もコウ先輩と同意見です」
「決め付けは感心しないわね。どうしてそう断言できるのかしら?」
「ガラケーじゃダウンロードすらできねえよ」
「今のはあなた達を試したのよ」
○おまけ②
「あら、今日はガールフレンドは来ていないの?折角ご挨拶ができると思ったのに」
「だああああっ!!?」
(おい、こんな奴のガールフレンドってどんなだよ)
(相当な変人ね)
(顔を見てみたいです)