東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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アフターストーリーⅡ
3月11日 四宮ユウキの憂鬱


 

 冬が終わる。一層冷え込みが厳しかった寒冬を越えて、柔らかな風が日を追うごとに温さを帯びていく。気怠いような憂鬱の春。何かが終わり、一方では始まりを告げる節目の季節。

 リモコンを操作してテレビの電源を入れ、ソファーに腰を下ろす。時刻は午後の十七時半。夕暮れ時の報道番組では、大学入試に関する内容を報じていた。

 

(大学、か)

 

 今週に入って以降、全国各地の大学から、前期日程の合否が続々と発表されていた。比較的親しい二人の三年生、高槻先輩と北都先輩は志望校に見事合格し、X.R.Cメンバーで祝杯を挙げたのが二日前。祝いの場は例によって時坂家。あの人の家で夜を過ごすのも慣れたものだ。勝手に冷蔵庫を開けたって、誰も止めようとしない。

 大学入試。他人事のようでいて、身近な問題でもある。あっという間に一年が過ぎて、季節は再び春を迎えようとしている。あと二回繰り返せば、僕も同じ立場になる。そろそろ真剣に、今後の身の振り方を考えて然るべき時期なのかも―――

 

「ユウくーん。ちょっと手を貸してくれない?」

 

 ―――しれないけど。

 

「……ったく」

 

 深く溜め息を付きながら立ち上がり、台所を目指す。鼻歌混じりに包丁を握る姉さんは、まな板の上で鶏肉を切り分けていた。

 二週間に一度ぐらいだろうか。週末になると、姉さんはスーパーの袋を抱えて僕の部屋を訪ねる。いちいち構うなと何度言い聞かせても強引に押し切られ、ここ最近は諦めつつある。知らぬ間に台所回りは調理器具や調味料で溢れていて、部屋の一画だけが料理好きの主婦さながらの雰囲気を醸し出していた。

 まさかとは思うけど、一緒に住もうとか企んでいやしないだろうな。最悪な想像をしつつ、頼まれた大皿をまな板の隣に置いた。

 

「ほら」

「ありがと。もう少し待っててね、すぐ作るから」

「いいからその情熱をもっと別の何かに向けろよな」

「あれ?鶏のから揚げ、ユウ君の大好物よね?」

「そういう意味じゃない」

 

 リビングに戻ってソファーに寝転がり、テレビのチャンネルを換える。普段は電源すら滅多に入れないけど、姉さんの奇妙なオリジナル鼻歌を聞かされるよりかは、報道番組の音声に耳を傾ける方が余程マシだ。

 ザッピングを続けていると、聞き覚えのある単語が画面上に映る。先月ぐらいから様々なメディアがこぞって取沙汰する、とある小説のタイトルだった。

 

『若者の間で話題となり、驚異的なヒット作となった小説『あなたの名は』。その人気の要因は一体何処にあるのでしょうか?』

 

 物語の舞台は玖州の隈本県。主人公は同じ高校に通う二人の男女。片や陸上部に所属する女子高生で、全国に名を轟かす程の実力を持つ生粋の運動系。一方の男子は学業に優れ、父親は所謂大物政治家。女子とは別の意味で将来を有望視されている。

 まるで方向性が異なる二人の共通点は、己の立ち位置に対する不満と、将来への漠然とした不安。家族との擦れ違い。それ以上の詳細は読んだことがないから分からないし、興味がない。

 

「……何だかなぁ」

 

 しかしどういう訳か、気になってしまう。二人の主人公の設定だろうか。細かな点に目を瞑れば、似ていなくもない。僕と、あいつ。

 起き上がって下らない連想を振り払っていると、テーブルの上から着信音が聞こえた。華やかな専用ケースで装飾がなされた、姉さんのサイフォンだった。

 

「姉さん、電話鳴ってる」

「ごめーん。今揚げ物の最中だから、手が離せなくって。誰から?」

 

 画面上を見ると、番号しか表示されていない。アドレス帳に登録がないのだろう。

 

「096××××って番号だけど」

「ああ、それなら知り合いの勤め先ね。代わりに出て貰える?」

「はあ?僕が?」

 

 断ろうかと感じつつ、頼んでもいない夕食の準備に励む姉の後ろ姿に、躊躇いを覚えた。

 最低限の義理ぐらい立てておくか。単に電話を取るだけだ。

 

「やれやれ。はい、四宮です」

『え……あの、すみません』

「四宮アオイの携帯で合ってます。姉は今取り込み中なので」

 

 戸惑いを帯びた女性の声。掛け間違いではないことを取り急ぎ説明すると、女性は何かを思い付いたように言った。

 

『ああ、貴方が弟君の?確か、ユウ君だったかしら』

「ユウキ、です。ユウキ」

 

 見ず知らずの他人からその名で呼ばれるとは思ってもいなかった。というか姉さんは外でも使っているのか。後で文句を言っておこう。

 

『でも驚いたわ。男性の声がしたから、恋人が出たのかと思っちゃった』

「え……ちょ、え?嘘、いるの?」

『フフ、気になる?』

 

 思わせ振りで悪戯な言い回し。面白半分でからかっているのだろう。

 よくよく考えずとも、いる訳がない。時間を見付けてはこうして僕の部屋に足を運ぶぐらいだ。しかし何故僕は今、焦りを覚えたのだろう。馬鹿馬鹿しい。

 

『ユウキ君からも言っておいて。アオイったら仕事一辺倒で、そういう場に誘っても決まって断っているみたいなの。まるで興味がないって感じ』

「……はあ」

 

 当たらずとも遠からず。正確には仕事一辺倒プラス過保護だ。僕が知る四宮アオイは、外でも変わらずの四宮アオイらしい。

 

「それで、どうしますか。急用なら後で折り返させますけど」

『ううん、そこまで急ぎじゃないの。代わりに伝言をお願いできる?』

 

 念のために紙とペンを用意して、伝言を残しておく。

 来週末の出張に関するスケジュールをエクセルファイルで作成、メールで送信したから、後で確認しておいて欲しい。大まかにはそういった内容だった。

 

『じゃあお願いね、ユウ君』

「だからユウキだっての」

 

 言い逃げをして通話を切る。ほんの僅かなやり取りに疲れを感じた。『ユウ君』は姉さんと間抜けで物好きな先輩だけで勘弁して欲しい。そもそも後者は完全に認めた訳じゃない。

 胸中で愚痴を吐いていると、既にテーブルには夕食が運ばれ始めていた。伝言を記したメモ用紙を姉さんに手渡すと、姉さんも合点がいった様子だった。

 

「ありがと。助かったわ」

「別に」

 

 席に着いて、テーブル上を見渡す。ご飯と味噌汁、主菜に数点の副菜。姉さんは一度にまとまった量を作るから、明日も同様の夕食になるだろう。

 舌が慣れるのも困り物だ。お気に入りのシリアルバーに、味気なさを感じてしまう瞬間がある。

 

「さあ、温かいうちに食べちゃいましょ」

「……ます」

 

 小声の「いただきます」を置いて、箸を付ける。姉さんもエプロンを外してから、僕に続いた。

 最近の姉さんは、自分から話題を振ろうとしない。敢えてそうすることで、僕から身の上話を聞き出そうとしている節がある。別居しているとはいえ姉弟だ。魂胆は見え透いている。

 

「さっきの電話。何の仕事?」

「え?」

「出張がどうのこうの言ってたから。どっか遠出でもするの?」

 

 自ら誘いに乗ると、姉さんは案の定、箸を置いて身悶えするような素振りを見せた。

 反応が度を過ぎている。端から見ているとただの変人だ。はっきり言って気味が悪い。

 

「だってだって。私の仕事の話、聞いてくれたの初めてじゃない。だから嬉しくって、つい」

「何が『つい』だよ」

 

 姉さんはコップに冷えたお茶を注ぎながら、説明を始めた。

 

「大学時代の友達がね、玖州で同業に就いているの。久し振りに会って話を聞いてみたいし、仕事関係の知り合いも向こうに何人かいるから、いい機会かなって思ってね」

「玖州の何処?」

「隈本県よ。辛子れんこんで有名よね」

「何でそれが一番に出てきたのさ……もっと他にあるだろ」

 

 また隈本か。隈本と聞いて連想するのは、まるで理解不能なゆるキャラに、隈本城。食べ物なら姉さんも言った辛子レンコン、あと馬刺し。その程度だったのに、どうも最近は耳にする機会が多い。テレビの報道番組も、依然として『あなたの名は』の特集を続けていた。

 馬刺しはともかく、辛子れんこんはどんな味がするのだろうか。想像を働かせていると、姉さんは突拍子もない誘いを告げた。

 

「ねえねえ。ユウ君も一緒に来ない?」

「は?」

「実のところ仕事って言っても、半分は観光みたいなものだから。ユウ君も来週末から春休みに入るでしょう?たまには二人で旅行に出かけるのもいいじゃない?」

「パス」

 

 即答をして味噌汁を啜る。少し歩み寄るとこれだ。世間一般的に考えても、姉弟二人で旅行だなんて、相当に仲睦まじい間柄じゃないとあり得ないだろう。絶対に御免だ。

 

「ええー。少しくらい考えてくれたっていいのに」

「あのさぁ。僕を誘う暇があったら、自分の心配をした方がいいんじゃないの。さっきの人も気に掛けてたよ」

「……えっと、何の話?」

「さあ?」

 

 この様子から察するに、自覚は皆無のようだ。割と本音で語っているというのに。

 姉さんは僕に構い過ぎなのだ。根本的な原因が僕にあることも、重々理解している。そろそろ良い意味で、離れるべきなのだと思う。

 でもその距離感が未だ掴めないし、こんなことを考える自分自身にも、何というか、慣れない。不気味とさえ感じてしまう。

 

「そういえば今日、スーパーでソラちゃんに会ったわよ」

 

 悩みごとに思わぬ横槍が入る。『二つ』を同時並行で処理できる程、僕は器用じゃない。頭の回転の速さとは別問題だ。

 

「ねえユウ君。あの子最近、何かあった?」

「……どうしてそう思うのさ」

「見た目は普段通りに見えたけど……何かこう、空元気っていうのかしら。んー、上手く言えないわね」

 

 無理もない。寧ろスーパーで居合わせただけで見抜いてしまった、姉さんの目に驚かされた。

 上手く説明できないのは僕も同じだ。けど郁島が『何か』を抱えていることには、随分前から気付いていた。休憩時間や下校時、他愛もない会話を交わしている時。突如として郁島は、表情を消すことがある。僕の記憶では、年が変わった頃からだ。

 何かしらの悩みがあるのか、厄介ごとに首を突っ込んでいるのかは分からないけど、何かある。そんな確信めいた物が、僕の中にはあった。

 

(でも、何でだ?)

 

 一つ引っ掛かるのは、姉さんが気付いたこと、それ自体。郁島の変化には、今のところ僕しか勘付いていない。X.R.Cでも僕だけ。話を聞いた限り、親しい友人やクラスメイト、空手部員の誰もが、心当たりがないと口を揃えて言う。

 なのに、何故姉さんが。分からない。益々理解が遠退いてしまった。

 

「ユウ君?」

 

 姉さんの声で、箸が止まっていたことに気付く。釈然としないけど、考えるのは後回しだ。姉さんが気に留めることでもない。

 

「考え過ぎじゃないの。どうせクラブ活動で疲れてただけだって」

「そうかしら。まあユウ君が言うぐらいだから、きっと気のせいね。でもさっきの話、早めに決めておいてよ」

「何のことだよ?」

「旅行。一緒に行くなら、飛行機とか宿泊先の手配をしなきゃいけないでしょ?」

「行かないって言ってるだろ」

「もう一声!」

「い、か、な、い」

「ぐぬぬ」

 

 まだ諦めてなかったのか。貴重な長期の休みを二人旅に割く選択肢なんてない。絶対に嫌だ。

 

___________________

 

 

 休日を挟み、翌週。三月十四日の月曜日。四時限目を終えて、程良い空腹感がやって来る時間帯。

 

「ユウキくーん」

「……」

「ユウキくーんっ!」

「聞こえてる、聞こえてるから」

「じゃあ無視しないでよ」

 

 廊下側、右端の席の欠点は二つ。一つは秋から冬に掛けての寒さがある。窓の隙間から流れ込んでくる廊下の冷気が厄介で、暖房の恩恵が薄まってしまう。

 そして二つ目がこれ。日に一回以上は唐突に窓が開かれて、郁島が覗き込んでくる。学園生活の日常の一部と化してしまったけど、度々不意を突かれては驚かされるから困る。クラスメイトは気にする様子すら見せない。

 

「それで、何。義理チョコのお返しなら朝に渡しただろ」

「あ、うん。ご馳走様、休憩時間中に食べちゃった」

「おかわりか?」

「そうじゃなくて、放課後の話。今日は空手部が休みだから、また走りたいんだ。一緒に帰らない?」

 

 またか。これも僕にとってはお馴染みの誘いではある。

 空手部の活動がなく、放課後にこれといった予定もない場合、郁島は時折ジャージ姿で走りながら下校する。鍛錬の一環らしく、わざわざ遠回りをしてまでして走る。大抵は自転車を漕ぐ僕の隣を駆け、自然公園をぐるりと回り、そこからアパートへ向かう。僕には理解不能な習慣だ。

 

「わざわざ言わなくたって、どうせ勝手に付いて来るんだろ」

「それはそうだけどさ。帰りにでも、話しておきたいことがあったから」

「話?」

「しーのーみやー」

 

 話しておきたいこと。詳細に触れるよりも前に、反対側から声を掛けられる。振り返ると、男子空手部員の一人が立っていた。

 顔を見る度に思い出す。郁島にお節介を焼かれる僕へとんでもない誤解を抱き、胸倉を掴んできた彼。あれからは紆余曲折あり、たまに格ゲーの相手をする程度の付き合いには改善された。とはいえ僕から言わせれば、面倒なことこの上ない。だって弱いし。

 

「なあ、今日の放課後暇か?」

「前置きはいいから早く言えよ」

「またゲーセン行こうぜ。あれから特訓を積んだからな。今度は自信あるんだ」

「お断りだね」

「な、何でだよ。逃げる気か?」

「どうせまたガチャ押しだろ。少し練習しただけで、僕に勝てる訳ないっての」

「それはやってみなきゃ分かんないだろ」

 

 断わりを入れても、あれやこれや文句を垂れて強引に誘おうとしてくるところも相変わらずだ。先延ばしにして煙に巻くのが無難な落としどころだろう。

 

「ああもう分かったって。今度コツを教えてやるから、またにしろよ。それに今日は先約があるから無理」

「何だ。なら最初にそう言えよ。約束があんなら仕方ないな」

「変なところで聞き分けがいいのな……」

 

 やれやれと溜め息を付いた瞬間―――背後に、気配を感じた。

 この感覚。もしかして。慌てて踵を返すと、きょとんとした表情の郁島が窓枠に腕を置いていた。

 

「え、何?どうかしたの?」

「いや……何でもない」

 

 特に変わった様子は見受けられない。気のせいだろうか。

 まじまじと郁島を見詰める僕に、郁島は首を傾げるだけだった。

 

___________________

 

 

 六時限目の半分以上を仮眠を取って過ごし、漸く迎えた放課後。

 上着の袖に腕を通している最中、左隣では一人の女子生徒が両手を合わせながら、深々と頭を下げていた。全く意味が分からない。

 

「ゴメン、ユウキ君!このとーり!」

「……ねえ委員長。先に用件を言ってくんないかな」

 

 僕の席の欠点がもう一つあった。それはクラス委員を務める生真面目な彼女の席が、左隣だということだ。僕の安眠を高確率で妨げてくるから堪ったものじゃない。

 しかしこの図式は何だ。委員長に謝られる覚えがまるでない。説明を求めると、委員長は慌てた様子で口早に言った。

 

「私ね、今日掃除当番なんだけど、放課後にクラス委員の集まりがあるのをすっかり忘れちゃってて。ユウキ君、明日が当番でしょう?だからお願い、代わって貰えないかな?」

 

 教室の後方、掲示板に張られた掃除当番表に視線を向ける。確かに明日が僕だ。教室の掃除当番は複数人での持ち回り制だけど、明日の当番で教室に残っている生徒が僕しかいない。既に下校したか、クラブ活動へ向かったかのどちらかだろう。

 郁島との約束があるけど、大して時間は掛からない。ここは委員長に恩を売って、授業中に僕の眠りの邪魔をし辛くしてやろう。それに事情が事情だ。

 

「やれやれ。仕方ないか」

「ゴメンねー。今度何か奢るからさ」

「別にいいって。それより急いだ方がいいんじゃないの。そろそろ始まるんだろ」

「あ、いけない。じゃあお願いね、ユウキ君。本当にありがとう!」

 

 急ぎ足で教室を出ていく委員長と入れ代わりで、郁島が入って来る。表情から察するに、やり取りは聞こえていたのだろう。僕は一旦鞄を机に置いて、郁島に声を掛けた。

 

「悪いけど、そういう訳だから。すぐ終わるし、先に行って正門で待ってれば?」

「あ、じゃあ私も手伝うよ」

「いやいや。他のクラスの奴が教室を掃除してたら不自然でしょ、どう考えても」

「で、でも人が多い方が早く終わると思うし」

「そうじゃなくてさ。委員長が気にするだろ」

「え?」

 

 深く考えなくても想像が付く。掃除当番は僕以外にもいる。郁島がC組の教室掃除を手伝えば、その姿はどうしたって目立つし、他の当番者の目にも映る。もし委員長に伝わったら、郁島との先約があった僕に掃除を押し付けてしまった、と受け取りかねない。委員長はそういう人間だ。

 

「そっか……うん、そうだよね。ゴメンね、気が回らくって」

「謝ることでもないだろ。寧ろ逆だと思う、け……ど」

 

 思わず声を失った。まただ。表情が、一瞬消えた。きっと昼休みも同じで、僕が気付かなかっただけだ。

 僕の指摘に気を悪くしたからではなく、自己嫌悪を抱いた訳でもない。もっと異なる別の何かが今、郁島の表情を消した。根拠はなくても、僕には分かってしまう。

 

「じゃあ、先に行くね」

「あ、ああ」

 

 どうにか声を捻り出して答える。教室を去っていく郁島の背中を、僕は呆然と見詰めていた。

 

___________________

 

 

 春が一歩手前と言っても、まだ三月の中旬。自転車を漕いでいると肌寒さを強く感じる。マフラーや手袋を使う人間は減ったけど、厚手の上着は手放せない。

 ゆっくりと自転車を走らせる僕の隣で、ジャージ姿の郁島は一定のリズムで足を動かしていた。額には薄っすらと汗が浮かんでいて、すっかり伸びた髪が上下左右に揺れる。僕の視線に気付いたのか、郁島は足を止めずに言った。

 

「何?」

「いや。髪、伸びたなって思ってさ」

「前と比べたら、ね。似合ってる?」

「あーそうですね。にあってるにあってる」

「おっかしいなー。感情がこもってない気がするよ」

 

 郁島が髪を伸ばし始めたのは、遠藤先輩の影響だ。先輩に倣い、女性らしさを磨くのも修行の一環、という理解の範疇を越えた理由で、二人揃って夏からヘアスタイルを変えつつある。

 しかし現実は違う。遠藤先輩のは「切るのが面倒だから」という女性らしさどころじゃない横着によるものだ。郁島は美容院で毛先を揃えたりと手入れはしている一方、遠藤先輩はそれすら省き、見かねた玖我山先輩が鋏を取ることで事なきを得ている。あの先輩はパン作りの腕を磨く前に自分を磨け。

 

「まあ、似合ってるんじゃないの」

「え?」

「何でもない」

 

 何の意味もないただの独り言。呟くと同時に前方の青信号が赤へと変わり、ブレーキを掛ける。一方の郁島は、信号待ちの最中も足踏みをしていた。ご苦労なことだ。

 それにしても、中々切り出してこない。もうマンションは視界に入っているし、今のうちに僕から本題に触れておこう。

 

「郁島。話しておきたいことがあるって言ってただろ。あれ、何のこと?」

「ああそうそう。私ね、春休み中に玖州へ帰省しようと思うんだ」

「え、帰省?」

 

 無意識に聞き返してしまった。驚きを隠せない僕に、郁島は続けた。

 

「本当はもっと早く帰省したかったんだけど、クラブ活動とか色々あって、ずっと帰れずじまいだったから。年に一度は帰るっていう約束だったし、正直に言うと、やっぱり寂しいんだ」

「へえ。でもよく電話とかはしてるじゃん」

「わっかんないかなぁ。電話だけじゃ物足りないんだよ」

 

 そういうものだろうか。僕からすれば、海外の天気情報並に気にならない。まあ、姉さんは少し別か。

 

「ふうん。もう日程は決めてんの?」

「うん。今週の金曜日が修了式でしょ?翌日の土曜日に出発する予定だよ。飛行機の予約なんて初めてだったから、色々手間取っちゃった」

 

 週末。飛行機。玖州。

 何だろう。つい最近のことだ。似たような単語が並んだ瞬間があった気がする。

 

「……あー。今更だけどさ。玖州の何処だっけ?郁島の実家」

「隈本だよ。話したことなかったっけ?」

 

 信号が変わると共に、頭の中で全てが繋がった。何故忘れていたのだろう。

 自転車を停めたままでいると、先んじて交差点を渡り始めていた郁島が、後ろ走りで僕の下へ戻って来る。郁島は再度足踏みをしながら、首を傾げて言った。

 

「どうかしたの?」

「その……悪い。用事を思い出したから、先に行けよ」

 

 自然と声が出ていた。郁島は疑う様子もなく、腕を振りながら再度交差点を渡っていく。

 

「そっか。じゃあね、ユウキ君。また明日っ」

「はいはい」

 

 段々と小さくなっていく郁島の背中から、目を離すことができなかった。一抹の不安が脳裏を過ぎって、放課後の教室で目の当たりにした郁島の顔が、自然と思い出される。

 表情のない表情。感情がぽとりと落ちて、まるで蝋人形のような無機質さだけが、郁島の小顔に浮かぶ。一瞬だけど、それが却って異様さを思わせる。

 

「あいつ……何を抱えてんのさ」

 

 僕を一番理解しているのは、僕だ。己を客観的に見るぐらい造作もない。

 認めよう。僕は特別視をしている。感情の種類は、この際どうだっていい。

 年中振り回されて、弄ばれて、いい迷惑を押し付けられて―――だから。同学年の誰よりも、X.R.Cの中で最も、僕の意識は何時だって、あいつに向いていた。

 

「ああもう。何なんだよ」

 

 やがて視界から郁島が消えると、僕は自転車を降りて、歩道の端に寄せた。上着からサイフォンを取り出し、アドレス帳から目的の人物を選ぶ。

 画面をタッチした途端、呼び出し音が鳴る前に、サイフォンを耳に当てるよりも前に、声が聞こえた。

 

『もしもしユウ君?お姉ちゃんだけど』

「だから!毎度毎度何が起きてるんだよ!?おかしいだろ!?」

 

 お笑い芸人のコントか。何故電話を掛けた側が先手を取られる。コンマ秒単位で通話に応じる人間が身内だなんて、何の自慢にもなりはしない。寧ろ恐怖だ。

 

「今、話せる?」

『ええ、大丈夫よ。どうかしたの?』

 

 気を取り直して、一度咳払いをする。勢いでサイフォンを取ったせいか、言葉が続かない。

 

「その……あのさ」

 

 躊躇いや迷いよりも、苛立ちが段々と湧いてくる。姉さんは絶対に勘違いをする。まるで負けたような気分だ。

 それもこれも全部、お前のせいだからな。覚悟を決めて、僕は遠回しに告げた。

 

「辛子れんこん」

『から、え?』

「辛子れんこん、食べてみたいんだ」

『……ああ、隈本の話?フフ、安心して。お土産に買ってきてあげるから。他に欲しい物はある?』

「そうじゃなくって。僕も行くって言ってるんだよ、隈本に」

『え……えええ!?』

 

 サイフォンの向こう側から、狂喜乱舞の声が上がる。あまりの鬱陶しさに、僕は強引に通話を切った。

 そういえばコウ先輩と柊先輩も、今週末に米国を訪ねると言っていたか。奇妙な偶然もあるものだなと、僕は一人呟いていた。

 

 

 

 


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